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「正しい英語」あるいは「正しい日本語」はあると思いますか?

一時期、僕が書いている英語のブログに、オックスフォード大学にいる日本人の方が「茂木の英語はなってない」とすごく絡んできたことがありました。今ではもう仲良くなったんですけど、当時はすごく困りました。似たようなケースはツイッター上でもあります。

そういう方たちは大抵すごく知性派です。実際、語学力も高いのでしょう。だから文法的な傷があったりすると気になるのはわかります。ところがネイティブと話していて、「君の英語は間違っている」と言われることはほとんどありません。どうも「言葉を正しく使う」にこだわるのは日本人の特性のようにも思えます。

みなさんは、言葉を「正しく」使うということは、どのくらい大切なことだと考えますか。また、そもそも「正しい英語」あるいは「正しい日本語」というものがあると思いますか。

ご意見お聞かせください。

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NO.152012-06-16 17:32:18 yamadaswitch 0
こんにちは。yamadaswitchです。

正しい日本語と正しい英語は、あると思います。

あとは、それを正しく使うために、どれぐらいの時間をかけるか なのかな と思います。

時間をかければかけただけ、その人は正しい英語も正しい日本語も

使えるようになります。

しかし、「正しい言葉使い」にかけた時間は、

その他の「正しい言葉を使うこと以外に宛てるはずだった時間」を削ることにもなります。

なので、これはやはり興味の問題だと思うのです。

正しい言葉遣いに興味のある人は、

正しい言葉を研究するのが好きなので、それに時間を割くことが何の苦にも

ならないと思うのです。かければかけただけ、言葉遣いが美しくなって満足がいきます。

しかし、他のことを研究したい人もいると思うので、

そういう人は、英語を使うときは翻訳アプリとかそういうものをいろいろ駆使して、

日本語を使うときは周りの人に使い方が間違っていないかどうか聞いたりして、

自分の研究したいことに時間を割いてあげれば

いいんじゃないかなと思うんです。

あと、言葉って基本的に、プレゼントだと思うんです。

相手のことを思ってリボンをかけて、丁寧な言葉を届けてあげれば、

正しいというよりも、気持ちいいなあと思いました。(^-^)p

NO.142012-06-14 20:58:35 orcamie 0
no.13で masamiさんが述べているように 話す相手によって言葉が違うというのなるほどと思います。言葉だけではなく、話し方も変わってきます。

native speaker の人に英語の発音がいいねと褒められちょっといい気になって
インドの人とも同じように話してしまって さっぱり通じないということがありました。
彼女は英語ができるらしいのですが、発音がお国の言葉に似ていたのです。
彼女に話しかけるときは 英語らしい発音より 日本語のような英語の方が
わかってもらえて 第2言語同士で話す場合の難しさを感じたことがあります。

No.12のtrasqueさんが 指摘してくださったように
no.10で私が挙げたその3の例は 「私は暑くない」 「I am not hot.」の方がいいですね。
3つの場合をあげたのですが、果たして正しい文法を使わず、正しい言葉も使わないで
コミュニケーションが成立する場合があるか?と考えています。
ひょっとしたら 強い感情を持って 相手に伝えたいという強い意志があると可能かもしれないと考えています。例えば、恋愛や反対に憎悪など。

no.9のtrasque さんの『「どうしたら伝わるのか」という相手ありきの考え方に重きを置く』
というのは 日本人らしい考え方です。
私の感じたのは 英語を母国語とする人は
それよりも 自分が何を相手に言いたいか、伝えたいかということに重きをおいている。

ここで、特にmasamiさんのコメントを読んで 
私は コミュニケーションを成功させるふさわしい言葉=正しい言葉
じゃないかと考えたのですが
ひょっとしたらイコールじゃないかもしれないと思い始めてしまいました。
茂木さんの次々繰り出す質問に 私は思ったより色々なことに
固定観念があるんだなと気がつきました。

NO.132012-06-14 18:45:39 masami 0
orcamieさん、trasqueさん、chigusaotsukiさん、具体的なコミュニケーションの例で書かれていて、とてもおもしろいです。

すみません、話がそれてしまいますが、直接会話している時のふさわしい言葉、を考えるとき、文脈もそうですが、話者によっても違ってくるかな?と、思いました。
人は普通思われている以上に、多くの言語外メッセージを交わしている、というのが対話で苦労している者の実感です。

先の私のコメントは、視点を変えれば、いろいろな考え方があるだろうな、と思いつつ、いつのまにか、かなり離れた視点で言葉について考えて書いていました。

ここまでの皆さんのコメントを読んで、今、ここでのふさわしい言葉を一人一人が選び取っていくことの積み重ねによって、言葉が日々新たになっていくのかな、と思いました。

NO.122012-06-14 11:36:01 chigusaotsuki 0
trasque さんの、その3 の例、
私は、言葉は、目的だけではなくて、文脈もあると、思いました。
例えば、8月の真夏日に、「私は暑くない」と言われると、私の文脈では、
「ああ、trasque さんは、今日は、暑くも寒くもないんだなあ」と、思うし、
12月の真冬日に、「私は暑くない」と言われると、私の文脈では、
「あれ? もしかして、trasque さんは、寒いのかな?」と、思います。

orcamie さんの、その3 の例は、
日本語の「とても」というのと、
英語の「very」と、
日本語の「絶対」というのが、
私はよく調べていなくて、申し訳がないのですが、
「とても」だと、80〜90%くらいかな、
「very」は、何パーセントくらい、真実だろう?
「絶対」は、100%だよなあ、っていう、感覚です。
でも、「とても」と言っているのだから、
80%以上、暑いのならば、あんまり、寒いだろうな、とは、思わないですね。
でも、その3 の意味は、大変よく、わかりました。

trasque さん、orcamie さん、鋭いご指摘を、ありがとうございました。

NO.112012-06-14 08:53:11 trasque 0
その3の例に関係して「私は暑くない」というのはどうでしょうか。
文法としては正しく、例1、例2と言っている事と反目はしない内容で、かつ「寒いこと」は分からない。

この例で使うべき「正しい言葉」は何なのか。その2の例が最も伝わる事だとすれば、この時話者は「私が寒い状態にある」事を伝えたいのだという目的があるのだと分かります。
ですから、私が言い換えたその3の例「暑くはない」という言葉は、この時には正しい言葉ではない。

もし、目的が「暑くはないことを伝えたい」のならば、正しい言葉は「暑くはない」になります。
その場にふさわしい言葉とは「目的に合致しているか」で決まるのではないでしょうか。
そう考えると、正しい日本語があるとすれば、それは文法だけではなく、目的にあった言葉の選択が少なくとも関わってくるのだと思えます。

目的を持つ事は、簡単なようで難しいことのように思います。
思えば、普段の会話で目的の無いことばかりを話しているような気もします。
ですが、目的を第一として重視しすぎるとそれはまた「伝われば何でもあり」になってしまいます。
例えば「ら抜き言葉」とか。(これの是非については諸説ありますので、それを議論するものではありません)
本来の読み方とは異なるにも関わらず、そうではない読み方が定着してしまった言葉とか。

やはり、まず第一には「どうしたら伝わるのか」という相手ありきの考え方に重きを置くべきかと思います。
その為には、様々な文法(キッカリしたものから、ゆるいものまで)、幅広い語彙、そして明確な目的があるほど良いのではないかと思います。

NO.102012-06-13 20:14:14 orcamie 0
熱い→暑い という方が適切かな (^^;

NO.92012-06-13 20:03:30 orcamie 0
No.8でmasamiさんが 『言葉は変化するものであり、その時代に通じる言葉はあっても、正しい言葉はない、と思います。』正しい言葉はないとおっしゃるので 少々考えました。私もそれほど正しい言葉に重きを置いてませんが 現在論理的ということにこだわっていて、野矢茂樹さんの「初めて考えるときのように」という本を読みました。そこで野矢さんは考えるのには言葉は不可欠だとおっしゃっていて、たとえば『無い・不在』ということを表現するには言葉が必要だとありました。『月がある』ということは月の絵や写真を見せる事で表現できますが『月が無くなった』としたら沈んだのではなく、その存在が無になってしまったら、それを絵や写真で示すのは難しく月の不在を示すのには言葉が必要だという風な説明がありました。言葉がたくさんあるのは 言葉でしか説明できないことがたくさんあるからなんだろうと思います。正しい言葉というのは絶対的な存在ではなくて、その時代や状況に応じてアメーバーのように形を変えてあるのではないかと思います。それについては masamiさんと同じ考えだと思います。しかしコミュニケーションが成功した時 ある意味正しい言葉が使われたと言ってもいいのではないでしょうか。正しい言葉は 他に言い換えたら その場にふさわしい言葉といってもいいでしょうか?自分の中でそれについて迷いがありますが。それに 正しい言葉で話すということは、必ずしも正しい文法で話すとは違うことなんじゃないだろうかとも考えています。

つまり、その1;正しい文法を使っていなくても 正しい言葉があって、それを使ってコミュニケーションできる。また その2;正しい文法をつかって、正しい言葉を用いたら それもかなりの確立でコミュニケーションは成功すると思われます。しかしその3:正しい文法を用いても 正しい言葉を使わなかったら コミュニケーションは成功しないのではないかと思われます。
その1の例 「寒い、とても、私」「cold, very much, me」何となくこの人は寒いとわかりそう
その2の例 「私はとても寒い」「I'm very cold.」→これはばっちりわかる。
その3の例 「私はとても熱い」「I'm very hot.」→これはこの人が寒いとは絶対わからない。
非常に極端な例ですが、野矢さんの前述の本に載っている例がおもしろくて 正しい言葉の考察にちょっとまねしてみました。これでいいのかなと心もとない点もありますが、どなたか論破してくださると、それもまた面白いなと思っています。

NO.82012-06-12 15:58:53 masami 0
言葉がなぜこんなにたくさんできたか、考えてみました。
世界中に散らばって、それぞれの土地で交流できる範囲内で言葉が発達したから?
言葉は、それぞれの土地での人々の生き方と密接につながっているからかな、と思いました。
そして今は、それぞれの土地に居ながらにして、世界中の人たちと会話ができる時代。
言葉を使う人間にとって、新しい時代に突入したように思います。
これまでも、それぞれの言葉は変化してきており、これからはもっと変化し続けるかもしれない、と感じます。

そして、
インド人が話す英語、シンガポールの人が話す英語の特徴…
という表現があるように、第二外国語として英語を使う人たちの間の交流が増えるにつれて、母国語としての英語とは異なる、世界共通言語としての英語のルールが出来上がってもおかしくないかな、と感じます。

昨年のニュースだったか、アメリカでは、いわゆるマイノリティーの出生数が全体の50%を上回ったとのこと。
この現実は、アメリカで使われている英語にも少しづつ影響を与えるように思います。

言葉の正しさにこだわることが、外国語の習得の壁になるとも感じます。

学問、政治、経済、遊び、等あらゆる世界で、新しい単語や言葉の使い方が生まれています。

日本でも、数十年前に比べると、言葉の変化がかなり柔軟に受け入れられるようになってきているのではないでしょうか。

ということで、言葉は変化するものであり、その時代に通じる言葉はあっても、正しい言葉はない、と思います。

NO.72012-06-12 01:17:23 trasque 0
私は正しい日本語(英語)はあると考えます。

何をして正しいとするのかという問題があります。私は「最も意を正確に伝えられる事」が正しいものとして良いのではないかと思います。ある発言が、最も相手へ正確に伝わるのであれば、それは正しいと言えるでしょう。

では、最も正確に伝える為には何が必要なのでしょうか。
実物を見せるという方法があったり、言葉を選んだり、あえて真意を隠して自ら思考するよう促したり。色んな方法があると思います。脳の研究などにも絡むのかもしれませんが、ただ伝えると言ってもその効果は千差万別で、その時の条件、前提になる知識、受動か能動か、というように複雑なものなので一概にコレが最も正確に伝わると一言で定められるものではありません。

ですから、文法とは「相手へ出来るだけ正確に伝えるための方法・道具」の一つにすぎないと私は考えます。ある言葉の意味を正確に扱う事は「思いやり」でもあると思う訳です。ある言葉の意味が多くの人へ正確に共有されているならば、できるだけそれを選んでみたりする訳です。

赤と言えば、HTMLなら#FF0000で現される色です。何か周波数で定められた光の問題でもありますが、それが「赤の正確な意味」なのでしょうか。「正しい日本語=文法」としてしまう事は、このような事へ答えられなくなってしまうと思います。

必要なのは「相手への誠実さ」ではないでしょうか。
可能な限り意味が共有されている単語を使うことは、相手も同じ意味を想起する可能性が高い事を意味します。それを適切な文法で、複数の異なる意味に捉えられないように使用する事は、さらに正確に伝わる可能性が高まる事も意味します。
相手にしっかり伝えたいという誠実さから「できるだけ正確な文法を使おう」という態度が現れるのではないでしょうか。言葉の意味を正確に使おうという意識は、何より「相手のため」であるはずです。

一方で、大変な話ベタで、語彙も少ない人でも、その話に感動させられる事があったりします。
先にあげたように「最も正確に伝わる」為の条件は、とても複雑なものです。
キレイに話すこと、語彙が豊富なことは、それらの可能性を上げることに間違いはありません。
しかし、その条件がそのまま相手にあてはまるとは限りません。


私が住む家の近所に、言語障害を持つ高校生の少年が住んでいます。
思考に問題はありませんが、文字や言葉の読み込みと表現にとても時間がかかってしまう障害です。
何か言いたい事があっても、適切な単語を思い起こすまでに時間がかかり、また人の話も単語ごとに分割するだけでさえ時間がかかります。また、簡単な単語でなければ把握できないということもあります。

彼は運動部で活躍したりする元気な子です。
そんな彼と話をする時、私の方に「豊富な語彙」が本当に必要かと言うと、やはりそれは違うのだと考えさせられます。必要なのは「どうしたら彼に伝わるか」の一点の問題なのです。この言葉なら伝わるか?ではこの言葉なら? 彼が言いたい事は何か?もしかしたらこんな言葉で確認できるかもしれない。 そういった事を集中させていけば、しっかり彼と意思疎通ができます。
それが「最高に」正確な意思疎通であるかどうかは私にはわかりません。それでも、限られた言葉数の中で私と彼はお互いに伝えたい事を伝える事ができます。であれば、それは「正しい日本語」として問題はないのではないかと考える訳です。

小説の評価が人によって異なることも、その読者の人生経験や、著者の人となりと背景を知っているかどうかなどが入ってくるからだと思います。比喩が多かったり、あえて伝えたい事を書かないという事も、一度読者が思考する余地を挟む方が伝わると考えた「誠実の結果」だと思います。

「文法」をプログラミング的に捉えてしまえば、書いていないことは全て存在しない事になります。しかし、伝える為には自分と相手の差異を常に探っていかねばならないことは自明です。であるなら、正しい日本語とは「文法だけにとどまらないもの」であると言えるのではないでしょうか。


単語を間違わずに使う事は理想です。文法もできるだけ正しい方が良いでしょう。
でも、それらを目的にしては意味が無いと私は考えます。
どうしたら「最も伝わるのか」という誠実さを、忘れてはならないと思います。
そしてそれが「正しい日本語」だと私は考えます。

NO.62012-06-10 16:04:26 yamanorisu 0
言葉は生きていて、人とともに、常に変化しつづけている…というような内容のお話を聞いたことがあります。

もし、正しい日本語があって、それを常に守り続けていたとしたら、今の私たちの日本語は、今のようではなかっただろうと思います。
今の日本語は、柔軟に、ユーモアをもって、使われることで醸成されてきたものではないかと思います。

自分が表現したいことを、どうしたらうまく表現できるだろうか…と思うと、使う単語やアクセントやイントネーションなど、そのときの自分の感性にフィットするものを選んでいるように思います。
それが、日本語としてはおかしいかもしれなくても、そのときの自分にとってはそれがBESTな表現です。
それでは伝わらない、ということもあるかもしれませんが、「私」の表現したいことは、これなんだから。私は、それでいいと思っています。

もちろん伝わり合うことが必要な時もあります。
そのために、会話を続けることがあれば、言葉は、どんどん変わっていきます。
そんなときには、自分にとってさえ、これが決定版というものはなくなってしまいます。
先に書いたことと矛盾するように思われるかもしれませんが、コミュニケーションの道具として使う言葉には、絶対にこの言葉がいいというものはありません。

ことばの「正しさ」にこだわる人に多くの場合感じるのは、「自分の正しさ」を確信してそれを人にも認めさせたいという態度です。
自分と同じ考えで、同じ言葉を使っている人だけが、自分の理解者であり、それが多数派なのだと信じているような…。
そんな人たちは、言葉をつかってコミュニケションしているようでいて、自分を表現するための道具としてしか言葉を扱っていなくて、相手の言葉を受け止め理解しようとする気持ちを感じられません。

とても残念なことに、今一番それを感じるのは、娘の学校の先生たち(全員ではありませんが)です…。

少し話がずれてしまうかもしれませんが、子どもたちには、たくさんの日本語(言語)、たくさんの表現(古いものも、新しいものも。和も他も)に触れてほしいと思っています。その中から、自分の表現方法を見つけたり、自分以外の人はどんな感性をもっているか、どんなことを考えているかを知ってほしい。
それから、たくさんの人と出会うこと。身につけた言葉や表現、感性を、人とのコミュニケーションの中で確かめながら、自分らしさを磨いてほしいです。
「自分」を持ちながら、他の人を尊重し、社会の中で、上手に生きていける人に育ってほしい…と思います。


NO.52012-06-06 16:48:03 gotoichi 0
どんなに丁寧で正しくても、気持ちが伝わらない場合もあります。
嬉しい表現ひとつでどんな場合も言われたら、
正しいのでしょうが、気持ちは伝わりません。
口先で言ってるわ。と思うでしょう。
もちろん、非言語コミュニケーションがありますから、
そう決めつけるのも変ですね。
でも、少々の不器用さがより気持ちを伝えるのは確かだと思います。
書くことも基本的に同じだと思います。
現状は、その人らしさが伝わらない文章を必死になって練習してます。
あまりキレイな文章ではないですが終わります。
失礼しました。

NO.42012-06-06 14:07:00 Traceglobe 0
正しい言葉の使い方は時代によって変わりますが、どの言語においても「正しい言葉」はその時々で存在すると思います。

では、言葉を「正しく」使うことがどれほど大切なのか? 私は、正しい言葉を使うことよりも、対象となる相手とのコミュニケーションを成功させることの方が大切だと考えます。

自分が伝えたい事柄(情報や心情など)を間違いなく相手に伝えること、そして相手が伝えんとすることを間違いなく理解することができれば、語学的な正しさはどうであれ、そこで交わされた言葉は正しく使われていると思います。言葉はコミュニケーションをとるための道具であり、使われる道具は色々な種類があってよいと思います。

私は高校、大学、大学院での約9年と、社会人をして約6年アメリカで過ごした者です。従って英語はある程度理解できます。 また現在はビジネスのグローバル化や英語を使ったビジネスコミュニケーション及びマネジメントをサポートする事業を営んでおります。(つまり、国や文化を跨いだコミュニケーションについて、常にあれこれ考えている者です。)

10年程前までは、日本の企業がビジネスの国際化をする対象は欧米が中心でした。しかし今は全世界が対象になっています。英語はビジネスの世界においては「国際語」として受け入れられており、英語が母国語でない同士が英語を使ってコミュニケーションをとることは当たり前です。これから先、このようなノンネイティブ同士が英語を使ってコミュニケーションをとる環境は益々増えるでしょう。国際的な視野に立って言葉を使うことを考えますと、やはり重要なのはコミュニケーションを成功させることであって、言葉を「正しく」使うことではありません。

母国語が英語の人が、そうでない人と英語でコミュニケーションをとる際、英語の「正しさ」に対して寛容になるのは、相手に対する敬意とコミュニケーションを成功させたい気持ちがあるからです。(この文章の「英語」の部分を「日本語」に置き換えても、同じことが言えると思います。)

現在のように国際化がすごいスピードで進む世の中でも、言葉を「正しく」使うことは大事です。しかしそれを重んずるあまりコミュニケーションをとれなくする、一種の『言葉の壁』を築いてしまうことは避けるべきだと思います。

言葉を交わす際何よりも大切なのは、相手が誰であってもその人に対する敬意とコミュニケーションを成功させたいと思う気持ちを持つことだと思います。


P.S. ツイッターで茂木さんの英語のツイートをフォローさせて頂いておりますが、そこで気になるのは「Yep」、(Yesの意)を「Yap」(ぺちゃぺちゃしゃべるの意)と書かれることのみです。このような間違った単語を使われる以外の間違い(例えば文法的な間違いなど)を探せばまだありますが、気になりません。伝えんとされる内容が伝わるからだと思います。

NO.32012-06-05 22:51:09 yamaguti 0
正しい日本語の文法の骨子は習得する必要があると思っています。
ある程度、正確で共通の日本語を用いないと、他人との相互理解の深化に時間を要してしまいます。
ですので、皆の基本となるマスコミの新聞の文法やアナウンサーの話法に少しでも違和感が有ると気になってしまいます。
但し、芸能人の言い回しや小説の用法や文法に間違いが有っても、癖や個性として気になりません。
つまり、個人の思想や見解はコンテンツやそ勢いを重視しますので、日本語としての正しさを重要視はしていませんし、ここで正しさに拘泥すると、情熱や面白さが失われる気がします。


英語は詳しくないので想像ですが、全世界、広域で話されていますので色んな方言があり、正しい英語自体地域により色んなバリエーションがある気がします。

NO.22012-06-05 21:48:21 orcamie 0
正しい英語や日本語は ちょこっと隅にあるといいと思います。
正しい英語や日本語は、必要なんだろうと思いますが

言葉を使って コミュニケーションをするということの方が
圧倒的に 大事なことでしょう。
ひょっとしたら、正しい言葉を使った方が コミュニケーションが取れない場合もあるような。
一番正しい日本語は きっとNHKのアナウンサーが使っている言葉かな。

伝えたいことがある時に それを伝えようと言う強い思いの方が
正しい言葉を使うということより 
より深いコミュニケーションが取れるような気がします。

先日 サイレント映画を再現した 『アーテイスト』を見ました。
言葉のほとんどは聞こえないのですが、映画が終わって
台詞のひとつひとつが わかった訳ではないけれど
普通に話される映画よりすごく理解できたのでした。

その上 映画の最中に 滑稽なところに来ると
思わず笑ってしまったのですが
サイレントなので どちらかと言うと映画館もし〜んとしていて
観客の方たちが あまり笑わないので
声を出さずに笑おうとして 苦労しました。

知人が回転寿しでブラジルの人と隣り合い
互いに英語は 単語を並べただけだけど
ものすごくわかり合えたと言って
「私の英語もまんざらではないかもしれない。」なんて言ってました。
彼らが寿司屋で過ごしたその時間は きっととても楽しかったんだろうと
思われます。

Native speakersと 時々英語で話す機会があると
彼らの単語の使い方が 学校で習った英語と違うと思うことがあります。
でも 習慣的にそのように使っていて そっちの方がきっと旬なんだろうと思います。
言葉は日々使われていて、その時代によって 使い方が変わり
以前とは 違う意味で使われるということや
新しい言葉も生まれます。
そういう意味では ことばは 生きていると。
だから 正しいという基準で
あまり言葉を縛らないで欲しいなと思います。

NO.12012-06-05 05:30:29 chigusaotsuki 0
私は、ちょっとだけ、マーストリヒト大学の、ラングイッジセンターにいて、英語を、学んだのですが、先生が、まず、思っていることは、自信を持ってほしい、ということでした。英語学校に、通おうとする人たちは、英語に、自信のない人たちです。不思議なのは、大学で、英語で、講義を受けていて、論文も、英語で書けるのに、「友達の、ドイツ人が話している英語が、わからない!」と、ラングイッジセンターに、かけこんでくる、学生が、いたのです。もちろん、その学生は、「君は、十分に話せているから、自信を持って!」と、入学を、断られていました。そうかと思えば、フランス語も、オランダ語も、英語も、自信を持って話せるけれども、英語の未来形だけが、なぜだか、話せない、おじいさんがいました。それでも、ぜんぜん、平気だったけれども、私が言いたいのは、じゃあ、未来形のない英語は、正しい英語なのか、という議論です。もちろん、未来形がなくても、おじいさんの言いたいことは、十分に伝わります。じゃあ、このおじいさんは、未来形は、知らないままで、いいんでしょうか。先生は、とても、悩んでいました。
自信を持っていてほしい、今のままでも、十分にいい、自信を、なくさないでほしい。そして、おじいさんは、その授業で、未来形を、教えられることは、なかったのです。「英語には、未来形があるよ。」と、先生は、ちょこっと言って、そうなのか、で、終わりました。
この授業、どう思われますか? 実に、オランダらしいと、思うのです。 (*^_^*)