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「今」のことを考えて行動すべきか、「未来」のことを考えて行動すべきか

社会保障の議論などでよく、「未来に負債を残さないために」「未来のことを考えて」などという声が聞かれます。確かに次世代の富を前借りする形で、今を生きる自分たちだけ楽な生活をするのは問題があると思います。しかし人間は本当に「未来」のことなど考えることができるのでしょうか。

次世代のことを考えて社会設計をしたとしても、次次世代にとってそれが正しいかどうかは分かりません。200年後、300年後にとって「何がベスト」なのかを考えるのは非常に難しい。そうであるならば、「今、ここ」が幸福になるように生きることの積み重ねをしていくしかない、という考え方もあり得ると思います。

私たちは、どの時点のことを考えて社会を設計し、個人的な行動をすべきなのでしょうか。

みなさんのご意見をお聞かせください。

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NO.62012-03-18 13:27:13 masami 0
社会保障について言えば、私は「今、ここ」が幸福になるように生きることの積み重ねをしていくしかない、という考え方です。そしてそこには、trasque さんが書かれていた

「そこで「今が大事」という言葉に、もう一つ意味を加えて”誰かのために”という思いが加わればとても良いものになるのではないかと思います。」

という思いが大切だと思います。

自分の今の幸福が他者の多大な犠牲の上に成り立っていたら幸福にはなり得ないようにも思います。

年金について、かつては、今自分たちが払っている年金は将来の自分のためではなく、今の年金受給者のためであり、払った分を将来もらえるというものではない、と強調されていたような気がします。
ところが最近では、自分が払った分をどれだけ将来回収できるか、どれだけ公平にもらえるか、という話に重点が置かれているようで、何かが変わったのだろうか?と不思議に思っていました。単に説明の仕方が変わったのか、それとも、以前のような説明では到底年金を納める気になれない時代になったのか、年金の捉え方を変えたのか、勉強不足で分かりませんが、このあたりに微妙な人間の考え方の変化があるような気がします。

社会保障制度は、社会的弱者のためにあるのかな、と捉えると、「今、ここ」の幸福が大切であり、社会状況の変化に柔軟に対応できる制度が望ましいように感じます。

ここで一番問われているのは、なにを幸福と思うか、なのかもしれません。

理想的な社会保障制度が目指しているのは、所有することによる幸福ではなく、分かち合うことによる幸福だと思います。


聖書のなかに、50年に一度、債務を帳消しにするという制度が書かれています。
今のこの社会でそんなことをしたら、とんでもない、と受け止められるでしょう。
それでも、命そのものは、自分から求めたのではなく、授かったもの。それならば、その命が所有する財産は私のものではなく、預かっているもの、と考えるのが自然のように感じます。
所有ではなく、たまたま預かっているという意識でいると、社会制度の改革は容易になるように感じます。

NO.52012-03-11 22:08:59 makin8s 0
殆どのことは今を考えて行動すべきだし、たとえ10年後のことでも予測は不可能なことが多いです。それでも、次世代を考えて行動すべき分野と、未来まで考えて行動すべき分野があります。

社会保障は、その存在意義からして永続的でないと意味がありませんので、現役世代が恩恵を受けられない今の制度は変えなければいけませんが、せいぜい次次世代くらいまで永続可能かの吟味で十分ではないでしょうか。

当たり前ですが、教育は次世代を考えて行動すべきです。今の社会で求められていることではなく、将来を出来る限り見定めるのが理想でしょう。その子が大人になったときに生き抜くチカラを与えるための教育です。

未来を考えなければいけないのは、人口増加と環境破壊と資源枯渇の問題です。なぜなら、ある程度予測できる危機だからです。予測はできるが避けて通れない、真摯に向き合わなければなりません。我々は石油製品をバンバン使い捨てていますから、自分が死んだ後のことまで考えて行動することは無理だということを証明しているようなものです。それでも、少しづつエコ意識は広まっており、エコをケチだと言う人は減っていますので、希望はあると思います。

意外に、科学技術は『今』に含まれると思っています。どんな技術でも積み重ねですし、多くの科学者は自分が新技術を発見したいのであって、次世代に繋げたいという人は少ないのではないでしょうか。クオリアや地震予知のような難しいテーマは次世代に引き継ぐという覚悟も必要かも知れませんけどね!

NO.42012-03-08 21:12:34 terurun 0
未来は、大人は作ることが出来ません。

未来を作るのは、子供です。

だから、子供の存在を軽視してはいけないのです。

大人がどんなに頑張っても未来は作れません。死んでしまうからです。

子供が大人になる前に、大人たちは、子供達に多くの素晴らしいことを

教えていくことが未来に繋がると思いますし、それが、大人の役目だと

思います。

大人が大人のことばかり考えているのを見る度に、とてもこれからの

世の中が不安になります。

未来は、子供が作ると思っています。

NO.32012-03-07 13:28:01 chigusaotsuki 0
There's no way we can be held responsible for failures of government policy.
Be that as it may, this is the subject that I am not familiar with.
My interpretation is not quite persuasive, but I put forward my view.

I noted a potential problem with the future design which I had to deal with first.
This thing provides an explanation for the difference between my dream and hope.
I know I have no solid evidence that my hope and dream will come true, because the future is beyond the scope of my design.
Nevertheless my primary concern is to be better than yesterday.

あの、日本語で、書かせてください。
私にとっては、自分のための未来が、夢であり、社会のための未来が、希望です。
そして、私にとっては、夢と、希望を、抱くことこそが、幸福である条件だと、思っています。
でも、私が、今、ここで、やっているのは、未来のために、準備をすることで、いつまでも、準備をしていても、いいことはないけれど、それなりの準備ができた、今の時点で、私は、社会を設定し、社会を構成しています。
でも、準備は、できていなくても、思いもしないことに、毎日、遭遇して、あたふたしていて、この、思いもしないことのレベルが、私にとっては、重要なんです。
私は、自分が崩壊してしまうことは、避けたいのです。
例えば、100パーセント、死ぬことがわかっている海の中に、泳ぎに行ったりはしません。
これは、私の生命の、生存への、防衛反応だと、思っています。
そんな中で、私は、日々、行動を起こしています。
昨日より、今日は、より良くありたい、という思いが、夢を、希望を、育ててくれます。

NO.22012-03-07 02:33:01 trasque 0
gotoichiさんの
「そもそもの目的に価値があるのかを再考すべきだと思います」という点に”そうだ!”と思いました。
表題の「今と未来」どちらを考えるべきかという点に”こっちだ!”とハッキリ言えないのがもどかしい所なのですが、私の中での結論は”どちらも同じ軸を持った両輪である”となっています。
本文の中で「~個人的な行動をすべきなのでしょうか」とありますので、それを考えてみたいと思います。

「社会の設計」は一体なにで決まるのか、と考えた時には様々な要素があります。実際に決議を取るのは議会だったりする訳ですが、そこには選挙や世論と言ったものもあります。 「その時!歴史が動いた」のように、ある一点である一人の活躍によって大きく転換したという事もあるとは思います。しかし、もっと根源的に大切な事は他にあると思っています。
それは「社会の設計」に対して真剣に・希望的に考えられる人が、どれだけの割合で存在するか、という部分です。

乱暴な仮説になってすみません。
もし 「自分ひとりが選挙に行ったところで意味はない」 とか 「どうせ役人・政治家の思うように動いているに過ぎない」 といったような諦めの人達が5割・6割と増えていった時、その後10年50年を形作るのは間違いなく彼らである事に間違いはありませんから、「社会の設計」が良い方向に行くだろうかと考えると中々難しいと思います。
反対に(実際的にどうなのかは別として) 「もっとこんな理想に近づけるはずだ」 とか 「微力でも勉強を重ねて貢献していこう」 と思える希望的な人達が5割・6割と構成されていくならば、同じ出発時点を見たときに「より良い社会の設計に向かいやすい」のは後者ではないかと思う訳です。

理想論だし、幻想だといわれてしまえばそれまでなのですが……
100%そんな「力のある人達」で構成される社会などはありえません。極論です。
でも、その<実質的な能力>を培っていける人達の割合が増える事はマイナスにはならないと思っています。まったく目の前には見えないのかもしれませんが、私はかなり確実なものだと思うのです。

ですから「どんな個人的な行動をすべきなのか」という点について、私は”一人にでも多くの人と会い、臆せず語っていく”ということが大切なのではないかと考えています。

話す内容が大きくなるほど(それこそ「社会の設計」など)、友人でさえマジメに話をするのは難しくなる場面があります。時として馬鹿にされる事もありますし、まともに取り合ってもらえない事もあります。内容が突っ込んでくると、思想を批判されたりする事もあるかもしれません。

だから”語っていく”のはとても勇気が要る、難しい作業だと思います。

「今」生きている私たちは、この瞬間地球というステージにいるメンバーともいえます。
毎日同じ電車に乗っていても、ほとんど同じ顔を見ないほどにたくさんの人達がいます。毎日色んな”新しい出会い”はありますが、それでも新しい人間が出てきた訳ではなく、同じステージに居る事に違いはありません。
その同じステージの中で、どれだけの人を”動かして”いけるかというのが「社会の設計」に影響していくのだと思います。全然見えなくて、もの凄く地味な話ですが、私はそう信じております。

ですから、見るべき「未来」は”今この瞬間”であると思います。
誰かを動かすという事は、誰かが動かねばなりません。語ったり、行動で示したり。
例えば茂木さんのような影響力がある方の言葉や行動で、多くの人が動くという事もあると思います。
しかし、ある人を動かせるかどうかという問題に、茂木にさえ会わせてみれば大丈夫という保障はどこにもありません。そのある人を動かせるのは他でもないその”友人”かもしれないからです。
これだけ多くの人がいる。そして”希望的な人”を少しでも多くしていく。その為には、今おつきあいのある友人と真剣に語っていく。新たな友人と出会い、また語っていく。そういう”能動”が必要だと思います。

人を動かす為にする”語り”はとても難しい事だと思います。
ですから常日頃から様々な事に心を砕かねばなりませんし、あらゆる体験を無駄にしてはならないと感じます。究極的に捉えれば、どんな問題や壁もその為の”経験値”になりうるのではないでしょうか。
どうしたら”その友人”が動くのか。真剣に考え、悩んで語ろうとする時、ただ正しいと思う方向へ無理に持っていこうとする短絡さはなくなると思います。(そういう必要がある場合もあるかもしれませんが)
こんな話をしてみようか。もっと仲良くなった方が良いかも知れない。今は自分の実力をもっとつけねばならない。これらは全て「今」必死に考えるものですが、それは自分と友人の”ちょっと先の未来”を見据えたものですし、それがずっと繋がって「社会の設計」という大きな未来にも繋がっていくと思います。

抽象的な話ばかりですみません。
私が小学生くらいの頃、若い人を指差して「今の若者は今さえ良ければいいようだ」と揶揄されていたように記憶しています。大人になった時にはどちらかというと「今を大事にするんだ」という話が出てきていて、いつからそんな風に変わったのかな、なんて思う事もありました。
しかし、それはただ表現が反対になっただけではないのだと思いました。
「今さえ良ければよい」という言葉の中には「自分さえ良ければよい」という言葉が見え隠れしています。刹那主義的で現金な欲望と言いますか。とにかく目先の利益のようなものに目が眩んだような事を表現した話だと思います。
それに対して「今が大事なのだ」という言い方は、そういったニュアンスがありません。あくまでも先のことを見据えた今という意味だと思います。

ただ「今が大事」というその中身は、もっと煮詰めていかねばならない事だと感じます。
gotoichiさんが言うように「未来を勝ち取るための今」として今を犠牲にする方向ではいけない様に思えます。我慢や忍耐が必要である場面は必ずあると思いますが、犠牲であってはならないかな、と。
そこで「今が大事」という言葉に、もう一つ意味を加えて”誰かのために”という思いが加わればとても良いものになるのではないかと思います。そのことで、今という瞬間に”何をするか”も大事なのですが、今という瞬間の”密度を上げる”という視点が、生まれてくるのではないでしょうか。

一人の人生において「今」が実現しているのは、まぎれもなくその一人以外の様々な要因が繋がって支えているからです。産まれた瞬間からそんな今の瞬間を連続的に生きているものだと思います。親があり家があり食べ物があり。ですから「今」のすぐ次以降の連続的な未来を実現するのは、自分以外の様々な要素だと思います。それをどんどん良くしていこうとする動きが”誰かのため”ではないかと考えます。


今を燃え尽きるように生きられたなら、どんなに幸せだろうと考える事があります。
自分の人生が最後どのようになってしまうかは分かりません。それでも最後に「俺はやりきった。この世界を少しでも良くしてやった。」とか言えたなら最高だなあと思います。
そういう最後という「未来」を見据えた時、やるべきことは「今」をどれだけ燃え尽きるようにしていくか。ではないかなあと、最近考えている訳です。

NO.12012-03-06 17:48:49 gotoichi 0
経済学の考え方では現在割引価値というものがあると思います。

お金で言うと来年もらえる100万円は今なら98万円の価値だという考え方です。

利息がつくことで説明されることが多いと思いますが、

将来の価値というのは割引いて考えることを前提として人間の行動を規定しています。

僕は結構、正しい面があるなと思っています。

来年の100万円と今の98万円も同じくらいの価値と感じます。

現実に年金は前倒しで受け取ると生涯少ない金額しかもらえないですが、

前倒しにする人が多いです。

オーソドックスな議論でも「今」が重要なわけですが、

この不透明な時代に「未来」のために「今」が犠牲にされるべきかと思います。

もちろん、ギャンブルのようなものに熱狂することがいいとは言えませんが、

少なくとも「今」を犠牲にして「未来」を優先するのはあまりよい選択ではないと思います。

出世競争や受験戦争などがそれにあたると思います。

達成した瞬間に虚しくなることを成功鬱というそうですが、

そもそもの目的に価値があるのかを再考すべきだと思います。

行為自体に価値を見出すことを優先すべきだと思うからです。

「未来」のために「今」を犠牲にする議論には賛成できないです。

財政の問題は構造の問題なので、今も未来もダメにしています。

今も借金してることを知っているわけですから、お金を遣うこともできないです。

未来もないと思います。構造改革を必要とする問題であるかなと思います。

以上です。よろしくお願いします。