嫌いな人は、なぜ気になるのか
僕はよくツイッターで絡まれます。一度も返事をしたことがないのに、ずっと僕のツイートを追いかけて、反論や難癖を送りつけてくる方がいる。以前は傷ついたりもしていましたが、最近は、「この人たちは僕のファンなんだ」と思っています。
僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。自分が出来ないことをやっているとか、自分が持ちたかったものを持っているとか。
近隣諸国との関係も同じかたちだと思います。中国や韓国の悪口を言う人はたくさんいます。けれどもアフリカや中南米の国のことについて、これほど熱心に悪口を言う人はいない。そもそも関心を持つ人が少ない。結局、嫌いという感情を持ったり、攻撃したくなる対象というのは、自分にとって「近い」対象なんだと思います。僕自身は、最近、日本の国をよく批判していますけれども、それは日本の国が自分にとって大事だからです。
みなさんは人生の中で、「この人のことがは嫌いなんだけど、気になって仕方がない」という人に出会ったことがありますか。あるいは反対に、誰かから執拗に攻撃されたことはありますか。好きと嫌いの微妙な関係について、個人レベルでも良いし、国家レベルの話でも良いので、みなさんのお考えを聞かせてください。
テーマとは大幅に外れますが、気になったので
決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな
実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。
の補足をします。
身体性がないことで、乱暴な言葉を出しやすくなることもあるだろうということ
身体性がないことで、相手の様子を無意識のうちに感じ取って、言おうと思ったけれど言えなくなる、話題を変える、といったことができないこと
逆に、視覚情報がないことで、今朝の茂木さんの連続ツイートにもあったように、視覚情報に気をとられて、感じ取るのが難しかった言葉の核の部分での会話のやりとりが可能になることも
などが、思い当ります。
今、言葉だけのやり取りが多くなって、新しい言葉の世界が生まれつつあるように思います。
決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな
実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。
の補足をします。
身体性がないことで、乱暴な言葉を出しやすくなることもあるだろうということ
身体性がないことで、相手の様子を無意識のうちに感じ取って、言おうと思ったけれど言えなくなる、話題を変える、といったことができないこと
逆に、視覚情報がないことで、今朝の茂木さんの連続ツイートにもあったように、視覚情報に気をとられて、感じ取るのが難しかった言葉の核の部分での会話のやりとりが可能になることも
などが、思い当ります。
今、言葉だけのやり取りが多くなって、新しい言葉の世界が生まれつつあるように思います。
何回もすみません。最後にひとつ、最近出会った出来事を、書きたいと思います。
人がまばらな駅に向かう通りを、大柄の男性が足早に歩いてました。その人は、前から歩いてくる男性に、すっと近づいては、擦れ違う瞬間、相手の肩に自分の肩をドン、と結構な勢いでぶつけたのです。最初は、うっかりぶつかったのかと思ったのですが、気になって見ていると、明らかに、すっと自分で近づいていくのでした。ぶつかられた人は、あっけにとられたり、文句を言いたそうに振り返ったりしていました。その男性は、3、4人の人と、ドスン、とぶつかることを、繰り返しました。
わたしはその光景を眺めていて、あの人は、ぶつかるということで、人とかかわっているのかもしれない、とぼんやりと感じました。
そして、皆さんの投稿を読んでいるうちに、この男性がやっていたことは、web上で執拗に絡むのと、似ているのかもしれない、と思いました。
でも、決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな、と思います。
人に肩をぶつければ、自分の肩も痛みますから。
そこに体の重みや痛みがあるかないか、は、どのように関わるか、どのように語り合うかに、大きく影響を与えるような気がします。
今回いろいろと考えている中で、実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。
もちろん、体重の乗った言葉、という表現があるように、十分その人の存在の重みを感じられる、言葉だけ、web上だけの会話もあると思います。
人がまばらな駅に向かう通りを、大柄の男性が足早に歩いてました。その人は、前から歩いてくる男性に、すっと近づいては、擦れ違う瞬間、相手の肩に自分の肩をドン、と結構な勢いでぶつけたのです。最初は、うっかりぶつかったのかと思ったのですが、気になって見ていると、明らかに、すっと自分で近づいていくのでした。ぶつかられた人は、あっけにとられたり、文句を言いたそうに振り返ったりしていました。その男性は、3、4人の人と、ドスン、とぶつかることを、繰り返しました。
わたしはその光景を眺めていて、あの人は、ぶつかるということで、人とかかわっているのかもしれない、とぼんやりと感じました。
そして、皆さんの投稿を読んでいるうちに、この男性がやっていたことは、web上で執拗に絡むのと、似ているのかもしれない、と思いました。
でも、決定的に違うのは、身体性があるかないかという点かな、と思います。
人に肩をぶつければ、自分の肩も痛みますから。
そこに体の重みや痛みがあるかないか、は、どのように関わるか、どのように語り合うかに、大きく影響を与えるような気がします。
今回いろいろと考えている中で、実際に出会って言葉を交わすコミュニケーションについて考えられることを、web上だけのコミュニケーションにそのまま当てはめることには、慎重でありたいな、と思いました。
もちろん、体重の乗った言葉、という表現があるように、十分その人の存在の重みを感じられる、言葉だけ、web上だけの会話もあると思います。
嫌いな人はなぜ気になるのか?
もしも、ロビンソンクルーソーのように無人島に独りだったら、
どんな感じだろうか?と考えると感受性みたいなものはどんどんなくなって、
きっと、動物的になっていくのではないか?と想像します。
人間らしくあることは、他者の存在が絶対に必要であると思います。
小林秀雄は、その著作の中で、
「人間は、孤独な反省に頼って己れを知る様には決して作られてはいないのである。
常に他人が必要だ」と喝破しています。
他者の存在は、絶対に必要であると考えたときに、
関係性を求めることが当然ではないか?
つまり、本能レベルとして、他者との関係を求めていると考えます。
その関わり方がいろいろと感情として出てくるように思います。
要するに、好きと嫌いは表裏一体で、関係性を求めているのではないか?
と割切っています。
いろいろと絡まれることもある(ツイッター、ブログなどをチェックして、
コメントされたりします。)のですが、僕の弱点を熟知している存在です。
嫌だなと正直思いますが、まぁ、しょうがないなと思っています。
正体を隠してるので、反論もしようがないし、等高目線で真摯に向き合うことも
難しいです。
変なまとめかもしれないですが、一期一会でいくしかないと思っています。
なんか、ずれていたら、すみません。
もしも、ロビンソンクルーソーのように無人島に独りだったら、
どんな感じだろうか?と考えると感受性みたいなものはどんどんなくなって、
きっと、動物的になっていくのではないか?と想像します。
人間らしくあることは、他者の存在が絶対に必要であると思います。
小林秀雄は、その著作の中で、
「人間は、孤独な反省に頼って己れを知る様には決して作られてはいないのである。
常に他人が必要だ」と喝破しています。
他者の存在は、絶対に必要であると考えたときに、
関係性を求めることが当然ではないか?
つまり、本能レベルとして、他者との関係を求めていると考えます。
その関わり方がいろいろと感情として出てくるように思います。
要するに、好きと嫌いは表裏一体で、関係性を求めているのではないか?
と割切っています。
いろいろと絡まれることもある(ツイッター、ブログなどをチェックして、
コメントされたりします。)のですが、僕の弱点を熟知している存在です。
嫌だなと正直思いますが、まぁ、しょうがないなと思っています。
正体を隠してるので、反論もしようがないし、等高目線で真摯に向き合うことも
難しいです。
変なまとめかもしれないですが、一期一会でいくしかないと思っています。
なんか、ずれていたら、すみません。
嫌いな人はなぜ気になるのか?
少し話しの趣旨からそれるかもしれませんが、今回のお題をいただいた日の出来事から…。
普段山奥に棲んでいるため、購入したくてもできない THE BIG ISSUE を、その日、主張先の大阪で購入しました。
地下道の入り口に販売員さんが立っていました。人通りの多いその場所へ、最近移ってきたのだと彼は言っていました。
そんな立ち話をしながら購入している時に、ふと感じた視線。それは、私が普段の仕事の中で感じる社会の視線と同質のものだと感じました。
普段の仕事は、知的障がいや発達障がいのある人たちの支援です。彼らと一緒に行動しているときに感じる視線。
自分たちの暮らしは、日本の社会は、一定の水準に達している。決して、弱い人たちを踏み台にして成り立っている訳ではない。社会的弱者と言われる人たちには、相応の支援を社会が責任をもってやっている。
そう信じ、現実から目を背けようとしている目の前に突きつけられた「あるはずのない現実」に、戸惑いや、嫌悪感や、怖さを感じ、どう「見れば」いいのか分からずに漂う視線。「不等高目線」…?!
見たくないもの、見てはいけないもの、見えてはいけないもの…それは、「あるはずのない現実」ではなく、それを見ようとしない、向き合おうとしない自分の中の「ずるさ」とか「自己嫌悪感」のようなものなのだと(この仕事を始めるまで、世の中のことを知るまでの自分を振り返っても)思います。
「障害者」は、人里から離れて、「不自由なく」暮らしているはず。
「ホームレス」は、どこかに集まってただなにもせず暮らしているはず。
そして、自分たちとは関係のない人たち…。
のはず・・・なのに…。
否応なく突きつけられる自分との関係性に、とまどうのです。
同じ社会に生きるもの同士つながっているのだと知り、お互いの幸福を考え、それぞれが自分の生をポジティブに生きていくことができるように、どう行動するか。
金子みすずがうたった「みんなちがって みんないい」の真の意味を理解すれば、誰もが、尊大になる必要も、卑下する必要もなく、「等高」に生きていけるのだと思います。
真実を知ることで、嫌いだろうが、好きだろうが、関係なく、みんな関係して(つながって)生きているのだと気づけるのではないかと考えています。
少し話しの趣旨からそれるかもしれませんが、今回のお題をいただいた日の出来事から…。
普段山奥に棲んでいるため、購入したくてもできない THE BIG ISSUE を、その日、主張先の大阪で購入しました。
地下道の入り口に販売員さんが立っていました。人通りの多いその場所へ、最近移ってきたのだと彼は言っていました。
そんな立ち話をしながら購入している時に、ふと感じた視線。それは、私が普段の仕事の中で感じる社会の視線と同質のものだと感じました。
普段の仕事は、知的障がいや発達障がいのある人たちの支援です。彼らと一緒に行動しているときに感じる視線。
自分たちの暮らしは、日本の社会は、一定の水準に達している。決して、弱い人たちを踏み台にして成り立っている訳ではない。社会的弱者と言われる人たちには、相応の支援を社会が責任をもってやっている。
そう信じ、現実から目を背けようとしている目の前に突きつけられた「あるはずのない現実」に、戸惑いや、嫌悪感や、怖さを感じ、どう「見れば」いいのか分からずに漂う視線。「不等高目線」…?!
見たくないもの、見てはいけないもの、見えてはいけないもの…それは、「あるはずのない現実」ではなく、それを見ようとしない、向き合おうとしない自分の中の「ずるさ」とか「自己嫌悪感」のようなものなのだと(この仕事を始めるまで、世の中のことを知るまでの自分を振り返っても)思います。
「障害者」は、人里から離れて、「不自由なく」暮らしているはず。
「ホームレス」は、どこかに集まってただなにもせず暮らしているはず。
そして、自分たちとは関係のない人たち…。
のはず・・・なのに…。
否応なく突きつけられる自分との関係性に、とまどうのです。
同じ社会に生きるもの同士つながっているのだと知り、お互いの幸福を考え、それぞれが自分の生をポジティブに生きていくことができるように、どう行動するか。
金子みすずがうたった「みんなちがって みんないい」の真の意味を理解すれば、誰もが、尊大になる必要も、卑下する必要もなく、「等高」に生きていけるのだと思います。
真実を知ることで、嫌いだろうが、好きだろうが、関係なく、みんな関係して(つながって)生きているのだと気づけるのではないかと考えています。
今回の一連の議論の中で、「等高目線」という新しい言葉が Tomoikukaiさんによって提案され、議論の中で定着したのは良かったなあ。
No12のmasamiさん、
私のつたない思いつきを
深く考察して頂きありがとうございます。(o^^o)
私は 自分が100%等高目線を実行できているとは
思えません。
だから逆もあると思えるのです。
私の方で等高目線のつもりでも相手には
不等高である場合もありうるのでは。
等高目線を実現するには常に最善のコミュニケーションを
目指さなければいけないのだろうなと思います。
私のつたない思いつきを
深く考察して頂きありがとうございます。(o^^o)
私は 自分が100%等高目線を実行できているとは
思えません。
だから逆もあると思えるのです。
私の方で等高目線のつもりでも相手には
不等高である場合もありうるのでは。
等高目線を実現するには常に最善のコミュニケーションを
目指さなければいけないのだろうなと思います。
No.11 orcamie さんの
きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。
バランスよく動けば、というところ、書かれた意図の通りに受け止めるのは難しいな、と感じますが、最近思ってることを書いてみます。
人と人がきちんと向き合ったとき、その場で交わされる言葉は、ひとりひとりがそれぞれの考えを言い合って、お互いに相手の言葉を、言葉を通して理解し合うのではなく、それぞれが語る言葉は、その場のふたりが作り上げていくのではないか、と思います。
例えば、ひとりの人が、絶望的な気持ちで語り出しても、向き合うもう一人の人が、その語りのなかに、話している人は気づいていないけれど、確かにそこに希望があることを感じながら、一心に聞いていると、絶望的な気持ちで語っていた人が、自然に希望の言葉を語りだす、そんなことがあります。そのとき語られる言葉は、語っていた人と、聞いている人のふたりで作り上げられた言葉のように感じます。
それと同じように、不等高目線で語りかける人も、相手の影響を全く受けずに語り続けることは難しい。その場合、相手の人が、どんな人とも等高目線で向き合える可能性を信じていたら、いつの間にか、等高目線の語り合いになることもあるかもしれない、と思いました。
きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。
バランスよく動けば、というところ、書かれた意図の通りに受け止めるのは難しいな、と感じますが、最近思ってることを書いてみます。
人と人がきちんと向き合ったとき、その場で交わされる言葉は、ひとりひとりがそれぞれの考えを言い合って、お互いに相手の言葉を、言葉を通して理解し合うのではなく、それぞれが語る言葉は、その場のふたりが作り上げていくのではないか、と思います。
例えば、ひとりの人が、絶望的な気持ちで語り出しても、向き合うもう一人の人が、その語りのなかに、話している人は気づいていないけれど、確かにそこに希望があることを感じながら、一心に聞いていると、絶望的な気持ちで語っていた人が、自然に希望の言葉を語りだす、そんなことがあります。そのとき語られる言葉は、語っていた人と、聞いている人のふたりで作り上げられた言葉のように感じます。
それと同じように、不等高目線で語りかける人も、相手の影響を全く受けずに語り続けることは難しい。その場合、相手の人が、どんな人とも等高目線で向き合える可能性を信じていたら、いつの間にか、等高目線の語り合いになることもあるかもしれない、と思いました。
私は人を嫌いになりたくないなという気持ちが漠然とあります。というのは嫌いの向こう側にある憎しみという感情に捕われたくないという思いがあります。私には理由はわかりませんが、強い負の感情、つまり誰かを憎むという感情に捕われてしまうと、自分がそこに取り込まれてにっちもさっちもいかなくなるのではないかという恐れがあります。
ところが逆にとても嬉しいことがあって、例えばだれかを愛してその人のためにがんばろうなどと正の方向の強い気持ちは、生きる上で自分にもプラスに働くと思うのです。また幸福のあまり失敗してもその後のリカバリは、負の感情に溺れての失敗より、容易のような気がします。
だから誰かに嫌われたり、憎まれたりすると、だからといって自分もその相手を憎み、嫌いになりたくないと私は思ってしまいます。No.1のchigusaotsukiさんが言及した分離と親密のバランスという考え方でいくとそのバランスが困難になると防衛本能が働くのでしょうか。
また誰かに嫌われて、なぜその人は私のことが嫌いなのだろうと理由が理解できなかったりすると私の方もその人に対して嫌いの感情がむくむくと湧いてきてしまうのです。しかし嫌われる理由がわかっても、自分の理性が私の方ではそれを変えることはないから仕方ないと私は立ち去りたいのですが、立ち去ることができない場合が社会ではあります。その場合その人が私に対して嫌いである限り私も嫌いにならざるを得ず、その嫌いの感情の渦に飲み込まれずに生活するのはかなり疲れます。できたら喜びを感じて毎日生活した方が楽しく何をするのも疲れが少ないので 嫌いの感情を捨ててしまいたいと思うのですが、嫌いの気持ちを1度くっつけてしまうとそう簡単には剥がせなくなってしまいます。そんなわけで私は「嫌い」という感情をできたらあまり持ちたくないと思うあまり私は「嫌い」な人に出会ってしまったら用心しなかればとついつい相手の動向が逐一気になってしまいます。
Tomoikikaiさんの「等高目線」という言葉面白いですね。私が勝手におもったのですが、きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。
ところが逆にとても嬉しいことがあって、例えばだれかを愛してその人のためにがんばろうなどと正の方向の強い気持ちは、生きる上で自分にもプラスに働くと思うのです。また幸福のあまり失敗してもその後のリカバリは、負の感情に溺れての失敗より、容易のような気がします。
だから誰かに嫌われたり、憎まれたりすると、だからといって自分もその相手を憎み、嫌いになりたくないと私は思ってしまいます。No.1のchigusaotsukiさんが言及した分離と親密のバランスという考え方でいくとそのバランスが困難になると防衛本能が働くのでしょうか。
また誰かに嫌われて、なぜその人は私のことが嫌いなのだろうと理由が理解できなかったりすると私の方もその人に対して嫌いの感情がむくむくと湧いてきてしまうのです。しかし嫌われる理由がわかっても、自分の理性が私の方ではそれを変えることはないから仕方ないと私は立ち去りたいのですが、立ち去ることができない場合が社会ではあります。その場合その人が私に対して嫌いである限り私も嫌いにならざるを得ず、その嫌いの感情の渦に飲み込まれずに生活するのはかなり疲れます。できたら喜びを感じて毎日生活した方が楽しく何をするのも疲れが少ないので 嫌いの感情を捨ててしまいたいと思うのですが、嫌いの気持ちを1度くっつけてしまうとそう簡単には剥がせなくなってしまいます。そんなわけで私は「嫌い」という感情をできたらあまり持ちたくないと思うあまり私は「嫌い」な人に出会ってしまったら用心しなかればとついつい相手の動向が逐一気になってしまいます。
Tomoikikaiさんの「等高目線」という言葉面白いですね。私が勝手におもったのですが、きっと「等高目線」は固定されたものではなくて「不等高目線」がバランスよく動けば「等高目線」になるんじゃないかな。。。ふと思いました。
「嫌い」「憎い」というのも、一つの関係性であって、そのような気持ちをぶつけたくてたまらなくなる相手には、やはり、関係性を求めているように思います。
逆に言えば、嫌い/憎いという感情を周囲にぶつけがちな人/国は、さびしくて、潜在的には関係性を求めているのかもしれません。
逆に言えば、嫌い/憎いという感情を周囲にぶつけがちな人/国は、さびしくて、潜在的には関係性を求めているのかもしれません。
嫌いな人は、茂木さんの仰るとおり人との距離感を間違えた場合に出会っちゃうと感じています。付き合いを深める過程で相手が自己愛が強い人だと、近づくにつれ崇めることを間接的に強いられるのでしんどくなってきます。価値観が違っても互いに相手を尊重できれば、価値観の差があってもその場では和やかにすごせると思います。皆互いにリスペクトできるところを探して尊重しあえれば良いと思っています。(いつもそうなのですが、前文の、今回はTomoikukaiさんの文章の影響を受けて、同じようなまとめになった気が…します。すいません。)
嫌いでも気になる人って、個人的には、好意が持てる点が有る人、もしくはどこか尊敬できるところが有る人ではないでしょうか。ひっかかりがあるので記憶に残る。でも相容れない点も持ち合わせているので距離感を感じる。基本的には人は社会性の動物ですから、コミュニケーションを取り、その距離感を解消したいがなかなか上手く出来なくてもどかしいので、余計に気になるのではないでしょうか。
嫌いでも気になる人って、個人的には、好意が持てる点が有る人、もしくはどこか尊敬できるところが有る人ではないでしょうか。ひっかかりがあるので記憶に残る。でも相容れない点も持ち合わせているので距離感を感じる。基本的には人は社会性の動物ですから、コミュニケーションを取り、その距離感を解消したいがなかなか上手く出来なくてもどかしいので、余計に気になるのではないでしょうか。
ごめんなさい、No.7 のTomoikukai です。先ほどの投稿で
お釈迦様は、信心の人を、わが親友だとおっしゃった
を、これも歎異抄の中に書かれているように書いてしまいましたが、これは、親鸞の和讃
他力の信心うるひとを うやまいおほきによろこべば
すなはちわが親友(しんぬ)ぞと 教主世尊はほめたまふ
を意訳したものです。
失礼しました。
お釈迦様は、信心の人を、わが親友だとおっしゃった
を、これも歎異抄の中に書かれているように書いてしまいましたが、これは、親鸞の和讃
他力の信心うるひとを うやまいおほきによろこべば
すなはちわが親友(しんぬ)ぞと 教主世尊はほめたまふ
を意訳したものです。
失礼しました。
No.6 trasque さんへ
極楽浄土は、「仏仏想念」という、仏と仏が拝み合う世界だとされています。これを人間の世界に翻訳すると、人と人がお互いに敬意を持ち合いながら友情を深めるということになると思います。私のいう「等高目線」は、お互いを煩悩も含めて自分と同じ人格者であるということをふまえないと成立しません。だから、二人の間で、一方の方だけが他方に尊敬の念を持つということは、明らかに「不等高目線」ということになります。特に、儒教によって規定された義務としての尊敬は、我々の乗り越えなければならない偏見の類いになると思います。人が、人に尊敬の情を感じる時は、その人が優れていると感じるからではなくて、その人が私にしてくれた好意(欲しいものをくれたり、知らないことを教えてくれたり、自分の足りないところを指摘してくれる等、親身になって関わってくれること)に対してであり、その好意は、出来ることがあれば、私が立場を変えて、その人にして上げられることでもあります。つまり、敬意というものは、社会的に、目上の人に対して社会常識として態度で表さなければならないものではなくて、相手の思いやりに対して、自然にわき上がってくるもののはずです。親鸞も、歎異抄の中で、
親鸞は、弟子一人ももたずそうろう。・・・(略)・・・自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
お釈迦様は、信心の人を、わが親友だとおっしゃった
と述べているように、「等高目線」に立って初めて、本物の「敬意」が生まれてくるのではないでしょうか。
極楽浄土は、「仏仏想念」という、仏と仏が拝み合う世界だとされています。これを人間の世界に翻訳すると、人と人がお互いに敬意を持ち合いながら友情を深めるということになると思います。私のいう「等高目線」は、お互いを煩悩も含めて自分と同じ人格者であるということをふまえないと成立しません。だから、二人の間で、一方の方だけが他方に尊敬の念を持つということは、明らかに「不等高目線」ということになります。特に、儒教によって規定された義務としての尊敬は、我々の乗り越えなければならない偏見の類いになると思います。人が、人に尊敬の情を感じる時は、その人が優れていると感じるからではなくて、その人が私にしてくれた好意(欲しいものをくれたり、知らないことを教えてくれたり、自分の足りないところを指摘してくれる等、親身になって関わってくれること)に対してであり、その好意は、出来ることがあれば、私が立場を変えて、その人にして上げられることでもあります。つまり、敬意というものは、社会的に、目上の人に対して社会常識として態度で表さなければならないものではなくて、相手の思いやりに対して、自然にわき上がってくるもののはずです。親鸞も、歎異抄の中で、
親鸞は、弟子一人ももたずそうろう。・・・(略)・・・自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
お釈迦様は、信心の人を、わが親友だとおっしゃった
と述べているように、「等高目線」に立って初めて、本物の「敬意」が生まれてくるのではないでしょうか。
個人的な好き嫌いの体験でも書いてみようかと思っておりましたが、皆様の投稿を拝読して色んな驚きを受けております。こんなに分析できるものなのか!?というのが正直な私の感想です。
No1大月さんの投稿ではそれがより具体性を持っていて、なんと表現すべきか…… アカデミックとでも言うのでしょうか。他人との関係を、割と個人の感情だけでやりくりしてきてしまった私には、整理した上での挑戦という能動的な行動はあまりなかったなと反省させられました。
またmasamiさんの一連の投稿の中にあるNo4の第三段落は私が「感覚」でやってきてしまった事を突いているなと感じました。「本気で嫌いだ」と思う人は私自身も人生の中で居た訳ではないのですが、どこか相手の発言や行動に対して「公平性を保てなくなる」という人物は確かに居ます。Twitterにしても、いざ他の人が同じ様な発言をしていたとしても気にならないのに、その人が言っている事はどうも「自分に言われているような気がする」というのが強くなってしまうのです。これを冷静に分析してみると、確かに大月さんやmasamiさんの言うような(茂木さんの本題にもありますが)「自分に近いところがある。自分が自分に痛感しているところがある」からこそなのだろうと思わされる訳です。
Tomoikukaiさんの第二段落「等高目線」について、私は実現可能だと思います。人類という規模で見たとき、これは途方もない時間がかかるかもしれませんが、その第一歩は誰でも、そして今からでも始められるものだと考えます。
そうは言っても「等高目線」を意識しすぎることは、どこか無理をしている状態ではないのか、という意見が出てくるかもしれないなと思いました。Tomoikukaiさんは「不等高目線」の例として、いくつか挙げられていますが、根本的なところではそれらの関係があった上でさえ等高目線は実現可能だと思います。
そして、その等高目線という関係が実現できている間柄の中にあって、存在が許される感情は「尊敬」の念ではないかと思います。非常に私としてはおこがましい話をしますが、茂木さんとお話をさせていただく機会があったとする時、仮に等高目線であったとしても、私の中には様々な理由で「尊敬する相手」としての態度を取ろうという感情が生まれると思います。これは一見「不等高」のように見えるかもしれませんが、お互いに一人の人間として真摯に対話が出来ている時には、等高目線として捉えても良いのではないかと思うのです。
なんとも表現しにくい事なのですが、いわゆる制度的な面でいつも「平等を公平を」と叫ぶようなものとは違うように思います。どんな相手であろうと一人の人間として対話する、という精神の芯のようなものがお互いに存在する状態が「等高目線」としても良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。
ここの所、正直な話、昔からの友人の発言にどうしても「気になって」しまう相手がいます。自分の事を遠まわしに揶揄しているのではないか?と疑念が沸いてしまうのです。1ヶ月ほどは、見ないようにしようとか、小手先の対策をしていたのですが、何かが違うなと思いなおし、自分から対話をしにいくよう改めて行動を変えてみました。すると単なる勘違いだったり、揶揄ではないが意図していた事などが解って更に深い話ができたりという状態が生まれました。
「嫌いな人」という議論とは少しズレがあるかもしれませんが、これに対する一つの答えは「自分から行動を起こす」という一点があると思います。職場に居る「話しかけづらい人」「何かすれば攻撃してくる人」というのは、どうしても関わりたくなくなってしまうものです。そこにどういうアプローチを仕掛けていけるか。という毎日の挑戦を実際に行えるかどうかは、とても大きな課題になります。しかし、必ずそれらは乗り越えられるものだと私は思います。結果として、思いも寄らぬ事にはなるかもしれませんが、ただ放置し続けるよりは、いつも何かその関係性を変えていこうと動ける側の方が、最終的に「一歩前」に行けるのかなと思う訳です。
No1大月さんの投稿ではそれがより具体性を持っていて、なんと表現すべきか…… アカデミックとでも言うのでしょうか。他人との関係を、割と個人の感情だけでやりくりしてきてしまった私には、整理した上での挑戦という能動的な行動はあまりなかったなと反省させられました。
またmasamiさんの一連の投稿の中にあるNo4の第三段落は私が「感覚」でやってきてしまった事を突いているなと感じました。「本気で嫌いだ」と思う人は私自身も人生の中で居た訳ではないのですが、どこか相手の発言や行動に対して「公平性を保てなくなる」という人物は確かに居ます。Twitterにしても、いざ他の人が同じ様な発言をしていたとしても気にならないのに、その人が言っている事はどうも「自分に言われているような気がする」というのが強くなってしまうのです。これを冷静に分析してみると、確かに大月さんやmasamiさんの言うような(茂木さんの本題にもありますが)「自分に近いところがある。自分が自分に痛感しているところがある」からこそなのだろうと思わされる訳です。
Tomoikukaiさんの第二段落「等高目線」について、私は実現可能だと思います。人類という規模で見たとき、これは途方もない時間がかかるかもしれませんが、その第一歩は誰でも、そして今からでも始められるものだと考えます。
そうは言っても「等高目線」を意識しすぎることは、どこか無理をしている状態ではないのか、という意見が出てくるかもしれないなと思いました。Tomoikukaiさんは「不等高目線」の例として、いくつか挙げられていますが、根本的なところではそれらの関係があった上でさえ等高目線は実現可能だと思います。
そして、その等高目線という関係が実現できている間柄の中にあって、存在が許される感情は「尊敬」の念ではないかと思います。非常に私としてはおこがましい話をしますが、茂木さんとお話をさせていただく機会があったとする時、仮に等高目線であったとしても、私の中には様々な理由で「尊敬する相手」としての態度を取ろうという感情が生まれると思います。これは一見「不等高」のように見えるかもしれませんが、お互いに一人の人間として真摯に対話が出来ている時には、等高目線として捉えても良いのではないかと思うのです。
なんとも表現しにくい事なのですが、いわゆる制度的な面でいつも「平等を公平を」と叫ぶようなものとは違うように思います。どんな相手であろうと一人の人間として対話する、という精神の芯のようなものがお互いに存在する状態が「等高目線」としても良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。
ここの所、正直な話、昔からの友人の発言にどうしても「気になって」しまう相手がいます。自分の事を遠まわしに揶揄しているのではないか?と疑念が沸いてしまうのです。1ヶ月ほどは、見ないようにしようとか、小手先の対策をしていたのですが、何かが違うなと思いなおし、自分から対話をしにいくよう改めて行動を変えてみました。すると単なる勘違いだったり、揶揄ではないが意図していた事などが解って更に深い話ができたりという状態が生まれました。
「嫌いな人」という議論とは少しズレがあるかもしれませんが、これに対する一つの答えは「自分から行動を起こす」という一点があると思います。職場に居る「話しかけづらい人」「何かすれば攻撃してくる人」というのは、どうしても関わりたくなくなってしまうものです。そこにどういうアプローチを仕掛けていけるか。という毎日の挑戦を実際に行えるかどうかは、とても大きな課題になります。しかし、必ずそれらは乗り越えられるものだと私は思います。結果として、思いも寄らぬ事にはなるかもしれませんが、ただ放置し続けるよりは、いつも何かその関係性を変えていこうと動ける側の方が、最終的に「一歩前」に行けるのかなと思う訳です。
私は、名もない田舎のハングリー坊主だけれども、私の発言に対しては、相手からの反発を招くことがよくあります。私は、小さい時は、人前で自分の意見を言えない、いわゆる内弁慶と呼ばれるタイプの人間だったのですが、それが嫌で、自分の気持ちを、正直に、他人を気にせずに発言できることを目指していろんなことに挑戦してきました。そして、今、私が自分の意見を正直に言えるようになったのは、青年海外協力隊を経験したことが転機になったように思います。一方、私は父に、どちらかというと理屈優先に躾られましたから、自分なりに、理屈にあった意見を、できるかぎり理由を述べて主張するように心がけています。そして、相手が、私の意見に納得するか、理由を付けて反論してくる時は、そのまま話が弾んで良いのですが、問題は、始めから、理由なく私自身に反発してくる場合です。この場合の相手は、ほぼ例外なく上から目線の相手です。そして、その人間の私に対する感想は、「ワシ(ワタシ)の言うことを聞かない」「すぐに、言い返す」というもので、話の内容には、ほとんど無関心という場合が多いようです。つまり、上から目線の人間というのは、「自分の立場を認めろ」という心情がいつでも心の中を支配しているように見えます。こちらとしては、相手の立場はどうでもよく、話の内容が是か非かということが重要なので、そういう具合に対処すると、相手は、私の存在が許せないらしく、折につけ、嫌がらせをしてくるようになります。この、上から目線の人間に対しては、ほとんど出来上がってしまった性格だと思うので、その態度を改めてもらうのは極めて難しく、対処の方法としては、なるべく関わらないか、あまりにしつこい場合には、「機転を利かせて、恨まれない程度に相手の面目を無くしてしまう」という方法くらいしかなさそうです。橋下大阪市長は、時々、上から目線の雑誌記者や評論家に対して、熱くなって議論されていますが、やらなければ貶められるし、だからといって、議論に勝っても、同情を集める訳でもない。日本の文化の中では、上から目線対策というものは、民主主義の成熟の為には、まだまだ研究しなければならない問題が、多々あると思います。思うに、この上から目線は、どうやら、学歴や、地位など、根拠の乏しい優越感から来ているようで、自己愛性人格障害の傾向が、多かれ少なかれあるように思えます。勿論、自己中心と強く関連しています。
優越感は、他人との関わりに於いて、何の実りももたらさないと思いますが、適度な劣等感は、人に追いつきたいという学習意欲を高めることがあります。しかしながら、私は、ここに、優越感も、劣等感も感じない目線というものを考えてみました。目線の高さを同じにするという意味で「等高目線」と名付けました。この等高目線は、年齢、性、地位や民族にかかわらず、自由自在です。
世界中の誰とでも同じ目の高さで、話が出来ると考えてみてください。当然話し言葉は、英語の友達言葉です。この等高目線が任意の二人の間で成立すると、心と心が繋がり、それを通して、お互いの思いやりや友情が自由に行き来することによって、人間関係にいろんな変化が生じます。まず、誰とでも友達になれる。恋人や夫婦は、相思相愛になる。国会は和やかな話し合いの場となり、国連は各国の友好を深める社交場となる。ついでに、鳥や獣や魚とも友達になって、みんなベジタリアンになる。夢のような話ですが、これが、お釈迦様の考えられた極楽浄土の姿だと思いませんか?
この世に極楽浄土を実現することは、もしかして、無理かもしれませんが、ある二人の間で、等高目線を成立させることは、必ずしも不可能ではないようにも思えます。そんな目で、今の人間関係を眺めてみると、不等高目線関係でいっぱいです。親子関係、男女関係、仕事関係、生徒と先生、坊さんの序列、その他、日本には、儒教によってもたらされた上下関係が山ほどあります。明治維新の富国強兵策でもたらされた、外国人に対する偏見もまだまだ、強く残っています。もしかしたら、今の、沖縄の米軍基地問題も、日本とアメリカの問題ではなくて、沖縄と本土の問題として捉えた方が解りやすいのかもしれません。日本人は、敗戦によって、進駐軍からタナボタ式の民主主義をもらってしまったが為に、それまでに作り上げてきた偏見の類いをそのまま温存することになってしまいました。グローバルな視点から見ると、女性や、子供の権利に対する人々の意識が、国際水準にはとても達していないという指摘は、制度や法律をいくら整備してみても、偏見に固まった意識はびくともしないということを物語っているのではないでしょうか。このことが、実は、英語の問題と共に国際化が進まない大きな原因になっているのだと思います。
そんな中で、今回、週刊朝日の「ハシシタ」ルーツ記事問題が起きています。私は、そんな記事は読みたくないし、正確な情報をつかんでいない立場でいうのは、説得力ないかもしれませんが、敢えていわせてもらえば、日本の部落差別問題は人々の意識の中では、威勢の良いかけ声にも関わらず、一歩も前進していないということです。役所でも、会社でも、地域でも、かけ声を強くすればする程、表面だけ取り繕って、問題は、水面下へどんどんと降りていってしまったということでしょう。イジメの問題や、自殺者が長年三万人を超える問題、少子高齢化の問題等、多くの社会問題で、政府が対策を講じれば講じる程、表面上は改善しても、状況はますます悪くなるという現象は、国民と政府の関係に、とても大きな乗り越えなければ成らない問題が存在する、ということを思わざるを得ません。言葉をかえて言うと、今の日本では、民主主義は、表面上の手続きであり、実質的には、全く機能していないということだと思います。
実は、この状況を打ち破る為に、橋下大阪市長は立ち上がられたと思うのですが、私個人としては、個々の意見の違いはあれ、方向としては、全く間違っていないと思います。それで、今回の、週刊朝日の問題ですが、これは、日本に頑固に横たわる偏見を一挙に洗い流す好機到来と考えても良いのではないでしょうか。アメリカでは、先に、黒人に対する偏見を乗り越えて、オバマ大統領が実現しました。私は、今回の大統領選挙でも彼が再選されることを心から願っている者の一人ですが、日本の部落問題などは、アメリカの黒人差別の問題に比べれば、比較にならない程乗り越えやすい問題だし、この際、同時に、外国人に対する、沖縄に対する、男女、子供に対する偏見の類いを一挙に乗り越えるエネルギーを発揮していただきたいと期待しています。
ただ、確かに大人の意識を変えるということは至難の業だということは想像できます。その為のアイデアは茂木さん達、知恵者にアドバイスをもらって、目標を定めて突っ走っていただきたいと思います。骨は拾う・・・じゃなくて、お子さん達の為に、決して命だけは落とさないでください。そんな時は代わりに私の命を上げてもいいです・・・と、言いたいのはやまやまですが、私の方は、大人の意識を変えるのは、とても大変だろうから、子供達に「等高目線」を持ってもらう活動をしていこうと思っています。
お互い頑張りましょう・・・僕の方が、楽しくて、ずっと楽だけど・・・
優越感は、他人との関わりに於いて、何の実りももたらさないと思いますが、適度な劣等感は、人に追いつきたいという学習意欲を高めることがあります。しかしながら、私は、ここに、優越感も、劣等感も感じない目線というものを考えてみました。目線の高さを同じにするという意味で「等高目線」と名付けました。この等高目線は、年齢、性、地位や民族にかかわらず、自由自在です。
世界中の誰とでも同じ目の高さで、話が出来ると考えてみてください。当然話し言葉は、英語の友達言葉です。この等高目線が任意の二人の間で成立すると、心と心が繋がり、それを通して、お互いの思いやりや友情が自由に行き来することによって、人間関係にいろんな変化が生じます。まず、誰とでも友達になれる。恋人や夫婦は、相思相愛になる。国会は和やかな話し合いの場となり、国連は各国の友好を深める社交場となる。ついでに、鳥や獣や魚とも友達になって、みんなベジタリアンになる。夢のような話ですが、これが、お釈迦様の考えられた極楽浄土の姿だと思いませんか?
この世に極楽浄土を実現することは、もしかして、無理かもしれませんが、ある二人の間で、等高目線を成立させることは、必ずしも不可能ではないようにも思えます。そんな目で、今の人間関係を眺めてみると、不等高目線関係でいっぱいです。親子関係、男女関係、仕事関係、生徒と先生、坊さんの序列、その他、日本には、儒教によってもたらされた上下関係が山ほどあります。明治維新の富国強兵策でもたらされた、外国人に対する偏見もまだまだ、強く残っています。もしかしたら、今の、沖縄の米軍基地問題も、日本とアメリカの問題ではなくて、沖縄と本土の問題として捉えた方が解りやすいのかもしれません。日本人は、敗戦によって、進駐軍からタナボタ式の民主主義をもらってしまったが為に、それまでに作り上げてきた偏見の類いをそのまま温存することになってしまいました。グローバルな視点から見ると、女性や、子供の権利に対する人々の意識が、国際水準にはとても達していないという指摘は、制度や法律をいくら整備してみても、偏見に固まった意識はびくともしないということを物語っているのではないでしょうか。このことが、実は、英語の問題と共に国際化が進まない大きな原因になっているのだと思います。
そんな中で、今回、週刊朝日の「ハシシタ」ルーツ記事問題が起きています。私は、そんな記事は読みたくないし、正確な情報をつかんでいない立場でいうのは、説得力ないかもしれませんが、敢えていわせてもらえば、日本の部落差別問題は人々の意識の中では、威勢の良いかけ声にも関わらず、一歩も前進していないということです。役所でも、会社でも、地域でも、かけ声を強くすればする程、表面だけ取り繕って、問題は、水面下へどんどんと降りていってしまったということでしょう。イジメの問題や、自殺者が長年三万人を超える問題、少子高齢化の問題等、多くの社会問題で、政府が対策を講じれば講じる程、表面上は改善しても、状況はますます悪くなるという現象は、国民と政府の関係に、とても大きな乗り越えなければ成らない問題が存在する、ということを思わざるを得ません。言葉をかえて言うと、今の日本では、民主主義は、表面上の手続きであり、実質的には、全く機能していないということだと思います。
実は、この状況を打ち破る為に、橋下大阪市長は立ち上がられたと思うのですが、私個人としては、個々の意見の違いはあれ、方向としては、全く間違っていないと思います。それで、今回の、週刊朝日の問題ですが、これは、日本に頑固に横たわる偏見を一挙に洗い流す好機到来と考えても良いのではないでしょうか。アメリカでは、先に、黒人に対する偏見を乗り越えて、オバマ大統領が実現しました。私は、今回の大統領選挙でも彼が再選されることを心から願っている者の一人ですが、日本の部落問題などは、アメリカの黒人差別の問題に比べれば、比較にならない程乗り越えやすい問題だし、この際、同時に、外国人に対する、沖縄に対する、男女、子供に対する偏見の類いを一挙に乗り越えるエネルギーを発揮していただきたいと期待しています。
ただ、確かに大人の意識を変えるということは至難の業だということは想像できます。その為のアイデアは茂木さん達、知恵者にアドバイスをもらって、目標を定めて突っ走っていただきたいと思います。骨は拾う・・・じゃなくて、お子さん達の為に、決して命だけは落とさないでください。そんな時は代わりに私の命を上げてもいいです・・・と、言いたいのはやまやまですが、私の方は、大人の意識を変えるのは、とても大変だろうから、子供達に「等高目線」を持ってもらう活動をしていこうと思っています。
お互い頑張りましょう・・・僕の方が、楽しくて、ずっと楽だけど・・・
狭い視野の中で考えこんで、なかなかテーマを深められないことを反省しつつ、国と国などのことまでは想像できないけれど、嫌いだけれど気になって仕方がないという人について、前回投稿以降実感したこと、想像したことを書いてみます。
自分の子どもが本当に幼かった頃、初めての反抗的な(と私に感じられた)態度に接して、思いがけず激しい怒りを感じ、怒りを感じながらとてもうろたえたことがあります。それ以来、その体験を何度も振り返っては、あれはなんだったんだろう、と考えてきました。そして、今回、chigusaotsukiさんの、
人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離と親密さが、保たれた状態
を読んで、幼い子供との分離ができていなかった、あまりにも近い存在だったのかな?と思いました。
親子関係は特別ではあるかと思いますが、同じように、気になる人は、分離と親密さのバランスがとりにくい人であるのかもしれません。
嫌いなのに、気になる人は、どこかに自分を引き付ける近しさ、他人ながら、どこかに自分ととても似ているところがあると感じられる反面、近いはずなのに、なぜかとても違う部分を持っている、自分にないものを持っている、と感じられる人であるように思います。近いものを持っているのに嫌いなのは、その近いはずの部分を、自分では意識していなかったり、わかっているけれど認めたくない部分なのかもしれません。そのため、その人と関わることで、自分が変わらされることを無意識に感じ取っているのかもしれません。人の心の中には、いつも変わりたいという思いと、変わりたくないという思いがあるように思います。そのせめぎ合いが、自分では変えられない部分を変えるかもしれないと思える人に対して、複雑な思いとして、嫌いだけれど気になる、あるいは攻撃として、表現されるのかもしれない、と思いました。そういう意味では、攻撃という形は、深い部分でかかわりたいという気持ちの、表れかもしれない、と思いました。
前回の投稿の「有名人に対して、自分のイメージを持って、憂さを晴らしている」、という部分は、乱暴で、短絡的だったと思いますので、撤回します。今回のものも含め、これまでの私の投稿で、不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、心からお詫びいたします。<(_ _)>
今回は、現実に会って話すのではない、投稿という場でいろいろなことを想像しながら表現すること、言葉を選ぶことの難しさ、負の感情を語ることの難しさを心から痛感しました。
自分の子どもが本当に幼かった頃、初めての反抗的な(と私に感じられた)態度に接して、思いがけず激しい怒りを感じ、怒りを感じながらとてもうろたえたことがあります。それ以来、その体験を何度も振り返っては、あれはなんだったんだろう、と考えてきました。そして、今回、chigusaotsukiさんの、
人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離と親密さが、保たれた状態
を読んで、幼い子供との分離ができていなかった、あまりにも近い存在だったのかな?と思いました。
親子関係は特別ではあるかと思いますが、同じように、気になる人は、分離と親密さのバランスがとりにくい人であるのかもしれません。
嫌いなのに、気になる人は、どこかに自分を引き付ける近しさ、他人ながら、どこかに自分ととても似ているところがあると感じられる反面、近いはずなのに、なぜかとても違う部分を持っている、自分にないものを持っている、と感じられる人であるように思います。近いものを持っているのに嫌いなのは、その近いはずの部分を、自分では意識していなかったり、わかっているけれど認めたくない部分なのかもしれません。そのため、その人と関わることで、自分が変わらされることを無意識に感じ取っているのかもしれません。人の心の中には、いつも変わりたいという思いと、変わりたくないという思いがあるように思います。そのせめぎ合いが、自分では変えられない部分を変えるかもしれないと思える人に対して、複雑な思いとして、嫌いだけれど気になる、あるいは攻撃として、表現されるのかもしれない、と思いました。そういう意味では、攻撃という形は、深い部分でかかわりたいという気持ちの、表れかもしれない、と思いました。
前回の投稿の「有名人に対して、自分のイメージを持って、憂さを晴らしている」、という部分は、乱暴で、短絡的だったと思いますので、撤回します。今回のものも含め、これまでの私の投稿で、不快な思いをされた方がいらっしゃいましたら、心からお詫びいたします。<(_ _)>
今回は、現実に会って話すのではない、投稿という場でいろいろなことを想像しながら表現すること、言葉を選ぶことの難しさ、負の感情を語ることの難しさを心から痛感しました。
私には、嫌いだけれど気になってしょうがない人も、執拗に攻撃された体験もないです。
茂木さんが
「僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。」
「嫌いなのに、どうしても気になってしまう人がいる。そういう状態を、英語では、Love to hateと言いますね。」
と書かれて、ブッシュ元大統領を例に上げている文章を眺めていて、ひょっとして、こういう現象は、ある程度知名度の高い人に起こるのかな?と思いました。
以前、茂木さんからダンバー数の話を伺った時、どうやって調べたんだろう?実際に会う人と、ネット上のつながりとではまた違うだろうか?内向的な国と外向的な国とでは違うだろうか?(例えば、1000人にパーティーの招待状を送ると、友達を連れてきて、2000人来るのが普通の外向的なフィリピンと、800人くらいしか来ない内向的な日本とではちがう?)などと、いろいろ気になっていたところで、こんなサイトをみつけました。
http://jp.msn.com/?ocid=hmlogout
携帯、facebook,twitterなどがある今、人と人とのつながりが飛躍的に広がったように見えるけれど、一般的な人の場合、親密な関係があるのは4~6人、という情報は、私が周囲を見て感じることとも、一致してるかな、と思います。
一方で、見知らない人と直接簡単につながれるようになった今、有名人や、社会に大きな影響力を持つ人は、一般の人とは全く違う環境に置かれているように思います。茂木さんを執拗に攻撃する人は、茂木さん個人ではなく、茂木さんによって象徴されている(とその人が感じている)ものに対して攻撃しているように思います。今までは、一人でぶつぶつ言っていたことを、今は匿名性を保ったままで伝えられるようになった。現実に生身の人間として出会ったらできないことを、憂さ晴らしのようにしているのかな、と感じます。
今回、好きと嫌いの微妙な関係について、というテーマですが、内向的な日本人だからか(?)感情を客観的に語るのは難しいな、と感じます。どのような切り口で語ったらいいかわからないのは私だけでしょうか?
例えばこういう感じでもいいんだけれど、というような補足を付け加えていただけたらなぁ、と思います。
茂木さんが
「僕自身の若い頃のことを振り返っても、突っかかっていく相手というのは、気になる存在だった気がします。」
「嫌いなのに、どうしても気になってしまう人がいる。そういう状態を、英語では、Love to hateと言いますね。」
と書かれて、ブッシュ元大統領を例に上げている文章を眺めていて、ひょっとして、こういう現象は、ある程度知名度の高い人に起こるのかな?と思いました。
以前、茂木さんからダンバー数の話を伺った時、どうやって調べたんだろう?実際に会う人と、ネット上のつながりとではまた違うだろうか?内向的な国と外向的な国とでは違うだろうか?(例えば、1000人にパーティーの招待状を送ると、友達を連れてきて、2000人来るのが普通の外向的なフィリピンと、800人くらいしか来ない内向的な日本とではちがう?)などと、いろいろ気になっていたところで、こんなサイトをみつけました。
http://jp.msn.com/?ocid=hmlogout
携帯、facebook,twitterなどがある今、人と人とのつながりが飛躍的に広がったように見えるけれど、一般的な人の場合、親密な関係があるのは4~6人、という情報は、私が周囲を見て感じることとも、一致してるかな、と思います。
一方で、見知らない人と直接簡単につながれるようになった今、有名人や、社会に大きな影響力を持つ人は、一般の人とは全く違う環境に置かれているように思います。茂木さんを執拗に攻撃する人は、茂木さん個人ではなく、茂木さんによって象徴されている(とその人が感じている)ものに対して攻撃しているように思います。今までは、一人でぶつぶつ言っていたことを、今は匿名性を保ったままで伝えられるようになった。現実に生身の人間として出会ったらできないことを、憂さ晴らしのようにしているのかな、と感じます。
今回、好きと嫌いの微妙な関係について、というテーマですが、内向的な日本人だからか(?)感情を客観的に語るのは難しいな、と感じます。どのような切り口で語ったらいいかわからないのは私だけでしょうか?
例えばこういう感じでもいいんだけれど、というような補足を付け加えていただけたらなぁ、と思います。
嫌いなのに、どうしても気になってしまう人がいる。そういう状態を、英語では、Love to hateと言いますね。大統領選挙などでも、love to hateになると、案外当選するようです。George Bush(子ども)のように。Love to hateは、一種の存在感なのでしょう。
ツイッターでの、発言で、好きか、嫌いかという、感情世界の中に置かれるのは、避けられないことです。ここには、ボウエンが、決定的に重要とみなすものがあります。
つまり、ツイッターは、最初に、読まれる存在なのです。
ツイッターをあけて、みんなのツイートが出てきたら、まずは、アイコンを見て、名前を見て、読みますよね?
これが、ボウエンのいう、反応です。
つまり、ツイッターに書いてあるものを、読むことは、自分が言いたいことかどうか、(自分が言いたいことならば、好き。) または、他人が言いたいことで、とりあえず、読むしかない、そして読みながら、反応する (化学反応する) しかないか、(他者に制御されている状態。) なんです。
そして、ツイートを、読み終わった時に、つまり、ボウエンのいう、応答によって、ただ、ツイートに反応するだけではなく、他人の立場が考慮されつつ、自分の言いたいことを伝えることが、応答することが、大事なんですね。
1958 年に 導入された、ウィンの、pseudomutuality (シュードミューチュアリティー) についての考察ですが、人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離というのは、自分という感覚を発展させたいと願うことで、親密さというのは、他者と関係を持ってゆきたいと願うことです。
分離と親密さが、保たれた状態というのは、いわば、健康な生活の中で、他者と親密になりながら、しかも自分というものを失ったり人に呑み込まれたりしないで、自己についての感じ方を養い、しかも、自分にとって意味のある他者へと自分を関係づけていきたいという親密さによって、表わされます。
私が、学生時代に、よくやっていたのは、精神分析から、家族療法への訣別でした。精神分析の投影を受ける人物としての受身の立場から、能動的な、いわば家族療法の教師としての治療者の立場を目指すのです。また、ボウエンの自己の分化の尺度を用いて、人々との未分化や融合、集中的癒着の状態から、人々を互いに引き離しておく失われた境界を、取り戻すことを、練習していました。
ツイートの吸引力に捉われて反応するだけで、終わらずに、しかるべき応答を返す力を身につけるのも大事だけれど、自分の感じ方を、自分の感じ方の変化を通して、あらゆるものを見つけるのも大事なので、茂木さんのツイートには、どうか、茂木さんとみなさんの成長を促すツイートを、よろしくお願いします。m(_ _)m
つまり、ツイッターは、最初に、読まれる存在なのです。
ツイッターをあけて、みんなのツイートが出てきたら、まずは、アイコンを見て、名前を見て、読みますよね?
これが、ボウエンのいう、反応です。
つまり、ツイッターに書いてあるものを、読むことは、自分が言いたいことかどうか、(自分が言いたいことならば、好き。) または、他人が言いたいことで、とりあえず、読むしかない、そして読みながら、反応する (化学反応する) しかないか、(他者に制御されている状態。) なんです。
そして、ツイートを、読み終わった時に、つまり、ボウエンのいう、応答によって、ただ、ツイートに反応するだけではなく、他人の立場が考慮されつつ、自分の言いたいことを伝えることが、応答することが、大事なんですね。
1958 年に 導入された、ウィンの、pseudomutuality (シュードミューチュアリティー) についての考察ですが、人間には、分離と、親密さという、2 つの欲求があります。
分離というのは、自分という感覚を発展させたいと願うことで、親密さというのは、他者と関係を持ってゆきたいと願うことです。
分離と親密さが、保たれた状態というのは、いわば、健康な生活の中で、他者と親密になりながら、しかも自分というものを失ったり人に呑み込まれたりしないで、自己についての感じ方を養い、しかも、自分にとって意味のある他者へと自分を関係づけていきたいという親密さによって、表わされます。
私が、学生時代に、よくやっていたのは、精神分析から、家族療法への訣別でした。精神分析の投影を受ける人物としての受身の立場から、能動的な、いわば家族療法の教師としての治療者の立場を目指すのです。また、ボウエンの自己の分化の尺度を用いて、人々との未分化や融合、集中的癒着の状態から、人々を互いに引き離しておく失われた境界を、取り戻すことを、練習していました。
ツイートの吸引力に捉われて反応するだけで、終わらずに、しかるべき応答を返す力を身につけるのも大事だけれど、自分の感じ方を、自分の感じ方の変化を通して、あらゆるものを見つけるのも大事なので、茂木さんのツイートには、どうか、茂木さんとみなさんの成長を促すツイートを、よろしくお願いします。m(_ _)m