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あなたにとっての「古典」とは何ですか?

先日、『隅田川』という能を観て林望さんとお話しする機会がありました。この『隅田川』は室町時代に作られた作品ですが、いまだに多くの人を惹きつけています。また林望さんは『源氏物語』の現代語訳もしているのですが、その『源氏物語』は千年以上読み継がれている。

最近、僕は「日本は変わらなくちゃ」「英語を使ってグローバリズムに適応しないと!」といったことをずっと言い続けてきました。それで「変わらなくちゃ」というメッセージが強くなり過ぎてしまい、「変わるものだけが生き延びる」という一種の強迫観念として受け取ってしまった人もいたかと思います。

この辺りで、ちょっと一度立ち止まって、時間が経っても変わらない古典的なものとは何なのか、考えて直してみるのも必要なことのように感じました。激動の時代だからこそ、「変らなくちゃ」だけではなくて、「変らないもの」の価値も見直したい。

あなたにとっての「古典」とは何ですか? あなたにとって時間が経っても変わらない価値とは何でしょうか? 本でもいいですし、映画でもいいですし、大切な友人でもいい。みなさん、自分の「古典」を持ち寄って語り合ってみましょう!

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NO.142011-09-04 09:02:46 gotoichi 0
古くからあって、今も当たり前であるもの。

対人関係のことの大切なこと
とか
人生で困難に遭遇したときの考え方
とか
答えがよくわからないことに関するものが自分にとっては大切でして、
みなさんのご意見が非常に参考になるもので、
いろいろと読んでみようと思いました。


僕は、すごい悩んだ時期に斉藤一人さんの本で
人生が180度くらい変わった経験があって、
暇があると読んでいるくらい好きなのですが、
古典という感じではないので、一人さんが自分の本よりもすすめている

「人を動かす」と「道は開ける」というカーネギーの本を
古典としたいと思います。古典は繰り返し読むことで血肉に
なっていくものだという感覚があって、今も何か問題があると
読んで新たな気づきをもらったりしています。

7回読むと自分はもともとそういう風に考えていた。
という感じになってくるので、
読書は自己改革にもいいのではないかと思います。

NO.132011-08-31 12:44:14 seikunchi 0
私は現在31歳ですが音楽に昔から携わっており、作曲家・演奏家として活動をしています。

私は「古典」をもう少し広義に捉えています。
時代背景・環境・常識にあまり影響されず時代を越えて支持されているもの、急速な変化をとげる現代の世の中にあっても時に再認識させられるもの、といった意味合いです。

■「食欲」「性欲」「睡眠欲」
生物の本能の問題なのでちょっと意味が違うような気もしますが、ここで言う「古典」としての解釈もできます。過剰な食事制限ダイエットや睡眠不足による様々な身体への悪影響などが起きたとき、根本に戻ってこれらの大切さを再認識します。

■「適度な運動」「バランスよい食事」「適正睡眠」「禁煙」
上とすこしかぶりますが、健康を維持するために行うことで大切なことです。昔からいろいろな健康法が開発・研究されていますが、万病予防を考えるとき、まずはこの4つが思い浮かびます。

■今も世界で広く支持されている文学、芸術、音楽など
音楽に限った話ですが、私はジャンルで言うとクラシック音楽畑で活動してきました。今は多ジャンルに対応しています。“クラシック音楽”は直訳すると“古典音楽”です。私はこのジャンル名や、そもそも音楽をジャンルで区分しようとすること自体が好きではないですが、それは置いておいて、ベートーベン、ビートルズ、世界の童謡、などの名曲は今聞いても素晴らしいものがあります。言葉では言い表せませんが、とにかく魂が揺さぶられます(さらに作曲法視点で中身を勉強することでさらに驚嘆し、“本物”に感動が深まります)。そういう感動というのは時代は変わっても人間の苦悩や喜びといった感情の営みは同じなんだな、と感じさせられます。

他にもこういった意味での「古典」はたくさんあると思いますが、私の中の「古典」とは要するに“上っ面”だけではなく、言葉では表せないような心の中の“魂”に直接訴えかけてくる物や事柄です。

NO.122011-08-30 16:31:42 masami 0
 NO.10    yamadaswitch さんの ブッダの教え、とても興味深く読みました。
そして、最近の人ではあるけれど、私の好きなアントニー・デ・メロ氏の教えに似ているな、と思いました。

アントニー・デ・メロ氏(インド人のカトリック司祭)司祭や修道士の霊的指導者でしたが、アジアの宗教、世界のあらゆる宗教に心が開かれていたようでした。
その考え方の中心は「気づき」です。
まるで空に浮かぶ雲を眺めるように、自分自身の心の動きを見つめる。その時大切なのは、いい、悪い、といった評価をしないこと。
他人を罪に定めないことと同じように、自らを「裁かない」ことは、とても大切で、そうすることによって、初めて、自分が生まれた時からこれまでに身に付けてきた先入観や、固定観念に気づけるという考え方です。気づきがあれば、今、ここ、の瞬間瞬間で本当になすべきことがわかる、という考え方です。

これはブッダの「よく見ろ」と似ていると思いました。

ブッダと同じように、たとえ話をたくさん書いています。
神は、ある人を、人を導く師にしようと定められると、その人に寓話を送ってくださる、と書いています。

アントニー・デ・メロの本は、私にとっての古典と言ってもいいかもしれない、と思いました。

NO.11  motakeen さんの古典”ALL I REALLY NEED TO KNOW I LEARNED IN KINDERGARTEN" も興味深かったです。
本質的なことはとてもシンプルで、子どもも理解できる言葉で表現できるのだろうな、と思います。

NO.112011-08-28 10:28:49 motakeen 0
古典というと、高校時代に学校で読んだ古文の源氏物語、伊勢物語とか、英語のマクベスとか、漢文の...(何を読んだかすら覚えていない。。。)でしょうか。 かなり苦労しました。

でも最近Kindleを購入したのですが、著作権がきれたPublic Domainの著作物がほぼ無料でよめるので、せっせとダウンロードしては読んでいます。(その意味でインターネットは、国を超える以上に時代を超えて楽しめるので本当にすばらしい!!)高校時代より楽しめている自分を感じます。

ただ自分への指針、私にとっての古典(Basics)は、ロバート・フルガムの”ALL I REALLY NEED TO KNOW I LEARNED IN KINDERGARTEN"です。(確かこれも最初に読んだのは高校生のときでした。)

All I really need to know about how to live and what to do and how to be I learned in kindergarten. Wisdom was not at the top of the graduate school mountain, but there in the sand pile at school.
These are the things I learned:

Share everything.
Play fair.
Don't hit people.
Put things back where you found them.
Clean up your own mess.
Don't take things that aren't yours.
Say you're sorry when you hurt somebody.
Wash your hands before you eat.
Flush.
Warm cookies and cold milk are good for you.
Live a balanced life - learn some and think some and draw and paint and sing and dance and play and work every day some.
Take a nap every afternoon.
When you go out in the world, watch out for traffic, hold hands and stick together.
Be aware of wonder. Remember the little seed in the Styrofoam cup: the roots go down and the plant goes up and nobody really knows how or why, but we are all like that.
Goldfish and hamsters and white mice and even the little seed in the Styrofoam cup - they all die. So do we.
And then remember the Dick-and-Jane books and the first word you learned - the biggest word of all - LOOK.

Everything you need to know is in there somewhere. The Golden Rule and love and basic sanitation. Ecology and politics and equality and sane living.

NO.102011-08-28 02:28:43 yamadaswitch 0
NO.3に書き込まれた、trasqueさんの、

「名言や格言なども含めて、そういったものが自分の身に入って行く事で、作品が伝えんとする「文の奥」のようなものが見えるようになったのだと思います。」

という言葉、しみじみと本を読んだときの、物語の中に入っていく感覚を思い出しました。
どうもありがとうございます。

源氏物語や百人一首の中の句を読んだ時の、
一瞬、その世界に自分がいて、その光景を見ているような
気持ちになっている瞬間が好きです。

「よもすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさえ つれなかりけり」 (俊恵法師)

小学校の時にひらがなで覚えた百人一首の句ですが、
「ねやのひまさえ つれなかりけり」という、

大人になってからわかったのですが、
夜通しつれない恋人のことを思ってなかなか夜が明けず、
寝室の隙間までが
つれないと思えてくる……
そんな部屋のすみっこ。その光景が見えてきて、好きな句です。

源氏物語や百人一首の句も大好きなのですが、
私にとっての古典は、何故かブッダのことを描いた本なのです。

どうも、20代前半の悩める時期に手塚治虫先生の
「ブッダ」を読んでからというもの、
困った時に開く本はいつも
ブッダのことを描いた本でした。

ブッダの生き様を読んでいると、
自分の悩み事があまりにも小さくて
たいしたことがないと感じるようになってくるんですね。

ブッダの生きていた時代、
インドではカースト制度があり、
貧富の差は激しく、飢えによって子供が死ぬのは
日常茶飯事でした。

その、子供を失った母親の
狂った気持ちを正しい方向へと導くブッダの教え

(子供を失った母親に、誰も死人を出していない家のトウガラシの種を持ってこれば
生き返らすことができると語った、キサー・ゴータミーのお話。
ゴータミーは家々を回るうちに、どの家でも誰かが死んで
悲しんでいることを知る)を 読んでいると

お釈迦様がいつも、「よく見ろ」と言っているように思えるのです。
よく見なさい。
よくよく、見てみなさい。と。

人は、自分の見えるところまでしか、見ようとしません。
もっと言えば、自分に都合のいいところしか
見ようとしないし、見れないのが人であって、
それが人の限界だと思うのです。

ですが、お釈迦様(ブッダ)は
もっとよく見ろとおっしゃいます。

そして、その見方というものが
外から自分を見ている感覚というか、
宇宙から自分と自分以外の世界を見ている感覚に
近いと感じました。

お釈迦様は、たとえ話の名人だったのだと思います。
なので、私の中にはお釈迦様のお話は
古典として、
やっぱりその世界に入って、見てきたような気持ちになって。
いるみたいなんです。

NO.92011-08-27 02:40:09 thnkks0304 0
古典とは、ある社会、ある人に新しい思想をもたらし、生き方や考え方を変えさせたものであると思います。

そして、そのような古典とはいつの時代に読まれても、人々に感動を与えることができるものです。

古典というのは、ただの文章や映像ではなく、作者の魂が伝わってくるようなものであると思う。

NO.82011-08-24 16:04:18 masami 0
私にとっての古典、なんて考えたことがなかったので、戸惑いました。
古典と言えば芸術を連想し、真っ先に思い出したのが、日本文学の古典。おもしろそうだな、と思いながら、読んでいません。
音楽にもありますね、クラッシック。でも古典と思っていなかった。
絵画は、あまり古典ってきかないですね。

ずっと以前に作られながら、今も残っているもの、という意味でしょうか?
Wikipedia には長く時代を超えて、規範とすべきものとありました。
芸術じゃないんだ、とちょっとびっくりです。

ここまでの皆さんにとっての古典を拝見して、ずっと前の時代に作られたものだけれど、自分の心揺さぶるもの、人間の本質に触れるもの、と感じていらっしゃるようですね。

私もそう思います。

NO.4 terurun さんの生き方の古典、こんな考え方、いいな、おもしろいな、と思いました。


私が親しんでいるもので、一番古いものは?と考えてみて、聖書ですか?聖書は古典といえるのでしょうか?

でも、教会では毎週聖書が読まれ、神父様がそこから話をします。聖書の勉強会もあります。
それならば、お経も古典になるのでしょうか?

これらは、古くからあって、ずっと日常生活に溶け込んでいるものでしょうか。
生活の一部になっているものだから、古典ではないのでしょうか?


ところで、断捨離がはやっていたら、今度はときめき整理術というのがでてきたそうです。捨てようかどうか迷ったものを、胸に当てて、ときめいたら捨てない、ときめかなかったら捨てるという感じらしいです。

私にとっての古典とは、ずっと前の時代に作られたけれど、心がときめくもの、かもしれません。

逆に古典ですよ、と言われたらなんとなく敬遠したくなるからか、ほとんど意識していなかったのかもしれません。

古典とは、と言うお題が出された背景はなんとなくわかるのだけれど、古典、という漢字、なんだかとても堅苦しいイメージがして、どうもそのイメージから逃れられないです。
心ときめくもの、とつながらなくて、自分で書いていて、ちぐはぐに感じています。

なんだかおかしな内容で、失礼しました。

NO.72011-08-23 14:39:48 orcamie 0
すいません。No.6 orcamieの投稿はかなり混乱していて
足長おじさんのヒロインはジュデイーです。
最初のジェーンエアのところ 「嵐が丘」にして読んでください。
エミリーブロンテの姉のシャーロットの作品「ジェーン・エア」もわたしにとっては古典も同然ということです。「足長おじさん」→「嵐が丘」→「ジェーンエア」→たくさん読書の幅が広がり 私の世界も広がったと言いたかったのです。 
自分でも笑ってしまいました。皆さま笑って許してください (^^;

NO.62011-08-22 19:50:22 orcamie 0
わたしにとっての古典

私にとっての個人的な古典は「ジェーン・エア」と「あしながおじさん」だ。「あしながおじさん」のジェーンが大学に行って読みまくる本が私の読書への突破口を開いてくれたから。中学生の頃児童文学は読むことができても 芥川龍之介や太宰治等を始めとする大人の文学の面白さがわからず長編が読めなくて少ししょげていた。それが「あしながおじさん」のジェーンが読んで一言足長おじさん宛の手紙に書いてある感想につられて「嵐が丘」を読んだ。エミリー・ブロンテの父親が牧師で彼女は牧師館と寄宿学校の外には1歩も出ないような生活からいかに「嵐が丘」を生み出したか見当もつかないというのがジェーンの感想だ。読んだ後わたしはジェーンの疑問に答えられなかったが 嵐が丘の物語もさっぱり訳がわからなかった。が読書の面白さをそこで味わったのだと思う。嵐が丘の主題である「愛憎」ということがその時の私の想像を越えることだったし、当時の女性の置かれている状況について無知であったこともある。後でアメリカ人の先生の英会話教室でその「嵐が丘」を読みなさいということで苦労して英語で読むことになった。その先生から当時の女性が家父長制度下で暮らしており当時は参政権はもちろん無いし、財産すら持てなかった。女性がその頃自活するというのは並大抵ではなかったはず。又彼女が暮らした地域は辺り一面きっとヒースの丘が見られ荒野であったことも寂しい荒涼としたイメージを思わせる。エミリー・ブロンテはたった一つの小説「嵐が丘」を書いて30才で亡くなってしまう。その他に遺された彼女の作品は詩で「No Coward Soul is Mine」。19世紀の前半に 裕福でもなく恵まれない環境の中でただ知的探求に喜びを見つけ誇り高く生きた女性が存在したということは私を勇気づける。

わたしにとっての「古典」は読書への道を切り開いた存在であり 人生で私を何度でも勇気づけてくれる存在。まだ「あしながおじさん」に出てくる本を全部読破したわけではない。ベンヴェヌート・チェリーニという人の自伝で 『ぶらっと散歩に出てちょっと人殺し』をしたという。以前はどこのだれだかわからなかったのがネットのおかげでルネサンス期イタリアの画家であり彫刻家であり音楽家でもある芸術家の奔放な「自伝」と判明。読書自体、未知の世界の扉を開けること。それが古典であってもなくても。でもきっと「古典」は褪せること無くほぼ永遠の輝きがあるんだろう。

NO.52011-08-20 15:23:13 chigusaotsuki 0
私にとっての古典は、野矢茂樹さんの本かな。
英語を、勉強しはじめてから、ほとんど、忘れちゃったけれど、(すいません、涙。)
心に刻んでいるのは、

ある前提から、なんらかの結論を導くことを、論証といい、
論証は、前提、導出、結論からなり、
論証には、非論理的な 「推測」 と、演繹的な 「推論」 とに、区別できる、というもの。

「推測」 は、常識や経験から判断した結論の導き方で、
「推論」 は、論理的な結論の導き方であること。

そして、論理学が扱うのは、「推論」 であること、などでした。

私の古典ですが、

『ある探求を遂行するためには、独断的に、前提するしかない。 (= 鵜呑みにされる事実)』 

というものです。
野矢茂樹さんの本に、書かれていました。
もう、どの本に、書いてあったのか、忘れていて、ごめんなさい。

NO.42011-08-18 10:30:06 terurun 0
音楽で言えば、バロック音楽が私にとっての「古典」。

文章で言えば、夏目漱石や太宰治等は、「古典」。

でも、それは、感じるだけで、実感にはならない。

だから、時間がかかると分かっていても、疲れると分かっていても。。。

車を使わず、徒歩、電車を優先する。

便利な生活は、「古典」を実感出来ない。

たまに、自然ばかりの場所に行って、一日を過ごす。

車の音も、テレビの音もしないところで、ただ、風の音や星の多い夜空を

見て、過ごす。雨の音や鳥の声を聞いて過ごす。

木々に囲まれ、すっと透き通る空気を感じ、朝は、強烈な日差しの中、目を覚ます。

「古典」と思う。



恋愛するなら、携帯でメールをするのだって、やめた方がいいと思う。

感情をむやみに、メールに書き記すのは、かえって、盛り上がらない(笑)。

進歩しているようで、退化している。

携帯の無い頃の恋愛の方が、はるかに豊かで濃密だ(笑)。

便利なことに頼っていると何にもおもしろくなくなってしまう。

私は、「古典」を感じるたびに、今は、「便利」なことに甘えすぎて、

本当につまらないことが多いと感じる自分に悲しくなる。。。

恋愛するなら、ぜひ、携帯電話を捨てるべきと思う(笑)。

不便であることが、むしろ、喜びになってしまうのは、やはり、若くないのか(笑)。。。

「古典」は、私にとって、「変わらないもの、こと」を知ることのバイブルだけれども、

すさまじく早く流れて行く時代の中で、自分の考えていることが間違っていないか?

これでいいのだろうか?と考える時に、参考にするのが、「古典」と思う。

昔も今もきっと素晴らしいことや感動することは、何も変わっていないのだと思うから。

「古典」は、絶対に残さなくてはいけない。それは、生きていく上で、面白いと思える

ものを、出来るだけ、失わないために。です。

NO.32011-08-17 13:14:51 trasque 0
古典に接することで「不変のものに気が付くという変化」を手に入れられるのだと思います。

古典への評価としては「変わらないもの」や「人間の本質」などが鋭く描かれている、といったものがあります。
しかし、そういった有名な古典作品は「時代や背景」を色濃く反映しているものが少なくありません。
折角夜間飛行のメルマガですので、サン・テグジュペリのそれを見てみますと、物語の舞台はまだまだ飛行が命掛けの時代で、業務に対して徹底的な社長が登場します。
サン・テグジュペリ本人も実際に飛行機乗りであって、彼の体験が大きく反映されているのがわかります。
それでも夜間飛行の中には、私達が現代においてさえハッとさせられる下りが数多く存在しています。

私達は時代も社会も思想も状況も全く異なる世界の住人が住む古典の中にさえ、変わらないものを見出せる力を持っていると思います。
むしろ、全く異なる舞台だからこそ「変わらないもの」が浮かんでくるのかもしれません。

私は本を読むようになったのが今年からと情けない状態なのですが、古典から「時代遅れ」という印象は全く受けませんでした。
自分がこれまで生きてきた中で少なからず掴もうとしつつある「人間として大切な事」に合致する一文が、古典の中に突然現れた時、私にとっては今を生きるための最前線の新しい思想であり、軸と言えるものだと感動する訳です。
これは「不変のものを確信する事」という、人間一人の中にある精神的な革命と言えるのではないでしょうか?

最近になって古典を割と読めるようになったのは、生きてきた中で気付いた「本質」のようなものが蓄積されてきたからだと思っています。
小さい頃は書かれている字面しかわかりませんでした。だから古典は難しいし、何かを得られた気分にはなれなかったのです。

名言や格言なども含めて、そういったものが自分の身に入って行く事で、作品が伝えんとする「文の奥」のようなものが見えるようになったのだと思います。
古典を読んだから本質に気付いたのか、本質に気付いたから古典を読めるようになったのか…
どちらが先という話ではないように思いますが…
私達は現に社会を走り抜けていて、色々と逡巡していきます。その中にはあまり本質的でない事につまづくのも多い訳で、そうした時に古典と接する事で「確認」できるのだと思います。

ですから、私にとって古典は「勇気」になり得るものです。生きる指標になるものです。
まだまだ未熟な中にあって「貫くべきもの」が、なんとなく見えるからなのだろうと考えています。

NO.22011-08-17 05:50:45 jin3307 0
大きくもなり小さくもなり、早くもなり遅くもなる心臓の音のようなものが古典であると思っています。

不変の価値を持ち、時代に沿って自在にチェンジできる柔軟性をもっている。

映画でいうとチャップリンや小津安二郎、書物でいうと方丈記などを連想します。

NO.12011-08-16 16:02:55 anywherebuthere 0
 古典。最近の夏休みに文庫本に対してフェアを行うことが通例となっている。以前はもっと古典といわれるような本が多くを占めていたと思う。でも最近は売れ線でかつ新しい作品が大半を占めるようになっている。だから古典は読まれにくい時代になってきていることも事実だと思います。


 古典とは、人類が言語をもち、記録する頃から始まっているのだろうとおもう。時代時代で思想や生活の変化政治体制のイデオロギーなど。古典のすごさは、その年代を超越し、しかも風雪や弾圧にも耐えていまだに「本」として生きていることだ。

 古典が良い継がれるのは名作だからだけではなく、その本があるものを持っているからだと考えている。

 それは、自ら考え記す。そして、それを読み継ぐという行為が永遠と続いている。人間とは何か、言い換えれば「人間の本質」を考え続け、まさに真理にせまることを突き詰めているものを古典と僕は考えていますが。

つたない文章でごめんなさいです。