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日本をデザインするとしたら

日本が復活するために必要な要素の一つに、僕は「デザイン」があると考えています。

今回発表されたAppleの新しいタブレット「iPad mini」は、スペックが事前にすべて流出していました。でも実物を目の前に出されると、やはり驚きがあって、「どうしても欲しい」と思ってしまう。あるいは、自動車についてもエンジンの性能だけを見て、人は評価しているわけではありません。とくにポルシェのような高級車はデザインによって人々の心を揺り動かしている面がある。また、JR九州の列車を水戸岡鋭治さんがデザインをするようになって、乗客が増えたと聞いています。このように、プロダクトの面でも、改めて、今デザインの力を問われているんですね。

また、今年のノーベル経済学賞は、「安定配分の理論とマーケットデザインの実践に関する功績」ということでマーケットデザインの研究者が受賞しました。つまり経済活動や世の中の仕組み全般も、デザインの対象になります。ただ自由に競争させておけばいい、という時代から、洗練されたデザインが必要だという感覚にシフトしつつある。

みなさんは、もし日本をデザインするとしたら、もっとも重視すべきはどんな点だと思いますか。具体的なデザイン案を提示していただいても結構ですし、この人にデザインしてもらいたいといった案でも結構です。みなさんの考えを聞かせてください。

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NO.92012-11-19 14:37:18 terustar 5
ずいぶん久しぶりにメルマガを開いてみて、思い立って投稿してみます。
Tomoikukaiさんの投稿、「利己的本音と利他を取り繕う建前」の内容に考えさせられました。

私の職場で近頃、定年退職された方が「10年前ぐらいに退職した人が一番良かったなー」とつぶやいておられました。
この言葉がどういう思いで吐露されたのか、本人にしか分からないのですが、察するに「先輩が先輩らしく後輩の公私の
面倒を見て、後輩が先輩を慕う事ができた」最後の世代は10年前に終わったという感慨だと思います。

長く低迷する不景気で、企業は若手の採用を控え続け、また効率化の連続で人材育成という機会を殆ど削り取ってしまいました。私の職場はどちらかというと、現場で汗を掻く技術系で、先輩が後輩を厳しく育て、酒でも鍛える(笑)という文化(儒教的な徒弟関係)があったのですが、会社に余裕がなくなると、そのような古き良き伝統を継承しようという力よりも、自分の仕事だけをやるというような自己保身に力学が働くような気がします。

つまり、儒教的な徒弟関係による利他性や社縁は、ゆるい資本主義の中では育むことができても、会社の経営が熾烈な競争に晒され、目先の数値的な効率化、合理化の圧力がかかる状況下では、育っていかない。廃れる一方である。
そもそも利他的な人は、どのような環境でも利他的であり続けることができるのでしょうが、多くの弱い人は即時的に自分が生き残るための選択を迫られると(そのような環境圧力があると)、あまりにも利己な振る舞いを取ってしまうのではないでしょうか?

私が新入社員の頃、あご髭を生やした長老のような大先輩がいて、「おっちゃんは、自分が習ってきた事をおまえ達に教えるのが使命やと思っている」と言って、この熱意だけで定年までの仕事をされた尊敬すべき先輩がいました。このように、”生きざま”に拘る人が本当に減っていると思います。

私は、茂木さんを追っかけているうちに、本当にセレンディピティなのですが、ある一人の牧師と出会い、40歳の節目に信仰を持つ事になりました。信仰告白の中で「自分の人生を追い求める(問う)のではなくて、神さまに生きる意味を問われる人生を生きよう」と決意しました。
日々、生き方を問われる人生として、クリスチャンとしての人格により、世の中と向き合うための脚力を鍛えて生きたいと思っています。
私の場合は、他者性(利他性)を持って生きていくための軸を、出会ってしまったキリストの信仰に置いたわけですが、この時代に、ぶれない生き方をするには、どうすればいいのでしょうか? 何も私のように宗教に求める必要もないですが。。

最後の最後で「日本のデザイン」というテーマに戻ると、3.11大震災のような大事件があっても、形式的、建前的なシステムは簡単には変わらないし、この形式主義がある程度のオートマティックな社会機能を支えてくれている。
しかし、今問題なのは、何でもコンプライアンスなどと言って、あるフォーマットから逸脱することを許さない空気感があるからではないかと思うのです。何でもかんでも、批判の対象にされてしまう事が、自主裁量や責任を取ることに大きな抵抗となっている気がします。
個々人の人格形成の基軸を何に求めるかと、大事な価値観を指針に捉えて見失わないシステム(単なる機能の集合体ではない)の構築をどのようにしていくのか、この時代に生きる我々の正念場ですね。現状にただ疲れていてはいけないと思っています。

NO.82012-11-15 14:21:58 茂木健一郎 0
みなさま、いろいろご意見をお寄せくださり、ありがとうございます。
「日本をデザインする」ということに関連して、最近考えるのは、真の意味での「保守主義」のことです。人間とは、そんなに簡単に変わるものではない、また、変わると期待してもいけない、という現実の認識から出発する保守主義が、これからの日本のデザインに必要に思います。

このような視点からは、今巷で言われている「保守主義」は、実は「保守主義」ではないように思うのです。
改革は必要ですが、改革の幻想はむしろ害になる。自然は飛躍せず。その中で、ジャンプしようと、毎日懸命に脚力を鍛えるべきなのでしょう。

NO.72012-11-13 19:20:01 Tomoikukai 17
先日、赤崎小学校の複式学級、1、2年生三人が、先生と一緒に私のお寺を訪ねてきてくれました。私は、これから、小さな子供達と、英語でおつきあいしたいと思っていたので、心が躍りました。私は、高 史明 さんの亡くなったお子さん、岡 真史 君も六年生の時に読んだという、「くもの糸」の話と、阿弥陀様の説明をしましたが、三人とも目を輝かせて聞いてくれたのが印象的でした。それから三日後に、この子達から、お寺を訪ねた感想の手紙をもらいました。それを読んで、彼らの感受性の瑞々しさに、改めて、この年代の子供達の可能性を再確認することが出来ました。

私は、日本の将来を考えるとき、この子供達が、思う存分活躍できる環境を整えることを中心に、いろんなシステムの再構築を考えていきたいと思います。

今、世界がグローバル化している中で、子供達が、英語のコミュニュケーション能力を身につけることは切迫した課題として、論をまたないと思います。しかし、その能力を身につけるにしても、それとともに、発想の豊かさや、柔軟な思考を伴わない限り、結局は、個性や創造性を伸ばすことにはならないと思います。しかも、この個性や創造性を伸ばすことこそ、将来の日本にとっての死活問題になることは、この国際情勢の中では、容易に想像できることです。

それでは、何故、今の日本人は、個性や創造性を伸ばしきれていないのでしょうか? このことを突止めれば、社会や教育システムの変革の方向が見えてくるのではないでしょうか。

私は、社会が、形式化し、柔軟性を失った要因は、形骸化した儒教にその主な原因があると思います。儒教は、江戸時代までは、江戸幕府による寺請制度で人々の宗教観が体制維持的になったとはいえ、仏教や神道と共に日本人の精神生活を支えていました。儒教は家族制度や社会秩序の維持に、仏教は内的精神活動、主に利他的愛をはぐくむという具合でしょうか。これが明治期に入ると、人工的に作られた儒教を骨格とした国家神道が前面に躍り出て、神仏は分離され、仏教が支えた利他的精神活動は、利己的な軍国主義や資本主義に取って代わられるようになります。残念ながら、仏教教団でさえも、国家神道の擁護者となっていったのです。戦後に入ると、世界的に資本主義の流れはますます強くなりますが、本来、自由主義、実力主義を前提として発展してきた資本主義は、日本では儒教の枠をはめたままで進展してきました。それは、形として、年功序列や終身雇用制度となって残ってきました。今の日本では、これらの制度を中心に儒教に類する偏見や思い込み、決めつけが、社会の隅々まで浸透し、脳梗塞や動脈硬化を引き起こしているように見えます。それでは、どんなところでこの脳梗塞や動脈硬化が始まっているのか、いくつかの例を見てみましょう。

まず、年功序列や終身雇用では、少々の例外があるとはいえ、年齢や勤続年数によって、一人一人に立場の序列をつけることが当たり前に行われます。会社や組織が成長しているとき、経験が長い者程将来への見通す能力が大きいというのは容易に想像されることで、経験が長い者、即ち年長者のいうことを聞いていれば大抵の仕事はうまくいくというのは、高度成長時代の日本だったのでしょう。しかし、多くの職場で、コンピューターが導入され、経済のグローバル化によって日本の一人勝ちが許されなくなると、成長を求めて、新たな方向を模索するとき、英語もコンピューターも解らない年長者は、立場が上位にいるだけに、無用の長物どころか、成長を妨げる阻害因子になってしまいました。グローバル化の中で、現在の経済界は、一部の先進的経営者のいる会社を除いて、会社のマネージメントに関しては、昔の成功体験しか知らない経営者にとっては、羅針盤を持たずに太平洋の真ん中で嵐に遭っているようなものでしょう。以前は、こんなとき絶大な信頼がおかれていた救出舞台の官僚組織も、今では、グローバル化の波には全くついていけていないのが実情です。そして、それに輪をかけて、政治界の迷走ぶりは、それこそ今や、世界中から、もの笑いの種にまでなっているようです。そして、これを打開しようともがけばもがく程、政府や官僚は、状況をコントロールしようとして、法律やルール作りに奔走することとなり、応用の利かないマニュアルがどんどんできあがって、結果的に、各方面で身動きがとれない状態に陥ってしまっているのではないでしょうか。これこそが正に脳梗塞状態といえるものだと思います。

そして、人々の儒教と資本主義によって作り出された利己的本音と、利他をとり繕う建前の使い分けは、人々を疑心暗鬼に陥らせて、人と人が無償の(利他的)愛で繋がる機会を奪っているように見えます。だから、いま巷にあふれている「絆」という言葉は、どうしても、お金の繋がりや、利己的な繋がりのにおいがしてしまいます。いま、結婚する人が少なくなり、家族の崩壊が取りざたされています。幸せな家族である為の条件は、家族相互の利他的愛情であることは、時、所に関わらず万国共通の通念でしょう。ところが、今日の日本では、結婚というものに対する条件は、経済的な安定をまず考えるという傾向が、ますます強くなっているようです。そんな家族は、自分たちの親を見ていても作りたくないと思うし、例え結婚しても、そうやって作られる家族は、一見、愛情で結ばれているように見えても利己的な愛情であることが多く、子育ても利己的な愛情で行われることが多いように見受けられます。これらの親達は、偏差値社会の選抜制度に子供達を送り込み、何人かはモンスターペアレンツとなり、ついには大学卒業後の就職活動にまで関わり、子供達が夢や希望を持つことも自立することも困難にしています。もともと、偏差値選抜社会というものは、一人一人に順番をつけて、上下関係をしっかり作り上げる為の儒教的価値観によって進化してきたと思われますが、それが揺るぎないものとなった今日では、そのレールから外れたものを落ちこぼれとして扱い、レールに乗ったものは自立の出来ない高級奴隷の体たらくを呈しています。

はっきりいって、自分のことしか考えないお嬢ちゃんやお坊ちゃん達では、仕事はできないし、子育ては無理なのです。

儒教と資本主義によって作り上げられてしまった日本人の二重性、あるいは、一度獲得した地位や既得権を、建前の理屈を駆使して守ろうとする政治家や官僚や経営者達の、今では習性とまでなってしまった「肩書きや立場から、ものをいう態度」は、色んな場面で、事業の遂行を妨げ、改革を潰し、グローバル化の波から逃げ回っているように見えます。

例としてあげれば、先の、福島第一原子力発電所の事故の折、緊急に原子炉を冷やす電源が必要なとき、小型バッテリーが大量に現場近くまで行っていたにもかかわらず、放射線量が高いということで、運搬用のトラックの現場乗り入れが許可にならなかったということがあったそうですが、もし、バッテリーが搬送されることによって、メルトダウンが防がれていたとしたならば、いや結果的にメルトダウンは防げなかったとしても、少なくとも、命がけで大事故を防ぐ可能性に懸ける使命感はあったとしても、実際の行動は、マニュアルや規則の壁を越えられないということを示していないでしょうか。また、菅直人前首相が、東京工業大学を卒業しているという肩書きがあることによって、誰が見ても暴挙としか言いようの無い行動が、建前として、原子力防災の専門家という立場の行動だということになって、誰も止めることが出来なかったということは、個人の資質もさることながら、日本の政治システムには致命的な欠陥があるということが明らかになったということではないでしょうか。(アメリカの大統領だとしたら、核のボタンを自分勝手に押しかねないということに匹敵する。)

利己的本音と、利他をとり繕う建前を自分の都合に応じて使い分ける現在の日本文化によって、動脈効果を起こしている所は、ほとんどすべての組織で見られると思いますが、特に教育界においては、日本の将来に直接関わるだけに、深刻な問題です。しかし、ここで、ひとつひとつ例を挙げていくと、きりがないし、以前の投稿でも何度も問題にしたことなので、英語教育に関してだけもう一度問題点を指摘しておくと。

英語を話せない文部官僚が、英語の授業のマニュアルを作って、英語の話せない先生を使って英語を教えて、どうやったら生徒が英語を話せるようになるっていうの?

脳梗塞と動脈硬化のお話は、まだまだ尽きないけれど、あとは、皆さんのそれぞれの現場で確認していただいて、これからは、子供達にどういう世の中を用意したらいいのかを考えていこうと思います。

とにかく克服したいのは、日本文化に深く根ざしてしまった、利己的本音と、利他をとり繕う建前の使い分けによる二重性です。その中でも、利己的本音をなんとかしないと、日本の社会は社会としての機能を失います。おおかたの日本人は今、本音というと利己的なものと思ってしまっているようですが、かっては、利他的本音が当たり前でした。利己的というのは、動物の本性で、生存本能とも密接に結びついています。方や、利他的というのは、社会性を保つ人間が進化させてきた人間の本性と言ってもいいでしょう。宗教というものは、もともと、この人間性に関わる人間としてのあるべき姿を人々の心に植え付けてきたのでしょう。しかし、資本主義が進み、宗教が教える利他の教えと資本主義が許す利己的な考え方との間で矛盾が広がってくると、日本では、利他的なものは、儒教の教える形式としての利他を保って社会の維持を図ろうとしました。これが、本音は利己的になり、形としては利他を保つという日本人の二重性に繋がっていったと思われます。これは、日本人は本質的に利己的になってしまったということを意味します。そして、これは日本人には宗教がないという調査結果とも一致します。一部を除いて、僧侶にさえ宗教心がなくなっているように見えます。然し乍ら、表面だけ利他を保っても本質的に皆が利己的であれば、人間的な社会は保たれなくなります。これが今起きている家族や社会(政党も?)の崩壊現象なのではないでしょうか。

子供達の未来を考えるとき、彼らが生き生きと人間性豊かに、夢や希望を実現させる為には、われわれは、本気で利他的な環境を実現させることを考えなければならないと思います。然し乍ら、ここで大きく前に立ちはだかる問題は、いったん利己的になってしまった大人が、利他的になることは極めて困難なのではないかと思えることです。利他的な性質というものは、どうやら小さいうち、それも中学生になる頃までにおおかたは固まってしまうような気がしていますが、これは私の直感で、茂木さんなんかはここのところをもうちょっと脳科学の見地から解説してくださるのではないかと思いますがいかがでしょうか? 何れにせよ、利己的な人間が、利他的に変わるということは、体験上、経験がないので、極めて、困難だろうと思います。それでは、利他的環境を実現するのは諦めなければならないかというと、希望がないとはいえないと思います。それには、まず、自分自身が本音は利己的なのか利他的なのかを知ることから始めなければならないと思います。どうやって? 目の前で人が苦しんでいるとき、自分は助けるかどうか? 本気で、自分のパートナーや、友達が幸せになってほしいと思っているかどうか? その気持ちの強さの程度で、自分の利他的程度の強さが解ると思います。もし自分が完全に利己的だと悟ったら、社会における自分のプレゼンスをなるべく小さく保つ。つまり、出しゃばりは止めるように心がけるようにします。もし利他的と判明したら、今までの引っ込み思案をやめて、積極的に社会と関わるようにしてください。そして、子育て中の夫婦は、子供を利他的な環境で育てることを積極的に話し合って実現してください。夫婦だけで子育てするのではなく、大家族や、地域と一緒になって子育てすることを真剣に考えてみてほしいと思います。それから、何よりも大切なことは、日本社会そのものが、今生まれてくる子供達によって、その子供達を社会を挙げて育てることによって、日本は再生できると確信することだと思います。

今、衆議院解散が間近に迫って、定数削減がわずかながら決まるようですが、基本的に、自分ながらのまともな意見を持っていないような議員が何人当選しようと、形式的な民主主義の数合わせに使われるだけで、国民に取っては、唯々、迷惑な存在でしかありません。先ず、今回の選挙では、既得権を守りたいだけの利己的程度の強い議員は立候補してほしくないし、そんな人には絶対に投票しないでほしいと思います。今度だけは、政党のマニュフェストよりも、そんなものに縛られない候補者自身の本音を出来るだけ有権者に知らせてほしいと思います。次の国会からは、政党の論理よりも議員一人一人が、政策ごとに自分の意見を表明し、国の形を決められる国会審議となるように議員が選ばれるようにしないといけないと思います。それには、先ず、争点が予想される、TPP、教育改革、エネルギー政策、憲法改正問題にたいする議員一人一人の意見を、根拠を示しながら、新聞紙上で表明していただきたい。例えば、TPPに反対するというのなら、これからどうグローバル化を実現しようとするのか? 日本の産業構造をどう立て直していくのか? 農業の明るい未来をどう実現するのかといったことを具体的に論じてほしいと思います。党の方針と合わないというのなら、正々堂々と離党するのが筋だと思います。ただ、今のところまだまだ、国民に今の状況や、政治理念について意見を表明されても、皆がみんな、それを理解する力はついていないかもしれないので、せめて、党の方からは選挙区とは別に比例代表選挙には、党の威信を懸けて、高い志と能力を持った候補を集めてほしいと思います。選挙区で落選した候補が比例区で当選などというのは、今までどおりの既得権選挙のやり方そのもので、政治の改革、ひいては日本の改革は望めそうにもありません。 

日本をデザインするということで、本当は、真っ先に思い浮かぶのは、憲法のことでしょうが、このことを書くと、ますます長くなるので、この投稿では信教の自由についてだけ触れておきたいと思います。私は常々憲法に信教の自由があることによって、日本の宗教心は滅びたと感じています。元々、宗教心は自由ではありません、物心がついたとき、無宗教であれ、共産主義であれ、環境によって何らかの宗教的心情が子供の心に刷り込まれてしまっています。その後、育った時に身に付いた宗旨とは違った宗旨に改宗したとしても、祈る対象の神様や仏様が変わるだけで宗教的心情は決して変わるものではないと私は思っています。信心深い人は死ぬまで信心深いし、無神論者は、どれだけ説得しても無神論者だと思います。それでは、信教の自由条項は何かというと、結局、宗教とは何かを突き詰めたことのない、にわか民主主義者が、国家神道の復活を恐れるGHQに胡麻をすって入り込ませた条項なのだと思います。それによって、各宗教は公の場所から遠ざけられ、何よりも子供達に宗教を押し付けるのは良くないことだという考えが広がってしまいました。宗教というのは、まともな宗教であれば、どんな宗教であっても、その教えによって、利己的な心情を転換させて、利他的な愛の心を育むものだと思います。特に、中学生になるころまでに、このこころが育っていれば、大人になってから、社会の中で心豊かな社会を実現する為に、大きな役割を担えるようになるものだと思います。今、宗教の自由条項によって、戦後民主主義社会の中で育った子供には宗教心が育っていません。これも、世の中に利己的な大人が蔓延した大きな理由の一つだと思います。

というわけで、憲法であれ、法律であれ、勝手に線を引くようなデザインは、時には、社会を危機に追いやることがあるものだということを知らねばならないと思います。ここで足りないのは、正に、けんけんがくがくの議論や双方向のコミュニュケーションです。以前の投稿で、日本の裁判制度は、裁判官が判断する、シビルローであり、アメリカやイギリスの裁判制度は、コミュニケーション重視のコモンローだと書いたことがありますが、日本の規則は、学校の校則まで、決まったことを厳密に当てはめるシビルローの精神です。しかし、ドイツやフランスなど、市民がしっかりと個人主義的にほぼ完成された人格を有する国民は政治に翻弄されるということは少ないでしょうが(それでもドイツはナチスに翻弄された)、流されやすい日本人にとっては、これから各分野でコミュニケーションを増やすという意味で、裁判制度をコモンローへと転換する検討を始めてもいいのではないでしょうか。ついでに英語の第二公用語化の検討も進めたらどうでしょう。今、時々、アメリカドラマ LOW & ORDER を見ることがあるのですが、一番驚くのは、状況によっては、殺人犯も無罪になることがあるということ。そこには、実直に法律に従って人を裁き続ける日本の裁判制度と生身の人間の間を埋める何かがあるような気がします。

最後に、これも以前の投稿で、ベーシックインカムのことについて触れましたが、次代を担う世代を育てる為には、ベーシックインカムと学費の無料化(学歴社会を解消できるという前提ですが)はどうしても実現したいデザインの一つです。しかし、これを今すぐにやろうとしても、官僚その他の既得権益保持者の抵抗があって出来ないとおもいます。それでも、それほど遠くない将来に、日本経済のインパッセが予想できる今、その時のセーフネットとして、このベーシックインカム制度の研究をしておいたらどうでしょうか。いざその時になったら、超法規的に政策を実行に移せば良いのです。ちょうど戦後の配給制度のようなものです。

非常に長くなって申し訳ありません。ここまでおつきあいしてくださった方、本当にありがとうございます。なるだけ短く纏めようと思ったのですが、大変そうなのでこのままアップします。誤字脱字はご容赦ください。

NO.62012-11-11 20:27:13 masami 9
日本をデザインする、ってよくわからなかったのですが、日本がこんな国になるといいな、と思ったことを書いてみます。

最近読んだ、『日本人の宗教心』磯部忠正著は、日本人や日本の文化を信仰という視点から、考察しています。その中で、西欧文化の世界は、善悪や真偽の価値判断が効力を発揮する、顕の世界、理性の世界であり、一方幽の世界を持つ日本は、万有一体感の原理であり、強いて善悪を言えば、生命を産み、生命を守ることが善であり、これに反することが悪である。というようなことが書いてありました。この幽の世界は、アジアの中でも日本の特徴であるようで、日本が日本独特の豊かな自然に恵まれた、島国であったからかな、と思いました。
日本の自然を軽んじることは、私たちの幽の世界を失うこと、それが今の日本が辿っている道でもあるのかな、と感じます。そこで、かなり真剣に意識して、幽の世界に通じる、豊かな自然と一体感を感じられるような町を維持することはとても大切だと思います。高野山、比叡山などのお寺を中心にした地域、伝統手工芸関連の人たちが中心になって支えていく地域、伝統的な温泉街を中心に、日本古来の姿をとどめる観光地、などの中に、意識して、古い日本の姿を維持、あるいは復活させてほしいと思います。それは、生命というものを割り切ろうとして、矛盾を抱えている西欧世界のためにも大切ではないかと思います。そのためには、その幽の世界を、国内で維持する人材、維持するための方法を考える人材、その真の価値を世界に伝えることができる人材が必要だと思います。このような人材は、必ずしも日本人である必要はないと思います。その過程では、伝統的な技術を伝承するための制度の整備、高度な技術をあえて使わない街づくりの選択、そこに実際に住んで維持することを選ぶ人たちがいるかどうか、など、大変困難なことではあるかもしれません。それでも、私は、東京などのハイテクの街で遊んでも、ちょっと足を延ばせば自然の中でゆったり寛げる場、日本人のあらゆるものを受け入れる心の支え、拠り所となる場が、単なる観光のためではなく、生活の場として残っていってほしいと思います。

NO.52012-11-10 12:03:15 ryosuke85 7
No.3 ruttina さん
ちょっと質問させて頂きたいのですが、冒頭で「すべての国民の生活が、文化的であること」と述べられているのですが、語られている内容がかなりのハイカルチャーであり、それも文化的であるとは思います。

しかし、読ませていただくうちに「人の姿」が見えなくなりました。
人がいなくなったんです。

確かにIntelのコンピュータが人に勝った事もあり、後々、「人の仕事が無くなる」なんてマッチョな考えも出て来ている事は確かですが、人の姿が見えない文化、というのは文化として成立するのでしょうか?

人類学者のエドワード•タイラーは文化の定義について
広く民族学で使われる文化、あるいは文明の定義とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである

と述べ、「人が」という文言が入っています。
ruttinaさんの理想とする文化的である生活というのは、機械論システム的に成熟した生活ということなんでしょうか?

ちょっと自分には難しくて理解までの時間が遠かったので質問させて頂きました。
よければお返事をお願いします。

NO.42012-11-09 03:51:17 chigusaotsuki 5
もし、日本を、デザインするとしたら、誰かの真似ではないもの、世界中で一番のものが、いいですね。私ならば、世界一の日本の、世界で一番のデザインを、作りたいですね。
モノづくりも、世界で一番になるくらい、徹底しているなら、いいと思うけどな。
デザインだと、世界にはまだ、ないもの、注目されていないものが、いいですね。
例えば、動物と話せる機械とか、虹の上を歩けるとか、空を泳ぐことができるとか、やっぱり、不可能が、可能になる瞬間に、出会いたいですね。
まるで、子どもの夢のような話ですが、自分の夢を、描き続けていたら、何か、出来上がるんじゃないかな、形に、できるんじゃないかなと、思います。

NO.32012-11-08 19:43:51 ruttina 3
日本国のデザイン。最も重視すべきテーマは、「すべての国民の生活が、文化的であること。」 福祉は自動的に発動されなければいけません。生まれた時点で、生体情報を登録し、IDカードを発行します。このカードはキャッシュカードとクレジットカード(いずれも国営)の機能を持ち、ホルダーの年齢により自動的使える範囲が設定されます。義務教育では読み書きと社会システムを学び、そのほかの教育は一切自由化。基本個人講義で進行スピードは当人次第。国立講座もかなり広範に用意され国民が己の適性を活かせるように配慮。
このような社会を維持するためには食糧等生活物資の生産を国が行うことが不可欠で、核融合による合成材料をつかった食糧も希望者にその場で食べられるだけ無料で支給される。
経済活動は文化的な制作・公表、製品製造販売、他現業。
軍備はロボット軍隊。

都市デザインは、大幅に変更。都市部の土地は全て国有地とし、建造物は一切規格通り。VR技術で内装を行い、居住者の思う環境を疑似的に提供。(大草原の一軒家等)
エネルギーと水と物流、人の移動を、すべてパッケージ化での新たな物流とする。チューブ式軌道(緊急カプセルが追い越したり逆送したりできるようにするため)をカプセルが中央制御方式で通行する。十分堅牢に作るが、万一天災で壊れた場合でも、エネルギーや水等緊急物資をオスプレイで配布できる。現状のライブラインによるライフラインでは高層マンション住民への災害時の水やエネルギーの供給がムヅカシイ。
また運転手の完全支配下にある自動車は都市部では一切廃止。カプセルでの移動はドア2ドアであり自動車は不要となる。
法体系も少々変える。もっとも重い犯罪は「詐欺罪」とし、殺人罪については、状況により無罪もあり得ることとし、一方で、仇討制度を復活させる。仇討してくれる人が居ない人は国家に委任できることとし、殺人への抑止力とする。形式的には死刑は詐欺罪のみ。
殺人罪に融通性を持たせたことで、安楽死や自殺、当事者合意での戦争ごっこが犯罪者ナシで実行できることになる。

日本の主力輸出製品は、「しびれフグ」と「電動こけし」これらをつかった遠隔地性風俗システムのロイヤリティも相当額が期待できる。


NO.22012-11-08 18:59:05 orcamie 10
日本で私がデザインしてもらいたいのは地域通貨です。


ヨーロッパでギリシャ危機、イタリア、スペインの危機と不安の種が色々あります。
いつだったかワールドビジネスサテライトで ギリシャの地域通貨テムについての放送がありました。ギリシャ中部の街ヴォロスで流通し始めた地域通貨です。色々ネットでもテムについて読みましたが「利益を上げる」というより 「人々の生活を助け合う」そんな主旨が強い地域通貨のようです。私は経済を専門に勉強した訳ではないので、ひょっとしたら見当違いのことをいっているかもしれません。しかし、ギリシャの「テム」について知れば知る程、世界中にこのような地域通貨があればいいのにと思い始めています。

マクロ経済のお金の動き、つまり自由な市場経済は人を幸せにするというより、利益追求の機械のようです。そのような市場経済を制御するのに 政府似よる規制が必要です。現在 既に法律などあるのですけれど。しかし政府というより人々の日常の暮らしを行なうことによって ミクロ経済からマクロへと自然なブレーキができないかなと考えるのです。そこで地域通貨がその役目を果たせないかなと経済音痴の私は思ったりしたのです。日本にただ一つの地域通貨では「円」と同じなので小さい地域での地域通貨がたくさんあれば、人々の普通の暮らし、お金持ちではないかもしれないけれど、コンビニでは買い物できないかもしれないけれど、衣食住を地域の産物の流通によって大きな「円」やその他の通貨が暴走したとき、それに影響されずに暮らせます。そんなシステムを誰かデザインしてくれないかなと思ってます。誰に頼めるのかとそれはわからないのですけど。

実際そのギリシャの「テム」の流通の場面を見ていると、日本のフリーマーケットのような感じです。豪華なブランド品は買えないけれど、暮らしに必要なものが手に入り 時には労働とも交換可能で、まるで幼稚園の買い物ごっこのようです。要するにそれほど豪勢な買い物をする訳ではないけれど楽しそうだということなのです。

NO.12012-11-07 12:36:16 茂木健一郎 0
明治期には、たくさんのお雇い外国人が来て、近代建築をデザインしました。今、問題になっている日本のデザインは、目に見えないシステム。そのシステムをどのようにデザインするかということの、わかりやすい指針がないのかもしれません。

抽象的、概念的な苦手なのが、おそらく日本文化の一つの特徴。そのことが、思わぬハンディキャップになっているようにも思います。