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あなたが意見を変えるのはどのような時ですか?

僕は現在、エネルギー安全保障の観点から原発容認派です。けれども原発反対にならないとも限りません。確かに事故の危険性や人々に与える不安を考慮すると、「本当に原発容認でいいのか」と判断は随時揺れ動いています。逆に、「原発は絶対にダメだ」と言っている人が、燃料需給が本当に切迫して、にっちもさっちもいかなくなってきたら、「多少のリスクはあっても利用できるものは利用すべきだ」と考えを変えるかもしれない。でもそれでいいと思うんです。絶対に意見が変わらないという人ばかりだったら、それはむしろとても危険なことのような気がします。

そこで今回みなさんに聞いてみたいのは、「どのような時に、どのようなことをきっかけとして、自分の意見を変えますか?」ということです。原発問題や消費税問題など、具体的な議論について述べていただいても結構です。

ご意見お待ちしています。

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NO.82012-06-01 13:51:41 yamanorisu 0
幼い頃(原発が稼働し始めてまだ間もないころだと思います)、父親につれられて、原発反対集会に参加してから(?)、原発には反対です。

同じ理由で(?)、どんな理由であっても、戦争は絶対にダメ、と考えます。

死刑にも反対。人権侵害にも憤りを感じます。

(?)がつくのは、今思い返せば、、物心頃つく前からのあの体験の積み重ねが、私のなかに積み重なり、今の私のプリンシプルになっていると思うようになっているからです。

プリンシプルというには原始的な感覚のようにも感じますが、原発、戦争、死刑、人権侵害、虐待…などには、生理的に背筋が冷たくなるような「いけない!」を感じます。

そのような感覚には、心象風景があります。

原発反対集会で、たくさんの大人達(普段やさしく楽しく遊んでくれるおじちゃん、おばちゃんたち)が、怒ったように怖い顔で原発に反対している…なんだかわからないけれど、いけないんだ…怖い…。

小学生の頃に、これも父親から渡されて読んだ「はだしのゲン」。その後数年間幾度となく見た夢。火の海のなかを逃げ惑う人たちを空から見ている私。見たくないのに目をつぶれない。逃げ出したいのに動けない…。

良く晴れた初夏の日曜日、家族ででかけたハイキング。家の裏山から続く気持ちのいい山道の途中に突然現れた無機質な建物と日だまりに干された洗濯物。
あれは、病気の子ども達が入っている「しせつ」だと父。
家族と離れ、こんな山の中にすまなければならないのはなぜ?家族から離れて暮らさなければならない病気って…?必死で母の手を握っていた私。
暖かな日差しの中の洗濯物の風景と、家族と離れて暮らすというドキドキ感…今思い出して言葉にすれば「孤独感」でしょうか…が共存する空間のアンバランスさ…。
後になって(自分が仕事をするようになって)、あれが都外施設と言われる、東京都の知的障害の人たちの入所施設であったことに気づきました。

10数年前、知的障害の人たちの入所施設で働いていた私は、何の疑いも無く、入所している人たちのためにがんばっている!と思っていました。
たまたま(なのか、上司の意図はあったのか)受講することになった研修。
自閉症の障害理解と支援の方法を学ぶ研修で、いつも穏やかに淡々と語るようにはなされるS先生が、いつものように穏やかに「自閉症の人たちの障害を理解しようとせず、自分の価値観と常識で関わるのは、それがどんなに善意に満ちていても、悪意の無い虐待なのです」と(いう趣旨の)話しながらホワイトボードに書いた『悪意のない虐待』という優しい筆跡の文字。
障害のある人たちの権利を尊重し、本人主体の支援をしてる!と疑いもなく自信をもっていた私にとって、それは、それまでのアイデンティティーが崩壊するほどのショックでした。
明らかに、私は『悪意の無い虐待』をしている似非支援者でした。
自分が人権侵害をしている、大事に思っているはずの人の尊厳を卑しめている。。。
あのときから、自分の常識を疑い、アンテナを高くはって、いつも自分の感性を磨いていなければいけないと考えるようになりました。

自分が間違っていることを認める。つまり、それまでの考えを変える、出来事でした。
trasqueさんも書かれていますが、自分が間違っているかもしれない、と自分を疑ってみることで、世界が広がると実感しました。

人の命、尊厳を脅かすものはダメ。という、いつのまにか自分の中にあるプリンシプル(本能?)が、それまでの積み重ねを崩し、今、かれこれ10数年になりますが、まだ再構築しきれないでもがいています。
でも、もがいている今のほうが、生きている手応えを感じています。

原発には反対と最初に書きました。
でも、実はこれも、もがいています。
orcamieさんも書かれていますが、今突然電気が止まったら、たたれてしまう命があることを、知ったからです。
全部の原発が止まっても、私たちは、ほぼ変わらない生活を送れています。でも、それは、とても危うい状況であることも、確かです。

私は、夜になると、家から見える灯りの数を数えられるようなところに暮らしています。都会のど真ん中で暮らしていたときとは全く違う暮らし方です。みんながこんな暮らしをすればいい…と簡単には言えません。
健康で、仕事もある私(たち)だから、ここで暮らしていけるけれど、重い病気や障害のある人が暮らすには過酷な環境でしょう。

どんな人も、安心して、命を脅かされること無く暮らせるために、どうすればいいのか…。
今にこだわらず、考え続けていくことだと思います。
chigusaotsukiさんの、「幸福についての議論」に出会って、そうかそういうことだなぁと思いました。
ひとりひとりが考え、それをみんなで議論する。

柔軟に、謙虚に、考え続けていく。その先に、気づいたら、今とは違う考えの自分がいるかもしれない。
また、どかん!と一発のショックで、大きく変わることがあるかもしれない。

それでいいじゃん!と思うようになった今日この頃。(昔とは変わったなぁ(笑))

NO.72012-05-30 11:51:13 masami 0
実際のデータで判断できることではなく、生き方につながる問題の場合、思いがけない新しい視点や、全く質の違う考え方に出会って、成程!と腑に落ちたとき、私は意見を変えると思います。

NO.2yuetnusさんの、新たな事実や解釈、状態の変化を知った時
NO.3fuuninさんの全く違う角度、面から指摘され、自分の考えが部分的、一面的だと分かった場合
NO.6 yamadaswitchさんの、自分の意見が変わる種というものを、心の中に持っているようなのです。心と体も納得できるように変化するのがいいかなあと思うんです。

特にyamadaswitchさんの考え方が、しっくりきます。

原発に関しては、どのように生きたいか、ということとつながってくると思います。そう考えると、詳細なデータ、正しいデータがわからない今、ここでの判断は、NO.1 orcamieさんのように、揺れ動いています。でも、最終的には、少なくとも地震大国日本では、脱原発へ向かってほしいと思います。エネルギー政策面で言えば、天然ガスや地熱、自然エネルギーで、特定国への依存度を下げ、できるだけ自国で賄えるようにしていく。それでも無理というのなら、経済的な負の影響を考慮しても、エネルギー消費量を減らす方向にシフトしてほしいです。安全保障のために、原発を持ち続けるという意見には、疑問を感じます。核兵器の悲惨な被害を知っている今、どんな理由であれ、再び核兵器を使用した国は、国際社会で受け入れられるだろうか?国際的な信頼を保ちたいと思うならば、どの国も使用することをためらうのでは?と思います。使うことはできないが、脅しで持つ、争いを抑止するために持つ、というまやかしはもう通用しない時代になってきた、という感覚が、オバマさんの核廃絶に向けた演説を可能にしたように感じます。
NO.4 chigusaotsukiさんの、どんな幸せを、感じてほしいと、願っているのか、
幸福についての議論を高めることで、
個人の意見は、国の政策は、変わるような気がしました。

に共感して、国際平和について考えると、疑心暗鬼が根底に横たわる核抑止力に頼ることは、真の平和の実現にはつながらないと感じます。

NO.62012-05-23 11:55:50 yamadaswitch 0
ご無沙汰しております。久しぶりの投稿です。

no.4に書き込まれたchigusaotsukiさんのご意見に、私の意見は近いかもしれません。

「そうか~、幸福について議論するって、新しいなあ!」
と感心していたところです。

自分が意見を変える時、私は
自分の意見が変わる種というものを、心の中に持っているようなのです。
意見が変わると、これからの行動が変わるかもしれないので、地味ですが私にとっては大きな意味合いを持っています。

その心の中にある「意見を変える種」は、最初に生まれた時は「違和感」として登場します。

「あれ? なんで私、こんなことにひっかかっているんだっけ?」

みたいな、小さな違和感です。

その違和感を、急に言葉にしたりしないで、自分は育てるようにしています。
育て方は簡単です。放っておくんです。
そうすると違和感の種を土に埋めたまま、
私の生活は進みます。種が生まれて6ヶ月も生活を続けると、季節も変わるし、自分の状態も勝手に変化します。

気づかないうちに細胞分裂や日々、少しずつ訪れる小さな情報や友人の発言によって、
だんだんに変化し、
6ヶ月前の自分とは別の生き物になっているのです。
そうなった時に、あの種を見てみると、
あらまあ、不思議。
芽が出ているではありませんか。

6か月前に「違和感」としか感じられなかったものが、芽を出しているんです。
そうするとその芽に対して、違う気持ちで取り組むことができます。
でも、種が種のままだった時に、むりやり光を当てて発芽させようとしても、
うまくはいきません。もし発芽したにしても、それは無理矢理の変化なので
体と心がついてきてくれないのです。

情報は、頭の方で処理しますが、頭だけ先に進んでいってしまっても、
自分の心と体がついてこれていないと、どうしても不具合が生じます。
なので、考えが変わる時は何ヶ月かの時間をかけて、ゆっくりと
心と体も納得できるように変化するのが
いいかなあと思うんです。

原子力の問題に関しては、早稲田大学商学研究科の
西條剛央さんの「分けて考える」という
方法が、今のところ私にはぴったりくると思っています。

引用・転載可ということなので一部分を引用させていただくと、

☆☆☆☆☆

「原発は止めない方がよい」という人は
「原発停止による経済の停滞を起こさないこと」に関心があるはずです。

経済の発展は震災復興を下支えするものになります。
他方で「原発は即時止めるべき」という人の関心は
「安全の確保」にあるはずです。

このように,ある関心からみるとそれぞれ妥当なものなのです。
それではこうした背反する考えを調停するには,
どのように考えればよいのでしょうか。
それは「原発は是か非か」ではなく,双方の関心を織り込む形で,
「原発を無くしても問題が生じないようにするにはどのようにすればよいか」
といった形に問い方を抜本的に変えるという点が,
最も重要なポイントだと考えてます。

こうした構造構成主義の観点から
「ひろくわかりあうための原発論」について論じていますので
参考にしていただければと思います。
→ http://p.tl/etHN

――早稲田大学商学研究科 西條剛央

☆☆☆☆☆

こんな風に、どうしたら良い方法を生み出せるのかを
考えられる良い時期に私たちは、来ているのではないでしょうか。

NO.52012-05-23 00:22:18 trasque 0
私は自分の意見が「尊敬している人の意見」と違っていたら、私自身の意見を改めようとする、という場面があります。尊敬している人といってもその程度は様々ですし、どんなきっかけで尊敬するようになったかというのもまた様々だと思います。人により「師弟」のような関係になっていたりすれば、たとえどうあろうと師の指導に従うでしょう。また仕事などで尊敬する先輩、という場合もあるかもしれません。

私はそういったルールを定めている訳ではありませんが、どこか「この人に認められたい」といった様な思いが出てしまうことが、正直にあります。Twitterなどで密かに尊敬している方が発したことばを見つけた時、それが私自身の考えに反する場合があります。たいていは、思わぬタイミングで目にする為に瞬間的な反発心が出てしまいます。

そうした時、その相手を自分が尊敬しているとするならば、かなり高い確率で冷静さを取り戻し、再考する余地を与えてくれるように感じます。時により、日をかけて少しずつ自分の考えと行動を変化させていくこともあります。結果として、言ってる事、やってる事が反対になってしまったということも私にはたくさんあります。その期間を思い起こすと、苦しくもあり、情けなくもあり、ですが常に頭の中で対話が発生していました。

このように書くと主体性が無いというように言われるのかもしれません。先の師弟の例なんかは、ある種の「教祖的」従属で、自分を殺していると心配される恐れもあります。しかし、それでも自分の意見・行動を変えるのは他ならぬ自分自身以外にはないと私は思います。


ただ、やはり気をつけるべき部分はあるとも思います。ある人を気に入っているからといって、ある人の意見はすべて良しとしてしまう軽率さを持っているならば、それは反省すべきと考えます。それこそが妄信というものではないでしょうか。 (A)

そして逆に見れば(ここを主張したいのですが)、ある人の意見に対して猛烈な反発を抱いたとしても、ある人の意見や人格をすべて否定してしまうという軽率さを持っているならば、やはりこれも反省すべきだと思うのです。(B)

私の視野が狭いせいなのかもしれませんが、Twitter等の話題を見ていると「コイツはこんな主義を持っている!だからコイツは全然ダメだ!」といったような論調になってしまう人は多いのかなと考えてしまいます。A,Bどちらにせよ「人を断ずる」にはあまりにも気が早いとしか思えず、結局は自らを固くしてしまうことになるだろうと思うのです。なぜなら、そこには「疑う」事がないからです。


私は真に人の心(意見)を変えることは難事だと考えています。もし、威圧や数の暴力に頼って意見・行動を変えさせたとしてもそれはその人が「己心」から生み出した意見ではありません。そうした事を実現するには結局、誠実で地道な対話を積み重ねた結果、深い納得の上で行われる必要があると考えます。

前回のテーマにも通じるところだと思うのですが……
結局、集合知となり得る議論の前の段階に達していない状態が目立っているように思います。前回No.5"yamanorisu"さんが仰ったように「より良い方向性を導き出そうという気概が見られない」と感じる事があります。原発にしても、今回「がれき受け入れを拒否する為にトラックの下で抗議活動をした人々」の話にしても、(とかくTwitter上では)相手を”揶揄”する事に執心している姿を見かけるたび悲しくなります。

確かに多くの人が「それは愚かな行為だ」と判断する事であったとしても、私はただ”揶揄”するだけの精神では何も進まないと感じます。誠実ではないからです。相手の主義主張を1つ見る事で、相手の全てが「そう」だと思い込む自分を「疑う」ことをしなければ、その時点で既に「主義主張のアッチ側とコッチ側」に分かれて水と油の反発に終始する事を認めたも同然ではないかと思う訳です。

Twitterはその性質から「ウマイ事」を言ってそれに気付かせてやろうという意識が見えてくるように思います。(私自身もそういったクセがあります) その「ウマイ事」は、自分の主義主張が合理的だという自信があるからこそ「たとえ話によって、相手が自ら気付きを得るように」狙ったものだと思います。しかし、相反する相手にとってはまた別の主義主張こそが合理的だと自信を持っている訳ですから、その「ウマイ事」は単なる「愚かな発言」にしか見えなくなってしまうのだと思います。結局、お互いの”揶揄”に終始するのみという結果になってしまうように私には思えます。


前回の皆さんの書き込みから「ひとりひとりがもっと真剣な議論を」という課題が見えたように私は考えました。その後、私が考えたのは「では、その為にはどうしたらいいのか?」という事でした。言い方は悪いのですが、Twitter等の有効な集合知となりえるものの中で「井の中の蛙」にしかなっていない状態が目立つ(私も含めて)のだとすれば、ただひたすら待ち続けているだけでは何も変わりません。

今回の議題に関する話に戻りますが、私は人が真に心を変えるのは「真剣な対話」からだと考えています。つまり、尊敬できる相手だと思います。今、重要な議論がたくさん巻き起こっていますがそれらをネット上だけの「強がり」で終わらせるのではなく、勇気を出して身近な友人と真剣に語り合うところから地道に始めていけたら良いのではないかと思います。

とても遠回りな話だとは思いますが、一部強い影響力を持つ方を除き、多くは真面目な一般人です。もちろん私も単なる一般人です。「お前はそんな主義主張を持っていやがるのか」という態度で見下すのではなく、そうした場合には改めて敢えて自らの主義主張を「疑ってみる」ことも必要と考えます。また異なる主義主張の友人は、そういった機会を与えてくれる貴重な存在だと私は考えます。

ネット上のサービスがどんどん便利になり、つながりやすくなったとは言え私はそういった部分を軽視してはならないと感じます。そのような真剣な対話を繰り返した経験を積み重ねた人達が増えていくのならば、Twitterのような所の議論はより一層「先」へ進むものと思うのです。

NO.42012-05-22 22:33:58 chigusaotsuki 0
私は、アメリカで、10回のカウンセリングを、受けました。
カウンセリングが、きっかけで、私は、自分の意見を変える、というより、
新しい見方や、新しい考え方が、できるようになりました。
深く、深く、愛を掘り下げて、心に、語りかけてくれた、
優しい、愛がいっぱいの、素敵な女性の先生は、
私の生々しい話も、受け止めてくれて、
不安や、愛情不足だった私が、先生を試すような、ひどい態度を、とったときも、
優しく、包み込んでくれました。

一回一回のカウンセリングの最中で、感情の山、谷を、感じながら、
嵐のように、自分の意見が変わっていくのを、体験したのですが、
とても、私は、不安定だったけれども、
先生に憧れて、私も先生のようになりたい、というと、
喜んで、心理学を、勧めてくれました。

私は、happy という、ドキュメンタリーを見ましたが、
幸せを感じるためには、
大きな存在を感じることと、愛されることが、決定的に重要なのが、わかります。
原発推進派の愛と、原発反対派の愛は、どこへ向かっているのか、
人々に、どんな幸せを、感じてほしいと、願っているのか、
幸福についての議論を高めることで、
個人の意見は、国の政策は、変わるような気がしました。

NO.32012-05-22 16:34:13 fuunin 0
意外スクイズをやられた時。瞬間頭が真っ白になり、まいったという感じ。全く違う角度、面から指摘され、自分の考えが部分的、一面的だと分かった場合。ただ意見を変えるといっても指摘された意見にそのまま乗り換えるのではなく、それをとり入れた新たな考えを自分なりに構築します。その繰り返しです。
原発には反対。究極的にはバックエンドの問題があるからです。エネルギー安全保障の基盤にといいますが、外に対し安心と思っていると背中を打ってしまうシロモノ。原発は言ってみれば敵側にも気分次第で寝返る用心棒。しかもいつ何どきそうなるか誰も検討がつかないし、武器が核自爆だから被害は予想がつかないほど桁外れになる。じゃあすべての原発を即廃炉に転換できるかといえば逆説的だが、同じ理由からできない。日本だけ脱原発しても事故が起これば甚大な被害が及ぶ原発を中国等近隣諸国が設置し増設をも企図している。また日本には既に核のゴミが溜りに溜まっている現実。なので安全な原発や核廃棄物の処理・保管の研究開発をやり続けるために、正当な政治的手続きで地震等に対し安全が完璧に保証された原発を加熱型、沸騰水型を最低でも各一基ずつ残す必要を認めざるを得ない。さらにそのことが結果的に本当のエネルギー安全保障になる電源への繋ぎ役になると思う次第。

NO.22012-05-22 16:32:56 yuetnus 0
震災直後の「原発が危険な状態」というニュースを見た時、「何とか処置するんだろう」という常識的な判断を、「あぁ、やっちまいそうだな」という予感が上回りました。このところ、さまざま「劣化」が進んでいるからです。

それまでは、原発に反対するのは原爆と区別できないヒステリックな人たちだけと思っていました。火力は汚い発電方法と思っていましたし、原発は安全管理がなされていると思っていました。ところが、その後に暴かれたダラシのない実態。

事故や廃棄物ばかりでなく、コスト効率や人間の劣化も考えると、火力がクリーンに思えてきました。電力不足と言うなら、これ以上逡巡していないで、新たに火力なり太陽光なりで発電所を作れば良いのです。

クリティカルな施設には自家発電設備があるはずです。無駄な電力消費もあると思います。電力消費の多い旧式機器を入れ替えるチャンスですし、そのためならバラマキも無駄ではないと思います。

なので、意見を変える時は、「新たな事実や解釈、状態の変化を知った時」です。

意見を変えずに譲歩する場合は条件次第ですが、原発の件に関しては回避する手段もある上に、安全管理への不審、情報のゴマカシ、莫大な補助金、電気料金、産業構造といった問題に対して、この夏の停電の可能性という交換条件だけでは不足と思います。

NO.12012-05-22 12:08:47 orcamie 0
それは自分の意見を通すことで
誰かに迷惑を掛けるかもしれない時
原発再稼働しないで 停電になった場合
特に命を奪われる人がいるかもしれないと考えると
無理に再稼働反対を押し通すのはどうかなと立ち止まります。
再稼働した場合の周囲の放射能汚染とそこで働く人たちが大丈夫かという不安
原発を稼働した場合の生み出される使用済み燃料が増えること。
しかしただちに死に到る人はいないであろうと推測されるので
不意に停電が起きてしまうことで家庭用の呼吸器を使用されている方の命を脅かすくらいなら
稼働も止む得ないのかなと考えます。
これはまるでサンデルさんの正義の講義を彷彿させます。
人口呼吸器用の外部電源バッテリーが保険適用になったようなので
その不安が払拭されるといいのですが
誰かの死を意味するかもしれないのに
それでも尚自分に再稼働を反対する勇気があるかと自問しますね。
再稼働しない場合の停電が起こらない周到な準備を電力会社や政府に期待できないので。
誰かの命に関わる自体が生じるおそれがある時 意見をそのまま押し通してもいいのか考えます。
そしてきっと、生命だけではなく、誰かの機会を奪ってしまうかもしれない時
その方を犠牲にして 意見を押し通していいか考えます。