日本の教育はどうあるべきか?
教育についてはこの掲示板でも、第二回「日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか」、第五回「「英語」について考えてみよう」、第六回「学びの場はどうあるべきか」などで議論されていましたが、メルマガ購読者も増えてきていますし、書き足りなかったという人もいると思いますので、あらためて考えていただきたいと思います。
グローバリズムのなか、日本の教育は危機を迎えています。英語教育はどうすべきか? 大学のあり方は?大学入試はどのようなものであるべきなのか? 文部科学省の役割は? 子どもたちが、今身につけるべき能力とは何か?個性を育む教育とは? 教科書検定は、必要なのか?
みなさんの日本の教育についてのヴィジョンを教えてください。
NO.202011-07-31 19:13:42 orcamie 0
NO.19 chigusaotsuki さん
Thank you for your support.
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NO.192011-07-31 18:29:43 chigusaotsuki 0
NO.16 NO.17 NO.18 orcamie さん
大丈夫、大丈夫よー。
orcamie さん。
orcamie さんのご意見、とっても、勉強になるわ。
うれしー。
何も、ご心配なさらないでね。
大丈夫、大丈夫よー。
orcamie さん。
orcamie さんのご意見、とっても、勉強になるわ。
うれしー。
何も、ご心配なさらないでね。
NO.182011-07-31 16:03:44 orcamie 0
No.16 orcamieでの自分の発言ですが 私は決して子どもの排他的傾向を肯定している訳ではないということを一言付け加えておきます。少々誤解を招く書き方だったかもしれないと反省をこめて。
教科書の検定についてです:教科書検定は必要ないと思いますが 即座に完全撤廃は無理であろうと予測されます。教科書を個人に配布するのではなく。学校に支給する形にしたらどうかと思います。そうすると1年でお役御免ではなくて数年使用可能です。特に国語の場合:例えば小学6年生が読んだらいいと思う本そのものをひとクラスの人数分くらい支給できればと思います。各クラスで違う本を読むとそれまたおもしろいかなと。そうすると子どもだけではなくて先生も本を読まなくちゃ行けなくて本を読むことで先生も勉強になるんじゃないかと思うのです。そうするとテストはどうなるかという問題につきあたり。テストなしって訳にはいかないんだろうなあとため息です。なぜ小学生かというと中学生だと高校受験があって簡単には行きそうにないからなんです。
NO.14のyamadaswitchさんと、NO.15の masami さんの出口に注目してというの興味深く読みました。現在の公的教育機関に変化をもたらすのは並大抵のことではないでしょう。外から働きかけて行くしか方法はないのではないかと思います。日本の企業が新卒一括採用を止めたら教育が変わるという見方多いに賛成です。NO.2のmotakeenさんの東大の9月入学が実現したらそれを後押しするかもしれないと考えられませんか?おそらく他の大学もいくつか従うでしょうから 企業は早く優秀な人材を獲得したいという思いからまずは4月一斉入社ということが崩れて行くのではないでしょうか。
No17orcamieでも触れましたが日本人の多くを海外の企業に就職させるサポート教育機関のようなものができればいいなとふと考えています。海外の企業に就職することによって新しい文化の中で生活して そこから日本の企業にもどって来て新しい風を吹かせて欲しい。海外の大学に留学することをサポートするのでもいいかな。日本の大学を経由しなくても高校生からでも。
日本の大学より就職率がよければ 日本の大学も学生獲得のために変わるかもしれない。等と少々乱暴な意見かもしれません。
教科書の検定についてです:教科書検定は必要ないと思いますが 即座に完全撤廃は無理であろうと予測されます。教科書を個人に配布するのではなく。学校に支給する形にしたらどうかと思います。そうすると1年でお役御免ではなくて数年使用可能です。特に国語の場合:例えば小学6年生が読んだらいいと思う本そのものをひとクラスの人数分くらい支給できればと思います。各クラスで違う本を読むとそれまたおもしろいかなと。そうすると子どもだけではなくて先生も本を読まなくちゃ行けなくて本を読むことで先生も勉強になるんじゃないかと思うのです。そうするとテストはどうなるかという問題につきあたり。テストなしって訳にはいかないんだろうなあとため息です。なぜ小学生かというと中学生だと高校受験があって簡単には行きそうにないからなんです。
NO.14のyamadaswitchさんと、NO.15の masami さんの出口に注目してというの興味深く読みました。現在の公的教育機関に変化をもたらすのは並大抵のことではないでしょう。外から働きかけて行くしか方法はないのではないかと思います。日本の企業が新卒一括採用を止めたら教育が変わるという見方多いに賛成です。NO.2のmotakeenさんの東大の9月入学が実現したらそれを後押しするかもしれないと考えられませんか?おそらく他の大学もいくつか従うでしょうから 企業は早く優秀な人材を獲得したいという思いからまずは4月一斉入社ということが崩れて行くのではないでしょうか。
No17orcamieでも触れましたが日本人の多くを海外の企業に就職させるサポート教育機関のようなものができればいいなとふと考えています。海外の企業に就職することによって新しい文化の中で生活して そこから日本の企業にもどって来て新しい風を吹かせて欲しい。海外の大学に留学することをサポートするのでもいいかな。日本の大学を経由しなくても高校生からでも。
日本の大学より就職率がよければ 日本の大学も学生獲得のために変わるかもしれない。等と少々乱暴な意見かもしれません。
NO.172011-07-30 14:06:26 orcamie 0
続けての投稿です。最近facebookを始めたら 連絡先を無くしたアメリカの友人と連絡を取ることができました。彼らは教師なのですが facebookで中国旅行の写真があって。勤務する学校へ勧誘する学生のリクルートのために中国へいったようです。彼らの勤務する学校はアメリカの小さな町の私立の高校で たぶん大学もあったかな。それはちょっと確認してません。それでも学生が足りなければ中国へ出向くというその行動力に目を見張ります。日本の同じような例えば私の住むこの地方都市の私立の高校が生徒募集のために 中国まで出かける学校が果たしていくつあるかと考えました。自己の存続のためにあらゆる手だてを講ずる。そのたくましさがまぶしくてうらやましく感じました。
NO.162011-07-30 13:54:28 orcamie 0
とにかく学びの現場に喜びが必要でしょう。先生にも生徒にも。学ぶことに喜びが伴えばこれほど強い味方はないと思います。そして新しい考え方をどんどん取り入れられるような開かれた場であることが大事かと思われます。
たとえば、英語に関しても日本語の方が重要だから小学校から英語なんて不必要だという考えがあるけれども 今まで小学校では英語をやって来なかったのであって、ずーっと国語は教えられて来たにもかかわらず 今のこどもたちから若い世代の日本語力が低下しているのであれば、今までのやり方が機能していないということを教育の現場の専門家は謙虚に認めるべきだと思います。英語を学ぶことで国語の力を伸ばすことも可能です。日本語だけ読むのが苦痛であっても英語を学びたいがために日本語を読むことになり気がついてたら国語力が向上するという側面もあります。英語を利用して国語力を高めようというような考えがあってもいいと思うのです。なぜかしらないけれど相変わらず英語を習うということは多くの日本人にとってとても魅力的なことだからです。
それからこどもたちの生活の変化を考えるべきだと思います。10年前と比較して 地方では小学校から塾に行っていない子の方が多かった。ところが今は多くの子どもが週に2度以上塾や習い事に行っている。
今では学校が終わったら自然発生的に子どもが集まって遊ぶという環境は既に都市部では難しい状況になって来ている。こどもたちを取り巻く環境が激変している。まず核家族の世帯+単独世帯が全世帯数の8割位を占めている現状を考えるべきでしょう。子どもが0才から保育園に行く子は小さい頃から社会的な人間関係を肌で学びますが、幼稚園から社会デビューとなる子はそれまで核家族から幼稚園に行く場合の個人的な衝撃というのは 以前とは比べ物にならないくらい大きくなります。その衝撃が時として排他的傾向へと結びついてしまうことがあります。
つまり公園で遊ぶことや自然発生的な集団の中での遊びが少ない分いつも決められたグループ内でしか遊ばない子どもが増えたことで、排他的となってしまうのは当然の結果と考えられます。その為不親切とはわかっても例えば福島県からの転校生が来たら仲間はずれにするというのは 今のこどもたちにとってはそれほど特別なことではないのです。
そんな排他的的なこどもたちの現状をどう変えて行くかというと指摘のあった自尊教育もひとつの解決策かなと。自尊と同時に 意見が違う人へも尊敬の念が持てることを育んで行くことが大切でしょう。 異なった意見に賛成できなくても理解することで知識が増えて新しい考え方を手に入れることができる。仲間になれなくても理解をする努力の必要性を子どもが知る事は重要なことです。
私がアメリカの高校での経験ですが、交換留学生として行ったので ある時校長先生につれられて隣の小さな町の高校へ国際交流で出かけて行きました。参加したのはブラジル・サウジアラビア・日本の3名でした。この時フィリピンからの学生は参加を拒絶しました。私はその時断ることもできるんだと知って驚きました。出かけた先の高校での1年生との交流会では それぞれの国についていろいろな質問がありましたが実はかなり失礼な質問がありました。私に対しての質問の内容は忘れてしまいましたが、ブラジルの学生には“ジャングルに住んでいますか?”という質問でした。わたしは怒るよりアメリカの高校生の外国に対する知識の低さに驚きました。その後その高校の校長先生の部屋で翌日 さようならを言いに行ったら 昨日の失礼な質問をした学生が謝罪の手紙を書いて待っていました。彼らは失礼なことをした自らを深く恥じていますのような事を書いて心から謝罪します。。。云々という手紙を読んでくれました。できたらその手紙をいただいてくると良かったと今思います。その後担任の先生がきっと上手に利用されたんだろうなと思います。(^^;
また、NO.12の thnkks0304 さんが指摘していたように、教科書は最低限の知識のラインとしてさらに上乗せするのに本を読むということを是非学校で実践して欲しいと思います。
それからNO.14 yamadaswitchさんの大学に行かずに自分で学んだ子の方が賢いという指摘勇気づけられますね。是非そういう若い方が外国に出て行って外国の企業にチャレンジしていただきたいと思います。日本の政府やお役所というのは決まったことに対しては機能していたのでしょうが ブラックスワン、想定外のことには現在のところ対応する能力がないのだと思うしかない状態です。でもそういうことを知る事ができて 世の中に知れつつあるのは良いことだと考えたいです。知って行動する人間が増えると日本は良くなるだろうと思います。
たとえば、英語に関しても日本語の方が重要だから小学校から英語なんて不必要だという考えがあるけれども 今まで小学校では英語をやって来なかったのであって、ずーっと国語は教えられて来たにもかかわらず 今のこどもたちから若い世代の日本語力が低下しているのであれば、今までのやり方が機能していないということを教育の現場の専門家は謙虚に認めるべきだと思います。英語を学ぶことで国語の力を伸ばすことも可能です。日本語だけ読むのが苦痛であっても英語を学びたいがために日本語を読むことになり気がついてたら国語力が向上するという側面もあります。英語を利用して国語力を高めようというような考えがあってもいいと思うのです。なぜかしらないけれど相変わらず英語を習うということは多くの日本人にとってとても魅力的なことだからです。
それからこどもたちの生活の変化を考えるべきだと思います。10年前と比較して 地方では小学校から塾に行っていない子の方が多かった。ところが今は多くの子どもが週に2度以上塾や習い事に行っている。
今では学校が終わったら自然発生的に子どもが集まって遊ぶという環境は既に都市部では難しい状況になって来ている。こどもたちを取り巻く環境が激変している。まず核家族の世帯+単独世帯が全世帯数の8割位を占めている現状を考えるべきでしょう。子どもが0才から保育園に行く子は小さい頃から社会的な人間関係を肌で学びますが、幼稚園から社会デビューとなる子はそれまで核家族から幼稚園に行く場合の個人的な衝撃というのは 以前とは比べ物にならないくらい大きくなります。その衝撃が時として排他的傾向へと結びついてしまうことがあります。
つまり公園で遊ぶことや自然発生的な集団の中での遊びが少ない分いつも決められたグループ内でしか遊ばない子どもが増えたことで、排他的となってしまうのは当然の結果と考えられます。その為不親切とはわかっても例えば福島県からの転校生が来たら仲間はずれにするというのは 今のこどもたちにとってはそれほど特別なことではないのです。
そんな排他的的なこどもたちの現状をどう変えて行くかというと指摘のあった自尊教育もひとつの解決策かなと。自尊と同時に 意見が違う人へも尊敬の念が持てることを育んで行くことが大切でしょう。 異なった意見に賛成できなくても理解することで知識が増えて新しい考え方を手に入れることができる。仲間になれなくても理解をする努力の必要性を子どもが知る事は重要なことです。
私がアメリカの高校での経験ですが、交換留学生として行ったので ある時校長先生につれられて隣の小さな町の高校へ国際交流で出かけて行きました。参加したのはブラジル・サウジアラビア・日本の3名でした。この時フィリピンからの学生は参加を拒絶しました。私はその時断ることもできるんだと知って驚きました。出かけた先の高校での1年生との交流会では それぞれの国についていろいろな質問がありましたが実はかなり失礼な質問がありました。私に対しての質問の内容は忘れてしまいましたが、ブラジルの学生には“ジャングルに住んでいますか?”という質問でした。わたしは怒るよりアメリカの高校生の外国に対する知識の低さに驚きました。その後その高校の校長先生の部屋で翌日 さようならを言いに行ったら 昨日の失礼な質問をした学生が謝罪の手紙を書いて待っていました。彼らは失礼なことをした自らを深く恥じていますのような事を書いて心から謝罪します。。。云々という手紙を読んでくれました。できたらその手紙をいただいてくると良かったと今思います。その後担任の先生がきっと上手に利用されたんだろうなと思います。(^^;
また、NO.12の thnkks0304 さんが指摘していたように、教科書は最低限の知識のラインとしてさらに上乗せするのに本を読むということを是非学校で実践して欲しいと思います。
それからNO.14 yamadaswitchさんの大学に行かずに自分で学んだ子の方が賢いという指摘勇気づけられますね。是非そういう若い方が外国に出て行って外国の企業にチャレンジしていただきたいと思います。日本の政府やお役所というのは決まったことに対しては機能していたのでしょうが ブラックスワン、想定外のことには現在のところ対応する能力がないのだと思うしかない状態です。でもそういうことを知る事ができて 世の中に知れつつあるのは良いことだと考えたいです。知って行動する人間が増えると日本は良くなるだろうと思います。
NO.152011-07-30 08:10:11 masami 0
NO.14 yamadaswitch さんの出口の部分に注目して教育を考える視点、とても興味深く思いました。
「昔も今も、先が読めないのは同じだろうけれど、昔の若者は今の若者よりも、なんとかなるんじゃない、と、思ってた人が多かったような気がする」
と何気なく20代前半の人に言ったところ、こんな答えが返ってきました。
「とりあえず考えられる範囲で、と思って就職活動していても、就活セミナーなどで、10年先、20年先のことを言われて、どんどん不安になっていく」
まさに、yamadaswitch さんが考えられるように、本来楽観的で自由を求めるはずの若者から自由さを奪っているのは、新卒一括採用と、その制度を取り巻く組織、それを当たり前として受け入れている許容範囲の狭い社会なのかもしれない、と思いました。
教育の問題を考えるとき、今まさに教育を受けている人たちの言葉に耳を傾けることも、とても大切だと感じます。
「昔も今も、先が読めないのは同じだろうけれど、昔の若者は今の若者よりも、なんとかなるんじゃない、と、思ってた人が多かったような気がする」
と何気なく20代前半の人に言ったところ、こんな答えが返ってきました。
「とりあえず考えられる範囲で、と思って就職活動していても、就活セミナーなどで、10年先、20年先のことを言われて、どんどん不安になっていく」
まさに、yamadaswitch さんが考えられるように、本来楽観的で自由を求めるはずの若者から自由さを奪っているのは、新卒一括採用と、その制度を取り巻く組織、それを当たり前として受け入れている許容範囲の狭い社会なのかもしれない、と思いました。
教育の問題を考えるとき、今まさに教育を受けている人たちの言葉に耳を傾けることも、とても大切だと感じます。
NO.142011-07-30 03:00:21 yamadaswitch 0
教育のことは、あまりにも複雑に問題がからまっているように思えて
うまく言えないのですが。教育の成果を
入り口や途中ではなくて、出口の「おしり」の部分に注目すると、
茂木さんが常々おっしゃる「企業が新卒一括採用をやめる」ことが
一番良い方法だと思うのです。
最近「この子、頭がいいな」と思う若者が皆、おしなべて高卒であることに
興味を持って、高校卒業後をどのように過ごしていたかを
聞いてみると、彼らは高校卒業後すぐには就職をせず、
アルバイトをしてピースボートに乗り、世界を一周めぐり、
帰ってから農家で農作業のお手伝いをして、
そこから本を読んだりウェブで知りたい情報を集めて
慎ましく暮らしているのですが。
その20代の子たちがやたらめったら頭がいいのは、
大学に通う往復の通学時間を無駄にせず、それでいて
文学でも宗教でも理学でも、本を「面白がって」読み、
更に知りたい場合はウェブでとことん検索する姿勢から
その賢さが培われているのではないか? と思うのです。
彼らにとって「知」は、必要があって取りに行くものであって
押しつけられて受け取るものではないというところが
知の習得の面で大学生と大きく差をつけていると思うのです。
教える先生や教授を選べるのもウェブのよいところです。
TED ideas worth spreading というサイトを見ると、選りすぐりの頭脳の持ち主が
10分で自分の研究成果をプレゼンしており、それを
自分の習得したいどの言語でも見ることができます。
http://www.ted.com/
彼らは自分の頭で考えて、自分の感性で感じて言葉にするので、
プレゼン能力も相当なものです。
そして農作業で培った行動力もあるので、
臆することなく自分の感性に沿った仕事を開発します。
(ウェブや地方で起業する子が多いです。)
なので、日本は義務教育が中学までであることを思い出して、
新卒の一括採用をやめさえすれば有能な社員を手に入れることもできるし、
教育を受ける側としては、
大学には中学→高校→大学というルートをとらなくても、
高校→就職→大学 や、中学→世界放浪→大検→大学のように、
40歳を過ぎてから入学するぐらいの知に対する希求力を持っていた方が
効率よく脳を鍛えられる気がするのです。
社会を構成する(就職を受け入れる)我々の許容範囲の広さが、
教育の自由を拡げていくだろうと、思っています。
うまく言えないのですが。教育の成果を
入り口や途中ではなくて、出口の「おしり」の部分に注目すると、
茂木さんが常々おっしゃる「企業が新卒一括採用をやめる」ことが
一番良い方法だと思うのです。
最近「この子、頭がいいな」と思う若者が皆、おしなべて高卒であることに
興味を持って、高校卒業後をどのように過ごしていたかを
聞いてみると、彼らは高校卒業後すぐには就職をせず、
アルバイトをしてピースボートに乗り、世界を一周めぐり、
帰ってから農家で農作業のお手伝いをして、
そこから本を読んだりウェブで知りたい情報を集めて
慎ましく暮らしているのですが。
その20代の子たちがやたらめったら頭がいいのは、
大学に通う往復の通学時間を無駄にせず、それでいて
文学でも宗教でも理学でも、本を「面白がって」読み、
更に知りたい場合はウェブでとことん検索する姿勢から
その賢さが培われているのではないか? と思うのです。
彼らにとって「知」は、必要があって取りに行くものであって
押しつけられて受け取るものではないというところが
知の習得の面で大学生と大きく差をつけていると思うのです。
教える先生や教授を選べるのもウェブのよいところです。
TED ideas worth spreading というサイトを見ると、選りすぐりの頭脳の持ち主が
10分で自分の研究成果をプレゼンしており、それを
自分の習得したいどの言語でも見ることができます。
http://www.ted.com/
彼らは自分の頭で考えて、自分の感性で感じて言葉にするので、
プレゼン能力も相当なものです。
そして農作業で培った行動力もあるので、
臆することなく自分の感性に沿った仕事を開発します。
(ウェブや地方で起業する子が多いです。)
なので、日本は義務教育が中学までであることを思い出して、
新卒の一括採用をやめさえすれば有能な社員を手に入れることもできるし、
教育を受ける側としては、
大学には中学→高校→大学というルートをとらなくても、
高校→就職→大学 や、中学→世界放浪→大検→大学のように、
40歳を過ぎてから入学するぐらいの知に対する希求力を持っていた方が
効率よく脳を鍛えられる気がするのです。
社会を構成する(就職を受け入れる)我々の許容範囲の広さが、
教育の自由を拡げていくだろうと、思っています。
NO.132011-07-27 18:21:19 masami 0
日本の教育を語る時、それを現場で実践する教員の養成方法にも目を向けて欲しいと思います。
どんな教育内容、教育方針も、教師から子どもたちに伝えられます。
今の学校制度のままであるならば、人生において、学校生活の時ほど、家族以外で、同じ人と人が密接にかかわりあう時は、他にないと思います。
その中心に位置する教師の役割は、とても重要だと思います。
修士卒ではないと、教師になれない国もあるとか。
情報量が増えて、多様化している現在、それらを理解し、伝える教師の養成方法も、それに応じて変えていく必要があるように思います。
NO.12 thnkks0304 さんの投稿を読みながら、先生の存在って、重要なんだな、と改めて思い、ちょっとテーマとはずれているかな、と思いましたが書いてみました。
もう一つ、アメリカでは、自尊感情を育てる授業が必ずある、という話を聞いたことがあります。
ご存知の方いらっしゃいますか?
これは特別な学校なのかどうか、私にはわかりません。
日本の子どもの自尊感情がとても低いというデータをみたこともあります。
日本の風土に、そういう下地があるのでしょうか?
だから、ことさらに、
「みんなちがってみんないい」
といわなければならないのでしょうか?
人は、自らが、尊い価値ある存在だと思えている限り、どんな状況でも前向きに、もっと伸びよう伸びようと、生きていけるように思います。
だから願わくば、日本の学校が、自尊感情を育てる場であって欲しいと思います。
そしてもう一つ、このテーマを考えるとき思うのは、茂木さんの子供のころの思い出の、蝶々に詳しい大学生のお兄さんとの出会いや、大学の先生との出会いです。
学校教育が、学校だけでとどまるのではなく、そのような、専門家との出会いの場にもつながる場であって欲しいな、と思います。
どんな教育内容、教育方針も、教師から子どもたちに伝えられます。
今の学校制度のままであるならば、人生において、学校生活の時ほど、家族以外で、同じ人と人が密接にかかわりあう時は、他にないと思います。
その中心に位置する教師の役割は、とても重要だと思います。
修士卒ではないと、教師になれない国もあるとか。
情報量が増えて、多様化している現在、それらを理解し、伝える教師の養成方法も、それに応じて変えていく必要があるように思います。
NO.12 thnkks0304 さんの投稿を読みながら、先生の存在って、重要なんだな、と改めて思い、ちょっとテーマとはずれているかな、と思いましたが書いてみました。
もう一つ、アメリカでは、自尊感情を育てる授業が必ずある、という話を聞いたことがあります。
ご存知の方いらっしゃいますか?
これは特別な学校なのかどうか、私にはわかりません。
日本の子どもの自尊感情がとても低いというデータをみたこともあります。
日本の風土に、そういう下地があるのでしょうか?
だから、ことさらに、
「みんなちがってみんないい」
といわなければならないのでしょうか?
人は、自らが、尊い価値ある存在だと思えている限り、どんな状況でも前向きに、もっと伸びよう伸びようと、生きていけるように思います。
だから願わくば、日本の学校が、自尊感情を育てる場であって欲しいと思います。
そしてもう一つ、このテーマを考えるとき思うのは、茂木さんの子供のころの思い出の、蝶々に詳しい大学生のお兄さんとの出会いや、大学の先生との出会いです。
学校教育が、学校だけでとどまるのではなく、そのような、専門家との出会いの場にもつながる場であって欲しいな、と思います。
NO.122011-07-26 21:02:15 thnkks0304 0
小学校、中学校、高校を振り返ってみて一番に思ったことは、教科書がおもしろくなかったことです。ただ事実しか書かれておらず、読んでいても眠たくなるだけでした。先生も当然、授業でそんな教科書を使っており、教科書に書かれていることをただ読んでいるだけなのでおもしろいはずがありませんでした。12年間の学生生活でワクワクドキドキした授業は両手で数えられるだけです。
教科書とか、参考書って、今のところここまでわかっているけれども、こんな問題があったり、こんなことがわかっていない。そんな問題に対してその分野で頑張っている先生たちはこういうふうに考えているけれども、君ならどう考えるっていうのを提供できるものであると思っています。検定教科書なんて事実しか書かれていない。
そして、従業でそういった教科書を使うことによって、先生たちは生徒たちにただ書かれている事実を淡々と話すだけで終わる授業ではなく、各分野の魅力とロマンを語れることが大事になってきます。先生はそれぞれの分野での現在わかっていない問題に対して、どう考えているのかを1人の人間として生徒たちに発表し、生徒はそれに対して自分の疑問や答えを投げかけられるように促すことが重要です。
そこで重要となってくるのは、先生の1つの役割である、各分野を学ぶのならどのような本を読めばいいのか、生徒に読書案内ができることだと思います。各分野の概要を把握することができ、どんな問題があって、何がわかっていなくて、どうすればわかるのか、といったことがワクワクしながら読める本を生徒に教えられることです。世の中のことを何もわかっていない子供に、世の中のことを伝えることができるのは、先生の脳と本だけだと思います。
したがって、検定教科書なんていうおもしろくない教科書を廃止して、先生自らが選択して、生徒たちが学問に興味を持ち、ワクワクできるような教科書を選ぶことが重要になってきます。そのため、先生は誰よりも本を読み、生徒にとびっきりの教科書を薦められることが必要になってきます。また、たった一冊だけでなく、入門としてこれを読み、だいたい概要を把握したらこれを読んで、次にもっと知りたければこれを読むべきだというような読書地図も示すことが大事です。
授業で使用する教科書をこのように先生の読書経験とある程度のその分野での評判(古典的名著とか、その分野の学者たちが薦めるものとか、アマゾンの書評とか)で、先生が選ぶことができるようにして、ただ事実だけを述べる授業内容を改めるだけでも、学生たちは学問に興味を持ち、自らさらに本やインターネットで調べるようになり、問題を見つけ、答えを出していくという自主性が生まれるのではないかと思います。
教育に必要なのは、学問に対する学生の自主性を身につけることなのです。そのためには、教科書改革が必要なのです。
竹内 健太
教科書とか、参考書って、今のところここまでわかっているけれども、こんな問題があったり、こんなことがわかっていない。そんな問題に対してその分野で頑張っている先生たちはこういうふうに考えているけれども、君ならどう考えるっていうのを提供できるものであると思っています。検定教科書なんて事実しか書かれていない。
そして、従業でそういった教科書を使うことによって、先生たちは生徒たちにただ書かれている事実を淡々と話すだけで終わる授業ではなく、各分野の魅力とロマンを語れることが大事になってきます。先生はそれぞれの分野での現在わかっていない問題に対して、どう考えているのかを1人の人間として生徒たちに発表し、生徒はそれに対して自分の疑問や答えを投げかけられるように促すことが重要です。
そこで重要となってくるのは、先生の1つの役割である、各分野を学ぶのならどのような本を読めばいいのか、生徒に読書案内ができることだと思います。各分野の概要を把握することができ、どんな問題があって、何がわかっていなくて、どうすればわかるのか、といったことがワクワクしながら読める本を生徒に教えられることです。世の中のことを何もわかっていない子供に、世の中のことを伝えることができるのは、先生の脳と本だけだと思います。
したがって、検定教科書なんていうおもしろくない教科書を廃止して、先生自らが選択して、生徒たちが学問に興味を持ち、ワクワクできるような教科書を選ぶことが重要になってきます。そのため、先生は誰よりも本を読み、生徒にとびっきりの教科書を薦められることが必要になってきます。また、たった一冊だけでなく、入門としてこれを読み、だいたい概要を把握したらこれを読んで、次にもっと知りたければこれを読むべきだというような読書地図も示すことが大事です。
授業で使用する教科書をこのように先生の読書経験とある程度のその分野での評判(古典的名著とか、その分野の学者たちが薦めるものとか、アマゾンの書評とか)で、先生が選ぶことができるようにして、ただ事実だけを述べる授業内容を改めるだけでも、学生たちは学問に興味を持ち、自らさらに本やインターネットで調べるようになり、問題を見つけ、答えを出していくという自主性が生まれるのではないかと思います。
教育に必要なのは、学問に対する学生の自主性を身につけることなのです。そのためには、教科書改革が必要なのです。
竹内 健太
NO.112011-07-26 05:24:40 terurun 0
学歴社会の本質は、やはり、安定した生活を送りたいという欲求のもと、存在した
のではないかと考えます。
知名度の高い大学に入ることは、自分の希望としている会社に入るのに有利だと
誰もが思った時代もあった。
「知名度の高い大学」=「幸せな生活」 この法則にのっとって、みんな、努力をし
ていた。
本質的には、何も間違ってないと思う。
みんな、「幸せな生活」は、送りたいのだから。
しかし、「幸せとは何か?」っというところで、本当は、疑問が沸く。
お金も欲しいのは、本音。
だから、一流企業に入るのだって、欲求として出てくるのは、当然とも言える。
お金だって、無くては、幸せじゃないと私は、考える。
学問は、自分を豊かにする一つの道具にすぎないと思う。
算数を知っているから、298円の品物を買うときに、300円で買えるという感覚を持つ。
国語だって、看板に「工事中につき、道路の通り抜け出来ません」と書いてあるのを
読めれば、通らずにすむ。
生活を快適に過ごすためにも、もちろん、知識は必要となる。
話を飛躍すれば、では、専門的な知識は、必要か?という問題になる。
弁護士や医者等、専門的知識がなくては、なれない職業もあるのだから、その
仕事に、より、近づけるように、大学はあるとも考えられる。
小学校、中学校、高校は、生活のための学問を学ぶところで、大学は、専門的な知識を
学び、その知識を仕事に結びつけるところ。と思っていた。
しかし、専門的な知識はいらない、必要の無い人には、大学は、無意味と思う。
大学は、「もっと詳しく学びたい」人が行くところと思っていた。
しかし、有名な会社に就職するために大学に入る人もたくさんいることに驚いた。。。
あと、「大卒」というラベル(?)のため。。。
でも、それ全て漠然とした「幸せな生活」という・・・何かそういう(笑)感覚のもと、
行動しているのだと思う。
それ自体は、何も間違っていないと思う。
ただ、知識を得ても、幸せになれるとは限らない。
しかし、学問を通じて、今の子供達に伝えたいと思うことは、
「学問によって、純粋さを持たせる」ということです。
純粋さというのは、本当に素晴らしいと思っています。
純粋な心を持つことは、創造性や闘争心、向上心や好奇心・・・そういうものが何よりも
起きると思っています。
日本の教育も、もっと、「感性」というものを育てる教育に変えていかなくてはいけないの
ではないでしょうか?
小さな発見、小さな喜びを感じられる感性は、より幸福度も増すように思います。
過激な映像、過激な言動、過激な行動。。。刺激は、強いですが、何も感性は育たない。
親に無理やりやらされている受け身の学問、社会的圧力による学問・・・それは、本当に
本人が一番苦しいでしょう。。。
どんな学問もきっと、最初は、小さな感動、発見、喜びのためにあったのではないでしょうか。
子供達にもそういう「喜びの学問」を学ばせてあげたいなっていつも思います。
結局、人は、「感動」のために生きたいのだと思いますから。
それが、お金に結びつけることが出来れば、なお、最高なのですが(笑)!
そこですね!いつも、問題なのは。。。(笑)
のではないかと考えます。
知名度の高い大学に入ることは、自分の希望としている会社に入るのに有利だと
誰もが思った時代もあった。
「知名度の高い大学」=「幸せな生活」 この法則にのっとって、みんな、努力をし
ていた。
本質的には、何も間違ってないと思う。
みんな、「幸せな生活」は、送りたいのだから。
しかし、「幸せとは何か?」っというところで、本当は、疑問が沸く。
お金も欲しいのは、本音。
だから、一流企業に入るのだって、欲求として出てくるのは、当然とも言える。
お金だって、無くては、幸せじゃないと私は、考える。
学問は、自分を豊かにする一つの道具にすぎないと思う。
算数を知っているから、298円の品物を買うときに、300円で買えるという感覚を持つ。
国語だって、看板に「工事中につき、道路の通り抜け出来ません」と書いてあるのを
読めれば、通らずにすむ。
生活を快適に過ごすためにも、もちろん、知識は必要となる。
話を飛躍すれば、では、専門的な知識は、必要か?という問題になる。
弁護士や医者等、専門的知識がなくては、なれない職業もあるのだから、その
仕事に、より、近づけるように、大学はあるとも考えられる。
小学校、中学校、高校は、生活のための学問を学ぶところで、大学は、専門的な知識を
学び、その知識を仕事に結びつけるところ。と思っていた。
しかし、専門的な知識はいらない、必要の無い人には、大学は、無意味と思う。
大学は、「もっと詳しく学びたい」人が行くところと思っていた。
しかし、有名な会社に就職するために大学に入る人もたくさんいることに驚いた。。。
あと、「大卒」というラベル(?)のため。。。
でも、それ全て漠然とした「幸せな生活」という・・・何かそういう(笑)感覚のもと、
行動しているのだと思う。
それ自体は、何も間違っていないと思う。
ただ、知識を得ても、幸せになれるとは限らない。
しかし、学問を通じて、今の子供達に伝えたいと思うことは、
「学問によって、純粋さを持たせる」ということです。
純粋さというのは、本当に素晴らしいと思っています。
純粋な心を持つことは、創造性や闘争心、向上心や好奇心・・・そういうものが何よりも
起きると思っています。
日本の教育も、もっと、「感性」というものを育てる教育に変えていかなくてはいけないの
ではないでしょうか?
小さな発見、小さな喜びを感じられる感性は、より幸福度も増すように思います。
過激な映像、過激な言動、過激な行動。。。刺激は、強いですが、何も感性は育たない。
親に無理やりやらされている受け身の学問、社会的圧力による学問・・・それは、本当に
本人が一番苦しいでしょう。。。
どんな学問もきっと、最初は、小さな感動、発見、喜びのためにあったのではないでしょうか。
子供達にもそういう「喜びの学問」を学ばせてあげたいなっていつも思います。
結局、人は、「感動」のために生きたいのだと思いますから。
それが、お金に結びつけることが出来れば、なお、最高なのですが(笑)!
そこですね!いつも、問題なのは。。。(笑)
NO.102011-07-25 23:34:49 viajero 0
Hi everyone,
I agree with Motakeen san and Orcamie san. It is important to learn the basics when children are young. At those ages, even if they don't like studying, more or less they learn and find what they like.
From high school, if they can choose electives as in the U.S., they may be able to improve their strenths rather than struggling with their weaknesses.
I agree with Motakeen san and Orcamie san. It is important to learn the basics when children are young. At those ages, even if they don't like studying, more or less they learn and find what they like.
From high school, if they can choose electives as in the U.S., they may be able to improve their strenths rather than struggling with their weaknesses.
NO.92011-07-25 20:19:04 orcamie 0
My opinion for the education through elementary school and junior high school is that the most important thing is to attain the feeling of learning, with which children can feel they have achieved something they wanted by making efforts.
Besides this, to develop basic study is important such as basic math and reading, writing, and speaking ability for Japanese. Science and social study is the application of what is learned in Japanese and math. So if children can acquire a sense of accomplishment, it means they go forward by themselves. So how to make them to get such a sense of achievement by learning is next question.
Offering more options is one of them.
教育の場で特に小学校から中学校にかけて一番重要なことは 学びの感覚を身につけることだと思っています。その感覚で こどもたちは何かしたいと思ったことを努力して達成するということを経験する必要があります。その他に基本的な算数(四則)と国語における読解・書く・話すという力を身につけること。理科や社会はその算数と国語の応用という形で学べます。つまりもしも子どもが達成感というものを身につけたのなら その後は自分自身で学んで行くことができるはずです。そのような達成感をどのように子どもが自ら手に入れるかそれが問題なんだと思います。選択肢を多くすることも それを実現する一つの方法になるのではないでしょうか。
今の日本の教育では型にはめられる、または勉強をやらされているという印象を受けます。こどもたち自ら目を輝かせて取り組める学びの場を提供する必要があります。
Besides this, to develop basic study is important such as basic math and reading, writing, and speaking ability for Japanese. Science and social study is the application of what is learned in Japanese and math. So if children can acquire a sense of accomplishment, it means they go forward by themselves. So how to make them to get such a sense of achievement by learning is next question.
Offering more options is one of them.
教育の場で特に小学校から中学校にかけて一番重要なことは 学びの感覚を身につけることだと思っています。その感覚で こどもたちは何かしたいと思ったことを努力して達成するということを経験する必要があります。その他に基本的な算数(四則)と国語における読解・書く・話すという力を身につけること。理科や社会はその算数と国語の応用という形で学べます。つまりもしも子どもが達成感というものを身につけたのなら その後は自分自身で学んで行くことができるはずです。そのような達成感をどのように子どもが自ら手に入れるかそれが問題なんだと思います。選択肢を多くすることも それを実現する一つの方法になるのではないでしょうか。
今の日本の教育では型にはめられる、または勉強をやらされているという印象を受けます。こどもたち自ら目を輝かせて取り組める学びの場を提供する必要があります。
NO.82011-07-24 23:04:59 seiung 0
読書き算盤、自由でいる為に文字を自由に読める様に成る事と数字と+-×÷とが大切だと言う。
NO.72011-07-24 11:15:15 chigusaotsuki 0
Hello there!
Firstly, if a course of study combines both core and elective modules, it is undoubtedly true that core modules are the requirements for international students are cosmopolitans who may possibly speak several languages, i.e. Japanese, Korean, English, Chinese, etc.
Furthermore, it may be thought that elective modules are presumed to learn about the careers.
It is difficult to find the job you want, I mean, what you go in for doing all your life.
Next, I would like to add that we have equipped all children with a good education.
Teachers will devise a proper way to set appropriate tasks, and then provide feedback on students' work.
In addition to these things, teachers will also conduct teaching sessions for individuals.
To put it simply, teachers do counselling every children and adults individually will find a solution the problem of fears and anxieties.
Firstly, if a course of study combines both core and elective modules, it is undoubtedly true that core modules are the requirements for international students are cosmopolitans who may possibly speak several languages, i.e. Japanese, Korean, English, Chinese, etc.
Furthermore, it may be thought that elective modules are presumed to learn about the careers.
It is difficult to find the job you want, I mean, what you go in for doing all your life.
Next, I would like to add that we have equipped all children with a good education.
Teachers will devise a proper way to set appropriate tasks, and then provide feedback on students' work.
In addition to these things, teachers will also conduct teaching sessions for individuals.
To put it simply, teachers do counselling every children and adults individually will find a solution the problem of fears and anxieties.
NO.62011-07-23 17:02:29 motakeen 0
Hello Chigusaotsuki-san!
I agree with you that there should be some flexibility in our education but what do you think is the best balance between core and electives?
In th US (I apologize that all my examples come from Japan or US- I just don’t know any other!) the emphasis is on improving what you like, not what you don’t like so there’s a lot more flexibility. Even in public elementary school, there are schools that have emphasis on certain things- like science or art or foreign language. By high school, you basically choose your own curriculum.
(You do need to get certain classes/credits for each discipline.)
This works great if you’re highly motivated but for those who are not, you can take the “easy” class. When I enrolled in a Graduate program in the US, I was surprised to see some American students who really struggled with Math - and I’m “bunkei” who tried to stay away from Math as much as possible in Japan! But these American colleagues spent more time on subjects that they were better at than what they were not good at.
This is a personal question for me because I have a young son, living in the US.
Do I send him to a more science oriented program? Or arts program? Or move to a better neighborhood? Or send him to private school? How do I know what he’s good at when he’s 3??!
But, having said all that, I think I prefer having the choices than not having the choices. It does give me a chance to think. And we can change our choices as we go along. And we take responsibility of the choices we made.
Do you think this would work in Japan? That some public schools have different curriculums from others? Like more emphasis in English or science or arts? I know that private schools have certain emphasis ( I went to a private high school in Tokyo that had a HUGE emphasis in English) but in public schools?
Is this the way to go?
I don’t have an answer…
I agree with you that there should be some flexibility in our education but what do you think is the best balance between core and electives?
In th US (I apologize that all my examples come from Japan or US- I just don’t know any other!) the emphasis is on improving what you like, not what you don’t like so there’s a lot more flexibility. Even in public elementary school, there are schools that have emphasis on certain things- like science or art or foreign language. By high school, you basically choose your own curriculum.
(You do need to get certain classes/credits for each discipline.)
This works great if you’re highly motivated but for those who are not, you can take the “easy” class. When I enrolled in a Graduate program in the US, I was surprised to see some American students who really struggled with Math - and I’m “bunkei” who tried to stay away from Math as much as possible in Japan! But these American colleagues spent more time on subjects that they were better at than what they were not good at.
This is a personal question for me because I have a young son, living in the US.
Do I send him to a more science oriented program? Or arts program? Or move to a better neighborhood? Or send him to private school? How do I know what he’s good at when he’s 3??!
But, having said all that, I think I prefer having the choices than not having the choices. It does give me a chance to think. And we can change our choices as we go along. And we take responsibility of the choices we made.
Do you think this would work in Japan? That some public schools have different curriculums from others? Like more emphasis in English or science or arts? I know that private schools have certain emphasis ( I went to a private high school in Tokyo that had a HUGE emphasis in English) but in public schools?
Is this the way to go?
I don’t have an answer…
NO.52011-07-21 23:00:33 ryosuke85 0
日本の教育はどうあるべきか
引き出し、実践させて行く事。
どうやって引き出していくか、が日本の学校には少ないのではないか、と。
black or White を考える場合でも、そこに個人としての基盤があっての答えになるのかならないのか。
なぜBlackを選び、なぜWhiteを選ぶのか。
どうしてそう考えるのか。
それを明確に説明できるだけの考えを持っているのか。
曖昧な表現では無く、的確に物事をとらえる視点を持てているのか。
教育現場に立つ指導者側が、自らの思考に凝り固まった意見を貫き、それを被教育者達にごり押しするのか。
教育社側でさえ常に思考し、実践し、考察していかなければならないと、僕は今の立場にいて感じている部分です。
すべての物事を否定しない。
けど、完全に肯定もしない。
あらゆる可能性を模索している姿勢こそが教育者側に必要な姿勢なんじゃないか。
そう考えています。
自分の経験則として、過去、学校という場にいて一番学んだというのは、うまく言葉にできる自信がないのですが、「触れた」と実感できた時でした。
確かな質感のある、何かに触れることができた時、僕のほんとに学びたいものが分かったような気がしたんです。
ただ文字列を眺めるだけで無く、ただ書き連ねるだけでもなくて、確かにそこにある“それ”と分かるものに触れた時に、一番学んだ、という気がしました。
実感として高校生までに勉強という形で国語数学理化社会英語…
を学んでいる時間が面白いと感じた事が無いのです。
しかし、勉強への入りが“学校”でないものに関しては、自分で知っているものへの付け足しをしている感覚で、それは何となく面白く感じたのは覚えております。
例えば社会学における歴史を学校で学ぶ前に自分で織田信長に興味がわき、歴史に関する書物を読んだ後に学校での進度が追いついた際の興奮度合といったらなかったのをよく覚えているのです。
にもかかわらず、学校で触れることは非常に少なく、フラストレーションがたまることもしばしば。
教科書に書いてない事が、自分で望んで手に入れたものには書いてある。
その時に“触れた”ように感じたのです。
現在、僕はスポーツトレーニングコーディネーターという名称を勝手に名乗っています。
そんなものは存在しません。勝手に名乗ってます。
この業界の勉強を始めた際、人のからだの事について考える事が非常に面白くて、何だか自分が大きくなれたように感じたものです。
しかし、(まだまだ勉強不足なことを棚上げした上で述べますが)あるポイントから、何だか“ずれている”ように感じたのです。
教科書的に述べられている事と実際に起こっている事象についての隔たり、違和感。
その時、自分の恩師からは「教科書は3割打者」だと言われました。
野球界で3割打者はいいかも知れないが、自分達がやっている事は、その時、その場所にある現象に対して10割の結果を出さなければならない。
という意味で言われたのですが、そうなると、色々な3割を知っていなければならない。
最低限持っていなくてはならない事はあるにしても、それに固執することなく、様々な可能性を排除せず、小さい教科書の中で答えを見出そうとするのでは無く、起こっている現実問題に立ち向かい、思考・実践・考察する事が大切だと。
だから、教育現場は、各人が持っている知識であったり、技術だったり、つまりいきなり実践させられる場が必要で、その為に引き出していく事が必要なのだと考えています。
引き出し、実践させて行く事。
どうやって引き出していくか、が日本の学校には少ないのではないか、と。
black or White を考える場合でも、そこに個人としての基盤があっての答えになるのかならないのか。
なぜBlackを選び、なぜWhiteを選ぶのか。
どうしてそう考えるのか。
それを明確に説明できるだけの考えを持っているのか。
曖昧な表現では無く、的確に物事をとらえる視点を持てているのか。
教育現場に立つ指導者側が、自らの思考に凝り固まった意見を貫き、それを被教育者達にごり押しするのか。
教育社側でさえ常に思考し、実践し、考察していかなければならないと、僕は今の立場にいて感じている部分です。
すべての物事を否定しない。
けど、完全に肯定もしない。
あらゆる可能性を模索している姿勢こそが教育者側に必要な姿勢なんじゃないか。
そう考えています。
自分の経験則として、過去、学校という場にいて一番学んだというのは、うまく言葉にできる自信がないのですが、「触れた」と実感できた時でした。
確かな質感のある、何かに触れることができた時、僕のほんとに学びたいものが分かったような気がしたんです。
ただ文字列を眺めるだけで無く、ただ書き連ねるだけでもなくて、確かにそこにある“それ”と分かるものに触れた時に、一番学んだ、という気がしました。
実感として高校生までに勉強という形で国語数学理化社会英語…
を学んでいる時間が面白いと感じた事が無いのです。
しかし、勉強への入りが“学校”でないものに関しては、自分で知っているものへの付け足しをしている感覚で、それは何となく面白く感じたのは覚えております。
例えば社会学における歴史を学校で学ぶ前に自分で織田信長に興味がわき、歴史に関する書物を読んだ後に学校での進度が追いついた際の興奮度合といったらなかったのをよく覚えているのです。
にもかかわらず、学校で触れることは非常に少なく、フラストレーションがたまることもしばしば。
教科書に書いてない事が、自分で望んで手に入れたものには書いてある。
その時に“触れた”ように感じたのです。
現在、僕はスポーツトレーニングコーディネーターという名称を勝手に名乗っています。
そんなものは存在しません。勝手に名乗ってます。
この業界の勉強を始めた際、人のからだの事について考える事が非常に面白くて、何だか自分が大きくなれたように感じたものです。
しかし、(まだまだ勉強不足なことを棚上げした上で述べますが)あるポイントから、何だか“ずれている”ように感じたのです。
教科書的に述べられている事と実際に起こっている事象についての隔たり、違和感。
その時、自分の恩師からは「教科書は3割打者」だと言われました。
野球界で3割打者はいいかも知れないが、自分達がやっている事は、その時、その場所にある現象に対して10割の結果を出さなければならない。
という意味で言われたのですが、そうなると、色々な3割を知っていなければならない。
最低限持っていなくてはならない事はあるにしても、それに固執することなく、様々な可能性を排除せず、小さい教科書の中で答えを見出そうとするのでは無く、起こっている現実問題に立ち向かい、思考・実践・考察する事が大切だと。
だから、教育現場は、各人が持っている知識であったり、技術だったり、つまりいきなり実践させられる場が必要で、その為に引き出していく事が必要なのだと考えています。
NO.42011-07-20 12:50:39 chigusaotsuki 0
こんにちは。 NO.1 viajero さん NO.2 motakeen さん。
It can be argued that we can presume that a course of study is consisting of core and elective modules.
It may not be the case that core modules are all obligation.
So that, candidates not wishing to proceed to the next subject may opt for the optional subject.
Apart from this, student whose first language is not Japanese can attend courses are held before the main teaching semesters begin or during the main teaching semesters.
Finally, they are assessed through portfolios.
If you do not finish the subject during the term, you will defer till next term.
I believe that we have freedom to do what we like.
It can be argued that we can presume that a course of study is consisting of core and elective modules.
It may not be the case that core modules are all obligation.
So that, candidates not wishing to proceed to the next subject may opt for the optional subject.
Apart from this, student whose first language is not Japanese can attend courses are held before the main teaching semesters begin or during the main teaching semesters.
Finally, they are assessed through portfolios.
If you do not finish the subject during the term, you will defer till next term.
I believe that we have freedom to do what we like.
NO.32011-07-20 09:59:45 motakeen 0
ごめんなさい、「指示」ではなく「支持」です。
NO.22011-07-20 08:26:38 motakeen 0
東大が9月入学を検討するということ、とても指示しています。
日本の大学がアジアのトップの学生が目指す学校になりえる可能性は十分あると思います。
なにしろ日本の国立大学があって、アメリカのトップスクールにはないものがある。
それはとにかく安くて近いということ。(地震がなければ安全、も入れるんですけど。。。)
現在円高ですが、それでも入学費用はぜんぜん違います。
それでいて、日本には巨大企業がアメリカの次に多い。仕事がある。
アメリカのトップスクールでは、アジア系アメリカ人がほかの人種と比べて一般的に成績がよくSATのスコアがよいため、人口比率よりもはるかに高い比率の学生が入学しているようです。そのため多様性を重んじる学校では、最近アジア系に対してより厳しい審査が行われているようです。
アジア人にとってよりいっそう狭き門になっている。
アジアの優秀な学生を誘うための施策をいくつか提案すると、
1.留学生向けの就職活動の支援
2.教授の外国人比率を上げる
3.留学生のサポートの強化
4.アジアの優秀な高校への売り込み
ようやく多くの日本企業も外国人を採用する重要性を認識し始めたようなので、環境は整ってきているのではないでしょうか。
正直東大でなければいけないとは思いません。逆に地方都市の大学のほうがアカデミックに専念できてよいのでは、とも思います。(外国人受けするのでは?)
でもやるなら本気でやってほしいです。
がんばれー!
日本の大学がアジアのトップの学生が目指す学校になりえる可能性は十分あると思います。
なにしろ日本の国立大学があって、アメリカのトップスクールにはないものがある。
それはとにかく安くて近いということ。(地震がなければ安全、も入れるんですけど。。。)
現在円高ですが、それでも入学費用はぜんぜん違います。
それでいて、日本には巨大企業がアメリカの次に多い。仕事がある。
アメリカのトップスクールでは、アジア系アメリカ人がほかの人種と比べて一般的に成績がよくSATのスコアがよいため、人口比率よりもはるかに高い比率の学生が入学しているようです。そのため多様性を重んじる学校では、最近アジア系に対してより厳しい審査が行われているようです。
アジア人にとってよりいっそう狭き門になっている。
アジアの優秀な学生を誘うための施策をいくつか提案すると、
1.留学生向けの就職活動の支援
2.教授の外国人比率を上げる
3.留学生のサポートの強化
4.アジアの優秀な高校への売り込み
ようやく多くの日本企業も外国人を採用する重要性を認識し始めたようなので、環境は整ってきているのではないでしょうか。
正直東大でなければいけないとは思いません。逆に地方都市の大学のほうがアカデミックに専念できてよいのでは、とも思います。(外国人受けするのでは?)
でもやるなら本気でやってほしいです。
がんばれー!
NO.12011-07-19 09:26:33 viajero 0
グローバリズムの中、世界で生き残っていくにはやはり英語は不可欠。もし日本が危機的状況に陥っても英語の力があれば、世界で何とかやっていけるのではないかとも思う。
でも、今の和英訳教育ではどうにもならない。生身の英語、使える英語を身につけないと意味がない。
では学校では何が必要か?それは早い年齢から英語に触れることと、完全英語での授業。
もともとことばは覚えるというより、やっていれば感覚になってくる。留学を経験した人はすぐにわかると思うけど、訳として言葉が出てくるというより、自然体に英語でモノが発せられるようになる。時として、英語である単語でも日本語には無いものもあって、日本語でそのことを表現する様が難しくなるくらい。
話は飛んでしまったが、すべてを英語で行う授業があれば、生の英語に触れることができるし、使う機械だって当然増えてくる。最初は難しいのは当たり前。でもやらないと始まらないし、何も変わらない。是非、学校には将来を見据えた教育をやっていってほしい。
でも、今の和英訳教育ではどうにもならない。生身の英語、使える英語を身につけないと意味がない。
では学校では何が必要か?それは早い年齢から英語に触れることと、完全英語での授業。
もともとことばは覚えるというより、やっていれば感覚になってくる。留学を経験した人はすぐにわかると思うけど、訳として言葉が出てくるというより、自然体に英語でモノが発せられるようになる。時として、英語である単語でも日本語には無いものもあって、日本語でそのことを表現する様が難しくなるくらい。
話は飛んでしまったが、すべてを英語で行う授業があれば、生の英語に触れることができるし、使う機械だって当然増えてくる。最初は難しいのは当たり前。でもやらないと始まらないし、何も変わらない。是非、学校には将来を見据えた教育をやっていってほしい。