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「誠実さ」について考える

先日、連続ツイートで紹介しましたが、僕には「誠実さの法則」というものがあります。

たとえば、最近の中国や韓国の日本へふるまいは、日本人からすると腹を立てざるを得ないものがあります。でも、現代の脳科学の標準的な見解によれば、脳の振る舞いにおいて、「自由意志」(freewill)は存在しません。国の行動というのは、それぞれの国の人々の認識や行動の集合体ですから、中国や韓国のふるまいも、ある意味で「必然」として起こったこととなる。

では、僕ら日本人は黙っているしかないのか。そこで「誠実さの法則」が出てきます。たとえ、相手の振るまいに自由意志がなく、今とは違った行動が期待できないとしても、それに対して「腹が立っている」という感情を伝えることで、相手が今後行動する時のパラメータが、劇的ではないにせよ徐々に変わるかもしれないことに期待する。これが、「誠実さの法則」です。

他人に対してあまり期待しない、しかし自分の感情は伝える。これこそが、自由意志が存在しない世界観と整合性のある、誠実さの法則だと思います。

みなさんも日々を生きる中で、それぞれ「誠実さの法則」があると思います。

ビジネスにおける「誠実さの法則」、家族のなかでの「誠実さの法則」、友人との「誠実さの法則」……。この「誠実さとは何か」を突き詰めることは、人間同士のコミュニケーションを突き詰めることになると思います。たくさんのご意見お待ちしています。

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NO.132012-09-15 18:34:12 Tomoikukai 15
trasque さん、誠実なご意見、ご感想ありがとうございます。返答は、「誠実さの法則」が成り立つことを意識しながら、投稿したいと思います。

聖徳太子の十七条憲法の第十条に 我必ず聖にあらず、彼必ず愚かにあらず。共にこれ凡夫ならくのみ。というのがあり、司馬遼太郎は、恩師から「自分をつまらぬ人と悟った人(凡夫の悟り)が一番偉い人や」と教えられて、それを一生の課題にしていたということです。聖徳太子や,司馬遼太郎をエリートと呼んでいいのか解りませんが、問題は、我々が、エリートとして我々の指導者を選ぶのかどうかではなく、我々の指導者が、指導される我々と、「共に凡夫」という対等の目線に立てるのかどうかだと思うのです。唯、日本が、心豊かで,生き生きとした生活を送ることが出来るようになる為には、先進的で、未来に対して常に洞察力のきく指導者がどうしても必要だと思います。今の日本に、そういう指導者が見当たらないのは、我々がお互いを信頼せず、足の引っ張り合いを繰り返したあげく、指導者を選ぶ能力さえ無くしてしまった結果だと思います。

皆さんは、「エリート」という言葉を聞いて、何をイメージされますか? 地方の名門を継いだ政治家でしょうか? 東大生でしょうか? それとも高級官僚? 確かにこれらの人々は、以前は(いつまでかは定かではないですが)エリートの名にふさわしく、国を思い、国をリードし、つまり,国の指導者としてその生涯を懸けた方々が多かったのだと思います。しかしながら、現在では、茂木さんが言われるように、エリートの選抜制度は、単なる自分の地位を確保する為の、いわゆるポジション狙いの制度となってしまいました。それぞれの地位を確保したとおぼしきエリート達は、その地位に応じた先輩ゆずりの既得権を確保し、国、あるいは世界の情勢に関わりなく、自己保存の本能に邁進しているように見えます。国民は、指導者を選ぶ能力をなくし、それに応じて、指導者も育たなくなったということではないでしょうか。

trasque さんはエリート教育がお好きでないとおっしゃいます。しかし、一人一人の子供達の才能をほんの小さいうちから見つけて、それを思い切り伸ばしてやる環境を整えるのが、エリート教育であるとするならば、これからは、そういう教育こそ(私は共友育(ともいく)と名付けました)、我々がこれから目指すべき方向なのではないかと思っています。しかし、これは、子供自身が、自分の才能を自覚するようになることが肝心な点だと思うので、対話の中では、いつも、個人としての自立を促す配慮が必要だと思っています。つまり、アブソーベント・エイジ教育に於いては、一人一人が、みんなエリートだということが出来るかもしれません。そうやって、個性と能力を精一杯に伸ばした個人の集まりが、理想の社会を作ることを目指して、議論し、切磋琢磨した末に、その中から自ずと、新しい指導者が生まれてくるのではないかと思います。大事なのは、一人一人がしっかりした自分の意見を持ち、大いに議論の巻き起こる土壌を作ることだと思います。

それに対して、先の投稿でも述べましたように、今の日本では、明治以来シビルローの基に法律が運用され、時の、全体主義と相まって、規則を厳格に守ることが、日本人の国民性ともなりました。これは、犯罪が少なく、勤勉に努力する人が多いという結果を生み、特に,第二次世界大戦後は、戦後の奇跡の復興に寄与したのですが、反面、規則を守るか守らないかが人を評価する唯一とも言える基準となり、人々の間から規則そのものに対する議論が徐々に消えていってしまいました。また、それに従って、いろんな話題について、人と人が議論,対話することもなくなっていったようです。

民主主義にとって、ある問題に対して,良質な議論を戦わせるということは、その成熟度を高める上では欠かせないベーシックな要素です。西洋では、日常的に、町、国のレベルに関わらず政治問題が話題になるということを聞いていますし、イギリスでは、公園で自分の政治、哲学の主張を人々に聞いてもらう文化もあると聞きます。バングラデシュでも、英字新聞を読み、政治の問題を議論するのは、高等教育を受けたものの当然の責務でもあるし、女子学生が、イスラム教の一夫多婦制に対して非難する意見も聞いたことがあります。それに、何よりも、アメリカは、議論の国と言う印象で、選挙の際の公開ディベート、テレビのニュース解説などでは、必ず賛否両論が聞けるという配慮(アルカイダでさえ望めば、反論の機会がある)等々、今の日本が真の民主主義を実現させる為には、見習わなければならないことが数多くあります。

それでは、なぜ、良質な議論がないと民主主義が機能しないのでしょうか?
私は、外国人との会話と,日本人との会話の際に、大きな差異を感じることがあります。それは,日本人の会話の中には、何故?(Why?)という理由付けがきわめて少ないということです。そして、私は、いつも理由を聞いたり、説明したりするものですから、日本人からは理屈っぽいといやがられ、真摯に疑問を呈したつもりの時でも、相手からは、よく腹を立られてしまいまいます。
それに対し、外国人と話すときは、理屈がしっかりしているほど、会話が弾むと言った具合です。どうやら、何事も議論を回避する態度をとり続けていくと、思考回路そのものが怠けて、退化さえしていくのではないかと思えます。民主主義をしっかり機能させる為には、健全な思考回路が必要です。これからの子供達には、何故?という言葉に触発されたクリティカル・シンキングの考え方をしっかりと身に付けていってほしいものです。

次に、アブソーベント・エイジ教育を適切に受けられなかった親が、子供にどうやってそれを伝えられるかですが、それは、英語教育に似ています。つまり、英語が喋られない先生が生徒に英語が喋られるようになるように教えることは、不可能だと思います。それではどうするかというと、英語が話せる人の力を借りるということになりますが、それも、今の日本の学校で行っているような、ネイチヴをテープレコーダー代わりに使っているようなやり方では、ほとんど効果がないと言ってもいいと思います。思い切って、すべての先生が英語を流暢にしゃべられる人ばかりにすることが、これからの英語教育の鍵を握っているような気がします(特に年齢が低いアブソーベント・エイジ世代の子供に対しては、英語が流暢に喋られる先生が必須です)。それと同じように、アブソーベント・エイジ教育が不十分だった親御さん達は、自分で勉強したり、専門家の指導を受けながら、ほかの親御さん達とも協力して、子供達が、いろんな能力を身につける環境を整えてやることが、悪循環を断ち切る、唯一の方法だと思います。つまり、この投稿で、最初の方でに述べたように、自分たちだけでは何も出来ないんだという「凡夫の悟り」こそ、人とつながり、自分本位にならない、共友育(ともいく)の神髄ではないかと思います。私は、そこのところを、これからの歩みとして、活動して行きたいと思っています。

余談ですが、そういったことを研究する学問として、私は、かってに

「SYNTOMOLOGY] と名付けました。茂木さんの好きな entomology のパクリ

な〜に、ただ、子供好きのおじいちゃんが英語の紙芝居やら絵本を子供達に読聞かせてみようとするだけのことですよ。



 

NO.122012-09-14 23:40:56 sunameli 15

私は、誠実さは「ある存在はほかの存在を傷つけうる」ということをとことん学んで初めて生まれるものだと思います。ですから、実際に自分が誰かによって傷つけられ、また誰かを傷つける経験をすることで段階的に学んでいく側面があると思います。

また、trasqueさんのコメントに乙武さんへの言及がありましたが、乙武さんの発言やツイートは見るたびに「誠実だなあ」と感じます。なぜなのかということを考えた結果、「自分の言葉にきちんと体を賭けている」のが伝わってくるということが一番大きいように思いました。

その時代に生きていたわけではないので印象論に過ぎないのですが、数十年前と比べて日本人の中で「言葉に体を賭ける」という習慣がかなり失われている気がします。ここ十数年、ここ数年でさらに。もちろん自分を含めて、無意識に。

賭けているつもりでも、賭けていないという気がします。
この「賭ける」ということの定義は結構難しく、ただ命を賭して何かを叫ぶことがいいわけでもなく、相手の胸倉を掴んで主張すれば賭けていることになるかというと、どうも違うような気がします。

おそらく「誠実さ」には、ほかの方が述べられているとおり、
他者の尊重や想像力、自己の客観視という要素が欠かせないのだろうと思います。そう考えると、「誠実さ」というのは、単に正直とかいうことではなく、自分と自分以外の存在が生きていく中で折り合いをつけていくための切実な作法でもあるのかもしれません。

誠実さを問う条件とは、
まず他者の痛みへの想像力があるか、ないか。
その上で自分の言葉に体を賭けられるか、否か。
ということなのではないでしょうか。

NO.112012-09-14 19:51:05 terurun 12
とてつもないリスクがあっても自分の意見をしっかり言える人は、

誠実と思う。

大人になればなるほど、打算的になり、自分になるべくマイナスな事が

起きないように計算し、行動する。

現在の私は、リスクと言う言葉に反応し、ビクつく。誠実ではない。

自分は、9999人の人が賛成であったならば、正しいと自信があっても、

たった一人の反対者になる自信がない。

誠実な人と言うのは、9999人の人が賛成と言う中、たった一人自分の考えを信じ、

反対出来る人だと思う。

嫌われるのを恐れないし、厳しい事を他人に言える人だとも思う。

どんな結果が待ち受けようとも、嘘いつわりなく自分の気持ち、思いをまっすぐに伝える人は、

実に「信じられる」。

誠実な人と言うのは、結局、うそ、偽りの無い「信じられる人」と考える。

誠実とは、「信じられる」と言うこと。


NO.102012-09-14 00:25:05 trasque 13
No.7 Tomoikukaiさんの書き込みを見て……

私もその「アブソーベント・エイジ」を重視するという点はとても大事だと思います。幼少期の学習が、根付き方やその後の発展性に大きく寄与するだろうことは、私も確かだろうと思います。
この点で注意すべきと私が思うのは、この考え方については決して(俗に言う)「エリート選別思考」だと勘違いしてはならない部分だと思います。Tomoikukaiさんがそのように仰っているとしている訳ではありませんし、実際そのような主張ではないとも思います。

前回、Tomoikukaiさんが「この掲示板を質の高い議論の場にしよう」と提案されたところを見て、私は毎回のテーマが終わった時には参加者それぞれが「では、具体的にコレに取り組んでいこう!」と思えたならば、それは質の高い議論の場になったと言っても良いのではないかと考えました。
良い議論の条件としてはそれだけではないとは思いますが……
参加者が掲示板を見終わったその日なり翌日なりから、何かやってみようと考えるということは、つまるところ議論の中で「では私達は何ができるか」を具体的に交換していく場面があっても良いことになると思います。そのような点でひとつ……

アブソーベント・エイジへの教育が足りなかったという問題が長らく横たわっていたとする場合、乱暴ですが、私を含めた大多数の成人は「アブソーベント・エイジの恩恵を受けられなかった」こととなります。これもまた乱暴なのですが「教育」もまた一つの技能だと捉える時に「教育に関する教育」を、アブソーベント・エイジで効果的に受けられなかった世代が、現在子供達を教育していることになります。
そうすると悪循環として、アブソーベント・エイジに効果的な教育を行える人材が居ないという状態が続くことにもなってしまいます。 もちろんそんな単純なことではありませんが。

また、まさに私なんかは幼少期に特筆できるような教育を受けた自覚がありません。同じ様に考える同世代以上の人はたくさんいるのではないかと思います。では、私達はそんな時に絶望するしかなく、未来の世代に期待をすることしかないのでしょうか。私はそんな風には思いません。
繰り返しますが、Tomoikukaiさんがそのように仰っているとする訳ではありません。書き込み内容を見て、確かにそうだ!と思い、では「僕はどうしたらいいのだろう?」と思ったことを書き込んでおります。

No.6での私の書き込みで「誰人にもあらゆる命の方向性がある」としました。
これは年齢性別身体的条件を問わないことを意味します。月並みな表現ですが「常に可能性がある」ということになります。私達は、どこまでいっても訓練によってあらゆることを修められるとまず信じる必要がありそうです。
アブソーベント・エイジにおける教育を悪循環に入れない(もしくは抜け出す)為には、結局私達のような「アブソーベント・エイジに必ずしも理想的な教育を受けられなかったかもしれない」人達が、日々真剣に少しずつ前進するしかないのかもしれません。

この夏になってから、私は化学の勉強を始めました。仕事が変わったからなんですが、これまで化学は一切縁がないと思っていただけに基礎の基礎からやりなおしている状況です。頭に入る吸収速度はなかなか若い頃の様にはいかないなと思いつつも、楽しみ方や大事だと思える部分をサッと見分ける時間などは、今の方がうまくできているようにさえ思えます。
私は近所に住む知的障害を持つ高校生の男子と話をする機会があります。職場や家で勉強をしていると、今度彼にこんな話あんな話をしてみようかなとか思うことがよくあります。正直、彼のような若い方と相対してみると「真摯でなければ」と思わされます。今更新しい勉強を始めてもできるもんだぞ!という、今私が感じている喜びは、ある種彼に話せる一つの「有意な教育」かもしれません。
そういうことを考えていると、日々人間的に成長することを具体的に目標立てて、色んな若い人達とじっくり話しをしていく、ということが今「私にできること」なのかなあと思えてきます。

学校教育としてどうしていけばいいのかは分かりません。ただ「地域の協力は不可欠」だなと、上のような経験から感じます。ですから、学校とPTAが対立しているような状況は避けるべきだと思うのです。また、20代30代の青年世代が日常的に子供達と何らかの縁を持っていることは、けっこう大事じゃないかとも思います。
幸いにも土日休みが基本なので、地域のお祭りだとかイベントだとか、そういったものにも目を向けて子供達と関わる時間を作っていければなんて考えています。

NO.92012-09-13 21:21:08 orcamie 16
私がこどもだったころは「誠実」とは本当のことを言うことだと思い
大人になるに連れて いつでも誰でもに本当のことを言うことはできないとわかり始めて
相対する人ごとに ちょうどぴったりな本音と建前の距離かななどと思い到りました。
ところがいろいろな人と出会い、様々な本音と建前の距離を設定すると
その設定が時としてほころびができてしまい
途方に暮れてしまうことがありました。
そこに到って初めて、何か一つ自分のしっかりとした軸が必要なんだなと
つまり自分らしく生きるということが 本音と建前を使い分けるより大切なんだということがようやくわかりました。
しかし、そうとはわかっていても
ときどき見えと言うヤツが邪魔をして本当の自分を隠してしまったりするのです。

先日 北野武さんが国際ベネツイア映画祭で受賞はされませんでしたが
「震災後の1年間には自分は怒りを感じている部分があった。世の中、絆、愛、支えとか、表面的なものばかりでイライラした。こういうときこそヤクザ映画を撮ってやろうとやる気が起きた」
とこんな風に言いにくいことをずばっと言える勇気が自分にもあればいいと思っています。



NO.82012-09-12 12:15:36 chigusaotsuki 4
NO.3 茂木健一郎 san

I agree entirely with your point of view.
There is no doubt in my mind that your topic is interesting and suited to the knowledge, and you know who students are.
I was not an attractive starter, but you overviewed of main points.
I sincerely believe that your text is appropriate and encourages the student to review and discuss the features of good conversations.

I wonder if I could comment on that last point.

The personal qualities of a skilled negotiator are;
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http:www.negotiationskills.com

Thank you very much.

NO.72012-09-11 04:04:37 Tomoikukai 19
グライスのマキシムを、「問題を解決しようとする二者間に於いて、こちらのアイデアを、嘘偽り無く、根拠を示しながら必要十分に、しかも簡潔に伝える時、相手もまた相手のアイデアを同じような態度で返答してくることが期待できる」と言い換えると、これを「誠実さの法則」だと理解してもよいのではないかと思います。

そこで問題になるのが、この法則は、真か?偽か?ということと、もし,真だとして、二者間の問題がこの法則に従って、解決に辿り着くことができるのかということになろうかと思います。

そこで、まず、この二者間の問題を、理系の科学者どうしの議論とすると、議論の内容はすべて客観的証拠にもとづくものであるということが前提となるし、嘘をつく理由も無いので「誠実さの法則」は成り立ち、議論を重ね実験を重ねることによって、問題の解決に近づいていくということは充分期待できるということになるでしょう。
しかるに、この二者間の問題が、主観にもとずく人間関係であったり、二国間関係であったり、たとえ、科学者間であっても、必ずしも客観的証拠によって、議論を進める訳ではない、主に文科系の学問に関わる人達にあっては、主観的部分を二者間でいかに調整できるかが、「誠実さの法則」が成り立つかどうかの条件となり、それが成り立たなければ、問題の解決に近づくのは、いかに客観的に見える証拠に基づいていても、不可能に近いと言ってもよいのだと思います。これは,言い換えれば、これらの場合にあっては、二者間に問題が起こった時、実力行使を排除して,平和的にその問題を解決しようと思ったら、お互いの価値観の違いを乗り越えて、理解し合う素地、基盤を作らなければならないということになると思います。しかしながら、主観的な認識を調整することは、特に、二国間においては、人や文化の面で、それこそ大いなる質的量的交流が必要となるでしょう。

それでは、例として、日韓の二国間関係の現状を見てみましょう。近年、韓国は、日本がかって、アメリカを見習って産業を発展させてきたように、日本に追いつけ追い越せという意気込みで、経済発展してきました。そして、今や、電子機器業界や、その他いくつかの産業に於いては、ある面、日本を抜き去ってしまったということもできます。しかしながら、大方の日本人は、未だに韓国人に対しては,目下の気分を持ち続けています。竹島問題に関していえば、匿名ネトウヨの韓国蔑視のツイートは、相も変わらず目に余るものばかりだし、右翼の朝鮮系住民に対する攻撃を耳にするにつけ、心が痛みます。そして、同時に韓国にいる日本人のことがとても心配になります。オリンピックのサッカーで、日本が韓国に負けると、韓国チームをほめること無く、竹島問題が話題になると、そればかり取り上げて、日本が負けたことには全く忘れたかのようです。また、キム・ギドク監督が、ヴェネチア・ビエンナーレで、北野武監督が期待されていた、金獅子賞を受賞しても,誰も反応しません。現在の日本人の韓国に対する心情は、追いつかれ追い越されたという焦りと、昔の成功体験からくる、優越感の裏返しで、嫌悪感にあふれているように見えます。こんな心情を土台として、「誠実さの法則」が成り立つのかどうかというような検討は、多分、しても無駄だということになると思います。今の韓国が,国際化しているかどうかは別として、日本人が相手の心情や文化を理解し、どんな国とも対等な関係を築くことができるよう、1日も早く、日本の国際化を実現することを期待します。

そして、国際化に関しては、英語の習得が鍵になることは、茂木さんもいつも指摘されていますが、この,英語教育に関しては、日本より,韓国の方が、圧倒的に先に進んでいます。昨日のニュースで、文科省は、小学校低学年から英語の授業を必須にするという検討に入ったということを知りましたが、これは一応、前の金沢市の教育長である石原多賀子さんの悲願だった訳で、私にとっても喜ばしい限りなのですが、小学校からの英語教育は、韓国では、20年近く前に導入されています(ちなみに、石原さんは、25年前から主張されていた)。それに、竹島に上陸した、イ・ミョンバクさんが大統領に就任してからは、英語の導入は幼稚園から始めるようになったそうです。私も長年英語を勉強していますが、少々難しい英文が読めるようになっても、コミュニケーション能力はネイチヴの子供にさえかないません。なぜ、日本人は、英語のコミュニケーション力が伸びにくいのかを知ることが,私の長年のテーマであるのですが、それは、今ではアブソーベント・エイジ(吸収年齢)に、英語系の言葉を吸収できなかったことが決定的な理由だと思っています。いろいろな研究の結果、現在英語をマスターすることに関して言われているのは、文字の認知能力が大飛躍を遂げるのに、人類は、2000年を要していますが、子供の脳は、アブソーベント・エイジの間のおよそ2000日の間にその歴史のほとんどを修得してしまうそうです。これは、「メラビアンの法則」(コミュニケーションに於いて、何がどの程度相手にインパクトを与えるか)

    好意・感情の総計=言葉(7%)+声(38%)+顔(55%)

を考え合わせると、子供達は、このアブソーベント・エイジの間にコミュニケーション力に必要な、文化や、夢や希望の指向性、理論構成力、また、先の「領土問題について考える」のテーマの時の投稿で述べた議論するときのマナーなども、そして、私は、さらに、相手を思いやる心の彩や表現まで、親や、社会、そして何よりも自然環境(ヒトの活動する)の中からそのあらかたの重要部分を吸収してしまうのではないかと思っています。
さらに、アメリカの研究では、子供が小学校入学までに体験した言語的刺激の数(数千万語に達すると言われていますが)と、思春期以後の思考力に有為な相関関係があると報告されているそうです(私は、言葉の数だけでなく、質も関係してくると思っています)。

農業に於いても、「苗八作」などと言って,最初の苗のできが、その作物のその後の生育を決定づけると言われています。さらに、日本には、「三つ子の魂100まで」という金言もあることは,たいていの人が知っていることだと思います。それに反して、現在の教育は全く的外れにも、苗の作り方には積極的には関与せず、できた苗のでき不出来に関わらず、金太郎アメ教育を押し付けています。私にも4人の子供がいますが、学校で先生から指導を受けたことといえば、進学先と偏差値のことばかりでした。今の教育学というものは、子供達の偏差値をどうやって上げるかばかりを研究しているのでしょうか?みんなの点数が上がれば偏差値は誰も上がらない???人の足を引っ張って点数を下げてやれば、自分の偏差値は上がる? 全く馬鹿げているとしか言いようがありません。教育学というものは、人間をトータルに見て、発達の過程を研究し、その成果を社会に反映して子供達の能力を最大限伸ばすということが最大の使命だと思いますが、いかがでしょうか?

こう書くと、教育学者の皆さん達からは、最近では、就学前の子供達へのアプローチを増やしているし、自然の中で教育する取り組みも各地で増えていると反論がきそうですが、私に言わせれば、それは、とても話にならないレベルで、教育資源の大半をこのアブソーベント・エイジ教育に費やす位の覚悟が必要だと思っています。

アブソーベント・エイジ教育に対する研究が決定的に不足しているというなら、諸外国の研究を参考にするしかないと思いますが、特に、バイリンガル教育に関しては、シンガポールと香港が、大いに参考になると思います。なぜなら、完全なバイリンガルを育てるノウハウが、家庭教育も含めて充実しているし、日本人が一番心配している、英語を導入することによってほかの科目の学力が、犠牲になるのではないかという懸念も少ないと思われるからです。

学校教育については、このアブソーベント・エイジ教育で育った若苗をその夢と希望のままに、どんどん能力を伸ばしてやればいいのです。何も与えなくても、環境さえ整えてやれば、自分でどんどん伸びて行くはずです。勿論大学改革も大切ですが、子供達の能力の伸びる延長上に大学があると考えれば、自ずと改革は進むと思われます。大学だけではなく、仕事やその他、社会の発展に子供達の才能は枝を張り、学問、技術、文化となって花を咲かせて行くことでしょう。(ふう、やっと辿り着いた)

というわけで、日本と、他国との問題解決の為に「誠実さの法則」が機能する為には、日本人の心情が、偏見を無くして、国際化に耐えうる素養をしっかり身につける時を待たなければならないが、今この日本の改革期に於いて、骨太の国の指針を確立してその方向を示し、それを誠実に実行することによって真の国際化が実現した時、それはまた、日本の大切な文化を継承した誇り高い新生日本が実現することとなり、他国のモデルともなることができるでしょう。

韓国と日本の英語教育の違いを見よ!! http://allabout.co.jp/gm/gc/50441/

NO.62012-09-10 02:49:02 trasque 23
ある頃から私の中で「誠実にしよう」と考える時には、必ず一つの課題が立ちあわられます。
それは「勇気を試される」ということです。
結論を先にすれば、私にとっての誠実さの法則とは「勇気を出す」ということになります。


辞書では、私利私欲を交えない真心の行動を表すさま、となります。意味としてはこれで良いと私も思います。しかし、これをいざ実践しようという時にこうはなりません。
シンプルに捉えると「相手(誰か)の為に行動する」とも読みかえられます。この行動はとても難しくなることがあります。誰かの為に何かをするということは、その誰かにとってどのような効果・結果がもたらされるのかという具体的な部分を「想像」しなければならないからです。
誰かにとってどのような効果があるのかを想像する為にはまず一つの基準として、自分にとってどうなのか、と自分を相手の立場に置き換えた仮定を立てなければなりません。他にも、一般常識(コモンセンスと言うのでしょうか)に照らし合わせるような方法もあるとは思います。ただ、どうしても「自分」という基準を全く抜きにすることはできないと思います。
その想像をする為には、少なからず自分の中に様々な経験や知識が必要になります。
「ケーキを食べる時に紅茶があるとオイシイよな。だからケーキをご馳走したらよく合う紅茶もつけてあげよう!」という経験と知識、みたいな感じです。
「私利私欲 = どこまでを私利私欲とするのか」って部分を可能な限り広げてみると、矛盾するようですが、誰かの為に何かをしようと考えた時点で必ず何らかの「見返り」が発生することから、私利私欲を交えないということはできないと考えられます。ちょっと極端な話ですけど……

それは「お金を貰う」という見返りかもしれないし「好感度が上がる」という見返りかもしれない。または「誰かにコレをしたという経験が、自分にとって何らかのプラスになった」という見返りかもしれない。そんな風にして、とても現金・数値・具体的な見返りを得ることもあれば、とても精神・アナログ・抽象的な見返りを得ることもあって、それらをどこからどこまでが適切だなどと線引きできる人はいません。100円なら許されて、1万円なら汚いという訳でもなく、見返りを期待したから汚いと一概に言える訳でもない、ということです。
ですから私は、多少極端と言われようとも「見返りを期待することは、おおむね是」という考えを持っています。見返りの完全排除は「誰かの為に何かをする ──為の土壌」を育てる栄養素を排除すると同義だと思うからです。
まず(1)つ「誠実である為には、自身の中に土壌が必要」という点でした。


さて誰かの為に何かをするという点で、様々な行動があります。現金的な内容であれば、モノを買う為に支払って、売る側は対価を得て品物を渡す、というのもその一つになります。しかしこれはほとんど両者の得るものが、目に見える形で明確かつ対等、な為に「誠実ですね」という話にはなりにくいかと思います。
単純に「誠実だな」と感じやすいのは、やはり片方に得るものが大きく、そしてその内容が即時即物的では「ない」という結果が生じるような場面ではないかと思います。
これに該当するとしたら、例えば「教育」があると思います。
教員給与等の報酬を含めても、やはりその効果は推し量り難く、時折恩師を持つような人物の話しを聞くにつけて「とても大きなものだな」と実感せざるを得ません。
ところでもしある子供達を教育するとなった時、私達はまず子供達をどのように見るでしょうか。
私には教育経験がありませんから、現役の方にとっては甘い話と映るのかもしれません。ただ、目の前にいる子供達一人一人に対して「コイツはもうこの才能は無い」とか「アイツはこの方向では絶望的」などと、決め付けられる人物はいないと私は思います。
恐れずに言えば、子供達は究極的に「何でもできる」はずだと確信を持って教育にあたる、という態度が必要ではないかと思うのです。
少し話しがそれました。上記教育で子供達に対する態度と同じ様に、私はまず誠実である為にはこれと同じことを子供達だけではなく「あらゆる相手」に対して確信しなければならないと感じます。

ある極悪人、彼は平気で人を殺し、それ数え切れず残虐非道、世界中を相手にしてさえ不敵でいられるような人物がいたとして。そんな彼にも、世界中から称えられるような聖人、犠牲的精神もあり、それでいて目的の為に生き抜く勇気を持ち、どんな小さな不幸も無くしたいと願うような人物の「心」が、少なからず存在するという確信です。 その逆も同様です。 どんな聖人にも、極悪人の「心」が無い訳ではない。

上記は極端ですが、普段私達がつきあう身近な人々を、私達はつい「こんな人だから」とかいう風に勝手に限定してしまうことがあります。ひとつ嫌なことがあると、その感情は火が走るように拍車が掛かり、ちょっとした言動にも何か裏があるのではないかと勝手に想像しては本気でそれと思いこんでしまうこともあります。確かに年齢を重ねることで、人は簡単に変われなくなるものだとは思いますが、私はそれをしてさえ「変われるものだ」と思うことにしています。なぜなら、そうしなければ私の中でもそれ以上の知恵を出そうとしなくなるからです。

人間の「命」というものや「心」というものが、これほど全然わかってないものなのに、私達は「限定」をし続けてしまう。一瞬、そう思ってしまう心があることは仕方ないとしても、いやそうではないとまず自分から挑戦することを放棄してはならないと考えます。
「限定」をしてしまえば、それ以上の「自分に置き換えた想像が必要なくなる」ので、誠実な行動をするにしてもどこか限界がやってくるからです。
(2)つめは
「土壌を広げる為には、誰びとにも”あらゆる命の方向性”があると信じる必要がある」でした。


いじめ(というにはあまりにも犯罪的でしたが)の問題の時にしても、いじめた側の生徒をもはや「そのような人間なんだ」と世間(どちらかというとメディアでしょうか)は捉えています。もちろん単純に味方をする訳ではありません。それでも私はあえて、上記のように「そんな彼も人間である」と主張したいのです。(実を言うとTwitter上では、ビビってこのような主張はしませんでした。私の臆病さです)
あのような人間はやっぱり小さい頃から「傾向性のある事件」を起こしている!
あのような人間は親族もやはりなっちゃいない!
だから潰せ、隔離しろ、絶対に許してはならない!  ……
私は、確かにある種の「正しさ」だと思います。でも「何も解決していない」とも思うのです。
(2)の私の主張に照らすと、このいじめた側も「究極的には許せ」という話になってしまいます。
誰が!やるのか。それは非常に難しいことです。しかし、あの非道な行いをし続けた(ている?)少年に誰かが「対話」をし続けなければならない時は必ずくるだろうと思います。何十年かかっても!

「相手を限定する」という状況が蔓延する現場は、進歩がなくなります。
想像力を働かせる時間がどんどんなくなっていくからです。
そしてそのような状況が起こりやすいのは「相手を諦めるのは、仕方が無いことだ」とする人物ばかりが占めている時です。そしてそれは、あらゆる現況を「何らか他のもののせいにする」クセがついた人達で現場が埋まることを意味します。つまり「まず俺が何か一つでも変えていく!」と決意する人物がいないことを意味してしまいます。あらゆる周囲のものによって自分が動かされていると思っているうちには、自分がまず変えようなどとは考えられないからです。
「本当の本当にその人・現場の為になることは何か!」と悩みぬいた人の行動は、時に矛盾したように映ります。<その人>が取るその行動・考えが、長い目で見てその人の為にならないと思えば、心を鬼にしてソコを切ることもあるでしょう。またまた別の人、その現場、と考え抜くほど具体的な行動になっていきます。自信を失った人を励ますこともあるでしょう。一緒に何か挑戦しようとすることもあるでしょう。時にはただ見守ることが必要だと判断することも、あるかもしれません。
しかしその為には想像力が必要です。そして相手の本当の所を信じぬかねばなりません。☆(1)(2)

ですから(3)つめ、
誠実な行動は「常に具体的になっていく」という点があります。毎日、毎日の勝負です。


結論に戻ります。私は「勇気を試される」と言いました。それはなぜか。

(1)「誠実になる為の土壌」
これを育てるには、様々な経験をしなければなりません。時にそれが苦痛となることもあります。望まずして出てきた不幸がコレにあたるかもしれません。究極的に、どのような理不尽すらも「自らの土壌にするんだ」というちょっとマッチョな考えが必要になることだってあります。
個人的な話ですが、私は今振り返ると、特定難病疾患というものにかかって何度か手術したり長期入院した経験をして良かったと感じます。良かったと思えるまで確かに、ちょっと「そのように思えるようになろう」と無理をした期間もありました。しかし、人間は必ずそうしたことができる力を備えています。
ただ、備えていてもそれを扱わねばなりません。武器を振るう為には勇気が必要なのです。伝説のエクスカリバーを持ってても、全く鍛えていない体で一切の勇気がなければ重い棒に過ぎず、単なる逃げ遅れの原因になってしまいます。
私は難病が「やってきた」のは僥倖だと感じています。多くの場合「自ら困難に向かおう」とするのはとても勇気が要るからです。私の場合は病がやってきてしまい、文句を言う暇もなく突き抜けねばならない状態にされてしまったので、言わば「背中を押してもらった」と考えています。
その他の多くの事は「自分から突撃しなければならない」からこそ、勇気がいるのだと思います。

(2)「誰にも”あらゆる命の方向性”があると信じる」
誰かに裏切られることはとても辛い事です。
裏切りと言わずとも、期待した結果を得られなかったり、思ったように動いて貰えなかったり、信用して貰えなかったりといった場面では、心が萎縮してしまいます。
ましてや、自分を敵視しているかのような行動をとる人に対しては、できるだけ関わりたくないと考えるのが普通です。しかし、それではいつまで経っても何も変わりません。あいつが勝手に俺を敵視しているのが悪いと、いつまでもブチブチしているのか。それとも、まず俺が一つ変わってみせてやろうと奮起するのか。それは自由ですが、やはり勇気を試されるのは後者です。
動いたからといって相手が変わってくれるとは限りません。余計に「点数稼ぎ」などと罵られる恐れだってあります。だから怖いのです。1度ならず2度、3度と挑戦できるかどうかは、やはり勇気を出せるかどうかだと思います。

(3)「常に具体的になっていく」
職場、家庭、地域。何でもそうですが、より良くしよう、何かを解決しようと考え始めるとどんどん具体的にしていかなければ動けなくなっていきます。これらに関わる一人一人のことをどんどん具体的にしていくと、場合によって「本当はやりたくないんだけど」といったものも出てきます。しかし、具体的に分析できる人は既に「真剣に考え抜いている人」だと思います。考えて考え抜いて、これができれば大丈夫だ!と頭では分かっている、でも…… と葛藤が始まります。これをどうやって破るか。これもやはり、勇気を出せるかどうかだと思います。
実は今年の4月に転職をし、新たな現場でほとんど未経験の仕事に就くこととなりました。私は今のところ、通りすがる人には必ず挨拶をすること、朝には直接関係ない部署にも行って可能な限り挨拶をして回ること、という点をまず最初の目標として密かに掲げ実践しました。会社では幸運にもそうした態度を評価して頂いたようです。
この点で友人が言ったことがありました。「気軽に挨拶できる人って良いよなあ」と。
その場で私は否定しましたが、とんでもないことです。挨拶を気軽にできたことなど私にはありません。特に別部署に行く時などは、ドアの前で軽く深呼吸をしてから入る程です。同じ部署でも、あまり挨拶を返してくれない人も当然います。それでも毎日こちらから声をかける。それが簡単な訳がありません。いつも「今日は別にいいかな…」という思いが一瞬頭によぎります。そして結果として「おはようございます」と声に出すのです。本当に一瞬の葛藤です。でも、そこで勇気を出せるかどうかが勝負だと私は思って、毎日挑戦しています。挨拶ひとつとっても、本当は怖いのです。
ですから、真剣になり内容が具体的になるほど「勇気を試される」回数は増えていきます。


本当に長くなってしまって申し訳ありません。
冒頭「私にとっての 誠実の法則 は 勇気を出す ということである」を、分解して私なりに解説させて頂きました。いつも長ったらしくなってしまって反省してます。(投稿しちゃうけど)


先日、あの乙武さんのツイートを見ていると、ある障がい者の方から「お前のように強い者ばかりではない。乙武が出来ているのだから、といつも比較される立場を考えたことはあるのか」という叫びが、乙武さんに届き、少し騒動となっているのを見かけました。
これを見た時、当然私には乙武さんと同じ程のものではないにしても、似たような体験をしたなと思ったのです。やはりTwitter上での事でした。
(これは以前書いたかもしれませんけど)私はクローン病という特定難病疾患を持っていますが、この体験をある種のバネにして同じ体験を持つ人への、何らかの勇気になればと色々呟く事がありました。そんな中で、やはり同じ病を持つ方から「ポジティブすぎるのは好かない」というような話を頂き、ちょっとした論争になったことがあります。
同じ様に「私にもできるのだから、きっとあなた達にもできる」という話を嫌う傾向にある方々は、Twitterを見る限りでは結構いるもんなんだな、ということにようやく気づく状態でした。
その時、私の中で色々と葛藤が生まれました。やはり、私のやってることは単なる楽観主義で「人気稼ぎ」に過ぎないのかな、と。乙武さんが同じような事を考えたかどうかは分かりません。私はしばらく悩みました。
その後、自分のスタンスを変えてはいませんが、そのような「励まし」の意を含めたツイート等をしようとする時には、より深く考えようとする傾向が強まりました。また、そうしたひとつのツイートを送信しようとする瞬間に、より勇気が要るようになりました。ハッキリ言えばちょっと臆病になったのです。
結論はまだわかりませんが、この経験によって私自身の発言は少し洗練されたのかな、と楽観的に見られるようにもなりました。想像力の幅が広がったかもしれないからです。たぶん、乙武さんはその時のツイートに限らずずっと前から、そのような体験をたくさんされてきたのだろうと思います。ですから、乙武さんはより「誠実な行動ができる人」だと私は思うのです。



ここまで綴って、新奇なものに対してどのように想像力を働かせるべきか、という点についても考えてみたいと思います。例えば「海外の文化・芸術」といったものです。今回の議題に茂木さんが補足されているように、二国間の問題に関連した話題になります。
文化、というよりは習慣・思想について私達(国達)はよくすれ違いを起こしています。ここの所話題になっている隣国同士もそうです。私達は理解できないことを前に、あまりうまく行動を起こせないように感じます。
しかし「芸術」はどうでしょうか。ほとんどの場合、芸術は(国をまたげばなおさら)一瞬よくわからないこともたくさんあると思います。しかし私達はそれを受け止められずに攻撃をするようなことはありません。
私はあまり芸術的な話をしたことが無く恐縮なのですが…… 芸術とはまず「いったん受け入れる」という考え方があるように思います。あなた方の国のその芸術は、今ちょっとよく分からないけれどもまずキチっと観てみます!というような。そうすることで、相手の「全力」を分からないながらも受け止められます。で分からないところは素直に「コレはどういうことなのか」と聞くこともできます。相手もたぶん、ドレがナニを表現しているのだという話を必死にすると思います。その為には、やはりその国の歴史や文化を正直に話し・受け止める必要が出てきます。
私は、大学や高校(更には小中)でもっと国際的な文化芸術交流をすべきだと思っています。ちょっとした修学旅行でも大変な現代ですが、若くしてすばらしい芸術性を備えた人物はどの国にも必ずいます。そうした人達との交換留学とも言うような活動が、教育現場を中心にして、さも当たり前のように広がって欲しいと思うのです。実際に取り組んでいる学校もあるかとは思います。
そしてその現場を、必ずしも芸術性を志さないかもしれない青年達の目にも触れさせていけたらと思います。芸術は「最初はよくわからないもの」が当然です。だから素直に対話できると思います。そしてそれが、大きな想像力に繋がっていくと思うのです。それも、二国間の両方の若い想像力が広がります。単純なようですが、そうなれば双方にとって「誠実な振る舞いが出来る人」が増加することにはならないでしょうか。


最後に、誠実さと勇気について。
例えどれほど周囲の人が「あなたは誠実な人だ」と評価しても、本人の心の中で納得できていなければ「俺は誠実な人生を送った!」とは思えないはずです。逆に「俺はこれだけやった!」と思っていても、周囲があまり誠実ではないと思い続けていれば、それは結果に繋がったとは言えないでしょう。
「冥」という言葉があります。 目に見えないこと──という意味があります。心の奥底という意味もあります。誰も見ていないところで、やるべきことを追求し実践する。この孤独の戦いの中に勇気があると思います。見えない仕事でも結果が見えれば分かりやすいです。しかし、世の中には見えない戦いの結果が誰の目にも触れないことがたくさんあります。その当事者となったとき。そして「見えない」ことが自分でも分かっているとき。そこで試される勇気を勝ち超えられたかどうかで、その人が心から「俺は誠実に生きた」と納得できるのではないかと思います。

私は例えお金や名声に恵まれなかろうと、恵まれようと、最期の時には「俺は誠実に生き抜いた」と言い放てるようでありたいと、時々考えます。

NO.52012-09-09 06:47:02 masami 21
誠実に生きるとは?と考えて、「さとうきび畑の唄」の映画(ドラマ?)の一場面を思いだしました。
知らない人には申し訳ないですが・・・
第二次世界大戦の沖縄で、兵隊となった主人公の日本人の男性が、傷ついて一人残された米兵を殺すよう上官に命じられて、殺せない、と言って泣く場面です。結局彼は、命令に従わなかったので、上官に殺されてしまいます。
彼の最期は、自分の気持ちに誠実だった、と思います。
誠実な、の英語は、truthful sincere honestもあるけれど、私の中の誠実に生きる、というイメージは、英語に訳せば、genuine に近いと思います。ありのままの自分、正真正銘な自分でありたいと願うこと。正真正銘な自分がわからなければ、それを問い続けること。それと同時に、他の人もそのように生きられるように配慮することが、誠実に生きることだと思います。
そのように生きることが、現実の中の具体的な場面でどのような行為に結び付くかは、その人の置かれた状況、その人の能力によって異なってくると思います。
「さとうきび畑の唄」の主人公が殺されたように、genuineであることは、時には、とても難しいと思います。また、自分の誠実さにこだわりすぎれば、誠実な生き方が、あっという間に、傍若無人な生き方になってしまうかもしれません。どんなに誠実であろうとしても、危険や恐怖、不安や疑心があるところで、genuine になるのは難しいでしょう。一人一人が、自分に正直であり、他者が正直でいられるような環境を作るよう心掛けることから、誠実な対話が始まるように思います。

NO.42012-09-08 23:10:08 yamaguti 15
誠実さとは、物事を真摯に捉え、自分のこととして引き受け行動し、行動したことによる結果に責任をとることですかね。
2国間の関係でいえば、政治家の(相手国に対する)発言は、基本的に国内向けのプロパガンダなので、相手の国民の理解をえることは想定されていないですし、政治家の発言によって相互理解が深まることがあるとすれば、それは双方の国民の過半数が切望している事象に限定される非常に希なケースだと思います。
特に領土問題に関しては、政治家が提示できる相手の国民への誠意とは、沈黙ではないでしょうか。問題の経緯や根拠を合理的に丁寧に説明して自国の正当性を言い募っても、それは結局自国民向けのものであるかぎり、上手い理由を見つけてきたなという印象を与えるだけで本当に相手を納得させることはないでしょう。
相手国のある行動により、自分及び自国民に沸き起こった感情が、何に因るものなのかを深く考え、その感情とそれに到る経緯を相手国民に理解してもらえるように、理路整然と熱心に言い続けることにより、相手の国民に、内容はともあれ誠意のある対応をしていると理解してもらえたとしても、その行為は翻って自国民の利益にかなうものであり、自国民に対する誠意にもつながるということを、はたして自国民に理解してもらえるのでしょうか。
辛抱の足りない国民は、迂遠な説明は言い訳だと捉え、明快な行動や相手への言及こそが自国民への誠意だと思っていないでしょうか。

NO.32012-09-08 10:17:10 茂木健一郎 9
二国間のコミュニケーションにおいて、グライスの協調原理が充たされることはめったにない。それが問題。

Grice's Maxims

The maxim of quantity, where one tries to be as informative as one possibly can, and gives as much information as is needed, and no more.

The maxim of quality, where one tries to be truthful, and does not give information that is false or that is not supported by evidence.

The maxim of relation, where one tries to be relevant, and says things that are pertinent to the discussion.

The maxim of manner, when one tries to be as clear, as brief, and as orderly as one can in what one says, and where one avoids obscurity and ambiguity.

http://www1.appstate.edu/~mcgowant/grice.htm


NO.22012-09-05 18:26:32 Tomoikukai 22
日本の裁判制度には、裁判外紛争解決手段として、調停制度があります。日本は、明治時代に、フランス、ドイツ方式の裁判制度を導入した為に、裁判に於いては、裁判官が法律を厳格に適用する、シビルロー方式の裁判制度となりました。その為、裁判所の裁定は時として、世間常識とは異なることがあります。その問題を少しでも和らげる為に、民事と家事では、当事者同士で話し合って解決ができないかどうかを、調停という場を設けて検討します。それでも合意できない時には、裁判へ移行することもありますし、勿論離婚調停以外は最初から裁判ということもあり得ます。それに対して、アメリカの法体系は、コモンローという方式で、例え刑事裁判だとしても、被告と一体になった弁護士と、検察官の弁論を聞いてから、一般の市民から選ばれた陪審員によって評決が下されます。これは、大胆にいってしまえば、アメリカ文化では、裁判制度そのものの中に、調停の要素が含まれていると言っていいのではないでしょうか。つまり、どんな紛争も、弁論を通じて解決を図ろうという姿勢です。

日本人は、明治以来シビルローのもと、国家の全体主義指向も相まって、法律を守るのが国民の唯一の使命であるかのように突っ走ってきました、法律だけではなく、あらゆる規則を含めてです(校則を見よ!)。仕事ぶりや、時間厳守にもそのことが現れています。私は、ある保育園の卒園式に来賓として出席したことがあるのですが、園児が隊列を組み、整然として入場してきたのを見て、私以外の来賓の人達は感に堪えた面持ちがしたらしく、後で、園長先生をそのことで大いにほめていました。明治以来の日本の文化では、規則を守ることや目上の人のいうことを聞くことと、「誠実であること」とは、どうも同じことと捉えられているような気がしています。規則を守らなければならないということでは、時には(しばしば?)天下の国会においてさえ、つまらない規則違反を取り上げて、鬼の首でもとったように非難してみたり、そのことを理由に審議拒否してみたり、笑ってしまうのは、そのことで政局が大きく動いたりもしてしまいます。一方では、自衛隊が憲法違反であることは、小学生でも理解できるのに、その問題を取り上げて、憲法や法律を修正してみせる能力が全くないにも関わらずです。日本でのシビルローの導入は、どうやら、木を見て森を見ずと言った文化を醸成してしまったような気がします。そして、国民の側としては、自分たちが国を構成しているにもかかわらず、何か問題が起きると、すべての責任は国にあると思うらしく、国やその代表者を一方的に非難すると言った傾向が最近は特に目につくようになりました。(自分たちの問題なんだよ!)

戦後GHQは、憲法や法律を強制的に改変させましたが、明治以来維持してきた、シビルロー方式をコモンロー方式に変更させることはできませんでした。多分、そのときの日本の指導者や、法律専門家にその能力が無かったからだと思われます。そのことで、戦後、日本ではいろんな弊害が出てきました。一番大きいのは、家族の崩壊です。例えば、遺産を相続する時、話し合いを基本とした時は、遺言が必要となりますが、シビルローに慣れた日本人は、法律通りの配分を当然のことと思ってしまいます(死んだ人が、話し合いに加わるには、遺言しか無いのです)。これでは、兄弟の仲が悪くなり、話し合えば必ず喧嘩になること請け合いです。学校へいかない子供は許されないし、会社をすぐ辞めたり、潰したりしたら信用は完全に失墜します。公務員が飲酒運転で捕まれば、幸せだった家庭も完全に崩壊。対話無しに、規則や法律を厳格に適用すれば、当然のようにこういうことが起こってきます。いつのまにか法律は、人々の暮らしを守る働きから、人々に疑心暗鬼を起こさせ、密告までさせて、われわれを不幸の奈落に落とし込む存在となってしまっているとは思いませんか?

我々は今、規則を守ったり、上司や先輩のいうことを聞くことが「誠実であること」という観念から抜け出して、一つ一つの規則に、また、先生や諸先輩のいうことに理解しつつも、誠実に疑問を投げかける態度を身につけて行かなければならない時だと思います。つまり、「誠実の法則」があるとすると、それは、話し合いや議論に於いて、自分の誠実な心がひとの心に届いて、そして、それに答えて、ひとの誠実な心が自分の心の中に届いて、初めて問題の解決が見えてくるものなのだと思うのです。例えば、考えてみてください、ほかの多くの東南アジアの国々のように、ハーバードで同じくサンデル教授の講義を聴いた若者同士が寮で意気投合して、それぞれの国の夢と未来を語り合ったとします。それらの人達が国家元首となってお互いの国に横たわる難問を、協力して解決するのは容易に想像できることだと思いませんか? 李明博大統領と野田首相が親友だったら、国境の問題も随分簡単に解決しそうですよね。

調停に於いては、調停委員が対立する当事者それぞれの心の中に飛び込みます。そして、双方からの信頼が得られて初めて、和解、あるいは合意の可能性が見えてきます。昔は、夫婦喧嘩していても、両方の心を理解してくれる大家さんなんかがいて、何度でも喧嘩して、何度でも仲直りすることができたのですが、今は、火に油を注ぐような人が多くって、仲に入ってもらうと、なおさら仲が悪くなるようです。政治家の皆さん、是非、人間関係の研修には、裁判所の調停委員会を検討してみてください(ちょっと本気)。


NO.12012-09-04 10:26:43 chigusaotsuki 20
こういう個人になりたい、こういう集団になりたい、こういう社会になりたい、と、私たちは「前提」を造り上げて、現実の側を、私たちの前提の側へと、合わせようとします。
それが、うまくいったならば、何の問題もないです。
けれど、それが、うまくいかないときには、そんな現実がよくないことになって、前提そのものの検討ではなく、うまくいかないのは、個人のせいだ、集団のせいだ、社会のせいだ、と、不快や困難や失望といった、痛々しいほどの感情をもたらしながら、不適応となる傾向があると思います。
このような不適応を、克服するためには、カール・ポパーの言うとおり、理想的で抽象的な目標を掲げることだけではなく、現実的な具体的な諸問題を解くことで、非現実的で適当でない理想に浸っているだけという現象を、避けることだと思います。
すなわち「何が」問題で今「何が」起きているのかを問うのです。

私がここで発言していることは、それが唯一、必然的な最善の介入というわけではないと思います。
皆さんに納得のいく言葉で伝えられてはいないと思いますし、皆さんを動機付けられるとも、思ってはいません。
けれど、ここで、お伝えすることで、よい変化を、よい影響を及ぼしたいのです。
変わることを通じて、今までと異なったよい徴候を、よい状況を、生み出したいのです。
そして、現実的に、私は何が出来るかを、述べたいのです。
私にとっての「誠実さの法則」は、このような形であらわれていると思います。