ある課題をするとして、苦労をして満点を取った人と、苦労をしないで満点を取った人では、どちらが偉いと思いますか?
「苦労をした」という経験は、別の課題に取り組む際の粘り強さを培うことになるかもしれません。
一方、「苦労をせずにできた」という才能ある人が、さらなる難しい課題に取り組んだときにこそ、奇跡的に素晴らしい仕事が達成されるということも言えると思います。
みなさんは、「苦労」と「才能」、そして「結果」について、どのように考えますか?
楽しい議論をしましょう!
皆さんの投稿をみて、改めて気付かされることが沢山ありました。masamiさんやmongkok93さんのように「偉い」の定義がどうなるかにもよるなあと思います。
はじめに試すような投稿をしておいて締切ギリギリまで反応せずにしまっておりました…反省しております。
以前から私の病気等については書き込んでおりますので深くはここで言及しませんが、今回の議題のような事がありましたのでお話させて頂ければと思います。
私が六年前に難病の告知をされた時、またその後は実際に色々大変でしたが、あまり精神的に落ち込んだり追い詰められることはありませんでした。
若干の強がりはありますが、なってみてよかったかな?なんて思う事もあります。
そんな中「病気を乗り越えたんだ」なんていう妙な自信を持ってしまったりもしておりました。
ある時、Twitterで同病の方と相互フォローになりました。彼は<私から見ると>悲観論者でした。それは完全に、私の想像力不足による主観でした。彼の病気との向き合い方に<もったいなさ>を私は感じていました。
「無駄なポジティブさを良しとは思わない!」と彼は時々言っていました。私は、自分の<妙な自信>に自信を持っていました。ですので、彼になんとかそれを伝えようと考えたのです。病の克服は考え方によって可能である、と。
結局、彼とのフォローは解除されてしまいました。それをきっかけにして、私はこの<根拠なき自信>がどこからくるものなのだろう、と悩み始めました。「僕は、本当に病気を受け止めたのか?乗り越えたのか?」
ある課題…… ここでは「病の克服」だとすると、私は告知された段階で客観的には「満点に近い」心の状態だったのではないかと思います。自分で言っちゃうのもナンですけれども、病理的な克服とは別に心の面での克服という問題は確かに存在すると思うからです。
しかし、私には自ら病になってさえ<病でまさに苦しんでいる人>の心がわからないのです。同病の彼が思う無駄なポジティブさへの嫌悪を理解できませんでした。
ある時から私は自分の体験を活かして誰かの励みになれないかと考えるようになりました。それが「課題」だとする時、さっさと病を受け止めてしまったので、今度は逆に満点ではなくなってしまいました。
私はあまり努力なくして、私自身の病を受け入れてしまいました。大変な思いをして、受け入れるまでに非常な努力を要した人もいると思います。
私は自分と彼等を比較できません。自分にとっては家族など様々な要因からしっかり歩き出せるようになりました。でも、それでおしまいでいいのだろうかと悩みます。
悩んで折れてしまう事だってあります。そういう経験をしてこそ得られる境地もあるかと思います。なので、どちらが偉いのかは私にはわかりません。
「ある課題」が変わる必要すらあるのかもしれないとも考えます。その課題の遂行が正しい事なのか。誰もわからないなんて事も珍しくはありません。
ペーパーテストの例ではじめに投稿しました。与えられた課題に邁進できる素養は大切です。満点を取れる事は偉大だと思います。しかし、課題には目的があることを念頭から抜け落ちてしまわないようにしなければ、どちらの例であったにせよ、徒労となってしまいかねないと思うのです。
はじめに試すような投稿をしておいて締切ギリギリまで反応せずにしまっておりました…反省しております。
以前から私の病気等については書き込んでおりますので深くはここで言及しませんが、今回の議題のような事がありましたのでお話させて頂ければと思います。
私が六年前に難病の告知をされた時、またその後は実際に色々大変でしたが、あまり精神的に落ち込んだり追い詰められることはありませんでした。
若干の強がりはありますが、なってみてよかったかな?なんて思う事もあります。
そんな中「病気を乗り越えたんだ」なんていう妙な自信を持ってしまったりもしておりました。
ある時、Twitterで同病の方と相互フォローになりました。彼は<私から見ると>悲観論者でした。それは完全に、私の想像力不足による主観でした。彼の病気との向き合い方に<もったいなさ>を私は感じていました。
「無駄なポジティブさを良しとは思わない!」と彼は時々言っていました。私は、自分の<妙な自信>に自信を持っていました。ですので、彼になんとかそれを伝えようと考えたのです。病の克服は考え方によって可能である、と。
結局、彼とのフォローは解除されてしまいました。それをきっかけにして、私はこの<根拠なき自信>がどこからくるものなのだろう、と悩み始めました。「僕は、本当に病気を受け止めたのか?乗り越えたのか?」
ある課題…… ここでは「病の克服」だとすると、私は告知された段階で客観的には「満点に近い」心の状態だったのではないかと思います。自分で言っちゃうのもナンですけれども、病理的な克服とは別に心の面での克服という問題は確かに存在すると思うからです。
しかし、私には自ら病になってさえ<病でまさに苦しんでいる人>の心がわからないのです。同病の彼が思う無駄なポジティブさへの嫌悪を理解できませんでした。
ある時から私は自分の体験を活かして誰かの励みになれないかと考えるようになりました。それが「課題」だとする時、さっさと病を受け止めてしまったので、今度は逆に満点ではなくなってしまいました。
私はあまり努力なくして、私自身の病を受け入れてしまいました。大変な思いをして、受け入れるまでに非常な努力を要した人もいると思います。
私は自分と彼等を比較できません。自分にとっては家族など様々な要因からしっかり歩き出せるようになりました。でも、それでおしまいでいいのだろうかと悩みます。
悩んで折れてしまう事だってあります。そういう経験をしてこそ得られる境地もあるかと思います。なので、どちらが偉いのかは私にはわかりません。
「ある課題」が変わる必要すらあるのかもしれないとも考えます。その課題の遂行が正しい事なのか。誰もわからないなんて事も珍しくはありません。
ペーパーテストの例ではじめに投稿しました。与えられた課題に邁進できる素養は大切です。満点を取れる事は偉大だと思います。しかし、課題には目的があることを念頭から抜け落ちてしまわないようにしなければ、どちらの例であったにせよ、徒労となってしまいかねないと思うのです。
問いかけにある「偉い」というのは定義しにくい言葉ですね。
ところが 誰かのはなしを聞くと「偉いね」という言葉はすっと出てきます。
二宮金次郎が時間を惜しんで薪を担ぎながら本を読む姿、野口英世が大やけどをしながらも立派な医師になったことなどは誰もが偉いなと感じるでしょう。
東京マラソンで公務員ランナーの川内さんがあまり良い結果を残せなかったことが話題になりました。
五輪代表に確定したランナーより大きく報道されているくらいです。
企業に所属して走ることを仕事としている人がいるなかで、公務員として仕事をしながらマラソンで世界を目指している彼を、多くの人が偉いと感じ応援するのでしょう。
北京五輪で日本男子が400mリレーで銅メダルを取りました。
短距離走は人種によるフィジカルの差が影響するスポーツです。
それでもバトンを渡すテクニックや、タイミングなど走力以外の部分でそれを補う努力をした結果の銅メダル。多くの日本人は「すごい」と同時に「偉い」と感じたと思います。逆に優勝したジャマイカの圧倒的な速さを「すごい」とは思うけど「偉い」とは思わなかったのではないでしょうか。
持って生まれた体格・体力といった才能の部分に「偉い」という感情は芽生えにくいのからでしょうか。
茂木さんの問いかけにある「さらなる難しい課題」を五輪と置き換えて、その選考会で、苦労した人と苦労しなかった人が同じ結果を出した場合には、苦労せずに結果を出した人を代表に選出したくなるのではないかと思います。それは「さらなる難しい課題」に対しても目標を達成できるマージンを有していると期待できるからでしょう。
ところが 誰かのはなしを聞くと「偉いね」という言葉はすっと出てきます。
二宮金次郎が時間を惜しんで薪を担ぎながら本を読む姿、野口英世が大やけどをしながらも立派な医師になったことなどは誰もが偉いなと感じるでしょう。
東京マラソンで公務員ランナーの川内さんがあまり良い結果を残せなかったことが話題になりました。
五輪代表に確定したランナーより大きく報道されているくらいです。
企業に所属して走ることを仕事としている人がいるなかで、公務員として仕事をしながらマラソンで世界を目指している彼を、多くの人が偉いと感じ応援するのでしょう。
北京五輪で日本男子が400mリレーで銅メダルを取りました。
短距離走は人種によるフィジカルの差が影響するスポーツです。
それでもバトンを渡すテクニックや、タイミングなど走力以外の部分でそれを補う努力をした結果の銅メダル。多くの日本人は「すごい」と同時に「偉い」と感じたと思います。逆に優勝したジャマイカの圧倒的な速さを「すごい」とは思うけど「偉い」とは思わなかったのではないでしょうか。
持って生まれた体格・体力といった才能の部分に「偉い」という感情は芽生えにくいのからでしょうか。
茂木さんの問いかけにある「さらなる難しい課題」を五輪と置き換えて、その選考会で、苦労した人と苦労しなかった人が同じ結果を出した場合には、苦労せずに結果を出した人を代表に選出したくなるのではないかと思います。それは「さらなる難しい課題」に対しても目標を達成できるマージンを有していると期待できるからでしょう。
現在自分が苦労している者として、とても興味深く拝見させていただきました。
苦労という場合、やはり自分の事ですから、自分にとって厳しい環境や難しい問題に取り組む時、自分のこれからの見えない将来につながる事を信じる事が、苦労を単なる苦しみではなく、産みの苦しみに変えることとなります。
タラントの事を書かれている方がおられました。聖書の中でのタラントの用い方は、偉い偉くないという事ではなく、一人一人の生き方が、神様との関係においてどうであったか、という事を問うています。ですから、一タラントを使わなかった人は、その理由を主人が悪い人だったから、ということを言って責任転嫁しています。しかし彼は雇われているものであり、少ないものであったかもしれませんがタラントをすでに受け取ったのです。その時点でその人の責任があったのです。彼が最初からその主人の元を離れるとか、タラントを受け取らなければ、それまでだったでしょう。しかし、主人がいない間も与えられたものは使わず、主人の家でのほほんと過ごしていたのです。今の私たちの観点で言う努力や苦労というものが単に結果を見るだけのものであれば、一タラントしか貰わなかった僕と同じで、結果を恐れるあまり、プロセスを度外視してしまって、タラントを穴に埋めることになるという事です。
反対に、私たちから見れば、「え、それで努力しているって言えるの?」という事や場合が沢山あります。しかし、自分の努力や苦労が他人と比較され続けるのであれば、それもまた非常にやりにくく、辛いものでしかないのではないでしょうか。しかし自分の中での努力を見続け、高い目標に向かう気持ちを持ち続けることによって、初めに戻りますが、その苦しみが大きく自分を変えるものになるでしょう。私は今、これまで自分が逃げ続けていた事と向き合う場所におかれています。非常に苦しいのですが、この苦しみは反対に何らかの報酬のような事も生み出しており、自分の経験値をこれまでと全く違った観点から得られています。非常に貴重な経験と感じています。だからといって苦しみが無くなる訳ではありません。
苦労して満点を得た人と、苦労せずして満点を得た人。結果は同じでもそれぞれにプロセスがあり、それぞれに結果にたどり着く何かがあると思います。私はどちらも偉いと思います。苦労しないで結果を得る人も、今後を考えるとき、決して苦労しないかと言えば、それはだれにも分かりません。しかしその人が、苦労する事を嫌うのではなく、苦労がくろうと感じないだけなのかもしれないし、そうした場合、先ほどのタラントの話しを借りれば、その人は非常に大きなタラントを持った人、と解釈していいと思います。多く持っている人は多く得ることができます。しかし少ないからと言って、嘆く必要も比較する必要もなく、自分は自分です。努力しなくてたどり着く人も偉くて、努力してたどり着いた人も偉いと思います。
もし、苦労する事が他人と比較することによる苦労なら、ちょっとそれは間違った苦労の仕方かもしれません。
苦労という場合、やはり自分の事ですから、自分にとって厳しい環境や難しい問題に取り組む時、自分のこれからの見えない将来につながる事を信じる事が、苦労を単なる苦しみではなく、産みの苦しみに変えることとなります。
タラントの事を書かれている方がおられました。聖書の中でのタラントの用い方は、偉い偉くないという事ではなく、一人一人の生き方が、神様との関係においてどうであったか、という事を問うています。ですから、一タラントを使わなかった人は、その理由を主人が悪い人だったから、ということを言って責任転嫁しています。しかし彼は雇われているものであり、少ないものであったかもしれませんがタラントをすでに受け取ったのです。その時点でその人の責任があったのです。彼が最初からその主人の元を離れるとか、タラントを受け取らなければ、それまでだったでしょう。しかし、主人がいない間も与えられたものは使わず、主人の家でのほほんと過ごしていたのです。今の私たちの観点で言う努力や苦労というものが単に結果を見るだけのものであれば、一タラントしか貰わなかった僕と同じで、結果を恐れるあまり、プロセスを度外視してしまって、タラントを穴に埋めることになるという事です。
反対に、私たちから見れば、「え、それで努力しているって言えるの?」という事や場合が沢山あります。しかし、自分の努力や苦労が他人と比較され続けるのであれば、それもまた非常にやりにくく、辛いものでしかないのではないでしょうか。しかし自分の中での努力を見続け、高い目標に向かう気持ちを持ち続けることによって、初めに戻りますが、その苦しみが大きく自分を変えるものになるでしょう。私は今、これまで自分が逃げ続けていた事と向き合う場所におかれています。非常に苦しいのですが、この苦しみは反対に何らかの報酬のような事も生み出しており、自分の経験値をこれまでと全く違った観点から得られています。非常に貴重な経験と感じています。だからといって苦しみが無くなる訳ではありません。
苦労して満点を得た人と、苦労せずして満点を得た人。結果は同じでもそれぞれにプロセスがあり、それぞれに結果にたどり着く何かがあると思います。私はどちらも偉いと思います。苦労しないで結果を得る人も、今後を考えるとき、決して苦労しないかと言えば、それはだれにも分かりません。しかしその人が、苦労する事を嫌うのではなく、苦労がくろうと感じないだけなのかもしれないし、そうした場合、先ほどのタラントの話しを借りれば、その人は非常に大きなタラントを持った人、と解釈していいと思います。多く持っている人は多く得ることができます。しかし少ないからと言って、嘆く必要も比較する必要もなく、自分は自分です。努力しなくてたどり着く人も偉くて、努力してたどり着いた人も偉いと思います。
もし、苦労する事が他人と比較することによる苦労なら、ちょっとそれは間違った苦労の仕方かもしれません。
苦労と才能について書く前に聖書のタラントの例えを書きたいと思います。
タラントってのは簡単に言えば、タレント=才能だと思います。
ググってもらうとわかりますが、タラントを発揮することが偉いというのが結論です。
才能をもらったのであれば、最大限発揮することが偉いです。
努力することを努力する人ってのはいないわけです。
努力することを自慢する人がいますけど、苦労して努力家になったわけではなくて、
努力家のタラントがあって、発揮したと考えられると思います。
もともとがそうなんです。努力ができるんです。
また、努力が出来ないけど、結果を出せる人もいます。
それもタラントを発揮していると言えると思います。
僕は才能というものを非常に大切なものと考えていますし、
あらゆる人間に才能は与えられていると考えています。
そして、自分に才能があると信じることが唯一才能を開花させるものであると考えてもいます。
だって、諦めたら、才能は開花しません。それは真理だと思います。
結論としては才能を発揮することが良いことだということだと思います。
タラントってのは簡単に言えば、タレント=才能だと思います。
ググってもらうとわかりますが、タラントを発揮することが偉いというのが結論です。
才能をもらったのであれば、最大限発揮することが偉いです。
努力することを努力する人ってのはいないわけです。
努力することを自慢する人がいますけど、苦労して努力家になったわけではなくて、
努力家のタラントがあって、発揮したと考えられると思います。
もともとがそうなんです。努力ができるんです。
また、努力が出来ないけど、結果を出せる人もいます。
それもタラントを発揮していると言えると思います。
僕は才能というものを非常に大切なものと考えていますし、
あらゆる人間に才能は与えられていると考えています。
そして、自分に才能があると信じることが唯一才能を開花させるものであると考えてもいます。
だって、諦めたら、才能は開花しません。それは真理だと思います。
結論としては才能を発揮することが良いことだということだと思います。
ここでは何をもって「苦労」とするのか、何をもって「偉い」とするのかの定義や制約がなさすぎて、この質問には答えかねますが、僕なりの定義で述べたいと思います。「苦労の種類」と言ってもいいかもしれません。また、「満点」という表現はおそらくペーパーテストの点数を想定したものだと推察しますが、ここではあえてペーパーテストではなく、何かの仕事を最後まで完全にこなした、ということにします。僕の考える可能性は下記の4つです。
①特段の苦労もなく仕上げた。
これは本人にとってはプラスでもマイナスでもありません。まあ実際には仕事をこなしたわけだから、わずかながら何かの要素(精神力など)がプラスになったとは思いますが、基本的に±0です。本人が何かを得るわけでもなく、失うわけでもない。しかし他の人が苦労する作業を楽々とこなせる、となるとこの人のレベルは他の人に比べて高い。すでにこのステップは以前にクリアしていることになります。才能がある、向いている、というのもありますが、基本的にはそういうものも努力の賜物だと思います。
②この仕事をこなした後の最終的目標が特になく、苦労して仕上げた。
これは4つの中で一番不幸なことです。苦労が必ずしも正しい方向に向かっているとは言い難い。最終的目標がないので何のためにこの仕事をこなしているのかが見えてきません。ヴィジョンがないのでモチベーションも高まらず作業スピードも遅いはずです。せっかくの苦労も最大限の効果をもたらしません。
③この仕事をこなした後の最終的目標があり、苦労して仕上げた。
これは最終的な目標があるので苦労する意味が大いにあります。今の苦労も最終的な喜びに繋がるものだ、というヴィジョンがあるので、モチベーションも高く、我慢できます。本人にとっても次のステップへ進むための大きな一歩になります。
④この仕事をこなした後の最終的目標があり、苦労もなく仕上げた。
これは一番理想的な姿です。この表現だけでは少々言葉足らずですが、ここでいう「苦労もなく仕上げた」というのは、他の人が思う苦労を苦労と思っておらず、逆に楽しんでいる人のことです。最終的な目標も喜べるものだし、その途中経過も大いに喜べるものだと感じている状態です。こういう人は、一つの小さい仕事の中からでも「自分に何らかの技術や能力が身につく」「知識が増える」などの楽しさや目標を見つけることができます。
以上の4つです。
それと、「偉い」というのは自分自身が自分に対して下す評価であって、他人が言うことではないと思います。
●「苦労」「才能」「結果」について。
前回のテーマでも述べましたが、まず一番大事な根底は「情熱」です。これがなければある一定以上の領域には進めません。嫌なことは続きません。そして次が「結果(ヴィジョン)」です。といってもヴィジョンがあるから情熱があるとも言えます。この「結果(ヴィジョン)」に到達するために「苦労」が大きな意味を成します。そしてその「苦労」が重なって「才能」と呼べるものが明確になり、次第に開花していくのではないでしょうか。さらにこれが上記の④の状態であれば、その人は世にも素晴らしい仕事を達成することができる、と思います。
①特段の苦労もなく仕上げた。
これは本人にとってはプラスでもマイナスでもありません。まあ実際には仕事をこなしたわけだから、わずかながら何かの要素(精神力など)がプラスになったとは思いますが、基本的に±0です。本人が何かを得るわけでもなく、失うわけでもない。しかし他の人が苦労する作業を楽々とこなせる、となるとこの人のレベルは他の人に比べて高い。すでにこのステップは以前にクリアしていることになります。才能がある、向いている、というのもありますが、基本的にはそういうものも努力の賜物だと思います。
②この仕事をこなした後の最終的目標が特になく、苦労して仕上げた。
これは4つの中で一番不幸なことです。苦労が必ずしも正しい方向に向かっているとは言い難い。最終的目標がないので何のためにこの仕事をこなしているのかが見えてきません。ヴィジョンがないのでモチベーションも高まらず作業スピードも遅いはずです。せっかくの苦労も最大限の効果をもたらしません。
③この仕事をこなした後の最終的目標があり、苦労して仕上げた。
これは最終的な目標があるので苦労する意味が大いにあります。今の苦労も最終的な喜びに繋がるものだ、というヴィジョンがあるので、モチベーションも高く、我慢できます。本人にとっても次のステップへ進むための大きな一歩になります。
④この仕事をこなした後の最終的目標があり、苦労もなく仕上げた。
これは一番理想的な姿です。この表現だけでは少々言葉足らずですが、ここでいう「苦労もなく仕上げた」というのは、他の人が思う苦労を苦労と思っておらず、逆に楽しんでいる人のことです。最終的な目標も喜べるものだし、その途中経過も大いに喜べるものだと感じている状態です。こういう人は、一つの小さい仕事の中からでも「自分に何らかの技術や能力が身につく」「知識が増える」などの楽しさや目標を見つけることができます。
以上の4つです。
それと、「偉い」というのは自分自身が自分に対して下す評価であって、他人が言うことではないと思います。
●「苦労」「才能」「結果」について。
前回のテーマでも述べましたが、まず一番大事な根底は「情熱」です。これがなければある一定以上の領域には進めません。嫌なことは続きません。そして次が「結果(ヴィジョン)」です。といってもヴィジョンがあるから情熱があるとも言えます。この「結果(ヴィジョン)」に到達するために「苦労」が大きな意味を成します。そしてその「苦労」が重なって「才能」と呼べるものが明確になり、次第に開花していくのではないでしょうか。さらにこれが上記の④の状態であれば、その人は世にも素晴らしい仕事を達成することができる、と思います。
私も偉いという言葉をどのようにらえようかな、と考えました。
課題や状況によって違うので一概に判断できないでしょうが、単純に考えてみました。
同じ課題を達成した人のうち、苦労した人と、簡単にできた人、のどちらが高く評価されるかな?と考えると、日本では一般的に、苦労した人の方が高く評価されるような気がします。
子どもの頃、観光地に、なぜか「努力」「根性」という盾が売られていましたが、それらが尊ばれる土壌があった証拠かな、と思います。
何かが簡単にできれば、要領がいいだけでしょ、もっと努力しなさい、という言葉が返ってきたように思います。
その人にとって簡単な課題から、段々難しい課題に挑戦できる仕組みがあれば、こんな言葉も励ましになるでしょうが、同じ課題を皆同じようにこなす仕組みしかなければ、簡単にできる人の才能は、まわりに関係なく勝手にどんどんやっていける人でないかぎり、伸びていかないと感じます。
義務教育について考えてみると、日本に飛び級がなく、落第が忌避されるところからも、普通の人よりも簡単に課題ができる人が持つ才能を伸ばす、という考え方は指導する側にはないのかな、そして、苦労する生徒にはひたすら努力を強いるのかな、と感じます。
「これを達成するのにすごく努力した。」という人に、ねぎらいの言葉がかけられるシーンは容易に想像できますが、「簡単にできた。」という人に対しては、そのようなシーンよりも、比較的冷淡な反応を想像してしまうのは私だけでしょうか?
以上は、私が周りから感じた評価です。
私自身は、子どもの時にこのように感じました。
(楽器演奏など、スキルを磨く系の課題ですが…)
努力しないで簡単にできることは、自分がなぜ簡単にできるかわからないまま、できてしまうので、そのあともっと努力して上手にできるようにいろいろと工夫するのが難しく、できただけで終わってしまう。
一方で、最初になかなかうまくいかず、いろいろと苦労してできるようになったことは、工夫するコツや少しずつ前に進む楽しみが励みになるからか、さらに先に進んでいけるようになり、結果として簡単にできたことよりも、良い結果を出せる。
最初から簡単にできる、とうかれてはいけない。要注意!
こう書いてみて、これも、日本という国にいるからならではの体験かもしれない、と思いました。自然に肯定的に受け止められると感じたことをやっていた、単純な子供だったのかもしれません。
そして私の勉強机には、「根性」という盾が置かれていました。(つまり、根性が足りない、とみられていたのでしょう)
どちらが偉いか、には答えられないです。
けれど、どちらの人も、「偉い、偉い」と“素直に”受け入れられて、さらにステップアップすることを後押しする社会であって欲しいと思います。
ある人ができることが才能、その才能を使って苦労して出した結果を、周囲との相対的な評価だけではなく自分の中で評価する基準を持っている人は、どんな環境にあっても幸せだと思います。
課題や状況によって違うので一概に判断できないでしょうが、単純に考えてみました。
同じ課題を達成した人のうち、苦労した人と、簡単にできた人、のどちらが高く評価されるかな?と考えると、日本では一般的に、苦労した人の方が高く評価されるような気がします。
子どもの頃、観光地に、なぜか「努力」「根性」という盾が売られていましたが、それらが尊ばれる土壌があった証拠かな、と思います。
何かが簡単にできれば、要領がいいだけでしょ、もっと努力しなさい、という言葉が返ってきたように思います。
その人にとって簡単な課題から、段々難しい課題に挑戦できる仕組みがあれば、こんな言葉も励ましになるでしょうが、同じ課題を皆同じようにこなす仕組みしかなければ、簡単にできる人の才能は、まわりに関係なく勝手にどんどんやっていける人でないかぎり、伸びていかないと感じます。
義務教育について考えてみると、日本に飛び級がなく、落第が忌避されるところからも、普通の人よりも簡単に課題ができる人が持つ才能を伸ばす、という考え方は指導する側にはないのかな、そして、苦労する生徒にはひたすら努力を強いるのかな、と感じます。
「これを達成するのにすごく努力した。」という人に、ねぎらいの言葉がかけられるシーンは容易に想像できますが、「簡単にできた。」という人に対しては、そのようなシーンよりも、比較的冷淡な反応を想像してしまうのは私だけでしょうか?
以上は、私が周りから感じた評価です。
私自身は、子どもの時にこのように感じました。
(楽器演奏など、スキルを磨く系の課題ですが…)
努力しないで簡単にできることは、自分がなぜ簡単にできるかわからないまま、できてしまうので、そのあともっと努力して上手にできるようにいろいろと工夫するのが難しく、できただけで終わってしまう。
一方で、最初になかなかうまくいかず、いろいろと苦労してできるようになったことは、工夫するコツや少しずつ前に進む楽しみが励みになるからか、さらに先に進んでいけるようになり、結果として簡単にできたことよりも、良い結果を出せる。
最初から簡単にできる、とうかれてはいけない。要注意!
こう書いてみて、これも、日本という国にいるからならではの体験かもしれない、と思いました。自然に肯定的に受け止められると感じたことをやっていた、単純な子供だったのかもしれません。
そして私の勉強机には、「根性」という盾が置かれていました。(つまり、根性が足りない、とみられていたのでしょう)
どちらが偉いか、には答えられないです。
けれど、どちらの人も、「偉い、偉い」と“素直に”受け入れられて、さらにステップアップすることを後押しする社会であって欲しいと思います。
ある人ができることが才能、その才能を使って苦労して出した結果を、周囲との相対的な評価だけではなく自分の中で評価する基準を持っている人は、どんな環境にあっても幸せだと思います。
まず、どちらが偉いかといえば、どちらも同程度、偉いと思います。なぜなら、結果はどちらも満点だからです。しかし、どちらがすごいかといえば、苦労して満点をとった方だと思います。苦労した方は、何か自分にとって難しいこと、できないことに挑戦し、それを乗り越える過程を得ています。しかし、苦労せずにできた人にとっては、なんの負荷もかからず、その人にとっては変化が起こりません。もちろん、苦労せずにある課題をできるというのは、過去になんらかの苦労をしていたのかもしれないし、makin8sさんの言うように、個人の苦労の量と質を公平に測定することは難しく、単純に才能があるとか言い切るのは乱暴だと思います。でも、ここで僕が重要だと思うのは、課題をする前と後で、その人にとって変化が起きているかどうかということです。苦労して新しいことが出来るようになるということは、その人の頭のなかで何か新しいことが起きている、大げさにいえば人間が変わっているということであります。余裕でできてしまうというのは、その時点で、その人にとっては既に刺激的なことはなく、特に意味がないと思います。ですから、ある課題を苦労せずできてしまう、相対的に才能があると評される人は、その人が必死に努力しないとできないような課題に取り組むべきで、簡単にできてしまうような課題には取り組むべきではないのです。そうすることで、個人にとっても、社会にとっても利益につながると(良い作品が生まれる)思いました。
あえて片方の主張をします。
苦労をして課題の満点を取る方が「偉い(=有意)」のではないでしょうか。
苦労せずに満点を取るとは、極端に言えばすでにやれることをやったのみとも言えます。
折鶴を既に作れる人にとっては、何度やっても満点ですから何の進展もありません。
当たり前の結果として現れるだけだと思います。
強いて言えば、その人の当たり前な実力を他者が確認できたという点でしょうか。
一方、何も知らずに折鶴はまず作れません。
満点を取るためには折り方さえ分かれば可能ではありますが、いざテストするとなるとそこには練習が必要になり、時に指導を求めなければならないでしょう。その上で満点を取れたのならば、それだけで価値があるものと思います。向上があったからです。
そこに出る成長の有無を見るならば「努力して満点を取ったほうが偉い」と思う訳です。
苦労をして課題の満点を取る方が「偉い(=有意)」のではないでしょうか。
苦労せずに満点を取るとは、極端に言えばすでにやれることをやったのみとも言えます。
折鶴を既に作れる人にとっては、何度やっても満点ですから何の進展もありません。
当たり前の結果として現れるだけだと思います。
強いて言えば、その人の当たり前な実力を他者が確認できたという点でしょうか。
一方、何も知らずに折鶴はまず作れません。
満点を取るためには折り方さえ分かれば可能ではありますが、いざテストするとなるとそこには練習が必要になり、時に指導を求めなければならないでしょう。その上で満点を取れたのならば、それだけで価値があるものと思います。向上があったからです。
そこに出る成長の有無を見るならば「努力して満点を取ったほうが偉い」と思う訳です。
とても面白い議題だと思います。
それは、「偉い」ということをどのように定義するか、という点でこの議論の行き先が変わってしまう、というところにあると思います。
そう思ってみた時に、「偉い」という言葉が崩壊してしまいました。
偉い、って、こういう時の評価は完全に「上から目線」のような気がしますが、本来、そういう使い方の単語だったのでしょうか?
誰かを何かの論理的な理由によって評価できる、ということは(つまり今回のような二つの条件をもってどちらかがもう一方よりも〇〇であると判断することは)、つまりは、私はその論考についてよく知っている、ということを前提にしますよね。
その論考について、自分はよく知っている、という前提は、完全に不当前提であり、そこから見下した議論になる、っていうことですよね。
そうすると、「偉いの判定をする私」が一番偉い、という立ち位置になると、この問いをみて思うのですが、そんなに傲慢で良いのでしょうか?
しかも、「偉い」ということが、何に繋がるのかがよく分かりません。
例えば、「あなたがとある会社の社長であるとして、どちらを採用しますか?」とか、そうした具体的な質問であれば条件を整えるとして、返答ができると思いますが。
ということで、面白そうな議論になりそうなので、横から拝見いたします。
それは、「偉い」ということをどのように定義するか、という点でこの議論の行き先が変わってしまう、というところにあると思います。
そう思ってみた時に、「偉い」という言葉が崩壊してしまいました。
偉い、って、こういう時の評価は完全に「上から目線」のような気がしますが、本来、そういう使い方の単語だったのでしょうか?
誰かを何かの論理的な理由によって評価できる、ということは(つまり今回のような二つの条件をもってどちらかがもう一方よりも〇〇であると判断することは)、つまりは、私はその論考についてよく知っている、ということを前提にしますよね。
その論考について、自分はよく知っている、という前提は、完全に不当前提であり、そこから見下した議論になる、っていうことですよね。
そうすると、「偉いの判定をする私」が一番偉い、という立ち位置になると、この問いをみて思うのですが、そんなに傲慢で良いのでしょうか?
しかも、「偉い」ということが、何に繋がるのかがよく分かりません。
例えば、「あなたがとある会社の社長であるとして、どちらを採用しますか?」とか、そうした具体的な質問であれば条件を整えるとして、返答ができると思いますが。
ということで、面白そうな議論になりそうなので、横から拝見いたします。
Discussion is valuable when you think about why rather than what you are studying.
I will introduce an imaginary girl into the discussion.
There's a story of her labor.
For some reason, she had to go through hardships.
Still she became a girl who could understand other's problem because she had had a hard time herself.
In other words, she had an excellent talent as a person who has a proper understanding of people.
She had showed a talent for a friendly conversation.
And these things were the result of her hard work.
Let me say a few words in conclusion.
She, an imaginary girl into the discussion, was my counselor. Oh my god.
Thank you for reading my story. See you.
I will introduce an imaginary girl into the discussion.
There's a story of her labor.
For some reason, she had to go through hardships.
Still she became a girl who could understand other's problem because she had had a hard time herself.
In other words, she had an excellent talent as a person who has a proper understanding of people.
She had showed a talent for a friendly conversation.
And these things were the result of her hard work.
Let me say a few words in conclusion.
She, an imaginary girl into the discussion, was my counselor. Oh my god.
Thank you for reading my story. See you.
ペーパーテストの場合、同じだけ偉いと思います。苦労した方が偉いというのは、苦労が必要なかった方にとって不平等だからです。難しいのは、苦労せず満点だった人と最大限努力したけど満点が取れなかった人を比べた時、満点の方が偉いのかどうかです。先ほどと同じ理由で、苦労した方が偉いとは思いませんが、満点の方が偉いともハッキリ言えません。
ただ、実際の世の中には満点は無いと思います。フィギュアスケートですら、公平な点数化は最大の課題です。
また、苦労の量も公平には測れません。ここ数日だけの苦労をいうのか、幼少からの累積苦労なのか。苦労の量とは費やした時間なのか、質なのか。
更に、才能かどうかを区別するのも難しい。長身やイケメンは才能と言えますが、それが結果に対してどれだけのウエイトを占めたのか、測る術はありません。
行き着くところ、私は結果を重視するケースもあれば、過程を重視するケースもあり、好みで評価しています。
(イチロー選手の成績は素晴らしいと思いますが、メジャーでも本塁打に挑戦する松井秀喜選手に惹かれます。)
心の中の評価は別として、人を教育するための評価であれば過程を重視した方が望ましいと思います。結果を褒めると難題に挑戦しなくなる恐れがありますし、努力を褒めれば更に努力するかも知れません。
ただ、実際の世の中には満点は無いと思います。フィギュアスケートですら、公平な点数化は最大の課題です。
また、苦労の量も公平には測れません。ここ数日だけの苦労をいうのか、幼少からの累積苦労なのか。苦労の量とは費やした時間なのか、質なのか。
更に、才能かどうかを区別するのも難しい。長身やイケメンは才能と言えますが、それが結果に対してどれだけのウエイトを占めたのか、測る術はありません。
行き着くところ、私は結果を重視するケースもあれば、過程を重視するケースもあり、好みで評価しています。
(イチロー選手の成績は素晴らしいと思いますが、メジャーでも本塁打に挑戦する松井秀喜選手に惹かれます。)
心の中の評価は別として、人を教育するための評価であれば過程を重視した方が望ましいと思います。結果を褒めると難題に挑戦しなくなる恐れがありますし、努力を褒めれば更に努力するかも知れません。