原発は是か非か
3月の大震災をきっかけとした原発事故以来、今後の原発政策について国論は二分しています。活発な議論が起こるのは良いことですが、よく内容を見てみると、「誰誰は東京電力から金を貰っているからあんなことを言っているんだ」とか「政府や東京電力からの情報はまったく信用できない」といった陰謀史観のようなものも出てきている。また一方では「放射能の被害について合理的な判断ができずに、ただ怖がったり、反原発を唱えている奴はバカだ」といった相手を見下した言説も数多く見受けられます。なんだか国全体が「不信感」に覆われているような状態で、まともな議論ができているようには思えません。
もちろん「原発は絶対安全だ」と言い続けた国や東京電力の問題は大きいと思います。ただ今回の事故に関して批判的な主張をしている側にも、その議論の仕方においては大いに反省点があるように感じるのです。
このように一見議論が盛り上がっているようで、本当に考えるべき大事なことが見過ごされていっているという状況は、津波の被害や放射能の被害とはまた違った方面から、日本という国の将来を危うくしていると思います。こうした状態があまり長い間続くと、議論の上ではなくて、気持ちの上で国民が分裂をしてしまいます。
僕としては何とかこの状況を打破したい。そこで、あえてみなさんにお聞きしたいのです。あなたは日本の原子力発電はどのようにすべきだとお考えですか。
原発は即時全廃させるべきなのか。それとも代替エネルギーとして自然エネルギーの開発を進めながら順次縮小させていくべきなのか。あるいは、より安全でより安価な原子力発を実現させることを目指して、積極的に原子力発電を発展させていくべきなのか。それともまったく別の選択肢があるのか。
真摯な議論をしたいと思います。あなたの考えをぜひお聞かせください。
わたしも比較した方が違いがあきらかになるかなと思って書き始めていました。
わたしも原子力に関しては素人で 専門的知識に関してはあっているのだろうかと
可能な限り調べました。
資料の多くがどうしても脱原発はのサイトのものになってしまうのですが
正当であるかどうか可能な限り電力会社や政府のデータを探して検証しています。
かなり大ザッバですが(^^;
そして色々調べた資料を読んでくれる人に
上手く私の考えを伝えられたであろうかと思うとはなはだ心もとないのでした。
No7で原発のコストに関して触れましたが
放射能性廃棄物の処理費用がコストとして計上されていないことの他に
財政支出も原子力は優遇されていますがコストに計上されておりません。
NO.12 masamiさんの<子どもを育てるなかで教えてもらって、私が一番助かった教えは、「生き死に以外のことで、ごちゃごちゃ言わない」でした。>にとても共感します。私は自分の子どもやその又子どもが原発で仕事をして欲しくないなと漠然とですがどうしても思ってしまうのです。しかし原発を動かすにしろ、止めるにしろできてしまった放射能性廃棄物を人間に害を及ぼさないように研究は引き続きやって行かなければいけない。
私が一番原発を止めたいという理由は 現在福島原発で命を掛けて作業されている方やその家族の方、又避難区域でありながら放射能汚染区で生活している方を思うと 原発の電気を使うということは吸血鬼になることのように思えるのです。そして私は吸血鬼になってまで電気を使いたくないと思うのです。
(できれば、できるだけ早く廃止を)
先日、八ヶ岳のオーレン小屋に宿泊しました。
オーレン小屋は250名収容できる山小屋です。
6年前に、水力による自家発電を始めたそうです。
硫黄岳・天狗岳から流れ出る川の恵みを受けて
小屋で必要な電気を賄っていました。
山頂の根石岳山荘は太陽光パネル。
ダムは自然破壊の元凶だと言われますが
放射能と比較すると
生命への恐怖は比較にならないと思います。
ソーラー発電は家庭でもできそうです。
国民みんなで不便を分け合って
安全な発電を選択したいです。
ないと思います。
皆様方の、理性的な判断に少し心が落ち着く気分です。
皆様方もおっしゃるとおり、最終的には
原子力発電所から出た高レベル放射性廃棄物は
日本の地下300メートルのところに封じ込められます。
その工事には100年がかかります。
これは、2007年10月に東北大学で開かれたオープンフォーラムで
京都大学の小出裕章教授と東北大学の栃山修教授が語られたものです。
賛成・反対の枠を超えて、
現実問題として最終処分には100年がかかり、
その最終処分場は未だ決まっておらず、
工事に着工するのも2030年と言われてますから、
完成するのは2130年以降。
今、生きている人たちはおそらく、
誰もこの最終処分場ができあがるのを見届けられないわけです。
遠い未来にあたる2130年に向けて、
2011年に起きたことを伝承していく重要性も感じます。
のんきに考えれば、
今から50年後か60年後には
すべての原子力発電所は原子炉の老朽化を迎え、
日本から原子力発電所はなくなると思います。
3・11以降に、新たに原子力発電所を
建てる自治体は現れないと思うからです。
ですが、今ある原子力発電所の炉を廃炉にするにも
50年から60年の年月がかかると聞きます。
もっと良い廃炉の方法はないものでしょうか。
廃炉の技術は今、原発を保有している
世界中の国々で必要とされていくでしょうから、
日本が進んでこの技術に取り組んでいくべきだと思います。
原子力の技術者・研究者の育成は急務だと感じます。
卑近な例で失礼を致しますが、
原子力発電は「できちゃった結婚」に似ていると思います。
事故があれば放射性物質を垂れ流す相手でも
できちゃったんだからしょうがないと腹をくくって、
周りで賛成だ反対だと騒がずに、
すでに生まれてしまった赤ちゃん(原発)と
自分の子供(日本政府)の先行きを考えて、
老後というか、
廃炉のことまで考えてあげなきゃいけないと思うのです。
結局、お金を出すのは親(国民)なのですが。
親の育て方というか、選択が悪かったとあきらめるよりほかがないと思うのです。
話変わって。
日本のエネルギー供給率は、
火力が6割、原子力が3割、自然エネルギーが残りの1割に
満たない程度ですが。
自然エネルギーにはもう少しがんばってもらって、
3割の原子力を今すぐにではなく段階的に減らし、
(今すぐだと絶対に混乱が生じるので)
節電によってカバーできないかと考えています。
主婦的な目線で考えると、
従来の40ワット球と同じ明るさのLED電球は、
消費電力の面ではたったの5・6ワットと低く、
電球1個につき70%近く節電できることになります。
3・11以降、需要が増えたLED電球は、とても安くなりました。
需要が増えると生産量が増して、値段が安くなる。
エネルギー問題については、「私たちの需要、何を求めて生きるか」を
問われているように感じます。
自然エネルギーへの転換を具体的に模索していくこと
で脱原発を実現できると考えます。
データの必要性は客観性を確保するために必要なの
ですが、原発擁護と原発批判の引用されるデータが
あまりに乖離していると感じています。
信じられるものがない状態だと思っていまして、
いろんな思惑も絡んで話がややこしくなっているように
感じています。
今回の掲示板の議論は感情的なものが少なく、とても
勉強になるものが多いと感じました。
ツイッターなどでも情報を収集しますが、極端すぎる
意見は参考にならない場合が多いと感じるからです。
何名かの方のご意見と同じだと考えています。
僕は脱原発を支持しているのですが、日本はフクシマ
の経験を経て、一時的に産業の空洞化に苦しむとして
も、自然エネルギーあるいは先進的ながん治療などで
世界トップレベルの技術を育成していくべきだと考え
ています。
大局的に考えれば、産業の空洞化は現状維持をしていけ
ば避けられません。
仮に空洞化しないとしても少子高齢化で移民を受け入れ
るなどの選択に迫られると考えています。
いずれにしても、単純労働をする仕事はコンピューター
あるいは賃金の安い労働者に勝つことが難しくなる
だろうと予想されます。
これは電力供給が安定していても結論が変わらない
問題であると思います。
もちろん、移行期間をどうするかを軽視していいこと
にはならないのですが、思い切った決断を政治がする
ことは考えにくいのですが、自然エネルギーなどの
新技術は政府が育成していく方向でないとモノになら
ないと考えています。
脱原発に大きく舵をきることで新たな技術革新の
チャンスを見出すことを期待しています。
イノベーションのジレンマではないですが、
原発のイノベーションで改良・改善を繰り返しても
未来はないと考えます。
新技術を政府の買取で育成していく。
これは大きなコストになりますが、投資と考えれば
いいのではないかと思います。
ジリ貧になるまえに大きな舵を切る場面にきている
と思っています。
文章抜けていましたので、訂正します。
※原発事故というのは明快ではない言葉なので、以下では「原発事故」を、放射能の外部漏えいを伴う事故と定義したいと思います。
■事故後の対処方法、影響のおよぶ範囲が「わからない」
交通事故と原発事故の最も大きな違いの一つは、事故後の対処法が確立されているかどうか、という点にあると思います。
交通事故に関しては、事故処理のために必要な緊急車両や病院などのインフラも整備されていて、事故後の対応システムが確立されています。したがって、事故が時間経過とともにどんどん収集がつかなくなるという事態は回避できる状態にあります。この意味で、交通事故は「対処が可能」な事故です。
これに対し、原発事故では、今回の例を見てもわかるように、一度事故が起きたらどう対処していいかわからない、という側面がります。
福島原発事故の事後対応が、かなり混乱したものであったことは記憶に新しいと思います。事前に確立されていた技術である「SPEEDI」さえ、事故後どう活用するのか、コンセンサスが得られていませんでした。現地では、今も必死に、試行錯誤の作業に取り組む人たちがいるわけです。それでも、未だに今後の見通しが立つ段階にさえ至っていません。
もう1つの大きな違いは、事故の及ぶ影響の範囲だと思います。交通事故の場合は、外傷に限定して言えば、影響は事故の当事者で完結します。しかし、原発事故の影響はその及ぶ範囲が伺いしれません。
例えば、環境的な面で言えば、放射能が外部に漏れたときにどういう影響がでるのか、現在蓄積されている知見では予測が難しいようです。つい最近になって「放射線生態学」という学問分野があることを知ったのですが、野外に出た放射能がどういう経路で循環するのか、そういったメカニズム的なことを含めて、まだまだ未解明の問題が山積しています。
さらに言うと、より深刻かつ緊急な問題である内部被ばくに関しても、これから人体で何が起きるかは、十分な知見が得られていないようです。先日、内部被ばくを特集した番組では、内部被ばくの症状として因果関係が解明されているのは、甲状腺がんのみであると言っていました。現地では心疾患をおこした患者が増えているのですが、心疾患との因果関係は、まだ解明されていないとのこと。実際に因果関係がある場合でも、それを科学的に証明することは困難だし、膨大な費用と時間を必要とします。原発事故は、人体にどのような影響を与えるのか、という部分に関してもよく「わかっていない」と言えるでしょう。
原発事故は、対処方法が確立されておらず、また、事故後の影響さえよくわかってはいません。不明な部分があまりにも多く、その点で、交通事故などとは一線を画していると考えています。
■100%安全だと仮定してきたからこそ、事故の対処法が確立されていなくても運営できた
先に指摘した通り、今回の福島事故では、事故後どう対応すればいいのかというところで、混乱がありました。その最も大きな原因の一つは、あるレベル以上の事故に関しては「起こらない」という前提を設け、事故に対する周到な準備を怠ってきたところにあると思います。原発に関して、僕が問題と考えていることは、事前に様々な可能性を考え、シナリオ書きをきちんと行い、そのそれぞれに対してしらみつぶしに対応策を考えておくということをしない点です。
文頭で「100%事故が起こらないといえるか」という指摘が、本質をついているのではないかと主張しました。
その理由は、これまでの原発の運営では、放射能漏えいが「100%起こらない」と仮定することで、漏えい事故に対する万全の準備を回避してきた面があるからです。なぜなら、一度「100%事故が起こらないとは言えない」と認めたならば、「漏えい事故が起きた時どうするのか」という部分をしっかり考え、納得できる説明をする責任が生じるからです。
しかし、漏えい事故に対し、いったいどう対策を講じるのかと考え出すと、解決不可能といってもいいほど困難な問題だと思います。その理由は、先にも述べた通り、放射能の漏えいがどういった影響をもたらすか、不明な点が多いからです。
何が起きるかさえよくかわからないものに対して、どう対策を取るのか。この問題があまりにも困難だから、「放射能の漏えい」という問題には、そもそも予防的な措置しかとれないのです。だからこそ、これまで100%安全(漏れない)と宣言せざるを得なかったのだと理解しています。
ですから、「100%漏れない」と言わざるを得ないのは、ある意味原発の宿命であって、その本丸をついたのが「100%事故が起こらないといえるか」という質問なのではないでしょうか。
■原発の存続には「漏れた場合」の対策の確立が必要
「100%漏れない」という神話は、今回崩れ去りました。今後は、事故が起こりにくい原子力発電所にするための改築はもちろん、万が一事故が起こった場合の対策もきちんと示さなければ、原発の存続は難しいと思います。
いずれにせよ、「これこれの補修をすれば、漏れることはありえません」というレベルの説明ではなく、原因(テロ、地震、etc.)はどうあれ、「漏れた場合」を想定した対策を講じることが必要です。原発の存続いかんを判断する最も重要なポイントの一つは、この点に関してどれだけ明快な対策を示せるかという点だと思います。
今後、原発の是か非かを考える際には、事故が起きることをシナリオに含めた議論を行い、最悪のシナリオもしっかり示した上で、影響が及ぶ可能性のある住民がそれぞれ判断をする、というやり方が考えられます。
例えば、SPEEDIなどの拡散予測プログラムから、福島レベルの事故が起きた場合の各地の放射能降下量を期待値で示し、その値をもとに適切に重み付けした持ち点で、影響の及びうるすべての範囲の住民が投票し、原発存続の是非を決めるという方法もあると思います。その際、経済的なデメリットなども公正な立場でまとめて、住民が判断できるように提示すべきなのは当然ですが。
■再生可能エネルギーへのシフトは不可欠
究極的には、今後も人類が存続し続け、エネルギーを消費するというのなら、再生可能エネルギーへの移行は避けて通れない道です。なぜなら、原発は持続可能な発電方法ではないからです。
個人的には、自然エネルギーの有効活用に人類の英知とパワーを全開にして注ぐ方が、最初から持続可能ではない原発の技術を発展させるよりも夢があると思っています(^^;
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以上で、原発に関する僕の意見を書かせて頂きました。僕は原子力発電や、それを取り巻く経済などに関する専門知識は持っていません。それでも、このような重大な問題に対して「しろうと」が考えたことを発信していくというのは、やはり意味のあることだと考えています。
今、あらためてインターネット上の情報を見てみると、情報の質の「玉石混交の度合」がすさまじいことに気付かされます。特に、原発問題に関しては、ryosuke85さん(No.9)が指摘されているように、推進派・反対派ともに、公平な情報発信ができているとは言い難く、お互いに情報の歪曲合戦の様相を呈しています。
以前、茂木さんがツイートされていた「個人のメディアカンパニー」ということを考え、今後は、各自がどれだけ誠意をもった情報ハブとなれるかが重要だと思います。
いかに公正な立場から情報を吟味し、どんなコメントを付けてその情報をアウトプットしていくのか。ロジックとエビデンスに基づいた主張を一貫して行っていくことで、自分のメディアカンパニーの品質保証をすることが、玉石混交の世界で僕らのできることなのかもしれません。
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※ところで、orcmieさんは、非常にたくさんのソースにあたってらっしゃるようでとても感心しました。まだまだ修正したいところはありますが、時間がないので投稿します。疲れた...orz
私も見てみました。東京電力が回答していました。
きちんと調べれば、いろいろなことがわかるのですね。
ただ、原発推進派と、脱原発派のデータは違うことが多いので、その値の半分くらいを目安にするといい、などと言っている人がいました。
いろいろなところで出回っているデータの信頼性がその程度のものなら、ちょっと乱暴かもしれないけれど、細かいデータをいろいろあげて比較することよりも、何を一番大切にするか、というような信条的なもので決めてもいいのかな、と思います。
突然ですが、子どもを育てるなかで教えてもらって、私が一番助かった教えは、「生き死に以外のことで、ごちゃごちゃ言わない」でした。
命にかかわることでなければ、いろいろ考えたり悩んだりしすぎてしまうより、時が解決してくれるのを待つ。
けれども、命にかかわることだと思ったら、とにかく最後まであきらめずに考えに考え、悩みに悩み、必死で子どもを守れるように頑張る、ということです。
原発の問題は、いったん制御できなくなると、今現在の私たちには対処することのできない命に関わる問題になると思います。
その点だけで、経済性や、CO2排出量の優位性などを差し置いても、脱原発を進めていいくらいの理由になる。
随分と乱暴な結論の出し方とは思いますが、私はそう感じます。
私は、代替エネルギーとして自然エネルギーの開発を進めながら順次縮小させていく、にしたいと思います。加えて、蓄電技術の向上や電力供給方法の多様化も大切だと感じます。
この考えを裏付ける、確実なデータは持っていないです。
ただ、特に地震が頻発する日本での原発は、あまりにもリスクが大きすぎるかな、と感じます。
原子力発電政策を推進してきた最も大きな理由は何だったのでしょうか?
その理由が、他のエネルギー政策や、自然エネルギーの開発に変換しても達成可能ならば、そうしてほしいと思います。
自民党の河野太郎氏が、今の原発は60年くらいのうちにすべて老朽化して、廃炉にせざるを得ない。新しい原子炉を作らなければ、そのとき自然に脱原発せざるを得ない、と言っていました。
それは本当でしょうか?
原子炉にも寿命があるのならば、本当のように思えます。
今の私たちの選択肢は、
1.直ちに原発をすべて止める
2.大きな影響を与えないよう節電しつつ、稼働中の原発を順次止めていき、代替エネルギーへと転換していく。
3.新炉を作らず、今の原発が廃炉になるころまでに、新しいエネルギー供給方法を構築する。
4.安全に十分配慮し、原子力発電政策を推進し、新炉を新たに作り続ける。
でしょうか。
他にありますか?
私が選ぶのは、2か3です。あと60年くらいならば、今、政策で後押ししなければ、3は、達成できないでしょうから、政策的には2の場合とほぼ同じ状況かもしれません。
最終的には
新しい原子炉を作るか作らないかの選択となるのでしょうか?
さて、今後、新しい原子炉の建設を受け入れる自治体はあるでしょうか?
新たに、原子力産業に従事したいと願う人がどれだけいるでしょうか?
それはとても難しい、と感じるのは私だけでしょうか?
こんな風に考えると、意外にもう選択肢は残っていないのかな、と思えてきます。
コントロールが可能なのかどうか。が我々の恐怖感を作っているのだろうと思います。
コントロールできないのであれば扱うべきでは無いのかな、とも考えるのですが、
けど、自動車関連事故での死亡者数は、延べ年間1万人を超えています。
これは人間が自動車を完璧にコントロールできているのでしょうか?
根本的に同列で比較できない問題かもしれませんが、同じ枠組みで話す事も出来る話だと思うのです。
というのも、結局、技術も経験知を積み重ねていく事で習熟度を上げていくもので、
いきなり完璧に扱う事など出来ない、という考えのもとでの発言です。
“完全に安全”という言葉を鵜呑みにはできないし、すべきでは無い。
それは人生をある程度生きている人間であれば分かる事では無いですか。
確かに縋りたくなる気持ちも分かりますし、僕だって縋りたくなる事はあります。
けど、それには知識が必要だし、それを基にした判断をしなければなりません。
自動車の運転技術だって、初めから現在のように誰もが運転できるように簡単な乗り物では無かったはずです。
しかし、人類が失敗(事故など)を繰り返す事で得た経験値と知識や技術を少しずつ向上させてきた事から性能が上がり、現在のような状態になっているのでは無いでしょうか。
それではあれば、原発技術にもそれが出来ないと何故言い切れるのでしょうか。
経験したことが無い事は確かに怖いですが、これを踏まえた上でもっと次のステージまで進む事が出来るのでは無いでしょうか。
そして、今後、日本がどちらに舵を取って行ったとしても事故やトラブルは起こるでしょう。このまま運転していくにしろ、すべてを停止しようとしても。
むしろ今までだって何かしらのトラブルが発生しながらも、
修正を加える事で何とか保ってきました。
確かに人体に対する影響を考えるのであれば、
不完全にコントロールする事しか出来ないものは扱うべきでは無いかも知れません。
しかし、何事も諦めてしまえば全てが終わってしまい、
それを成す事は出来なくなります。
そして、僕は正直、肯定も否定もできません。
というのも、今の生活様式を40年前、50年前に戻す事は嫌だからなのですが…。
それはすべき事では無いと感じているのと、
それをするという事は、今までの日本自体が積み上げてきたものを否定する事になります。
勿論、今の日本の全てがいいなんてことは言いませんが、
我々の先輩の日本人達が築き上げて手に入れた“一定の”豊かさを捨てる気にはどうしてもなれません。
今だって(日本の中で)特別に贅沢をしているわけでもありません。
かといって、不自由をしているわけでもありませんが。
どうしても現在の風潮として、原発を完全悪だとでもいうような言い方が大変違和感があり、放射性物質についてのいい加減な情報の流布をしている人もいます。
先日、僕の大好きな選手である松田直樹選手が急性心筋梗塞のために命を落としました。
非常に残念であり、悔しい気持ちもあります。
ここで、松田選手が亡くなったのは放射性物質が影響していると言う方がtwitter上で発言しているのです。
愕然としました。
そんな事を言い出したら、この世の中に散布している放射性物質のことを常に気にしながら、おびえながら生活をしていかなければならなくなります。
大事なのは、各々が確かな知識と判断を出来る能力を身に付けることなのでは無いでしょうか。
次に、放射線を放出しない原発が地球という環境の中で出来るのかという問題である。原発は基本的には金属とコンクリートから構成される。双方とも限界強度を持つ。したがってある力が加われば破壊する。またコンクリートは脆性破壊する。即ち、変形することなく許容限度の力が加われば突然壊れる。これは構造物の下で構造物を支える地盤が、例えば直下地震などで、断層面でずれれば、支えを失い、その失ったところから、破壊が起きる可能性があることを示す。一方金属は塑性変形できるので、ある程度の変形は破壊なく耐えられる。破壊の仕方としては、さらに疲労破壊、腐食破壊がある。原発は燃料を燃やし、水を沸騰させ蒸気を出し、蒸気の力でタービンをまわし発電する。従って、温度を制御することが必要である。このため水の容器である金属は温度の変化が発生する。これにより金属は収縮伸長し、構造体として疲労劣化する。構造体としてという意味は、構造を構成するためには、異種の材料を組み合わせる。すると、それらは同じ温度変化に異なる変形量が発生する。すると異なる材料を結合する部分で力が生じ、亀裂を発生させるのである。なぜ亀裂はできるのか。金属は一見均一な材料に見えるが、実際は結晶の結合体である。そして均一でなく多くの微小な欠陥をもつ。力が加わると欠陥は拡大し亀裂へと成長するのである。亀裂は温度変化の回数、つまり時間の進行とともに大きくなり、一般に寿命で金属は切れる。つまり、寿命まで使用している原発は亀裂だらけの壊れやすいものなのである。又、金属は腐食する。つまり錆びる。さびればボロボロになる。コンクリートも同様に疲労破壊する。何故かと言えば、コンクリートはセメントと砂利の結合体であり、変形した場合セメントと砂利では変形量が異なり、そこに亀裂が発生するからである。このようにしてコンクリートも寿命を持つ。こうした素材の特性を考えるとき、原子炉自体の温度変動は制御されるものとして、寿命予測が一応成り立つであろう。しかし地球環境の変化、即ち、地殻の変動、気候の変化、そしてことに日本では海の傍に建てられる構造として大気の塩分の影響は避けて通れない。これらが原子力発電所に負荷としてかかってくるのである。設計はこれらを考慮すると言うだろう。しかし、自然は未知である。今まで大事故で、こんな負荷がかかるとは思わなかったという専門家の見解を幾度聞いただろう。誰が地球で起きる地震の最大震度を知っているのだろうか。誰が津波の最高高さを知っているのだろうか。我々はもっともっと自然に対して謙虚にならなければならない。つまり絶対安全な原発など出来はしないのだ。
今度は事故が起こって放射性物質が飛散、あるいは流出した場合を考えよう。チェルノブイリの場合であり、福島第一の場合である。この場合、単に飛散流出するだけではない。そこには人間の欲望という魔物が介入してくる。電力企業、政府にしてみれば補償のできるだけの回避、食物生産者、流通業者の被爆食品の売却のための偽装である。これらの悪のため、平和利用という名を呑気に信じ原発を無意識で容認したとはいえ、庶民は被爆の悲劇の中に叩き込まれたのである
。飛散流出は単に気体或いは液体拡散によるのみではない。地球には気流、海流が存在する。従って、放出物質は気液拡散のみでは思いもよらぬほど遠隔地へと拡散していくのである。しかし、何といっても福島第一原発の周辺の放射能濃度は飛び抜けて高い。危険度は非常に大きいのである。一方で福島は無人の地ではない。そこに人が住み、生活し、農業、酪農、漁業を営み、生計を立てている土地である。現在形で書いているのは、事故が起こっている現在もそうした生活がなされているからだ。そこへ、事故は起きた。農産物、乳酸物、畜牛、漁獲物は高濃度に汚染した。これらをどうやったら救済できるのか。本来それらは廃棄され、事故を起こした企業、あるいは国によってその分補償されるべきであった。しかし、人間の欲望は深い。まず取られた処置は、被爆許容値の引き上げであった。こうすることにより、被爆した産品も商品としうる。こんな姑息な手を国は打ったのである。生産者の良心、低濃度の安全なものを消費者に提供しようという心はどこへ行ったのだろうか。次にやったのは産地偽装であると言われる。これは僕は実際に確かめたわけではない。報道で知ったのみである。福島で漁獲されたものを他漁港で買取、他漁港産として商品化する。あるいは他漁港で買取、加工し、加工品としてどこ産のものかわからなくするというのである。
もう良心もへったくれもない。これは生産者だけの責任ではあるまい。そこまで追い込んでしまった者たちとして、即ち、事故を起こした企業であり、国であり、又国民も、そうした者として責任がないとは言えないだろう。なんとかして売ってしまいたいと考える生産者や国、一方で自分たちには何にも責任ないと無関心に逃げる消費者、この人間のやりきれぬ欲望が事態を複雑にしているのである。事故が起こるとこんなことまでしなければならなくなる原発、他の発電方式でこのような複雑な事態をまねくものがあるだろうか。原発以外には考えられぬではないか。なぜそのようなものを更に固執して維持しなければならないのか。ひとつの理由も考えられない。
最後は僕が決定的と考える理由である。原発で使用した燃料の廃棄物である。この処理法はまだ誰にもこれという方法が考え出されてない。即ち、プルトニウムに至っては24000年の半減期で放射能を放出し続けるのである。24000年と言えば人間にとって略永遠ではないか。こんなものをどこに安全に保管しとけというのか。誰も引け受けはしないだろう。そもそも保管自体の完璧性が保証できない。ドラム缶に入れて海に沈めるのか。腐食して漏れ出しては来まいか。では地中深く埋めるのか。地殻変動でドラム缶が壊れるのではないか。安全な方法など有りはしない。廃棄物を処理できずに、どうして原発は方法として成り立つといえるのか。僕はこのことひとつとっても原発を未完成な技術という。
今まで述べたように原子力は現在の人間の手に負えるものではないのだ。少量から莫大なエネルギーを得る方法かもしれない。しかし、負の側面が大きすぎる。この負の側面は人間には制御できない。そればかりか、僕はもうエネルギーを使いたい放題使う文化は終わりだと思う。近代工業化社会は大量生産、大量消費の世界である。これは必然的に大量のエネルギーを必要とした。敢えていえばエネルギーの濫費は地球の環境を変動させるまでになったのである。更に世界はグローバル化と自由主義市場経済により一見富めるものの増大により、エネルギーは大量に使用されるようになった。ここに一見富めるものと書いた。これは本当に富めることだったのだろうかということである。僕らは物が豊かであることがバラ色の幸福であるとして、富を求めた。しかし、それは本当に豊かなことだったのだろうか。生を充足する生きがいから見るとたちまちそのバラ色は色をうしなってしまったのではないか。僕らは心の豊かさを求める方へと梶をきった。とすれば、エネルギーも地球の平衡を壊す大量使用を止めねばならないだろう。つまり電力も大量使用はいらない。光とか風とか潮流とか地熱とか自然から平衡を壊さず得られるエネルギーを電力に変換して暮らしていけばよいではないか。これが僕たちの志向する新しい文化なのではないだろうか。
自然の変動がいつ起こるか現在の科学で予測がつかない以上、原発は即時停止すべきである。
原発事故は福島第一原発だけでも処理できないではないか。これ以上事故が起こったら日本は破滅だろう。僕の目から見れば原発の是非を論じること自体があほらしいことである。それほど事態は明確であると思う。停止したからといって廃炉に持っていくまでに大変な労力がいる。こんなものどうして54基も作ってしまったのだろう。一部では休止している他方式の発電を用いれば、電力は足りるのだと言われる。しかし、僕は節電は文化の転換だと思っている。節電といってもなにがなんでもいつでも電気を使用しないというのではない。必要な電気は使えばいいではないか。節電して熱射病、これほど馬鹿らしいことはない。例えばのべつまくなくエアコンつけっぱなしをやめるとかいうことを節電という。節電といっても足りないのは昼のピーク時なのですからね。僕の言う文化の転換というのは、また別だ。例えば、リニアモーターカー、なんでそんなにいそいでいく必要があるの。自動車、マイカーは基本的にいらない。一人で乗っている人が多い。バスを利用すれば、省エネになる。ということで社会から贅沢を減らし、ささやかな暖かい幸せを実現できる世の中にしたい、ということです。自然と共存する文化を都会にも取り戻したい。かつて都会にももっと人間的な文化があった。新しい文化の方向はそれを今の社会に活かすことだ。
さて、最後に原発をやめると電力が足りなくなる、ということについて。今五十四基あって三十数基止まっている。しかし、停電にならない。五十四基で日本の電力の三割だという。とすれば、三十数基止まって電力okということは原発は高々十数%に過ぎないではないか。これを新方式の発電と節電で十分補うことは出来るでしょう。東電の社長は福島無しで電力余ると言っている。原発の出番はないだろう。
原発を直ちに止めるべきだと書き込みましたが、そういう私自身は直ちに止められないということを理解しております。ということも書き加えるべきだったかな。と反省。しかし交通事故と原発事故は比較できないと思います。
スウェーデンは2020年までに石油にも依存しない社会作りを目指しています。ドイツは2022年、スイスは2034年原発全廃の予定です。既に脱原発を宣言しても一番早いスウェーデンでも今から10年掛かります。そういう意味で直ちに止めて欲しいと言う言い方をしたのです。
理由3の放射能廃棄物のところのデータをお読みいただいたでしょうか。決して感情的に原発事故への恐怖から発言しているのではないということを示すためにあえてデータを載せました。一度原発で使用した使用済み燃料から地層処分に到るまでの工程は不確かな部分が多いこと。最終処分地はまだどこにも決まっていません。処理の決まらない放射能性廃棄物をたくさん抱えることになっていいのでしょうか。
311以降原発の事故がおきてから 最初は私は原発を使いながら順次廃止してその間自然エネルギーを実用化を目指すのが一番妥当かなと考えながら、今まで原発の安全性に疑問を持ちながらそれについて具体的に知ろうともしなかったことを深く反省して、3月以降原発について色々疑問に思ったことを自分なりに勉強してきました。そうするとなるべく早く原発を止めるべきだという結論に到ったのです。
そもそもなぜ原子力発電を使うようになったのでしょうか?それはたぶんコストが一番安いということだったと思います。それに加えてco2排出量の少なくて済むということだと思うのですが。その点についてもご意見があれば是非知りたいと思います。
原発のコストですが 2009年経済産業省エネルギー白書によりますと、1kwhあたりの発電費用 水力 8.2~13/3円/kwh, 石油 10.0~17.3円/kwh, LNG5.8~7.1円/kwh, 石炭5.0~6.5円/kwh, 原子力4.8~6.2円/kwh, 太陽光46円/kwh, 風力10~14円/kwh となってました。プルサーマルを前提にバックエンド費用(最終処分の費用と思います)を前提に2006年から275円各家庭に電気料金に上乗せされています。地層処分にしてガラス固化体が天然鉱物並みの状態になるのに数百年掛かるんだそうです。その数百年どうやって管理するのでしょうか。現在使用している原発の使用済み燃料はどんどん増えてゆきます。毎年電気料金に最終処分費用として250円ずつ値上がりすると仮定して単純計算で100年後に電気料金は今から25000円値上がりしていることになります。日本の年金や財政赤字と同じで後世につけを払わせるようなエネルギーをずーっと使っていていいのでしょうか。
グローバル化の世界に原発は似合わないと思います。東京に一局集中させて大量に電気を消費するのでその近くに大量に電気を生産する場所が必要とする。その間地方の多くで過疎化の問題が深刻化して解決は遠い状態です。グローバリゼーションは多様化の時代です。その意味で日本の地方が生き生きと暮らせる方が 持続可能な文化としてより大きな可能性を持てます。
スイスのサラシン銀行は 世界の富裕層のプライベートバンクの一つなのですが、2009年6月スイスにおける資産家から一任されている株式・債券の資産運用のすべてをESG投資(E:environment, S:society, G:governance)で行うという宣言をしました。通貨取引や商品取引は除外されていますが。これに対してNoと答えた投資家は5%以下でした。(ECOJAPANリポートの足達英一郎さんのサステナブルな視点より)世界中に 効率よりも長期的な視点で考慮した場合ESGに配慮した企業の方が価値が高いであろうという哲学が広まりつつあります。
今日本が大きく脱原発に舵を切れば ESG投資に興味を持つ投資家から資金を集められる可能性が高いと思います。福島の事故に全力で放射能性物質の漏出の止める取り組みを行いつつ漏出に関しては 正確な情報を国内も世界にもオープンにしていくこともそれに連動して重要でしょう。
例えばですが、現在私が住んでいるアメリカの州は、原発はなく石炭または石油ベースの火力発電所に頼っています。そのため(それだけが理由ではないですが)空気汚染が進んでいるワースト10の州に入っており、州知事はそれに対抗するため近年風力発電所に力を入れて、広大な農地に次々と風車を立てていますが、まだ州全体の数パーセントしか担っていない状況です。(もちろんやらないよりいいと思います。)
個人的には、日本は次の10-20年で脱原発を計ってほしいと思います。化石燃料が急騰しても原発に頼ればいいという場合と、原発に頼れないという場合では、代替エネルギーを模索する上でかけるリソースが変わってくると思うからです。脱原発をすでに掲げているドイツと協力して次のエネルギー源を研究するというのはどうでしょうか。
ただ、日本にとって基本的に国外の資源に頼らなくてはいけない火力発電所、まだまだ供給不足の自然エネルギー、これらを補うために新技術である原発に投資するという今までの決断は、リスク分散という観点から私は妥当なものだったと思います。残念なのは事故後に「信じられない。そもそも原発は悪だったのを私たちはだまされて合意させられていた。責任者でてこい!」というメンタリティーをメディアなどで強く感じることです。原発をサポートしていた有名人がリストアップされたりして。このメンタリティーは、直接被害があった福島県の人々には理解できるし、損害賠償という形で責任者と戦うべきだとも思う。でも一般国民の世論としては危険な部分があるように思います。
これは今週の茂木さんのメルマガにも通じるところがありますが、ちょっとでも失敗するととにかくたたく、責任者を追及し退任させる、ここから学べることは、失敗してもできる限り隠す、責任者をうやむやにする、これくらいではないでしょうか。また企業側にしても、隠し切れないくらいの失敗を起こした場合、責任者を退任させることでことを済ませられるというのは簡単ですが再発防止にはまったくなってない。
今回の原発事故はあまりに大きな失敗だったので、世論が怒りに満ちるというのは理解できます。
ここを冷静に、なぜ防げなかったのか、そのためには今後どうしたらいいのか、ちょっとしたミスや失敗があった場合報告しやすくするにはどうしたらいいか、そこで学んだことを共有するにはどうしたらいいか、電力会社同士の競争を拒むための非効率な制度をどう効率的にするか、こういったことを議論してほしいです。また私が特に大事だと思うのは、今回事故直後、混乱のためこういう行動をしてしまったけど、分析すると結果的にはこういった行動を起こすべきであった、またはするためにこういう仕組みにしなくてはいけないというような詳細なレポートではないでしょうか。
ただ、こういう調査をするにあたって、「では、なぜ最初からそうしなかったのか、誰がそう指示したのか、責任者でてこい!」という態度で受け止めては、決してオープンな調査はなされないということを本当に政治家ならびにメディアは自覚するべきだと思います。(ベントするしないでも大問題になりましたが。)
もう一点付け加えるとすると、今のところドイツ・イタリアは脱原発を宣言してますが、多くの国ではしばらくすれば忘れたように新しい原発の建設が始まる気がします。ウェッブで探すと今でも45カ国で新規に原発を建設することが検討または計画されているようです。多くは新興国です。
次の10-20年で画期的で安全な代替エネルギー源が発見されない限り、どこかの国でまた原発による大惨事は必ず起こると思っています。
このような、頻度は非常に低いけれど一回おきると莫大な被害が発生するような事象は、保険のような機関を作って世界的に保障するというのも一案かと思います。
保険に入るためには、各原発は国際的な機関からの視察を迎えなくてはならずそのリスク、支払損害額の試算をベースに保険料が確定される。保険料は将来の損害支払いのために積み立てられる。定期的にメンテナンスとして視察をいれる。事故が発生した場合その国際機関も一緒になって事故処理を行うことで事故処理のノウハウを蓄積させる。そのかわり、国としては損害が発生した場合、保障の問題を悩まなくてすむ。
おそらく保険会社でこのような引き受けをしているところもあるかもしれませんが、より拘束力のある国際機関で一括して引き受けるということが、重要な気がします。今回先進国であり、また長いこと原発にお金をかけてきた日本ですらこれだけ事故処理に手を焼いているわけで、もしこれが新興国で起きた場合、その処理にどれだけ信頼できるのか。それを担保するためにもこういった国際的な枠組みを作る必要があると思います。
今、世界において日本商品の地位は低下しています。円高や、人件費、マーケティングの問題が大きいのは確かです。しかし、何とかギリギリがんばっている企業が、ここでさらに追い打ちをかけられたらもう海外に出るしかありません。糖尿病の患者に砂糖菓子を与えるような事態です。日本の工場は閉鎖され、多くの従業員は解雇、そこに納品していた下請け企業や周辺の商店、飲食店も連鎖倒産。100万人単位の失業者が出ても不思議ではありません。
代替えエネルギーとして安易に、火力発電にすれば良いという意見もありますが、実は石油は燃してしまうにはもったいない資源なのです。石油からは、様々なものが作られます。これを我々の世代で燃やし尽くしては、未来の子供達に顔向けができません。貴重な資源として、できるだけ残すように努力すべきでしょう。
太陽光、風力、波力等様々な代替えエネルギーが検討されていますが、火山国日本には地熱という大きなエネルギーがあります。多くは国立公園内にあるようですので、法律の改定や環境に与える影響を検討しなければなりませんが、かなり期待できるのではないかと思っています。一刻も早く、原子力に変わる発電システムの構築が必要ですが、構築されるまでの間、原子力を使用すべきでしょう。そして、もう一度500~1000年に一度の災害が来ないことを祈りましょう。また、来ても今回の事故が教訓となり、新たな原子力災害が起こらないことを。
反原発の人は、しばしば「絶対に安全と言えるのか?」という言い方をされますが、世の中に100%安全なものはありません。交通事故で大勢の人が亡くなっていますが、車を禁止しろと言う人はいません。100%を目指す努力は重要ですが、100%でないと認めないというのは、合理的な考えではないと思います。
私は原発を直ちににすべて止めるべきだと思います。ただし今までの石油に依存すると大部分の石油を中東に依存する日本は、政情不安な中東の石油に依存することのリスクを避けるために原子力発電へと移行したこと間違っていたとは思いません。ただしその間放射能性物質の危険性について十分考慮した場合自然エネルギーの技術革新を進めるべきであったのに政府として原子力促進に偏りすぎた政策を取って来ています。
理由の
1:原発事故が起きたら国民の生活は保障されないからです。地震や津波で壊された家や町は
再建できますが、放射能汚染された区域は財産・職業・地域社会・伝統など全てを失います。しかも何年経つと人間が住めるようになるか確実にはわかりません。また原発から何㌔以内が放射能汚染で住めないとハッキリ色分けできません。放射能漏れは気候条件に左右されて予測が不可能です。後であのときは放射能汚染レベルが高かったとわかってもその時にわからなければ被曝を防げません。現在政府は放射能汚染拡散予測のデータをspeediというシステムで把握しているにもかかわらず公開しません。
2:神戸大学石橋克彦教授によると 現在日本列島は大地震の活動期に入っているそうです。石橋教授は 2005年度衆議院予算委員会公聴会における公述人としてそのことについて発言をされています。石橋教授は 大地震活動期にはいったことについては地学的・物理学的に根拠があることで社会経済システムを根本的に変えなければいけない旨を提言しています。大地震は超高層ビル・マンション、長い大橋に大きな打撃を与えるのだそうです。ブラックスワンに対する備えが必要とアドバイスがあったのに政府は何もしなかったようです。できなかったと言い換えるべきかもしれません。
3:放射能廃棄物の処理方法が確立されていません。原子力発電所を稼働させると放射能廃棄物が発生します。廃棄物と言え高いレベルの放射能性物質です。現在の日本はその廃棄物をガラス固化体にして地下に貯蔵する予定です。出力100万kwの原子力発電所を1年間運転した場合約30本のガラス個化体に相当します。2003年までに国内に貯蔵されているガラス固化体は890本。(高レベル放射性廃棄物青森県六カ所村760本、茨城県東海村130本)
2020年頃までに原子力発電によって生じる使用済み燃料をガラス固化体に換算すると約4万本となります。4万本は原子力爆弾5万発に相当するプルトニウムを作ってしまいます。日本は原子力爆弾を持たないと言っても外国から見ると軍事的脅威です。 2030年に地下300メートルより深い地層に埋設処分開始予定、費用は約3兆円かかるそうです。埋設処分はまだ開始されたわけではありません。ガラス固化体にする前に使用済み燃料を冷却するために一時保管しなければいけませんがその場所が不足しています。原発によって発生するゴミの保管場所がないので原子力発電所をこのまま使用するのは不可能です。さらに使用済み燃料からガラス固化体に加工されるのは英仏に委託していますが、日本に帰ってくるガラス固化体は全てが日本で使用された使用済み燃料ではありません。フランス国内で使用されたものも混在します。日本に返って来たガラス固化体の表面がセシウム汚染していたのが確認されています。一般の人間にはガラス固化体に加工されると安全であるかのような説明がされていますが ガラス固化体も内蔵放射能量が高く危険性は存在します。
今日twitterを見ていたら 原発を止めたらGDP何位になるかなというようなつぶやきがあり
実際GDP1位アメリカ、2位中国、3位日本、4位ドイツ、5位フランス、6位イギリス、7位ブラジル、8位イタリア、9位カナダ、10位インド 11位ロシア、12位スペイン、13位オーストラリア、14位メキシコ、15位韓国、16位オランダ、17位トルコ、18位インドネシア、19位スイス、20位ポーランド、21位ベルギー、22位スウェーデン、23位サウジ、24位台湾、25位ノルウェー、26位オーストリア、27位アルゼンチン、28位、29位イラン、30位タイ、31位デンマーク、32位ギリシャ、ここでちょっと息切れが。
金融危機が叫ばれているギリシャも32位。日本の原発を止めたらGDPの順番20位ぐらいにおちてもそんなに不幸な国ばかりではないと思います。返って円安になれば、外国への輸出産業が楽になるのではないでしょうか。
10年位前に持続可能な発展というテーマである仲間と放射能廃棄物を月に廃棄するしないでデイベートを行ったことがあります。放射能廃棄物の地層処分場所として青森県六ヶ所村、モンゴルそして北海道などが名前に上がっています。私は北海道に住んでいるので青森にも北海道にも廃棄は強く反対です。以上の事から私は原発はなるべく早く止めて欲しいと願っています。東北地方に余っている風力発電の電気を早急に利用できるようにして欲しいと思います。
さらにチェルノブイリ事故の時の犠牲者が何人であったか公式の発表は不正確であると言われて正確な数はわかりませんが、その事故でおおくのこどもたちが親と隔離された上で被爆して亡くなったと言われています。そして福島原発の最初の犠牲者の遺体が放射能汚染がひどく回収できていないのではないかと思うのですが。チェルノブイリで鎮火に当たった多くの消防士などのお墓は未だに放射能汚染がひどく鉛で覆われているということです。このような悲劇を繰り返さないように原子力のエネルギーはもっと安全性が確認されるまで使用されるべきではないと主張したいです。
Nuclear is Difficult to control and Excessive power.
But I have no power.
But I will continue think.
But the situations will not change.
But I hope to change something.
Knowing we have this problem more.
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私は人間は間違えるものと考えます。
原子力は制御が難しい大きすぎる力です。
しかし、私は無力です。
しかし、私は考え続けます。
しかし、状況は変化しないでしょう。
しかし、何かが変わるように希望します。
私たちがこの問題をもっと知ることで。
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3.11は私のような、もともと無力な人間でなくても、
無力感を感じる出来事だったと思います。
でも希望もみることができました。
一人一人は無力でも、社会は、一人一人が
集まってできているものと考えれば、
それぞれが、自分がいまできる範囲で、
最善のことを考え、実行していけば
原発の問題もきっと良い方向にいくでしょう。
しかし、原発の問題を考えると、時間などないと思えます。
本当に、時間がなくなることだってあるかもしれません。
ニュースを見ていると、政治も経済も危機です。
原子力損害賠償支援機構法も通ってしまったようです。
でも、何もできないわけでもないと思います。
もし、送電網分離がされなくても、
太陽光発電を導入する人が増えれば、
ピーク時の電力需要を抑えることもできてくるはずですし、
メガソーラーだって、工場はメガソーラーに併設するなど、
電力会社の送電網つかうことがない方法もあるかもしれないです。
私の知識はとても少ないので上記の考えは、
とても未熟です。
きっと、ツッコミどころ満載でしょう。
だからこそ、より多くの人の考えを読んでみたいです。
英語は全然と言っていいほど分からないのですが。
原発の安全な運用方法を発展させていくのが人類の為という
意見を持つ人がいても良いとは思います。
今から自然エネルギー普及させるから原発即停止というのが
非現実的に思われるように、今すぐ全ての炉を完全に安全なものに
するのは非現実的だと思っていますが。
It is strongly recommended that we look at all the circumstances surrounding the events of 311.
We should take the deliberate decision not to keep some strong, unreasonably negative views, but to hold some surprisingly progressive views.
Different points of view or one-sided information have been being given to us simply.
However there is not a clear distinction between fact and opinion.
Some people are beginning and ending with their own opinion.
It is, of course, essential to adopt a peaceful stance towards the nuclear power generation.
In spite of this is an important attempt at decision-making, what evidence is used to support arguments?
Are alternatives considered?
In the absence of any clear facts and data from the mass media, we cannot decide ourselves despite a matter of life and death.
So what should I do?
We have no time for waiting.
もし、原発を即時全廃させてもエネルギー供給に問題がないなら、
全廃させて、自然エネルギーを開発していくのがベストですが。
原子力発電を発展させていくという方向については、
放射性物質の核分裂反応を使う発電は、もう発展させる必要はないと思っています。
放射線の遮断や放射性物質に対する知識を得ていくことは必要と思いますが、
発電利用に関しては、もう、縮小の方向でいいかと思います。
自然エネルギーは不安定という問題は今のところはあるでしょうが、
蓄電技術の向上や、各自然エネルギーの発電効率の向上は、まだまだ進むと期待しています。
また、「マグネシウム文明論」という本を読んだことがあります。
今現在、どのていど開発が進んでいるか調べてないのですが。
核分裂反応利用の発電だけに頼らないほうが、
さまざまな、発見があり、科学技術の発展を、
かえって進めることもあると思うのです。