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総選挙の争点には何をおくべきか

衆議院総選挙の日程が決まりました。次の政権を担う政党はどこなのか、みなさんそれぞれの問題意識を持って選挙戦の行方を見つめていることと思います。ところで、選挙において「争点」というのは、とても重要な要素です。この争点の設定によって、少なくともそれぞれの政党が何を問題視しているのかを示すことになるし、そして選挙の結果が出れば、少なくとも「争点」になったことについては民意が明らかになります。

みなさんは、次の総選挙においては、何を「争点」とすべきだと思いますか。原発についての態度でしょうか。TPPを受け入れるかどうかでしょうか。憲法を改正すべきかどうかでしょうか。近隣諸国との付き合い方でしょうか。あるいは、経済的格差に対する考え方でしょうか。

もし、誰も思いついていないような意外な争点がありましたら、それを教えてくださっても結構です。さあ、議論しましょう。

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NO.102012-11-29 20:11:01 Tomoikukai 9
chigusaotsukiさんの投稿を見ているうちに、「狭いながらも楽しい我が家」という、戦後、エノケンが歌った歌詞が思い出されました。また、中学時代に英語の教科書に載っていた、オーヘンリーの「The Gift of the Magi」の短編も甦ってきました。私達の子供の頃の「貧しさ」というイメージは、家族の暖かさによってもたらされた幸福感に満ちていた様に思います。一方、金持ちの家は、どこか冷たく、家族同士が空々しく見えたものです(そうはいっても羨ましかったけど)。私の家は、両親が、共稼ぎの教師で、その頃は、教師といえば、デモシカ先生(先生にでもなるか、先生にしかなれない)といった時代でした。給料も一般の人よりも低く、エンゲル係数も50を越えていたと思います(父が、結核を病んで、体力をつけるのに食事にお金をかけたということもある)。狭い畑で下肥を肥料に野菜を作り、市営住宅なのに、日曜大工で風呂場を増設しました(後でおこられたけれど、許してもらった)。風呂の水汲みは、いつも鍵っ子の私たち姉弟です。そこには、小学校4年生までいました。お釜のご飯も炊いたし、薪割りもした。あとは、母親がご飯の用意ができたと呼びに来るまで、川や田んぼでガキ大将を中心に転げ回っていました。その頃は、家庭を持っていれば、アル中になるほどお金に余裕はないし、お母ちゃんも、お父ちゃんになんか負けていなかった。夫婦喧嘩は犬も食わないといって、皆んなほっておいたものです。

そんな風景が変わり始めたのは、東京オリンピックや東海道新幹線が開通した頃。時の池田勇人首相が所得倍増計画を打ち上げた頃からです。高度経済成長の波に乗り、田中角栄首相の教師聖職論によって、教師の給料もどんどん上がっていきました。「貧乏」が中流へ、それから世間全体が「にわか成金」の相を呈してバブル経済の崩壊まで突っ走っていったように思います。「にわか成金」の時代は、1980年からほんの10年ぐらいのものだったのではないでしょうか。東南アジアに団体で買春旅行に行ったり、キーセン観光が華やかだったのはこの頃のことでしょう。それから、失われた20年、考えてみれば、「貧乏人が、大金をつかんだらろくなことにはならない」そのまんまで、「The Gift of the Magi」の夫婦が、宝くじに当たって、有頂天になって、お金を使い果たし、最後に金の鎖と髪飾りも売りに出してしまったようなものです。何かが間違っていた。そう思いませんか?

何かが間違っていた。時代に流されない心ある人達は、そう思っているのでしょうが、それがなんだったのかは、なかなかはっきり見えてこない。見えてこないとこれからどうするかの方策もままならない。そういうことではないでしょうか?

今、総選挙の焦点に、原子力発電所を維持するのか、脱原発でいくのか、あるいは、TPPへの参加問題を争点にするのか等の話題が持ち上がっていますが、果たしてこの問題を解決できれば、本当に、日本の将来が明るくなるのでしょうか?全く展望が見えてこないような気がします。「にわか成金」が犯した過ちは、これくらいのことでは取り返しがつかないように思いますが、いかがでしょうか?少なくとも、chigusaotsukiさんの表現された、この世の地獄を「狭いながらも楽しい我が家」に変えるのは、こんなことでは実現しそうにありません。

そんなことを思いながら、前の自分の投稿を眺めていて、ふと思うことがありました。「完全に錆び付いてしまった官僚支配の政治経済社会システムを一新する」というところですが、政治経済社会システムは、一緒くたのものなのかなと思ったのです。経済はお金の世界だし、社会はお金抜きにした、利他の繋がりが幸せです。それなら政治とは? その二つの世界をうまく橋渡しする為にあるのではないかと思えたのです。我々は、「にわか成金」の時代に、お金があることと、幸せであることとを、完全に混同してしまったのではないでしょうか。そして、それが、形骸化した儒教道徳と相まって、すべてのシステムでうまく動かなくなったということではないでしょうか。これは、ここで一度それぞれのシステムを出来るだけ区別して、お互いの役割を再検討してみたら、あるいは解決の糸口が見えてくるのではなかとおもえたのです。

大まかにいうと、経済システムは、グローバル化の中で、どうしても効率化して、競争力をつけなければならないので、今までの、年功序列や終身雇用は廃して、完全能力主義、自由競争主義を実現します。当然、競争に負ければ、舞台からは退場しなければなりません。よけいな福利厚生も全廃して、企業の収益力を出来るだけ高めます。これは、企業戦士の世界ですが、勤務時間や、有給休暇等、TPPの手前もあるので、休日は一部の職種を省いて、家族の為に厳格に守るようにします。これは、いわば、自動車でいうとエンジン部分なので、能力のある、また、やる気のある若者が大量に必要となります。実力次第で、いくらでもお金が稼げるし、お金で得られる幸福は、いくらでも手に入ります。然し乍ら、労働人口のほとんどの部分をこれに当てるという必要はないと思います。日本のように高度に工業化した国では、効率化を追い求めれば、必要な労働力は、それほど多くはないと思います。一方で、世の中には、そんなにお金が得られなくても、悠々と幸福な人生を送りたい人、子供、年を取って働けない人、世の中の為に働きたい人、我々のように、人の心に幸福を届けたい宗教家、芸術家、冒険家、スポーツ選手等々、色んな人生を歩む人がいます。これらの人々は、自由競争や実力主義にはなじみません。しかし、これらの人こそ、幸福で生き生きした社会の主たる構成員ではないでしょうか。これらの人が活躍する場所は、あるいはNPOであったり、ボランティアであったりしますが、地域では、経済を牽引する企業戦士と共に豊かな社会を実現します。そして、それを実現させるよう、社会の仕組みを考えて政策を行うのが、政治システムということになりはしないでしょうか。人々の福利厚生は、この政治システムの中で行います。ベーシックインカムは、こういうモデルを考えたとき、最良のシステムだと思われます。エネルギー政策や、外交、教育問題等も、国民の声を吸い上げながら、時には、国民に理解を得ながら民主的に推進していきます。

そして、経済の部分をエネルギーを生み出すエンジン部分として、ある程度生身の人間社会から切り離すことが出来たなら、そちらは、先端科学の現場としておいて、一般社会の中には、昔の日本文化を復活出来たらと思っています。鹿鳴館時代からおかしくなった、西洋と東洋のごちゃ混ぜを切り離して、純粋に日本の心を取り戻したい。旧暦や、尺貫法を取り戻し、節句や行事、日本の伝統文化、芸能や、職人技術を復活させたい。経済システムがうまく稼働し、スローライフ、手作りライフを愛する人が数多く出現するようになれば、こんなことも実現不可能ではなくなるような気がします。これは、一見グローバル化と矛盾しているように思われますが、私は、これこそが、日本が世界の中に貢献できるグローバル化の切り札なのではないかと思っています。また、世界中の人も、それを期待していることでしょう。平和で、魅力あふれる日本には世界中から人々がやってくることになるでしょう。何を残し、何を廃するのか、今から楽しみです。

それから、TPPやFTAの問題で、農業の自由化が、農業を壊滅させるのではないかという、グローバル化に対する恐怖心がよく聞かれますが、これも、経済と社会システムを別々に考えることによってある程度は乗り越えることが出来るのではないでしょうか。つまり、今でも、競争力のある農業は存在する訳で、問題は、中途半端に存続し続ける、農協を維持する為だけの農業です。既に競争力のある農業は、TPPやFTAによって、ますます競争力を身につけていくと期待されますから、経済システムの中で自由競争を進めていってくれると思います。一方、残りの中途半端な農業の方ですが、私は、ハイテクや、住宅産業と結びつけて、情報集約型自給自足農業を実現したらどうかと思います。このアイデアは、施設ハイテク園芸も考慮に入れながら、スローライフを実現する、大家族や、コミュニティー単位の自消自産を想定します。自分たちの食料を自分たちで作るのですから、経済性はある程度目をつぶることが出来るし、無農薬や、有機農法への取り組みも期待できます。勿論、これだけでは、日本の食料自給はすべてまかなう訳には行かないとは思いますが、ベーシックインカムを想定すれば、他のSOHO、フリーランスなどの職業とも組み合わせて、山の中や、今では荒廃してしまった山村を開発して、コミュニティーを作ることも夢ではないと思います。高度ハイテク化できれば、世界中の農業者とも情報交換も可能だし、住宅、ハイテク産業には、ノウハウが蓄積された段階で、世界中、砂漠や、未開地にも、自給自足システムを売り込むことも可能になるのではないでしょうか。

まだまだ、経済システムを、社会システムと切り離したところから出てくるアイデアは尽きませんが、何はともあれ、落ちるところまで落ちでから、これらのアイデアを実現しようとしても、10年も20年も遅れてしまうと思うので、まだ、少しは経済的に自由が利く、なるべく早い時期に政治経済システムのリセットを国民合意の上で実現することが出来れば、日本の未来もまた明るい日が昇ってくるような気がしますが、いかがでしょうか?

NO.92012-11-29 09:08:32 茂木健一郎 0
chigusaotsuki さんのおっしゃる通り、不平等(inequality)の問題は、今回の選挙の最大の争点の一つでなければならないと思います。不平等が放置されると、国民総幸福(Gross National Happiness)だけでなく、国民総希望(Gross National Hope)が低下すると思うのです。
このことについては、今日、メルマガの号外で書こうと思います。

NO.82012-11-27 16:39:36 chigusaotsuki 9
私は、経済的格差について。

貧しいって、どういうことか、わかりますか?
焼身自殺、アルコール依存、暴力、DV、離婚、別居、ひきこもり、あたりまえなんです。中学校では、友達が、カッターナイフで、友達の腕を、切りつけて、素手で、ガラスを割るんです。

はっきり言って、政治なんて、きれいごとです。
教育だって、学校で、習っていることと、実際に、生きている家族、地域と、違いすぎて、かえって、悪循環です。

私は、貧困層で、生まれ育ったから、悲しいことが、いっぱい、ありました。
そして、きれいごとを言う人間が、助けてくれないのも、わかっています。

経済の格差が、人間である格差であって、
貧しくて、生きるだけで、せいいっぱいの人たちに、教育だからと、美しい話を、されても、それじゃあ、生きていけないんだよって、余計に、苦しくなるんです。
そして、必ず、そのしわ寄せは、力のない女性や子どもたちのところに、くるんです。

子ども手当だって、自分の借金の返済のためにつかって、子どものために、つかわないとか、意味がないんです。
じゃあ、説教したら、治るんですか。
生活費、出してくれるんですか。

私は、政治の争点は、力のない人たちにこそ、力をあたえることだと、思います。
そして、教育の争点は、実際の生活の中からこそ、生まれてくるもので、画一的な教科書は、画一的な知識でしかなく、白か、黒かで終わり、他の色を知ることなく、生きていくことだと思います。
実際と、隔離していては、意味がないです。

NO.72012-11-25 10:38:10 茂木健一郎 0
「右傾化」「逆戻り」。どんな言葉をつかうかは別として、今の日本の政治情勢は、あまりにも(狭義の)保守主義に偏っているように思います。国全体として、もっとリベラルで開明な方向の議論がないと、バランスが悪い。多くの国で二大政党性が機能しているのは、一つのバランスの取り方でしょう。そのような態勢になって、初めて真摯なダイアログができる。バランスをとるためにも、「リベラル」「開明」な方々の力がさらに大きくなることを望みます。

NO.62012-11-24 18:09:55 Tomoikukai 13
争点は「日本をどう開国するか」である。

先日、ある集まりで、選挙の話になりました。そこである人が、「福井県は、嶺南と嶺北で、文化が違うから定員が削減されても、議員は2人いりますね。」といわれたので、私は「そんなもん一人でいいですよ」と言ったところ、「あんたは坊さんのくせに地元のことはどうでもいいんか、先祖さんに申し訳ないと思わんのか?!」と強い剣幕で詰め寄られてしまいました。そこで私は「あんたは、地元さえ良ければ、日本はどうなってもかまわんのか?!」と言い返してしまいました。ご想像の通り、後は平行線で言い合いがしばらく続きましたが、しばらくしてから横から助け舟がでて、「これは何処まで言っても、平行線のままやで」ということばで、私は「福井県のことは県会議員が考えればいい、国会議員は日本全体のことを考えなあかん」と、吐き捨てるようにいって、終わりにしました。

私は、今回の選挙が、またぞろ、「福井県の発展の為には原子力がいる」だの「新幹線の若狭回りを実現する」だのといった、地元への利益誘導が争点になってしまわないかと恐れています。そして、これまでは、地方の多くの選挙民は、候補者が持つ、利益誘導の実力を見極めて投票行動をしてきたのが実際のところだと思います。それは争点というよりは、その議員が持つポジションへの信任といったもので、あの候補者は建設省に顔が利くだの、大蔵省上がりだということに重点が置かれていたと思います。ここにおいては、国全体の青写真を考えることは、全くと言っていいほど票にならないので、時間の無駄であり、それらのことは、党や組織に完全に丸投げの状態だったということではないでしょうか? しかしながら、いったん地元に不利益となることが考えられるTPPへの参加問題等になると、俄然、絶対反対の主張を掲げるといった具合に、あくまで地元の利益一辺倒の国会議員が多数を占める結果となってしまっていたのだと思います。

振り返ってみると、「小泉郵政選挙」までは、この、地元の利益一辺倒の公約を掲げて選挙に臨むのが、国会議員選挙では、あたりまえだったのではないでしょうか。国会議員は、国より県の利益、県会議員は県より市町村の利益、市会議員は市より自分の区の利益、最終的には、何よりも第一に自分の利益、といった具合に人々の利己的心情は、どんどん内向きに作用します。これが、かって、ケネディ大統領が国民に向かって投げかけた、

Ask not what your country can do for you-ask what you can do for your country

という言葉が問いかける、克服すべき心情なのではないでしょうか。この心情を転換して、市会議員は市全体のことを考える。県会議員は県全体のことを考える・・・・とくれば、国会議員は、当然国全体のことを考える。当たり前のことですが、日本人は、長く島国根性の中で、日本が世界のすべてだと思って、内向きの政治を続けてきてしまいました。そして、日本国政府は、国会議員の中から選ばれるのですから、その政府が、泥臭い地方政治の利権集団に足を引っ張られたまま、世界全体のことを考えて日本の政治を行うということなどということは、どう考えても不可能なように思います。だから、今回は、どうしても「国会議員は国全体のことを考える。」ということを徹底していただきたいと思うのです。つまり、今回の選挙では、隠れた争点であれなんであれ、地方や団体への利益誘導は、話題にもしてほしくありません。今の状況からいって、そんなことをするのは、ゆすり、たかりの類いに属するものだと思っていただきたい。今回からは、純粋に、これからの日本の進むべき道を争点にしていただきたい。そして、その青写真を持たないものは、潔く身を引いていただきたい。国会議員であれば、アメリカの上下両院議員のように、誰が首相になっても、この国を引っ張っていける。それだけの見識と覚悟を持って、ご自身の政策をご自身の言葉で語っていただきたいと思います。

それでは、具体的に争点は何かというと「日本の開国」ということになると思います。これは、単に、TPPに賛成か反対かにとどまらず、日本をどうやったら国際社会の中で、当たり前の国になり、一人前にその責任を果たせるような国にするかということです。これは、TPP参加によって実現することが出来るかもしれないし、FTAを多国間で結んで得られることかもしれないが、とにかく、このグローバル化の波を利用して、完全に錆び付いてしまった官僚支配の政治経済社会システムを一新することが最も重要なことだと思います。

そして、この、政治経済社会システムを変えるという意味では、より、規制緩和、非関税貿易障壁にまで踏み込んで議論しなくてはならないであろうTPP参加の方が、多くの痛みを伴うでしょうけれども、望ましい方向となるのではないでしょうか。少なくとも、私が以前より主張し続けている表面的に利他的建前を続けていけば、そのうち、にっちもさっちも動けない状態に陥ると思われるので、儒教的上下関係の価値観を捨て去って、自由主義的、実力主義的な経済システムが実現すると期待されます。それに応じて、社会システムや政治システムは、真の民主主義を確立して人々の幸福を追求できるシステムとして、その役割を果たしていけるように常に進化させていかなければならないと思います。
しかしながら、簡単にTPPに参加といっても、今の政治家や、官僚に世界を相手に、国際交渉をやれると期待するのは、残念ながら無理な相談だと思います。今まで通り、アメリカの一方的な要求の前で、国内事情を限りなく説明して、結局仲間に入れてもらえないという事態に陥るのではないかと危惧します。

そこで、私は、日本の国益を託すにたる人物、小泉純一郎氏をTPP全権大使として今度出来る政府がどうなるにせよ任命していただきたいと思います。それに補佐としては、孫正義氏、原丈二氏、新浪剛史氏、柳井正氏 が適任ではないだろうかと思います。
この人選は、私の直感ではありますが、しがらみのない目で見るとこうなるので、多くの日本の将来に希望を見いだしたい人達の意見とも一致するのではないでしょうか。

TPPへの参加交渉は、単に貿易問題を交渉するだけではなくて、それによって、世界における、日本の位置、枠組みが問われるようになると思います。それは、単に規制緩和や、非関税貿易障壁の撤廃にとどまらず、教育問題や司法の問題、時には憲法の問題にまで解決すべき難問が及ぶかもしれません。しかし、戦後のどさくさの中で、GHQ監視の基で作られた、急場のシステムとは違い、同じ外圧でも、我々が主体的に、又、我々自身の民主主義を進化させながら、じっくりと議論を重ねて新しい枠組みを作り上げることができると期待されます。そういった意味で、TPP交渉団は、その都度交渉の妨げとなる日本の国内問題を取り上げ、今度選出される人々が構成する国会に問題を投げかけ、その国会では、国民を巻き込みながら個人の知恵を出し合って問題解決にあたっていってほしいと思います。恐らく、交渉の進展に従って、多くの解決すべき難問がでてくると予想されますが、国内制度の整備等、ある程度のめどが立つまでは、参加が他の国より遅れることが許されるのであれば、まず、国内問題の解決に全力を注ぐべきだと思います。

そういった意味では、次の新しい国会では、審議と決定のスピード化が要求されると思います。審議を尽くすという意味では、今のような代表質問形式は、無駄が多く、論点も定まりません。これは、スカイプ等の会議システムを利用して、誰でも発言し、議長が議論の場をコントロールするといったような、何か、オープンで議論のしやすい工夫を考えてほしいものです。これがうまくやれれば、党より議員個人の意見が反映され、政策ごとに、一人一人の意見が解るようになり、党の縛りによる反対の為の反対という議会空転の要素が大幅に少なくなることでしょう。それに、議論が出来ない議員は、次の選挙で必ず落ちることになるでしょう。それから、ツイッター等で匿名の無責任発言を排除して、議論を深める方法も、是非とも整備して欲しいものの一つです。現在では、SNSのおかげで、匿名の無責任発言を除くことさへ出来れば、工夫すれば、いくらでも、民主主義的手続きで意見を集約することが出来るし、その上にたって、民主主義的決定もスピーディーにできるようになると思います。そういえば、この問題こそ真っ先にやらなければならない問題ではないでしょうか?

結論として、今回の選挙では地元の利益を優先するような争点は完全に排除すること。TPP 参加をバネにして、日本の政治経済社会問題を解決し、日本が国際社会の一員として責任ある地位につくことを目指す。

                              合掌

NO.52012-11-24 13:58:19 masami 8
教育、私も大切だと思います。同じように人にかかわることですが、雇用問題を争点にしてほしいです。

NO.4 trasque さんの

もし選挙の争点の一つとして教育について比較しようとする時、私はなんとかしてその「大局観」がどこに置かれているのかを見てみたいと思います。どんな哲学があるのか、何を見つめた教育なのか、これらがないと「決められた内容と量の業務をこなせばいい教育」になってしまうのは当然なのかなあと思うわけです。

に共感です。
私は同じことを、雇用対策に結び付けて欲しいです。そしてそれは、経済にも結び付くと思います。これらの問題は、数字のみで語られることが多いけれど、そこにも、それだけではない視点を持っているかどうかを知りたいです。

失業率が云々されるとき、求人がないのではなく、ミスマッチが問題、と聞きます。そのなかで、人間に直接かかわる職業の賃金が非常に低いことを感じます。そこには、この国で何が大切にされているか、が透けて見えていると感じます。経費削減、効率化、によって利益を上げるのではなく、社員が健康的で幸福な生活を送ることを目標とする企業も出てきたと言われる今、雇用対策も、ただ仕事を創りだす、増やす、という感覚だけでなく、わたしたちが、どのように生きたいか、その生き方を実現するためには、どのような働き方ができればいいか、というところから考えていく必要があると思います。

人と人が直接かかわる職業に対してどのような施策を行うか。決して対外的にも、国内的にも、短気的に、直接目覚ましい経済的な効果をあげないけれど、とても大切なそのような場所に対して、必要な最低限の人数を今よりも増やすよう設定したり、そこに携わる人たちの研修を充実させる、その大変さに見合った最低限の賃金を設定するなど。ここには、教育現場も含まれると思います。

福祉、教育としてくくられる場に、経済界からの進出もみられる今、それに対して、国として、どのように取り組んでいくか、そこには長期的な、視点、考え方があるかどうかを知りたいと思います。

あ、最後は雇用とずれてしまいましたが。例に挙げた以外にもあらゆる就労場所に、最低限のあるべき姿を設定することによって、仕事、と単に割り切るだけではない、それ以上のものを求められるよう就労条件を保証するのは行政の役割かな、と思います。

NO.42012-11-24 04:40:45 trasque 13
orcamieさん

是非、どんどん書き込みましょう!! 最初に空気を重くしてしまったかもしれず、申し訳なく感じてます。
せっかくですので、私も教育についてお話に乗りたいと思います。
マルチリンガルが実現するのなら、それに越したことはありませんね。

その為には、学校教育に「フレキシブルさ」を求めなければならないと思います。
日本は識字率がほぼ完璧だとされています。これはその方が国全体として得をする(現金な言い方ですが……)から目指されたものと思います。一体何をすることが「得をする」に当てはまる事なのかを見極めるのは難しいのかもしれませんが、何十年も基準を大きく動かしにくい状態にあるというのはもう見直されても良いと思います。丁度No2で茂木さんが仰っているように「教科書検定は不要ではないか」という所につながります。
たとえば、識字率とおなじくらいのレベルで「ちょっとしたプログラミングならできるようにする」とかいうのもアリかもしれません。プログラミングそのものは、パソコンという初期費用さえクリアしてしまえば、個人規模で面倒さを回避するようなソフトを作成する程度であればほとんど(金銭的な)コストは要らないものです。
今はおそらく「コストがかからないということすら考え付かない=プログラミングはどこか遠くの技術のような思い込み」を持つ人って結構いるんじゃないかなと思います。
具体的な統計を基にしていませんから無責任な発言となりますが…… 小学生でもしっかり教えればプログラミングはある程度までどの子でも修得できるはずです。

マルチリンガルにしても「妙に固い”体系化”への妄信」が邪魔して、英語すらままならないって状態があるような気がします。当然、学習効率を科学的に検証するという事業は有益なものだと思いますし、教育現場に活用されるならばそれはすばらしいことです。
そうした「教育する側の選択性」とか「社会を反映させる即時性」を持たせた教育をする為には、現場側のフレキシブルさを強めなければ実現は難しいかなと感じます。であれば、まず実行の切欠として政治主導でどんどんやって頂けたら心強いのではないでしょうか。

一方で「教育の素人である政治側」が、ちんぷんかんぷんな事をしてしまうという不安もあります。当然、私達が政治主導だと言いつつ、丸投げしてしまう訳にはいきません。現代の学校教育の固さと、フレキシブルさを得ようとする動きとの、共通の課題は「何のために教育をするのか」という観点が不足しがちという点ではないでしょうか。
不足……もしくは「即物的」とでも言うのでしょうか。大学受験、(新卒)就職活動を<結果的に>最終ゴールとするような教育になってしまうのか、それとももっと人生の大局に立った視点を貫くような「人間を育てる」教育を目指していくのか。

もし選挙の争点の一つとして教育について比較しようとする時、私はなんとかしてその「大局観」がどこに置かれているのかを見てみたいと思います。どんな哲学があるのか、何を見つめた教育なのか、これらがないと「決められた内容と量の業務をこなせばいい教育」になってしまうのは当然なのかなあと思うわけです。
ですから政治主導とは言いましたが、その目指すところは「教育の独立」とでもいうものを盛り込んで欲しいなという点を、私なら着目します。システム的な問題もあるとは思いますが、大局観を据えた哲学を見ようとする政党及び政治家ならば、それはしっかりクリアできると思うからです。

「体系化」を否定するものではありません。アカデミックさというものはとても大事だと思います。人によってはやはり従来どおりの「とにかく勉強!」が必要になることがあるのは間違いありません。でも、せめて義務教育の間はもっともっと「人間的教育」が盛り込まれ、またその教育そのものがどんどん研究されていくならば、将来的には強い日本になるかもしれないなと私は思います。

こうやって書きつつ、義務教育の「体系を崩す」行為はもの凄い不安が襲ってくるものだなと思います。もし自分に子供がいたならと空想すると、やはり受験や就職を見据えた勉強をしろと言ってしまうのかもしれないと思うからです。「何のために学ぶのか」という話を、親になった時に伝えてあげられるのかどうか。
このような事はちょっとした身近で出来ても、国全体としては政治の力を借りねば厳しいと感じます。そうしますと、教育のシステムだけの話に終わらず、地域性や文化面、学歴や労働基準の問題など、テコ入れする部分がどんどん広がっていきます。ですので「その時の」選挙で、ギリギリ実現可能な問題をマニフェストとして採用し、そのマニフェスト項目がお互いにリンクしているかという「政党としての現実さ」にも目を向けなければならないと感じます。

マニフェストなんて飾りと、これまた一言で済ませてしまう意見を見かけることがありますが、それは知らな過ぎるだけじゃないかと思ってしまいます。確かに「大言壮語で未実現」なものも多くありますが、出したマニフェストは地道に実現していっている所もあるからです。

NO.32012-11-23 17:01:19 orcamie 19
総選挙の争点になるかどうか、自信はないのですが
茂木さんが 教育とおっしゃったので勇気を出して描きます。

日本国民をマルチリンガルにする。

その実現のために義務教育に 週に一度の国際教養科と読書という科目を設ける。
現行のどこを削ってこれを入れるかというのは
読書は国語の1時間をこれにあてる。
読書はマルチリンガル計画のためというより
日本の学校に通うこどもたちにもっと本を読んで欲しいと言う事
アメリカもカナダも 日本の国語に相当する英語の時間は
小学校では フォニックスを学ぶらしいけれど
その後は実際にある本を読んで授業をしている所が多いと思います。
それを日本でも実現して欲しいのです。
教科書を無くすというのは それを作っている教科書会社の存在を思うと難しいと思うので。
小学校から中学校の子どもたちにふさわしいと思われる本を各学校に1クラス分ずつ配備するのはむずかしくてもある地域で移動図書館のように1学期分ずつ交換すると数多く本を揃えられると思います。そしてこういった手間のかかる事には雇用が生まれると思います。

マルチリンガル計画は どこからどうやって実現したらいいのか
私には検討がつかないのです。
それなのにここに書いてしまってどうしようというのが正直なところです。

実は最近 busuu.comという語学学習プログラムに参加してます。
そこでは世界中の人がありとあらゆる語学を勉強してます。
私は英語を試しているのですが 学習中の教材の日本語訳が
少々難ありというかおかしな日本語だったりするのですが
一番気に入っているのが いろんな国の人とチャットしながら学習できるということです。
生徒であるのですが、先生にもなれるというプログラムなのです。
チャット以外に ナショナルジオグラフィックの写真に私は英文のコメントを書くのですが
世界のどこからかそれについての添削が届きます。
誰に送信するかは私が決めるのですが、
名前を見ながらこの人は 英語を知っている人かな。。と悩みながら送ります。
逆にわたしも誰かの日本語を添削します。
相手が英語を知っている人だと 英語で解説を加えたりします。
いい解説だと相手が サムアップしてくれると私のポイントになります。
ポイントを集めると学費の割引や他の特典に使用可能なのです。
その添削の過程で 私はありとあらゆる国の人と出会い
英語以外で私がちょっと知ってるフランス語やポルトガル語で very good
というだけで、相手はサムアップしてくれます。
こんな風に 必ずしも先生と生徒という 固まった関係での学習ではなくて
生徒であり先生にもなりうる 多言語学習のプラットフォームを作れたらいいのにと
思うのです。
最近の日本では 退職された方が東南アジアにヴァカンスに行かれてる方が多いので
そういうシルバーパワーの方の ボランテイア的協力というのを活用できないかしら
と思ったりしています。
もちろん 外国の方を招いて英語を始め他の言語も学び 
その時にシルバーボランテイアの人にアシスタント教師として
勉強な苦手な子たちの支援をしてもらいながら
こどもたちと馴染んでもらう。

そしてもう一つ、こっちの方が大きなテーマになるかなと思いますが
日本の各都道府県に 最低1つの再生エネルギー100%の村を作る
ということです。
その土地にふさわしい再生エネルギーを組み合わせて
さらに配電も整え、そこだけでエネルギーが完結できるような仕組みをつくる。そしてもしも電気が余ったら既存のグリットにつないで電気を売るという試みにつなげる。
そしてその村の設備がある程度整ったら
そこに子どもたちが課外学習で訪問できるようにする。
日本の住宅事情による狭さや
外で遊ぶ環境がなかったり
また受験勉強で 手短に遊ばなければいけなかったりで
他の国に比べてゲームばかりしている子どもガ多いのでは無いかと思います。先日 中国で反日運動が起きて、その映像を見た子どもたちの多くが
それに対してとても感情的に、敵対心をあらわにしているのを身近に目にしました。普段は大変知的な子どもがガンダムのスーツ着て中国と戦う。。といったような。。
それではいけないと私は思います。
それでは 中国と同じだと。
そうではない視点を生むために小さい頃から日本以外の世界を意識して
広い視野で暮らす必要があると思います。
中国や韓国は 自国を守るためによく日本を悪者にしがちです。
実際日本に欠点はいくつもあるでしょう。
しかし 日本は世界に開かれて欲しい。

また、再エネ村の設備がもっと整ったら
海外から 見学に来てもらう事。
再生エネルギーで暮らす事を学ぶ場所としてオープンにしてほしいのです。
さらにこの村で大切な事は 日本の伝統文化を同時に維持するというテーマを持つ事。
伝統文化をいかに現代に生かすか
現代につなげるかという視点で日本文化を再構築してほしいです。
そしてこういう場所で国際交流を実現するのに
やっぱり日本人丸ごとマルチリンガル化計画っていうのが
生きてくると思うのです。
むちゃくちゃやなあ。。と思いながら
いろいろと夢想いたしました。

NO.22012-11-21 14:59:00 茂木健一郎 0
ぼくだったら、日本の教育のあり方について議論したいです。「学力観」が揺らぐ中、日本の教育は、何を目指すのか。自民党の安倍総裁も、教科書検定について提案されていますが、私は、そもそも検定が必要なのかということについて議論したい。
また、英語圏の有力大学の日本キャンパスを誘致する、あるいは、有力boarding school などを日本のどこかに持ってくるなどの「ショック療法」で、日本の教育界に覚醒を促したい。
文科省のコントロールが強すぎます。実質的な意味での競争がない。本当の意味で、「alternative」を存在させて、既存のシステムが相対的なone of themでしかないような、そんな複線トラックにしないと、日本は助からないでしょう。

NO.12012-11-21 00:04:46 trasque 14
私は「政党を支持する人々の強さ」を見ています。
その上で、政党が持つ「実際的な力量」を争点とします。

もう十年近く前になりますが、選挙権を持つ少し前から「権力者と庶民」という関係に対して、様々に語られたり報じられたりする内容に私は違和感を持っていました。
それは「何らかの明確な悪意を持つワルモノ VS 隷属させられている弱々しい国民」という対立構造に対するものです。今でも何か事件があると「こんなワルモノがいるに違いない!我々弱い立場が云々……」という叫びを聞くことがあります。

そのような事件が現代に無いとは言いません。
私の両親、祖父母の時代には明確な「支配」「弾圧」は確かに存在していたろうと思いますし、現代においても諸外国にはまさにこのような問題が発生しているところもあると思います。
ただ、政治を睨む時にこの現代日本において、果たしてその対立構造に囚われ過ぎていて良いものか?と違和感を持つのです。本当にそれが「戦うべき相手」なのだろうかと。

現に、立場を利用した着服や横領事件などを有名会社の幹部や政治家が起こすような例は確かにあります。政治の混乱と言われる中で、私達からは考えられないような情けない状態が繰り広げられる事も少なくありません。
ただそれは本当に「明確な悪意を持つワルモノの仕業」なのでしょうか。そんな奴を引っ張り出して、袋叩きにすれば解決するのでしょうか。私にはそれが現実的に思えないのです。

この現代日本では、たとえ情けない状態になっている人達であろうと、おそらくほとんど「悪人ではない」と思います。では何なのかと言えばそれは「実力不足」であったり「必要な強さを備えていない」ということではないかと思うのです。
「明確な強い悪意」ではなく、怠惰だとかの弱さがずるずる引きずられているとか、必死にやっているつもりだけど勉強が足りていないとか、あっちこっちの利害関係にこね回されて中途半端になってしまうとか、そういうことではないかと思います。

私は今日本で「権力者VS庶民」という構造は、すでにひとつの終わりを過ぎていると感じています。乱暴な言い方をすれば、現代は「愚か者VS誠実な者」という構造ではないでしょうか。
予防線を張るようですが、私自身をどちらに所属させるという訳ではありません。私を含め、全ての人も(まさに権力者も)常にどちらにも所属しうるという状態です。

「政治家は金のことばかり考えている」という単純な批判を目にするたび不思議になります。そんなステレオタイプなワルモノがいるだろうかと。頑張って頑張って策を弄するならば、その政治家の給料が上がるとでも言うのでしょうか。そのような明確な悪意に基づいたワルモノを、私達は探し出して攻撃したいのでしょうか。
例えば、うまく波風を起こさずに居て任期を全うすれば、あとは悠々自適に生活できる、といったような小賢しいのはいるかもしれません。そういった「人間的な弱さ」をして、相応しくない!と怒るのならば分かります。

政治家も人間です。完璧はありえません。お金が少なければ働けなくなります。もちろん、一層の使命感や精神力は備わっていて欲しいという願いはあります。だからこそ、政治家としてどうか!という厳しい視点は常に向けられなければなりません。
ならば、それは私達主権者も同じではないかと思うのです。
私達が愚かであれば、政治家も愚かになっていきます。
私達が厳しく使命感を持つのならば、政治家もそれに答えなければならなくなります。


「政治家なんてドレも一緒」
「自分ひとりが投票したところで変わらない」
「日本の政治なんてもう期待してない」
「あそこは何となく嫌いだから」
「キミあそこ応援してるけどお金もらえるの?」
「そんな話してもウザがられるだろ?やめろよ」
「あいつクソだろ、テレビ見てればわかるじゃん」


全てとは言いません。
しかし、私の目に耳に確かに入ってくる「国民の声の一部」であることに間違いはありません。これほど主権者が無知でいることを率先して標榜するなど、これほど主権者が愚かであることを他人にまで求めるなど、これほど主権者が「見ないフリ」をし続けていることなど、あって良いのでしょうか。

私達は私達の愚かさにこそ、対決の意を向けねばならないのではないでしょうか。日常の場面において、なぜこんなにもただ政治を語ることに息苦しさを感じてしまうのでしょうか。私達は考えが偏っていたり無知であることを恥じる必要はないと思います。堂々とお互いに語り合って良いと思います。たとえ政治的な考えで対立したとしても、それが交友関係の決裂になることなどないものだと私は叫びたくなります。

私もそうですが、政治を学ぶ事はとても難しく感じると思います。ですから、身近な人とどんどん語るのが当たり前の社会になって欲しい。ちょっと主義主張が違ったり、知らなかったり、勘違いがあったりすると、すぐにそのまま人格否定のような見下すような物言いを飛ばしあう空気が、はやくなくなればいいとやるせなくなるのです。


「俺はA党のこんなところを支持するぜ」
「いや待て、実はA党はこんな失態があるがどう思う?」
「それは知らなかった!今日の所は勉強の為に退散だ!また挑んでやるぜ」
「いつでもかかってこい!」


こんな気さくで楽しい政治の対話を、当たり前のようにできる社会になり、主権者が自ら学んで語っていこうとするならば、私達は「愚かな国民」に打ち勝てるのではないでしょうか。そんなすぐに実現できれば言うことはない、と突っ込まれてしまうかもしれません。
ですから、今私は恐れてもビビっても身近な人に少しでも政治の話をしていきたいと気合を入れています。たぶん、無知すぎてバカにされることもあると思います。
実際、これまでにも政治の話をしたことで離れてしまった友人も幾人かおりました。私の落ち度には違いありませんし、もっと受け入れやすい語り方を考えなければと反省もしました。ただ、やはり悲しくなります。なぜ、よりよくしようという対話で友人をなくさねばならないのかと、無力感に苛まれるのです。


だから今、この現代日本にあって「平凡な一人の主権者として」勇敢に身近な人々へと政治を語ろうとする強い支持者が、その政党にどれだけ居るのかを私は重視(争点と)します。

私自身の(浅はかかもしれない)経験から、その行動はとても勇気の要るものだと思うからです。そしてこの時代にあってそれらは、ちょっと会社で応援を要請されたからとか、ちょっと儲けがあるかもしれないとか、そういった打算よりも純粋な「この人・この政党を勝たせたい」という思いが勝っていることを、それほど「強い国民」に支持されていることを証明するものだと思うからです。

「私は○○党を支持する」
「私は△△議員を支持する」

このように応援する対象を持つ事で、何か自分が操られてしまうかのような錯覚を持ってしまうのでしょうか。もちろん応援するからには、その対象が不義を働けば、応援するからこそ厳しく糾弾すべきとは思います。
ただ、運動会の赤組白組を応援するように、サッカーで外国同士の試合のどちらを応援してみるというように、そのくらいのものだって良いと私は思います。そこから身近な人と語り合うことで、支持している人していない人の事を色々と知っていき、結果としてその個人が「より強い主権者」に近づく、そのきっかけが始まると思います。

戦うべきは「空想して作り上げた巨悪」ではなく、自分および私達の中に潜む「愚かさ」であり、それはとても地道なものだろうと思うのです。



掲示板の主題と離れている事は自覚しております。申し訳ありません。私はそのようにして選挙へ参加してきました。(まだ数回程度ですが)

今回の議題は、政策や方針など具体的なモノについてどれを重視するか、という事だと思います。
これについて2行目に記した「政党がもつ実際的な力量を争点」としたいのですが、長くなってしまいますので一旦書き込みさせて頂きます。いつもすみません。



この場をお借りしてしまいますが、Tomoikukai様へ。
前回の書き込みで幾つかお伺いを立てるような書き込みをしたまま反応せずに申し訳ありませんでした。また、ご返答頂いてありがとうございました。私が普段接する事のない、お寺という世界の方の知識見識をお話し下さり、本当に勉強させて頂いております。また、よろしくお願いいたします。