いじめについて
6月18日配信のメルマガで宣言した通り、今号からこの掲示板に「適塾システム」を採用したいと思います。システムは簡単です。これまでと同じように、僕からテーマを出しますので、みなさん活発に議論をしてください。ただし、今回からはメルマガ読者がみなさんのコメントについて、1~5の「評価」を付けることができるようになりました(5の方が高評価と捉えてください)。各テーマごとにもっとも評価の高かったコメントについては、僕がメルマガやツイッターで紹介します。また、年間の累計評価ポイントが多かった人には、何らかの表彰をすることを考えています。
適塾では、同じ塾で学ぶ塾生たちから高評価を得ようとみんな必死になって勉強しました。このメルマガ私塾でも、より一層の切磋琢磨をしていただけると嬉しく思います。
さて、今回のテーマは、「いじめ」についてです。個人の問題と社会の問題を同時に考えなくてはならない、とても難しいテーマだと思います。はたして、「いじめ」を根絶することはできるのか。根絶することなどできないとしたら、どのような工夫をすることでいじめられてしまった方のダメージを減らすことができるのか。みなさんのお考えをお聞かせください。
NO.212012-08-04 16:13:32 orcamie 5
>学校が疲弊しているという指摘がいくつかあり
私も自分の子供が小学校から高校へと通う中で
もどかしさを感じることが多々ありました。
でも昨年まではゆとり教育だったはず
なぜそのゆとりの中で 人間性が育まれなかったのかなと単純に疑問に思います。
日本の教育制度の単調さが閉塞感をもたらしていじめにつながっているという部分もあるかもしれないとも思えてもう一度投稿します(これで3度目ですが)。
6・3・3制がほとんどで 最近中高一貫校が少しずつ増えていますが
そろそろ6・3・3・制の中では のびのびした教育がむずかしいのではないか
という考えもあってはいいのではないかと思います。
幼稚園ー小学校ー中学校ー高校ー大学ー社会人?
-専門学校
こんな風に ほとんどの日本人がこのルートを通って大人になってるんだと思いますが
もう少しルートを増やすことで 人間の育て方に多様性をもたせると
現在ある、教育制度の中の先生たちの 教育というものへの考え方も広がってくる可能性もあると思います。
フリースクールや在宅学習やそれらを現行の教育制度とクロスオーバーさせて
もっと融通性をもたせてほしいなと思います。
いじめが原因でと言わずに 少子化を生かして
一人一人にあった教育という考え方を 教育行政の場でも認識してもらいたいです。
私も自分の子供が小学校から高校へと通う中で
もどかしさを感じることが多々ありました。
でも昨年まではゆとり教育だったはず
なぜそのゆとりの中で 人間性が育まれなかったのかなと単純に疑問に思います。
日本の教育制度の単調さが閉塞感をもたらしていじめにつながっているという部分もあるかもしれないとも思えてもう一度投稿します(これで3度目ですが)。
6・3・3制がほとんどで 最近中高一貫校が少しずつ増えていますが
そろそろ6・3・3・制の中では のびのびした教育がむずかしいのではないか
という考えもあってはいいのではないかと思います。
幼稚園ー小学校ー中学校ー高校ー大学ー社会人?
-専門学校
こんな風に ほとんどの日本人がこのルートを通って大人になってるんだと思いますが
もう少しルートを増やすことで 人間の育て方に多様性をもたせると
現在ある、教育制度の中の先生たちの 教育というものへの考え方も広がってくる可能性もあると思います。
フリースクールや在宅学習やそれらを現行の教育制度とクロスオーバーさせて
もっと融通性をもたせてほしいなと思います。
いじめが原因でと言わずに 少子化を生かして
一人一人にあった教育という考え方を 教育行政の場でも認識してもらいたいです。
NO.202012-08-03 23:09:02 terurun 5
「どうして、周りが、いじめを止められないのか」ということについて
いろんな人に直接、聞いてみました。
正直に言ってくれた人達に感謝ですが、
結論。かばったことで自分がいじめられたくないから。だそうです。
「「「自分がいじめられなければ、良いと言う発想。。。」」」
どこかで見覚えがありませんか??
大人の世界でいつもいつも行われていますよね。
自分に害が無いように生きていますよね。当たり障りの無いように
生きていますよね。自分に面倒な事が降り掛からないように生きてますよね。
つまり、私は、ここから、自分中心な世界を感じたのです。
「自分すら良ければ、いい」という事だと思うのです。
つまり、その「いじめの対象者」にならなければ、後は、どうでもいいって
ことです。自分には関係ないという事です。
極端ですが、それを感じました。
それは、大人と子供に、その感覚の違いは、あるのでしょうか?
自分に降り掛からなければ、良い。
学校側の対応、加害者の対応、みなさん、自分に責任を負わされたくない
ということだけが分かります。
他人の行動を自分の責任に出来なくなったのは、いつからでしょうか?
みんな、誰かの責任にしたい。自分の責任にしたくない。
「自分は悪くない。」「自分だけは守りたい」
実に、本能ですね。
私が悪いと。素直にどうして、言えなくなっちゃったんでしょうね。。。
いじめられた子は、もう、死んで、ここにはいないんです。
それは、事実です。助けられなかったことも、事実なんです。
誰が助けるべきなのか。など定義しても、結局、それは、仕事、義務では、
助けられないと思います。
なぜなら、助ける方も、自分の身体、精神を
たくさん、使うことになるからです。
他人のためにここまで、出来るか?と言う問題です。
だから、結局、知識も教養も資格も必要ないんです。
その人を助けたいと思う、自分を犠牲にしてでも助けたいと思う
正義感と責任感のある者だけが助けると思います。
つまり、良心のあるものしか、助けられないと言う事です。
教師の免許を取っても、その先生が生徒のために自分を投げ出せるか。
それが出来ないなら、助けられないと思うのです。
人を助けると言うのは、自分以外の人にエネルギーが裂かれる訳で、
自分の身が削れます。心身共にとてつもなく消耗します。
そのリスクを覚悟出来るものだけだと思います。
いろんな機関、組織を作っても、人を助ける気持ち、
その大切さが育たなければ、
一向にいじめは、減っていかないと思います。
いろんな人に直接、聞いてみました。
正直に言ってくれた人達に感謝ですが、
結論。かばったことで自分がいじめられたくないから。だそうです。
「「「自分がいじめられなければ、良いと言う発想。。。」」」
どこかで見覚えがありませんか??
大人の世界でいつもいつも行われていますよね。
自分に害が無いように生きていますよね。当たり障りの無いように
生きていますよね。自分に面倒な事が降り掛からないように生きてますよね。
つまり、私は、ここから、自分中心な世界を感じたのです。
「自分すら良ければ、いい」という事だと思うのです。
つまり、その「いじめの対象者」にならなければ、後は、どうでもいいって
ことです。自分には関係ないという事です。
極端ですが、それを感じました。
それは、大人と子供に、その感覚の違いは、あるのでしょうか?
自分に降り掛からなければ、良い。
学校側の対応、加害者の対応、みなさん、自分に責任を負わされたくない
ということだけが分かります。
他人の行動を自分の責任に出来なくなったのは、いつからでしょうか?
みんな、誰かの責任にしたい。自分の責任にしたくない。
「自分は悪くない。」「自分だけは守りたい」
実に、本能ですね。
私が悪いと。素直にどうして、言えなくなっちゃったんでしょうね。。。
いじめられた子は、もう、死んで、ここにはいないんです。
それは、事実です。助けられなかったことも、事実なんです。
誰が助けるべきなのか。など定義しても、結局、それは、仕事、義務では、
助けられないと思います。
なぜなら、助ける方も、自分の身体、精神を
たくさん、使うことになるからです。
他人のためにここまで、出来るか?と言う問題です。
だから、結局、知識も教養も資格も必要ないんです。
その人を助けたいと思う、自分を犠牲にしてでも助けたいと思う
正義感と責任感のある者だけが助けると思います。
つまり、良心のあるものしか、助けられないと言う事です。
教師の免許を取っても、その先生が生徒のために自分を投げ出せるか。
それが出来ないなら、助けられないと思うのです。
人を助けると言うのは、自分以外の人にエネルギーが裂かれる訳で、
自分の身が削れます。心身共にとてつもなく消耗します。
そのリスクを覚悟出来るものだけだと思います。
いろんな機関、組織を作っても、人を助ける気持ち、
その大切さが育たなければ、
一向にいじめは、減っていかないと思います。
NO.192012-08-01 23:22:30 luciebee 14
日本ではいじめの問題が起きると学校や先生の責任にしたがる傾向がありますが、NO7のGotoichiさんのおっしゃる通り、学校現場は疲弊していると思います。当時小学4年生だった息子が同級生からのいじめで不登校になったとき、私自身もなかなか積極的に対処してくれない担任の先生に不信感を募らせていました。けれども、時間を経て今、まずいじめ解決の前面に立つ先生の支援が必要ではないかということを感じます。
息子は先生の目には留まりにくい巧妙な形でいじめを受けていたので、学校に行けなくなるほどの心理的な傷つきがあったにもかわらず、先生にはなかなか問題にしてもらえませんでした。最初は「不登校は家庭の問題」と思われたり、NO6のRyosuke85さんと同じように、「逃げてるだけではないか」と先生にたしなめられたり、とてもくやしい思いをしました。当初は、なぜいじめの事実関係を確認したり、息子と電話で話してもらうことでさえ、こちらから頼まないとすすまないのか理解できませんでした。けれども、たびたび学校に出向き先生とお話する中で見えてくるものもありました。
No14のYamanorisuさんも書かれていたように、先生方は一般的にクラス内の問題はクラス内で、つまり、できる限り担任の先生ひとりで解決しようとされるのが普通のようです。日常的な仕事プラス最近では複雑な子どもたちの問題や過干渉的な保護者の対応に先生方は神経を尖らせておられ、それをひとりで抱えておられます。当時、息子の担任の先生も複数の不登校や家庭内虐待でサポートが必要な生徒たちを受け持っておられました。息子への対応が後手に回っても仕方ない状況があると思いました。
首都圏の小中学校の教師350人を対象にアンケート調査をされた結果が、先日の読売新聞に載っていましたが、9割以上の先生方が「いじめ指導が難しい」と答え、その背景を「いじめが起きると担任の力不足ととらえられる」と回答した先生もあり、その結果を受けてある専門家が、「支援を求めず、自分で事態を回復させようとするうちに悪化、深刻になる例がかなり多い」とコメントを寄せておられました。
子どもたちのいじめを早期に発見する、SOSに気がつくために、まず先生同士のチーム体制や支えあいが必要なのではないでしょうか。それができない、しづらい状況があるとすれば一体何が原因なのでしょう。ゆきすぎた管理体制や評価基準があるのでしょうか。先生同士のまとまりがあってはじめて、学校内で手に負えない問題を、次の手として保護者会との話で解決の糸口を探したり、校外の専門機関とも連携がとれるのではないかと思います。
私が現場で感じたことも同様ですが、先生が評価にさらされ誰も頼れないというような殺伐とした状況で、どうして子どもたちの間で助けたり助けられたりという相互依存の場がはぐくめるのでしょう。先生方がチームを組む余裕すらないのなら、いろんな方の意見にあったように、もっと開かれた学校にすること、カウンセラーはもとより、地域から支援ボランティアや教育職、心理職志望の学生を募集し、先生のサポートをすることもできるのではないでしょうか。
幸いにも息子の場合、その後定期的に先生と話し合う時間を持ち、第三者として相談機関に入ってもらい、いじめの事実確認やクラスでの話し合いなどを経て再登校できました。解決するまでに半年という時間はかかりましたが、今では友達とたのしく学校生活を送っています。
けれども当時のことを思い出すたびに、いじめが小さい芽のうちに早く摘まれますように、今回の大津の事件のように命を落とす子どもがひとりでも少なくなりますようにと願ってやみません。
そのために大人が誰かを責めるのではなく、まず助け合い支えあうことの大切さを思い出すことが大切ではないかと思います。
息子は先生の目には留まりにくい巧妙な形でいじめを受けていたので、学校に行けなくなるほどの心理的な傷つきがあったにもかわらず、先生にはなかなか問題にしてもらえませんでした。最初は「不登校は家庭の問題」と思われたり、NO6のRyosuke85さんと同じように、「逃げてるだけではないか」と先生にたしなめられたり、とてもくやしい思いをしました。当初は、なぜいじめの事実関係を確認したり、息子と電話で話してもらうことでさえ、こちらから頼まないとすすまないのか理解できませんでした。けれども、たびたび学校に出向き先生とお話する中で見えてくるものもありました。
No14のYamanorisuさんも書かれていたように、先生方は一般的にクラス内の問題はクラス内で、つまり、できる限り担任の先生ひとりで解決しようとされるのが普通のようです。日常的な仕事プラス最近では複雑な子どもたちの問題や過干渉的な保護者の対応に先生方は神経を尖らせておられ、それをひとりで抱えておられます。当時、息子の担任の先生も複数の不登校や家庭内虐待でサポートが必要な生徒たちを受け持っておられました。息子への対応が後手に回っても仕方ない状況があると思いました。
首都圏の小中学校の教師350人を対象にアンケート調査をされた結果が、先日の読売新聞に載っていましたが、9割以上の先生方が「いじめ指導が難しい」と答え、その背景を「いじめが起きると担任の力不足ととらえられる」と回答した先生もあり、その結果を受けてある専門家が、「支援を求めず、自分で事態を回復させようとするうちに悪化、深刻になる例がかなり多い」とコメントを寄せておられました。
子どもたちのいじめを早期に発見する、SOSに気がつくために、まず先生同士のチーム体制や支えあいが必要なのではないでしょうか。それができない、しづらい状況があるとすれば一体何が原因なのでしょう。ゆきすぎた管理体制や評価基準があるのでしょうか。先生同士のまとまりがあってはじめて、学校内で手に負えない問題を、次の手として保護者会との話で解決の糸口を探したり、校外の専門機関とも連携がとれるのではないかと思います。
私が現場で感じたことも同様ですが、先生が評価にさらされ誰も頼れないというような殺伐とした状況で、どうして子どもたちの間で助けたり助けられたりという相互依存の場がはぐくめるのでしょう。先生方がチームを組む余裕すらないのなら、いろんな方の意見にあったように、もっと開かれた学校にすること、カウンセラーはもとより、地域から支援ボランティアや教育職、心理職志望の学生を募集し、先生のサポートをすることもできるのではないでしょうか。
幸いにも息子の場合、その後定期的に先生と話し合う時間を持ち、第三者として相談機関に入ってもらい、いじめの事実確認やクラスでの話し合いなどを経て再登校できました。解決するまでに半年という時間はかかりましたが、今では友達とたのしく学校生活を送っています。
けれども当時のことを思い出すたびに、いじめが小さい芽のうちに早く摘まれますように、今回の大津の事件のように命を落とす子どもがひとりでも少なくなりますようにと願ってやみません。
そのために大人が誰かを責めるのではなく、まず助け合い支えあうことの大切さを思い出すことが大切ではないかと思います。
NO.182012-07-27 12:18:26 masami 10
皆さんの投稿を読んで、学校を今よりも開放的にする、多様な人たちが実際に子どもたちと関われるようにすることは、いじめへの対応になるのかな、と思いました。
もうひとつ考えたのは、いじめ、と決めてしまうことにいい面もあるけれど、負の部分もあるのでは?ということでした。
いじめといわれている状況は、大きく見れば人間関係の一つの在り方。投稿でもあったように、いじめる側といじめられる側が必ずしもはっきりしていない、誰が良くて誰が悪いか決めることが難しい場合が多いのではないでしょうか。(というか、あらゆることについてこう言えると私は思っていますが・・・)それを、いじめ、という枠にはめこむこと、いじめる側、いじめられる側、という関係に固定することで、状況を変化させることが、却って難しくなる場合もあるように感じます。
私は、どんな場合も、それに関わることが可能なすべての人が、そこで起こっている状況を変える可能性を持っていると思います。
NO.4 Chigusaotsukiさんの、
いじめを、根絶するためには、こんなふうに、
ひとりひとりが、考察する時間を、持ち、
足りない知識を、いろんな人から、学ぶことではないかと、思います。
に同感します。
考察する時間、どこかで自分の立ち位置を冷静に捉える目を持つことで、いじめといわれる状況に自分がどのように関われるか、考える時間を持つことがとても大切だと感じます。
私は、集団生活をする限り、人間関係においての葛藤(=いじめ?)は必ず生じると想います。
今回の大津の問題も、いじめがあるかないか、という部分に焦点を当てられたがゆえに、うまく対応できなかった、と言える面はないでしょうか?その後の報道も、いじめがあったかなかったか、に終始していることも、その他の学校での問題への対応に、影響を与える可能性があるのではないでしょうか?
いじめのない学校、と目標を掲げるよりも、葛藤も学びの一つとして、生徒も先生も、家庭や地域、社会とつながりつつ一緒に考えよう、という姿勢が、教育の現場で当たり前の感覚になってほしい、と思います。
もうひとつ考えたのは、いじめ、と決めてしまうことにいい面もあるけれど、負の部分もあるのでは?ということでした。
いじめといわれている状況は、大きく見れば人間関係の一つの在り方。投稿でもあったように、いじめる側といじめられる側が必ずしもはっきりしていない、誰が良くて誰が悪いか決めることが難しい場合が多いのではないでしょうか。(というか、あらゆることについてこう言えると私は思っていますが・・・)それを、いじめ、という枠にはめこむこと、いじめる側、いじめられる側、という関係に固定することで、状況を変化させることが、却って難しくなる場合もあるように感じます。
私は、どんな場合も、それに関わることが可能なすべての人が、そこで起こっている状況を変える可能性を持っていると思います。
NO.4 Chigusaotsukiさんの、
いじめを、根絶するためには、こんなふうに、
ひとりひとりが、考察する時間を、持ち、
足りない知識を、いろんな人から、学ぶことではないかと、思います。
に同感します。
考察する時間、どこかで自分の立ち位置を冷静に捉える目を持つことで、いじめといわれる状況に自分がどのように関われるか、考える時間を持つことがとても大切だと感じます。
私は、集団生活をする限り、人間関係においての葛藤(=いじめ?)は必ず生じると想います。
今回の大津の問題も、いじめがあるかないか、という部分に焦点を当てられたがゆえに、うまく対応できなかった、と言える面はないでしょうか?その後の報道も、いじめがあったかなかったか、に終始していることも、その他の学校での問題への対応に、影響を与える可能性があるのではないでしょうか?
いじめのない学校、と目標を掲げるよりも、葛藤も学びの一つとして、生徒も先生も、家庭や地域、社会とつながりつつ一緒に考えよう、という姿勢が、教育の現場で当たり前の感覚になってほしい、と思います。
NO.172012-07-24 08:07:25 Tomoikukai 5
Tomoikukai ですが、昨日No.16 の投稿で、偏見のリストをあげた中に 宗教 という項が無かったのにお気づきの方も多数おられると思います。私もうっかりと取りこぼしてしまったのですが、その理由を考えてみると、私の主張は、私自身の宗教観からきているもので、これを偏見として切り捨ててしまうと、主張の根拠そのものが成立しなくなってしまうと感じたからではないかと思われます。しかしながら、宗教同士の争いから戦争が起こり、醜い宗派争いが起こっているのも事実です。それで、偏見の中から宗教という項を除外するのは、議論しなければならない大事な部分を取り除くという結果になってしまいます。そこで、宗教に関しては、いつか、この樹下の微睡みのテーマとして取り上げられたときに、改めて投稿してみたいと思いますので、ここで改めて取り上げるのはご容赦願いたいと思います。
NO.162012-07-23 16:51:02 Tomoikukai 12
昨日、NHKの番組で、平野文科相は大津市の中2自殺を受けて、省内にいじめに取り組む新組織を設置するという意向を話されていた。私は、これを聞いて、今更ながら、学校教育に対する国の管理統制意識のすごさを感じてしまった。いじめの問題に対して、国の権威でいじめの問題に対処すれば、当然、数値的に成果が求められることになり、厳罰化や裏に潜る潜在化がおこってくることになるのでしょう。ここでの問題は、文科省始め、教育に携わる人々、子供たちの親たちのほとんどが、いじめや、学級崩壊、ゆとり教育の失敗、英語教育の無策等々、ほとんどすべての教育問題の根本原因が、この明治維新以来続く国の管理統制体制にあるということに気づいていないか、気づいたとしても、それを改革改善する手段を持たないということだと思う。今、主たる、国が考えている教育に対する管理統制の焦点は、全国津々浦々の子供達の能力を同じ条件で競わせ、点数化し、その点数を伸ばすことが教育の目的であり、その結果得られた成績の偏差値に応じた教育を高等教育で施すということに向いていると思う。故に、いじめ問題で、勉学に支障を来すのは大問題であり、点数ののびないゆとり教育は廃止され、小学校の英語教育は中学校の点数主義を邪魔しないように、やってもやらなくっても子供たちに差が出ないように巧妙な心配りがなされている。結果、今の小学校の英語教育は以前のゆとり教育以上に無駄である。もとい、ほとんどの日本の英語教育は、もとい、日本のほとんどの学校教育は無駄である。このことは、少々過激な意見に見えると思うが、今日の、グローバルな視点で日本の教育界を見渡すと、あながち極端な意見であるとは思えない。
日本は、明治以来、この、国による、管理統制教育により、はじめは軍国主義として、戦後は経済至上主義として世界にまれな国力を短期間で獲得した。そして、一部を除いて、国民のほとんどが、これを成功体験として共有したようだ。この成功体験こそが、周りの環境が大きく変わり、今の教育が無駄に終わっていると感じても、国家による管理統制モデルを捨去ることができない大きな理由だと思う。そして、いつの頃からか、このモデルが子供達の知的、或は人間としての能力を伸ばすことができなくなってしまったとき、逆に、この体制こそが、子供達の伸びるべき能力を押しつぶす役割を果すようになっていったのだと思う。今、学校で受ける教育のほとんどは自分たちの将来に何の役割も果たさないことは、子供達は敏感に感じとっているようだ。何のために勉強するのか?こんな、素直な最も切実な疑問を持ったものたちが、次々と学校から脱落している。先生も、親達も唯々、いい学校へ入る為だという以上のことはいえない状況なのでしょう。この状況は、子供達にとっては、なんとか地獄というのがありそうな、地獄の状況でしょう。
いじめや学級崩壊は、この地獄からの阿鼻叫喚と捉えるのが素直なものの見方だと思えるのだが、ここに国が乗り出すということは、その子供達をたたき潰しに閻魔大王様がやってくるようなものである。こんなことで状況がよくなると思うのは、ほとんど気が狂っているとしか思えない。こんなことを発想する政治家や、官僚の皆さん達は多分、他人の視点から物事を発想する能力が欠けた人達で、戦後偏差値依存教育が進む中で育ち、それに勝ち抜いて成功を勝ち取った人達なのでしょうか?
それでは、どうしたら、子供達が生き生きと学び成長する教育環境が実現できるかということに移りたいと思いますが。多分これがこのフォーラムの最も議論しなくてはならない点だと思います。
私は先にいじめやその他の教育問題は国家の管理統制意識(頼み)がその根本原因であろうと述べましたが、ひとり教育問題に限らず、日本における、社会問題のほとんどは、国家の管理統制や、社会通念、世間の常識といったものが、個人の自由意志を封殺しているところからきているように思えるのです。
具体的には、親は子を思い、子は親孝行するのは当然、目上やお年寄りは敬い、先生や上司には逆らわない。つまり、日本人が培ってきた儒教の教えによる美しい日本人のあるべき姿が価値観として、絶対化し、疑問を差し挟むことを許さない文化が、グローバル化した対等文化とでも呼べるこれから目指すべき価値観との間で大きな軋轢を生んでいるのではないかと思うのです。
では、目指すべき対等な人間関係とはいったいどういうものでしょうか?
それは、年齢、性別、人種、国籍、職業、学歴、病気、障害、その他家柄、生い立ち等、いっさいの偏見を差し挟まずに相手を評価する関係とはいえないでしょうか? 勿論、完全にこんな関係を実現しようと思ってもなかなかできるものではないですが、日本では、長らく儒教文化を続けてきたせいで、また、先に述べたような成功体験で、ここのところを深く考えたことがなく、偏見との戦いが最も遅れてしまった国となっているようです。
それでは、偏見フリーな教育とは一体どういうものかといえば、たとえば、米メリーランド州のジャック・アンドラカ君は15才で膵臓がんを90%の確率で検出できる方法を開発したということであるが、この発明はノーベル賞に匹敵するそうである。また、シカゴ大学大学医学大学院でMDを取得した、日系アメリカ人の矢野祥君は分子遺伝学と細胞学の博士学位を18才10ヶ月で受けている。しかし、もしこの子達が日本の価値観の中で教育を受けていたら、完全にドロップアウトか、引きこもりの生活に追いやられていたかもしれない。もしかしたら、いじめっ子かいじめられっこになっていた可能性だってある。アメリカにはほかに、中学生が、フェイスブックの子供版を作ったという例も報告されているし、まだまだニュースではフォローしきれない、若き天才達が数多く活躍しているだろうと思われるのが今日のアメリカである。中国からも英才教育のニュースは以前からあったと思うが、今後どんどん、世界に通じる若き天才達が出現してくることだろう。
ここで、私がいいたいのは、今の日本の教育体制では、社会のバックアップも含めて、若き天才達(私は、ほとんどすべての子供達が、環境と場所を得ればそうなると思うが)が潰され、疎外されて社会のお荷物とまで見なされるようになるということである。今の教育体制は社会、教師、生徒達のそれも個々人の不信感で成り立っているように見受けられる。今回の国の介入も、教育委員会や、先生、親達に対するマスコミに主導された世論の不信感によってやらざるを得ない状況が作られてしまっていると思う。そして、不信感によってのみ運営される組織は当然無い方がましであり、学校が今のような状態で運営され続けるのであれば、生徒や親は、登校を拒否する権利が当然にあるのである。が、ここでまたそれを阻むのは、社会通念というか、日本の世の中は、ホームスクーリングの子供達を受け入れる寛容性がとても少ないのも事実である。
私としては、名もない一市民ではあるが、今一度、すべての学校を大学に至るまで、完全に解体し、学制も根本から見直し、未来の子供達のために、生き生きとした天才達を生み出す為に、そして又、世界における新しい日本を実現する為にも、教育を一から見直すことを提言したいと思う。アイデアは、各方面の人々が、いろんな立場で出し合うことができるし、ツイッターその他で政策をまとめあげる方法も少しずつ整いつつあると思えるのと、他のSNSにもかなり期待してもよいように思う。そして、これが国政の段階で実現できなければ、日本の将来はあきらめなければいけないというところまできているというのが私の実感である。
日本は、明治以来、この、国による、管理統制教育により、はじめは軍国主義として、戦後は経済至上主義として世界にまれな国力を短期間で獲得した。そして、一部を除いて、国民のほとんどが、これを成功体験として共有したようだ。この成功体験こそが、周りの環境が大きく変わり、今の教育が無駄に終わっていると感じても、国家による管理統制モデルを捨去ることができない大きな理由だと思う。そして、いつの頃からか、このモデルが子供達の知的、或は人間としての能力を伸ばすことができなくなってしまったとき、逆に、この体制こそが、子供達の伸びるべき能力を押しつぶす役割を果すようになっていったのだと思う。今、学校で受ける教育のほとんどは自分たちの将来に何の役割も果たさないことは、子供達は敏感に感じとっているようだ。何のために勉強するのか?こんな、素直な最も切実な疑問を持ったものたちが、次々と学校から脱落している。先生も、親達も唯々、いい学校へ入る為だという以上のことはいえない状況なのでしょう。この状況は、子供達にとっては、なんとか地獄というのがありそうな、地獄の状況でしょう。
いじめや学級崩壊は、この地獄からの阿鼻叫喚と捉えるのが素直なものの見方だと思えるのだが、ここに国が乗り出すということは、その子供達をたたき潰しに閻魔大王様がやってくるようなものである。こんなことで状況がよくなると思うのは、ほとんど気が狂っているとしか思えない。こんなことを発想する政治家や、官僚の皆さん達は多分、他人の視点から物事を発想する能力が欠けた人達で、戦後偏差値依存教育が進む中で育ち、それに勝ち抜いて成功を勝ち取った人達なのでしょうか?
それでは、どうしたら、子供達が生き生きと学び成長する教育環境が実現できるかということに移りたいと思いますが。多分これがこのフォーラムの最も議論しなくてはならない点だと思います。
私は先にいじめやその他の教育問題は国家の管理統制意識(頼み)がその根本原因であろうと述べましたが、ひとり教育問題に限らず、日本における、社会問題のほとんどは、国家の管理統制や、社会通念、世間の常識といったものが、個人の自由意志を封殺しているところからきているように思えるのです。
具体的には、親は子を思い、子は親孝行するのは当然、目上やお年寄りは敬い、先生や上司には逆らわない。つまり、日本人が培ってきた儒教の教えによる美しい日本人のあるべき姿が価値観として、絶対化し、疑問を差し挟むことを許さない文化が、グローバル化した対等文化とでも呼べるこれから目指すべき価値観との間で大きな軋轢を生んでいるのではないかと思うのです。
では、目指すべき対等な人間関係とはいったいどういうものでしょうか?
それは、年齢、性別、人種、国籍、職業、学歴、病気、障害、その他家柄、生い立ち等、いっさいの偏見を差し挟まずに相手を評価する関係とはいえないでしょうか? 勿論、完全にこんな関係を実現しようと思ってもなかなかできるものではないですが、日本では、長らく儒教文化を続けてきたせいで、また、先に述べたような成功体験で、ここのところを深く考えたことがなく、偏見との戦いが最も遅れてしまった国となっているようです。
それでは、偏見フリーな教育とは一体どういうものかといえば、たとえば、米メリーランド州のジャック・アンドラカ君は15才で膵臓がんを90%の確率で検出できる方法を開発したということであるが、この発明はノーベル賞に匹敵するそうである。また、シカゴ大学大学医学大学院でMDを取得した、日系アメリカ人の矢野祥君は分子遺伝学と細胞学の博士学位を18才10ヶ月で受けている。しかし、もしこの子達が日本の価値観の中で教育を受けていたら、完全にドロップアウトか、引きこもりの生活に追いやられていたかもしれない。もしかしたら、いじめっ子かいじめられっこになっていた可能性だってある。アメリカにはほかに、中学生が、フェイスブックの子供版を作ったという例も報告されているし、まだまだニュースではフォローしきれない、若き天才達が数多く活躍しているだろうと思われるのが今日のアメリカである。中国からも英才教育のニュースは以前からあったと思うが、今後どんどん、世界に通じる若き天才達が出現してくることだろう。
ここで、私がいいたいのは、今の日本の教育体制では、社会のバックアップも含めて、若き天才達(私は、ほとんどすべての子供達が、環境と場所を得ればそうなると思うが)が潰され、疎外されて社会のお荷物とまで見なされるようになるということである。今の教育体制は社会、教師、生徒達のそれも個々人の不信感で成り立っているように見受けられる。今回の国の介入も、教育委員会や、先生、親達に対するマスコミに主導された世論の不信感によってやらざるを得ない状況が作られてしまっていると思う。そして、不信感によってのみ運営される組織は当然無い方がましであり、学校が今のような状態で運営され続けるのであれば、生徒や親は、登校を拒否する権利が当然にあるのである。が、ここでまたそれを阻むのは、社会通念というか、日本の世の中は、ホームスクーリングの子供達を受け入れる寛容性がとても少ないのも事実である。
私としては、名もない一市民ではあるが、今一度、すべての学校を大学に至るまで、完全に解体し、学制も根本から見直し、未来の子供達のために、生き生きとした天才達を生み出す為に、そして又、世界における新しい日本を実現する為にも、教育を一から見直すことを提言したいと思う。アイデアは、各方面の人々が、いろんな立場で出し合うことができるし、ツイッターその他で政策をまとめあげる方法も少しずつ整いつつあると思えるのと、他のSNSにもかなり期待してもよいように思う。そして、これが国政の段階で実現できなければ、日本の将来はあきらめなければいけないというところまできているというのが私の実感である。
NO.152012-07-23 15:19:25 kimuken0826 10
なぜいじめが起きるか?そこにはある種の「見下し」があると考える。今回問題となっている中学生、思春期においてはコミュニケーション能力に大きく差がでてくる時期。学校内においてはコミュニケーションの高い「活発」とされる少年が、コミュニケーション能力の低い「おとなしい」とされる少年をいじめるケースが多いのではないか。しかし、当然ながらコミュニケーション能力が高い子供が、コミュニケーション能力の低い少年よりも必ずしも人間として優れているわけではない。コミュニケーション能力が低かったとしても、論理的思考能力では優れているかもしれない、芸術的感性では優れているかもしれない。
人間の能力なんてものは、ある特定の側面から測れるものではない。だが、いじめが起きる場面においてはそのような思考は停止される。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」そんなモノカルチャー的思考から、いじめは起こる。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だけど、論理的思考においては自分よりも優れているかもしれない。芸術的感性では自分よりも優れているかもしれない。」そんな多面的側面から人間を判断する思考は停止される。
そもそも、ある特定の価値観だけで人を見下すというのは、思春期における子供たちだけでなく、今の日本全体を覆っている空気ではないか。一流とされる大学に行き大企業に勤める「エリート」が勝ち組で、それ以外は負け組として見下す。しかし、現実はそんなものではない。
ドストエフスキーは「罪と罰」の中で、凡人を「現在の支配者」非凡人を「未来の支配者」と表現した。凡人は既存の秩序の中で地位を築きそれを必死に守るが、非凡人は既存の秩序自体を破壊して、新たな支配者となる。現在世界を席巻しているApple、Google、Facebook。創業したのは日本の定義するエリートからは外れた、大学中退者。新しい波を巻き起こすのは、既存のプロセスから外れた非凡人である。
子供は社会の空気を敏感に察知する。今日本を覆っているモノカルチャー的思考は、「こいつは俺よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」という子供の単一的な思考を助長していないか。まずは社会が人間の多様な在り方を認め、さまざまな価値観の在り方を肯定し、多様性を認める。そうすることで、子供にも多様な観点から人間を判断する力が養われ、いじめの減少に繋がるのではないか。
人間の能力なんてものは、ある特定の側面から測れるものではない。だが、いじめが起きる場面においてはそのような思考は停止される。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」そんなモノカルチャー的思考から、いじめは起こる。「こいつは自分よりもコミュニケーション能力が低い。だけど、論理的思考においては自分よりも優れているかもしれない。芸術的感性では自分よりも優れているかもしれない。」そんな多面的側面から人間を判断する思考は停止される。
そもそも、ある特定の価値観だけで人を見下すというのは、思春期における子供たちだけでなく、今の日本全体を覆っている空気ではないか。一流とされる大学に行き大企業に勤める「エリート」が勝ち組で、それ以外は負け組として見下す。しかし、現実はそんなものではない。
ドストエフスキーは「罪と罰」の中で、凡人を「現在の支配者」非凡人を「未来の支配者」と表現した。凡人は既存の秩序の中で地位を築きそれを必死に守るが、非凡人は既存の秩序自体を破壊して、新たな支配者となる。現在世界を席巻しているApple、Google、Facebook。創業したのは日本の定義するエリートからは外れた、大学中退者。新しい波を巻き起こすのは、既存のプロセスから外れた非凡人である。
子供は社会の空気を敏感に察知する。今日本を覆っているモノカルチャー的思考は、「こいつは俺よりもコミュニケーション能力が低い。だからいじめてもいい。」という子供の単一的な思考を助長していないか。まずは社会が人間の多様な在り方を認め、さまざまな価値観の在り方を肯定し、多様性を認める。そうすることで、子供にも多様な観点から人間を判断する力が養われ、いじめの減少に繋がるのではないか。
NO.142012-07-22 02:45:03 yamanorisu 12
昨年度、娘(当時小学校3年生)のクラスが、いわゆる「学級崩壊」状態となりました。
授業中、席を立って外で、廊下で好きなように遊んでいる子。(一人や二人ではない)
授業に集中せず、おしゃべりをしている子、意味不明の声を発し続ける子。(病気や障がいではない)
学習を取りこぼしている子。(得意不得意で、どの授業にも発生)
友達の間違いを指摘する子、それを笑う(嘲笑する)子。(ほとんどの子がそう)
わからない、できない、ことに耐えられず、イライラする子。
意見を求められても黙っていて何も答えない子。(わかっているのに答えないように見える)
「死ね」「うざい」「うっせんだよ」「そんなこともわからないのかよ」「ばかじゃないの」・・・びっくりするような人を傷つける言葉が飛び交う。
あちこちでトラブルが起き、そのストレスやイライラを引きずる子が、教室の空気をさらにぴりぴりさせる。
11月の授業参観の後、先生が「様子を見に来てほしい」と言ったのだったか、「様子を見にきてもいい」と言ったのだったか、よく覚えていないけれど、翌日朝から下校まで一日学校へ行きました。
想像以上にガタガタに崩れた状態。その中から聞こえてきたのは、子どもたちの「SOS!」「助けて!」でした。胸が締め付けられそうなくらい切ない必死の叫び。
その日から、3年生の修了まで、毎日時間の都合のつく親がクラスのサポートに入りました。
教頭先生や、他のクラスの先生方も、空き時間にはサポートに入ってくださって、なんとか無事に、3年生を乗り切り…、今4年生。
町に6つあった小学校がひとつに統合されたので、クラス替えもあり、1クラスの人数も少なくなり、先生もかわって…あの姿が嘘のように、どの子もとても穏やかな顔になり、落ち着いて、楽しそうに過ごしています。
今になって思うと、あのとき先生が、親が授業参観以外にいつでも見にきていいと言った真意は、『「自分の子どもがどんなことになっているか見にきて、なんとかしてほしい」=家庭に、親に、問題があるんじゃないですか?!』だったように思います。
子どもに問題が起きると、親、家庭のせい。という考え方は、学校の先生たちの中にある根強い意識のように思います。
親、家庭に、全く問題、要因がない。とは思いません。
むしろ、子どもがどう育っていくか…子どもをどう育てたいか…は、それぞれの家庭の考え方、価値観、文化によると思います。
いろいろな親がいて、いろいろな家庭があって、その中でいろいろな子どもが育つ。
その当たり前が、「学校」の常識の前では、見えなくなっているように感じました。
子どもたちは「学校」の「先生」の価値観に従って育たなければならない…。
少なくとも、昨年度に関していて言えば、子どもたちは担任の先生の価値観に縛られ、「みんなちがって みんないい」と言われながら、「みんな同じでなければいけない」というバインドがかかっていたように思います。
友達関係も、勉強も、国語の答えでさえ「こうあるべき」があり、そこへ誘導される。そんな中で、人と違うことはいけないことという価値観ができあがっていましたし、先生の答えが正しいので、自分の言葉で考えることをいやがるようになりました。また、勝手に何かをすると怒られるので、指示されるまで待っている、言われなければできない、という状態にも陥りました。
一方で親たちは、「先生の指導力の問題。いい先生ばかりじゃない。」「担任の当たり外れは仕方が無い。」
そんな諦め…冷めた割り切り…をもって、学校を外から眺めています。
実際、他の学年の親からは、「来年先生がかわれば落ち着くよ」(今年度はハズレだったね)。と言われました。
クラス全員の親が集まって、話し合ったこともあります。
いろいろ不満や意見はでるけれど、じゃあどうするか?となると、担任がかえられるわけじゃないし…。子どもを学校へ行かせないって訳にはいかないし…。家では何とかするけど、学校で起きていることは学校で何とかしてくれないとね……。
確かにそうです。
担任は選べない。
子どもが家にいたら、勉強にならないし、親も仕事があるし…。
3年生の子どもたちが起こすトラブルは、まだ幼く、自分中心の理論で起きますし、時間がたてば、そんなことを忘れてまた仲良く遊んでいたりするから、そのときその場で対処しておかなければ、身につきません。
親が順番で学校に行っていたとき、「親は学校になじまない」と言われました。
確かに、親から離れ自立した生き方を身につけるためには、親がいてはダメだと思います。
でも、これを逆手にとって、学校(クラス)の運営に口を出させない。となっていないだろうか?とも感じました。
数ヶ月間学校に行ってみて、学校の、そして、クラスの閉鎖性にびっくりしました。
外からの人が来るとしても「お客様」でしかありません。親も授業参観という準備された時間に参観にいくだけです。
お客様がいるときは、体裁を繕うのがあたりまえ。朝から一日いることで、見えてきた実態がたくさんありました。
PTAも、行事実行委員会のようになってきています。
自分の、地域の子どもたちの学校教育に、先生以外の大人が主体的に関わるチャンスは、とても少ないのだと感じました。
クラスに関しても、そうです。
「なぜこんな状態になるまで、子どもたちのSOSを放っておいたのか?!」と感じましたが、学校の体制の中では、他のクラス担任はもちろん、教頭先生も、校長先生も、クラス運営や、担任の先生のやり方を見ることも、意見交換することも、批評しあうこともないようです。
先生方は、私たちには「自分だったらこうする」と言いますが、担任の先生に対しては言いません。
昨年度、親がクラスにサポートに入り、親も実態を知るという事態になって始めて、管理職から担任の先生への指導が始まりました。
もっと早く気づいて対処してくれていたら…と思う反面、あのとき、親が入らなければ、何も起こらないままだったのだと思うと、「もっと早く…」は贅沢な望みだったのかもしれないとも思います。
昨年度の娘のクラスでは、明らかにイジメが起きていました。
あの状況では、子どもたちはストレスをどこかにぶつけずにはいられなかったでしょう。
少なくとも、昨年度の娘のクラスでは、イジメていた子どもたちは、先生からイジメを受けていたのです。
先生の理想の生徒像になれないために…。
先生は、イジメているとは全く思っていなかったと思います。悪意はない。
でも、悪意がないのだから…で許されていいものではないと思うから、何度も話し合いを持ってもらいました。
自分を変えようと努力をしてくれたと思いますが、すでに、先生もクラスの子どもたちのことをかわいいと思えなくなっていたようですし、子どもたちも、先生の態度の変化に戸惑うだけで、時間が過ぎていきました。
子どもたちのイジメは、明らかに目に見えるものだけでなく、大人の目の届かないどこかで起きているものもありました。
休み時間、登下校時間、下校後や休日…。
大人の目があっても、なかなか気づけないような日常的なイジメもありました。
子どもたちは、先生に言っても解決しない、みんながやっていることだし…という気持ちになっていて、いけないこと、悲しいこと、という感覚が麻痺していたように思います。
恥ずかしいことに、親(たち)は、子どもたちの学校でのストレスに、早い段階で気づくことはできませんでした。
子どもたちが切羽詰まって、どうにもならなくなって始めて、「どうしたのかな?」「ちょっとへんだぞ」と感じ始めました。
嬉しかったのは、気づき始めて、事態を知ってから、どの家庭でも、それぞれに子どもたちへのアプローチを始めたことです。そして、親同士情報交換も始めました。
難しかったのは、やはり、被害者であると見える子どもさんの親と、加害者であるように見える子どもさんの親との間の確執でした。
第三者の立場でみると、子どもたちはみんなそれぞれにいい子でしたし、どの子もみんなストレスを感じ、どちらも、加害者となり、被害者となっていたと思いましたが…。
多様性を認める。みんなちがって みんないい。
この価値観が建前になり、単に「物理的に違う」数十人が集まる集団として扱われ始めたとき、子どもたちはSOSを発したのだと思います。
ひとりひとりの個性は小さく押し込まれ誰の目にもとまらなくなるか、集団の形を乱す悪いものとして扱われる。
右にならって、右に同じにしていれば、事なきを得るけれど…。
子どもたちは、それではいやだ!と主張したのでしょう。
私たち大人は、多様なことで活性化する社会をつくることで、子どもたちの主張に応えていかなければいけないと思います。
多様な環境では、どの子もできることや得意なこことがあることと、ども子もできないこと苦手なことがある、という当たり前のことに気づけるはずです。そして、それでいいんだよと言ってもらえるはずです。
学校は、子どもたちを「過保護」し、「過干渉」で個性を削る場であってはいけないと思います。みんながいろいろな形をしていて、みんながそれぞれの力を発揮して、力を合わせて生きていく社会を目指してほしい。
そのために学校は、外からの風を入れる努力、外に出て行く努力をしていく必要があると思います。内にこもっていれば面倒なことはないけれど、あえて面倒を受け入れる努力を。
今の学校にとっては、都合の悪いこともあるかもしれません。もうこれ以上仕事を増やしてほしくないと、先生たちは言うかもしれません。でも、外に目を向け、たくさんの出会いをつくれたら、いろいろな人たちが、先生や子どもたちをサポートしれくれると思います。
子どもたちを教育し、育てていくのは、学校(の先生)だけではない。
そして、親だけでもないのです。
学校が、子どもたちが、たくさんの刺激を受けて、頭をフル回転させて、体を使って、学ぶ場になるように。
大人たちがみんなで、子どもたちを愛していると、伝えることのできる場になるように。
まずは、大人たちが意識して、face to face で話し合う努力を重ねていきたいと思います。
授業中、席を立って外で、廊下で好きなように遊んでいる子。(一人や二人ではない)
授業に集中せず、おしゃべりをしている子、意味不明の声を発し続ける子。(病気や障がいではない)
学習を取りこぼしている子。(得意不得意で、どの授業にも発生)
友達の間違いを指摘する子、それを笑う(嘲笑する)子。(ほとんどの子がそう)
わからない、できない、ことに耐えられず、イライラする子。
意見を求められても黙っていて何も答えない子。(わかっているのに答えないように見える)
「死ね」「うざい」「うっせんだよ」「そんなこともわからないのかよ」「ばかじゃないの」・・・びっくりするような人を傷つける言葉が飛び交う。
あちこちでトラブルが起き、そのストレスやイライラを引きずる子が、教室の空気をさらにぴりぴりさせる。
11月の授業参観の後、先生が「様子を見に来てほしい」と言ったのだったか、「様子を見にきてもいい」と言ったのだったか、よく覚えていないけれど、翌日朝から下校まで一日学校へ行きました。
想像以上にガタガタに崩れた状態。その中から聞こえてきたのは、子どもたちの「SOS!」「助けて!」でした。胸が締め付けられそうなくらい切ない必死の叫び。
その日から、3年生の修了まで、毎日時間の都合のつく親がクラスのサポートに入りました。
教頭先生や、他のクラスの先生方も、空き時間にはサポートに入ってくださって、なんとか無事に、3年生を乗り切り…、今4年生。
町に6つあった小学校がひとつに統合されたので、クラス替えもあり、1クラスの人数も少なくなり、先生もかわって…あの姿が嘘のように、どの子もとても穏やかな顔になり、落ち着いて、楽しそうに過ごしています。
今になって思うと、あのとき先生が、親が授業参観以外にいつでも見にきていいと言った真意は、『「自分の子どもがどんなことになっているか見にきて、なんとかしてほしい」=家庭に、親に、問題があるんじゃないですか?!』だったように思います。
子どもに問題が起きると、親、家庭のせい。という考え方は、学校の先生たちの中にある根強い意識のように思います。
親、家庭に、全く問題、要因がない。とは思いません。
むしろ、子どもがどう育っていくか…子どもをどう育てたいか…は、それぞれの家庭の考え方、価値観、文化によると思います。
いろいろな親がいて、いろいろな家庭があって、その中でいろいろな子どもが育つ。
その当たり前が、「学校」の常識の前では、見えなくなっているように感じました。
子どもたちは「学校」の「先生」の価値観に従って育たなければならない…。
少なくとも、昨年度に関していて言えば、子どもたちは担任の先生の価値観に縛られ、「みんなちがって みんないい」と言われながら、「みんな同じでなければいけない」というバインドがかかっていたように思います。
友達関係も、勉強も、国語の答えでさえ「こうあるべき」があり、そこへ誘導される。そんな中で、人と違うことはいけないことという価値観ができあがっていましたし、先生の答えが正しいので、自分の言葉で考えることをいやがるようになりました。また、勝手に何かをすると怒られるので、指示されるまで待っている、言われなければできない、という状態にも陥りました。
一方で親たちは、「先生の指導力の問題。いい先生ばかりじゃない。」「担任の当たり外れは仕方が無い。」
そんな諦め…冷めた割り切り…をもって、学校を外から眺めています。
実際、他の学年の親からは、「来年先生がかわれば落ち着くよ」(今年度はハズレだったね)。と言われました。
クラス全員の親が集まって、話し合ったこともあります。
いろいろ不満や意見はでるけれど、じゃあどうするか?となると、担任がかえられるわけじゃないし…。子どもを学校へ行かせないって訳にはいかないし…。家では何とかするけど、学校で起きていることは学校で何とかしてくれないとね……。
確かにそうです。
担任は選べない。
子どもが家にいたら、勉強にならないし、親も仕事があるし…。
3年生の子どもたちが起こすトラブルは、まだ幼く、自分中心の理論で起きますし、時間がたてば、そんなことを忘れてまた仲良く遊んでいたりするから、そのときその場で対処しておかなければ、身につきません。
親が順番で学校に行っていたとき、「親は学校になじまない」と言われました。
確かに、親から離れ自立した生き方を身につけるためには、親がいてはダメだと思います。
でも、これを逆手にとって、学校(クラス)の運営に口を出させない。となっていないだろうか?とも感じました。
数ヶ月間学校に行ってみて、学校の、そして、クラスの閉鎖性にびっくりしました。
外からの人が来るとしても「お客様」でしかありません。親も授業参観という準備された時間に参観にいくだけです。
お客様がいるときは、体裁を繕うのがあたりまえ。朝から一日いることで、見えてきた実態がたくさんありました。
PTAも、行事実行委員会のようになってきています。
自分の、地域の子どもたちの学校教育に、先生以外の大人が主体的に関わるチャンスは、とても少ないのだと感じました。
クラスに関しても、そうです。
「なぜこんな状態になるまで、子どもたちのSOSを放っておいたのか?!」と感じましたが、学校の体制の中では、他のクラス担任はもちろん、教頭先生も、校長先生も、クラス運営や、担任の先生のやり方を見ることも、意見交換することも、批評しあうこともないようです。
先生方は、私たちには「自分だったらこうする」と言いますが、担任の先生に対しては言いません。
昨年度、親がクラスにサポートに入り、親も実態を知るという事態になって始めて、管理職から担任の先生への指導が始まりました。
もっと早く気づいて対処してくれていたら…と思う反面、あのとき、親が入らなければ、何も起こらないままだったのだと思うと、「もっと早く…」は贅沢な望みだったのかもしれないとも思います。
昨年度の娘のクラスでは、明らかにイジメが起きていました。
あの状況では、子どもたちはストレスをどこかにぶつけずにはいられなかったでしょう。
少なくとも、昨年度の娘のクラスでは、イジメていた子どもたちは、先生からイジメを受けていたのです。
先生の理想の生徒像になれないために…。
先生は、イジメているとは全く思っていなかったと思います。悪意はない。
でも、悪意がないのだから…で許されていいものではないと思うから、何度も話し合いを持ってもらいました。
自分を変えようと努力をしてくれたと思いますが、すでに、先生もクラスの子どもたちのことをかわいいと思えなくなっていたようですし、子どもたちも、先生の態度の変化に戸惑うだけで、時間が過ぎていきました。
子どもたちのイジメは、明らかに目に見えるものだけでなく、大人の目の届かないどこかで起きているものもありました。
休み時間、登下校時間、下校後や休日…。
大人の目があっても、なかなか気づけないような日常的なイジメもありました。
子どもたちは、先生に言っても解決しない、みんながやっていることだし…という気持ちになっていて、いけないこと、悲しいこと、という感覚が麻痺していたように思います。
恥ずかしいことに、親(たち)は、子どもたちの学校でのストレスに、早い段階で気づくことはできませんでした。
子どもたちが切羽詰まって、どうにもならなくなって始めて、「どうしたのかな?」「ちょっとへんだぞ」と感じ始めました。
嬉しかったのは、気づき始めて、事態を知ってから、どの家庭でも、それぞれに子どもたちへのアプローチを始めたことです。そして、親同士情報交換も始めました。
難しかったのは、やはり、被害者であると見える子どもさんの親と、加害者であるように見える子どもさんの親との間の確執でした。
第三者の立場でみると、子どもたちはみんなそれぞれにいい子でしたし、どの子もみんなストレスを感じ、どちらも、加害者となり、被害者となっていたと思いましたが…。
多様性を認める。みんなちがって みんないい。
この価値観が建前になり、単に「物理的に違う」数十人が集まる集団として扱われ始めたとき、子どもたちはSOSを発したのだと思います。
ひとりひとりの個性は小さく押し込まれ誰の目にもとまらなくなるか、集団の形を乱す悪いものとして扱われる。
右にならって、右に同じにしていれば、事なきを得るけれど…。
子どもたちは、それではいやだ!と主張したのでしょう。
私たち大人は、多様なことで活性化する社会をつくることで、子どもたちの主張に応えていかなければいけないと思います。
多様な環境では、どの子もできることや得意なこことがあることと、ども子もできないこと苦手なことがある、という当たり前のことに気づけるはずです。そして、それでいいんだよと言ってもらえるはずです。
学校は、子どもたちを「過保護」し、「過干渉」で個性を削る場であってはいけないと思います。みんながいろいろな形をしていて、みんながそれぞれの力を発揮して、力を合わせて生きていく社会を目指してほしい。
そのために学校は、外からの風を入れる努力、外に出て行く努力をしていく必要があると思います。内にこもっていれば面倒なことはないけれど、あえて面倒を受け入れる努力を。
今の学校にとっては、都合の悪いこともあるかもしれません。もうこれ以上仕事を増やしてほしくないと、先生たちは言うかもしれません。でも、外に目を向け、たくさんの出会いをつくれたら、いろいろな人たちが、先生や子どもたちをサポートしれくれると思います。
子どもたちを教育し、育てていくのは、学校(の先生)だけではない。
そして、親だけでもないのです。
学校が、子どもたちが、たくさんの刺激を受けて、頭をフル回転させて、体を使って、学ぶ場になるように。
大人たちがみんなで、子どもたちを愛していると、伝えることのできる場になるように。
まずは、大人たちが意識して、face to face で話し合う努力を重ねていきたいと思います。
NO.132012-07-20 22:28:22 terurun 13
いじめと言うものが、子供の世界だけではなく、大人の世界の方が
もっとあることは、いつも世の中的にはスルーされている。
私は、小さい頃より、年齢が上がるにつれての方が、陰湿でひどい
嫌がらせを周りでたくさん見てきました。
むしろ、大人の自殺の方が多いのではないでしょうか。
大人のうつ病、精神病もある種の「いじめ」が原因でなっている方も
いるのではないでしょうか。
電車に飛び込む人が後を絶たない。
妬みも嫉妬も引きづり落とす行為、圧力も全ていじめです。
子供だけの問題ではないと思います。
大人は、すぐに自分達の事を棚に上げますが、
一番、陰湿な行為をするのは
子供より大人です。
大人達が大人の自殺を止められないのに、なぜ、
大人達が子供の自殺を止められるのでしょうか。
そして、大人は、当然、多くのことを学び経験し、柔軟に生きるすべを学んできたと
いうのなら、どうして、大人の自殺の方が子供の自殺よりも
こんなにも多いのでしょうか?
「いじめ」は、学校だけではないと思います。
子供のいじめを見て、大人が過剰反応するのは、大人の中にも
間違いなく、潜在的に「いじめの心」があるからです。
その大人の心、行動に響くから、「こどものいじめ」に動揺するように感じます。
まず、正すのは、大人だと思います。
大人のいじめのことを考えてから、子供のことを考えるのが筋道だと私は、考えます。
もっとあることは、いつも世の中的にはスルーされている。
私は、小さい頃より、年齢が上がるにつれての方が、陰湿でひどい
嫌がらせを周りでたくさん見てきました。
むしろ、大人の自殺の方が多いのではないでしょうか。
大人のうつ病、精神病もある種の「いじめ」が原因でなっている方も
いるのではないでしょうか。
電車に飛び込む人が後を絶たない。
妬みも嫉妬も引きづり落とす行為、圧力も全ていじめです。
子供だけの問題ではないと思います。
大人は、すぐに自分達の事を棚に上げますが、
一番、陰湿な行為をするのは
子供より大人です。
大人達が大人の自殺を止められないのに、なぜ、
大人達が子供の自殺を止められるのでしょうか。
そして、大人は、当然、多くのことを学び経験し、柔軟に生きるすべを学んできたと
いうのなら、どうして、大人の自殺の方が子供の自殺よりも
こんなにも多いのでしょうか?
「いじめ」は、学校だけではないと思います。
子供のいじめを見て、大人が過剰反応するのは、大人の中にも
間違いなく、潜在的に「いじめの心」があるからです。
その大人の心、行動に響くから、「こどものいじめ」に動揺するように感じます。
まず、正すのは、大人だと思います。
大人のいじめのことを考えてから、子供のことを考えるのが筋道だと私は、考えます。
NO.122012-07-20 19:56:14 orcamie 11
いじめをなくすために 多様性を受け入れようという声たくさん聞かれますね。
そこで、わたしは その多様性を受容するという
具体的なノウハウが学校には あまりないのかなと思います。
ひょっとしたら 日本社会全般に、政治の世界も含めて
多様性を受け入れて、実現する 具体的なアイデアが 不足しているのではないかと思います。
No9で紹介したいじめられた男の子は実はバレリーナだったのです。
彼の家に遊びに行った子たちが
発表会の写真を見て 『男のくせにバレーなんかして、化粧して』云々ということになり
いじめが始まったのでした。
No.10のchigusaotsukiさんが 学問や音楽や芸術で 心を豊かにしたら
いじめから 立ち直れるかもしれないという指摘
その通りです
いじめっこたちも 心が豊かになったらいじめが減るかもしれません。
No.11のmactooさんの 学校を開放的にというのも また一つのアイデアですね。
それを学校という場所で 具体化するアイデアがもっともっといるのでしょう。
そこで、わたしは その多様性を受容するという
具体的なノウハウが学校には あまりないのかなと思います。
ひょっとしたら 日本社会全般に、政治の世界も含めて
多様性を受け入れて、実現する 具体的なアイデアが 不足しているのではないかと思います。
No9で紹介したいじめられた男の子は実はバレリーナだったのです。
彼の家に遊びに行った子たちが
発表会の写真を見て 『男のくせにバレーなんかして、化粧して』云々ということになり
いじめが始まったのでした。
No.10のchigusaotsukiさんが 学問や音楽や芸術で 心を豊かにしたら
いじめから 立ち直れるかもしれないという指摘
その通りです
いじめっこたちも 心が豊かになったらいじめが減るかもしれません。
No.11のmactooさんの 学校を開放的にというのも また一つのアイデアですね。
それを学校という場所で 具体化するアイデアがもっともっといるのでしょう。
NO.112012-07-20 07:11:10 mactoo 26
イジメについて私は、さかなクン氏に完全に同意です。
以下にリンク。
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
子供たちにとっては学校が社会の入り口。
でもそこは閉鎖的な空間。
西瓜やメロンの若い実を四角い箱に入れて成熟させると四角い西瓜やメロンになるのと同じように、子供たちが順応性を発揮するほど四角くなってしまうのです。
本来の姿カタチであることを許されず、箱よりも大きくなる事もできない…。
世界は広いよ、海へ出ようよ。と言ってくれる人がそばにいるか。メッセージを受け取れる環境があるかで、子供たちはまた元気に走れるようになるのです。
突破口を作るのは大人たちです。抑圧するだけの古い仕組みに風穴を開けるのが今の時代に生きる私たちに課せられた義務なのです。誰かのせいにして責任を押し付ける姿ではなく、誰かのために真剣になっている姿を子供たちに見せたいものです。それが大人力だと思います。
以下にリンク。
http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html
子供たちにとっては学校が社会の入り口。
でもそこは閉鎖的な空間。
西瓜やメロンの若い実を四角い箱に入れて成熟させると四角い西瓜やメロンになるのと同じように、子供たちが順応性を発揮するほど四角くなってしまうのです。
本来の姿カタチであることを許されず、箱よりも大きくなる事もできない…。
世界は広いよ、海へ出ようよ。と言ってくれる人がそばにいるか。メッセージを受け取れる環境があるかで、子供たちはまた元気に走れるようになるのです。
突破口を作るのは大人たちです。抑圧するだけの古い仕組みに風穴を開けるのが今の時代に生きる私たちに課せられた義務なのです。誰かのせいにして責任を押し付ける姿ではなく、誰かのために真剣になっている姿を子供たちに見せたいものです。それが大人力だと思います。
NO.102012-07-19 11:26:45 chigusaotsuki 15
いじめられてしまった人は、ダメージを、受けています。
心優しいゆえに、何も言えず、何も抵抗することが、できないでいます。
そして、一番のダメージは、人間不信に、陥ることかもしれません。
生まれたときの、赤ちゃんは、
いじめなんて、なかったんです。
みんな、愛らしくて、かわいくて、
その頃のことを、もう、忘れちゃってしまったかな?
人間は、本来、心豊かな、愛おしい存在なんです。
もしも、人間に対して、不信感を、持ってしまったとすれば、
それは、悲しいことですね。
でも、大丈夫。
学問や、音楽や、芸術など、
心豊かになることに、打ち込むことで、
心豊かになる時間を、たくさんとることで、
人の愛や、優しさに、たくさん触れることで、
本来の自分を、取り戻すことが、できるのです。
きっと、白紙に、戻せます。
もう一度、生まれ変われます。
過去を、そっと、心のすみに、置くことが、できるようになります。
それまで、みんなで、つながって、頑張ろうね。
心優しいゆえに、何も言えず、何も抵抗することが、できないでいます。
そして、一番のダメージは、人間不信に、陥ることかもしれません。
生まれたときの、赤ちゃんは、
いじめなんて、なかったんです。
みんな、愛らしくて、かわいくて、
その頃のことを、もう、忘れちゃってしまったかな?
人間は、本来、心豊かな、愛おしい存在なんです。
もしも、人間に対して、不信感を、持ってしまったとすれば、
それは、悲しいことですね。
でも、大丈夫。
学問や、音楽や、芸術など、
心豊かになることに、打ち込むことで、
心豊かになる時間を、たくさんとることで、
人の愛や、優しさに、たくさん触れることで、
本来の自分を、取り戻すことが、できるのです。
きっと、白紙に、戻せます。
もう一度、生まれ変われます。
過去を、そっと、心のすみに、置くことが、できるようになります。
それまで、みんなで、つながって、頑張ろうね。
NO.92012-07-18 19:53:05 orcamie 14
私は いじめに関しては
深刻な事態に陥る前に対処する方が良いと思います。
というのは いじめが深刻になると
被害者はもちろん
周囲の生徒たちも心理的に大きな痛手を受けます。
修復は大変むずかしいです。
私には加害者の生徒たちについては理解できませんが
彼らもまたダメージを受けているのではないかとは思うのです。
彼らには 自分のしたことについて十分に反省して償ってほしいと思います。
一番悲しいのは
被害者の中学生は命を絶ってしまったということです。
取り返しがつきません。
現在 スクールカウンセラーが各学校に配置されてはいますが
悩みを持つ本人か保護者が希望しない限り
中々カウンセラーのところにはいきません。
全校一斉にというのは 難しいでしょうが いじめがなくても
時期をずらして、なんとか全員が必ずカウンセラーと話すのを
義務付けたらどうかなと思います。
カウンセラーと話すことで 自分が直面していることを違う視点から見て
見つめなおして欲しいです。
いじめの被害者の子は 毎日のいじめに対応するのがやっとで 物事を客観的に眺める余裕がないので、特に。
さらに相談の中身が 深刻であった場合
とくに犯罪行為などがあった場合
適切に処理するいくつかの解決策や 対応できる体制が
もっと構築されるといいなと思います
No. 7 の gotoichiさんが学校の先生は疲弊しているというのは事実だと思います。
ぜひカウンセラーを活用してほしいです。
今回の 大津市の「いじめ」の報道で
私は 今まで遭遇した「いじめ」で、
なぜ 学校が中々動いてくれないのかということがようやくわかりました。
「いじめ」があると報告できないしくみになっているようですね。
私は自分ではいじめられた経験がありません。
そこでわが子が小学校で体験したことをお話ししますね。
ある時 息子のクラスに転校生がやってきて いじめられて
大けがをして 6か月リハビリに通うということがありました。
その子がいじめられている現場に遭遇したら
絶対、何があっても止めなさいと息子に強く言いましたが
その子のためにいつも見張ることはできないよ。という返事でした。
被害者の保護者の方によると、学校に報告するともっといじめがエスカレートするのでしたくないということでした。
何度か息子からそのことの報告を受けるたびに話をして
そこで、もしもその子が自殺するようなことになってしまったら
きっとあなたの 小学校の楽しいことは 全部楽しくなくなる
といいました。
そしてその子が亡くなってしまってからは 遅いのよと。
それを聞いて息子は できる限りその子をかばったと思います。
彼にはいい友人がいて協力も得られました。
いじめっこの周囲のこどもたちは
時と場合に応じて うちの子といじめっこの間を
いったりきたりしていました。
ただし、いじめていた中心人物とその家族からは
うちの子がその子をいじめていることになってしまって
誤解はずっと解けませんでした。
その子と殴り合いのけんかもして、あちらの方が強いので
脳震盪を起こしてフラフラになって帰ってきたこともあります。
うちの子が一方的になにかしたということはなかったのに、
いつも、すきあらば 挑発されて、時々我慢できずにけんかしてました。
担任の先生は うちの子とそのいじめっ子をときどき呼んで
じっくり話し合いをさせていました。
いじめはなかなかやみませんでしたが
何とかそれ以上 大けがするということはなく小学校を卒業できました。
かばった同級生から 今でも年賀状が来ます。
担任の先生はきっと 胃が痛いことであったろうと思います。
その時のいじめっこのご家族は PTAの役員であり教育関係のお仕事でした。
非常に難しい立場だったのではないかと思いますが
とにかく、ずいぶん時間をとってくださったと思います。
息子が いじめられていたわけではないのですが
気が付くと、いじめっことうちの子の問題にすり替わっていました。
いじめは一度話したり注意したりしただけでは 止められません。
何度も 根気よく 話をするということが大切だと思います。
先生と いじめっこと うちの息子で 話した内容についてきいたのですが、いろいろ起きた事件の他に
どうでもいいことをたくさん話したそうです。
そういう無駄な時間、じっくり誰かと心の向くままに
話す時間が 実はとても大事なのではないかと思っています。
深刻な事態に陥る前に対処する方が良いと思います。
というのは いじめが深刻になると
被害者はもちろん
周囲の生徒たちも心理的に大きな痛手を受けます。
修復は大変むずかしいです。
私には加害者の生徒たちについては理解できませんが
彼らもまたダメージを受けているのではないかとは思うのです。
彼らには 自分のしたことについて十分に反省して償ってほしいと思います。
一番悲しいのは
被害者の中学生は命を絶ってしまったということです。
取り返しがつきません。
現在 スクールカウンセラーが各学校に配置されてはいますが
悩みを持つ本人か保護者が希望しない限り
中々カウンセラーのところにはいきません。
全校一斉にというのは 難しいでしょうが いじめがなくても
時期をずらして、なんとか全員が必ずカウンセラーと話すのを
義務付けたらどうかなと思います。
カウンセラーと話すことで 自分が直面していることを違う視点から見て
見つめなおして欲しいです。
いじめの被害者の子は 毎日のいじめに対応するのがやっとで 物事を客観的に眺める余裕がないので、特に。
さらに相談の中身が 深刻であった場合
とくに犯罪行為などがあった場合
適切に処理するいくつかの解決策や 対応できる体制が
もっと構築されるといいなと思います
No. 7 の gotoichiさんが学校の先生は疲弊しているというのは事実だと思います。
ぜひカウンセラーを活用してほしいです。
今回の 大津市の「いじめ」の報道で
私は 今まで遭遇した「いじめ」で、
なぜ 学校が中々動いてくれないのかということがようやくわかりました。
「いじめ」があると報告できないしくみになっているようですね。
私は自分ではいじめられた経験がありません。
そこでわが子が小学校で体験したことをお話ししますね。
ある時 息子のクラスに転校生がやってきて いじめられて
大けがをして 6か月リハビリに通うということがありました。
その子がいじめられている現場に遭遇したら
絶対、何があっても止めなさいと息子に強く言いましたが
その子のためにいつも見張ることはできないよ。という返事でした。
被害者の保護者の方によると、学校に報告するともっといじめがエスカレートするのでしたくないということでした。
何度か息子からそのことの報告を受けるたびに話をして
そこで、もしもその子が自殺するようなことになってしまったら
きっとあなたの 小学校の楽しいことは 全部楽しくなくなる
といいました。
そしてその子が亡くなってしまってからは 遅いのよと。
それを聞いて息子は できる限りその子をかばったと思います。
彼にはいい友人がいて協力も得られました。
いじめっこの周囲のこどもたちは
時と場合に応じて うちの子といじめっこの間を
いったりきたりしていました。
ただし、いじめていた中心人物とその家族からは
うちの子がその子をいじめていることになってしまって
誤解はずっと解けませんでした。
その子と殴り合いのけんかもして、あちらの方が強いので
脳震盪を起こしてフラフラになって帰ってきたこともあります。
うちの子が一方的になにかしたということはなかったのに、
いつも、すきあらば 挑発されて、時々我慢できずにけんかしてました。
担任の先生は うちの子とそのいじめっ子をときどき呼んで
じっくり話し合いをさせていました。
いじめはなかなかやみませんでしたが
何とかそれ以上 大けがするということはなく小学校を卒業できました。
かばった同級生から 今でも年賀状が来ます。
担任の先生はきっと 胃が痛いことであったろうと思います。
その時のいじめっこのご家族は PTAの役員であり教育関係のお仕事でした。
非常に難しい立場だったのではないかと思いますが
とにかく、ずいぶん時間をとってくださったと思います。
息子が いじめられていたわけではないのですが
気が付くと、いじめっことうちの子の問題にすり替わっていました。
いじめは一度話したり注意したりしただけでは 止められません。
何度も 根気よく 話をするということが大切だと思います。
先生と いじめっこと うちの息子で 話した内容についてきいたのですが、いろいろ起きた事件の他に
どうでもいいことをたくさん話したそうです。
そういう無駄な時間、じっくり誰かと心の向くままに
話す時間が 実はとても大事なのではないかと思っています。
NO.82012-07-18 16:01:35 gotoichi 6
先ほどの投稿したものですが、
これからもっと幸せになって、
人生を豊かにしたいと思える感覚は
圧倒的な苦難の経験に起因してると思えるという意味で、
今が幸せなのはいじめのおかげですとは間違っても思えません。
誤解ないようにお願いします。
これからもっと幸せになって、
人生を豊かにしたいと思える感覚は
圧倒的な苦難の経験に起因してると思えるという意味で、
今が幸せなのはいじめのおかげですとは間違っても思えません。
誤解ないようにお願いします。
NO.72012-07-18 15:49:34 gotoichi 20
いじめの問題を切り取って、学校が、先生が無能だからダメなんだ。
という意見には賛成出来ません。
教育の現場は疲弊しています。
自分が先生の立場だったら、どうやって解決をするのか?
もし、介入することでより陰湿化することはないのか?
という視点は絶対に必要です。
僕はいじめを解決する方法はないと考えています。
ですから、いじめで辛いと思っている子の居場所をつくってあげることが
解決に代わる方法です。
在宅で勉強出来るシステム、精神的に不安定になっていないかを
カウンセリングしてもらうなどのケアがあるべきです。
子どもは守られるべき存在であることは間違いありません。
危機的状況を回避させてあげるべきです。
回避できれば、あとはいじめた子に対して、
そのことを考えさせて指導をするべきです。
ただ、大津の問題でもクローズアップされていますが、
親の問題は避けて通れません。
いじめをしたことを指導することに
強く反発する親も実際にいます。
線の引き方も短絡的であってはいけません。
僕は教育というのは種を植える作業だとおもっていて、
その指導が全く無意味に思える場合でも、
その経験が花開くときがくると思って
教育を続けています。
いじめを受けることは大いなる苦難です。
得なことなど一切ないように思える。
しかし、その苦難の経験をも自分の血肉に
変えていくことがいじめに勝つことになり、
人生を豊かにすることもあることは言いたいです。
自分なりの教育論なのですが、
自分のいじめられた経験をもとに
考えたものです。
以上です。
という意見には賛成出来ません。
教育の現場は疲弊しています。
自分が先生の立場だったら、どうやって解決をするのか?
もし、介入することでより陰湿化することはないのか?
という視点は絶対に必要です。
僕はいじめを解決する方法はないと考えています。
ですから、いじめで辛いと思っている子の居場所をつくってあげることが
解決に代わる方法です。
在宅で勉強出来るシステム、精神的に不安定になっていないかを
カウンセリングしてもらうなどのケアがあるべきです。
子どもは守られるべき存在であることは間違いありません。
危機的状況を回避させてあげるべきです。
回避できれば、あとはいじめた子に対して、
そのことを考えさせて指導をするべきです。
ただ、大津の問題でもクローズアップされていますが、
親の問題は避けて通れません。
いじめをしたことを指導することに
強く反発する親も実際にいます。
線の引き方も短絡的であってはいけません。
僕は教育というのは種を植える作業だとおもっていて、
その指導が全く無意味に思える場合でも、
その経験が花開くときがくると思って
教育を続けています。
いじめを受けることは大いなる苦難です。
得なことなど一切ないように思える。
しかし、その苦難の経験をも自分の血肉に
変えていくことがいじめに勝つことになり、
人生を豊かにすることもあることは言いたいです。
自分なりの教育論なのですが、
自分のいじめられた経験をもとに
考えたものです。
以上です。
NO.62012-07-18 14:32:05 ryosuke85 20
いじめについて
僕は過去に登校拒否になったことがあります。
当時所属していた部活の同級生から体調を崩して部活に参加できないことを咎められ、執拗に責められた結果、部活動への参加意欲がなくなってしまい、それを顧問の先生に相談に行きました。
しかし、そこで顧問の先生にされたことが未だに残っているのですが、僕は教務室の前で先生を待ち、先生が教務室に入る前を狙って話しかけました。
すると先生は「ここで逃げたら一生逃げつづけなきゃならないんじゃないの?」
と、一瞥した後、教務室へと入っていき、雑務をこなしていたのではないでしょうか。
僕の中では話は全然終わっておらず、自分がどうしたらいいのかも全くわからないまま、それでも先生を待ちました。
しかし、先生はその後、何度か僕の目の前を通りましたが、無視しました。
それから一時間ほど僕は立っていたのですが、なんと声をかけていいのか分からないのと、どうしていいのか分からないまま、時が過ぎ、結果、絶望しながら帰宅しました。
そこから2ヶ月ほど学校に行くことを考えるだけで腹痛が起こり、トイレに閉じこもり、親が「休むか?」と声をかけてくれるのをひたすら待つ日々が続き、その間、朝がくることが本当に怖くて仕方なかったのを覚えています。
当時の僕は、責められることから逃げたくて仕方なかったのですが、先生からは突き放され、学校には行かなくてはならない、という重圧の中、日々の生活が苦しかったことを思い出します。
この件に関して、僕は現在の僕であれば、先生のいいたいことも分かりますし、先生が忙しくて、そんな面倒なことを扱うことが嫌な気持ちも理解できます。
しかし、当時の僕にはそんなこと到底できる問題では無く、ただ、顔を突き合わせて自分の意見を聞いてほしかったのと、どうしていけばいいのかを相談させてもらいたかっただけなのです。
今回、大津市での一件も被害を被った生徒の心情は僕の比ではなく、ただただ、絶望感に襲われ続ける毎日を送っていたのだと思います。
勝手に僕の過去にすりあわせる形になるのですが、結局は生徒のことをみれない先生がいて、それは、=先生も”いじめ”に加担している、という印象すら受けます。
よく、「周りで声をかけないこともいじめ」だといいますが、先生にも当てはまりますし、大人なだけに子供からみたその"目”は本当に冷たいものです。
現在のマスメディアが大津市の加害者や学校、市をことさら槍玉にあげていますが、あれですらいじめになるでしょう。
もちろん、その線引きというのは難しいのですが、当事者の気持ちに立つことを忘れた人が、結局はいじめる側に立つのではないでしょうか。自分の身内や家族が同じことをされたらいかがなものか、考えることができない人は、今回の大津市で起きていることを模倣し、被害者を増やす一人ともいえるのかもしれません。
僕は過去に登校拒否になったことがあります。
当時所属していた部活の同級生から体調を崩して部活に参加できないことを咎められ、執拗に責められた結果、部活動への参加意欲がなくなってしまい、それを顧問の先生に相談に行きました。
しかし、そこで顧問の先生にされたことが未だに残っているのですが、僕は教務室の前で先生を待ち、先生が教務室に入る前を狙って話しかけました。
すると先生は「ここで逃げたら一生逃げつづけなきゃならないんじゃないの?」
と、一瞥した後、教務室へと入っていき、雑務をこなしていたのではないでしょうか。
僕の中では話は全然終わっておらず、自分がどうしたらいいのかも全くわからないまま、それでも先生を待ちました。
しかし、先生はその後、何度か僕の目の前を通りましたが、無視しました。
それから一時間ほど僕は立っていたのですが、なんと声をかけていいのか分からないのと、どうしていいのか分からないまま、時が過ぎ、結果、絶望しながら帰宅しました。
そこから2ヶ月ほど学校に行くことを考えるだけで腹痛が起こり、トイレに閉じこもり、親が「休むか?」と声をかけてくれるのをひたすら待つ日々が続き、その間、朝がくることが本当に怖くて仕方なかったのを覚えています。
当時の僕は、責められることから逃げたくて仕方なかったのですが、先生からは突き放され、学校には行かなくてはならない、という重圧の中、日々の生活が苦しかったことを思い出します。
この件に関して、僕は現在の僕であれば、先生のいいたいことも分かりますし、先生が忙しくて、そんな面倒なことを扱うことが嫌な気持ちも理解できます。
しかし、当時の僕にはそんなこと到底できる問題では無く、ただ、顔を突き合わせて自分の意見を聞いてほしかったのと、どうしていけばいいのかを相談させてもらいたかっただけなのです。
今回、大津市での一件も被害を被った生徒の心情は僕の比ではなく、ただただ、絶望感に襲われ続ける毎日を送っていたのだと思います。
勝手に僕の過去にすりあわせる形になるのですが、結局は生徒のことをみれない先生がいて、それは、=先生も”いじめ”に加担している、という印象すら受けます。
よく、「周りで声をかけないこともいじめ」だといいますが、先生にも当てはまりますし、大人なだけに子供からみたその"目”は本当に冷たいものです。
現在のマスメディアが大津市の加害者や学校、市をことさら槍玉にあげていますが、あれですらいじめになるでしょう。
もちろん、その線引きというのは難しいのですが、当事者の気持ちに立つことを忘れた人が、結局はいじめる側に立つのではないでしょうか。自分の身内や家族が同じことをされたらいかがなものか、考えることができない人は、今回の大津市で起きていることを模倣し、被害者を増やす一人ともいえるのかもしれません。
NO.52012-07-17 18:53:43 Tomoikukai 23
もう50年も前になりますが、私が小学校五年の時、昼休みに、ある女の生徒が親の職業のことでメモ用紙に悪口を書かれて、泣き伏したことがありました。その時、生徒からとても信頼され、私も尊敬していた担任の先生は、いつもの優しい顔を一変させて、その行為の卑怯さを毅然として諭し 、匿名の犯人に名乗り出るように告げました。しかし、そこで名乗り出るものは一人もなく、先生はその午後の授業を犠牲にして生徒全員を教室にとどめて、怒りに表情で、名乗り出るものを待ちました。その後の2時間余り沈黙のままに時がすぎましたが、解決のめどが立たないまま、下校の時間となりました。帰りのホームルームで改めて卑怯な行為を非難し、二度とこういう行為を起こさないこと求めて、少し遅めの下校となったのですが、犯人は見つからなかったとはいえ、生徒一人一人にとっては、その後の人生にとって印象ぶかく密度の濃い時間になったようで、それ以来クラスのまとまりは非常に強くなったような気がします。
ここで言いたいのは、戦後、民主主義に燃えた一時期、先生の中には学業よりも、人間として素晴らしい生徒を育て上げることを志した人たちがいたということです。塾というものもほとんど存在せず、こどもたちは自然のなかでおもいきり遊びまわっていました。子供達は親たちの関与しない自分たちの社会を作り上げ、自立して行く準備をしていたのだと思います。その中ではいじめもあり、激しい喧嘩や事故、怪我も多かったように思います。それらすべてを含んで、人が一人前になって行く教育だったのです。いじめもそれを教育の中で活用するという視点にたてば、決して闇雲に忌避すべきもでもないような気がします。但し、現在のようにその前の段階で、子供に社会ができていないうちに、いじめに耐えられるこころができていないで、自殺に走ってしまうということでは、とてもそうは、いっていられないのも確かです。イギリスでは、いじめの問題を、子供達が解決するような、教育的配慮がなされているとききましたが、これも、自立が遅れている日本では無理なのでしょうか。表面以上に隠れている教育、社会の問題の根がとても深そうです。
結局、今回、自殺に至った、いじめられていた生徒さんの背景も、一年に3万人が亡くなるという自殺する一人一人の背景も社会文化的に根は一つだということもできるかと思います。いつも言われることですが、このいじめの問題も、私自身の内面の価値観から離れたところで、人を批判して見ても、問題の解決どころか、ますます怨念の泥沼に引きずりこまれていくばかりのような気がします。
最後に、学校に塀を設け、うちから鍵をかけるというオープン化の真逆の閉鎖空間で、生徒をやみくもに偏差値で追い込んでいくという今の教育は、子供達を公に虐待していると見るのは私だけなのでしょうか。
ここで言いたいのは、戦後、民主主義に燃えた一時期、先生の中には学業よりも、人間として素晴らしい生徒を育て上げることを志した人たちがいたということです。塾というものもほとんど存在せず、こどもたちは自然のなかでおもいきり遊びまわっていました。子供達は親たちの関与しない自分たちの社会を作り上げ、自立して行く準備をしていたのだと思います。その中ではいじめもあり、激しい喧嘩や事故、怪我も多かったように思います。それらすべてを含んで、人が一人前になって行く教育だったのです。いじめもそれを教育の中で活用するという視点にたてば、決して闇雲に忌避すべきもでもないような気がします。但し、現在のようにその前の段階で、子供に社会ができていないうちに、いじめに耐えられるこころができていないで、自殺に走ってしまうということでは、とてもそうは、いっていられないのも確かです。イギリスでは、いじめの問題を、子供達が解決するような、教育的配慮がなされているとききましたが、これも、自立が遅れている日本では無理なのでしょうか。表面以上に隠れている教育、社会の問題の根がとても深そうです。
結局、今回、自殺に至った、いじめられていた生徒さんの背景も、一年に3万人が亡くなるという自殺する一人一人の背景も社会文化的に根は一つだということもできるかと思います。いつも言われることですが、このいじめの問題も、私自身の内面の価値観から離れたところで、人を批判して見ても、問題の解決どころか、ますます怨念の泥沼に引きずりこまれていくばかりのような気がします。
最後に、学校に塀を設け、うちから鍵をかけるというオープン化の真逆の閉鎖空間で、生徒をやみくもに偏差値で追い込んでいくという今の教育は、子供達を公に虐待していると見るのは私だけなのでしょうか。
NO.42012-07-17 16:41:19 chigusaotsuki 15
まず、自分という個人の中に、社会があり、
また、自分という個人の外にも、社会があります。
もしかしたら、自分という個人の中の社会は、
過去の出来事や、経験をもとにして、出来上がったものであるかもしれないし、
脳内現象であるかもしれないし、
ニューロンの活動かもしれないし、
それゆえに、ある程度までは、自分で、新しく、生成、コントロールできるものかもしれません。
でも、自分という個人の外の社会は、自分から働きかけることは、できるけれども、
自分の思い通りになる社会では、ないかもしれません。
なぜなら、たくさんの人たちが、それぞれ、個人の中の社会を、もっているからです。
いじめというのは、いじめる側が、自分という個人の外の社会を、
自分という個人の中の社会のように、
自分の思い通りにしたいと、思うことでは、ないでしょうか?
いじめを、根絶するためには、こんなふうに、
ひとりひとりが、考察する時間を、持ち、
足りない知識を、いろんな人から、学ぶことではないかと、思います。
また、自分という個人の外にも、社会があります。
もしかしたら、自分という個人の中の社会は、
過去の出来事や、経験をもとにして、出来上がったものであるかもしれないし、
脳内現象であるかもしれないし、
ニューロンの活動かもしれないし、
それゆえに、ある程度までは、自分で、新しく、生成、コントロールできるものかもしれません。
でも、自分という個人の外の社会は、自分から働きかけることは、できるけれども、
自分の思い通りになる社会では、ないかもしれません。
なぜなら、たくさんの人たちが、それぞれ、個人の中の社会を、もっているからです。
いじめというのは、いじめる側が、自分という個人の外の社会を、
自分という個人の中の社会のように、
自分の思い通りにしたいと、思うことでは、ないでしょうか?
いじめを、根絶するためには、こんなふうに、
ひとりひとりが、考察する時間を、持ち、
足りない知識を、いろんな人から、学ぶことではないかと、思います。
NO.32012-07-17 15:46:37 terurun 14
いじめを目撃したり、傍観したりするものが、なぜ、一言も
「やめろよ」と言えないのか。
私は、学問的知識が足りないのでその側面からのアプローチは、
出来ませんが、経験上の話をします。
自分が小学生の時に、女の子でとてつもなくいじめられている子が
いました。規模は、広がり、クラスの大半の生徒が彼女をいじめる
ようになっていました。
冬は、壁に彼女を立たせ、何十人もの生徒が彼女にめがけて、
雪を投げつけ、頭から足の先まで雪まみれになるのをみんな、
笑っていました。彼女は、雪が降る度に、おびえて、校舎から
出なくなるほどでした。。。
ある日、朝、学校へ行くと、彼女の机の上には、一面にべったりと工作用の
のりが塗りたぐられていて、終いには、えんぴつけずりの削りゴミがのりの
上にいっぱいに敷き詰められていました。
私は、もう、耐えられなくなって、黙って、彼女と机ののりやゴミを
取り除きました。
その後。。。次の日から、私も彼女と同様に机にのりが塗りたぐられ
始めたんです。
「あいつの味方をするから、お前もこうなるんだよ?馬鹿だ~こいつ。」って
言われました。。。
でも、私は、黙って、まだ、乾いていない大量ののりを拭いた。
女性であるにも関わらず、そのいじめをしている中心的な生徒達に
その後も、顔面を殴られたり、両手両足を押さえられ、なわとびで
身体を叩かれ、腫れ上がったり。。。顔が真っ赤に血で覆うぐらい流血した
こともあるようになりました。そのことは、親には話さなかった。。。
そんなことがあっても、私は、自分を正当化した。
分かっていた。いじめをしている人達は、自分達の立場が危うくなるのが
嫌なことを。
私の偏った視点からだと、いじめをしている人は、一種の快感的な陶酔状態に
入っているように見えて、
とても、自分が「悪いことをしている」なんて言う意識はない。ように見える。
なぜなら、「悪いという」定義をしてくれるものが反対側にいないからだ。
と思った。だから、私は、負けてはならぬ。と思った。
自分が反対側に立つことで、相手は、自分のポジションを確認せざる
負えなくなると思ったからだ。
しかし、相手もそう簡単には、自分達が良くないことをしているという意識を
持とうとはしない。
だから、結局、私は、最後まで曲げなかった。
一緒にいじめをすることも仲間に入ることもしない。耐えた。
いじめられている彼女に寄り添った。
それが理由か分からない。
でも、いつの間にか、いじめは、消滅していたのは事実です。
今でも思う。痛い目にあっても、いじめに気がついていながら
スルーしなかったことを。いじめられていた子に寄り添った事を。
辛くても自分の意志を通した事を。
ただ、これは、小学生だから、この程度で終わったのだろうとも
思う。
二極化は、いけないと言うが、いじめにおいては、二極化しないと
闘えない。
私は、偽善者だと思います。正義感も強いようなフリが昔から出来ます。
悪と善が明確なタイプなのかもしれません。
いじめられている子は、間違いなく、いじめられているポジションから
抜け出せるほど、強くはないかもしれないんです。
だから、いじめられ続けると思ってしまうのです。
そうなった場合、助けられるのは、目撃者や傍観者ではないかと
考えてしまいます。
私からすると、逆に
いじめを目撃して、「やめろよ」と言えない人は、やはり、
自分に被害が来るのではないかと怖いからでしょうか?
私は、いつまでたっても、どうにも、独りでも闘っちゃう方なので、
そこがよく分からないのです。
目撃者、傍観者が、なぜ、いじめられている子を守らないのでしょうか?
見ているだけの人は、可愛そうとは感じるのでしょうか?
いじめは、怖いです。
でも、一番、怖いのは、いじめられている当本人ではないのでしょうか?
まとまっていなくて、すみません。。。
いじめられている人を助けられるのは、当事者ではなく、
「周り」だと言いたかったのです。。。
だんだんと情けない文章になってきてしまいました。。。
本当に毎回、乱筆乱文ですみません。。。
「やめろよ」と言えないのか。
私は、学問的知識が足りないのでその側面からのアプローチは、
出来ませんが、経験上の話をします。
自分が小学生の時に、女の子でとてつもなくいじめられている子が
いました。規模は、広がり、クラスの大半の生徒が彼女をいじめる
ようになっていました。
冬は、壁に彼女を立たせ、何十人もの生徒が彼女にめがけて、
雪を投げつけ、頭から足の先まで雪まみれになるのをみんな、
笑っていました。彼女は、雪が降る度に、おびえて、校舎から
出なくなるほどでした。。。
ある日、朝、学校へ行くと、彼女の机の上には、一面にべったりと工作用の
のりが塗りたぐられていて、終いには、えんぴつけずりの削りゴミがのりの
上にいっぱいに敷き詰められていました。
私は、もう、耐えられなくなって、黙って、彼女と机ののりやゴミを
取り除きました。
その後。。。次の日から、私も彼女と同様に机にのりが塗りたぐられ
始めたんです。
「あいつの味方をするから、お前もこうなるんだよ?馬鹿だ~こいつ。」って
言われました。。。
でも、私は、黙って、まだ、乾いていない大量ののりを拭いた。
女性であるにも関わらず、そのいじめをしている中心的な生徒達に
その後も、顔面を殴られたり、両手両足を押さえられ、なわとびで
身体を叩かれ、腫れ上がったり。。。顔が真っ赤に血で覆うぐらい流血した
こともあるようになりました。そのことは、親には話さなかった。。。
そんなことがあっても、私は、自分を正当化した。
分かっていた。いじめをしている人達は、自分達の立場が危うくなるのが
嫌なことを。
私の偏った視点からだと、いじめをしている人は、一種の快感的な陶酔状態に
入っているように見えて、
とても、自分が「悪いことをしている」なんて言う意識はない。ように見える。
なぜなら、「悪いという」定義をしてくれるものが反対側にいないからだ。
と思った。だから、私は、負けてはならぬ。と思った。
自分が反対側に立つことで、相手は、自分のポジションを確認せざる
負えなくなると思ったからだ。
しかし、相手もそう簡単には、自分達が良くないことをしているという意識を
持とうとはしない。
だから、結局、私は、最後まで曲げなかった。
一緒にいじめをすることも仲間に入ることもしない。耐えた。
いじめられている彼女に寄り添った。
それが理由か分からない。
でも、いつの間にか、いじめは、消滅していたのは事実です。
今でも思う。痛い目にあっても、いじめに気がついていながら
スルーしなかったことを。いじめられていた子に寄り添った事を。
辛くても自分の意志を通した事を。
ただ、これは、小学生だから、この程度で終わったのだろうとも
思う。
二極化は、いけないと言うが、いじめにおいては、二極化しないと
闘えない。
私は、偽善者だと思います。正義感も強いようなフリが昔から出来ます。
悪と善が明確なタイプなのかもしれません。
いじめられている子は、間違いなく、いじめられているポジションから
抜け出せるほど、強くはないかもしれないんです。
だから、いじめられ続けると思ってしまうのです。
そうなった場合、助けられるのは、目撃者や傍観者ではないかと
考えてしまいます。
私からすると、逆に
いじめを目撃して、「やめろよ」と言えない人は、やはり、
自分に被害が来るのではないかと怖いからでしょうか?
私は、いつまでたっても、どうにも、独りでも闘っちゃう方なので、
そこがよく分からないのです。
目撃者、傍観者が、なぜ、いじめられている子を守らないのでしょうか?
見ているだけの人は、可愛そうとは感じるのでしょうか?
いじめは、怖いです。
でも、一番、怖いのは、いじめられている当本人ではないのでしょうか?
まとまっていなくて、すみません。。。
いじめられている人を助けられるのは、当事者ではなく、
「周り」だと言いたかったのです。。。
だんだんと情けない文章になってきてしまいました。。。
本当に毎回、乱筆乱文ですみません。。。
NO.22012-07-17 10:37:06 thnkks0304 9
以前、自分のブログに「いじめ」について考えたことがあります。それをそのままここに転写したいと思います。
URL:http://blog.livedoor.jp/thnkks0304/archives/51671244.html
『「いじめ」を「いじる」から考える。』
いじめは様々な環境でみられる悪質な行為であり、社会問題の一つとして取り上げられることが多い。特に、青年期のいじめは教育や成長に対して悪い影響を与えるものであり、いじめを受ける当事者は想像し難い精神的苦痛を受ける。平成20年度の文部科学省の調査では、小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約8万5千件であると言われている。認知されているいじめは氷山の一角と考えることができるため、認知されていないいじめを含めると、多くの教育現場ではいじめが発生していると考えることができる。
私は、いじめは世の中から決して撲滅できないものであると考える。なぜならば、いじめている人間や集団はいじめの行為が楽しく、集団としての結束力が高まるからである。いじめは小さな出来事から発展することが多いが、集団で1人の生徒に対して小さな行為(軽い暴力や暴言、無視など)を行い、精神的苦痛を与え、その反応を見ることは、自分がその生徒よりも優位な立場になった感じ、優越感や快楽を得ることができる。そしてより大きな快感を得られるように与える行為はエスカレートし、それに伴っていじめを与えている集団はますます仲間意識と権威が高まってくるのである。
それでは、どのようにすればいじめは減ってくるのであろうか。ここで「いじめ」ではなく「いじる」を考えることで、「いじめ」の解決の糸口になると考える。「いじる」は日本の関西圏で通じる表現である。「いじる」は「いじめ」と同様に、ある集団が1人の人間に対して叩いたり暴言を浴びせたり、非日常の行為をすることで相手の反応をみて、集団として快感を得るものである。しかし「いじめ」と違って、いじられている方の人間にとっては精神的•心理的苦痛を感じていない。
「いじる」を思い浮かべる上で、参考になるのはお笑い芸人のダチョウ倶楽部の上島竜兵や出川哲朗であろう。叩く、蹴る、熱湯や海やワニの入った川などに突き落とす、集団で叩いたあとに気がつくと服が脱がされており裸になっているなど、一見すると「いじめ」に見える光景(外国人が初めて見たら誰もが「いじめ」と思うだろう)であるが、いじられている本人にとってはこれが「おいしい(私が思うに「おいしい」とは周囲の人間を楽しませたという自負)」のである。なぜならば、「笑い」が起こるからである。
「いじめ」と「いじる」は一見すると同じような光景にみえるが、両者を分ける境界線は「笑い」である。集団の中に「笑い」が生じていなければ、それは「いじめ」と受け取られる。「いじめ」にも笑いが起きることがあるが、「いじる」ときに生じる「笑い」とは質が違うものである。人を「いじる」ときに生じる「笑い」には「哀しさ」と「愛おしさ」が存在する。いじられた方も、その良質な「笑い」を起こしたといった主体性や自負を感じ、「おいしい」という満足感が生じる。
したがって、「いじめ」を減らすためには、組織の中に「笑い」というものが常日頃から起こっている状況をつくることが一番の方法であると考える。「いじめ」が頻繁に起こっている組織や集団では上記で述べたような良質な「笑い」が起こらないために、ある行為が「いじめ」と思わせるような陰湿なものと捉えられ、その雰囲気が周囲に波及し、周りの集団にもネガティブな印象を与えてしまう。組織や集団のなかに良質な「笑い」があれば、一見するといじめと思わせる行為でも「いじる」と周囲の人々は受け取ることができるし、行為が悪質化しないのではないだろうか。いじめが発展してしまう原因の一つとして、周りの人々が無関心な白い目でみてしまうことである。周囲の受け方で、ある集団が1人の人間に与える行為が陰湿なものとして受け取られないし、悪質化もしないのではないか。このように組織の中に、良質な「笑い」が起きている現場を創ることで「いじめ」は減ってくると考える。
竹内健太
twitter:@kentatakeuchi(T☆K)
URL:http://blog.livedoor.jp/thnkks0304/archives/51671244.html
『「いじめ」を「いじる」から考える。』
いじめは様々な環境でみられる悪質な行為であり、社会問題の一つとして取り上げられることが多い。特に、青年期のいじめは教育や成長に対して悪い影響を与えるものであり、いじめを受ける当事者は想像し難い精神的苦痛を受ける。平成20年度の文部科学省の調査では、小・中・高・特別支援学校における、いじめの認知件数は約8万5千件であると言われている。認知されているいじめは氷山の一角と考えることができるため、認知されていないいじめを含めると、多くの教育現場ではいじめが発生していると考えることができる。
私は、いじめは世の中から決して撲滅できないものであると考える。なぜならば、いじめている人間や集団はいじめの行為が楽しく、集団としての結束力が高まるからである。いじめは小さな出来事から発展することが多いが、集団で1人の生徒に対して小さな行為(軽い暴力や暴言、無視など)を行い、精神的苦痛を与え、その反応を見ることは、自分がその生徒よりも優位な立場になった感じ、優越感や快楽を得ることができる。そしてより大きな快感を得られるように与える行為はエスカレートし、それに伴っていじめを与えている集団はますます仲間意識と権威が高まってくるのである。
それでは、どのようにすればいじめは減ってくるのであろうか。ここで「いじめ」ではなく「いじる」を考えることで、「いじめ」の解決の糸口になると考える。「いじる」は日本の関西圏で通じる表現である。「いじる」は「いじめ」と同様に、ある集団が1人の人間に対して叩いたり暴言を浴びせたり、非日常の行為をすることで相手の反応をみて、集団として快感を得るものである。しかし「いじめ」と違って、いじられている方の人間にとっては精神的•心理的苦痛を感じていない。
「いじる」を思い浮かべる上で、参考になるのはお笑い芸人のダチョウ倶楽部の上島竜兵や出川哲朗であろう。叩く、蹴る、熱湯や海やワニの入った川などに突き落とす、集団で叩いたあとに気がつくと服が脱がされており裸になっているなど、一見すると「いじめ」に見える光景(外国人が初めて見たら誰もが「いじめ」と思うだろう)であるが、いじられている本人にとってはこれが「おいしい(私が思うに「おいしい」とは周囲の人間を楽しませたという自負)」のである。なぜならば、「笑い」が起こるからである。
「いじめ」と「いじる」は一見すると同じような光景にみえるが、両者を分ける境界線は「笑い」である。集団の中に「笑い」が生じていなければ、それは「いじめ」と受け取られる。「いじめ」にも笑いが起きることがあるが、「いじる」ときに生じる「笑い」とは質が違うものである。人を「いじる」ときに生じる「笑い」には「哀しさ」と「愛おしさ」が存在する。いじられた方も、その良質な「笑い」を起こしたといった主体性や自負を感じ、「おいしい」という満足感が生じる。
したがって、「いじめ」を減らすためには、組織の中に「笑い」というものが常日頃から起こっている状況をつくることが一番の方法であると考える。「いじめ」が頻繁に起こっている組織や集団では上記で述べたような良質な「笑い」が起こらないために、ある行為が「いじめ」と思わせるような陰湿なものと捉えられ、その雰囲気が周囲に波及し、周りの集団にもネガティブな印象を与えてしまう。組織や集団のなかに良質な「笑い」があれば、一見するといじめと思わせる行為でも「いじる」と周囲の人々は受け取ることができるし、行為が悪質化しないのではないだろうか。いじめが発展してしまう原因の一つとして、周りの人々が無関心な白い目でみてしまうことである。周囲の受け方で、ある集団が1人の人間に与える行為が陰湿なものとして受け取られないし、悪質化もしないのではないか。このように組織の中に、良質な「笑い」が起きている現場を創ることで「いじめ」は減ってくると考える。
竹内健太
twitter:@kentatakeuchi(T☆K)
NO.12012-07-17 01:01:38 yamaguti 16
学校のいじめに関しては、小・中・高と成長の過程で傾向が異なるのではないでしょうか。
小学生は家庭+学校の1クラスが社会の大半であることが多く、言葉遣いや家庭環境など、極めて小さな差異をあげつらって笑いものにすることがあると思います。言語感覚が磨かれていく、駄洒落が好きな年頃でもありますので、そこにおかしさを感じてしまうのでしょうか。他人への想像力が十分育っていないので、不用意に傷つけてしまう面もあると思います。
そこで、問題解決の為には、色んな人が共に暮らしていることを実感できる機会を与えることと、親の価値観の影響がまだ大きいので、親が社会性を意識して生活することで改善できるのではないでしょうか。
中学生になると、大人並に外見が大きくなった自分の力と認識、学校への違和感で、割とみんなが自己の確立に悩んでいる不安定な年代ですよね。まだ自尊心の塊なので、集団の中で共通の話法や内容に乗れないとうまくいかないこともあると思います。学力や暴力やお金の価値と影響力とに思案している、ストレスがかかっているところに、他人への不思慮が重なり問題が大きくなってしまう。
この年代のいじめに対しては、ストレスを低減できるように、各個人が感じているストレスの起源を説明、理解させ、共生意識を啓蒙することが対処法でしょうか。(漠然としてますが)いしめが大きくなりやすいので、状況により学ぶ場所を変えるしかないと思います。そうと言われても義務教育で転校を決断するにはとんでもない勇気が必要ですが。
高校のいじめになると、会社など大人の社会のしくみと変らないと思います。何かの力を有する声の大きな人が仕切っている。いじめる当事者の価値観は固まっていて、自己保身も働くので、いじめにあうもしくは集団の価値観に合わないと思えば速やかに辞めるのが(辞めれれば)良いのではないでしょうか。
最近は自己責任論など他罰的な意見が、消費者から生産者へのクレームのように他責的に論じられているように感じますが、いじめに対しては社会が、多様性を認め、他人を許し認め合う空気を醸し出すことが必要だと思います。
小学生は家庭+学校の1クラスが社会の大半であることが多く、言葉遣いや家庭環境など、極めて小さな差異をあげつらって笑いものにすることがあると思います。言語感覚が磨かれていく、駄洒落が好きな年頃でもありますので、そこにおかしさを感じてしまうのでしょうか。他人への想像力が十分育っていないので、不用意に傷つけてしまう面もあると思います。
そこで、問題解決の為には、色んな人が共に暮らしていることを実感できる機会を与えることと、親の価値観の影響がまだ大きいので、親が社会性を意識して生活することで改善できるのではないでしょうか。
中学生になると、大人並に外見が大きくなった自分の力と認識、学校への違和感で、割とみんなが自己の確立に悩んでいる不安定な年代ですよね。まだ自尊心の塊なので、集団の中で共通の話法や内容に乗れないとうまくいかないこともあると思います。学力や暴力やお金の価値と影響力とに思案している、ストレスがかかっているところに、他人への不思慮が重なり問題が大きくなってしまう。
この年代のいじめに対しては、ストレスを低減できるように、各個人が感じているストレスの起源を説明、理解させ、共生意識を啓蒙することが対処法でしょうか。(漠然としてますが)いしめが大きくなりやすいので、状況により学ぶ場所を変えるしかないと思います。そうと言われても義務教育で転校を決断するにはとんでもない勇気が必要ですが。
高校のいじめになると、会社など大人の社会のしくみと変らないと思います。何かの力を有する声の大きな人が仕切っている。いじめる当事者の価値観は固まっていて、自己保身も働くので、いじめにあうもしくは集団の価値観に合わないと思えば速やかに辞めるのが(辞めれれば)良いのではないでしょうか。
最近は自己責任論など他罰的な意見が、消費者から生産者へのクレームのように他責的に論じられているように感じますが、いじめに対しては社会が、多様性を認め、他人を許し認め合う空気を醸し出すことが必要だと思います。