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ネットはコミュニケーションの何を変えたのか?

2012年2月4日、津田大介さんと「メディア革命―ネットはコミュニケーションの何を変えたのか」というテーマで公開対談をします。
http://yakan-hiko.com/event.php?id=20120204

この掲示板でもみなさんからご意見を集めて、当日議論する話題の参考にしたいと思います。

メールをはじめとして、ツイッター、フェイスブック、ミクシイなどのSNS、2ちゃんねるなどの掲示板、ニコニコ動画、あるいはソーシャルゲームなどなど、みなさんそれぞれの生活の中でコミュニケーションを取るときに、インターネットを利用していると思います。

それらのコミュニケーションツールについて、率直な感想を教えてください。もちろん社会に対して与えた影響についての考察を書き込んでくださっても結構です。

よろしくお願いします。

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NO.82012-01-15 09:09:43 terurun 0
フェイスブックを知って、本当に良かったこと。
仲間といつまでも交流出来ること。
海外にいる友達でもすぐにコンタクトがとれる。
今、何をしているか、どうしているか、住んでいる場所が違っても、すぐに分かること。

私は、新しい友人を作るためのツールというよりは、今までに出会った大切な仲間を
今もずっと、見守れたり、応援できるところが、インターネットがあって、良かったと思うところ。

友人は、自分の鏡。
フェイスブックの仲間の様子で、自分がどういう人間であるか、少しわかるような(笑)
気もしてくる(笑)。

否定の多い時代、倫理、科学、哲学等、共通している感覚が多い仲間をたくさん傍に置いて
おかないと、私は、自分が折れそうになってしまう。流されそうになる。負けそうになる。弱い人間だから。

でも、今もずっと手をつないでいると、つながっていると、
どこか自分の考えと同じ人がいて、自分を肯定出来るのが
とても、嬉しいし、ネットの良いところ。

共通の感覚を持って、闘っている仲間を見ると、元気が出るし、頑張ろうと思う。

それが、会わなくても、感じあえるところが良いところ。

NO.72012-01-06 08:05:35 motakeen 0
私にとってインターネットとは何かなあ、としばらく考えたとき、その情報は宇宙、そのツール(ブラウザー)は望遠鏡というイメージが一番私にはしっくり来るようでした。

望遠鏡で遠くのものが近くに見える。昔のものが今見える。
すでに無数にあって、それでいて日々拡張している。
常に目に映るのはその一面であってすべてが見えるわけではない。
その情報の精度はツールの精度にも影響する。

(全然天文学に明るくないのでそれ以上のことはあまり言えないですが。汗)

私はあまりオンラインから広がった個人的な友達はあまりいませんが、
星を見ながら宇宙を夢想するように、 私は、インターネットを読みながら、ほかの部分(なぜこういう言い方をするのか、どういう環境で生きているのか、普段はどんな人なのか、など)をぼーっと考えるのが好きです。

本当に無数にあって、その広さを想像するだけでも私は楽しいです。(笑)

I agree with Chigusaotsuki-san’s comment on “I think on the whole a particularly interesting piece of data is based on the underlying principles of our philosophy.”

While I like pondering the thoughts and ideas behind a piece, I also like thinking about why I’m drawn to a particular piece. And usually it has some resonance to my philosophy and how I view the world.

Just randomly walking in the jungle of internet, picking up things I like and don’t like, makes me think of who I am.

NO.62012-01-04 15:57:17 chigusaotsuki 0
It is evident that the web links to readings and provides discussion areas.
At the same time, we get to know other people well.
In most respects an intellectual thought draws its data from the web.
I think on the whole a particularly interesting piece of data is based on the underlying principles of our philosophy.
Be that as it may, others' views have had an impact on the people who are exposed to information.

Time is a finite resource.
It will run out one day.
So, provided that we remember this, to what extent can we feel we are part of an online friend?
Then we can make a very good friend, albeit with limitations.

NO.52012-01-03 16:00:18 masami 0
「私たちの言語表現能力には限界がありますから、実際の体験、実際に起こっていることのほんの一部しか表現することはできないはずですが、いったん言語化されると、あたかもそれがすべてであるかのような錯覚を招きがちです。」

これは、twitter でみつけた、『人の心はどこまでわかるか』という本の中の河合隼雄さんの言葉です。
ネットでつながるということは、殆ど言葉でつながっていることだと感じます。
実際に出会っている場合は、意識できなくても、視覚的な情報がかなりの影響力を持っていると思います。
ネットで繋がり、豊かなコミュニケーションを持てたと感じた人たちが、さらに実際に出会うことで、本当に出会ったと感じることが、ネットでつながることの豊かさなのかな、と想像します。
私には、そのような体験がないですが、それはNO.3 yamadaswitch さんと同じようにキャパシティが極端に少ないことと、基本的に人間関係においてoutputよりinputの方が圧倒的に多いからかもしれない、と思います。
twitterでも、いろいろな人の情報や呟きを、ふーん、と感心して読んでいる時間が、圧倒的に多いことから、ネット上の振る舞いも日常生活の振る舞いを反映しているように感じます。
新奇なことに触れるのは好きですから、日常生活では決して出会えないような人とネットで緩くつながれるのは、今の私にとってとても貴重な楽しい体験です。

そこからさらにつながりを深め、実際に会ってみようかな、と思うまでには、一つの大きな壁があるように感じます。
書きながら、もしかしたら、日常で出会うことと、ネット上で出会うことを、自分の中ではっきりと区別しているのかもしれない、と感じました。
どこかで、日常で出会っているのとは違う出会いを体験している、と思っているのかもしれません。そういえば、日常で出会っている人と特にネット上で語り合おうという気にはならないのも、そのためでしょうか。
現実に見知らない人に話しかけるのは、意外に平気なのですが…。
それとも、outputが苦手な人などのように、ネットによって、豊かなコミュニケーションをすることには向いていない人がいるのでしょうか?
周りを見まわしてみると、なんとなくそんな気もします。

ところで…
yamadaswitchさんの、命が削れていくという表現、とても印象的です。

生きるとは、その人が使える時間
という言葉を聞いたことがあります。
でも、自分の使える時間がどれくらいか、知っている人はいないのだな、と思った時、かえってどう生きるかを、切実に問われているような気がします。

NO.42011-12-27 13:48:00 ryosuke85 0
ネットはコミュニケーションの何を変えたのか

Trasqueさんの書き込みは相変わらずですね。
かくいう僕もトラスクさんとネットを通じて友人になれた一人ですから、ネットには感謝しています。
今ではE-mailを携帯電話で出来るようになってから、人と人の距離間は今までよりも近くなったのだと思うのです。それが今では形態という媒体に捉われず、ネットの“空間”において人との接点を作り出せる世界になっている訳ですが、その空間の中でバーチャルな自分を表現し、そこで何かを得られる関係を築けるようになったのは非常に素晴らしい技術ですし、そのお陰で僕は様々な人の人生に触れる事が出来ました。
 カッコつけた言葉になる「人生」という単語も、直接的に話を聞けることはネットという媒体に僕が足を踏み入れていなければ無かったのですが、そこに踏み入れているがために、この中でも素晴らしい方々と人生を共有する事が出来ています。
 それは何も日本という狭い世界での話では無くて、我々が生き吹いているこの丸い世界中の中でネットの中での関係は実世界でのつながりになってきました。これはある意味でネットの中では平等性が生まれているとも言える筈です。ネットの世界に足を踏み入れる事が出来ているならば、どこの誰にでも連絡を、ひいては挨拶をする事が叶うわけですから。
 この“挨拶”という事が僕の中では非常に大きく思うのです。よく日本の中では「挨拶はコミュニケーションの第一歩」なんて言われ方をしますが、その程度にもよるとは思いますが、面と向った時に「おはよう」の一言が言えるか言えないか、というのは大きな違いを生むように思うのです。これは僕が体育会系の人間だからか、何なのかは分かりませんが、これをネットの中で言えるようになった事が何よりなのだと僕は感じています。
どんな言語にも変換できるのですから、これ以上のツールはないのでは無いでしょうか。言葉は分からなくても、「グッドモーニング」「グーテンモルゲン」など挨拶は出来ます。人生という言葉を上で使いましたが、ここに書き込んでいて固まりました。「挨拶」だなと。
「おはよう」を言い合える距離が短くなった事がネットの革新的なコミュニケーションを支える根源だな、と。勝手に思う今日この頃。

NO.32011-12-27 04:21:25 yamadaswitch 0
trasqueさんの投稿は、本当にわかりやすくて面白いです。
こういう、面白い人の考えに触れられるのも、ネットのありがたいところだと思います。

さてさて、お題の「ネットはコミュニケーションの何を変えたのか?」について
私の今の、インターネット利用の状況を振り返ってみましたが、
本当に、原始人のようでお恥ずかしいのですが私は、
TWITTERもFACEBOOKも、やらない人間なのです。

ブログだけは6年ほど前から続けているのですが、それは
自己表現の場であって、
コミュニケーションツールとしては使っていないのです。
ブログコメントも受け付けずにただただ発信しているのは、
私の現在のキャパシティが極端に少ないからです。

以前は、コメントにも答えて、ソーシャルネットワークのmixiも面白がって
使っていたのですが、
それをやると1日1時間はコメントへの返信に消えていくので、
その1時間に何か、他のことをしたくなったのか
元からコミュニケーションをそんなに必要としていなかったのか、
とにかく「命は削れていくんだな」と感じてしまってからは
なかなか、コミュニケーションツールに手を出せなくなりました。

掲示板に書き込むのも、この場所ぐらいです。
とにかく、命は削れていくのだから、
何に削るかを決めたいと思ったんだと思います。

「インターネットの情報は、多いようで少ない」と、私の友達が言っていたのが
とても印象的で、「あれだけたくさんの情報に溢れているインターネットも、
その人の声とか、顔の表情とか、言葉のニュアンスとか。匂いやしぐさは伝えられないものなんだ」

そういわれてから、受け取る情報も「あらかじめ、すべては受け取れない」ことを
前提として受け止めています。

言語以外のものが消えていることを忘れてしまうと、
多くの行き違いの発生すると思うからです。

ただ、言語表現の巧みな人は
読んでるうちに物語の中に相手を引きずり込んでしまって、
見えていない景色も、嗅いだことのない匂いも
嗅がせることができるのだと思っています。

そして、ツールとしてのインターネットですが、
それを紹介するのに面白い人がいます。

舞踏家の吉本大輔さんという方は、
暗黒舞踏の草創期から舞踏に関わり、

舞踏家・大野一雄の「ラ・アルヘンチーナ」や「私のお母さん」の
舞台監督をされた方なのですが、40歳から自らが踊り出し、
もう齢60歳くらいの方なのに、筋骨隆々としていて、
ものすごくいい身体をしていて、彼の舞踏を見ていると泣けてきます。

その方が、舞踏公演の集客のために
「mixiにペタを残す」という手法を取っていると言われた時に、
何か、雷に打たれたような思いをしたのです。

実際に、その残されたペタが気になって
彼のページを見て、その写真のただ者でなさに打たれて、
東京の公演を見にいったくらいです。

吉本大輔さんは、本当に踊りたくて踊っていて、
そして舞踏家として収入を得るために
舞踏に興味のある人のページに、ペタを残して行くんだな……と。
何か、超えてる感じがしたのでした。

今、私は非常に自分のキャパシティが狭くて、
子ども二人を育てて仕事をするのに
いっぱいいっぱいなのですが、
時間に余裕ができたら、自分の仕事のために
そういったコミュニケーションツールを使いこなす覚悟も
あった方がいいなと思っています。

命は削れていきます。
だけど、覚悟を持って削っていくというのも
格好いいと思うんです。

NO.22011-12-23 18:26:54 chigusaotsuki 0
trasque さん。
いつも、素晴らしい投稿を、ありがとう。

トラスクさんの投稿に、いつも、何かを、気づかされます。
そして、そのことを、すぐに、ここに、投稿すれば、いいのに、
私は、なかなか、その思いを、言葉に、できなくて。

決して、書きづらい、とかでは、なくて、
こう、トラスクさんの、投稿の、余韻に、ひたっている、というか、
自分には、ないもの、というか、新しいもの、というか、
そんな余韻を、感じているんです。

だから、その、
もっと、もっと、投稿して、ください! プリーズ、です。 (*^_^*)

NO.12011-12-22 12:05:26 trasque 0
ネットを利用していて、
「縁を繋げ続けるのも、切ってしまうのも自分次第」
だなと年々思いを強くしています。
ネットだからこそ、という話ではありません。けれど私にとってはそういった事を学べたかなと思える十数年でした。
相手から嫌われたり… そういう事があるにしても根本的には自らがその人と縁を繋いでいたいと思い、動くかどうかではないでしょうか。ネット上で色々とやらかしているうちに、そんな事を考えるようになりました。


その背景として、
「保留すること」の手間が減り、更に意義が増した…
という面があるのではないかと考えています。
長い友人ではあるけれども… 連絡はしばらくとっていなかった、という友人はみんな持っているものと思います。
直近の例では…
Twitterで何らかの拍子にフォローをしあい、そこから妙に連絡をとる機会が増えた。
そんな体験は多くの人が今まさにしているのではないでしょうか。
私はこのあたりについてどこかで「保留しやすくなった」と表現しているのを見かけて、なるほどと思ったのです。

昔で考えれば、保留の手段は手紙や新聞の告知などでしかできなかったんじゃないかと思います。
またその保留も、相手を限定し、強く意識し、時間を掛け、手間を掛けして成されるものです。
そこに想いの強さはあれども、気軽さはなかなかないなあと思うところがあります。
年賀状なんかはそこらへんが緩くなっている割に、長期的な保留が可能な良い文化だったのだろうと思うのです。

保留とひとくくりにしてわかりづらくなりました…
ここでの保留とは…
「メッセージを時間に依らず読めるようにしておく」行為
のようにお考え下さい。

ネットや携帯が登場して、様々なサービスが出てきました。
コミュニケーションとしては結局この「保留」が、どれだけ手軽になるか、どれだけ「特定の他者への意識」を薄くできるか、を洗練させ続けたのだろうと、今になって思います。

こうやって夜間飛行に書いておく事も、誰かに向かって語っているわけでもありません。
2chやTwitterでも、ほとんど意味を持たない内容でしか発信しない人でさえ「繋がり」はしっかり作っていると思います。

会えば旧知の仲で打ち解ける友人でも、以前までは年に数回のメールだけ…という友人がいました。
昨年久々に会ってTwitterのIDを交換してから、お互い意識的ではないにしろ、お互いの考えを読んでいる状態になりました。
そうなると、たまにしていたメールよりも高い頻度で、かつより内面的に深まった(ように思える)内容のメッセージを交換するようになりました。

メールや手紙は相手を意識したベクトルの強いものであるにも関わらず、それらが薄いTwitter(や、SNSの日記など)に「機会」の面で下回り、それが思うよりも強力な「繋がりへの影響」になりえるのだな、と感じる訳です。

ベクトルの強いメッセージが有効ではない…
という話ではありません。
時に一体一の真剣な対話は必要ですし、真剣さを現す為には、やはりそれなりのベクトルはなければなりません。
ただ、Twitterだとかの体験を重ねるうちに、「縁が切れる」のは自らが求めなくなるからだと考えるようになりました。
ベクトルがほとんど向かず、手間もかからないメッセージを「相手が読めるように保留しておく」だけでも縁は実現するからです。
Twitterでは相互にフォローしておくだけの事です。

言ってしまえば、いつのまにか縁が切れてしまったな…
というのはその程度の事もやらなかった自らの行動の結果とも取れます。
深い話も、縁が繋がってなければ出来ません。まずは繋げておく、という事を「軽い」と批判する前に、それは能動的で自ら求める行為でもある事に着目したいと、私は思います。


====
十年以上前、若い人がネットで知り合った人と会い事件になったというニュースが目立つ時期がありました。
当時の私は高校生で、なんとか親に買って貰ったパソコンで、ネットに大ハマりしていました。
ネットで知らない人と知り合う事… に対して両親も心配の色は隠しませんでした。

掲示板やICQ(今で言うメッセンジャーのようなソフト)で遠くの人と知り合う、それも年上…
23時にモデムが怪音を鳴らして接続するまでの数十秒のワクワク感は、それはもう冒険的でした。

ICQに届く向こうからのメッセージ!
オンラインでなくとも、送っておけば接続時に届くのは今のSkypeと同様です。これも保留の手軽さですね。
これらの体験はかなりエキサイティングって奴でした。

さて、いざその知り合い(大阪の大学生二人組でした)が東京に来るので会ってみようと言う事になります。
それまで半年以上メッセージのやりとりをして、自分なりに見極めたつもりではあったものの、心配になり改めて両親に相談しました。
ニュースではネットの出会いが悪のように叫ばれていた時節です。

両親ははじめ驚きましたが、半年間のやりとりを大雑把に伝え、待ち合わせの内容などを伝えると快く送り出してくれました。
当然気を付けるように言われ、かなり心配していましたが「人と会うこと」が悪なのではない、というような事を言ってくれた気がします。とにかく堂々と「オフ会」ができました。

大学生の二人は、高校生である私にとてもよくしてくれました。
今思うとかなり背伸びをしていて、それが見抜かれていたなと恥ずかしくなります。

それからネット上で様々な(ほんと様々な)人と知り合い、実際に会ってきました。
ネットゲームで知り合って、もう十年近くになる人とも、お互いそのゲームの事はやらずにすっかり忘れてますが、たまに食事したりしています。
毎月何かしらで家まで遊びにいくような同世代の友人も、有難いことにできました。

ネットの出会いで起こる事件そのものを否定はしません。それらの対策や周知は必要ですし、警戒すべきものです。
今や当時のニュースのようにネットの出会いが悪だとする話は少なくなりました。
人に会いにいく事は悪ではない…
当時の両親の判断に私は今でも感謝しています。


以下は2001年に書かれた記事です
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20010212/1/
今読むとよくもこれほど予測したなあと驚かされます
人間関係が希薄になるという予測もあったようですが、結局は個人が「縁を繋げよう」と能動的になるかどうかだと思います。
ベクトルの強い方法が封印された訳ではないので、ネットの良さを活用する事もできると考えると、以前より希薄にはならない(ようにもできる)と思います。

ネットで変わったコミュニケーションは「保留の方法」という話でした。長々とすみません。