「正義」とは何か?
「正義の味方」につなげて、次回のお題は「『正義』とは何か?」にしたいと思います。
去年から今年にかけて流れを振り返ると、今は、「正義」とは何か?という問いに対して、予定調和な答えがない時代だと僕は思うんです。劉暁波さんが受賞したノーベル平和賞に対して、中国政府はノーベル賞の権威を否定するような発言を繰り返し、最近では北京オリンピックのメインスタジアム「鳥の巣」の設計に関わった著名な芸術家の艾未未さんまで勾留してしまいました。
一方で、オバマ大統領が9.11の首謀者として名指ししていたビン・ラディンを国際法上疑問の残る方法で殺害した。またウィキリークスが政府の公電を公開して、「民主的」と言われていた国家にもいろいろとほの暗い機密があるということが分かってきた。日本でも、検察・裁判制度に対する不信が、今回収監されることになった堀江貴史さんのことも含め、人々のあいだで持たれてきています。
僕は今の時代は、ホッブスが『リヴァイアサン』の中で書いた「人々が人々に対して闘争し続ける」というリヴァイアサンの時代になっていると考えています。つまり社会契約が通用しないと言いますか、むき出しの実力がぶつかり合う時代になっている。このような時代にはたして「正義」はあるのか。
もしあったとしたらそれはどういう働きをするのか。また正義を押し付けることはいいのか。
こうした一連の出来事を含めて、正義について議論したい。
マイケル・サンデルはまさに「正義」について考えるすばらしい授業を行いました。そこで「答えがあるわけではなくて、正義に関して考えるプロセスが大事なんだ」と言いましたが、われわれもその正義に至るプロセスを味わえる議論ができればと思います。
皆さんの意見に触発されて、「1の正義」を改めて考えてみました。簡単に述べたいと思います。
「1の正義」を考える上で、大事な部分は「滅私」だと思います。
これは、西田幾多郎の思想です。
「我々が自己の私を棄てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。」(p452)
「我々が物を知り物を愛すというのは自力を棄てて他力の信心に入る謂いである。」(p455)
「われわれが自己を滅却して無私となれななるほど真実にまた深くものを愛することができる。」(p457)
引用先:講談社学術文庫 西田幾多郎 「善の研究」
相手をもっと良くしたい、世界をもっと良くしたいと思うこと、そしてそこから実際に行動することは素晴らしいことです。しかしそれが「正義」に値するかどうかは、自分の利益や権力や名誉などを放棄し、「無私」になれるかどうかだと思います。
No.32 orcamieさん
「個々人の能力の向上が、文明全体の質の向上へとつながり正義の実現へ通じると考えたいと思うのですが。」
No.35 trasqueさん
「今後力を付けていっていつか復興や解決の力の一部になりたいともがくような気持ちでいます。」
お二人の思いは素晴らしいと思います。私もそういう気持ちです。
私はそこに、「滅私」があれば「1の正義」に近づくと思います。
25歳の今の私には無理ですけど。(笑) 竹内 健太
>目的の為に他人の命を犠牲にする事を厭わない。これらの考えも、結論までには色々と厳格な相談、悩みを経た上での事ではないかと思います。
と書かれているのを読んで、やはり、trasque さんは、
相手を受け入れる、信じるということを、言葉だけでなく、心底、実践しておられるのだと思います。
私は、NO.18 と NO.39 を投稿しましたが、雑感や感想が中心となり、
自分の考えを分かりやすく述べることができませんでした。
なので、今できる範囲で、ではありますが、簡単に提示してみます。
最初に、NO.18 での、「正義も、イリュージョンなのでしょうか?」ですが、
私は、正義の100%がイリュージョンであるとは、思っていません。
イリュージョンという言葉を使ってしまうと、自分でも理解しきれなくなるので、
別の説明をします。
「サンタクロース」は、人間がいなければ、存在しなかったと思います。
でも、サンタクロースがいるという楽しい夢をみてほしい、と願う、大人から子供への愛は、
動物が子育てをする本能的な愛と、形は違えど、同じエネルギーだという気がするのです。
だから、人間がいない世界に、サンタクロースは存在しないけれど、愛は存在するように思います。
それと同じように、
正義の具体的な形は、人間がいなければ、存在しなかったけれど、
正義へ向かう、何らかのベクトルのようなものは、
たとえ人間がいなくても、この宇宙にあるのではないか?という気がします。
この場合の「宇宙」は、天文学や天体観測の対象としての宇宙というよりは、
人間の心身も含めた、すべてのもの、あるいは、哲学的な意味での、宇宙です。
NO.30 trasque さんの、隕石の件ですが、
私は、その例について応えようとするうち、ある考えを持ちました。
それは、サンデル教授の番組を視聴していなかったら、おそらく出てこなかった考えでもあります。
私は、愛と正義と公正を、区別してみました(言葉の認識の問題に過ぎませんが)。
(今までの私だったら、それら三つを、漠然と、同じようなもの、と思うだけでした。
それらを区別することが、意味のあることなのか、ただの独りよがりなのか、分からないですけど。)
命あるものが、生き続けようとすることは(生も死も含めて命を全うすることは)、命にとって、正義だと思います。
隕石が、惑星に衝突することは、完全に物理法則に従ったプロセスで、それは、公正だと思います。
その状況に直面して、地球と人類を守ろうと闘うことは、一つの、愛だと思うのです。
もし、その闘いが、非常にきびしく、勝ち目のなさそうなものだった場合、
衝突の日まで、普段どおり、自分の家族や大切な人と、時を過ごしていたい、と思う人がいても
それはその人なりの価値観で、その人の自由なのではないか?とも、思うのですが、
そういう人は”非地球人”でしょうか?
(私が、普段どおり過ごしたい、というわけではなく、私ならオロオロジタバタしてしまうと思いますが。)
「愛」が、自由意志をもってなされるように感じられるのに対して、
「公正」は、自由意志によらない、無条件に数値化できるもの、というイメージです。
その中間のどこかにあるのが、「正義」のような気がしています。
命が生きるとか、時間が未来から過去へ流れるとか、ものごとが進化するとか・・・。
正義は、必然ではないけれど、何故か当たり前のこととしてそこにあるもの。そんな気がします。
こんなふうに考えてみることが、現実の何かの役に立つとかではないと思うけれど、
私は、たまに、こういうヘンな事を考えると元気が出ます。
インドの方とのお付き合いはとても素敵ですね。そのような縁は中々できませんから羨ましくも思います。
実は私はある特定難病疾患を患っています。五年前、それによって大手術をし大学を中退。丁度実家も借金を押し付けられるような形になり、医療費も重なって、妹の進学を諦めて貰ったりと散々な目が重なりました。
現在は問題なく働けておりまして、実家も地道に幾つかの借金を終わらせ、未だ苦しいながらもひとつの笑い話として扱えるようになりました。
ご友人の「レベルの低い所に合わせたくはない」と言われる気持ちはなんとなく分かるような気がします。入院する時には既に大学を諦める旨を両親からされまして、この先の就職や、自分の将来がダメになったようで「ドロップアウト」したかのように感じました。
病気の通告そのものはたいしてショックではありませんでしたが、ベッドの上で一体自分はなんの為にこれまでを生きてきたのだろうと考えました。
その時に、地元地域の方々、友人、親族が何度もお見舞いに来てくれたり、書物を読んだりする中で幾つかの言葉を覚えました。
「夜明け前が最も闇が深い」だとか「やまない雨はないのだ」と言った、ある種使い古され、既に私も知る言葉でしたが、そういうものを引き出しながら励まして下さる方々の話を聞くにつれて「俺は大丈夫だ!」と思えるようになったのです。
特定難病疾患ですから、病の根本原因が不明で未だに闘病しながらの生活ですが、職場などで「あまり悩みがなさそう、気楽そうでいいね」とか「結構、給料貰ってるんでしょ?」だなんて言われると結構嬉しくなってしまいます。
実際は毎日の食事や薬などで悩みつつ、ギリギリの給料で嫌になる事もありますが、その心の底にある「俺は大丈夫だ!」という心の軸のようなもののお陰で、実際以上に元気に見てもらえてるのかな、と思うからです。
何と言いますか「心の持ち方」で、特定疾患だろうが、人が羨む元気さが持てるんだぞ!という自信になっています。
乙武さんのような方のお話を伺うと、よりそれが確信になるようにも思うのです。
これが「レベルの低いこと」かどうかはわかりません。高低深浅の問題ではないかもしれません。
ただ、こういった病から得られたものには違いないと感じています。もし、順風満帆に進学、就職していたら「俺は大丈夫だ!」という軸を得られないままだったのではないか、と逆に心配になったりするのです。
この経験から、私は先の書き込みで「この先何が起ころうと(何かが起こることは生きている限り自明なのだから)乗り越えられると思える心」が大事ではないかと、よりリアルだとした次第です。
仰る「個人が誇れる何か」とは、こういった自分との闘争で手に入れたそれぞれのものの中にあるのではないかと思います。その為には、今まさに足をつけているこの国土が必要ですし、お医者様、科学技術、言葉を残した偉人、伝える友人、励ます家族と、様々なものがどうしても総合されていきます。
waterlilyさんの疑問である「なぜ全体(共存)を取ろうとするのか」という一つの返答にはならないでしょうか。
教育や思想によるものもありますが、この世に生を受けた段階で、結局は自分が生きる上では色んなものが必要で、単体ではあり得ないことを経験から知っているからではないでしょうか。
私は愚かにも、この病になってしばらくしてようやくこう考えるようになりました。(医者は治してくれて当たり前、という風にそっけなく考えてもいました)意外に、気付きにくい事なのかもしれません。
とは言え、これを必要以上に「重く」捉える必要はないように思います。等身大のからだがありますから、できない時はできない、休む時は休む、そういう事も大事なはずです。
ニーチェはツァラトゥストラの中で「重さの霊を捨てよ」と叫びました。ツァラトゥストラは「権威的なキリスト教への警鐘」のように私は読みました。「幸せになるために宗教を持つ」のだから「人間の為の宗教」であるはずのものが、いつしか教条・権威が優先され信徒が「宗教のための人間」になってしまった状況。ここに「神は死んだ」と叫ぶツァラトゥストラの思いがあるように感じます。
目的の為に他人の命を犠牲にする事を厭わない。これらの考えも、結論までには色々と厳格な相談、悩みを経た上での事ではないかと思います。
これらの考えを持つ人達との対話はとても難しいものですが、これはある種、異なる宗教同士の対話とも言えると思います。
現代において、その対話が武力的なものしかないとは私は考えません。
しかし、その対話の実現の為には広範な学識と「相手側への理解・受容」をまず持たねばならないという意識は必要と思います。
ですから、とても時間がかかると思いますし、色んな犠牲は出て来てしまうのかなとも思います。
私は病を通して自分の正義がひとつ深められたかな?と感じています。こうやって、個人の具体的な悩みを語る事は必要なのかもしれません。
fruitsさんのように具体的な事を考えるのが正義、という面は外してはならないのだと思います。私はどうも考える事ばかりが先行して実践に結びつかず、なんだか観念ばかりこねくり回しがちですので、そこを反省する思いです。
「ひとりひとりの命を大切にしなくてはいけない」、と思うのは何故でしょう?
NO.25 fruits さんが 「建物を所有している人に地震保険加入を義務づけるべきだ」というアイデアを
浮かべられたように、「自己責任だけでなく皆で助け合おう」、と思われるのは何故でしょう?
何故?と問うまでもなく、現代の多くの日本人は、
そういうことが当たり前だ、と感じていると思います。
それは、自由・平等・平和、基本的人権、命の尊厳、ということを、
子供の頃から教わりながら育ち、実際にそのような社会に生きてこれたからだと思います。
そうではない人々、
例えば、目的のために自分や他人の命を犠牲にすることを厭わない人々が、
そのやり方は本当は間違っていると思っている、のかどうかさえ、私は知らずにいます。
それが彼らにとって、本心から正しいことであるのなら、
それは間違っている、と言葉で説得することは、私には到底できません。
NO.24 masami さんの、
>正義という言葉が、本当に、私たちが思い描く正しさを表現していると思っている限り、真の話し合いや、
共存へと通じる歩みは、閉ざされているのかもしれない、と思いました。
という文章は、
国や宗教や、コミュニティや個々人の、さまざまな文脈の違いを越えて通用する
普遍的な正義の文化を実感することができたら、
真の話し合いや、共存へと通じる歩みは、開かれるのかも知れない、
と仰っているように私には感じられます。
なので、NO.32 orcamie さんのように溝を感じるのではなく、むしろ、
trasque さんが書かれていることと、方向性としては同じものを感じています。
受ける教育や、生活する環境が違えば、個人の脳も違ってくるとしても、
どんな文化で育った人も、人類というレベルでは、同じ脳を持っているのだから、
個人の脳(心)で正義を語ることができるなら、
国や社会や個人が、これが正義だ、と思っていることが今はそれぞれ違っても、
何らかの、正義に関する意識を、共有できるようになるのではないか?
ひとつの正義があるのではないけれど、普遍的に通用する幾つかの正義なら、あるのではないか?
今でも、そう思ってしまいます。
NO.23 tomotomo さんの
>「何が正しいのか?」という視点を個々が持っている社会はきっと住みやすい気がします。
との言葉に共感しています。
サンデル教授のテレビでの講義を、ほぼ視聴していましたが、
そのことで、私の正義という言葉への感じ方は、大きく くつがえされました。
もし、番組を見ていなかったら、もっと簡単にしか、正義を考えていなかったと思います。
毎回、無理難題のような問い掛けをされ、正義について考えるとは、こんなことまで考えることなのかと
打ちのめされるようで、
NO.13 LAMPRIGERA さんの言葉で、「正義に対する嗅覚が鍛えられる」との素敵な表現がありましたけど、
私は、それどころか、わけが分からなくなるといったふうでしたよ。
・・・それなのに、正義とは何か、という広範なお題を出される茂木さんもちょっと意地悪じゃないかと思います。
この結果については是非があるとは思いますが、一連の流れの中に果たして“正義”はあったのでしょうか?
そもそも、正義が何なのか、僕はこの否決までの流れを見ていてわかりませんでした。
無論、今でも理解できておりません。
ただ、現在の首相である方の中の正義は“力”なのかな、と。
それは、権力を持たなければ何も出来ない、したいことが出来ない、つまり、自分の人生に満足できない、ということに思えます。
しかし、それはエゴでしか無く、エゴを通すためにはエゴであり続けるしか無いわけで、結果、内閣不信任案は否決されたものの、現在の首相は結果的に自らの正義を貫く事に、奇しくも成功しました。(そうは言い切れない形ですが…)
以上のことを踏まえると、力は数であり、それが正義だと言われれば正論だとさえ思えました。
そんな無機質な答えは導き出したくは無いのですが、今回の国会の流れを見たときに
誰が正義で、どう導くのか、という点が全く分かりませんで、そこに残ったのは結果だけでした。
個人の思想と正義の違い。
ここが明白にならないと正義を語れないのでしようか…
ただ、僕自身として、この日本で生まれ、育ち、学んできたひとりの日本人として、日本が大好きです。
自分の中ではそれが正義だと。
簡単な言葉で言えば、それが好き嫌いか。
自分の心の琴線に触れるものかどうか。
そういうことなんじゃないかな、と。
先日、サッカー日本代表の試合をスタジアムで観戦しました。
そこにいるのは、日本代表に誇りを感じ、期待をかける人達が集まっていました。
そこで歌われる国歌。
魂が揺さぶられることこの上ない時間でした。
そこに正義の本質があるような気がしたのですが、今はまだわかりません。
毎回毎回、まとまりがなくて塾長に起こられてしまいそうですが
自分自身の研鑽だと思い、まずは文章として発信することを選びました。
お読み苦しいとは思いますが、どうかご容赦下さい。
tarasque さんの投稿:「個人の能力上昇」が全体の底上げにつながり、それを推進しようとする思いが正義ではないかと・・・・私はむしろもっと「心」の方向に重視したいなという思いがあります。どうあっても希望を捨てないで行こうと底から思えるような心を手に入れること・・・
trasqueさんの「心」の強さも「個人の能力上昇」に含まれていると多くの人が理解しているといいなと思ったんです。
以前、ある友人に「『辛い闘病生活をしている人』が毎日ベットに寝ているだけのような生活をしていも、心から笑えるような強さを持ちたい」と話したところ
その友人は「私は低いレベルに合わせて考えるのは好きではない。」という答えが返って来て
考え方の違いを説明するのをあきらめたことがありました。
また、あるときインドの方が近所に住んでいてお近づきにうちへ招待して
食事をいっしょにしたことがあります。
お礼に彼らの家に呼ばれていきました。
日本へ留学生として来て大変質素な生活をしていらっしゃいました。
日本で買われたクッキーとインド風の濃いミルクテイーをいただき
最後に私たちの宝物を見てくださいと言って見せてくれたのが
1着の美しいサリーでした。
彼らの見せてくれたものは一見するとそんなに豊かなものではなかったのですが
形に見えない豊かな心を見せてもらったような気になり
同時に、日本人として私はそんな心忘れていた事を深く恥じました。
正義が自分たちの中にあるとしたら
日本人として誇れる何かを持っていなければいけないということをときどき思います。
それって何だろうって今もってわからないのですが。
つまり個人としても誇れる何かを内に秘めていたいですし。
きっとこれは trasqueさんのいう
「失わない心」のことだろうと思うのです。
それはきっと日本を愛する心。
日本人全員が日の丸に敬礼するようなことではなく
それぞれが大切に思うこと、誇れるものが違っても
形は違っても、自分の国を愛しく思うこころ。
そして、自分と自分の家族、周囲の人々、他国の人々、地球、それぞれに対して
敬意を払う心。
どれだけ強くその敬意、愛を維持できるか。
そして、その強さを自分だけではなくて
周囲にも伝えていかなければということも痛切に思います。
自分だけが強くなるだけではなく
意見が違ったとき
何か工夫して周囲に発信していかなければ
また同じ過ちを繰り返す。
少数派の意見でも恐れずに発信していく事の大切さ
どんなに視野を広く持てたとしても
そもそも見えなければ対立する主張の存在すらわからないと
結果的に視野は知らないうちに狭くなっている。
正義の範囲も知らないうちに狭くなっている。
毎回うまくまとめられないのですが
折角こんなにすばらしいステージがあるので
あえて、思った事をどんどん発信していこうと
自分にむち打って書き込んでます。
NO.26 masamiさん、コメントをいただいたことを大変嬉しく思います。masamiさんにコメントをいただいたおかげで、漠然とした考えが深まった気がします。
正義とは、と考えてうーんとうなって立ち止まるのではなく、判断を出して先に進みたいのです。問題提起で終わるのではなく、少しでいいから解決したい。矛盾は認める、ずるいかもしれない、でもバランスは考えたから決めさせてほしい。
先週末、青春を過ごした思い出の地、仙台に行ってまいりました。
知人に案内してもらって行った沿岸部は「これでも片付いたんだよ」との言葉はその通りなのでしょうが映像では伝わらない静けさをともなった無残な姿に胸がつぶれる思いでした。
中でも同じ場所なのに高台に立つ家はそのまま、低地に立つ家はコンクリの土台以外跡形もない、そのコントラストに目が釘付けになりました。もちろん高台の土地は高価、低地の土地は安価だったことでしょう、でもそれを自己責任と言って済ませられるレベルを超えていると思いました。正義がバランスなら、あまりにアンバランス。
突然「国民皆地震保険」という言葉が思い浮かびました。
日本は「国民皆医療保険」の国です。誰もが病気になる可能性があるからです。
日本に住む以上、誰もが自然災害を被る可能性があるのですから、地震保険は強制加入で良いではないですか。日本で建物を所有する全員に地震保険に加入させて、加入費で津波や地震の被害にあった建物に保険金を支払う、こんなことができないでしょうか?
皆さまと次元が異なっているかもしれませんが、自分にとって、正義を考えるとはこういうことを考えること、のようです。
正義とは中途半端なものではないと言われると、確かにそのように感じます。そうすると完全な正義とは何なのか、壁にぶつかる思いです。しっかりと見守っていく「0の正義」は、何もしないながらも「ただの孤独」とは明確な違いがあります。見守る者が確かに存在しているという点は注目すべきなのかなと考えます。
しかし、これは私が考えていた「人の可能性を最大限まで信じて」の次にある「それを語って伝播していく」という点を見ると「1ではない0.5のような正義」に入ってしまうのだろうかと思いました。果たして見守る事でしか正義は無いのだろうかと。
先の伝播を含め、教育や対話(「なにもしない」の反対だと思うので挙げました)が正義として不適当なのだろうか。明確に「答え」をもてないのに、他者へ語りかけることは無責任になるのではないか。一つの「語り」が、相手への「致命的な」変化となってしまうのではないか。
だからこそ「本人が自ら立ち上がる」事がもっとも純粋な正義となるという事なのでしょうか。
先までの書き込みで「個人の能力上昇」が全体の底上げにつながり、それを推進しようとする思いが正義ではないかという様に表現しました。
能力上昇というと、どうも現金なイメージがありますが、私はむしろもっと「心」の方向に重視したいなという思いがあります。どうあっても希望を捨てないで行こうと底から思えるような心を手に入れること、と言えばいいのでしょうか。
精神的に疲弊したり、時に病に陥る事があっても、明確に希望だけは持っていられる心。
人生がこの先「何も問題なく安穏として過ごせればよい」よりも……
私は「この先なにが起ころうと乗り越えていける心を手に入れた」という方がよりリアルで、実は幸せな事なのではないかなあと考えます。
そしてそれはやはり、現実の中で絶対に出てくる色んな壁に取り組み、悩んだり時につまづいたり、乗り越えたりして手に入れられるものだと思うのです。
だからこそ、人の中に飛び込むことが最重要課題の一つで、お互いがお互いに伝播していく事は「中途半端な正義ではない」と思いたくなってしまいます。
とても厳しい話ですが、震災で資産、家屋、仕事全てを流された大変な中で「それでも私の心は流される事はなかった!」と叫んだ方が居ると聞きます。私は被災した訳でもありませんし、議題の一つとして取り上げる事は薄情かもしれないとも思いますが、私はここに人間の最も強い部分、最も可能性のある部分を感じるのです。
反論のようになってしまいましたが、竹内さん・orcamieさんの書き込みを読んで、私自身、書き込みを続ける中で凝り固まってきてしまった部分があるなと反省することが出来ました。
日本という比較的恵まれた国と、貧困や戦争に苦しむ国との溝に大きな無力感を感じる事が私もあります。それでも私は、それぞれの場所に居る人達がそれぞれの場所で常に「能力向上」を追い求めていて良い物だと考えます。脱却できない悲惨な状況を尻目に、片方だけが発展してよいものかという負い目のような悩みも考える事があります。
しかし今後の長い時間の中で、そういった地域にあえて踏み込み「失わない心」を伝えていこうとする人々がいるのではないかと思います。そこに、培った科学や技術が盛り込まれ、実際に進んでいけるように動き出す人々がいるのではないかと思うのです。
そこで必要なのは「全てをやってしまう」のではなく、元々そういった地域に住む人々が自らの手で変えていこうと闘争を始める事だと思います。これが根本的な解決の一歩目ではないかと思います。
ここに「0の正義」があるのかもしれない、と勝手ながら考えてみました。
震災と原発の問題を目の当たりにし、自分の無力感をまず叩きつけられました。
私は現段階で27歳となりますが、今後力を付けていっていつか復興や解決の力の一部になりたいともがくような気持ちでいます。今はただ毎日の仕事をこなすことしか出来ませんが、少しでも何らかの力を付け続けていきたいという気持ちです。
多くの人が「どうしようもないよ」と思っているのかなと不安になったりします。それでも、せめて若い世代だけは(27が若い世代かはわかりませんが)そういった諦めない熱量を常に持っていて欲しいと私は思います。
その中ではジョージ・プールという人のプール代数を紹介していて、「または」「かつ」について説明しています。
『たとえば1+1は2となって、0と1を足すと1、1と0を足しても1、0と0を足したときだけ0。そこで、1以上を「真(ほんと)」として、0を「偽(うそ)」とみなします。そうすると、AとBの足し算は「AまたはB」という論理的な発言と同等になります。AもBも両方とも偽のときだけ偽(=0)になるからです。
ところが掛け算になると、1×0は0だし、0×1は0だし、0×0も0で、1×1だけが1なんですよ。そうすると、AとBの掛け算は「AかつB」という論理的な関係と同等であることがわかります。両方が1のときだけ1、つまり両方が真のときだけ真なんです。』
というのです。
それで言うと、「伝説の教師」の中で、松本人志演じる南波先生が発した台詞「中途半端な正義は悪である」は、プール代数で言うところ、どちらも当てはまります。
正義または悪であり、正義かつ悪であると。
二律背反とまでは言いませんが、正義と悪というのは、どっちが本当で嘘なのか、というのはナンセンスで、どちらも含んでいるのではないでしょうか?
上でも述べましたが、結局はその人間が生きてきた道の中で触れてきた正義が何なのか、悪が何なのか、を形にしたものが正義であり、悪であるのではないでしょうか。
つまり、僕が今抱いている正義はいつでも悪になりえるし、正義のままでも有り得るわけです。
そうなると、僕という存在は僕だけでは成り立たないんだな、と考えてしまいます。
正義は一人でかざしても仕方ないものなんですね。
だって自分ひとりなら全て正義になってしまいますから。
結果として、バルセロナが3-1で勝ちました。
ただ、結果として、という点が大切なのかな、と思います。
マンチェスターユナイテッドのサッカーが“間違っていた”訳ではないのです。
また、決勝に残った2チーム以外のチームの戦い方が“間違っていた”わけではないのです。
そもそもが競技の中に答えが無いのです。
結果を残した存在だけが答えだという意見もありますし、良くわかります。
しかし、一回ぽっきりで何がわかるのでしょうか?
それは我々人間の人生においてもそうで、“答え”は無いですよね。
一人ひとりに“答え”に近いものがあるものの、その答えは最終的に幕を閉じるまでわかりません。
現在のバルセロナは唯一無二のチームである。
最高のサッカーを見せている。
云々…
言われてますが、それだけではサッカーという競技自体、衰退してしまいます。
それ以外の存在があり、バルセロナが絶対的な存在で無い事がサッカーという競技を高めていく事に繋がっているのだと思います。
正義の味方も、敵役である“相手”がいるから、存在価値があり、より一層“強く”なるんだな、と。
つまり、相手になる存在同士がある一定の“形”を持っているから、それらをぶつけ合う事で、存在意義を確かめる事に“正義”があるように思うのです。
何だかうまくいえないのですが、根底にある、どうしたら自らの形、つまり“生きがい”になるのか、という「点」が“正義”なのかな、と。
世界の中でも最高のレベルでしのぎを削るサッカーを見ていて、感じた正義についての意見でした。
うまくまとめられずに申し訳ございません。
NO.24のmasami さんの
『正義という言葉が、本当に、私たちが思い描く正しさを表現していると思っている限り、真の話し合いや、共存へと通じる歩みは、閉ざされているのかもしれない』いうことばにどきりとしました。
私には 「No.30 trasqueさんの一人が何か能力を高めようとする事は常に「最大限の良い結果」に近づける可能性を持つと考えます。」と上記のmasamiさんの『共存へと通じる歩みは閉ざされているかもしれない』という考えとの違いは大変大きいのではないかと思っています。
trasqueさんの可能性への信頼と ひょっとしたら能力を高めることが最大限の良い結果へ近づかないと考えている人がいるとしたら その溝は大きいと思うのです。
私自身 個々人の能力の向上が、文明全体の質の向上へとつながり正義の実現へ通じると考えたいと思うのですが。
未だに内戦や飢餓に喘ぎ、片道1時間掛かって飲み水を調達する国と電子レンジでチンと5分で夕食ができてしまう国の格差は埋めがたいと絶望的に思うのです。ある国の文明の質的向上が本当にほかの貧しい国を幸せへと導くのか。文明の向上だけが正義ではないような気がしています。もちろん共存への道を探る質的向上を願うという点は多いに賛成したいのですが。上手く言えませんが、正義を実現する時に、質的向上の他に共存を願うなら自己犠牲のような部分も必要なのかもしれないと感じています。
参考までに、マイケル・サンデルの正義の講義は以下のWikipediaでかなり詳しく知ることができます。http://ja.wikipedia.org/wiki/
10数年間のスマップの中居正広とダウンタウンの松本人志が主演したドラマ「伝説の教師」の
中で、松本人志演じる南波先生が発した台詞です。
「正義」には0か1しかないと思います。0.2とか0.5といった、ちょっとの「正義」はない。
「0の正義」とは何なのか。それは、ただ相手をあたたかく見守ること。放置とか無視とかではなく、相手の自助力に期待して見守る。何もしない。子供の自由な成長を見守る親のように。
「1の正義」は何なのか。私は、それは無いと思います。「正義」には「0の正義」しかないと思います。というか、「1の正義」とは何なのかに対する答えは今の私にはありません。
以上、25歳である私が今持っている「正義」の答えです。
竹内 健太
へりくだり過ぎてしまいましたね。面白いと言って頂いて光栄です。素直に嬉しく思います。書き込む時はどうしても文字量が多くなってしまい投稿確定ボタンを押すまでにとても躊躇しています。今回は書き終えた後、一杯お酒を煽って勢いを付けてから送信致しました(笑
Web上の場だからこそできる事です。個人的にこの議論が一つの会議室で行われていたのならば、私は黙ったまま終えているのかもしれないな、などと考えたりします。一つの壁を破る事、これも成長の一つだと感じます。
yamatoさんの仰るように、毎度毎度が訓練・鍛錬ですね。
電車の中で考えていた事なのですが、先日「地球規模の正義」「宇宙規模の正義」等と書き込みをしました。広い宇宙では星が一瞬のうちにして爆発してしまう現象があると言います。その星の寿命を迎えるといった様な事です。星1個どころか、銀河の規模でそういうことがあるとも聞きます。
遠くの宇宙で起こるそれらの現象を私達はどう捉えているでしょうか。自然の神秘、驚異、とは感じるもののそれが宇宙なのだ、と受け入れるしかないようにも思えます。
マンガ的な考えですが、もし地球に一振りの大きな隕石が到着するとなった時、そしてそれが地球を破壊するに十分な威力があるとした時、私達はどう考え、行動するのでしょうか。
遠くの宇宙では様々な場所で当たり前のように起こる(とされている)この現象そのものに「善悪」はおそらく無いでしょう。私は何か強大な意思が地球を滅ぼそうとするような風には考えません。遠くの星が一つ壊れる事を考えてそこに「善悪」を考える事もまた、ないのではないかと思います。
地球に住む私達人間は恐らく、全力で抵抗し、解決策を模索するのだと思います。中には諦めてしまったり、何か強大な意思を信じてビルの上で祈っていたりするのかもしれません。(映画の見すぎでしょうか)
地球に隕石が当り、滅ぼうとしている。 遠くの星に隕石が当り、滅ぼうとしている。
ここに大きな違いはありません。あるのは私達が地球に住んでいるという事実です。
私は細かくは断定できませんが、この場合、全力で地球を守ろうと動く人たちが正義ではないかなと思います。その中では意見(や利害)の対立で混乱が生じてしまうかもしれません。しかし、ただ星が破壊されるのを受け入れてしまうよりは、より正義に近いものだと思います。
だから正義は、宇宙にあるという訳でもないのだなと思うのです。
あくまでも私達人間が生き抜いていく上で必死に貫こうとするものだと思います。
マイケル・サンデル教授の著書等はまだ一度も読んでいないのですが、列車と作業員の問題を耳にした事があります。星の事についても、列車の問題についても、ピタッとハマる答えはありません。列車のスイッチをどちらに作動させるかという選択肢しか無いという一人の作業員に全てが委ねられているのだと思いますが、その作業員がどれだけ「必死」だったのか。そういったことが正義なのかなあと思います。
物事の問題が「最大限に良い」とされる方向に行く為には、その「必死に行動する人」の能力が求められると思います。知識・技量・機転といったレベルが高いほど、取れる選択肢が拡がるからです。
太古の人間達では隕石をただ受け入れるしかなかったとして、現代の私達ならまだ何か対応出来そうな気がします。そうやって科学や英知が高まるからこそ取れる選択肢は「最大限の良い結果」を引き上げると思います。
yamatoさんの仰る「共存の限界を維持拡大」する事に、繋がるでしょうか。
だので、一人が何か能力を高めようとする事は常に「最大限の良い結果」に近づける可能性を持つと考えます。それが結果としてどのようなプロセスで作用するかは誰も証明できませんが。そう考えると、勉強や訓練一つとっても「楽しいもの」に思えるような気がします。
皆さんの投稿を興味深く読ませて頂いています。
同時に、会話では無く文字にする事の難しさを痛感しています。
今回のお題で3回目になりますが、読み直してみると、意見の投稿から
徐々に意見交換が行なわれるように成って来ています。シンプルな投稿
でも良いので、多くの人に投稿して頂きたいと願います。
他の意見を読み、興味を抱き質問や議論を行なう事が、この場の目的だと
思いますので。
その行為も、私が思う正義「共存に努める思考や行動」に繋がると
感じています。世の中の総てを容認し包容する事が「共存」の理想では
ありますが、不可能な事です。
食物連鎖一つ取っても「共存」とは言えません。「正義」も、必ず何かの
犠牲の上に立っています。なら、自分が容認出来る共存の限界を維持拡大
する事も、個人で出来る「正義」の一つだと思います。
ここで多くの方の意見を読み、議論する事で、私の「正義」を見直し
鍛錬したいと思います。
僕も、もう少し構想を練ってから、また投稿したいと思います。もう少し待って下さい。
ただ、以下の点に関して、とり急ぎ。
>…またまとまりのない返答になってしまいました。長文で汚してしまっている手前言えた事ではありませんが、…
という部分は違うと思います。
trasqueさんの投稿、読ませて頂いていますが、どれも独自の視点から考えが練られていて、読んでいてとても面白いです。
コンサートやパフォーマンスでも、良いものが提供されて、すぐに会場が盛り上がることもあれば、逆に、シーンとなることもあります。
すぐにレスポンスが帰ってこないからといって、良いものが提供できていない、という事にはならないと思います。
私の使った全体として底上げしていく、という言葉は生活の質の向上でも間違いではありません。ですが、もう少し詳しくお伝えしたいと思います。
ひとつは「人間の質の向上」です。人間を自己中心的に考えると破滅するといったような話は幾つかありますが、私はあえて「人間中心」といいますか、人間主義で良いと思う事があります。
人間が生きる為にはその段階で様々な自然を犠牲にする事になります。これをただ消費していくと捉えるのではなく「支えられている」と捉えるとどうでしょうか。
人間を中心に考えるならば「支えを外す訳にはいかない」のではないでしょうか。人間を優先するからこそ、自然破壊等は無闇に許されるものではない、という事になると思うのです。
先の「全体を据えて考える」という話題に繋がりますが、様々な関連性を人間が知り、理解していく事はこの「全体観がより深まる」事だと思います。これは科学の役割のひとつではないか、と思います。
多くの人が判断した事が結果として間違いである事があります。
前々回の書き込みで「からだか発する素直なことばに耳を傾ける」というような事を書きましたが、これはあくまでも人間個人の等身大を見失わずにいよう、という事でした。
多くの人が素直な判断に基づいていたにも関わらず、結果が悪くなってしまったりする場合、それはその段階で問題の本質が明らかになっていなかったり、その知識不足、情報交換不足が起こっていたりと様々に原因が考えられます。
こうした時に科学の発展や、全体の知識や交流密度の質がよくなる事で、ようやく見えてくる事があると思います。
そしてそれはある種「野生的」な判断から、より「理性的」な判断になると思うのです。
同じ「人間中心の判断」だとしても、時代の進歩や個々人の質によって選択できる「人間中心の判断」のレベルが上がるのではないか……と考えます。
ふたつ目は「個人の可能性と行動」です。
ひとつめの話はどうも大局的な感じになってしまい、ピンと来ません。科学の発展は放っておいても勝手に進んでいくような、そんな気分にさえなってしまいます。
そこで、個人としての目指す行動や考え方をどうしたらいいのかという視点を取ってみたいと思います。
個人でも「人間中心」の考え方は適用できると思います。自己中とは言いますが、前提として「色んなものに支えられている」上での自己中、になります。
そこには色んな葛藤がうまれるのではないでしょうか。自分を最優先させるとはどういう事かが、実は答えのない「他者」を強く意識したものだからだと思うのです。
ただ自分の欲望が満たされれば良いとしても、ではその欲望を満たす方策を提供してくれる何かを蔑ろにして良いものかとか…… 職場で自分の成績さえ良ければいいとしてもそれが本当に組織として最善の答えだったのか、そして最善でない場合は巡り巡って自分の成績さえ良ければいいという目標を阻害する事になるのではないかとか……
「組織」についてのテーマで私が用いた「公私混同」に似た事ですが、自身の成長の為には、関わる全てに気を張り巡らせる必要がある……といったような考え方です。
様々な組織の中で、それぞれ属している組織の問題を見せつけられながら個人個人のステージを戦っていると思います。
そうした時にこの「公私混同」「人間主義」で判断し、その組織を変えていけるかどうかはまず、その個人の意識の変化から始まるのではないかと思います。
あらゆる立場、あらゆる仕事の中で、より人間としてどうか?を自問自答し熱量を持って実際に行動に移すかどうか。
その自問自答の中で「どんな相手だろうと可能性を持っている」と信じ、尊敬していけるのならば、愚直で一見非効率なようでもその人が最も組織を変革する力を持っているのではないかと感じるのです。
もちろん、これはとても大変なエネルギーが要りますし、精神力もタフでなければ難しいと思うのですが、やはり私は誰もがそれを体得できうると考えます。
そしてそれを目指すこと、時にそれを他者へ伝えたり、一緒に行動したりして伝播していく事で「全体の底上げ」に繋がると思っています。
ひとつめを科学だとかの物質的な質とすれば、ふたつめは精神的、心の質になるでしょうか。
とにかくも人間の変化は関係の中から生まれると思います。関係の最小単位は一対一の会話ですから、この一対一で真剣になれるかどうかは遠回りなようで最も着実な道ではないかと思います。
その変化が色んな所で進められるなら、積み重なって「全体の底上げ」にはならないでしょうか。
私は今の職場などでどのように活躍し、人々と接していくか考えています。
情けない事に、すぐダルくなってしまう場面が多いのですが、現場においては最も誠実に接し、誠実に仕事をする一人であろうと思っています。
それを実行できて、さらに結果がついてくるなら、それは組織への貢献、すなわち組織「全体への」底上げを成したと言っても良いのかな、と思います。
その意味で、一人一人が毎日成長すれば全体の底上げに繋がる、と書き込みをさせて頂いた次第です。
「タリバンは有意義であった」という例や、ビンラディンが教育を施していたという話がありました。
これもひとつの全体の底上げと言えると思います。しかし、私はビンラディンの教育については、私の思う理想ではありません。
なぜなら「人間主義」ではないと私が感じる部分があるからです。
投稿された内容が真実であるならば、という前提がありますが、自爆テロの殉行者として教育するというのは「人間の為の組織・教育」ではなく「組織の為の人間」になってしまっていると思うからです。
信念や尊敬するものの為に命を投げ出す覚悟を持つことはとても真似できませんし、強い精神力だと思い私自身も憧れるところです。
ですがそれは攻撃であってはならないと感じます。「相手の可能性を信じる事を放棄した」事になると思います。命を投げ出す覚悟は、生きようとする生命、人間を守るための覚悟でなければ、と私は考えます。
折角ご質問頂いたのに遅くなり、またまとまりのない返答になってしまいました。長文で汚してしまっている手前言えた事ではありませんが、のこり一週間、更に皆様の色んなご意見を拝見できたらと思います。
“ 自分は日々の生活で正義を意識すべきとき、関係する人の利害ができるだけつりあう状態とは?を考えて判断しようと思います。”
と似ているかな、という文章を『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という本の中に見つけました。
河合隼雄さんは、
人間の思想とか、政治的立場とか、そういうものを論理的整合性だけで守ろうとするのは、もう終わりで、人間はすごく矛盾している、自分がいかなる矛盾を抱えているかを基礎に据えて、物を言っていく時代になっている。それは外から見ると、ずるい、ということになる。(このずるさを村上春樹さんは、洗練されたずるさ、と表現されていました。)
矛盾を恐れない、統合性ということはもうあまり問題にしない。バランスは問題にする、ということを考えている・・・。
という内容です。
オウム真理教、大震災、を体験して、日本が変わりつつあるのでは?という話も出ていました。1996年の当時、結局日本はさほど変わらず、当時と似たような状況を、今、また迎えているのでしょうか。
人間は矛盾を抱えている。その人間が創る社会もまた矛盾を抱えている。そのことを認めたうえで、偽善でもいい、ずるさでもいい、なんとかバランスをとりながら、それらをより洗練した偽善やずるさにするような方法を一生懸命に考える。
そうすることで、もしかしたら、私たちが正義によってもたらされるであろうと想像している状態に最も近づけるのかなぁ、とも思えてきました。
それを言葉に翻訳すると、yamatoさんのおっしゃる共存に行き着くような気がします。「正義とは異なる利害関係をもつもの同士が互いの力を損なうことなく調和状態を保ったまま共存共栄することである。」
ある判断が正義かどうか、はその判断の結果が共存共栄に向かったかどうか、で決まる。
一方、人類は共通の敵がいないと共存共栄を考えられない哀しい性を持っています。
比較的日本人に共存共栄を考える人が多いのは、地震、津波、台風など自然の脅威を共通の敵として共存共栄を求める遺伝子が磨かれたからかもしれません。
世界中で共存共栄を意識するようになるには、世界共通の敵=宇宙からの脅威が必要、となるのでしょうか。
話が大きくなりすぎました。自分は日々の生活で正義を意識すべきとき、関係する人の利害ができるだけつりあう状態とは?を考えて判断しようと思います。
“ここまで考えて、やはり私は「正義は内なる自身から発するものではないか」と考えました。”
“関わる人の「変化を徹底的に信じ抜く事」は、色々なやりとりはあっても「最終的にはその人を徹底的に敬う事」だと思います。最大級に尊敬し続ける事だと思います。”
や、その他の方たちが、正義を自分に引き寄せて考えることによって、深められてすごいな、と、とても新鮮な気持ちで読んでいました。
翻って私は・・・
NO.18 waterlily さんの “価値観はイリュージョンなのだとしたら、正義も、イリュージョンなのでしょうか?”
に近い感覚を抱いているようです。
9.11の同時多発テロが起る数年前、日本在住のフランス人の方が、フランスから送られた記事をもとに、ブブカや、就労できない等のタリバンの女性に対する考え方に真剣に憤っていらっしゃいました。その頃の私はタリバンのことを何も知りませんでした。
9.11同時多発テロの後、アフガニスタンの復興を支援している会の代表の方が、「タリバンは社会秩序を保つ上で、とても有意義な組織だった」とおっしゃっていました。
同じタリバンに対して、このような全く正反対の見方があるのだな、と思いました。
過去の歴史をひも解いて、正義という言葉がどのように使われてきたかを考えると、常に「正義は我にある」と、使われてきたのではないでしょうか?
少なくとも、組織の上層部の人たちは、そう信じなければ人々を指示することなどできないだろうな、と思います。
それならば、組織の数だけ正義がある、と考えられるような気がしました。
あくまでも社会的な文脈で考えると、一般的に捉えられた意味での正義の意味が、どのように機能しているのかが、問われてくるのかな、と考えて、ふとサンデル教授の授業での、対立する意見を交わす場面、最終的な結論を出さないまとめ方を思い出しました。
サンデル教授が行った授業は、対立する双方に、正義があることを、明らかにしたかったのかな、と思いました。
そして、私たちが心の中で抱いている正義とは、そういうものなのだ、ということを、はっきりと知って欲しかったのかな、と思いました。
正義という言葉が、本当に、私たちが思い描く正しさを表現していると思っている限り、真の話し合いや、共存へと通じる歩みは、閉ざされているのかもしれない、と思いました。
テーマが大きくて書けることがなくて困りました。
そこで、ただの一個人のわたしが正義について考えて何になるのだろうか?と問うことから始めてみました。
現代は時代の曲がり角のように先が見えない感じがあります。
だからと言って何もしないわけにもいかず、わたしたちはなにかを選び行動しなくては生活することができません。
「何がいいんだろう?」「どっちがお得なのかな?」
些細なことから大事なことまで毎日迷っています。
そのときには自分や周りの都合や欲を満たすことが主になるのですが、合わせて「何が正しいのか?」という視点を持つことが大切だと思います。
そのような判断基準を持つことで、視野が広がり、良い判断ができるように思うからです。
「何が正しいのか?」という視点を個々が持っている社会はきっと住みやすい気がします。
「これが正義だ!」と言えることはそうはないと思っています。
「正義」は力のある言葉なので、わたしは似ている言葉で「公正」が使いやすくしっくりときます。
ryosuke85さんの小さい頃ウルトラマンになりたかったという話を読んで、ウルトラマンの歌が好きだったことを思い出しました。
正義の味方がいてほしい、正義はあってほしい、わたしたちは大人になってもどこか正義にあこがれを持っているように思います。
もしよろしければ、「底上げしていく」ということに関して、もう少し説明を加えていただけないでしょうか。生きものの生命や生活の質を向上させる、という意味ととらえて、trasqueさんの意図を正しく理解できていますか?
全体を底上げしていく視点というのは、正義を考える上で一つの重要なポイントかもしれません。
また、このことと関連して考えると、ビンラディンのような人物の問題はさらに微妙になりますね。
ビンラディンの一派は、わざわざ学校を作って原理主義的な思考パターンをすりこみ、生徒が自爆テロの殉教者となるような教育をほどこしていたという話を聞いたことがあります。
明らかに生命の質を劣化させていると考えられる分子に対してどう対処するべきか、というのはなかなか難しい問題です。
Thank you very much for answering my question.
I also think that life is unconditionally important. But as you have said, it is dreadfully hard to prove it in reason. This makes it very difficult to share this view with many other people.
I hope to hear your refined analysis someday soon, thanks.
「人間が自然界と違うところは、価値観を持っている、ということではないかと思います。
価値観はイリュージョンなのだとしたら、正義も、イリュージョンなのでしょうか?」
自然に対して意味を与えるのは人間ですよね。正義も「人間が認識しているもの」に過ぎないのかもしれません。自然界にとってみれば人間の正義は、元々存在しなかったとも言えますね。
そう考えると、正義とは「私達が作り上げていくもの」なのでしょうか。元々自然には存在しない、でも「確かに正義はあるだろう、あるはずだ、なければならない」と多くの人が考えています。
自然界には善も悪も無いように思います。人間が定めた観念だと思うのです。
No16:aiaoki19780414alohaさんが仰るように
「全体を見渡して考える」という点を読んで、そうだなと私も思いました。
人間は動植物を殺して食べる訳ですが、そこには当然飼育場で働く人、屠殺場で働く人などが存在し「ただの乱獲」にならないようにしています。ただ乱獲していれば当然どこかで歪みが生じる事は誰もが理解できる所だと思います。
そうした「全体観」を少しずつでも進歩させていくのは、思ったよりも大きな前進ではないでしょうか。自然界にとってみれば人間の勝手な指図なのかもしれませんが、人間と動植物、人間と自然、人間と地球というように視野を取り、全体を常に底上げしていく視点を持つ事は「人間」として永遠に勧めるべき課題ではないかと思います。
全体が滅ぶ方向に進んでしまったのならば「悪」。うまくクリアできれば「善」といったようなものも、結局は人間の視点に過ぎないと思います。それでも、私達は人間ですから、それでいいと思います。
「正義」も「善悪」も不必要に重く抱える必要はないのではないかなとも思うのです。大きな問題はどうしても個人では動かしがたいような思い、蚊帳の外での出来事のような思いを抱いてしまいますが、私達一人一人が日々少しずつ成長すれば、それが「全体としての底上げの一部」になるのは間違いないと思います。
今「地球範囲での全体観」からの正義を考えてみましたが、直近では原発の問題、温暖化や食糧問題など解決の難しい問題があり、やはり「答え」が見出せるものではないように感じました。
ではもっと拡げて「宇宙の全体観」とか、宇宙規模での正義ってあるのかな?とも考えてしまいました。ちょっと思いつかなかったので、やっぱり正義は「等身大の人間の範囲にあるもの」なのかなあ、なんて感じたりしています。
愛のないところに、正義は生まれない。また愛を持てないときに悪意が生まれる。
正義や悪意や誠意や勇気。。。。は全部自分の気持ち(そこに愛があるのか?)が決めること。
愛に満ちあふれた人間になりたい。自分のために、そして正義のために(?)
民主主義の国や時代では、最大多数の最大幸福が良しとされ、多数決で正義が決まるようです。
多数決では必ずしも全員が幸福になれない、と、すでに私達は知っているから、
私も、共存共栄を目ざす正義に憧れます。
前回のryosuke85さんの投稿を読んだ時、
正義の味方に敗れた悪役が滅びるときの、物悲しさを、子供心に感じた記憶が蘇りました。
>相手の言いたいことを引き出すことが出来る存在
とまでは考えたことがなかったけれど、
たしかに、それこそが、正義が為されるということかも知れない、と思わせられました。
結果的には共存はできないとしても、理由も明らかにせずに相手を否定するのと、
言い分を聞いた上で決別するのとでは、全く違うと思いました。
自然界では、さまざまな正義(と言っていいのか分かりませんが)
が並立していると思います。
文字どおり弱肉強食の食物連鎖であるとか、子孫を多く残したほうが有利になるとか、
棲み分けがおこなわれていたり、そして自然界全体では、多様性が共生を支えていたり。
人間社会も、いろいろな在り方をミックスして、
犠牲を出しながら、何とかバランスをとるしかないのだろうか?と諦める心境にもなります。
人間が自然界と違うところは、価値観を持っている、ということではないかと思います。
価値観はイリュージョンなのだとしたら、正義も、イリュージョンなのでしょうか?
人が、心身共に、生存していくためには、強いものが勝つ要素も、数の多いものが残る要素も、
合わないもの同士は離れるケースも、それぞれ必要で、同時に、共存も必要なのだと思います。
ですが、それだけなのでしょうか?
何かありそうなのですが、何であるのか分かりません。
生きていければそれでいいのか?という疑問です。
たとえば、(非現実的な話になりますが)
悪役の怪獣の皆さんだけ、他の星に移住してもらって、戦って暮らしていただければ、
それでいいのかというと、よくない気がします。
私は、自然界に、善意は存在してほしくありません。
善意が存在するなら、悪意も存在することになりそうだからです。
でも、自然界に、正義は、存在しないでしょうか?
自然界に正義が存在しないなら、悪役の怪獣の皆さんだけの星があってもよさそうじゃないですか?
NO.15で trasqueさんが書いておられた、「受け入れる事、変化を徹底的に信じ抜く事、徹底的に敬う事」が、
自然界にもあるのだとしたら、きっと人間にもできるだろう、と希望が持てる、と思います。
正義とは何かというお題に答えることができず、雑感になってしまいました。
Under no circumstances in this article will I be able to make explicit mention of the sadmess.
However I shall put forward an view which causes this phenomenon briefly.
The sadness emerges under specific conditions.
With regard to my sadness, I tend to be biased against unreasonable disliking for something deeply critical.
For instance, to achieve your goal, and as a result you are dead, what is the case for your life?
Your life is devoted to your country does not mean your life is special.
In this article I attempted to clearly demonstrate the importance of the life, but I could not do that thoroughly.
I need to refine my analysis to provide some insights into it.
Thank you.
世界や地球基準で物事を考え、色んな方向・視点・立場から考えよりよい道を歩けるよう努力し続ける事。そして皆でよりよい道を模索し続ける事。
「みんなの願いは同時には叶わない」という歌詞にもあるように、皆が平等で、幸せで、平和な世界なんてなるはずがない。無理だ。と思うことが多々ありますが、それを承知ででも少しでも自分が、自分の家族が、自分の周りの友達、地域社会の人たち、自分の国、地球上の国、自然、人間、動物たちが幸せに楽しく毎日を過ごしていけるような世界を創ろうと努力すること、考え、悩み、行動し続ける事。
それには創造力が必要。相手の立場になって物事を考える。茂木さんがおっしゃっている、会ったことのない人の事を想う気持ち、気付く心が大切だと思います。
そして、自分の考えに自信を持ちすぎず、色んな人の意見を聞き、考え方の違う人が理解できなくても違いを認めて、受け容れる事。
それらの意思・行動・継続が「正義」だと考えます。
WE ARE ALL ONE.
英語の能力はほとんど無いのですがとても良い経験になりました。
訳が間違っていなければ「衝突をする前に、それに変わる方法を、私達は発見できるはずだ」という点について私も強く同意します。その方法を探し続けようとする「意地」とも言える思いは大事にしなければと思うのです。
英語での返答をしたいと思ったのですが、力不足でした。申し訳ないです。
またyamatoさんの「共存」にも、正義を考える上では外せない言葉ではないかと思い、同意します。
ただ、どうしても一言では片付けられないとも悩みます。今の社会を構成している「競争原理」は一面でとても良い意義を持っています。全員が与えられた平等を継続していく(丁度、極端な共産主義の)ような社会が共存と言えるのだろうか、と考えてしまうのです。
共産主義を批判するという話題を持ち込む訳ではないのですが、共存は「まず自分がしっかり立ち上がること」が前提でもあるように思います。人が生きる上では、様々な自由意志がありますし、それらをどう取捨選択していくのかという自由もあります。
のっぴきならぬ状況で選択できない不自由の中でも、お互いの助力の中で生きながら自由を交流させるのが共存なのかもしれません。ですから、社会で「上を目指す」事は必要だと思うのです。
仕事で良い成績を目指し、所得を増やしていく。自分の能力を磨き、ある分野のトップを目指す。これは同時に「誰かの犠牲」というと大げさかもしれませんが、そういったものが必ず出てくるはずです。
では、極端な営利主義と、上を目指す事への線引きはどこにあるのでしょうか。どこまでが「共存」であり、どこからが「戦争」なのか。そういう見極めにくいものだと思うのです。
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話は変わりますが、正義を考えている中で「一旦、等身大の、現実の自分」を外さずに考えてみようと思いました。正義を考え出すのは人間であって、人間の社会の中に正義が適用されると思ったからです。人間の、現実的・物質的な能力の限界を超えた所に求めても、それは悪い意味で夢物語に過ぎないのではないかと思ったのです。
食事・時間・からだ…… と生きていく上で最低限どうしても必要なものがありますが、こういった「根っこ」の部分から出てくるメッセージといいますか、欲求といいますか、それを外さずに見てみるとどうなのだろう、と。
「ハラ減った!」っていう素直な欲求と「正義」がどこか繋がるような気がします。そういう本能や野生のような欲求は、ともすれば「思想を邪魔するモノ」として扱われてしまいがちだと思います。けれど、食欲のような「からだが発するメッセージ」を、一旦全て受け入れる視点から見えてくるものがあるように思うのです。
場合によってそういった欲求は他人への迷惑となる事もあります。一旦は「生じてしまう」のが本音・本心ですから、それすらもまずは受け入れてしまおう、と。それもまた自分であって、人間であるのなら一度は自虐し、嫌悪する事があっても、だからこそしっかりと愛せるようになるのではないかと思います。
そうした「受け入れ」ができるから、人間はその次の段階として「制御」できるのだと思うのです。それも、成長するにつれてより上手に、多様性を拡げていけます。自分を克服していけるのだと思います。
人間は誰しもが平等ではありません。病、資産、所属で大きく変わるのが現実だからです。平等でないという「等身大の現実」受け入れるかどうかは、ひとつ大きな要素ではないでしょうか。
ただ、平等ではなくても「人間としての根本」は大きく変わらないと私は信じています。「受け入れ」も「制御、成長」も、誰もが可能だと思うのです。
更に話は変わってしまいますが、もし、複数の子供達を教育する事になった時、彼等の可能性を疑う事は無いのではないかと思います。
様々な障害や病などでハンデを背負う子が居たとしても、彼等には全て未来への可能性が沢山あるのだという事は、多くの人が信じるところでしょう。
彼等は大きく変化し、成長する「からだ」と「いのち」を持っているからです。だからこそ子供は宝であって、大人が全力で取り組むべき相手だと思います。
かといって私達大人(つまり人間全体)は、もう変化できなくなってしまったのかと言えば、決してそうではないはずです。「脳は死ぬまで成長できる」とも言われているように、どんな人であれその可能性は残されているのだと私は考えています。
ですので、究極的に言えば上記の理由で私は「死刑反対」と言わざるを得ないのです。可能性を断ち切ってしまう行為だからです。今回のビンラディン殺害のニュースも、どこかでこの事を考えていました。
どんな大善人にも大悪党の心が存在し、どんな大悪党にも大善人の心は存在していると思うのです。 「甘い!」と言われてしまうでしょうか……
個人的な思いになってしまいますが、ここまで考えたときに「人間というものを上から下まで受け入れる事」と「人間の変化を徹底的に信じ抜く事」が私にとっての正義の指標ではないかと思いました。
これを仮に正義と置いて、私がどう「実践」するのか。今生きている生活圏内で実践できなければ正義は嘘になるとも思います。
関わる人の「変化を徹底的に信じ抜く事」は、色々なやりとりはあっても「最終的にはその人を徹底的に敬う事」だと思います。最大級に尊敬し続ける事だと思います。
その為にはひとりひとりの対話を真剣にする必要があります。(もちろん遊んではいけないとは思いませんし、真剣だからこそ「切る」事もあるでしょう)自分の最大級の誠実さはどうあるべきなのか、自問自答の連続となります。
結局「正義とはこうすれば良い」という明確な答えは出てきませんでした。上記の指標を基本として、限りある時間を目一杯使ってどれだけ本気でいられるか。どれだけ考え、動き続けていられるか。そしてそれを近しい友人に伝播し、実践していけるか。この流れの中に正義があるような気がします。
他人を尊敬し抜く事と自分を高めようとする事は両輪のように思えます。私は、今回のビンラディン殺害のニュース、福島原発と東京電力関連といった事については、もっと若い人達がガンガン身近な人同士で話をして行くようになれば良いなと思っています。
こういったことはkabutotigerさんの仰る「戦う事」の一つに入るのではないかと思いますが、どうでしょうか。
対話の中で「そんなバカな考え方してるのか」と指摘される事もたくさんあると思うのですが、そういう意見を色んな人とぶつけていくのが当たり前!みたいな風潮に、少なくとも若者の間だけでもなってほしいなと思います。
私自身もTwitterで「この考え方は顰蹙を買ってしまうのか」と反省するような場面がたくさんあり、勉強になっています。そうやって、人の中に飛び込んで行こうとする潮流を作る事は一つの「ブレイクスルー」になり得ると思います。それも一つの正義かなと思う訳です。
chigusaotsuki-san,
In the last paragraph of your writing (No.3), you say that there are large number of sad people, and therefore we should challenge the status quo to solve this problem. If you focus on sadness, I think it is also very important to clarify what you mean by 'sadness.'
I think there are many kinds of 'sadness' in this world.
There is sadness of not having necessary things in life such as foods, shelters, and clothes. This is sadness that can be cured by outward (material) supplies.
On the other hand, there is also another kind of sadness which maybe common to all people. For example, we feel sad when we have failed in realizing our desires. This almost inevitably happens to everyone. Human desires tend to have no limit, so every one fails to realize their dream at certain level. But regardless of the difference in 'level,' quality of sadness may not be so different.
These are examples I came up with. But I want to know what kind of sadness you meant in your writing, so that I can understand your idea of ‘justice’ more accurately.
I am looking forward to know what you think.
正しく意味を伝えているか、いまいち自信がありません。不明瞭な箇所がありましたら、書き直しますのでご指摘下さい。
今週、サン・テグジュペリの『人間の土地』の最終章を読みなおし、「本然」について考えました。そのことと関連して、今回のテーマに取り組んでみたいと思います。
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本然という言葉で、サン・テグジュペリが表わしていることは、「細部でみると矛盾しているが、全体としては調和しているような生の状態」であるように読み取れます。例えば、自然の中の生き物たちは、互いに、食い、食われる関係にあるけれど、しかし、自然全体としてみると、まるで全てが調和しているように見えます。たぶん、このような考え方が、彼の思想の背景にあるようです。
このような考え方は、サン・テグジュペリが、彼の赴任地(モロッコ)で飼育していた羚羊(ガゼル)を描写するくだりによく表現されています。以下にその箇所を引用します。この文章に出てくるガゼルは、まだ目の開かない赤ちゃんのうちに人間によってもち去らさられ、飼いならされたものです。
…人は信じる、羚羊たちを、人目にふれない所で猛獣たちに食い殺されるあの悲惨な宿命から保護することができたと……。ところが、やがてその日が来る、その日、きみは、彼女たちがその小さな角で、砂漠の方角に向って、柵をしきりに押しているのを見いだすだろう。彼女たちは、磁力に引きつけられているようすだ。…
…彼女たちは羚羊になりきり、自分たちの踊りが踊りたいのだ。時速百三十キロのスピードの、まっしぐらな遁走が味わいたいのだ、ときどき砂漠が吹き上げる火炎でもよけるように、とっさの跳躍を交えたりして。金狼(ジャッカル)どもが待ち伏せしているくらい、なんのその、もし羚羊の本然が、恐怖を味わうことにあり、恐怖だけが、余儀なく自己を超越させ、最大の跳躍を成就させるものであるなら!ライオンどもが待ち伏せていようと、なんのその、もしも羚羊の本然が、白日のもと、猛獣の爪の一撃に引き裂かれて果てることにあるのなら!…
(『人間の土地』堀口大學訳)
ガゼルを飼いならした人間たちが、ガゼルの本然を正しく捉えられなかったように、人間はまた、自分自身の本然さえ、正しく捉えられなかったり、間違ったものを本然として錯誤してしまったりするのだと思います。
それでは、人間にとっての本然とは何なのか?
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ここまで考えたとき、茂木さんが著書で引用されていた「論語」の一節を思い出しました。
…子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。… 七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。…
…さまざまな人生経験を積んで七十歳になった孔子は、自分の欲望をあえて押さえつけようとしなくても、そのままの自然体で生きていても社会と折り合えるようになったのです。もし、孔子が本当にそのような境地に達していたとすれば、正真正銘の聖人だといえるかもしれません。…
(『「読む・書く・話す」脳活用術』)
僕は、この境地に向って自分を陶冶することが「正義」を見出すことに繋がるかもしれないと思います。たぶん重要なことは、自分が本然(≒正義?)を生きているか、そうでないのかを、瞬間瞬間に知覚する能力を研ぎ澄ませていくことです。
マイケル・サンデルが「プロセスが大事」と言ったのは、正義を議論する中で、正義に対する嗅覚が鍛えられるのだという認識があったからではないでしょうか。
一つ具体的な方策として提案できることとしては、自分の感覚に注視しながら、様々なことを経験することは有効なのかもしれません。もし、ある瞬間、自分の本然であるものと出会い、それを体験すれば、それ以降はその感覚の記憶を手掛かりに、より強固に本然と結びついていくことができるかもしれません。
聖人というのは、本質的な観点から無用な物を見抜いて、その一切をそぎ落とし、ある意味で自然に帰っていくような人なのかもしれませんね。
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今回のビン・ラディン殺しが正しいことであったかどうかは、殺害に関与した人間一人ひとりが、自分の本性に照らして判断するしかないと思います。人にとっての正義を、他人が判断できるかどうかは、大いに怪しいと思います。
困難は、それが正しい行いであるかどうかは、本人だからといって、必ずしも正しく認識できないという点です。正義の感覚器官が成熟していなければ、判断などそもそもできないでしょう。行為の当事者が知覚できないとしたら、答えがそもそも存在しないということになるのかもしれませんね。
個人的には本然が「殺害」というのは信じたくないですが。
あの、私の投稿を、和訳してくださる方がいるとは、思わずに、投稿してしまって、本当に、ごめんなさい。
和訳は、できるときに、自分で、してみます。
どうか、orcamie さんの大切な時間、orcamie さんのために、使ってください。
話かけてもらえて、ご意見を、もらえて、本当に、嬉しかったです。
これからも、宜しくお願いします。 ありがとう。
言葉としては存在するが実態の良くわからないもの ”平和””安全””真実”その他数値化の不可能なもの、予測はできるが予測そのものが極めて脆弱な物事。
「正義」「幸福」「奇跡」といった言葉も話には聴いているが「本当にあるの?」と懐疑の念を捨てられません。ただこうもいえるのです。実現のために祈りましょう、汗を流しましょう、我慢しましょう、戦いましょう。
orcamieさんが仰っている「100%同じものではない」についてですが、
その通りだと思います。
私の言葉が、あまりにも足りませんでした。
正義=共存では無く、共存に努める思考や行動が正義だと思います。
chigusaotsukiさん 早速のお返事ありがとうございます。
こうやってやり取りしてると
黒やぎさんからお手紙着いた.白やぎさんたら読まずに食べた ♪
のような感じで 楽しいです。
私 chigusaotsukiさんの和訳したんですけど消えてしまって (TT)
もう一度トライします。
No.8 yamatoさんの「共存」に 賛同します。
でも 100% 同じものではないような気もしております。
I would like to agree with the idea that justice must mean coexistence.
At the same time I think that justice may not totally equal to coexistence.
マイケル・サンデルさんの和訳本が出た時、興味深く読ませて頂きました。
私が思う「正義」とは、「共存」です。
あのね、私は、日本でね、大学時代、論文を書きたかったんです。
でもね、誰も、論文の書き方を、教えてくれなかったんです。
それで、オランダに住む機会があったので、オランダのマーストリヒト大学のラングイッジセンターに入って、ひとりで、論文の書き方を、勉強したんです。
私の先生は、オランダ人で、私の先生は、イギリス人で、私の先生は、アメリカ人なのです。
そして、私の最高の先生は、私のクラスメートだったんです。
なので、英語でしか、論文が書けないのです。 ごめんなさい。
英語で考えてみた正義の私の和訳:
もしも正義を違う言葉で表すとしたら妥協の結果の一つなのではないかと。
争う人々がその属する世界に置けるある種の妥協ではないかと。
ですがその妥協にはできるだけ多くの善意が盛り込まれている必要があると思うのです。
そして双方にある種の幸福をもたらすことも一つのチャレンジなのではないかと思います。
しかしその双方にもたらされる幸福の量はきっと違うと思うのです。
完璧な正義がいつもなされるという事は不可能なのではないでしょうか。
だから私たちは絶えず完全なる正義を求めてあがき続けなければ行けないのでしょう。
そしてわたしは解決の道はきっとたくさんあると思います。
ですが実際、正義が正しく行われるには私たちは正確な情報を入手する事が必要なのではないかな
とも考えています。
それからchigusaotsukiさんはなぜ英語で投稿されることにしたのですか?理由を教えていただければうれしいです。
そして、ひょっとしたら英語で投稿する事は この掲示板のグローバル化になるのかな。。等と感じています。
難しいです。
正義の味方が誰の味方なのか、という事を考えると、「弱気を助け、強気を挫く」の精神からか、我々に近い存在の味方である事が多いですよね。
そうなると、orcamieさんが挙げた「水戸黄門」に代表される時代劇の様な“勧善懲悪”型の存在に押し込める形になってしまいます。
今、wikiで正義について調べたら、秩序や徳や公正さ、といった言葉が見られます。
上記したような勧善懲悪型の物語の中で言うところの悪役達は、確かにそれらを欠いて行動している“様に”見えます。
けれど、そこに至った経緯が何なのか、どうしてそうしたのか、という所はこちらに伝わってきません。
中には、本当に外道がいることは認めますが、その外道ですら、そうなるに至る【経過】があるわけですよね。
生まれてきた瞬間に悪くなっているわけではないでしょうから。
生まれ出た瞬間は、皆が平等で、同じスタートを切るわけです。
その後の人生を左右するのは、環境ですよね。
そうなると、その環境により、個人として抱く“正義”も変わってきませんか?
正直、僕もつい最近まで、【多数決で多い方が正義】としていました。
自分の意見を持たず、ただ多数派が正しいとだけ考えて、いや、思っていただけだったのです。
trasqueさんが仰った様に、自身の正義を「誰かに預けてしまう」側と言いますか、正義を人任せにしてました。
誰かに預けたままの状態、それに縋ったままの状態では、結果だけを見た人肌も感じ得ない“正義感”が横行してしまいます。
そうしないようにする存在が【正義の味方】なのでしょうか。
すると、正義の味方は(自分の思う)道を外しかけてる人、外しそうな人を補助する存在なのでしょうか。
それで言うと、正義とは人の思う、それぞれの道であるのかな、と。
生まれた環境で育まれる正義と、年を重ねるごとに出来上がってくる正義は必ずしも一致しないかもしれません。
ただ、それが強烈な“負”で満たされたときに、人は恐ろしい正義を繰り返し、怖い歴史を刻んできたんですよね。
I tried to explain my idea of describing "Seigi" in a different word.
If I take this issue with different interpretation, I think 「Seigi」is a result of compromise among those conflicting people in the society where they are and there must be with as much good intentions as possible. And it’s a challenge to bring happiness to both sides. But I have to say that their quantity of happiness may be different. It is almost impossible that the perfect justice is always conducted. So we have to continue to struggle to find out ways to solve this matter. I believe there may be many ways to work it out.
As a matter of fact, I noticed that we need to obtain the correct information in order to carry out the justice , "Seigi".
And I woud like to know why you started to write in English. I would be happy if you can explain it.
We have observed seems to go against current ideas, views and opinions in a society.
"Seigi" is characteristic of a context and is not common to all people.
If you take issue with others interpretation, how can you make "Seigi" relevant to an inevitable conflict?
The point is that "Seigi" has several generally important meanings for every person.
However the battle against people who do not maintain a united front on the belief, acceptance, and support, will be win or lost.
That is a violence, or we see some people becoming increasingly detached from a society.
Their ideas, views, and opinions are questioned or shown to be wrong.
I think we should device a way not to conflict, other words we can discover an alternative way before a fight.
Before we discuss some conflicting elements, we must discern different accounts of the incident, which suggests that there is not the right or the wrong.
In short, there is a representative sample.
People decide what is a rule to collate a way to solve problem.
I do not want to say "our" rule.
A rule is just "a" rule, whether is influential or not, a rule came about as a result of feeling sad.
There are a large number of sad people, therefore to challenge the status quo is an urgent priority.
正義とは何だという事がハッキリと答えられない。一体何が正義なのかは分からない。ただ、何か目指すべきもの、実践すべき何かがあるようには感じられる。ほとんどの人が、まずそういった状態になるのではないかと思いました。
考えれば考えるほど「設定」できないという正義。アレを取ろうと思えばコレが壊れる、ではコレを支えようとすれば今度はソレが倒れる。そんな「もどかしさ」が募っていって、正義が何だと断定できない。私はそんな風に陥ってしまいました。
「どこかに必ずあるのだ」とするならば、それはどこにあるのか。何かは分からないけれども、どこにあるのかは感じ取れないものなのか。そう考える事にしたのです。
そして、ひとまず思い至ったのは「正義は自分の中にある」という事です。随分、自画自賛をなさるなあ、と言われるかもしれませんが、これは私の事だけではなく、今を生きる全ての人の中にあるといった意味です。
まず正義が「どこかにあるもの」だとして、例えばアメリカにあると言う話をすると、それだけでなんだか妙な話になってしまいます。どこか限られた場所に存在するものではないと思うのです。
またどこかにあるとしたならば、もし「正義のない場所」に居る人達はどうなってしまうのか。自らが目指す正義もない、正義に触れる事もできない、私なら恐らく耐えられずに朽ちてしまうでしょう。
では次に「場所」ではなく、正義を取り扱う「誰か(達)」がいるのかどうか。
法律など「制度としての正義」なら確かに存在するのかもしれません。それを作り上げた人達は確かに存在しましたし、今でも議論されて変化していくものです。大部分の人々はそれに従って生活し、尊さをも感じているのではないかと思います。
しかし、では「その制度を作る上で目指した正義」は何だったのか。それはどこにあるのかという問題が出てきます。正義は、「正義を扱うプロ」がいる訳ではないと思うのです。また「プロでない人達」は、自身の正義を「誰かに預けてしまう」事にもなってしまいます。
ここまで考えて、やはり私は「正義は内なる自身から発するものではないか」と考えました。それも、全国民、ありとあらゆる人の中に、余すことなく存在するのではないかと。
どこか財宝のように決まった場所に埋もれている訳ではない。
誰かに任せて正義を作ってもらう、といった事でもない。
では誰がやるのか? 「今」生きている一人一人がなんとかして正義を捻り出していく。
それでいて「それぞれが自分勝手でテンデばらばら」にはならないような方向に収束していく。
それが人類の正義になっていくように考えました。
ただ、それぞれの正義があるにせよ私は「正義」それ自体に大きな違いはないと思います。
徹底的な非殺傷を正義と掲げる人達にとっては、ビンラディン殺害の話は到底正義とは言えないのだろうと思います。しかし、アメリカにとっては(ある一側面での)正義でもありました。
これだけを見ても、国土、文化、思想で大きく正義が変わってしまうように思えますし、それぞれの正義があって然るべきだと思わされてしまいます。
それでも私は「正義にはまだ足りない」と思ってしまうのです。
答えではない、けれども大きく変わらない目指すべき共通の正義は、必ずあるものだと信じたいのです。
なぜなら、正義はどこかにあるものではなく、誰かに任せてよいものではないと私は思うからです。私達一人一人が真剣に追い求めていく「探求者」でなければならないと思うからです。
私一人が目指す正義が、国も文化も違うけれども同じ人間の目指す正義と根本的に変わってしまう事などないと思いたいのです。
ただ今は「正義を仮定」しておかねばならない、のっぴきならない現実や、切実さがあるだけではないかと思います。これは、甘い考えなのでしょうか?
日本なら日本の正義と、割り切らねばならないのでしょうか。
具体的な正義への言及をせずに恐縮ですが、まず皮切りとして発言させて頂きました。とても一言では語りきれないテーマなので、思考の途中ですが一旦書き込み致します。
ただし完全な正義を目指して絶えず良い方向へと改善し続ける事が正義への唯一の道なのではないだろうかとも考えています。ところが『良い方向』ってどっち?というのがよくわからないのです。マイケル・サンデルのNHKでの放映を1度だけ見ることができました。最大多数の幸福が時として正義ではなかったらより良い正義はどこにあるかわからないのです。
ビンラデン氏がアメリカにより暗殺されて多くのアメリカ人にとってある種の正義であってもビンラデン氏の死を悲しむ人の数がアメリカの人口より多かったら正義はアメリカに無いのではないか。
また国際法に違反してでも彼を殺害する事を選んだアメリカには正義は勝ち取るものという認識があると思うのです。アメリカが銃犯罪の問題を抱えながら銃の所持に寛大なのは武器製造会社の力というより、アメリカ社会が正義の一定義を自らの存在を守ることとしているので 自らを守るために銃は必要不可欠と多くの人が考えているからだと思うのです。それに対して日本は正義はお上が決めるものという認識がどこかにあるのではないでしょうか。 茂木先生が指摘したT・ホッブスの「リヴァイアサン」の時代にそれでは日本は生き残れない。東北大震災と原発事故により多くの日本人がそれに気がついて行動を起こしかけている。それが日本に新たなより良い正義をもたらすと良いなと思います。
余談ですが、最近知人が仕事で渡米した時に、九州と札幌の品をお土産に持参したところそれが捨てられていた事に気がついたそうです。日本は小手先ではなく本気で生きなければ そのお土産のように世界の片隅に捨てられる。そんな風に思います。