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専門家の知見と素人の集合知は、どちらを重視すべきでしょうか?

もう数年前になりますが、Wikipediaのほうが、encyclopedia Britanicaよりも自然科学の分野については、より正確だったという研究が科学雑誌『Nature』に掲載されました。Googleのエリック・シュミットも「一人の天才の意見よりも、30人の凡人の意見を集めたほうが良い判断ができる」と言っていたことがあります。

原発の問題も、原発の専門家が行う判断に任せるよりも、多くの人が経験や直感から考える懸念などをもとに判断したほうが、より質の高い意思決定につながるという意見もある。

政府の政策決定も、これまでは専門家を集めた有識者委員会を作り、そこでの議論を意思決定の参考にしていました。でも、もっと直接的に国民の声を吸い上げたほうが質の高い政策が作れるのではないかという声もあります。

反対に、専門家でなければ分からないこともあるので、やはり彼らの意見を重視すべきだという意見もあります。

国民一人一人からの意見を吸い上げることが技術的に可能になっている時代において、専門家の知見と素人の集合知のどちらを重視すべきでしょうか。みなさんのご意見をお聞かせください。

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NO.92012-05-20 20:53:16 makin8s 0
専門家とは、主に従事している人のことですよね。情報化社会により、一般人でも専門家のデータベースにアクセスできるようになりましたが、そのデータベースを構築しているのが専門家です。原爆被害者の被曝線量と発がん率のデータを我々が知ることができるのは専門家が地道にデータを蓄積したからです。データの信憑性を一般人では精査することは難しいので、信じるか信じないかは個人差があると思います。

未来を見据えているとのことですが、化石燃料枯渇についてはいかがでしょう?未来の子供達のために少しでも残しておいた方が良いという考えは正しくないでしょうか?地球温暖化や大気汚染についても同じです。

原発を止めたら、原発技術者を福島に集結できるのでしょうか?原発技術者が集結すれば福島の事故処理は早くなるのでしょうか?私は専門家でないので分かりませんし、その決議権がない私にはネットで調べるモチベーションが湧きません。でももし事故処理が早まるなら是非実行して欲しいですね。

ファストライフについて。私は人間の身体が対応できるエネルギー密度を超えてしまっていると思うんですね、バッファローマンが悪魔パワーを制御できなかったように。20世紀の変化が大きすぎて、一部の人々の脳みそは無理なく対応できるほどの進化を遂げていないと思うのです。エネルギー密度を下げれば電力が不要になる、そんな発想です。原発はそういう意味で『文明災』だと思うのです。

エコ意識は日本人のプリンシプルに組み込まれましたが、スローライフはまだです。この社会で自分だけで進めるのは自殺行為になる恐れも、、。GDPを減らす行為ですから、政治的にも色んな問題が発生するでしょう。でもこれなしの原発停止は私には考えられません。

NO.82012-05-19 17:14:22 orcamie 0
専門家の知見と素人との集合知
どちらを重視するかというのは 対象となる事象によって違うのではないでしょうか。
インターネットの発達などのおかげで 専門家の幅が広がったこともあるのでは。

専門家というの人の定義はなんでしょう?
何ぞやということではなくて 具体的に日本ならばどんな人たちかということです。
30年位前までは 専門家は主に大学や企業の研究機関にいたのが
今ではNGOやNPOの発達により 上記に属さない専門家がいます。
そのような機関では 知り得た情報をオープンにしていることが多いですよね。
その為に、政府や政府系の研究機関等がオープンにして来なかった情報や 
公開していても素人が気がつかないかアクセスしにくかった情報も
知ることができるようになっています。


確かにプリンシプルは重要ですが、
グローバリゼーションとインターネットの発達に伴い 
プリンシプルを絶えず修正する必要があるように思います。
修正しながら走るといったような。
原発賛否のプリンシプルはファストライフだけではなく
未来がかかっていると考えています。
容認と反原発との間の問題は 
プリンシプルの軸を現在かごく近い将来に置くか
それとも未来においても健やかな日本に置くかという
時間においての視点に差にあります。
私は 原発再稼働に強く反対しています。
しかし反対しながら、電気が足りなかったらちょっと動かしちゃだめかな
という思いに捕われながら それでも反対を貫きたいです。
それは 現在の私の生活で少し我慢すれば それだけ未来の子どもたちの健やかな生活に繋がると信じているからです。
私の子どもの さらに子どもたちの暮らしがどうなるか
今の私たちの便利さよりも これからの子どもたちの未来を優先したいと願うからです。
以前テーマでありましたね。

米上院議員のWyden氏が福島原発を視察後 事故処理を迅速に行なう為に
国際的な支援を行なうべきだという意見を述べて
在米日本大使館に国際的な支援受け入れの要請を行なっています。
Wyden Discusses a Recent Onsite Tour of Fukushima でYoutubeで検索すると
実際の映像で確認できます。

現在原発は全て停止しています。
それでもその為に停電したというニュースは今のところありません。
真夏に足りるかどうかということだと思いますが。
それ位だったら、節電で乗り切れるのではないかと思えるのです。
全ての原発を止めて 原発技術者を福島に結集して事故収束に全力投球して欲しい。
これに関しては、専門家と行政が 最後に決定するのは間違いないです。
今までだと、行政が中央一局だったのが、関西の自治体が中央に異を唱えている。
行政の中でも 意見に多様性があるのは いいことだと思います。
今まで、中央政府の意のままに進むしかなかったのが
地方からもの申すことができるようになった。
日本の民主主義の成熟度は まだまだ。
ただし、素人や世論の後押しも大事な要素を構成しています。

また、茂木さんと飯田哲也さんの原発再稼働か否かの議論がありましたが
私が知りたかったことが、いろいろと明確になりました。
twitter上で議論してもらうというのは 素人にとっても
たいへん有意義な時間でありました。
違う話題に関しても、熱い議論を聞きたい?読みたいと思います。

twitter上では決議権は無いというご意見が ありましたが、
twitter上から署名活動につなげることができ
それによって 政府に働きかけることもできます。
全くない訳ではないと思うのですが、どうでしょう。

NO.72012-05-18 20:21:51 masami 0
専門家の知見と、素人の集合知と、どちらを重視するかは、どのような問題についてかによって違うと思います。

それでも、さまざまな意見を吸い上げることが可能になっていることから生じたのならば、教育など、ある一定のレベルの知識があれば、素人でも、十分に論議対応可能な問題、という前提で考えてみました。

そういう問題については、chigusaotsukiさんの
「平等であるからこそ、ひとりひとりが尊重されて、ひとりひとりを大切にしながら、一緒に考えていくことができると思うのです。」

のように、一人一人が真剣に考えて、議論できる場があって欲しいな、と思います。

以前、直感で解く問題を個人で解いた後、さらにグループで討論する、というワークショップをしました。その結果、社会的に、責任ある仕事をこなして来た熟年者が集まったグループよりも、子供から高齢者までいる、年齢がバラバラなグループのほうが、グループで討論して、より良い結果を導けた、という体験をしたことがあります。

多分、素人でも討論できるような社会的な問題の場合、社会を構成する人たちをすべて代表するような、さまざまな体験持った人たちの集まり、集合知の方が、社会学を研究した専門家だけの知識よりも、より現実に適応的な結論が導けるように思います。

NO.62012-05-12 22:20:15 makin8s 0
Yamanorisuさんの考えに賛同。大事なのはプリンシプルについての議論を経ているかどうか。原発・イラク戦争・金融危機、重要な政策ほどプリンシプルの議論が希薄に感じます。

原発賛否のプリンシプルはファストライフをやめられるか、否かだと思います。一生のエネルギー密度を半減させる覚悟を含んでいなければ、反原発派の意見に説得力を感じません。原発の代わりにメガソーラー、なんてピンボケだと思います。

原発容認派はスローライフに歩みよる気配もない。お互い相手を説得する気がないから、不毛な平行線です。

僕は再稼働には賛成ですけど、卒原発にも賛成です。そしてシェールガスへの移行とかではなしに、スローライフへの移行を目指すものです。現代人のエネルギー密度は異常、自分自身もそれを楽しむというよりは疲れてしまっています。毎年3万人の自殺者や、5000人の自動車事故死者がいる国は幸せでしょうか?

みんなブータンに惹かれる気持ちはあるのに、道筋が見えていない。それはプリンシプルとして共有されていないからでしょう。欧州の良い点は太陽発電設備などではなく、スローライフへの移行が意思統一されている。

以前、茂木さんがイギリス議会を褒めていたように思うのですが、やはり議論の質が良いのでしょうか?もしそうなら日本との違いは何でしょう?人間性にしろ、システムにしろ、良い点は真似たいですね。

議論を経てプリンシプルを共有していれば、政策を専門家が決めるか、集合知で決めるかは重要ではなくなると思います。

NO.52012-05-11 13:24:51 yamanorisu 0
大阪市議会がたたき台として提出したという家庭教育支援条例(案)について、職業柄、いろいろな人の意見に出会いました。
関係団体の要望書などを基に、結局白紙撤回という「判断」を議会が下したことに、また、いろいろな人の反応がありました。

自分がアクセスできる範囲で、そのいろいろを読んだり聞いたりしながら、何かがヘンと感じました。何がヘンなのかなぁ…と考えていたら、今回の茂木さんのお題「専門家の知見と素人の集合知は、どちらを重視すべきでしょうか?」が、天から降りてきました。

今朝の茂木さんのツイートに、「twitterが、対論の場に変化してきている・・・」とありました。

ヘンと感じた理由がいくつか見えてきました。

まず、議論が無いということ。
それぞれが、「ねぇ!そうだよねぇ!●●さんの言う通りだよねぇ。△△さんの言ってることはおかしいよねぇ」という小さな子どもの集団のような話をしている。
かと思うと、ただひたすら、こっちが正しい、あっちはヘンと言い張って、けんか腰。
意見を交わし、より良いもの、よりよい方向性を導きだそうという気概がかんじられない。。。
さらに言うと、いったい誰のために考え行動しているのかが、わからなくなっている。。。「愛」が無いのです。

「素人の集合知」が「知」であり得るのは、その集合体が多様であることが必要だと感じました。
その意味で、大阪の関係団体が共同で出した要望書は、とてもシンプルで知的だったと感じています。

・・・以下、要望書写し・・・

大阪維新の会大阪市会議員団 御中

要望書

貴議員団が大阪市会に提出を予定されています「家庭教育支援条例(案)」は、「親の愛情不足が発達障害の要因である」「子育ての在り方で発達障害は防止しうる」など発達障害について間違った記述があります。発達障害は、発達障害者支援法第2条において、「この法律において『発達障害』とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう」と記述されているように、先天的脳機能障害です。先の条例案の記述は学術的根拠がなく、発達障害についての偏見を増幅するもので、私たちは看過できません。下記、2 点を強く要望します。

【要望項目】

1.「家庭教育支援条例(案)」は、学術的根拠のない論理に基づいているので、その提出を中止してください。

2. 発達障害のある人々とその家族への支援の在り方について、当事者団体、専門家を含めた勉強会を開催してください。

平成24 年5 月7 日

「家庭教育支援条例(案)」を考えるネットワーク(順不同)
大阪ADHDを考える会 のびのびキッズ
大阪LD親の会 おたふく会
大阪LD・軽度発達障害親の会 翼
大阪自閉症協会
大阪自閉症支援センターを発展させる会 オアシス
ジョブサイトよど&ジョブジョイントおおさか家族会
NPO法人 はなしのぶ
親の会BochixBochi~発達障害児・者の親をサポートする会~
自閉症の人のバリアフリーを考える親の会 はぐくみ
高槻市障害児者団体連絡協議会
知的障害者育成会 高槻手をつなぐ親の会
東大阪市自閉症児と家族の会 ファミーユ
ポレポレネットワーク

・・・以上引用おわり・・・

これまでの多くの要望書が、それぞれの団体からそれぞれに出ていました。その内容には、どうしても、当事者では無い誰かの権益を守ろうとする意図が感じられ、「知」的であると感じられませんでした。

今回、大阪市議会が白紙撤回を決めた背景には、関係団体からの要望書だけではなく、専門家の意見も参考にされていると思います。(茂木さんや、乙武さんも、ツイートされていましたね。)
あのシンプルな要望書だけで、議会が一度だしたものを白紙撤回する判断をする(していい)とは、思えないからです。
集めた情報は、おそらく、日本の専門家だけではないはずです。
真に科学的、専門的な情報は、物事を判断するときに、とても重要なものだと思います。

その上で、「判断」をするのは、集合体のリーダーです。
「判断」には、集合知、専門家の知見、とはまた違った様々なファクターが入ってくると思います。
そこには、もしかしたら、その集合体のリーダーの都合も入ってくるかもしれません。
でも、そこには、専門家の知見も含むその集合体の「知」が結集されているはずです。
そして、その集合体の進むべき方向が決まる。。。

そこ(議論と判断)にあってほしい。。。あるべきなのは、プリンシプル?!愛?!だと思います。

合意形成には、100%みんなが賛成するということはないけれど、みんなが納得することはできる。
そこに行き着けるのは、自立して民主的な個人の集まったプリンシプルのある集合体だと思います。

言葉が足りず、箇条書きのような文章になってしまいましたが。
狭いところであーでもないこーでもない言っている人の多さと、井の中の蛙的に世の中を知らない人が多いことに、ちょっと驚いて、twitterで、みんなで議論しようよ!とここを紹介してしまったので(^^;とりあえず、ここまでで一度投稿させていただきます。

追伸
私は、「家庭教育支援」特に、子育て中の親への支援は、とても大切なことだと思っています。
だから、できれば、もう一度、それこそ、要望書にあるように、みんなで一緒に勉強しながら、もう一度、「家庭教育支援」について考え、具体化する方向に動いてほしい。。。

こんなことを言うと、とても不謹慎だと言われるかと思いますが、今回の条例(案)の一件で、「発達障害が親の育て方のせいでなるものではない」ということが、今までよりも広い人たちに知ってもらえる機会になったのではないかと思っています。議員さんたちだけではなく、世の中には、発達障害は親のせいと思っている人はまだまだたくさんいます。

「親のせい」と言われるのは、発達障害の子ども達への躾や教育が、一般的な常識にのっとって行ってもうまくいかず、子ども達の行動、様態が、社会的にみてよろしくない、と思われるような方向にいってしまいがちだからでしょう。
でも、彼らの脳の機能の仕方にあわせて教えていければ、「親のせい」であんな子になった、と言われなくなるはずです。(脳の機能障害はあっても、社会のなかで、うまく生きていけるようになる。という意味で。)

子どもを育てるとか、障害のある子どもを育てることが、初めての人は、ほとんどの場合、「素人」ですから。うまくいかなくて当たり前だと思います。
適切な「子育て支援」があってしかるべきではないかな。。。と、自分が初めての子どもを育てながら、そして、発達障害の人への支援をしながら、いつも思っています。

NO.42012-05-09 09:17:04 chigusaotsuki 0
私は、素人なのですが、専門家の知見というのは、大変、参考になります。意見というのは、その人の経験から、得られるものであり、さまざまな経験が合わされば、その中から、良い判断ができあがるのでは、ないでしょうか。私も、偉そうなことは言えないのですが、一人の意見は、やっぱり、ひとりよがりだと、思います。同じ世界に生きている以上、その世界を共有している、ひとりひとりの意見は、どれも平等であり、同じ重さの価値を持つものであると、思います。そのなかで、私たちは、共感しているのであって、どれが重要、とか、多数決で決めるのは、ちょっと、乱暴とさえ、感じます。平等であるからこそ、ひとりひとりが尊重されて、ひとりひとりを大切にしながら、一緒に考えていくことができると思うのです。

NO.32012-05-08 23:44:37 terurun 0
昔、ある先生が、こういうことを言いました。

医者は、ガンと言う知識は、あるが、

ガンの痛み、辛さは、分からない。と。

専門家は、とても詳しくいろいろなことを知っている。

しかし、それは、経験ではないので、実感することはない。

ガン患者の方々は、医者よりは知識はないけれど、ガンの痛みや辛さは、

医者よりも分かっている。それも情報としては、大切なこと。

どちらを重要視するというよりも、

どちらも大事としか、私は、思えない。

逆にどちらか片方と言う方が、バランスが悪い気がします。

知識もあって、経験、実感もある。これが最高条件かとは思いますが、

それは、とても難しいのだから。

知識のある人と、経験、体験のある人が、一緒に物事を考えて行くことが

大事だと考える。

二人三脚だと思います。


NO.22012-05-08 18:26:03 trasque 0
「どちらを重視すべきか」という問いに対して、こちらという答えにならずに恐縮ですが……

集合知とは「証明・検証をする場」ではないかと思います。
専門家は一体何が本質なのかということを常に求めている人ではないかと思います。

出家したお坊さんと、在家の信者のような関係でしょうか。
教えの研さんや例えば古文書・遺跡の解明など専門的に進めていく人がお坊さんだとして、そういったことは専任でなければなかなか難しいですが「実際生活」の仕事とはまた異なります。ですから在家の信者からお金を頂いたりして生活を成り立たせ、本来の業務に専念する訳です。
一方在家の信者は社会を回すための仕事があり生活があり、お坊さんの教えを実践はできてもなかなか研究はできない。だからお坊さんの話を有難く聞いて、実社会で活かそうとする。
どちらが欠けても、彼らにとって大事な「教え」は途絶えてしまうし、実社会に現れない訳です。

工場で品質管理によって設計された作業工程と、実際に携わる工員の判断のような関係でしょうか。
必要な手順書を作成し、定められた品質をクリアする為の内容を計算したりして工程を作る訳ですが、それには専門的な知識が要ります。しかし、実際に作業をしてもらうにはまた別な技能が必要だったり、品質の研究に専念しなければいけない人がいたりして、同じ人がやる訳にはいきません。
工場で実際に作業してみると、なんだか効率が悪いとなったり、思ったよりも危ない作業だったりという事がいくらでも起きてきます。作業員の技量が上がってきて、能率を上げようと仕事の密度をどんどん上げてしまうこともあるかもしれません。
そういう時に、管理するほうが法規制などから改めて指示をしたり、手順書を見直したりする事もあります。

どちらの立場にせよ、お互いに見えない部分があり、見えてくる部分があります。結局はどちらが欠けてもならない<役割>ではないかと思う訳です。

「一人一人の意見を吸い上げられやすくなった」のであれば、それこそその吸い上げた「集合知を専門家にぶつける」チャンスが増えたと考えられるのではないでしょうか。

お坊さんの例でもそうなのですが、これまでともすれば「専門家」に対してなんとなく権威を(集合知の側が)感じていたのではないかと思います。たとえその専門知識(本質)が正しかったとしても、それを証明する場がなければ、また活用する場がなければ、あまり意味がありません。
集合知になりえる大多数が「実質的に」実践し結果を残す。だからこそ本質を求めようとする人達の行動が報われる。それによって有効活用できるようになる何かが増える。そういう相互作用が基本にあるものだと、お互いに理解しあう考え方が大事ではないかと私は思います。

お坊さんも在家信者も、裸になれば同じ人間で、普通なら対等です。
なんだか感じる権威を、本当に勘違いして偉くなっちゃったお坊さんという例も過去にたくさんあったと思います。また、信者側も「あの人は偉いのだ」となぜか思っちゃって色んなことをどっかに丸投げしてしまったという礼も過去にたくさんあったと思います。

どこかで(私を含む)庶民が「専門家は偉い」のだから、彼等のせいだ、自分達は悪くない、といったような状態になってはいないだろうかと思う事があります。理想はなかなか難しいですが、集合知となりうる私たちは結局、日々「証明」していかねばならないのではと思う訳です。

しかしそうは言っても悠長に言ってられない場面というのはいくらでもあります。ですから私は、その時々状況に応じた「指導者」は必要だと思っています。集合知が証明した(と思われる)事を、専門家にぶつけて新たな反応を探るという時に、まずは進めて見なければどうしようもならない場面は必ずあります。
集合知全体を勝手気ままにしておけば、何がどうあろうと、常に賛成反対が入り混じる事となります。
なので「今とりあえず決まったことは決まったこと」として、全体でまずは強力しようという流れを作り出す役割を持つ「指導者」がいなければならないと思うわけです。

それはちょっとした事業かもしれないし、国全体にかかわる規模かもしれないし、一人だけじゃないかもしれません。指導者というと大仰なので、補足として……

NO.12012-05-08 00:21:11 makin8s 0
社会には「絶対に正しい」ことはないと考えています。どんなに正しそうなことでも、見方や環境によっては正しくないかも知れません。

ですので、専門家が正しい結論を出せるとは考えられません。集合知が正しいとも限りませんが、多数派に受け入れられ易いという利点があります。分からなくても私達は進むべき道を決めなくてはなりませんので、政治判断には集合知が向いていると思います。

例えば、私は原発再稼働に賛成です。資源枯渇・地球温暖化・電気代においてメリットを感じています。原発を停止しても事故リスクは低下しないと思いますし、事業の急激な縮小は技術者育成を阻害するので、廃炉や廃棄物処理で問題を抱える恐れもあると思います。また、数マイクロシーベルト/時の低線量被爆で健康を損なうとも考えておりません。しかし、今挙げた判断が絶対に正しいとも考えていません。ですから、再稼働賛成派が少数派のうちは、無理に再稼働しても政治的に上手くいかないと思っています。

専門家の利点もあります。例えば、野球やゴルフでスイングに悩むことがありますが、30人の素人にあれこれ言われても、おそらくスランプを脱出できません。この人こそは!と信じられる一人にアドバイスを求める方が良い結果が出ることが多いと思います。また、集合知は裁判員制度のように国民負担が大きくなることは明らかなので、自分にとってどうでも良いことは専門家が適切に決めてくれたら楽だなあと思います。

ネットで自主参加による国会を開き、集合知を政策に反映させるプラットフォームがあるといいですね。今のネットは議論は深まれども、肝心の決議権がありませんから。

一方、科学技術は集合知では進歩しないでしょう。クオリアの解明、期待しています!