トップ 書籍一覧 メルマガ一覧 ご利用ガイド サロン・通信講座

責任を取るとはどういうことか

企業の不祥事などが起きると、社長が出てきてテレビの前で頭を下げるというのがお約束になっています。しかし、はたしてそれで責任を取ったということになるのでしょうか。

あるいは、何か問題が起きた場合に、その組織のトップが辞めるという形で責任を取ることがあります。しかし、辞めたからといって、事態が解明され、状況が改善されるとは限りません。はたしてこれで責任を取ったと言えるのでしょうか。

損害を与えたら、その分を賠償するというのが民法上のルールとしてはあります。それで公平さが保てる場合もあるし、とても納得ができないという場合もある。

このように、「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。

あるべき責任の取り方とは、どのようなものなのか。みなさんのご意見をお待ちしております。

その他のテーマ一覧
NO.112012-04-14 22:18:10 makin8s 0
難しいお題ですね。身の回りの経験を思い返します。
「スピード違反で罰金を払った」⇒法の範囲で責任を取ったと言えるでしょうか。
「居酒屋のバイトで客の服に飲み物をこぼし、クリーニング代をバイト代から天引きされた」⇒店のルールで責任を取りました。
「部活の試合の集合時間に遅刻して、試合に出れなかった」⇒監督の判断に従って責任を取らせれました。

共通点は、事前にルール化されていること。つまり責任を取るには、失敗する前にルール化しておく必要があります。

もう一つの共通点は、失敗した本人が集団のトップでないことです。トップが難しいのは、ルールを自分で決められること。これを解消するために、大きな企業は株式会社化した方が望ましいのでしょう。

ただ、首相も選挙で責任を問われますし、有限会社の社長や個人事業主も社会の経済環境に晒されており、失敗すれば何らかのダメージを受けるはず。グローバルな環境に晒されてさえいればトップも成り行きで責任を取らせれます。

私の結論は、責任の取り方は自分で決めることではないということ。社長や大臣の引責辞任に不満を感じるのは、それを自分の判断で決めたのではないか?という疑念があるからではないでしょうか。

NO.102012-04-14 16:59:36 orcamie 0
責任を取るということ

私はまず、不祥事や問題を起こした時点である意味責任を取る能力に欠けるということを示しているのではないかと思います。従って責任を取らせるという仕組みが社会にしっかりあることが重要なのだと思います。今“責任をとる”事の意味を考えるのはきっと比較的大企業や政府や政府系機関が不祥事を起こした場合なのかなと思いますが。

日本社会は 不祥事が起きた場合にその責任を取らせるという仕組みがまだ不完全ではないかと思います。きっと日本社会だけでなく他の国々も不完全です。日本は諸外国に比べて感情的に物事をとらえる側面があると思います。しかし今では日本の国民は不祥事に対してどのように責任が取られるかという関心が昨年の大地震や原発事故以来非常に高まっています。

ひとつの例として2001年にアメリカハワイ沖で宇和島水産高校の実習船がアメリカ軍原潜「グリーンビル」に衝突されて沈没した事故を思い出します。アメリカ海軍の艦長は事故後の記者会見で頭を下げなかったと日本側に非難の声があったように思います。艦長はその後更迭されましたが、不名誉除隊ではなく軍人年金受給可能な一般退職したとのこと。この時の森喜朗首相は事故の一報を受けた後もゴルフを続けたということで非難されました。

責任を果たすという意味で 問題が起きる前の 原状回復は最低限の責任です。一旦起きてしまった事故や事件では ほとんどの場合被害者となった人々はその問題が起こる以前の状態にもどることは不可能です。そして一番問題なのが被害者の立場にならなければその状況を真には理解できないということもあります。被害者を社会的に孤立させないということも重要です。そういう意味でメデイアの力も大きな意味合いを持ってきますが 政府や大企業はしばしば大広告主ということもありメデイアが圧力に屈せずに真実の姿を伝えられるのか。そして政府や大企業が自らの立場を国民ひとりひとりと共に歩もうという姿勢があるか。そしてそういう社会を作るのはそこに暮らす一人一人の責任でもあります。2001年の潜水艦の事故では沈没した船が高校生の実習船であったということがあまりアメリカ社会に伝えられなかったということがありました。もしもその事実がアメリカ社会で広く知られた場合結果が違ったのでしょうか。私がアメリカ側が加害者の例を挙げたのは、日本社会の中で被害者も加害者も日本人である場合、日本の人々にとってそれだけで見えない部分というのがあるのではないかと思うのです。特にすぐには解決できないような大きな問題が起きたときにそれを必ず解決するという強い信念を社会全体が解決するまで持ち続けなければいけない。自らの暮らす国、地球を住み良い場所にするにはそこに暮らす人の覚悟というものが必要ですね。

NO.92012-04-14 07:12:17 yamaguti 0
「責任をとる」とは加害者(社)が、原因事象を各々の個人的な問題として引き受けて、政治的身体的能力の限りにおいて被害者に対応する、問題解決に努めることでしょうか。

辞めるのは、他に適切な能力者がいて交代する場合だと思いますので、引責辞任する役職は、代替者がいる役職なのでしょうし、ほとんどの場合は、対外的理由よりは加害者内部の力関係で辞めているのではないでしょうか。
被害者側から”辞めろ”と言われるのは、原因事象により利益を上げている場合のように感じます。

NO.82012-04-13 13:19:35 masami 0
「責任を取る」というのは、よく聞く言葉でありながら、実際にはなかなか難しい問題でもあります。

本当にそう思います。責任の所在って本当に明確にできるものなのかな?と思います。
「責任をとる」と言う言葉自体に、きれいに納まるはずのないものを、体裁よく整えましょう、という意図が含まれているようで、私は好きではありません。

このお題に関連しているように感じる今日の内田樹さんのツイート‏ @levinassien

すべての政策は未来予測を含んでいるので、「絶対に正しい」ということはありません。常に失敗のリスクがある。統治者の仕事は「失敗する可能性についてのできるだけ長いリストを作ること」と「プランAが失敗したときのプランBを用意しておくこと」です。

誰かを処罰して責任を免れるのは「プラン」とは呼びません。

日本の総理大臣が頻繁に変わるのは制度が合理的だからではなく、「失敗したときのプランB」を用意する習慣がないからです。「私の政策は失敗だった」という宣言を他人に指摘されるより早くなせる人間だけが「処罰」される前にプランBにシフトできます。

政策だけではなくて、あらゆることに通じるかな?と感じます。
このツイートの言葉を借りて私の考えを書いてみます。

プランBを思いつけなかった人が辞めることが責任をとったことなるとは思わないし、プランBを思いつけなかった人に責任をもって後処理させることも、起こった問題を解決するのに最適な方法とは思えません。

何か問題が起こったとき、私はその問題に関わり得た人すべてに責任があると思います。
そこには、プランBを思いつけない人に、その仕事を任せた人たちも入ると思います。

一旦問題が起こったとき、そこで、だれに責任があるかを云々することは、問題解決に何の役にも立たないと思います。深刻な問題であればあるほど、責任の所在を追及している間に、問題解決のために自分の能力を発揮できる人たちが集まって、努力すればいいことだと思います。私には責任がないから、と自分の能力を出さずに傍観していて、幸せになれる人っているかな?と思います。

あ、これ、いじめの構図と同じかな?と思いました。
傍観者もいじめに加担している。
これはもう、常識でしょうか。

揃って頭を下げる謝罪会見は、マスコミとテレビ視聴者が作り上げた純粋に形だけの謝罪だと感じてます。あの会見を見て、謝ったからいいだろう、と感じる人がいるのだろうか?と疑問に思います。

責任の追及、責任をとる、謝罪会見
ここら辺のことは、これらが必要だと感じる人たちの間でくるくると回していればいいのではないでしょうか?

そんなことにかかわりたくない人たちが、責任についていろいろ言いたい人たちに邪魔されることなく、協力して実際の問題解決にさっさと取り組めるような社会であって欲しいです。

NO.72012-04-10 22:31:34 ryosuke85 0
poporonさん、wwefanさん

お二人の仰っている事確かに、同意できます。
というのも、“責任”の所在がわからなくさせることが、日本人は得意ですよね。
高城剛さんは、それを評して“日本的システム“という言葉を使われています。

確かに、責任の所在がハッキリしないところには責任の取り方が無いのと一緒ですよね。
責任の所在がハッキリしない事が物事の進展を硬直化させていることの一因であるともいえます。
ということは、まずは“責任の所在”をハッキリさせる事が責任を取ることの第一歩だといえるのでしょうか。
それはどうしていけばいいのだと思いますか。
やはり教育、と子供達にむけてしまうことになるのでしょうか。

NO.62012-04-10 22:24:15 ryosuke85 0
責任を取る事について

責任というのは、信頼という言葉と表裏一体では無いでしょうか。
責任を取って云々、という文言が出てくる際には、たいていが社会的な信頼を失った場合に聞かれることが多い様に思います。

自らの立場に責任という言葉を想起すると、信頼されている以上裏切るような事は出来ない、という気持ちが働きます。これは株式会社でも同じでは無いでしょうか。

責任を取るという行動として示すには、そもそも、その信頼を損ねる原因となった人間が舞台から降りてしまった場合、成り立ちません。

だからこそ、ミスが生じたのであれば、ミスをミスのまま、それを避けるのでは無く、向き合って再発防止を任せる方が適切なのでは無いでしょうか。

取り返しのつかないミスというのは、確かにあるとは思います。
しかし、だからと言って、仮にも信頼を置かれている人間を排除していい理由にはならないでしょう。

暴力的な言い方かもしれませんが、例えばお酒で失敗した人がいたとします。
その人がお酒を避ければ問題が解決をするのでは無く、自分と酒との関係をきちんと見つめて対策を自らが講じないと解決できないはずです。

ミスというのは、何かを見落としている、気づいていない人間が起こすものではないか、というのが最近の自分のミスに対する考えなのですが、それを基に考えると、その人間が、そもそも何を見落としているのか、何に気付くべきなのか、という所が分からない事には、上で述べた信頼を回復する事にはならず、それは結果的に責任を果たす事にはならない、として僕の意見とします。

NO.52012-04-07 10:02:56 tomoyuky 0
責任をとる以前に、責任を追求されるような問題を起こさないことが、真の意味での「責任」だと思います。私は建築の仕事を行っていますが、建築関連の法令は、不具合の発生を未然に防ぐという側面と、不具合を発生させた場合の罰則という側面の二本立てです。おそらく他の法令もだいたい似たようなものだと思います。しかし、その法令にも落とし穴があります。即ち、不具合を未然に防ぐことの大前提として、法令の縛りを受ける者が、やるべきことを適切に行っている、というお約束があるのです。具体的な例をあげると、構造計算においては荷重条件を適切に設定しているとか、コンクリートを打設する際には意図的に水を混入(いわゆる「シャブコン」)していないとか。建築確認や検査を行う自治体の方達も、そんなところまで突っ込んで確認や検査を行うことは不可能です。「適切」かどうかの確認というより、「適切」なことがなされているだろう、ということの判断にしか過ぎません。よって、「責任」という言葉は、その者が諸々の問題に対して、普段からいかにして誠実かつ確実に対応していくのかということを表しており、「責任をとる」ということは、やるべきことをやるという、当たり前のことを表しているのだと思います。謝罪する暇があったら、発生した問題を解決するために最大限の努力をする方がよっぽどましです。謝罪はあくまでも国民感情を抑えるための対社会的なバリアーに過ぎません。

NO.42012-04-05 23:13:04 wwefan 0

責任をとりましょう→じゃあ辞めます。

最近よく目にする光景ですけども・・・これは間違ってると思う!


責任をとると言っているあなたは、一体どこに責任があると思っているのですか?と尋ねたい。

その責任は自分自身にあるのですか?
だったら辞めるという行為は、ただその責任を後任の誰かに押し付けるだけでありあなた自身責任なんかとってません。

では「責任を取る」とは?
それは何か起こった問題に対して、それを元通りに戻したり、解決するための全力の努力にあると思います。
元通り解決できてしまったらこれはそれは責任を「果たした」ことになってしまいます。

つまり批判や苦しみに耐えながらも、ひたむきな問題解決への努力が「責任をとる」ことだと思います。


ここからはこの話題とは関係ないです^^;

「3.11以後」読みました。
原発問題について今まで自分なりに考えてきたつもりでしたが、初めて今まで参考にしてきた人たちとは全く違う立場の人の意見を読んで僕の中の価値観が少し変わりました。
何事も一つの偏った視点から意見をもつのは危ないことなんだと思いました。

長々とすいません(汗

NO.32012-04-05 12:21:01 greengarden 0
1.まず、謝罪する。
2.そのような事態が起こった理由を説明する。
3.今ある問題を解決する方法と、同じことが起こらないようにする対策を考える。
4.「3.」で出した答えを実行する。
5.結果を公表し、社会の評価を待つ。

上記5項目を迅速に行うことが、最低限の責任だと思います。


NO.22012-04-04 23:56:28 poporon 0
トップの人が頭を下げることや辞めることは、ただの「責任逃れ」「ごまかし」です。

責任を取るということは「あるべき姿、状態にする。」ことではないでしょうか。

不祥事が起きたら責任者(トップ陣)が「何故それが起きたのか原因を徹底的に調べる。」
「その原因を根絶する為のシステム改善や意識改革を徹底する。」ことではないでしょうか。
ここまできて初めて「責任を取る」と言えるのではないでしょうか。

同じように政治家などの「不適切な発言」に対して辞めることで責任を「取らせる」今の風潮は
おかしいと思います。

本来、不適切な発言に対する責任の取り方は、その発言に対する抗議に「釈明」することではないでしょうか。

責任を「取る側」も「要求する側」も「履き違えている」ように思います。



NO.12012-04-04 15:16:13 chigusaotsuki 0
何かの物事において、
結果が良ければ、それでよし、
結果が悪かったら、結果の責めを負う、
ということでしょうか?

組織に、透明性があったら、
結果が悪くなる前に、
皆で、力を合わせて、何とか、できそうなのに、
隠してしまうと、いけないような、気がします。