再び原発について問いたい
今号の時評や7月1日の連続ツイートでも書いたように、今、大飯原発の前で、二つの文化が向き合っているのだと思います。文明を支えるシステムと、直観や感情などを伴った個人としての人間。おそらく、どちらだけでも人間は成り立ちません。この二つの文化は、どこかで出会わなければならない。
原発の問題は、相変わらず重苦しく、そう簡単にはすっきりした答えは出ません。ただ、私は、現在のやっかいな状況をもう少し引き受け続けたいと決断しました。この掲示板でも、あらためてみなさんからの意見を集めてみたいと思います。
再稼働が決まり、反対デモが起こる中、原発について私たちが考えるべきこと、すべきことは何だと思いますか? ご意見お聞かせください。
NO.222012-07-16 22:41:22 yamaguti 0
単純な理解だとは思いますが、原発は水と電気があれば制御可能ですよね。
原発に反対している人達は、事故が再発する恐れが有ると考えている。それは管理運営している機関と人間への不信の発露ですよね。原発を容認している人達は、科学技術と人間の管理能力への信任を表明した人達だと思うのです。
福島の事故は、住民説得の為の安全神話を、運営管理会社自体が不可触の神託としてしまい、津波想定高さを反映しない対策起案、外部電源の鉄塔の位置や、非常用発電機の高さ、非常用の訓練やマニュアル不足など、2重3重の非常用の備えを全て形骸化させてしまったことが起因した人災だったと思います。
人が管理運営する事業には新幹線など、常時運行していても今まで死亡事故を起していない技術(事業)もあります。原発も事故が起こりうると思って管理・運営すれば、事故は起きにくいと思います。
もちろん、地震が多いこの国ではどんなに対策しても原発事故は絶対起きないとは断言できないはずです。本来不向きな立地(国)だとは思いますし、事故の記憶も徐々に風化して日常に埋没していきますので、20~30年先には廃止する方向でいけたらいいと思います。
但し、それには太陽光の発電効率が3倍になるなどの、技術的もしくは資源的なブレークスルーが必要ではないかと思います。
原発も地球上の限られた資源ですし、エネルギー量の大きい発電方式だと思います。70億人の人類の営みを続けていくにはどこかで運用していく必要があるのではないかとも思います。(現在の運用技術の中での話ですが)
原発に反対している人達は、事故が再発する恐れが有ると考えている。それは管理運営している機関と人間への不信の発露ですよね。原発を容認している人達は、科学技術と人間の管理能力への信任を表明した人達だと思うのです。
福島の事故は、住民説得の為の安全神話を、運営管理会社自体が不可触の神託としてしまい、津波想定高さを反映しない対策起案、外部電源の鉄塔の位置や、非常用発電機の高さ、非常用の訓練やマニュアル不足など、2重3重の非常用の備えを全て形骸化させてしまったことが起因した人災だったと思います。
人が管理運営する事業には新幹線など、常時運行していても今まで死亡事故を起していない技術(事業)もあります。原発も事故が起こりうると思って管理・運営すれば、事故は起きにくいと思います。
もちろん、地震が多いこの国ではどんなに対策しても原発事故は絶対起きないとは断言できないはずです。本来不向きな立地(国)だとは思いますし、事故の記憶も徐々に風化して日常に埋没していきますので、20~30年先には廃止する方向でいけたらいいと思います。
但し、それには太陽光の発電効率が3倍になるなどの、技術的もしくは資源的なブレークスルーが必要ではないかと思います。
原発も地球上の限られた資源ですし、エネルギー量の大きい発電方式だと思います。70億人の人類の営みを続けていくにはどこかで運用していく必要があるのではないかとも思います。(現在の運用技術の中での話ですが)
NO.212012-07-16 01:12:16 orcamie 0
こんばんは。
茂木さんが1度目に原発について話し合おうと言われた時と
この2度目と自分は何が違うかなと考えてみました。
no.20のmasamiさん「シェーナウの想い」の映画を見たのですね。
脱原発と言う問題を私が考えるとき
単に脱原発と言うだけでなく今ある文明や生き方をなるべく変えないで
実現できるかと言う事も考えます。
その答えはなかなか見つからなかったのですが
一つ希望を見つけました。
masamiさんの見られた「シェーナウ」と言うドイツの黒い森にある小さい街のお話です。
そのシェーナウの街の最初は30人位の人が送電網を買って
使いたい電気を使おうと考えて大きな電力会社に立ち向かっていく。
それを実際かれらは実現したのです。
どうかyoutubeでシェーナウで検索すると複数の映像がありますのでご覧になってください。
茂木さんが 「文明のシステムと個人」を対比させてました。
それで私は 村上春樹さんの エルサレム受賞のスピーチを思い出しました。
村上さんは 「壁と卵」と言う比喩を使われていました。
私が好きな壁は 「ぬり壁」です。
水木しげるさんの 「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪の仲間です。
「ぬり壁は」仲間を 危険から守るために敵に対して立ちはだかる。
けれど 守りきれないときは 仲間の方に倒れてしまう。
そんな時は ぬり壁だったら ごめん という。
非常にシンプルなことだと思うのですが
文明のシステムになると そういう人間性が欠如するのかなぁ。
ところで原発というシステムは 逃れることが難しい壁ではないでしょうか。
その恩恵を受ける人も、受けない人も
下敷きにならないようにできるかどうか。
それほど大きな壁であるような気がします。
すべての原発を止めても この原発という大きな壁を安全な状態にするのには
少しずつ小さくするしか 今のところないでしょう。
そして原発という壁、または放射能物質という壁に対して
すべての生物は簡単にくしゃっと壊れる卵の存在でしかない。
想像力のお話が出てきましたが。
想像と空想は少し違うと思うのです。
私が想像する日本の未来というか地球の未来は
緑豊かで 人間も動物も食べ物や水に困る事無く
それでいて科学が発達して 環境汚染など無い地球です。
私は 手塚治虫さんの「アトム」が大好きです。
「アトム」が原子力だからといって嫌いにはなりません。
手塚さんの創造した「アトム」が原子力でも
きっと手塚さんが今いらっしゃったら
太陽光の「アトム」を創造されていたのではないかと思います。
文明のシステムは 今曲がり角にあるような気がします。
古代エジプト文明から 一カ所に集中した文明は現代にまで
脈々と高度な文明を築いてきましたが
地球の環境を維持していくのに限界が来ているような気がします。
今までに 実に人間以外の多くの生物が絶滅していきました。
No.15のmasamiさんの『人間が、その人間性の良い部分を引き出せる、あるいは損なわずにいられる、また、その組織に積極的に関われる、適切な大きさの基本的な単位があって、それは国よりも、もっと小さい単位であるように感じます。 』と言う考えに私は大きくうなづきたいです。
民主主義の行き詰まりは日本だけの問題ではなく
アメリカでも、先頃のギリシャ危機のギリシャでも見受けられます。
現在の大きな政府では 緊急の問題が起きた時に
その責任がないがしろにされ、それゆえ問題が解決されない
弱い立場の人間が 苦しむという図式が見受けられます。
文明のシステムをよりよいものに変える為には
大きな変革が必要なんではないだろうかと思います。
そしてその変革は 人間の生き方、文明のあり方を
変える事なのではないかと思っています。
茂木さんが1度目に原発について話し合おうと言われた時と
この2度目と自分は何が違うかなと考えてみました。
no.20のmasamiさん「シェーナウの想い」の映画を見たのですね。
脱原発と言う問題を私が考えるとき
単に脱原発と言うだけでなく今ある文明や生き方をなるべく変えないで
実現できるかと言う事も考えます。
その答えはなかなか見つからなかったのですが
一つ希望を見つけました。
masamiさんの見られた「シェーナウ」と言うドイツの黒い森にある小さい街のお話です。
そのシェーナウの街の最初は30人位の人が送電網を買って
使いたい電気を使おうと考えて大きな電力会社に立ち向かっていく。
それを実際かれらは実現したのです。
どうかyoutubeでシェーナウで検索すると複数の映像がありますのでご覧になってください。
茂木さんが 「文明のシステムと個人」を対比させてました。
それで私は 村上春樹さんの エルサレム受賞のスピーチを思い出しました。
村上さんは 「壁と卵」と言う比喩を使われていました。
私が好きな壁は 「ぬり壁」です。
水木しげるさんの 「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪の仲間です。
「ぬり壁は」仲間を 危険から守るために敵に対して立ちはだかる。
けれど 守りきれないときは 仲間の方に倒れてしまう。
そんな時は ぬり壁だったら ごめん という。
非常にシンプルなことだと思うのですが
文明のシステムになると そういう人間性が欠如するのかなぁ。
ところで原発というシステムは 逃れることが難しい壁ではないでしょうか。
その恩恵を受ける人も、受けない人も
下敷きにならないようにできるかどうか。
それほど大きな壁であるような気がします。
すべての原発を止めても この原発という大きな壁を安全な状態にするのには
少しずつ小さくするしか 今のところないでしょう。
そして原発という壁、または放射能物質という壁に対して
すべての生物は簡単にくしゃっと壊れる卵の存在でしかない。
想像力のお話が出てきましたが。
想像と空想は少し違うと思うのです。
私が想像する日本の未来というか地球の未来は
緑豊かで 人間も動物も食べ物や水に困る事無く
それでいて科学が発達して 環境汚染など無い地球です。
私は 手塚治虫さんの「アトム」が大好きです。
「アトム」が原子力だからといって嫌いにはなりません。
手塚さんの創造した「アトム」が原子力でも
きっと手塚さんが今いらっしゃったら
太陽光の「アトム」を創造されていたのではないかと思います。
文明のシステムは 今曲がり角にあるような気がします。
古代エジプト文明から 一カ所に集中した文明は現代にまで
脈々と高度な文明を築いてきましたが
地球の環境を維持していくのに限界が来ているような気がします。
今までに 実に人間以外の多くの生物が絶滅していきました。
No.15のmasamiさんの『人間が、その人間性の良い部分を引き出せる、あるいは損なわずにいられる、また、その組織に積極的に関われる、適切な大きさの基本的な単位があって、それは国よりも、もっと小さい単位であるように感じます。 』と言う考えに私は大きくうなづきたいです。
民主主義の行き詰まりは日本だけの問題ではなく
アメリカでも、先頃のギリシャ危機のギリシャでも見受けられます。
現在の大きな政府では 緊急の問題が起きた時に
その責任がないがしろにされ、それゆえ問題が解決されない
弱い立場の人間が 苦しむという図式が見受けられます。
文明のシステムをよりよいものに変える為には
大きな変革が必要なんではないだろうかと思います。
そしてその変革は 人間の生き方、文明のあり方を
変える事なのではないかと思っています。
NO.202012-07-15 23:01:25 masami 0
今日、『シェーナウの想い』という映画を見てきました。
ドイツの小さな村で、約十年かけて、エコ電力会社を市民たちの手で作りあげた様子についての映画です。いろいろなサイトがありますから、参考にしてください。
http://www.thinktheearth.net/jp/thinkdaily/news/energy/891ews-schoenau.html
http://www.youtube.com/watch?v=KD_2CAAA9gs
そして、改めて思いました。脱原発を選んだ時、私たちは、自分たちの社会や、生き方そのものを、今とは違うものに変えていく選択をすることになる、と。
脱原発を選ぶことは、決して経済的な発展や現在の生活状況をそのまま維持することでもないし、暮らしが楽になることでもないと思います。それでも、そのような選択をするだけの意味がある、と思ったときの選択だと思います。
原発問題は、単に、電力の供給方法についての問題ではなく、どのように生きたいか、を問われているのであって、予想される細かい経済的、現実的なメリット、デメリットを議論する問題ではなく、脱原発という方針を決めたら、それが実現する方向に社会の仕組みや制度を整え、技術を開発することで、やっとなんとか実現できるものなのかなと思います。
それでも、そういう選択をするかどうか、そのために、今、私たちはどのように生きたいか、一人一人が考えるときなのかな、と思います。
シェーナウでも、住民投票が二回行われ、二回とも、対立する意見も、ほぼ同数のぎりぎりの選択でした。
日本でも、原発について、いろいろな考え方を持つ人たちが議論できる場が、そこここに生まれて、関心のある人たちが増えて、いろいろな視点から学びながら、原発について選択できるといいなと思いました。
ドイツの小さな村で、約十年かけて、エコ電力会社を市民たちの手で作りあげた様子についての映画です。いろいろなサイトがありますから、参考にしてください。
http://www.thinktheearth.net/jp/thinkdaily/news/energy/891ews-schoenau.html
http://www.youtube.com/watch?v=KD_2CAAA9gs
そして、改めて思いました。脱原発を選んだ時、私たちは、自分たちの社会や、生き方そのものを、今とは違うものに変えていく選択をすることになる、と。
脱原発を選ぶことは、決して経済的な発展や現在の生活状況をそのまま維持することでもないし、暮らしが楽になることでもないと思います。それでも、そのような選択をするだけの意味がある、と思ったときの選択だと思います。
原発問題は、単に、電力の供給方法についての問題ではなく、どのように生きたいか、を問われているのであって、予想される細かい経済的、現実的なメリット、デメリットを議論する問題ではなく、脱原発という方針を決めたら、それが実現する方向に社会の仕組みや制度を整え、技術を開発することで、やっとなんとか実現できるものなのかなと思います。
それでも、そういう選択をするかどうか、そのために、今、私たちはどのように生きたいか、一人一人が考えるときなのかな、と思います。
シェーナウでも、住民投票が二回行われ、二回とも、対立する意見も、ほぼ同数のぎりぎりの選択でした。
日本でも、原発について、いろいろな考え方を持つ人たちが議論できる場が、そこここに生まれて、関心のある人たちが増えて、いろいろな視点から学びながら、原発について選択できるといいなと思いました。
NO.192012-07-15 09:28:54 terurun 0
皆さんの投稿を読ませて頂き、本当に勉強させて頂いてます。
その中で、mactooさんの最後の文の内容に、はっと
させられました。
「想像力の無さ」。。。これは、本当に共感出来ます。
知識より、想像力だな。と思いました。
多くのことは、想像力の欠如から、起きていると思ってしまう
ことが本当に最近、いろんな場面(いじめ等も)で思います。
想像力が無いことによって、より良い発想や創造(生み出すこと)が
出来ない。。。
原発に変わるものを考えるにしても、他のものを生み出す力が無ければ、
今のままです。。。
実に「想像力の欠如」が問題であることに、気づかされます。。。
その中で、mactooさんの最後の文の内容に、はっと
させられました。
「想像力の無さ」。。。これは、本当に共感出来ます。
知識より、想像力だな。と思いました。
多くのことは、想像力の欠如から、起きていると思ってしまう
ことが本当に最近、いろんな場面(いじめ等も)で思います。
想像力が無いことによって、より良い発想や創造(生み出すこと)が
出来ない。。。
原発に変わるものを考えるにしても、他のものを生み出す力が無ければ、
今のままです。。。
実に「想像力の欠如」が問題であることに、気づかされます。。。
NO.182012-07-14 00:17:40 yamadaswitch 0
ちょっとした疑問なのですが、
原発推進派と原発反対派は、いがみあっているのでしょうか?
確かに、「推進」と「反対」では、まるで逆の意味を持つ言葉ですが、
「原子力に関してまじめに考え、取り組む」 という点では
圧倒的多数の「興味のない人」より、原子力や、日本の将来について
考えている仲間だと私は、思います。
廃炉に関しても、拡散した放射性物質のこれからを考えるにしても、
原発を安全に運営することに関しても、
原子力の研究をする研究者はこれからもっと必要になると思いますし、
研究を重ねて、技術を磨いて欲しいと私は願っています。
ただ単に、私が欲しいのは美しく明確なビジョンなんですね。
自分が、感動して納得できるような論理性のあるビジョンを、提示してくれれば
「じゃあ、それで行こう」っていう風になると思うんです。
地震のない海外で発電した原子力産の電気を蓄電池にして輸入することも可能だとすれば、
それがもし理にかなうのならばそれもアリだと思います。
電気の買い分けも、できたらすばらしいと思います。
反対とか、推進とかでは区切ることができないほどの、論理性に満ちたビジョンが語られれば
恐らく、いがみ合いはなくなるのではないでしょうか。
そう思っているんです。
山田スイッチ
www.yamadaswitch.com
原発推進派と原発反対派は、いがみあっているのでしょうか?
確かに、「推進」と「反対」では、まるで逆の意味を持つ言葉ですが、
「原子力に関してまじめに考え、取り組む」 という点では
圧倒的多数の「興味のない人」より、原子力や、日本の将来について
考えている仲間だと私は、思います。
廃炉に関しても、拡散した放射性物質のこれからを考えるにしても、
原発を安全に運営することに関しても、
原子力の研究をする研究者はこれからもっと必要になると思いますし、
研究を重ねて、技術を磨いて欲しいと私は願っています。
ただ単に、私が欲しいのは美しく明確なビジョンなんですね。
自分が、感動して納得できるような論理性のあるビジョンを、提示してくれれば
「じゃあ、それで行こう」っていう風になると思うんです。
地震のない海外で発電した原子力産の電気を蓄電池にして輸入することも可能だとすれば、
それがもし理にかなうのならばそれもアリだと思います。
電気の買い分けも、できたらすばらしいと思います。
反対とか、推進とかでは区切ることができないほどの、論理性に満ちたビジョンが語られれば
恐らく、いがみ合いはなくなるのではないでしょうか。
そう思っているんです。
山田スイッチ
www.yamadaswitch.com
NO.172012-07-13 15:05:32 mactoo 0
最近の反原発・脱原発のデモや言論を見聞きしている限り、自分たちの生活は今のレベルのままで原発は無くせ、原子力も放射能も悪で自分たちは正義なのだ…という風にしか聞こえません。こんなのはいくら大声を張り上げても「音」にしか聞こえないと思います。
私は現在36歳ですが、親からは「みんな我慢しているんだからあなたも我慢しなさい」と言われ続けて育ったわけですが(いつも集団からはみ出てた)、今のデモに並んでいる人たちも当然「みんな怒っているんだ」という理由なわけです。これらは集団の中に個を埋没させる事で身を守る行為です。
つまり、親からの忠告は、はみだして危険な目に合わないようにという親心から。デモの群衆は自分の身は危険に晒さずに悪い奴を叩くという、匿名性の高い行為です。
いづれにしても「横並び」「匿名」「懲悪」という日本人の3大病理から抜け出さない限り、次のステップへは進めないのです。
さて、茂木先生からのお題ですが、私は人類が発展途上なのと同じように原子力利用もまた発展途上なのだと思います。人人がエネルギー消費型の文明を捨て去るのであればそれでも構いませんが、これ程便利な世の中、そうは成らないはずです。であればエネルギーをいかに創り出すかを本気で考えるべきです。また利用するエネルギーが何に由来しているのかをモニターできる仕組みや、利用者が選んで購入できるような仕組みがあれば、いがみ合う必要もなくなるんじゃないかと思います。
環境保全を考える家庭では高くても風力・太陽光由来の電気を契約し、そうでもない家庭ではリーズナブルな原子力由来の電気を購入するなど…。
未来予想図を描く想像力があるならば、需要と供給の適正なバランスを取りつつ新しい技術の発達を待っていても良いのではないかと思います。
蛇足ですが、私が小学生の頃、21世紀はどんな世界になっているんだろう?というお題で絵を描いた記憶があります。明るくて、カラフルで、ガラスチューブの中をタイヤの無い車がスイスイ走っていたり、宇宙までエレベーターが伸びていたりと、夢がいっぱいに溢れていました。
今は確か2012年です。夢にまで見た21世紀です。あと100年もしたらドラえもんだって誕生します。大の大人たちが右往左往していて、子供たちが夢を見られますか?
鉄腕アトムは原子力が動力だからけしからんという大人たちこそ糾弾されるべきだと…想像力の無さが人人を分断し孤立させるのだと…豊かさの指数や単位には複数の基準があるのだと、私は思います。
私は現在36歳ですが、親からは「みんな我慢しているんだからあなたも我慢しなさい」と言われ続けて育ったわけですが(いつも集団からはみ出てた)、今のデモに並んでいる人たちも当然「みんな怒っているんだ」という理由なわけです。これらは集団の中に個を埋没させる事で身を守る行為です。
つまり、親からの忠告は、はみだして危険な目に合わないようにという親心から。デモの群衆は自分の身は危険に晒さずに悪い奴を叩くという、匿名性の高い行為です。
いづれにしても「横並び」「匿名」「懲悪」という日本人の3大病理から抜け出さない限り、次のステップへは進めないのです。
さて、茂木先生からのお題ですが、私は人類が発展途上なのと同じように原子力利用もまた発展途上なのだと思います。人人がエネルギー消費型の文明を捨て去るのであればそれでも構いませんが、これ程便利な世の中、そうは成らないはずです。であればエネルギーをいかに創り出すかを本気で考えるべきです。また利用するエネルギーが何に由来しているのかをモニターできる仕組みや、利用者が選んで購入できるような仕組みがあれば、いがみ合う必要もなくなるんじゃないかと思います。
環境保全を考える家庭では高くても風力・太陽光由来の電気を契約し、そうでもない家庭ではリーズナブルな原子力由来の電気を購入するなど…。
未来予想図を描く想像力があるならば、需要と供給の適正なバランスを取りつつ新しい技術の発達を待っていても良いのではないかと思います。
蛇足ですが、私が小学生の頃、21世紀はどんな世界になっているんだろう?というお題で絵を描いた記憶があります。明るくて、カラフルで、ガラスチューブの中をタイヤの無い車がスイスイ走っていたり、宇宙までエレベーターが伸びていたりと、夢がいっぱいに溢れていました。
今は確か2012年です。夢にまで見た21世紀です。あと100年もしたらドラえもんだって誕生します。大の大人たちが右往左往していて、子供たちが夢を見られますか?
鉄腕アトムは原子力が動力だからけしからんという大人たちこそ糾弾されるべきだと…想像力の無さが人人を分断し孤立させるのだと…豊かさの指数や単位には複数の基準があるのだと、私は思います。
NO.162012-07-11 12:02:29 masami 0
すみません、間違えました。<(_ _)>
JOC➔JCOです。
1999年の東海村JCO臨界事故です。
私にとっては、とても印象的な事故でした。
JOC➔JCOです。
1999年の東海村JCO臨界事故です。
私にとっては、とても印象的な事故でした。
NO.152012-07-11 10:37:18 masami 0
私は、日本が脱原発の方へ向いてほしいと思っています。
前回書いたように、日本が地震の多い国、というのが理由の一つです。
放射能は、一度洩れたら、人間の力で回収することはできません。あとは半減期を待つだけです。その人体、環境への影響は、まだよくわかっていないと思います。
原発を推進することは、それでも必要だから、そのわからなさを受け入れましょう、ということだと思うのです。
私は、すべてのわからなさを拒絶するつもりはないけれど、原発のわからなさは、受け入れたくないと思います。
学生の頃、放射性物質を扱う実験をしました。被爆しないように細心の注意を払うことを求められました。だから、東海村JOC臨界事故の時、本当に驚きました。ウラン化合物溶液をバケツで入れていた???
なにかがおかしい、と。そこには、放射性物質を扱う時の二重の判断基準があるのでは?と思いました。学問として扱う時の基準と、商業ベースに載せる時の基準。
原子力発電に大学の実験のような細心さを求めることは不可能なのだと思います。
果たして、どちらの基準が妥当なのでしょうか?
明確な答えはあるのでしょうか?
放射性物質を扱う人間、関係する人間の価値を、どれだけのものに定めるかによって変わるのでしょうか?
また、今世界は、国境を越えて、ネットワークでつながれる時代になりました。このことで、国家という大きな枠組みの位置づけが、様々な別のグローバルな関係性のなかで変わっていくように感じます。人間が、その人間性のよい部分を引き出せる、あるいは損なわずにいられる、また、その組織に積極的に関われる、適切な大きさの基本的な単位があって、それは国よりも、もっと小さい単位であるように感じます。
世界が国境を越えてつながっていく一方で、その大きなつながりの中に埋没してしまわないように個々の人間をつなぐためには、国家より小さな単位が必要とされているように感じます。
あくまでも個人的な思いですが、これからは、大規模施設よりも、地域で使いこなせる小規模施設が充実し、地域で完結していく生活が基本になって、それぞれが、国という枠を超えてつながっていく時代になってほしいな、と思います。その方がより、人間の生きている実感や、幸せに近いような気がします。
原子力発電は、この流れから外れていると思います。
と、また夢のようなことを書いてしまってすみませんが、ひとつくらい、こんな意見があってもいいかな?と思い書いてみました。
脱原発に向かうかどうかはっきりするのは、原子力発電所を新設するかどうかを選択するときに表れると思っています。
そこで、大きな決断がなされることを、意識していたいと思います。
そして、そのためには、再稼働反対の運動が、国民的規模で盛り上がるのも大事だと思います。私も何らかの形で参加していこうと思います。
最近「政府が信頼できない」という言葉をよく聞くので、考え込んでしまいました。信頼できる政府を作るのは、私たち国民じゃないかな?と反省をこめて思いました。
選挙で真剣に考えて投票することだけでなく、自分たちの意志をデモ行進という形で表現するのも、信頼する政府を作り上げていく一つの方法だと思います。
前回書いたように、日本が地震の多い国、というのが理由の一つです。
放射能は、一度洩れたら、人間の力で回収することはできません。あとは半減期を待つだけです。その人体、環境への影響は、まだよくわかっていないと思います。
原発を推進することは、それでも必要だから、そのわからなさを受け入れましょう、ということだと思うのです。
私は、すべてのわからなさを拒絶するつもりはないけれど、原発のわからなさは、受け入れたくないと思います。
学生の頃、放射性物質を扱う実験をしました。被爆しないように細心の注意を払うことを求められました。だから、東海村JOC臨界事故の時、本当に驚きました。ウラン化合物溶液をバケツで入れていた???
なにかがおかしい、と。そこには、放射性物質を扱う時の二重の判断基準があるのでは?と思いました。学問として扱う時の基準と、商業ベースに載せる時の基準。
原子力発電に大学の実験のような細心さを求めることは不可能なのだと思います。
果たして、どちらの基準が妥当なのでしょうか?
明確な答えはあるのでしょうか?
放射性物質を扱う人間、関係する人間の価値を、どれだけのものに定めるかによって変わるのでしょうか?
また、今世界は、国境を越えて、ネットワークでつながれる時代になりました。このことで、国家という大きな枠組みの位置づけが、様々な別のグローバルな関係性のなかで変わっていくように感じます。人間が、その人間性のよい部分を引き出せる、あるいは損なわずにいられる、また、その組織に積極的に関われる、適切な大きさの基本的な単位があって、それは国よりも、もっと小さい単位であるように感じます。
世界が国境を越えてつながっていく一方で、その大きなつながりの中に埋没してしまわないように個々の人間をつなぐためには、国家より小さな単位が必要とされているように感じます。
あくまでも個人的な思いですが、これからは、大規模施設よりも、地域で使いこなせる小規模施設が充実し、地域で完結していく生活が基本になって、それぞれが、国という枠を超えてつながっていく時代になってほしいな、と思います。その方がより、人間の生きている実感や、幸せに近いような気がします。
原子力発電は、この流れから外れていると思います。
と、また夢のようなことを書いてしまってすみませんが、ひとつくらい、こんな意見があってもいいかな?と思い書いてみました。
脱原発に向かうかどうかはっきりするのは、原子力発電所を新設するかどうかを選択するときに表れると思っています。
そこで、大きな決断がなされることを、意識していたいと思います。
そして、そのためには、再稼働反対の運動が、国民的規模で盛り上がるのも大事だと思います。私も何らかの形で参加していこうと思います。
最近「政府が信頼できない」という言葉をよく聞くので、考え込んでしまいました。信頼できる政府を作るのは、私たち国民じゃないかな?と反省をこめて思いました。
選挙で真剣に考えて投票することだけでなく、自分たちの意志をデモ行進という形で表現するのも、信頼する政府を作り上げていく一つの方法だと思います。
NO.142012-07-10 21:16:22 orcamie 0
こんばんは。山田スイッチさんのエネルギー政策へのビジョンがない。
そうですね。それだぁと思います。
内閣府のパブリックコメント早速してきました。
原発のコストですが 政府によると安いことになっていますが
研究開発費・立地対策費 年間4000億円
バックエンド費用(最終処理のためにかかる費用)いくらかかるのかだれも知りません。
などが現在の価格に含まれていません。
2006年より バックエンド費用として1世帯当たり275円上乗せされました。
それ以降毎年上乗せされているかはちょっと調べられませんでした。
それに加えて福島の安定化・放射能漏れの対応・補償がかかります。
もう一つ原発が事故を起こせば雪だるま式に費用は増えていきます。
(エコジャパンリポート 立命館大学 大島堅一教授)
実際の価格にこれらのことが含まれていなくて実は税金で別払いして
わかりにくくなっているということに
ズルしてる。。。よ。
それから東京都の猪瀬副知事が 原発依存率の高い県と低い県のコストを比較したら
ほとんど変わりがない。
これもモーニングバードに出演されたとき言ってました。
原発依存度が高い県ほど電気料金は 安くなるはずですよね。
それから肝心なことは ウランの量にも限りがあるということです。
ウラン埋蔵量はだいたい550万トン
ウランの年間消費量は7万トン
単純に計算して 78.57年で無くなる予定です。
(ウイきぺデイア参照)
これから新興国などが原発を使用するとしたら
年間使用量はもっと増えます。
そうしたら もっと早くウランは無くなってしまいます。
原子力に可能性はあるかもしれないけれど、ウランが無くなっちゃう。
化石燃料もいつかはなくなるとしたら
再生可能エネルギーを何としても実用化しないと
未来の文明は 電気がどうしても不足するのかなあと。
それからもうひとつ 将来脱原発するとしても
当面は原発を使える限り使おうという考えの人は
どのくらいの安全だと動かしていいと考えているのか私は知りたいです。
そうですね。それだぁと思います。
内閣府のパブリックコメント早速してきました。
原発のコストですが 政府によると安いことになっていますが
研究開発費・立地対策費 年間4000億円
バックエンド費用(最終処理のためにかかる費用)いくらかかるのかだれも知りません。
などが現在の価格に含まれていません。
2006年より バックエンド費用として1世帯当たり275円上乗せされました。
それ以降毎年上乗せされているかはちょっと調べられませんでした。
それに加えて福島の安定化・放射能漏れの対応・補償がかかります。
もう一つ原発が事故を起こせば雪だるま式に費用は増えていきます。
(エコジャパンリポート 立命館大学 大島堅一教授)
実際の価格にこれらのことが含まれていなくて実は税金で別払いして
わかりにくくなっているということに
ズルしてる。。。よ。
それから東京都の猪瀬副知事が 原発依存率の高い県と低い県のコストを比較したら
ほとんど変わりがない。
これもモーニングバードに出演されたとき言ってました。
原発依存度が高い県ほど電気料金は 安くなるはずですよね。
それから肝心なことは ウランの量にも限りがあるということです。
ウラン埋蔵量はだいたい550万トン
ウランの年間消費量は7万トン
単純に計算して 78.57年で無くなる予定です。
(ウイきぺデイア参照)
これから新興国などが原発を使用するとしたら
年間使用量はもっと増えます。
そうしたら もっと早くウランは無くなってしまいます。
原子力に可能性はあるかもしれないけれど、ウランが無くなっちゃう。
化石燃料もいつかはなくなるとしたら
再生可能エネルギーを何としても実用化しないと
未来の文明は 電気がどうしても不足するのかなあと。
それからもうひとつ 将来脱原発するとしても
当面は原発を使える限り使おうという考えの人は
どのくらいの安全だと動かしていいと考えているのか私は知りたいです。
NO.132012-07-10 17:29:44 chigusaotsuki 0
山田スイッチさん、ありがとうございます。
私も、4号機のプール内の、使用済み核燃料の再臨界や、
浜岡のプール内の、6500本超の、燃料棒の再臨界など、
核廃棄物の最終処理の方法がないことに、危機感を抱いています。
山田スイッチさんのブログ、拝見しました。
私のフェイスブックの、興味・関心リストに、入れさせていただきました。
ありがとうございました。
大月 千草
http://www.facebook.com/chigusa.otsuki
私も、4号機のプール内の、使用済み核燃料の再臨界や、
浜岡のプール内の、6500本超の、燃料棒の再臨界など、
核廃棄物の最終処理の方法がないことに、危機感を抱いています。
山田スイッチさんのブログ、拝見しました。
私のフェイスブックの、興味・関心リストに、入れさせていただきました。
ありがとうございました。
大月 千草
http://www.facebook.com/chigusa.otsuki
NO.122012-07-10 04:56:25 yamadaswitch 0
あ、すみません!
山田スイッチです。
廃炉のこと、福島第一原発だけでした!
福島第二はまちがいです。
ほんとうに私って、ぜんぜん正しくないですね。
うっかりさんですみません!
山田スイッチです。
廃炉のこと、福島第一原発だけでした!
福島第二はまちがいです。
ほんとうに私って、ぜんぜん正しくないですね。
うっかりさんですみません!
NO.112012-07-10 00:12:11 yamadaswitch 0
こんばんわ。山田スイッチです。
変な名前ですみません。
原子力の問題を考えるときは、いつも
「自分は絶対正しくない」と自分に言い聞かせながら、
物事を考えるようにしています。
どうしても、自分が正しいと思ってしまうと、
自分と違う意見を聞き取れなくなってしまうので
自分は絶対正しくない。ただ、自分はこう思う
という風に考えていけたらと思っています。
原子力については、できるだけ科学的に考えられたら……と、
超文系人間の私でも思うわけです。
今の国家に足りないのは、明確なビジョンだと思うんです。
たぶん、原子力についての知識の足りなさが、
ビジョンを無くしているのだと思います。
総理大臣がこれからのエネルギー政策について
どんなビジョンを持っているのか語ることもなく
ただ「早く原発動かさなきゃ」みたいな感じで
「ぬる~っ」と気づけば大飯原発が再稼働して
再稼働反対デモが起こるっていうのは
本当にあほらしいことだと思います。
「そこまでビジョンがないんかい」と。
今、ようやく廃炉のことまでをビジョンに含めたお話が出てきて、
ホッとしています。東京都の副知事の猪瀬直樹氏が
先日朝の情報番組「モーニングバード!」で語られました。
(福島第一、第二原発の)廃炉まで(作業に)40年かかる間に
原発技術をどう変えていくかが課題であると。
チェルノブイリ事故も競争がないところで発生したことから、
東電も旧電力体制のままではいけないと説明されました。
廃炉は今後、ビジネスになるのかもしれません。
日本のみならず、世界中の原発がいずれ廃炉になる日がくるので
その技術は日本が確立して、世界に打ち出していかねばならないと。
そんな世論も出てきています。
ちなみに、1999年にJCO臨界事故のあった東海村の原発廃炉作業は、
2020年に終了する予定だそうです。※参考はウィキペディアです。
(高レベル放射性廃棄物の最終処分は含みません)
21年間、そこで働く作業員に払い続けるお給料や大量のがれきのことを
思うと、どうにも原発はお得な発電には思えない気がします。
しかも廃炉作業の間は電気作って稼ぐことはできないんですから。
3・11の前だって日本の原発依存度はたったの3割だったのですから、
(3・11前の発電量の内訳は火力が6割、
原子力3割、自然エネルギー1割弱です)
その3割は本当に必要かどうかも考えなければならないと思っています。
ちなみに、うちの県には六ヶ所村再処理工場があるのですが、
2007年に稼働する予定が、2012年になった今でも
稼働していないんです。
反原発派ががんばったから?
いいえ、違います。
単なる技術不足と設計ミスで、
動かそうとしても水漏れ事故とかいろんなことが起こって
全然動かないんです。(こういうのは県内のニュースに流れます)
あんなでっかいもの建てて、漁師から仕事奪って、さらに
動かないなんて。
まるで埋め立て地にディズニーランド建てて永久に開園しないようなものです。
こんな風に、驚くほど原発は実験的に造られていて
ようやく今になって実験結果が現れてきているところなのだと
思います。
蒸気機関も登場した頃は、爆発や事故でたくさんの人が死んだと聞きます。
我々はその実験結果を粛々と受け止めて、
次の答えを見つけなければいけません。
な、長くなってすみません……。
オマケですが、内閣府の国家戦略室が募集している「2030年の原発依存度への
パブリックコメント」の〆切が今月末ですね。
原発依存度を0%か15%か20~25%に決める際の参考にするという
重要なものを、またぬる~っと短い〆切で出す辺りが、
今の内閣府の態度を表しているようにも思えます。
内閣府のパブリックコメントの応募フォームはこちら!
http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120702/20120702.pdf
山田スイッチ
www.yamadaswitch.com
変な名前ですみません。
原子力の問題を考えるときは、いつも
「自分は絶対正しくない」と自分に言い聞かせながら、
物事を考えるようにしています。
どうしても、自分が正しいと思ってしまうと、
自分と違う意見を聞き取れなくなってしまうので
自分は絶対正しくない。ただ、自分はこう思う
という風に考えていけたらと思っています。
原子力については、できるだけ科学的に考えられたら……と、
超文系人間の私でも思うわけです。
今の国家に足りないのは、明確なビジョンだと思うんです。
たぶん、原子力についての知識の足りなさが、
ビジョンを無くしているのだと思います。
総理大臣がこれからのエネルギー政策について
どんなビジョンを持っているのか語ることもなく
ただ「早く原発動かさなきゃ」みたいな感じで
「ぬる~っ」と気づけば大飯原発が再稼働して
再稼働反対デモが起こるっていうのは
本当にあほらしいことだと思います。
「そこまでビジョンがないんかい」と。
今、ようやく廃炉のことまでをビジョンに含めたお話が出てきて、
ホッとしています。東京都の副知事の猪瀬直樹氏が
先日朝の情報番組「モーニングバード!」で語られました。
(福島第一、第二原発の)廃炉まで(作業に)40年かかる間に
原発技術をどう変えていくかが課題であると。
チェルノブイリ事故も競争がないところで発生したことから、
東電も旧電力体制のままではいけないと説明されました。
廃炉は今後、ビジネスになるのかもしれません。
日本のみならず、世界中の原発がいずれ廃炉になる日がくるので
その技術は日本が確立して、世界に打ち出していかねばならないと。
そんな世論も出てきています。
ちなみに、1999年にJCO臨界事故のあった東海村の原発廃炉作業は、
2020年に終了する予定だそうです。※参考はウィキペディアです。
(高レベル放射性廃棄物の最終処分は含みません)
21年間、そこで働く作業員に払い続けるお給料や大量のがれきのことを
思うと、どうにも原発はお得な発電には思えない気がします。
しかも廃炉作業の間は電気作って稼ぐことはできないんですから。
3・11の前だって日本の原発依存度はたったの3割だったのですから、
(3・11前の発電量の内訳は火力が6割、
原子力3割、自然エネルギー1割弱です)
その3割は本当に必要かどうかも考えなければならないと思っています。
ちなみに、うちの県には六ヶ所村再処理工場があるのですが、
2007年に稼働する予定が、2012年になった今でも
稼働していないんです。
反原発派ががんばったから?
いいえ、違います。
単なる技術不足と設計ミスで、
動かそうとしても水漏れ事故とかいろんなことが起こって
全然動かないんです。(こういうのは県内のニュースに流れます)
あんなでっかいもの建てて、漁師から仕事奪って、さらに
動かないなんて。
まるで埋め立て地にディズニーランド建てて永久に開園しないようなものです。
こんな風に、驚くほど原発は実験的に造られていて
ようやく今になって実験結果が現れてきているところなのだと
思います。
蒸気機関も登場した頃は、爆発や事故でたくさんの人が死んだと聞きます。
我々はその実験結果を粛々と受け止めて、
次の答えを見つけなければいけません。
な、長くなってすみません……。
オマケですが、内閣府の国家戦略室が募集している「2030年の原発依存度への
パブリックコメント」の〆切が今月末ですね。
原発依存度を0%か15%か20~25%に決める際の参考にするという
重要なものを、またぬる~っと短い〆切で出す辺りが、
今の内閣府の態度を表しているようにも思えます。
内閣府のパブリックコメントの応募フォームはこちら!
http://www.npu.go.jp/policy/policy09/pdf/20120702/20120702.pdf
山田スイッチ
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NO.102012-07-08 15:24:49 thnkks0304 0
今こそ冷静に今回の福島第一原発事故について考えるべきであり、原発推進と脱原発との二極化で原発は危険なのかそうでないのかという議論をするべきではないと思います。
まず、今回の福島第一原発事故の原因は、原子力発電の電源を防御壁を作らずに、海岸近くに設置したために津波で使えなくなり、しかも予備の電源を整備していなかったという経営管理上の問題です。海岸から遠くて山の上の方に設置していたり、防御壁を作っておけば問題は起こらなかったのです。したがって、原子炉の中で科学的に説明できない化学反応が起こって、問題が発生したわけではないのです。そのため、今回の福島第一原発事故から原発は恐ろしいとか、放射能は恐ろしいとか、原発を無くせとかいうような議論が生まれるのは私にとっては、よくわからない現象であります。
次に、脱原発を議論をするのであれば、安全性だけでなく、総合的に議論を進めていく必要があります。CO2の問題や、人口の問題、1人当たり使用するエネルギー量、効率性、エネルギーを生み出すのに必要なコストの問題などです。このなかには、もちろん安全性も含まれますが、脱原発のデモに参加している人々の多くは、安全性のみを盾にして訴えているように思えるのです。
世界の人口は約70億人です。地球上に日本人1億3000万人だけが住んでいるわけではありません。70億人が生活を営める分のエネルギーを生み出す必要があるのです。また1人1人が使用するエネルギー量も考える必要があります。生活する上で必要な電気の他に、電車を利用したり、着ている服や使用する電化製品を作る際にも電気を必要とします。脱原発の人々は電気がない時代の昔の生活に戻ればよいなどと言いますが論外です。
そして、コストの問題です。先進国に住んでいる日本人にとってコストを考える人が少ないように感じます。化石燃料の使用が増加したため、日本は5兆円を費やしました。代替エネルギーや再生可能エネルギーを生み出すのに莫大なコストがかかることを脱原発派は無視します。また世界の人口70億人を満たすためのエネルギーを生み出すためには、できるだけ安価であるべきであり、その辺りのことも考慮していく必要があります。
したがって、これからのエネルギー政策を考えていく上で、現在の最先端である原子力発電のその先を考えていく必要があります。再生可能エネルギーも考えていく必要がありますが、これから増々成長していく新興国やアフリカなどの貧国の未来を考えると、再生可能エネルギーの可能性は低いと思われます。科学の追求によって原子力発電のその先を創造していくためにも、現在の原子力発電を廃止していくことは人類の未来にとって良い選択ではないと思います。
竹内健太
twitter:@kentatakeuchi
まず、今回の福島第一原発事故の原因は、原子力発電の電源を防御壁を作らずに、海岸近くに設置したために津波で使えなくなり、しかも予備の電源を整備していなかったという経営管理上の問題です。海岸から遠くて山の上の方に設置していたり、防御壁を作っておけば問題は起こらなかったのです。したがって、原子炉の中で科学的に説明できない化学反応が起こって、問題が発生したわけではないのです。そのため、今回の福島第一原発事故から原発は恐ろしいとか、放射能は恐ろしいとか、原発を無くせとかいうような議論が生まれるのは私にとっては、よくわからない現象であります。
次に、脱原発を議論をするのであれば、安全性だけでなく、総合的に議論を進めていく必要があります。CO2の問題や、人口の問題、1人当たり使用するエネルギー量、効率性、エネルギーを生み出すのに必要なコストの問題などです。このなかには、もちろん安全性も含まれますが、脱原発のデモに参加している人々の多くは、安全性のみを盾にして訴えているように思えるのです。
世界の人口は約70億人です。地球上に日本人1億3000万人だけが住んでいるわけではありません。70億人が生活を営める分のエネルギーを生み出す必要があるのです。また1人1人が使用するエネルギー量も考える必要があります。生活する上で必要な電気の他に、電車を利用したり、着ている服や使用する電化製品を作る際にも電気を必要とします。脱原発の人々は電気がない時代の昔の生活に戻ればよいなどと言いますが論外です。
そして、コストの問題です。先進国に住んでいる日本人にとってコストを考える人が少ないように感じます。化石燃料の使用が増加したため、日本は5兆円を費やしました。代替エネルギーや再生可能エネルギーを生み出すのに莫大なコストがかかることを脱原発派は無視します。また世界の人口70億人を満たすためのエネルギーを生み出すためには、できるだけ安価であるべきであり、その辺りのことも考慮していく必要があります。
したがって、これからのエネルギー政策を考えていく上で、現在の最先端である原子力発電のその先を考えていく必要があります。再生可能エネルギーも考えていく必要がありますが、これから増々成長していく新興国やアフリカなどの貧国の未来を考えると、再生可能エネルギーの可能性は低いと思われます。科学の追求によって原子力発電のその先を創造していくためにも、現在の原子力発電を廃止していくことは人類の未来にとって良い選択ではないと思います。
竹内健太
twitter:@kentatakeuchi
NO.92012-07-07 21:43:17 poporon 0
原発は恐ろしいものです。
今回の事で「人間は自分たちでコントロールできないものを生み造り出してしまった」と思いました。
これは心底、恐ろしいことです。
でも、生み出すことが出来たのだから、今は出来なくてもいつかはコントロールできるようになるのではないでしょうか。
この世に「無用」なものは生まれて来ないと思うのです。
だから原子力は「要らない」と決めつけてしまうよりも
人間が原子力をコントロールできるようになるために何が必要なのか、何が足りないのか、
オープンにしてお互い一緒に歩んでいけないものでしょうか。
今回の事で「人間は自分たちでコントロールできないものを生み造り出してしまった」と思いました。
これは心底、恐ろしいことです。
でも、生み出すことが出来たのだから、今は出来なくてもいつかはコントロールできるようになるのではないでしょうか。
この世に「無用」なものは生まれて来ないと思うのです。
だから原子力は「要らない」と決めつけてしまうよりも
人間が原子力をコントロールできるようになるために何が必要なのか、何が足りないのか、
オープンにしてお互い一緒に歩んでいけないものでしょうか。
NO.82012-07-07 18:28:53 orcamie 0
私は放射能を怖くはないです。
もしも私が福島の原発で作業する力があったら私はでかけていくでしょう。
それによって私が朽ちようとも日本の未来のためになるなら
喜んででかけたい。
私にとっての日本の未来は 私の子どもの未来です。
その未来から放射能汚染を 一掃できるなら私は喜んで でかけていくでしょう。
こういう私の気持ちは 感情的といえるでしょう。
だからといって ヒステリックにこのことを叫びたい訳ではない。
残念ながら 現場で働く能力がない。
原子力発電所では 許容範囲内の放射線量被曝をして作業する。
許容範囲を超えたらそこで働くことはできません。
脱原発でデモに参加している人のなかには感情的に熱い思いをむき出しの人もいる。
でも冷静に考えて反対と言う人たちもたくさんいます。
私は5月に一度札幌でデモに参加しましたが、打楽器のリズミにのって
再稼働反対っていいながら、飼い犬が4、5匹、
ベビーカーの赤ちゃんたちがいたり
デモは楽しかった。
私は茂木さんと同じ位の年齢ですが
私より年配の方が何人も静かに参加されていました。
日本では 会社ぐるみで選挙を応援する等
経済的都合に合わせて民主主義を運営しようという場合が今でも多い。
既成の大きなグループを離れて個人として意見を言うことができるようになってきた。
日本の民主主義が一歩前進しようとしている。
たいへんな大地震と原発事故という大惨事に見舞われたけれど
日本には まだ日本を良い国にしようと思う人がたくさんいる。
とデモを見て実感できます。
元東芝原子格納器設計士の後藤政志さんが
制御棒を燃料棒の間に入れて核反応を止める原子力の安全装置は
地震国である日本では100%安全装置として機能しないと
説明されていました。(youtubeにあります。)
四国電力の元技術者の松野元氏が「原子力防災」と言う本を書かれている。
その松野氏が福島の事故対応は不備が多いと指摘しています。
しかもこの本は震災前に書かれた本です。
さらに事故調査委員会の報告書では人災の面が大きいとあります。
が、報告書を出る前に再稼働をしてしまう等
今の原発を運転する政治のシステムも電力会社のシステムも
文明のシステムとしてはきわめて不良品です。
それに対して多くの人が 『No』と言っている。
原発を稼働せずに日本の政局を運営していく自信が無いなら
現在の政府は 即刻退場して
原発無しでも大丈夫だと言う人たちに道を開けてください。
と要求したい。
茂木さんの 原子力の可能性を全て否定したくないと言うお考えを
私は理解できます。私もその可能性に100%道を閉ざしたくない。
しかし、他方 再生可能エネルギーにもかなりの可能性があるということも
否定すべきではない。
原子力を推進するあまり 再生可能エネルギーはどちらかとういうと
その発展を阻害されて来ています。
両方の可能性を天秤にかけたら 安全なものを優先して
人間に害をなすもの、その害を無くす技術が未開発な方は
さらに研究を重ねてから再び実用化を検討すべきだと思います。
もしも私が福島の原発で作業する力があったら私はでかけていくでしょう。
それによって私が朽ちようとも日本の未来のためになるなら
喜んででかけたい。
私にとっての日本の未来は 私の子どもの未来です。
その未来から放射能汚染を 一掃できるなら私は喜んで でかけていくでしょう。
こういう私の気持ちは 感情的といえるでしょう。
だからといって ヒステリックにこのことを叫びたい訳ではない。
残念ながら 現場で働く能力がない。
原子力発電所では 許容範囲内の放射線量被曝をして作業する。
許容範囲を超えたらそこで働くことはできません。
脱原発でデモに参加している人のなかには感情的に熱い思いをむき出しの人もいる。
でも冷静に考えて反対と言う人たちもたくさんいます。
私は5月に一度札幌でデモに参加しましたが、打楽器のリズミにのって
再稼働反対っていいながら、飼い犬が4、5匹、
ベビーカーの赤ちゃんたちがいたり
デモは楽しかった。
私は茂木さんと同じ位の年齢ですが
私より年配の方が何人も静かに参加されていました。
日本では 会社ぐるみで選挙を応援する等
経済的都合に合わせて民主主義を運営しようという場合が今でも多い。
既成の大きなグループを離れて個人として意見を言うことができるようになってきた。
日本の民主主義が一歩前進しようとしている。
たいへんな大地震と原発事故という大惨事に見舞われたけれど
日本には まだ日本を良い国にしようと思う人がたくさんいる。
とデモを見て実感できます。
元東芝原子格納器設計士の後藤政志さんが
制御棒を燃料棒の間に入れて核反応を止める原子力の安全装置は
地震国である日本では100%安全装置として機能しないと
説明されていました。(youtubeにあります。)
四国電力の元技術者の松野元氏が「原子力防災」と言う本を書かれている。
その松野氏が福島の事故対応は不備が多いと指摘しています。
しかもこの本は震災前に書かれた本です。
さらに事故調査委員会の報告書では人災の面が大きいとあります。
が、報告書を出る前に再稼働をしてしまう等
今の原発を運転する政治のシステムも電力会社のシステムも
文明のシステムとしてはきわめて不良品です。
それに対して多くの人が 『No』と言っている。
原発を稼働せずに日本の政局を運営していく自信が無いなら
現在の政府は 即刻退場して
原発無しでも大丈夫だと言う人たちに道を開けてください。
と要求したい。
茂木さんの 原子力の可能性を全て否定したくないと言うお考えを
私は理解できます。私もその可能性に100%道を閉ざしたくない。
しかし、他方 再生可能エネルギーにもかなりの可能性があるということも
否定すべきではない。
原子力を推進するあまり 再生可能エネルギーはどちらかとういうと
その発展を阻害されて来ています。
両方の可能性を天秤にかけたら 安全なものを優先して
人間に害をなすもの、その害を無くす技術が未開発な方は
さらに研究を重ねてから再び実用化を検討すべきだと思います。
NO.72012-07-06 15:45:11 terurun 0
3.11のことがなかったら、
私は、原発が怖いなんて、思うことが一生涯なかったかも
知れないと思いました。
多くの人も原発が怖いと思っていないから、
たくさん、作ったのではないでしょうか。
しかし、原発の恐ろしさを、3.11に知ってしまってから
口を揃えて、脱原発と言うようになった。。。
どうして、地震が起きなくては、多くの人達が犠牲になるほど、こんなに危険なことを
私達は、理解していなかったのでしょうか。。。
「私は、生まれてから、ずっと、原発は、本当は怖いのに、
怖いという認識なく、育っていた」ということが、
そのこと自体が、問題だったのだと、
そのことが一番、恐怖だと
今は、思います。。。
他にもこのように、「本当は怖いことなのに、自分が怖いことだと
認識していないことがもっとあるのではないか。。。」と
思うようになってしまいました。。。
原発は、認識の甘さの表れかと思います。。。
真実ではない「安心」が、自然の猛威によって、
一瞬で「恐怖」です。。。
では、怖いので、人に影響が出るので「脱原発」・・・
認識の甘さから何人も死んでいるのに。。。
生きている人のために「脱原発」。。。
この発想がとても嫌いなんです。。。
これから、もっと考えていかなくていけないのは、
利益よりもそれが本当に安心出来るものなのか?
生き物に影響が出ないのか?
この地球上に存在しているものに対して、少しでも
思いやる精神を持つことではないでしょうか。
だから、脱原発なら、納得がいくのですが。。。
自分が怖いからって言う考えには、賛同出来ないのです。
怖いものは、原発だけでは、ないと思いますから。
考え方、気持ちを変えない限り、また、恐怖は襲って
くるように思います。。。
私は、原発が怖いなんて、思うことが一生涯なかったかも
知れないと思いました。
多くの人も原発が怖いと思っていないから、
たくさん、作ったのではないでしょうか。
しかし、原発の恐ろしさを、3.11に知ってしまってから
口を揃えて、脱原発と言うようになった。。。
どうして、地震が起きなくては、多くの人達が犠牲になるほど、こんなに危険なことを
私達は、理解していなかったのでしょうか。。。
「私は、生まれてから、ずっと、原発は、本当は怖いのに、
怖いという認識なく、育っていた」ということが、
そのこと自体が、問題だったのだと、
そのことが一番、恐怖だと
今は、思います。。。
他にもこのように、「本当は怖いことなのに、自分が怖いことだと
認識していないことがもっとあるのではないか。。。」と
思うようになってしまいました。。。
原発は、認識の甘さの表れかと思います。。。
真実ではない「安心」が、自然の猛威によって、
一瞬で「恐怖」です。。。
では、怖いので、人に影響が出るので「脱原発」・・・
認識の甘さから何人も死んでいるのに。。。
生きている人のために「脱原発」。。。
この発想がとても嫌いなんです。。。
これから、もっと考えていかなくていけないのは、
利益よりもそれが本当に安心出来るものなのか?
生き物に影響が出ないのか?
この地球上に存在しているものに対して、少しでも
思いやる精神を持つことではないでしょうか。
だから、脱原発なら、納得がいくのですが。。。
自分が怖いからって言う考えには、賛同出来ないのです。
怖いものは、原発だけでは、ないと思いますから。
考え方、気持ちを変えない限り、また、恐怖は襲って
くるように思います。。。
NO.62012-07-06 13:32:38 ryosuke85 0
正直な事を言うと、未だに分かりません。態度をはっきりとさせる事も出来ません。
放射性物質の恐怖感と言うのは確かに理解できますが、目に見えないものを怖がっている事がイマイチ皮膚感覚として理解できません。
では、当事者の立場に立ってみるように思考を働かせたとしても、絶対的な“差”は生じるわけで、本当にその立場に立たないとわからない。
けど、確かに、放射性物質に自身の体が蝕まれた、自宅の近くに暴走した原発があって帰れない、地震が頻繁に起こる事が予想されていながらも原発が経っている事の不安感…
それらを想像すると、僕なんかでもすごく嫌な気持ちになります。
自分が生まれてくる前に決まっていた事だとしたら、その土地にいる大人たちを恨んだかもしれません。
しかし、それを享受せざるを得なかった土地だから、というのも理解できるようになってきているのも事実。
僕のいる新潟には、柏崎刈羽原発があります。
僕の住んでいる街からは遠いのですが、その原発で生み出されているものが地元に還元されていない事を考えると、理不尽に感じる事もありますが、逆を言えば、そうまでしなければならないところまで追いつめられた土地だったとも言えるかもしれません。
原発の再稼働でかなりの揺らぎがあった訳ですが、再稼働をする事の明確な理由が示されずに、再稼働を決められるあたりに、僕を含めて皆さんもそうだと勝手に思っているのですが、議論が“勝手に”進んでいる事に怒りを覚えます。
自分の知らないところで、自分の顔も知らない人が、自分の体に“もしかしたら”影響が出てくるかもしれない事柄を決めている。
ここに大きな不快感を得ています。
そもそも再稼働に関しても、一度止めたにもかかわらず、再び動かす事を誰が了承したのでしょう。
また、再稼働させるうえでは、様々な生じ得るリスクを踏まえたうえで、それよりも再稼働させる事の方が優位だと感じたから再稼働させる事を決断したと思うのですが、その思考的なプロセスが、ちっとも垣間見えないので、ただただ、不満です。
ましてや、もし、これから原発を止めて、廃炉にしていくにしても、その技術を何十年とかけて継承発展していかなければならない事まで考える必要があると思うのです。
ただ止めたから、それでいいのかと言えばそうでもないですし、その中には燃料棒があるわけで、それを処理するにも相応の技術を常に考えていかなければならないわけです。
どちらにしても、僕の生きていなかったところで決まった事を、僕の生きている時代の中で解決しなければならない以上、既にあるものを無くすにも、継続していくにも投げ出すわけにはいかない、という事を認識する事は皆さんが認識されていると思うのですが、グレーゾーンで居られる強さを身につける為に、意見を強く持つことと、一つの意見に固執する事が違う事を考える必要があると思います。
まとまってませんが、よろしくお願いします。
放射性物質の恐怖感と言うのは確かに理解できますが、目に見えないものを怖がっている事がイマイチ皮膚感覚として理解できません。
では、当事者の立場に立ってみるように思考を働かせたとしても、絶対的な“差”は生じるわけで、本当にその立場に立たないとわからない。
けど、確かに、放射性物質に自身の体が蝕まれた、自宅の近くに暴走した原発があって帰れない、地震が頻繁に起こる事が予想されていながらも原発が経っている事の不安感…
それらを想像すると、僕なんかでもすごく嫌な気持ちになります。
自分が生まれてくる前に決まっていた事だとしたら、その土地にいる大人たちを恨んだかもしれません。
しかし、それを享受せざるを得なかった土地だから、というのも理解できるようになってきているのも事実。
僕のいる新潟には、柏崎刈羽原発があります。
僕の住んでいる街からは遠いのですが、その原発で生み出されているものが地元に還元されていない事を考えると、理不尽に感じる事もありますが、逆を言えば、そうまでしなければならないところまで追いつめられた土地だったとも言えるかもしれません。
原発の再稼働でかなりの揺らぎがあった訳ですが、再稼働をする事の明確な理由が示されずに、再稼働を決められるあたりに、僕を含めて皆さんもそうだと勝手に思っているのですが、議論が“勝手に”進んでいる事に怒りを覚えます。
自分の知らないところで、自分の顔も知らない人が、自分の体に“もしかしたら”影響が出てくるかもしれない事柄を決めている。
ここに大きな不快感を得ています。
そもそも再稼働に関しても、一度止めたにもかかわらず、再び動かす事を誰が了承したのでしょう。
また、再稼働させるうえでは、様々な生じ得るリスクを踏まえたうえで、それよりも再稼働させる事の方が優位だと感じたから再稼働させる事を決断したと思うのですが、その思考的なプロセスが、ちっとも垣間見えないので、ただただ、不満です。
ましてや、もし、これから原発を止めて、廃炉にしていくにしても、その技術を何十年とかけて継承発展していかなければならない事まで考える必要があると思うのです。
ただ止めたから、それでいいのかと言えばそうでもないですし、その中には燃料棒があるわけで、それを処理するにも相応の技術を常に考えていかなければならないわけです。
どちらにしても、僕の生きていなかったところで決まった事を、僕の生きている時代の中で解決しなければならない以上、既にあるものを無くすにも、継続していくにも投げ出すわけにはいかない、という事を認識する事は皆さんが認識されていると思うのですが、グレーゾーンで居られる強さを身につける為に、意見を強く持つことと、一つの意見に固執する事が違う事を考える必要があると思います。
まとまってませんが、よろしくお願いします。
NO.52012-07-05 17:37:56 Tomoikukai 0
今、日本人は話し合いによって物事を解決する方法を知りません。あまりにも本音と建前が乖離して、聴衆の前では、建前論ばかりが横行し、本音が出たときには、演壇から退場ということが、恒常化してしまいました。それに反して、本音は匿名でいいたい放題というのが現状だと思います。本来ならば、本音を隠して、建前をいうことは、大嘘つきだということになるのでしょうが、本音を人前で発表できるほど人間性が育っていないのが今の大方の日本人だと思います。そこで、今度は建前だけで何が出来るかということなのですが、本音と違う建前は、誰も取り扱いが得意でなく、結局、官僚や、評論家、マスコミに丸投げという誠に自主性のない烏合の衆が、例えば原発賛成、反対の双方に現れてしまいます。たとえ、いろんな情報が公開されたとしても、一人一人がその情報を読み解き、議論を尽くして妥協点を見つけるといった、民主主義の理想は今の日本では、絵に描いた餅だといわざるを得ません。
それは、西洋民主主義を表面だけ移植したからだと切って捨てるのは簡単ですが、せっかくツイッターを通して、話し合う方法の端緒くらいは見えてきたところですから、この件を突き詰めることによって、日本文化の欠陥、虚弱性を洗い出し、新しい日本へ向かって歩き出すチャンスだととらえることも出来ると思います。
私は、将来に向かっては、ずっといわれてきた、今の偏差値依存養育から、個性尊重教育に本気(本気が何よりも大切)になって切り替えるのが、遠いようで、実はもっとも確実、しかも最短で結果が得られる方法だと思っています。当然、これは、社会全体が一丸となって取り組まなければ何の成果も期待できないので、一人一人が、自分と社会のあり方を見つめ直さなければならないということになるでしょう。社会の中での自分という位置が確認されたとき、匿名性は消え、本音と建前が違うという矛盾が解消されることになるでしょう。
しかし、勿論、ことはそう簡単に進む訳ではなく、これからは、我々自身に染み付いた、なじみ深い捨てがたい価値観、特に偏見に類するものたちと、これから徐々に向かい合っていかなくなることは覚悟しなければならないのだと思う。
纏めていうと、
偏差値依存教育によってもたらされた今の世間というエゴイストたちの大海を、新しい命を育てることによって浄化し、明日に向かう新しい価値観を創造することが、原発問題を始め、我々に突きつけられた日本の生存に関わる難問に対処する、おそらく唯一の道であろう。
それは、西洋民主主義を表面だけ移植したからだと切って捨てるのは簡単ですが、せっかくツイッターを通して、話し合う方法の端緒くらいは見えてきたところですから、この件を突き詰めることによって、日本文化の欠陥、虚弱性を洗い出し、新しい日本へ向かって歩き出すチャンスだととらえることも出来ると思います。
私は、将来に向かっては、ずっといわれてきた、今の偏差値依存養育から、個性尊重教育に本気(本気が何よりも大切)になって切り替えるのが、遠いようで、実はもっとも確実、しかも最短で結果が得られる方法だと思っています。当然、これは、社会全体が一丸となって取り組まなければ何の成果も期待できないので、一人一人が、自分と社会のあり方を見つめ直さなければならないということになるでしょう。社会の中での自分という位置が確認されたとき、匿名性は消え、本音と建前が違うという矛盾が解消されることになるでしょう。
しかし、勿論、ことはそう簡単に進む訳ではなく、これからは、我々自身に染み付いた、なじみ深い捨てがたい価値観、特に偏見に類するものたちと、これから徐々に向かい合っていかなくなることは覚悟しなければならないのだと思う。
纏めていうと、
偏差値依存教育によってもたらされた今の世間というエゴイストたちの大海を、新しい命を育てることによって浄化し、明日に向かう新しい価値観を創造することが、原発問題を始め、我々に突きつけられた日本の生存に関わる難問に対処する、おそらく唯一の道であろう。
NO.42012-07-04 19:37:01 chigusaotsuki 4
tsfujita さん、ありがとうございます。
>また、chigusaotsukiさんの言うように原発問題を科学として語るのであれば、必要な情報を公開した上で他者が検証できうるものである必要があります。
とのこと、私も同意します。
>ところが、今の日本の原発についてはどうでしょう。日本政府、管轄省庁及び電力会社が他者が判断できる情報を十分に公開していると言えるでしょうか。
日本政府は、管轄省庁は、電力会社は、どのように、情報を、公開しているのでしょうか?よかったら、教えてください。
また、テレビのニュースでは、見られないんでしょうか?
>事故後の政府の発表、SPEEDI情報への対応、避難指示、東電の会見、国会での事故調への情報提供、電力需給データ、そして最近の大飯原発再稼働の対応まで。どれも十分な情報公開が行われ、国民が判断できたとは到底思えません。
それらは、過去であれども、これから、改善されなければ、ならない過去であると、思っている時点で、すなわち、個人の中では、変化は、はじまっているのですね。
でも、個人の変化を捉えることは、難しいですね。
>未だに10万人以上もの人々が故郷に帰れずにいるというのに、事故を起こした電力会社には家宅捜査も入らず、誰一人逮捕もされず、活断層の存在を疑われる大飯原発は調査を拒否したまま、再稼動されてしまう現状なのですから。
特に、被災された、10万人以上の人々は、心の中で、どのような変化が、起きているのか、これからも、ずっと、見守ってあげなければ、ならないと、思います。
でも、どうか、すべての可能性を、あきらめないでください。
まだまだ、小さな変化かも、しれませんが、現状は、変化しています。
そして、一緒に、今を、未来を、生きましょうね。
>また、chigusaotsukiさんの言うように原発問題を科学として語るのであれば、必要な情報を公開した上で他者が検証できうるものである必要があります。
とのこと、私も同意します。
>ところが、今の日本の原発についてはどうでしょう。日本政府、管轄省庁及び電力会社が他者が判断できる情報を十分に公開していると言えるでしょうか。
日本政府は、管轄省庁は、電力会社は、どのように、情報を、公開しているのでしょうか?よかったら、教えてください。
また、テレビのニュースでは、見られないんでしょうか?
>事故後の政府の発表、SPEEDI情報への対応、避難指示、東電の会見、国会での事故調への情報提供、電力需給データ、そして最近の大飯原発再稼働の対応まで。どれも十分な情報公開が行われ、国民が判断できたとは到底思えません。
それらは、過去であれども、これから、改善されなければ、ならない過去であると、思っている時点で、すなわち、個人の中では、変化は、はじまっているのですね。
でも、個人の変化を捉えることは、難しいですね。
>未だに10万人以上もの人々が故郷に帰れずにいるというのに、事故を起こした電力会社には家宅捜査も入らず、誰一人逮捕もされず、活断層の存在を疑われる大飯原発は調査を拒否したまま、再稼動されてしまう現状なのですから。
特に、被災された、10万人以上の人々は、心の中で、どのような変化が、起きているのか、これからも、ずっと、見守ってあげなければ、ならないと、思います。
でも、どうか、すべての可能性を、あきらめないでください。
まだまだ、小さな変化かも、しれませんが、現状は、変化しています。
そして、一緒に、今を、未来を、生きましょうね。
NO.32012-07-04 15:45:27 tsfujita 0
trasqueさんの言うように「語る勇気を持つ」事は重要なことだと思います。ただし、そのためにはオープンな情報共有の上でという前提があるかと思います。また、chigusaotsukiさんの言うように原発問題を科学として語るのであれば、必要な情報を公開した上で他者が検証できうるものである必要があります。ところが、今の日本の原発についてはどうでしょう。日本政府、管轄省庁及び電力会社が他者が判断できる情報を十分に公開していると言えるでしょうか。事故後の政府の発表、SPEEDI情報への対応、避難指示、東電の会見、国会での事故調への情報提供、電力需給データ、そして最近の大飯原発再稼働の対応まで。どれも十分な情報公開が行われ、国民が判断できたとは到底思えません。
このような不十分な情報のもとで、一方では電力需要をカバーするために原発の再稼働は必要だとする「冷静な」人々があり、他方では脱原発デモを行う「感情的な」人々が対立しているのが現状ではないでしょうか。今考えなければならないのは、このような現状での対立や議論ではなく、必要な情報を開示する体制(政府、公官庁、電力会社、マスコミ)を如何に実現するかということであり、すでに起きてしまった福島原発事故の客観的な原因分析と法に基づいた公平な責任追及ではないでしょうか。未だに10万人以上もの人々が故郷に帰れずにいるというのに、事故を起こした電力会社には家宅捜査も入らず、誰一人逮捕もされず、活断層の存在を疑われる大飯原発は調査を拒否したまま、再稼動されてしまう現状なのですから。
このような不十分な情報のもとで、一方では電力需要をカバーするために原発の再稼働は必要だとする「冷静な」人々があり、他方では脱原発デモを行う「感情的な」人々が対立しているのが現状ではないでしょうか。今考えなければならないのは、このような現状での対立や議論ではなく、必要な情報を開示する体制(政府、公官庁、電力会社、マスコミ)を如何に実現するかということであり、すでに起きてしまった福島原発事故の客観的な原因分析と法に基づいた公平な責任追及ではないでしょうか。未だに10万人以上もの人々が故郷に帰れずにいるというのに、事故を起こした電力会社には家宅捜査も入らず、誰一人逮捕もされず、活断層の存在を疑われる大飯原発は調査を拒否したまま、再稼動されてしまう現状なのですから。
NO.22012-07-04 07:09:38 chigusaotsuki 0
ありがとうです、trasque さん。
私は、私の語りを、しますね。
放射能が、人体に、害を及ぼすのを、実際に、見たことがない人が、ほとんどです。
でも、広島の原爆図を、見れば、誰だって、放射能は、怖いと思うはずです。
人類は、放射能を、制御できるのでしょうか?
今はできないけれど、未来には、制御できるかもしれないという、ポジティブな、あるいは、ネガティブな可能性が、原発推進派と、原発反対派の違いです。
どちらも、可能性です。
それゆえに、現在の原発の問題を、どう認識するかによって、
ポジティブと、ネガティブに、分かれているのも、あると思います。
現在、というのは、今現在です。
今現在、放射能は、どうなっているのか、
どうやって、それを、知り得ることが、できるのか、
それを、今、日本で、ひとりひとりが、やろうとしていて、
でも、できないことなのではないかと、思います。
放射能の恐ろしさを、次の世代の人に、引き継ぐために、
今までしてきたことは、歴史になっています。
恐ろしさの歴史以上に、科学がしてきたことは、何だったのでしょうか?
今、科学が、問われていると、思います。
私は、私の語りを、しますね。
放射能が、人体に、害を及ぼすのを、実際に、見たことがない人が、ほとんどです。
でも、広島の原爆図を、見れば、誰だって、放射能は、怖いと思うはずです。
人類は、放射能を、制御できるのでしょうか?
今はできないけれど、未来には、制御できるかもしれないという、ポジティブな、あるいは、ネガティブな可能性が、原発推進派と、原発反対派の違いです。
どちらも、可能性です。
それゆえに、現在の原発の問題を、どう認識するかによって、
ポジティブと、ネガティブに、分かれているのも、あると思います。
現在、というのは、今現在です。
今現在、放射能は、どうなっているのか、
どうやって、それを、知り得ることが、できるのか、
それを、今、日本で、ひとりひとりが、やろうとしていて、
でも、できないことなのではないかと、思います。
放射能の恐ろしさを、次の世代の人に、引き継ぐために、
今までしてきたことは、歴史になっています。
恐ろしさの歴史以上に、科学がしてきたことは、何だったのでしょうか?
今、科学が、問われていると、思います。
NO.12012-07-03 23:57:12 trasque 0
私は「語ること」そしてまた「その勇気を持つ事」だと思います。
Twitterに流れる私のTLでは原発に関する意見や行動、またそれらへの反応がここ最近特に二分されているように感じています。そしてその二分を見ていて心苦しくなる事があります。当然、私のTLですからこれは私自身が呼び込んだ事であり、それを回避したければすぐにできます。ただ、私のTLは少なからず震災の前から続く人脈や私自身の性質を反映している部分がある為、なかなかそうもいきません。また、原発に関すること以外では、あまり気になるほど分割されているようにも感じないのです。
例えば最近、反原発デモの話題が目立ちます。感情いっぱいにしてデモへ参加した意義をめいっぱい語るかたのツイートがRTも含めて流れてきます。そしてその一方で、冷静に「電力に関する正しい知識を本当に見ているのか」といった意見も流れてきます。
私には私なりの意見主張があります。それに対し、TLが二分されていたり、思わぬ人と意見が違っていたりすることについては、それは仕方なく、当然のことだと捉えています。私が心苦しくなるのはここではありません。
誇張した形になりますが……
「こんな段階でデモに参加すらしない人など、冷徹な奴だ」だとか。
「あんなデモなど暇な奴しかやらない。自己満足。犯罪者だ」だとか。
一つ一つの話は、確かに「そう」なんだと思います。この場合、どちらの主張も間違いではありません。
ただ、私にはそのように揶揄する……口撃する意図がわからないのです。
原発の問題はとても多層で複雑な段階を踏まねばならないことは、誰だって理解しているはずです。
それはデモに参加している人達も、冷静な立場をとる人達も、同様なはずです。
冷静な立場の意見として、
「生活の本当に根本的な至る所に電気が活用されている。また<安定した電気>というものを供給しなければならない。これは<ちょっとみんなが我慢すれば>という問題ではない。火力発電だけでは~~という不確定な要素もある。ギリギリでの運用はかえって危ない。そういった事を知らずに、ただ反原発とは言い難い」
というようなものがあると思います。
反原発デモに参加される方だって、恐らくそこらへんは分かった上でのことだと私は考えています。
もしほんとに、直情的にデモへ突撃して叫んでいるだけの人や(私はそれを批判するつもりではありません)、知識や理解が足りていない人がいるのだとするならば、ひとつひとつ語っていくしかないと私は考えます。誰が?出来る人がです。
しかし、どうもそうはなっていないように私には見えるのです。
上のような意見や事実があったとした時に「こんなこともわからないような奴が」というような、そもそも攻撃的な批判。それを「反原発デモ参加者」という大枠に対してぶつけている。デモ参加者から冷静な意見へ、という逆の立場でもそうです。
結局、お互いがお互いの単なる人格攻撃をしているだけに私には見えてきてしまいます。
反対意見にしろ賛成意見にしろ、具体的な根拠などが提示できなければ中々言えるものではありません。
だとして、これほど複雑で多層的な問題を語るときに「十分に根拠を揃えられる人物」など存在するのでしょうか。私にはちょっと考えられません。
その為に専門家は存在していると思います。震災の前から、同じ問題へコツコツ取り組んでこられた方もいらっしゃると思います。何を今更、と思っているかもしれません。
しかしそれで、今大人数で紛糾している私たちがお互いに単なる人格攻撃を繰り返していて意味があるとは思えないのです。複雑で多層的な問題の、自分はどこに位置しているのか。自分は何を知っていて、どんな根拠で発言し行動しているのか。そして相手はどうなのか。
自分に足りない事、相手に足りない事。 …が必ずあるはずの問題ならば、私は各個人が話せる範囲で「誠実に語り合っていく」ことが本当に大事だと考えます。そこに「攻撃」は必要ありません。
必要なのは勇気です。
いま、まさに何かを語れば片方から人格攻撃が飛んでくる恐れがあります。一方から見れば「お前は正気か?」と言われます。名指しもせずに、うまく「全体対象」を取って、やりくめられる例を持ち出してきて<うまいこと揶揄>してくる輩もいます。それでも私達は語らねばならないと思います。本当に勇気が要ります。自分に何が足らず、相手が何を言わんとしているのか。相手に必要な知識だと思えば与え、自分の中で反発が芽生えたらなぜそうなったのか。せっかく話せる相手なら、語ることでお互いを洗練させていきたいのです。
「こいつら何にも見えてねえ」と、例を出して揶揄する事は簡単です。
そのように言えば、それは確かに正しいですから。
そこまでわかってるなら、ちゃんと伝えてやれよと、できるだろ!と悔しくなるのです。
語るためには、例え誰であろうと、本当に相手が誰であろうと見下す事をやめる必要があります。
目の前にいるのは一人の人間であるという根本を忘れない事だと思います。
Twitterに流れる私のTLでは原発に関する意見や行動、またそれらへの反応がここ最近特に二分されているように感じています。そしてその二分を見ていて心苦しくなる事があります。当然、私のTLですからこれは私自身が呼び込んだ事であり、それを回避したければすぐにできます。ただ、私のTLは少なからず震災の前から続く人脈や私自身の性質を反映している部分がある為、なかなかそうもいきません。また、原発に関すること以外では、あまり気になるほど分割されているようにも感じないのです。
例えば最近、反原発デモの話題が目立ちます。感情いっぱいにしてデモへ参加した意義をめいっぱい語るかたのツイートがRTも含めて流れてきます。そしてその一方で、冷静に「電力に関する正しい知識を本当に見ているのか」といった意見も流れてきます。
私には私なりの意見主張があります。それに対し、TLが二分されていたり、思わぬ人と意見が違っていたりすることについては、それは仕方なく、当然のことだと捉えています。私が心苦しくなるのはここではありません。
誇張した形になりますが……
「こんな段階でデモに参加すらしない人など、冷徹な奴だ」だとか。
「あんなデモなど暇な奴しかやらない。自己満足。犯罪者だ」だとか。
一つ一つの話は、確かに「そう」なんだと思います。この場合、どちらの主張も間違いではありません。
ただ、私にはそのように揶揄する……口撃する意図がわからないのです。
原発の問題はとても多層で複雑な段階を踏まねばならないことは、誰だって理解しているはずです。
それはデモに参加している人達も、冷静な立場をとる人達も、同様なはずです。
冷静な立場の意見として、
「生活の本当に根本的な至る所に電気が活用されている。また<安定した電気>というものを供給しなければならない。これは<ちょっとみんなが我慢すれば>という問題ではない。火力発電だけでは~~という不確定な要素もある。ギリギリでの運用はかえって危ない。そういった事を知らずに、ただ反原発とは言い難い」
というようなものがあると思います。
反原発デモに参加される方だって、恐らくそこらへんは分かった上でのことだと私は考えています。
もしほんとに、直情的にデモへ突撃して叫んでいるだけの人や(私はそれを批判するつもりではありません)、知識や理解が足りていない人がいるのだとするならば、ひとつひとつ語っていくしかないと私は考えます。誰が?出来る人がです。
しかし、どうもそうはなっていないように私には見えるのです。
上のような意見や事実があったとした時に「こんなこともわからないような奴が」というような、そもそも攻撃的な批判。それを「反原発デモ参加者」という大枠に対してぶつけている。デモ参加者から冷静な意見へ、という逆の立場でもそうです。
結局、お互いがお互いの単なる人格攻撃をしているだけに私には見えてきてしまいます。
反対意見にしろ賛成意見にしろ、具体的な根拠などが提示できなければ中々言えるものではありません。
だとして、これほど複雑で多層的な問題を語るときに「十分に根拠を揃えられる人物」など存在するのでしょうか。私にはちょっと考えられません。
その為に専門家は存在していると思います。震災の前から、同じ問題へコツコツ取り組んでこられた方もいらっしゃると思います。何を今更、と思っているかもしれません。
しかしそれで、今大人数で紛糾している私たちがお互いに単なる人格攻撃を繰り返していて意味があるとは思えないのです。複雑で多層的な問題の、自分はどこに位置しているのか。自分は何を知っていて、どんな根拠で発言し行動しているのか。そして相手はどうなのか。
自分に足りない事、相手に足りない事。 …が必ずあるはずの問題ならば、私は各個人が話せる範囲で「誠実に語り合っていく」ことが本当に大事だと考えます。そこに「攻撃」は必要ありません。
必要なのは勇気です。
いま、まさに何かを語れば片方から人格攻撃が飛んでくる恐れがあります。一方から見れば「お前は正気か?」と言われます。名指しもせずに、うまく「全体対象」を取って、やりくめられる例を持ち出してきて<うまいこと揶揄>してくる輩もいます。それでも私達は語らねばならないと思います。本当に勇気が要ります。自分に何が足らず、相手が何を言わんとしているのか。相手に必要な知識だと思えば与え、自分の中で反発が芽生えたらなぜそうなったのか。せっかく話せる相手なら、語ることでお互いを洗練させていきたいのです。
「こいつら何にも見えてねえ」と、例を出して揶揄する事は簡単です。
そのように言えば、それは確かに正しいですから。
そこまでわかってるなら、ちゃんと伝えてやれよと、できるだろ!と悔しくなるのです。
語るためには、例え誰であろうと、本当に相手が誰であろうと見下す事をやめる必要があります。
目の前にいるのは一人の人間であるという根本を忘れない事だと思います。