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レスリングのオリンピック競技除外について考える

2月12日、国際オリンピック委員会(IOC)は、ロンドン五輪で実施した26競技の中から25の「中核競技」を選定しました。その「中核競技」から、レスリングが外されてしまい、2020年の夏季五輪で競技として認められない危機となっています。

ツイッターやメルマガでも言及したように、オリンピックは時代とともに変化します。テレビの普及によって、全人類が試聴するグローバルなイベントになりました。そうなれば古代ローマの時代とは性格も変わってきます。

例えば、商業化も一つの必然でしょう。放送権料も高騰して、アメリカのNBCは、4大会の放送権に対して3480億円を支払ったとも言われています。それぞれが自国に有利な祭典にしようと動くので、政治的な駆け引きも必要になってくるでしょう。

今回のレスリング除外危機に対して、日本はどのような対応をできるのかということは、グローバル化した世界に対して、日本はどのような働きかけをできるのかということと、本質的には同じだと思います。

さて、日本はどのような態度を取るべきなのでしょうか。ご意見お待ちしています。

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NO.122013-03-01 00:02:44 masami 15
今回のテーマの、もっとも古くからのオリンピック競技であるレスリングがなくなるのがどのような経緯か、正確にはわかりませんが、たまたま目にした以下の記事の中で、古代ローマ時代、レスリングの試合は、殆どの場合、死によって勝敗が決まった、という部分がとても印象に残りました。本当に、「オリンピックは時代とともに変化」してきたのだな、と思いました。

http://www.nytimes.com/2013/02/16/opinion/how-wrestling-lost-the-olympics.html?pagewanted=2&_r=0

商業化とともに、選手の所属する国のものとされる勝敗はさておいて、世界中の人々が限界に挑戦する選手たちの精神力、身体能力の素晴らしさに感動する祭典へと変化してきているのであれば嬉しいと思いました。
日本人が、かつての東京オリンピックに、日本の戦後の復興を世界に示す、という意味を込めたように、オリンピックの開催や勝敗が直接国威と関係があるかのように受け止められていた時代もあったけれど、国境を越えて選手や人々が自由に行き交い、日常的に共有するものが増えれば増えるほど、そのような傾向は、薄れていくのが自然なように思います。(今も、生まれ育った国とは違う国の代表である選手は多いと思いますが。)

2020年、東京にオリンピックを招致するならば、外国の人々を歓待し、世界中の人々が楽しめるオリンピックにすることが一番の目的であってほしいと思うので、私は、レスリングが外れることに対して、日本として何かする必要はないと思います。
また、できるだけ多くの人が楽しめる競技を選ぶべきだという考え方もあるようですが、パラリンピックが少しずつ注目されるようになってきたり、日本でカーリングをする人が増えたように、オリンピックが、それまであまり注目されていない競技を新たに発見する場となることも、意義深いことのように思います。

NO.112013-02-28 20:59:21 sana805 14
ryosuke8さんの文面、色々と考えさせられました。
歴史上、オリンピックって様々な社会的利用がなされてきたのだなと。
文面を読んでいって、オリンピックは観る側からすると娯楽だったなとふと思い返しました。アマチュアの祭典。プロとアマチュアの違い。

個人的にはかつての職場にレスリング部があり、そのクラブの取り組みを通じて成長を見せる子たちの様子が思い出されるので、愛着的というか親近感というかそういうものがあります。レスリング競技の体をすり合わせる駆け引きはシンプルで面白いものだと感じていますが、見る人によっては、地味に見えるかもしれない。
人気で言うなら、今の時代、他のスポーツの方が時代にあっているのかもしれません。
レスリングといえばプロの方はかつてとても盛り上がった時代がありましたよね。見せ方。
も含め、個性的な選手。技。そんな話で盛り上がる男性の姿を見たことがあります。

スポーツでもオリンピックに頼らなくても人気のあるものもあるなと確かにと納得します。

このテーマが提示されてから、個人的に為末大さんのツイッターでつぶやかれることが色々と興味深く心に残っています。体罰の件、オリンピックの件、コーチと教育の区別等捉え方や見解わかり易く合点がいく。
「強くさえなれば人気になれると信じて結果を出てもブームで終わること。
強くなる事と、人気になる事は違う。そして人気になったスポーツに子供は集まり、競技は活性化すること。」特に印象に残っています。
オリンピックって、誰のために何のためにということ結論なくつらつらと考えてしまいます。

NO.102013-02-27 02:00:38 茂木健一郎 15
評価システムがリニューアル後一時使えなくなっていたようですが、たっちゃんに言って直してもらいました!

TEDに参加していて改めて思うことは、やっぱり、現代の世界では、単に自国の都合や、利益を主張するようなことは聞いてもらえないということです。

NO.92013-02-26 04:04:43 茂木健一郎 20
ロングビーチに移動するタクシーの中で、なんとはなしに考えていました。なぜ、ある競技がオリンピックに入るかどうかで、そんなに私たちの態度が変わるのか。アメリカでも、オリンピックは大きなビジネスになっていますが、そこまで極端なオリンピック偏重があるとも思いません。(たとえばアメリカンフットボールはオリンピックに入っていないけど、そんなこと誰も気にしていない。)オリンピック信仰と、国連信仰には共通の背景があるように思います。オリンピック信仰が、決して悪いと行っているわけではりませんが。

NO.82013-02-25 16:17:47 ryosuke85 20
茂木さんが指摘されているように、すでにオリンピックは近代オリンピック創始頃のアマチュアリズムを既に置き去りにしつつあります。

1936年、ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーがレニ・リーフェンシュタール監督を擁して作成した「オリンピア」は、今までの概念にとらわれていない、純粋なオリンピック映画として今現在も評価が高い映画です。

しかし、その裏には、ご存知の通り“宣伝の舞台”としての位置づけがあったことも事実。

そこからオリンピックは良くも悪くも各国の“プロパガンダの舞台”となり、社会主義国の台頭をオリンピックの度に目の当たりにする形へ変遷してきた過去があります。

それが1980年後半から90年半ばに渡って、社会主義国の代表格であるソ連の解体や、ベルリンの壁崩壊による旧東西ドイツの統合、と時代が大きく変容していき、92年のベルリンで行われたオリンピック以降、一気にショービズ化が進んだと言えます。

しかし、それも致し方が無いことだと個人的には考えておりまして、その理由は、「スポーツ競技自体が観客を含んだ状態で行われるもの」である以上、この流れは止まることが無いと思います。

ラジオ放送から始まったスポーツ中継も、現在では人工衛星を渡って全世界どこにいても視認することが出来るようになりました。

これは=メディアが権力を強めることを意味し、それぞれ競技を視聴率という「数字」で表現せざるを得ない状態になっているとも言えるでしょう。

つまり現在のテレビ番組編成を考える際に、バラエティ番組と同列に扱われることを意味し、それは“数字”が取れなければ包装されないという危機感を生み、競技のルールが変更するというある種の逆転現象を許しました。

それはテニスにしても、バレーボールにしても然り、です。

今回のレスリング除外問題において、日本がその態度をどうするか、という点で、ボクは「日本人がメダルを取っているから」以上の理由を見つけ出さなければ、その態度が誤った方向へ進んでしまうように思えて仕方ありません。

というのも、結局、メダルが取れているから、というのは、レスリングがオリンピックに存続を希望する上での理由に弱いように感じるからなのですが、もっとレスリングが世界に広がることがオリンピック開催においてどのようなメリットがあるのかを論ぜられる必要があると思うのです。

そう言う観点で言えば、ボクはサッカーが大好きですが、サッカーは既にオリンピックの範疇を越えていると考えます。
なぜなら、サッカーはオリンピックの舞台を借りなくても独自で完結できる“強さ”を持っているからであり、その強さの理由は世界中に競技人口を抱えているからです。

しかし、未だにオリンピックからサッカーが外されないのには何かオリンピック側や、メディアの思惑が働いていると勝手に勘ぐってもいます。

そんなオリンピック主催側との“一定の緊張状態”をレスリングが保つことが出来なかった以上、主張するべきことはどのようにしたら今以上に広がれるのか、を真剣に考えていくことが必要がなのではないでしょうか。

NO.72013-02-24 20:24:48 Tomoikukai 23
chigusaotsuki さんの意見に賛成です。日本のレスリング、特に日本の女子レスリング競技は、日本独自に、人気スポーツになっていったように思います。だって、女子のレスリング選手で日本人以外の日本人に人気のある選手はいますか? アッ 男子でもいいです。オット、男子には、日本人にもいないかナ?という事は、日本に金メダルを取るような強い選手がいなければ、オリンピックの中核競技からレスリングが外されたからといって、多分、レスリング関係者以外の日本人は、誰も、殆ど関心を示さなかったのではないかと思います。私個人としては、女の人がレスリングをするのは、アマゾネスみたいで、嫌いです。女の人は女らしい人が私は好きです。

(これは、女の人は女らしくしなくてはいけないといっているのではなくて、私の個人的な好き嫌いです。多分、多くの女の人も、男らしい男の人がいいと思っているのではないかと思いますが、違いますか? 男らしさ、女らしさも、また何時かテーマに取り上げてくださると面白いかもしれませんネ)

とにかく、私は以前から女子のプロレスは、肌が合わずに、テレビで放映されていても、一度もまともに見た事はありません。イスラムの世界とか、また、西洋世界でも私と同じように、女の人がレスリングをするのをいたたまれなく思っている人はずいぶん多い事だろうと想像されます。それが、オリンピック種目の中に、女子のレスリングが入って来て、マスコミに乗せられるかのように、日本人の中から女子のレスリングに対する拒否反応は薄らいでいきました。(私は未だに見ないけど)つまり、女子のレスリング競技に対する人気は、日本の中で高められただけで、世界中の人が注目している訳ではありません。オリンピックから、レスリング競技が外される事に対して、日本人としての意見を、IOC に抗議する事は出来ると思うのだけれど、ちゃんと理由をいって、しかも、英語で言わなければならないとなると、中々それを買って出るという人もいないのじゃないかと思います。これが、いわゆる、日本のガラパゴス化の一例だと思います。

さてと、レスリングの事はこれくらいにして、次は、強引に英語教育のガラパゴス化に移ります。

今日の福井新聞のトップニュースは、待ちに待った「TPP 交渉入りへ」でした。
私が、TPP に参加する事によって、最も期待している事は、アメリカに準拠した、教育の自由化と正常化です。その中でも、完全にガラパゴス化している、英語教育の“革命”です。

TPP に参加すると、交渉事に障壁が無くなる訳ですから、基本的に、英語で話し合う事が多くなると思います。直接一般市民が交渉の当事者になる可能性もあります。逆に、日本に来た外国人と、自由にビジネスをする機会も増えるかもしれません。そんな中、通訳を雇っている時間もお金もないし、当事者自身が英語を理解する事が要求される場面が多くなると想像されます。ところが、現在の教育制度の中で英語教育を受けて来た日本人のほとんどは、長年勉強して来たにも関わらず、簡単な英語を聞き取る事さえ出来ません。先日の新聞紙上では、日本人のTOEFL テストの結果が、世界最低クラスである事が示されました。このようになってしまった原因は一体何処にあるのでしょうか?また、それに対して、我々は、どう向き合っていけば良いのかを考えてみようと思います。

先ず、何故日本人の英語力が低いかというと、色んな原因がある中で、日本人は、語学力が優れているということが挙げられると思います。これは、一見現状と矛盾していると思われるかもしれませんが、日本人は、数世紀にもわたって、あの長い教典や論語、その他多くの中国の書籍を、ものの見事に日本語に翻訳してしまいました。今、日本の文化と呼ばれるもののほとんどは、中国起源のものなのに、どれもこれも、あたかも日本独自の文化のように消化し尽くしてしまいました。こんな語学の達人でも、明治になって、西洋列強に負けまいと、西洋の科学や文化を取り入れる為に膨大な西洋の文献を日本語に訳すのは大変な事だっただろうと思いますが、思想や哲学の思惟方法を除いては見事すぎるぐらいにやり遂げたといっていいだろうと思います。この翻訳技術が明治維新の近代化を成し遂げた原動力といっても過言ではないでしょう。アジアその他の国で、こんなに見事に西洋の文献を自国の言葉に翻訳し得た国は、恐らくなかったのではないかと思われます。(これはあくまで想像ですが、その頃、日本だけが、近代化を成し遂げた事を考えると、ほぼ間違いなかろうと思います)

時が変わって、グローバル化が進行中(もうだいぶんたったけど)の現在、日本は、相変わらず優秀な翻訳家、通訳達の独壇場です。私が、高校時代に習った先生は、ずいぶん後になって、亡くなる前、

「私たちのしてきた英語教育とは一体何だったんだろう?もしかしたら、五万人に一人の翻訳家を作る為の教育だったのかもしれない。それ以外の人にとっては、何の為に勉強したのか解らないまま、全く無駄なことを押し付けてしまったのかもしれない」

と述懐されておられました。そして、この五万人に一人の翻訳家が、他の人よりも飛び抜けて優秀であるため、結局、一般の人の英語を学習するモチベーションを奪ってしまったのではないでしょうか。結局の所、今の英語教育は、翻訳家や通訳を作るために構築されたもので、その為、英語の先生に英語の早期教育の話をすると、殆どの人が、

「英語は、日本語を身につけてから、中学から始めれば十分です」とか

「小さいときから、英語も日本語もと欲張ると、結局どっちもものにならない」

といわれます。これは、英語を勉強する目的は、「翻訳家になることだ」という意識が強い為だと思われます。

これに対して、翻訳技術の未熟だった、他の多くの国では、グローバル化の浪が押し寄せると、直接英語で商売したり、色んな交渉をせざるを得ませんでした。これらの国では、グローバル化ということは、即ち、他国の言語を習得して、仕事を得たり、商売をしたりということを意味することだったのかもしれません。そして、このことこそが、これらの国の語学力を急速に高めていった原動力になっていったものと思われます。

それでは、英語のスピーキングスキルでは、世界最低となってしまった日本のとる道とは、一体どんなものが考えられるでしょう? 私は“革命”しかないと思っています。

つまり、翻訳家や通訳(英語の教師も入るかもしれない)といった特権階級を作る為の英語から、庶民が仲良く井戸端会議が出来るようになる為の英語習得に思い切って転換するのです。つまり、one way communication English からinteractive communication English への転換です。日本語には、本当に重要な言葉なのに interactive に対する言葉がありません。元々、日本の文化の中に、「言い返してはいけない」という不文律が根付いてしまっているかのようです。
私が前の投稿で言及したヴィゴツキーのDynamic Assessment も、このinteractive という概念がないと理解が難しいかもしれません。語学の効果的な教授法であるDynamic Assessment はinteractive skill が必要不可欠です。そういう意味では、現在の英語の特権階級である、翻訳家や通訳、それに英語の先生達は、このinteractive skill が必ずしも十分とは言えないような気がします。そう言えば、来年度から高校の英語の授業で導入されるという Teaching English in Englishでは、よっぽどinteractive skill に秀でた先生でないと、とても授業が成り立たないと思います。だから、当面の英語教育革命ではDynamic Assessment を実践する為には、ネイチブの教育専門家に期待せざるを得ない状況だということを、どうやったら人々に理解してもらえるか、Tomoikukai の最重要な課題なのです。

今月の27日赤崎小学校で、初めての英語紙芝居のデモンストレーションをします。今の所、私のinteractive communication English に対するアプローチは紙芝居を通してです。これがどのように発展していくか? 樹下の微睡みは私の活動報告書でもあります。

NO.62013-02-21 19:53:49 sana805 7
chigusaotsukiさん

貴重な情報ありがとう! なるほど分かりやすい情報!
取り急ぎお礼まで。

NO.52013-02-20 15:36:30 chigusaotsuki 8
NO.4 sana805 さん

私が、読んだのは、
これ → http://diamond.jp/articles/-/32138
です。(^_^)☆
参考に、なったら、いいな ☆

NO.42013-02-20 10:33:49 sana805 10
オリンピックがビジネスモデル。そういう発想ありませんでした。
個人的には商業化という言葉に抵抗があります。どうも、偏った考えが自分の中にある。

ビジネスモデル。柔道はかつて東京オリンピックで競技種目になったとあります。
私が記憶にあるのは女子柔道も種目になり、浦沢直樹さんのYAWARAという漫画や、実際のオリンピックでの谷亮子さんの活躍が心に残っています。
オリンピックによって柔道という日本の国技が世界に認知されるようになったビジネスモデルのひとつなのかなと思えてきました。

chigusaotsukiさんのいう
「オリンピックの競技の中で、レスリングは、孤立してしまいました。」
という言葉は個人的には衝撃ですが、そんな捉えをしている人たちもいるのでしょうね。
実際に中核競技から外された結果の一要因かもしれない。憶測ですが。
オリンピック、スポーツの祭典を通じての国との繋がり、可能性と限界をもう少し考えてみたくなりました。

NO.32013-02-20 07:35:13 茂木健一郎 15
オリンピックの実施競技も、結局、偶有性の中にあり、またオリンピックも、一つの「ビジネスモデル」であるということを忘れてはならないと思います。日本人は、ついつい、オリンピックが神聖なものだと思いがちですが、実際には、今回のようにさまざまな思惑の中で形作られていく、という側面があるのではないでしょうか。神聖というイメージも、一つのPRのツールという側面があるのです。

NO.22013-02-19 09:46:51 chigusaotsuki 17
グローバル化によって、それぞれの国に合う商品を、作っていればよかった時代は、終わりました。
商品やサービスを、地球中に、提供する時代が、やってきたのです。

もはや、日本の中だけで、経済や教育を、考えていても、世界に取り残されて、世界に対して、何の影響力ももたない、小さな国として、日本は、日本人は、孤立するのです。

世界に参加するためには、日本の中では、この商品がはやっているとか、日本の中では、こんな教育があるとか、何でも、日本の中だけで、満足していては、いけないのです。

なぜかというと、商品やサービスは、比較されることで、その質を上げて、新しい価値が付与されて、それを求める地球中の人たちに、提供されるからです。
教育も同じです。日本の中だけで、自分たちは優秀だ、と、うぬぼれていても、自分たちで、小さなクラブを作っているだけで、そのクラブのルールなんて、世界からみれば、くだらないものだったり、するわけです。

つまり、世界に影響力を及ぼすことのない、商品やサービスを作っていること自体が、無駄なのです。
教育でいえば、日本人が、世界中の人たちに、まったく影響力を及ぼすことがなく、世界中から、軽視されたら、悲しくないですか?

まず、日本は、世界に、適合しなければ、なりません。
これは、言語だけではなく、マーケティング手法から、人事管理、広くは、日本の法律をも、考え直す必要があります。

そんなグローバル化された世界に対しての、レスリングのオリンピック競技除外についてです。
オリンピックの競技の中で、レスリングは、孤立してしまいました。
レスリングは、今まで通り、ずーっと、レスリングをやっていれば、いい時代は、終わっていたのです。
もちろん、レスリングの歴史には、重みがあります。続けてこられたこと、これから続けていくことには、非常に意味があると、思います。
日本も同じです。日本の文化は、非常に素晴らしいです。でも、日本の中だけで、日本の文化は、素晴らしいと言っていた時代は、終わったのです。
世界中に発信できなければ、素晴らしい日本の文化も、小さな国で、終わってしまうのです。

本当に、日本の文化は素晴らしいからこそ、世界に発信していかなくてはならなくて、レスリングも、本当に、素晴らしいからこそ、新しい時代を作っていかなくてはならないのだと、思いました。

NO.12013-02-19 00:29:09 sana805 14
日本の活躍が期待される競技が外れるというのは本当に残念です。ロンドンオリンピックで活躍した吉田選手は三重出身で、帰国後、パレードや講演活動等で地域住民に勇気を与えてくれていますし、その影響は大きく感じています。気持ちが明るくなる。(知り合いの娘さんのバイト先にも偶然いらしたそうで、嬉しそうに一緒に映った写メを見せてもらい微笑ましく感じていましたし。)

そもそも中核競技とかその選考基準とか勉強不足でよくわからなくて、いろいろ調べていくうちに IOCのオリンピック憲章http://www.joc.or.jp/olympism/charter/ (不定期に憲章も変化しているんですね)である根本原理の内容の素晴らしさに感心したり、現代の抱える商業主義とオリンピズム精神に揺れ動くIOCの理事たちの揺らぎが感じられる気がしました。またレスリングの歴史も調べると興味深い。個人的にはレスリングへの愛着が更に膨らみました。中核競技から外れることに伴って、国際レスリング協会の会長が辞任。IOCの理事14名の投票の結果が、これほど大きな影響が出ることに驚いています。

やはり今回の気になる点は、ロビー活動という影響。始めて知りました。詳しくはわかりませんが見えないところで動くお金とその影響と選考結果。憶測かもしれません。事実がよくわからない。でも選手がスポーツマンシップに法っているのに運営はどうなんだろうとか思えてくる。これほどまでに世界的に影響を与えるオリンピック。選考の仕組み自体なにか見直しできないのかなとも思えてしまう。
綺麗事かもしれないけれど、金で競技の影響が出たかもしれないという憶測は気持ちのいいものではない。選考基準が不明瞭なのが納得いかない。(もし知っている方いたら教えてください。私はよく調べられませんでした。。。)関係組織や選手は更に更に強い想いがあるだろうと想像してしいます。