お金について考える
最近はよく「お金なんていらない」といったことが言われています。お金よりも大事なのは、人とのつながりであるという議論をよく見聞きします。確かにインターネットの普及によって、人と人の「つながり」そのものがセーフティネットになる可能性は出てきています。しかし、ご本人から聞きましたが、湯浅誠さんが立ち上げた「パーソナル・サポートサービス」(※)も、内閣府の予算がついているからこそ、実現した制度だそうです。「新しい公共」を作り、運営していくにも、やはりお金が無ければ難しいというのも、一面の真実だと思います。
別の角度から言うと、お金というのは国家と結びついています。お金の通用力というのは、国家が担保しているわけですから。ドルは、アメリカの軍事力と経済力を背景にあれだけ大量に刷ることができているのです。だから、お金について考えることは、国について考えることになる。「お金なんていらない」という議論は、「国家なんていらない」ということにつながっていく。それはもちろん考えるに値する議論なわけですが、はたして現実に持続可能なのでしょうか。あるいは本当に日本人全体の意思を反映しているのかどうか。ぜひ皆さんの経験も踏まえて、議論しましょう。
※「パーソナル・サポーター」が、生活保護や障害福祉、医療保険、介護保険、雇用保険などの専門知識を生かし、利用者にマン・ツー・マンで寄り添いながら、継続的に相談に乗る制度
NO.222012-08-20 02:22:46 trasque 5
No18:mactoo さんへ
まったく議論に参加せず恐縮ですが…
呼び名について「たる型」なんてどうでしょうか。十年ほど前、家庭科の教科書で見た表現の、そのままパクりだったりするんですが。
必要な栄養素を、たるを構成する木の板に当てはめ、内容物を総合的な健康と見る。
どの板が短くても、内容物はこぼれ出し、健康は結局のところ最も短い板の高さと同じになってしまう。
だから「たる」のように、偏り無く栄養をとりましょうという、図示のしやすい表現でした。
まったく議論に参加せず恐縮ですが…
呼び名について「たる型」なんてどうでしょうか。十年ほど前、家庭科の教科書で見た表現の、そのままパクりだったりするんですが。
必要な栄養素を、たるを構成する木の板に当てはめ、内容物を総合的な健康と見る。
どの板が短くても、内容物はこぼれ出し、健康は結局のところ最も短い板の高さと同じになってしまう。
だから「たる」のように、偏り無く栄養をとりましょうという、図示のしやすい表現でした。
NO.212012-08-18 22:31:13 hakufoundation 5
○○を考える。というと個人的にはその主題に問題があるような気がします。お金やいじめというやつには問題があるのでしょうか?
もちろん問題は見る角度によって何事にもあるわけですが、導き出そうとする答えというものの前提が微妙に食い違っていることと言うのが、この世の中、非常に多い気がしますね。
勿論、ここで行おうと考えられている事は、その食い違いを確認し合い、時にはひとつの形にしようという試みだと感じているので、そういう場があるっていうのはとっても嬉しいです。いらぬ前書きですいません。。。
さて、先日tokyofmのブルーオーシャンで住吉みきさんが夏休みというものを「別の世界」という表現をされていたのにとても魅力を感じました。
「夏休み」という老若男女問わず恐らく誰もが知っているものが実は「別の世界」でもある。
何だか「別の世界」というと、それは自分とはかけ離れた世界の様に考えがちですが、とっても身近に誰もが持っている世界。それが実は別の世界である。
本日、茂木さんがツイートしておられたのと関連しているのですが、お金の問題にしても、いじめの問題にしても私達は誰もが明快にわかる答えがひとつ、確固としてあると考えがちなように思います。
でも原発問題でも大きく別れるように、物事の答えはそんな簡単なものではない。正義も悪も文化や環境によって正反対と言うことも多々あるように思います。
だから多様な世界。
というと言葉は簡単ですが、それを認められる価値観の成熟というのが、どんな問題であれ、様々な問題を抱擁するにはベストな形なのだと思います。まぁベストとなるとまたその基準の話になってしまうのですが…。
何にせよ、基準どうこう、責任の所在どうこうという事をいう前に、とりあえず作る。ということが決定的に現代ではかけているように思います。問題が生じたら、このコンテンツのようにブラッシュアップする。こんな時代だからこそ『トライ&エラー』きっとそういう環境を作るというのが、現代ではどんな問題でも、考え始める基盤であり、物事を考える上での、最低限必要なことなのかなと感じました。
国が違えば貨幣価値も違う様に、きっと答えはひとつではない。「別の世界」がすぐそばにある。一万円の価値ということの見直しであり、交換と言うことの常日頃の見直しが私達に出来る唯一のことの様に思います。
お金の価値もいじめの質も場所によりけり、日本のいじめが良くないのは陰湿であり、対象が理解不能だからの様に考えられがちですが、私達は問題の質を定義したいのではない。とりあえずの緊急避難がしたいのである。
いじめ問題もお金の問題も、「今、ここで」起こっている問題である。お金という信用が揺らいでいるのであれば、その揺らいだ原因の早急な対処が必要であり、それが正か否かではない。と思いますが、そんなことは皆さん理解の上だと思いますので、とりあえずこの私塾からでもどこからでも良いから始めるしかない様に思います。
と言うわけで、勝手に提案ですが、まずは生きる上で必要な食を自給自足し、壁と屋根だけを容易に設けられる場所を見つけるってのはいかがでしょうか?そうすれば自ずと何が必要かわかるような気がします。
かつて、金は所詮物々交換の代替品であり、そこに価値はなかった様に思います。それを物欲や所有欲などなどの贅沢思考が勝手に価値付されたというような気がします。私達はお金が必要なのでしょうか?
食糧が必要なのでしょうか?
寝泊まりする場所が必要なのでしょうか?
自己を満足させてくれるブランドが必要なのでしょうか?
お金とはなにか?
それは多種多様であり、お金という価値が絶対的であるというような幻想に取り憑かれているのを「田舎の生活」ででも体験するのが理想ですねぇ。
お金の価値の『別の世界』そんな世界の体験をしているかどうかが、きっとこれからの生き方を左右するような気がします。
映画「おおかみこどもの雨と雪」のように。
※私とこの映画はなんの関係もありませんが、とても良い映画だと思いまた、この議題とも関連づくと考え宣伝いたしました。
@hakufoundation
もちろん問題は見る角度によって何事にもあるわけですが、導き出そうとする答えというものの前提が微妙に食い違っていることと言うのが、この世の中、非常に多い気がしますね。
勿論、ここで行おうと考えられている事は、その食い違いを確認し合い、時にはひとつの形にしようという試みだと感じているので、そういう場があるっていうのはとっても嬉しいです。いらぬ前書きですいません。。。
さて、先日tokyofmのブルーオーシャンで住吉みきさんが夏休みというものを「別の世界」という表現をされていたのにとても魅力を感じました。
「夏休み」という老若男女問わず恐らく誰もが知っているものが実は「別の世界」でもある。
何だか「別の世界」というと、それは自分とはかけ離れた世界の様に考えがちですが、とっても身近に誰もが持っている世界。それが実は別の世界である。
本日、茂木さんがツイートしておられたのと関連しているのですが、お金の問題にしても、いじめの問題にしても私達は誰もが明快にわかる答えがひとつ、確固としてあると考えがちなように思います。
でも原発問題でも大きく別れるように、物事の答えはそんな簡単なものではない。正義も悪も文化や環境によって正反対と言うことも多々あるように思います。
だから多様な世界。
というと言葉は簡単ですが、それを認められる価値観の成熟というのが、どんな問題であれ、様々な問題を抱擁するにはベストな形なのだと思います。まぁベストとなるとまたその基準の話になってしまうのですが…。
何にせよ、基準どうこう、責任の所在どうこうという事をいう前に、とりあえず作る。ということが決定的に現代ではかけているように思います。問題が生じたら、このコンテンツのようにブラッシュアップする。こんな時代だからこそ『トライ&エラー』きっとそういう環境を作るというのが、現代ではどんな問題でも、考え始める基盤であり、物事を考える上での、最低限必要なことなのかなと感じました。
国が違えば貨幣価値も違う様に、きっと答えはひとつではない。「別の世界」がすぐそばにある。一万円の価値ということの見直しであり、交換と言うことの常日頃の見直しが私達に出来る唯一のことの様に思います。
お金の価値もいじめの質も場所によりけり、日本のいじめが良くないのは陰湿であり、対象が理解不能だからの様に考えられがちですが、私達は問題の質を定義したいのではない。とりあえずの緊急避難がしたいのである。
いじめ問題もお金の問題も、「今、ここで」起こっている問題である。お金という信用が揺らいでいるのであれば、その揺らいだ原因の早急な対処が必要であり、それが正か否かではない。と思いますが、そんなことは皆さん理解の上だと思いますので、とりあえずこの私塾からでもどこからでも良いから始めるしかない様に思います。
と言うわけで、勝手に提案ですが、まずは生きる上で必要な食を自給自足し、壁と屋根だけを容易に設けられる場所を見つけるってのはいかがでしょうか?そうすれば自ずと何が必要かわかるような気がします。
かつて、金は所詮物々交換の代替品であり、そこに価値はなかった様に思います。それを物欲や所有欲などなどの贅沢思考が勝手に価値付されたというような気がします。私達はお金が必要なのでしょうか?
食糧が必要なのでしょうか?
寝泊まりする場所が必要なのでしょうか?
自己を満足させてくれるブランドが必要なのでしょうか?
お金とはなにか?
それは多種多様であり、お金という価値が絶対的であるというような幻想に取り憑かれているのを「田舎の生活」ででも体験するのが理想ですねぇ。
お金の価値の『別の世界』そんな世界の体験をしているかどうかが、きっとこれからの生き方を左右するような気がします。
映画「おおかみこどもの雨と雪」のように。
※私とこの映画はなんの関係もありませんが、とても良い映画だと思いまた、この議題とも関連づくと考え宣伝いたしました。
@hakufoundation
NO.202012-08-17 23:53:20 mactoo 5
国家とお金について
井上靖先生だったか司馬遼太郎先生だったか失念しましたが、古代中国において国のはじまりは邑(ゆう)、つまり村であったと読んだことがあります。
食糧があるところに人々が集まり国が発展していく。人が多くなって養っていけなけくなれば王は殺されたり、人々は他の土地へ移動してしまう…。
古代国家において民衆を支配する手段は食糧でした。
土地に人々を縛り付け、そこから租税を徴収するやりかたを世界規模で実行したのはモンゴル帝国。その崩壊から、大航海時代を経て植民地から租税を徴収したヨーロッパ諸国…。
物流の発展が貨幣の重要性を高めたのは事実ですが、貨幣経済を決定的にしたのは、やはり産業革命だと思います。これを機に、近代国家は民衆を支配する手段として貨幣を用いるようになったのです。
私たちがお金に支配されているような気がして窮屈に感じる事があるのは、手元にあるお金は自分のものでありながら、実は自分のものではないというもどかしさに由来しているように思います。
井上靖先生だったか司馬遼太郎先生だったか失念しましたが、古代中国において国のはじまりは邑(ゆう)、つまり村であったと読んだことがあります。
食糧があるところに人々が集まり国が発展していく。人が多くなって養っていけなけくなれば王は殺されたり、人々は他の土地へ移動してしまう…。
古代国家において民衆を支配する手段は食糧でした。
土地に人々を縛り付け、そこから租税を徴収するやりかたを世界規模で実行したのはモンゴル帝国。その崩壊から、大航海時代を経て植民地から租税を徴収したヨーロッパ諸国…。
物流の発展が貨幣の重要性を高めたのは事実ですが、貨幣経済を決定的にしたのは、やはり産業革命だと思います。これを機に、近代国家は民衆を支配する手段として貨幣を用いるようになったのです。
私たちがお金に支配されているような気がして窮屈に感じる事があるのは、手元にあるお金は自分のものでありながら、実は自分のものではないというもどかしさに由来しているように思います。
NO.192012-08-17 14:30:25 茂木健一郎 10
みなさん、すばらしい投稿、ありがとうございます。
もともと、お互いに相手を評価し合った「適塾」のシステムに想を得て、この掲示板を進化させようとしています。
現状では、初期に投稿されたものほど高評価を得やすいなど、いくつか改善点があるかと思いますが、ぜひ、みなさんの切磋琢磨の場として、利用ください。
私も、時折お邪魔します!
茂木健一郎
もともと、お互いに相手を評価し合った「適塾」のシステムに想を得て、この掲示板を進化させようとしています。
現状では、初期に投稿されたものほど高評価を得やすいなど、いくつか改善点があるかと思いますが、ぜひ、みなさんの切磋琢磨の場として、利用ください。
私も、時折お邪魔します!
茂木健一郎
NO.182012-08-16 17:02:37 mactoo 8
NO15 chigusaotsukiさんへ。
ありがとうございます。反応があるのってこんなに嬉しんですね\(^o^)/
ピラミッド型の良いところは、みんながある程度の知識や情報を共有できる事。
それが前提で企業は安心して雇用ができて経済が回る仕組みです。
非常に効率が良い半面、一度脇道へそれてしまうと戻ってくるのが難しいです。
雑木林を整備して杉の木を植林する感じというか、雑草は存在出来ないです。
それに比べてパルテノン型(他の呼び方募集)は社会の流れは今まで通りですが、個人の生き方は雑木林です。多様性…茂木先生のいうところの偶有性に満ちているはず。
その人の人生が社会的、文化的に充足するためには「柱」を増やす努力が必要不可欠です。
最初の投稿でも書きましたが、どちらが良い悪いではなく、私自身が親の世代の考え方に対応し切れなくて分析しただけですので、同じような悩みにぶつかっている方の参考になれば良いなと思います。
人生における「お金」のあり方は、その人が人生をどのように捉えているかでポジションが変化する。時としてお金そのものに意思があるかのような振る舞いを見せるのは、その人の人生の局面でお金に対するウエイトが高まった時である。
「金は天下の回りもの」とは良く言ったものです。
ありがとうございます。反応があるのってこんなに嬉しんですね\(^o^)/
ピラミッド型の良いところは、みんながある程度の知識や情報を共有できる事。
それが前提で企業は安心して雇用ができて経済が回る仕組みです。
非常に効率が良い半面、一度脇道へそれてしまうと戻ってくるのが難しいです。
雑木林を整備して杉の木を植林する感じというか、雑草は存在出来ないです。
それに比べてパルテノン型(他の呼び方募集)は社会の流れは今まで通りですが、個人の生き方は雑木林です。多様性…茂木先生のいうところの偶有性に満ちているはず。
その人の人生が社会的、文化的に充足するためには「柱」を増やす努力が必要不可欠です。
最初の投稿でも書きましたが、どちらが良い悪いではなく、私自身が親の世代の考え方に対応し切れなくて分析しただけですので、同じような悩みにぶつかっている方の参考になれば良いなと思います。
人生における「お金」のあり方は、その人が人生をどのように捉えているかでポジションが変化する。時としてお金そのものに意思があるかのような振る舞いを見せるのは、その人の人生の局面でお金に対するウエイトが高まった時である。
「金は天下の回りもの」とは良く言ったものです。
NO.172012-08-16 16:06:54 gotoichi 5
リスクヘッジをしていくというのが、
貨幣だけに頼らない生活という意味でもあると思います。
すみません。補足です。
貨幣だけに頼らない生活という意味でもあると思います。
すみません。補足です。
NO.162012-08-16 16:01:43 gotoichi 5
貨幣の歴史でいうと
金本位制でドルと金が交換できた時代がありました。
それがなくなり、本質的には裏付けるものが現在はありません。
金が裏付けるだけの金額では足りないのです。
実際にアルゼンチンのように破綻する国が
これから出てくることはないとは言えません。
円は強いですから、そんなに不安に思うことはありませんが、
今後、本当にお金を蓄えているから大丈夫といえるのか?
は考えておくべきだことだと思います。
言ってみれば、紙切れですから、
価値が下がる可能性があると言えます。
ドルなら安心とも言えませんし、
ユーロなら、元ならとは言えません。
でも、どうなるか?わからないことが
本来の姿であるといえるのかもしれないと
考えています。
すべては不安定であって、だからこそ、
リスクヘッジをして行くのが自然なことである。
どこまでリスクとっていくのか?という発想を
鍛えていくことが今後は必要になると思いました。
安心したいというのは誰もが持つ感情ですし、
否定する必要はないと思います。
そのために、リスクを学ぶ必要があると思います。
金本位制でドルと金が交換できた時代がありました。
それがなくなり、本質的には裏付けるものが現在はありません。
金が裏付けるだけの金額では足りないのです。
実際にアルゼンチンのように破綻する国が
これから出てくることはないとは言えません。
円は強いですから、そんなに不安に思うことはありませんが、
今後、本当にお金を蓄えているから大丈夫といえるのか?
は考えておくべきだことだと思います。
言ってみれば、紙切れですから、
価値が下がる可能性があると言えます。
ドルなら安心とも言えませんし、
ユーロなら、元ならとは言えません。
でも、どうなるか?わからないことが
本来の姿であるといえるのかもしれないと
考えています。
すべては不安定であって、だからこそ、
リスクヘッジをして行くのが自然なことである。
どこまでリスクとっていくのか?という発想を
鍛えていくことが今後は必要になると思いました。
安心したいというのは誰もが持つ感情ですし、
否定する必要はないと思います。
そのために、リスクを学ぶ必要があると思います。
NO.152012-08-16 15:18:48 chigusaotsuki 3
No13 mactoo さんへ
素晴らしいです。
とっても、うなずきながら、読ませていただきました。
私の両親も必死でした。
子どもを、育てるために、多くのことを、犠牲にしていました。
両親は、せっかく、いい伴侶に、めぐりあえて、結婚して、子どもを授かって、
人生が、豊かに、楽しくなっていくはずが、
ここまで、お金を稼ぐために、
苦しんで、みじめな思いをして、
生きてこなければならなかった、
そんな日本の社会は、
やっぱり、変だと思います。
それは、やっぱり、親の世代の価値観が、
ピラミッド型だったからと、思うのですが、
土台が崩れたら、すべてが崩れてしまう、ピラミッド型より、
柱が、一本折れても、楽しい人生が、支えられる、
パルテノン型だったなら、と思います。
お金もそうですが、
気持ち的にも、
これがダメなら、すべてがダメになるのではなくて、
これがダメでも、別のがあるよ、っていう、
選択肢が、たくさん、ほしいですね。
素晴らしいです。
とっても、うなずきながら、読ませていただきました。
私の両親も必死でした。
子どもを、育てるために、多くのことを、犠牲にしていました。
両親は、せっかく、いい伴侶に、めぐりあえて、結婚して、子どもを授かって、
人生が、豊かに、楽しくなっていくはずが、
ここまで、お金を稼ぐために、
苦しんで、みじめな思いをして、
生きてこなければならなかった、
そんな日本の社会は、
やっぱり、変だと思います。
それは、やっぱり、親の世代の価値観が、
ピラミッド型だったからと、思うのですが、
土台が崩れたら、すべてが崩れてしまう、ピラミッド型より、
柱が、一本折れても、楽しい人生が、支えられる、
パルテノン型だったなら、と思います。
お金もそうですが、
気持ち的にも、
これがダメなら、すべてがダメになるのではなくて、
これがダメでも、別のがあるよ、っていう、
選択肢が、たくさん、ほしいですね。
NO.142012-08-16 09:09:23 mactoo 5
No13に投稿したものです。
先に掲げた人生の2つの型で、「お金」を「学校」に置き換えると、前回のテーマのイジメ問題の解決につながるような…すみません、蛇足でした。
先に掲げた人生の2つの型で、「お金」を「学校」に置き換えると、前回のテーマのイジメ問題の解決につながるような…すみません、蛇足でした。
NO.132012-08-16 07:56:52 mactoo 8
茂木先生からのお題に頭をひねる事、約10日。
ふと掲示板を覗いてみると皆さんすごい投稿してる(汗
「お金」って生活と切り離せないからなくなることはないんですよね。どんなに多くの国が興亡を繰り返してもなくなるどころか、益々興隆してますし…。
私は36歳ですが、親の世代とは何かが決定的に違う事で、お互いに分かり合えない事態に何度も遭遇した事を自分なりに分析してみました。
【今までの価値観…親の世代】
・土台に仕事があり、その仕事のおかげでお金を得られる。
(仕事を失うとお金を失う)
・仕事とお金があるから社会的に一人前と認められる。
・結婚する。子供ができる。
・人生は楽しいと思う。
◎今までは仕事をベースにしたピラミッド型の構造。
◎仕事がなくなると他の何も手に入れられなくなり「詰む」
【これからの価値観…自分の世代】
・仕事は土台ではなく柱のひとつ。
・社会福祉、セーフティネットによる最低限のお金の確保。
・評価型経済(失業してても個人活動で社会的に認知される)
・ゆとりはなくても結婚できるし子育てもできる。
・人生は楽しいと思う。
◎楽しい人生は複数の柱に支えられている。
◎仕事以外の柱は意識して作っていかないといけない。
これからの価値観の型はパルテノン神殿を思い浮かべて欲しいのですが (参照 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Acropolis_of_Athens_01361.JPG )、
屋根にあたる部分が、楽しい人生だなぁと思える部分で、一本一本の柱が仕事であったり、家族であったり、社会的信用だったり、お金だったり…。
ピラミッド型が悪いとかパルテノン型が良いとかじゃなくて、自分自身の人生がどちらの構造だととらえているのかが、ポイントなのかなと思います。
お金について考えてあらぬ方向へ行っちゃってますが、感想など書き込んでもらえると嬉しいです。
ふと掲示板を覗いてみると皆さんすごい投稿してる(汗
「お金」って生活と切り離せないからなくなることはないんですよね。どんなに多くの国が興亡を繰り返してもなくなるどころか、益々興隆してますし…。
私は36歳ですが、親の世代とは何かが決定的に違う事で、お互いに分かり合えない事態に何度も遭遇した事を自分なりに分析してみました。
【今までの価値観…親の世代】
・土台に仕事があり、その仕事のおかげでお金を得られる。
(仕事を失うとお金を失う)
・仕事とお金があるから社会的に一人前と認められる。
・結婚する。子供ができる。
・人生は楽しいと思う。
◎今までは仕事をベースにしたピラミッド型の構造。
◎仕事がなくなると他の何も手に入れられなくなり「詰む」
【これからの価値観…自分の世代】
・仕事は土台ではなく柱のひとつ。
・社会福祉、セーフティネットによる最低限のお金の確保。
・評価型経済(失業してても個人活動で社会的に認知される)
・ゆとりはなくても結婚できるし子育てもできる。
・人生は楽しいと思う。
◎楽しい人生は複数の柱に支えられている。
◎仕事以外の柱は意識して作っていかないといけない。
これからの価値観の型はパルテノン神殿を思い浮かべて欲しいのですが (参照 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Acropolis_of_Athens_01361.JPG )、
屋根にあたる部分が、楽しい人生だなぁと思える部分で、一本一本の柱が仕事であったり、家族であったり、社会的信用だったり、お金だったり…。
ピラミッド型が悪いとかパルテノン型が良いとかじゃなくて、自分自身の人生がどちらの構造だととらえているのかが、ポイントなのかなと思います。
お金について考えてあらぬ方向へ行っちゃってますが、感想など書き込んでもらえると嬉しいです。
NO.122012-08-16 01:11:24 hakufoundation 8
論点がずれていたら申し訳ないのですが、
個人的にはお金を得る手段というのが、
社会的な労働でしか得られないということに問題がある様な気がします。よく言われる話ですが、主婦(家事を行うこと)の対価はいくらでしょう?
この対価は家の大きさの違いであったり、服の多さであったり、単純に主人の稼ぎ次第などなどの基準の違いでバラバラになる訳です。
手間に比例して賃金の額が変わる訳でなく、現実的に言えば主人の稼ぎによって変わる訳です。
そして、家庭内の事であるから、この労働の対価というのはとても曖昧になる訳です。
と、例として家事について書いてみましたが、様々なことがらでこのような曖昧さがあるように思います。お茶汲み労働の賃金は?コピーの賃金は?
なんて、そんなことを言い出すと切りがないですし、それに明確に対価をつけるとなんだかとってもくだらない世の中になってしまいそうな気がします。
しかしながら、お茶汲みでお金を要求する様な寂しい人は、日本にはいないことと信じていますが、そんなとっても些細な事柄にまで、対価がつく様な時代になってしまったように思います。
『家事の対価はいくらでしょう?』
こんな問題が出る様になったのはいつからなのでしょうか?
昔の言い方で言えば、家事は家を守る嫁の役目というのが当然で、そんな疑問は思っても見なかった様な気がします。
(すべての旦那がそれに心底感謝していたかは存じ上げませんが。。。)
各々が各々の役目を担い、そして時には助け合っていたように私は思っています。
※女性蔑視ではありませんのでご理解下さい。
『金で買えないものはない』ではありませんが、
お金というものを意識しすぎているのが現代の時代の様に思います。
それだけ、お金というのは残念ながら現代を生きる上では、重要になってしまったということなのかもしれませんね。
しかしながら、個人的には坂口恭平さんではありませんが、態度経済の様な物々交換、必要と必要が求め合う様な相互関係が、お金ではなく、流通すれば良いな。なんて思ってしまいます。
でも、それって以外と簡単な事である様な気がします。家事の対価に関しては、心のそこから感謝してみたり、場合によっては、嫁の喜ぶ事を実行にうつす。もしかしたら、その表現方法もお金だけになってしまうのかもしれませんが、例えば手紙を書いてみるなど、そういったコミュニケーションが、お互いの対価として流通すればとっても素敵な事だと思うんですけどね。
結局、お金を使ってしか様々な事が表現出来なくなってしまったということに問題がある様な気がします。社会的な労働以外でも、人を喜ばせるツール(例えば花を摘むとか)を得る事は出来る訳ですよね。
まとまりが無くすいません。
思ったままを書かせて頂きました。
古賀賢司
@hakufoundation
個人的にはお金を得る手段というのが、
社会的な労働でしか得られないということに問題がある様な気がします。よく言われる話ですが、主婦(家事を行うこと)の対価はいくらでしょう?
この対価は家の大きさの違いであったり、服の多さであったり、単純に主人の稼ぎ次第などなどの基準の違いでバラバラになる訳です。
手間に比例して賃金の額が変わる訳でなく、現実的に言えば主人の稼ぎによって変わる訳です。
そして、家庭内の事であるから、この労働の対価というのはとても曖昧になる訳です。
と、例として家事について書いてみましたが、様々なことがらでこのような曖昧さがあるように思います。お茶汲み労働の賃金は?コピーの賃金は?
なんて、そんなことを言い出すと切りがないですし、それに明確に対価をつけるとなんだかとってもくだらない世の中になってしまいそうな気がします。
しかしながら、お茶汲みでお金を要求する様な寂しい人は、日本にはいないことと信じていますが、そんなとっても些細な事柄にまで、対価がつく様な時代になってしまったように思います。
『家事の対価はいくらでしょう?』
こんな問題が出る様になったのはいつからなのでしょうか?
昔の言い方で言えば、家事は家を守る嫁の役目というのが当然で、そんな疑問は思っても見なかった様な気がします。
(すべての旦那がそれに心底感謝していたかは存じ上げませんが。。。)
各々が各々の役目を担い、そして時には助け合っていたように私は思っています。
※女性蔑視ではありませんのでご理解下さい。
『金で買えないものはない』ではありませんが、
お金というものを意識しすぎているのが現代の時代の様に思います。
それだけ、お金というのは残念ながら現代を生きる上では、重要になってしまったということなのかもしれませんね。
しかしながら、個人的には坂口恭平さんではありませんが、態度経済の様な物々交換、必要と必要が求め合う様な相互関係が、お金ではなく、流通すれば良いな。なんて思ってしまいます。
でも、それって以外と簡単な事である様な気がします。家事の対価に関しては、心のそこから感謝してみたり、場合によっては、嫁の喜ぶ事を実行にうつす。もしかしたら、その表現方法もお金だけになってしまうのかもしれませんが、例えば手紙を書いてみるなど、そういったコミュニケーションが、お互いの対価として流通すればとっても素敵な事だと思うんですけどね。
結局、お金を使ってしか様々な事が表現出来なくなってしまったということに問題がある様な気がします。社会的な労働以外でも、人を喜ばせるツール(例えば花を摘むとか)を得る事は出来る訳ですよね。
まとまりが無くすいません。
思ったままを書かせて頂きました。
古賀賢司
@hakufoundation
NO.112012-08-15 19:39:09 chigusaotsuki 0
No.10 Tomoikukai さんへ
Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.
これは、ケネディー大統領の演説だから、country に、なっているけれど、
もし、演説する人が、学生だったら、
Ask not what your school can do for you - ask what you can do for your school.
に、なりますね。
>「国民の皆さんは、国が皆さんに何ができるかと思うのではなく、皆さんが国に何ができるかをお考えいただきたい」と発言したら、日本では、野党は勿論、与党や、マスコミ総動員で,非難の大合唱が巻き起こること間違いなしです。
そうですね。
国に、守られている意識が、高いですから、
国を、守ろうという意識は、まだまだ低いかも、しれません。
でも、「学生は、学校が学生のために何ができるか、を求めるのではなく、学生は、学校のために自分は、何ができるのかを考える」と発言したら、大絶賛が巻き起こっても、不思議ではないと思うのです。(*^_^*)
「ひと一人の命は地球より思い」(重い? )ですが、地球と比べなくても、いいと、思います。
重要だったのは、事件の最善の解決策を模索することだったのです。
大変勉強になりました。
ありがとうございました。
大月 千草
Twitter @chigusaotsuki
Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.
これは、ケネディー大統領の演説だから、country に、なっているけれど、
もし、演説する人が、学生だったら、
Ask not what your school can do for you - ask what you can do for your school.
に、なりますね。
>「国民の皆さんは、国が皆さんに何ができるかと思うのではなく、皆さんが国に何ができるかをお考えいただきたい」と発言したら、日本では、野党は勿論、与党や、マスコミ総動員で,非難の大合唱が巻き起こること間違いなしです。
そうですね。
国に、守られている意識が、高いですから、
国を、守ろうという意識は、まだまだ低いかも、しれません。
でも、「学生は、学校が学生のために何ができるか、を求めるのではなく、学生は、学校のために自分は、何ができるのかを考える」と発言したら、大絶賛が巻き起こっても、不思議ではないと思うのです。(*^_^*)
「ひと一人の命は地球より思い」(重い? )ですが、地球と比べなくても、いいと、思います。
重要だったのは、事件の最善の解決策を模索することだったのです。
大変勉強になりました。
ありがとうございました。
大月 千草
Twitter @chigusaotsuki
NO.102012-08-15 13:58:48 Tomoikukai 5
Ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.
1961年1月20日、若き、ケネディ大統領が、就任演説の中でアメリカ国民に呼びかけた最も印象深い一節です。多分この部分が、後の大統領、特に、クリントンやオバマ大統領の就任演説や、政治哲学に大きな影響を与えたのではないかと思われます。ケネディ大統領は、演説の中の、このたった一節があったが故に伝説になったといっても過言ではないと思います。
しかし、これを、もし、日本の首相が就任演説で使ったとしたらどうでしょう? 「国民の皆さんは、国が皆さんに何ができるかと思うのではなく、皆さんが国に何ができるかをお考えいただきたい」などと発言したら、野党は勿論、与党や、マスコミ総動員で,非難の大合唱が巻き起こること間違いなしです。国民も当然のごとくそれに続きます。首相は、あっという間に孤立無援となってしまうでしょう。
また、私は以前、青年海外協力隊の一員として、バングラデシュに赴任したのですが、赴任して、ひと月あまりで、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きました。その時日本政府は、「ひと一人の命は地球より思い」という「迷言」を残して、600万ドルの身代金を払うなど、犯人の要求には、すべて応じてしまいました。その後、模倣犯が続いたことは、いうまでもありません。このとき言われたのが、「日本の常識、世界の非常識」という言葉で、それからの日本の外交はこの言葉の通りを歩むことになりました。私は未だに、あの時の言葉の意味が分かりません。本当にひと一人の命と地球を引き換えにしてもいいと思っていたのでしょうか。これは単に、結果責任を逃れる為に、言い繕った言葉ではなかったのだろうかと思わずにはいられません。
これらのことは、日本の政治家というものは、あるいは指導者と言われる人達は、首相も含めて、大所高所にたった政策随行者というよりは、ある特定団体や地域の、利益(既得権)代表者にすぎないということを政治家自身も認め、有権者もそれを当然のことと思っているということを物語っていないでしょうか? 実際、いつの選挙でも、選挙民に対して、その候補者がいかにその地域に利益をもたらすことができるかが重大な争点になっているようです。そして、日本の将来を考えて、必ずしも目の前に結果が現れないような政策を表明する候補者は出てこないし、出たとしても、当選するみこみは全くないといっていいと思います。そして、国家予算に政策実行の余裕がなく、借金が膨大にふくれあがってしまった今、このまま、予算の分捕り合戦を続けていたら、日本は、早晩、空中分解してしまうということが、誰の目にも明らかになってきました。
そんな中、今度の衆議院選挙が行われようとしています。その時がくるまで、あと何ヶ月あるか解りませんが、今度の選挙こそ、ケネディ大統領が言ったように、私たちは、日本の将来の為に、何を我慢して、何を実現しようとするのかを、私たち自身の頭で考えなくてはならない時なのだと思います。つまり、この国のお金の流れを、自分自身の既得権や損得を離れて、その枠組みを決定することに積極的に関わらなければいけないのだと思います。私たちは、日本国民であるというだけで、多くの既得権を持ってしまっています。国がつぶれてしまいかねない今、私たちはこの既得権さえも、見直す視点が要求されていると言っていいでしょう。
国や、地方の自治体において、ある政策を実現させようとすると、事業計画を立てて、それに対して、予算を配分していくという手法が一般的ですが、改革時で前例のない政策は、実行しながら必要な資金を獲得していくという手法も考えられるのではないかと思います。そうやって、大まかに予算を確保しておいて、余ったら返すというやり方は、少ないお金をより効果的に使える方法になりうると思います。
そういう枠組みで、今後のお金の流れを考えてみると、今後の政治の仕組みを変えるには、まず、国民の、生存権以外の既得権は一度ご破算にしたところから考えてみるのが最も有効な方法であると思います。それにはより単純化した社会保障である、ベーシックインカムの考え方を取り入れるのが、日本人として、最も受け入れやすい方法ではないかと思えます。もしこの制度を導入することができたら、後の予算配分は、今ある既得権のことをほとんど考えることなく、本当に必要な部分のみに有効的に割り振ることができると思います。例え、会社が倒産して、職がなくなっても、少なくとも家族が路頭に迷うことだけはなくなります。つまり、仕事の流動性が、圧倒的に増すことになります。
そういう基盤が作られたとして、こんどは、どこに限られた予算を割り振るかということですが、それは、誰もが考える通り、教育しかないと思います。これからますますグローバル化していく世界の中で、日本が生き残る為には、国民一人一人がそのことを理解し、世界に互していけるだけの人材を作らなければならないことは誰の目にも明らかなことだと思います。それには、今の教育制度ではとても対応しきれないことも、だんだんとはっきりしてきました。
今、グローバルに通用する人材とは、論理的なものの考え方ができて、英語が話せる。そして、インターネットに精通しているということが挙げられます。そして、これらの一つ一つは教育の成果として獲得できる能力です。しかもその能力の獲得は、アブソーベント・エイジ と呼ばれるゼロ才から七才までに、獲得できれば、最も効率よく、しかも深みのある能力となります。それに、利他心の基となる思いやりの心も、この時期に形成されます。しかし、今の教育制度は、ここのところを全く外しています。アブソーベント・エイジの時期を外せば、教育効果は、極端に落ちるし、初期教育の失敗を、小中学校で取り戻そうとしても不可能に近い。今の、学校で起きている、いじめや学級崩壊の問題は、この、アブソーベント・エイジ の教育をないがしろにしたところから当然に起こってきた結果と見ることができるでしょう。逆に、この時期の教育がうまくいけば、後は、放っておいても、自分の興味に従って、いろんなことにチャレンジする子が出来上がってきます。いま、各分野で、若くから活躍している人達は、ほとんど例外なく、この、初期教育の成功例ではないかと思われます。
初期教育の大切さは、何も、私が言い始めたことではなく、昔から誰もが知っていることです。今でも、多くの研究機関で、教育学、心理学、語学の中(ただ、バイリンガル教育については、日本では、ほとんど研究されていないようであるが)で研究されていると思われますが、その研究成果が教育の現場には全く反映されないのは、学校も含めた、教育産業における既得権の壁のせいではないかと思われます。つまり、今までやってきたことを少しでもかえようとすると、多くの人の利害がぶつかり合ってしまい、結局挫折してしまうということなのだと思われます。しかし、今、教育は全く違う理念の基に再構築されなければならない時だと思います。これも、一度すべての既得権を度外視したところから、見直す必要があると思われます。まず、第一義的に考えなければいけないのは、アブソーベント・エイジの教育をいかに成功させるかということであろうと思われます。
国のお金をどう使うかに焦点を当てて書いてきました。今までの政治は、それぞれの既得権を基本として、政策や予算の配分がなされてきました。しかし、今日のグローバル化の中で利己的なものの考え方からお金を使うというやり方では、どんな政策も行き詰まりが見えています。これからは、広く意見を集めながらも、日本の将来を見据えて、大所高所にたった政策の随行が求められます。
折しも、私の地方では、月遅れのお盆の最中です。お盆とは、自己中心に陥ってしまった人が、死んだ後、逆さつり地獄(ウラバーナ)で苦しみ、それを知った子孫が利他の行をしてそれを救い出すという故事に因んだ行事だそうですが、
Ask what you can do for your country.
は、まさに利他の行と言えそうです。
1961年1月20日、若き、ケネディ大統領が、就任演説の中でアメリカ国民に呼びかけた最も印象深い一節です。多分この部分が、後の大統領、特に、クリントンやオバマ大統領の就任演説や、政治哲学に大きな影響を与えたのではないかと思われます。ケネディ大統領は、演説の中の、このたった一節があったが故に伝説になったといっても過言ではないと思います。
しかし、これを、もし、日本の首相が就任演説で使ったとしたらどうでしょう? 「国民の皆さんは、国が皆さんに何ができるかと思うのではなく、皆さんが国に何ができるかをお考えいただきたい」などと発言したら、野党は勿論、与党や、マスコミ総動員で,非難の大合唱が巻き起こること間違いなしです。国民も当然のごとくそれに続きます。首相は、あっという間に孤立無援となってしまうでしょう。
また、私は以前、青年海外協力隊の一員として、バングラデシュに赴任したのですが、赴任して、ひと月あまりで、ダッカ日航機ハイジャック事件が起きました。その時日本政府は、「ひと一人の命は地球より思い」という「迷言」を残して、600万ドルの身代金を払うなど、犯人の要求には、すべて応じてしまいました。その後、模倣犯が続いたことは、いうまでもありません。このとき言われたのが、「日本の常識、世界の非常識」という言葉で、それからの日本の外交はこの言葉の通りを歩むことになりました。私は未だに、あの時の言葉の意味が分かりません。本当にひと一人の命と地球を引き換えにしてもいいと思っていたのでしょうか。これは単に、結果責任を逃れる為に、言い繕った言葉ではなかったのだろうかと思わずにはいられません。
これらのことは、日本の政治家というものは、あるいは指導者と言われる人達は、首相も含めて、大所高所にたった政策随行者というよりは、ある特定団体や地域の、利益(既得権)代表者にすぎないということを政治家自身も認め、有権者もそれを当然のことと思っているということを物語っていないでしょうか? 実際、いつの選挙でも、選挙民に対して、その候補者がいかにその地域に利益をもたらすことができるかが重大な争点になっているようです。そして、日本の将来を考えて、必ずしも目の前に結果が現れないような政策を表明する候補者は出てこないし、出たとしても、当選するみこみは全くないといっていいと思います。そして、国家予算に政策実行の余裕がなく、借金が膨大にふくれあがってしまった今、このまま、予算の分捕り合戦を続けていたら、日本は、早晩、空中分解してしまうということが、誰の目にも明らかになってきました。
そんな中、今度の衆議院選挙が行われようとしています。その時がくるまで、あと何ヶ月あるか解りませんが、今度の選挙こそ、ケネディ大統領が言ったように、私たちは、日本の将来の為に、何を我慢して、何を実現しようとするのかを、私たち自身の頭で考えなくてはならない時なのだと思います。つまり、この国のお金の流れを、自分自身の既得権や損得を離れて、その枠組みを決定することに積極的に関わらなければいけないのだと思います。私たちは、日本国民であるというだけで、多くの既得権を持ってしまっています。国がつぶれてしまいかねない今、私たちはこの既得権さえも、見直す視点が要求されていると言っていいでしょう。
国や、地方の自治体において、ある政策を実現させようとすると、事業計画を立てて、それに対して、予算を配分していくという手法が一般的ですが、改革時で前例のない政策は、実行しながら必要な資金を獲得していくという手法も考えられるのではないかと思います。そうやって、大まかに予算を確保しておいて、余ったら返すというやり方は、少ないお金をより効果的に使える方法になりうると思います。
そういう枠組みで、今後のお金の流れを考えてみると、今後の政治の仕組みを変えるには、まず、国民の、生存権以外の既得権は一度ご破算にしたところから考えてみるのが最も有効な方法であると思います。それにはより単純化した社会保障である、ベーシックインカムの考え方を取り入れるのが、日本人として、最も受け入れやすい方法ではないかと思えます。もしこの制度を導入することができたら、後の予算配分は、今ある既得権のことをほとんど考えることなく、本当に必要な部分のみに有効的に割り振ることができると思います。例え、会社が倒産して、職がなくなっても、少なくとも家族が路頭に迷うことだけはなくなります。つまり、仕事の流動性が、圧倒的に増すことになります。
そういう基盤が作られたとして、こんどは、どこに限られた予算を割り振るかということですが、それは、誰もが考える通り、教育しかないと思います。これからますますグローバル化していく世界の中で、日本が生き残る為には、国民一人一人がそのことを理解し、世界に互していけるだけの人材を作らなければならないことは誰の目にも明らかなことだと思います。それには、今の教育制度ではとても対応しきれないことも、だんだんとはっきりしてきました。
今、グローバルに通用する人材とは、論理的なものの考え方ができて、英語が話せる。そして、インターネットに精通しているということが挙げられます。そして、これらの一つ一つは教育の成果として獲得できる能力です。しかもその能力の獲得は、アブソーベント・エイジ と呼ばれるゼロ才から七才までに、獲得できれば、最も効率よく、しかも深みのある能力となります。それに、利他心の基となる思いやりの心も、この時期に形成されます。しかし、今の教育制度は、ここのところを全く外しています。アブソーベント・エイジの時期を外せば、教育効果は、極端に落ちるし、初期教育の失敗を、小中学校で取り戻そうとしても不可能に近い。今の、学校で起きている、いじめや学級崩壊の問題は、この、アブソーベント・エイジ の教育をないがしろにしたところから当然に起こってきた結果と見ることができるでしょう。逆に、この時期の教育がうまくいけば、後は、放っておいても、自分の興味に従って、いろんなことにチャレンジする子が出来上がってきます。いま、各分野で、若くから活躍している人達は、ほとんど例外なく、この、初期教育の成功例ではないかと思われます。
初期教育の大切さは、何も、私が言い始めたことではなく、昔から誰もが知っていることです。今でも、多くの研究機関で、教育学、心理学、語学の中(ただ、バイリンガル教育については、日本では、ほとんど研究されていないようであるが)で研究されていると思われますが、その研究成果が教育の現場には全く反映されないのは、学校も含めた、教育産業における既得権の壁のせいではないかと思われます。つまり、今までやってきたことを少しでもかえようとすると、多くの人の利害がぶつかり合ってしまい、結局挫折してしまうということなのだと思われます。しかし、今、教育は全く違う理念の基に再構築されなければならない時だと思います。これも、一度すべての既得権を度外視したところから、見直す必要があると思われます。まず、第一義的に考えなければいけないのは、アブソーベント・エイジの教育をいかに成功させるかということであろうと思われます。
国のお金をどう使うかに焦点を当てて書いてきました。今までの政治は、それぞれの既得権を基本として、政策や予算の配分がなされてきました。しかし、今日のグローバル化の中で利己的なものの考え方からお金を使うというやり方では、どんな政策も行き詰まりが見えています。これからは、広く意見を集めながらも、日本の将来を見据えて、大所高所にたった政策の随行が求められます。
折しも、私の地方では、月遅れのお盆の最中です。お盆とは、自己中心に陥ってしまった人が、死んだ後、逆さつり地獄(ウラバーナ)で苦しみ、それを知った子孫が利他の行をしてそれを救い出すという故事に因んだ行事だそうですが、
Ask what you can do for your country.
は、まさに利他の行と言えそうです。
NO.92012-08-12 09:04:17 chigusaotsuki 0
例えば、医療とか、教育という分野では、
お金を稼ぐことができない人も、
お金を稼ぐことができる人と、同じ、医療や教育が、受けられるのが、
国家の制度として、あってほしいです。
それは、人の命や、学ぶ権利は、
お金を持っている、持っていないにかかわらず、
皆に、提供されるものだからです。
そのような国のサービスを、良くするために、
日本のお金の質が、よくなって、
しいては、世界から認められる国家として、成り立つことができたら、
理想ですよね。
手持ちのお金が、
めぐりめぐって、
そんなサービスのために使われるかもしれない、そう思うと、
誰かの役に立てているみたいで、
うれしいですね。
お金を稼ぐことができない人も、
お金を稼ぐことができる人と、同じ、医療や教育が、受けられるのが、
国家の制度として、あってほしいです。
それは、人の命や、学ぶ権利は、
お金を持っている、持っていないにかかわらず、
皆に、提供されるものだからです。
そのような国のサービスを、良くするために、
日本のお金の質が、よくなって、
しいては、世界から認められる国家として、成り立つことができたら、
理想ですよね。
手持ちのお金が、
めぐりめぐって、
そんなサービスのために使われるかもしれない、そう思うと、
誰かの役に立てているみたいで、
うれしいですね。
NO.82012-08-12 08:27:16 masami 5
貨幣の流通について、内田樹さんが書かれている文章があります。
http://blog.tatsuru.com/
この文章を読んで、お金についての感覚は、時代によって変わっていき、今はお金によって人が動かされている部分がとても肥大しているのかもしれない、と思いました。
皆さんの投稿を読みながら、お金についていろいろ考えていますが、実際に手にとれる物だけでなく、目に見えないものへも対価が払われる今、対価を払うということの心に及ぼす影響を考え始めると、とりとめがなく、焦点が絞れません。
そして今朝、内田樹さんの「市場からの撤収」を読み、とりとめがない部分にまとまりをつけてもらったように思えたので、ご紹介しました。
私は最後の文章が心に残りました、
「それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、あらためてここに記すのである。」
お金はあくまでも、道具であることを、常に意識していることが大切なのだと思います。
このお金の使い方は、人間的成熟に資するだろうか?という問いを常に持ち続けていたいと思いました。
http://blog.tatsuru.com/
この文章を読んで、お金についての感覚は、時代によって変わっていき、今はお金によって人が動かされている部分がとても肥大しているのかもしれない、と思いました。
皆さんの投稿を読みながら、お金についていろいろ考えていますが、実際に手にとれる物だけでなく、目に見えないものへも対価が払われる今、対価を払うということの心に及ぼす影響を考え始めると、とりとめがなく、焦点が絞れません。
そして今朝、内田樹さんの「市場からの撤収」を読み、とりとめがない部分にまとまりをつけてもらったように思えたので、ご紹介しました。
私は最後の文章が心に残りました、
「それが人間的成熟に資する限り貨幣は有用であり、人間的成熟を阻害するなら有害無用のものである。このことは久しく「人類の常識」であったのだが、いつのまにかこの常識を語る人が少数派に転落したので、あらためてここに記すのである。」
お金はあくまでも、道具であることを、常に意識していることが大切なのだと思います。
このお金の使い方は、人間的成熟に資するだろうか?という問いを常に持ち続けていたいと思いました。
NO.72012-08-12 00:45:36 yamaguti 5
GNPを上げるための国の政策か、企業がアメリカ文化を後追い導入した影響なのか、社会福祉の充実なのか私には解りませんが、戦後日本は、古来の隣組の相互扶助の体制から、消費社会へと変貌を遂げてきています。
個人的な経験則ですが、戦後食べる事に困りお金を大事に貯金している親世代、食べるのに不自由したことがなく、電子マネー等を活用している私達、幼い時から遊ぶのさえ有料の施設に親しんでいる子供達と、段々お金との距離が近く、扱う時期が早くなり、子供達に到っては消費者として生まれてきたかのようにお金との親和性が高いと感じます。
それがモラルハザードを起しているのですよね。
私達はどうしたら良いのでしょうか。
最近私は、お金を使って商品を買った後には、爽快感と充実感と少しの後ろめたさというか寂しさを感じます。それはお金を支払い、良質のサービスを受け取っても、それは店員さんがお金の対価として提示した商品であり、私個人への敬意ではないことへのさみしさだと思います。
人に喜んでもらうこと、存在を認めてもらうことが人としての幸せの一つであるならば、お金を使うことにより得られるリスペクトは擬似の敬意であり、お金を身体化するほど、それを自分への敬意を誤認してしまい、それを生じさせてくれるお金への依存を増加させてしまうのではないかと思います。
対人関係から得られる感謝の表現は、消費者として得られる表現を上回るでしょう。でもそういう無償の相互扶助のグループはどうやって立ち上げればいいのでしょうか。私には近所となるべく仲良くすることぐらいしか解らない。
個人的な経験則ですが、戦後食べる事に困りお金を大事に貯金している親世代、食べるのに不自由したことがなく、電子マネー等を活用している私達、幼い時から遊ぶのさえ有料の施設に親しんでいる子供達と、段々お金との距離が近く、扱う時期が早くなり、子供達に到っては消費者として生まれてきたかのようにお金との親和性が高いと感じます。
それがモラルハザードを起しているのですよね。
私達はどうしたら良いのでしょうか。
最近私は、お金を使って商品を買った後には、爽快感と充実感と少しの後ろめたさというか寂しさを感じます。それはお金を支払い、良質のサービスを受け取っても、それは店員さんがお金の対価として提示した商品であり、私個人への敬意ではないことへのさみしさだと思います。
人に喜んでもらうこと、存在を認めてもらうことが人としての幸せの一つであるならば、お金を使うことにより得られるリスペクトは擬似の敬意であり、お金を身体化するほど、それを自分への敬意を誤認してしまい、それを生じさせてくれるお金への依存を増加させてしまうのではないかと思います。
対人関係から得られる感謝の表現は、消費者として得られる表現を上回るでしょう。でもそういう無償の相互扶助のグループはどうやって立ち上げればいいのでしょうか。私には近所となるべく仲良くすることぐらいしか解らない。
NO.62012-08-11 17:55:03 sunameli 5
(二度目の投稿失礼します)
No.3で「働かざるもの食うべからず」という言葉を使いましたが、この言葉についてTomoikukaiさんが言及してくださっていたので、少しだけ補足意見を述べさせていただきます。
「人に押し付ける概念ではない」というのはその通りだと思います。
戦争を体験した世代は、つまり、身近な人を亡くし、紙幣が紙くずになるような体験をした世代は「お金なんて頼れない。人間は助け合わなくては生きていけない」という実感を持っていたのではないかと思うのです。しかし私たちが同じレベルでそれを実感することは難しい。
しかし、例えば自動的にお金が手に入るよう働き方を
すべての人間が選んだときに、(不可能ではありますが)
それの善悪は別としても、経済、お金が持っている前向きな機能は失われている気がします。
結果的にそういう志を抱かない、抱くこと自体が難しい世の中になっているのだから、その動機に頼らない、違うしくみでお金と労働と幸福がうまく回る社会を作ることが大事なんじゃないかと思います。
「お金のしくみが必要」という考えは、私の中では
「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを効率化した「結果」に思えます。
しかし、「お金を持っていた方が効率的に経済活動ができる=人と関わり生きていくことができるが、お金を持っていなくても経済活動ができる=人と関わり生きていくことができる」ということを、完全に忘れかけているので、それをできれば体で分かりたい。
で、最近の日本は震災が起こるまでは「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」という考えがなくなってたと思うのです。
「働かざるもの食うべからず」という考えは、この「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを体で分かったあとに来る自分に対する教訓なのかなと思います。
そういう意味では、日本は今、Tomoikukaiさんのおっしゃるようにすごろくで「3コマ戻る」ように、スタートラインにもう一度立たされているのかなと。そのときに、利他主義を上から教えるのではなくて、できれば「しくみ」として作りたい。「宗教」という飛び道具がないので、難しいところだと思うのですが。
くどくて恐縮です。脱線になっていたらすみません。
No.3で「働かざるもの食うべからず」という言葉を使いましたが、この言葉についてTomoikukaiさんが言及してくださっていたので、少しだけ補足意見を述べさせていただきます。
「人に押し付ける概念ではない」というのはその通りだと思います。
戦争を体験した世代は、つまり、身近な人を亡くし、紙幣が紙くずになるような体験をした世代は「お金なんて頼れない。人間は助け合わなくては生きていけない」という実感を持っていたのではないかと思うのです。しかし私たちが同じレベルでそれを実感することは難しい。
しかし、例えば自動的にお金が手に入るよう働き方を
すべての人間が選んだときに、(不可能ではありますが)
それの善悪は別としても、経済、お金が持っている前向きな機能は失われている気がします。
結果的にそういう志を抱かない、抱くこと自体が難しい世の中になっているのだから、その動機に頼らない、違うしくみでお金と労働と幸福がうまく回る社会を作ることが大事なんじゃないかと思います。
「お金のしくみが必要」という考えは、私の中では
「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを効率化した「結果」に思えます。
しかし、「お金を持っていた方が効率的に経済活動ができる=人と関わり生きていくことができるが、お金を持っていなくても経済活動ができる=人と関わり生きていくことができる」ということを、完全に忘れかけているので、それをできれば体で分かりたい。
で、最近の日本は震災が起こるまでは「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」という考えがなくなってたと思うのです。
「働かざるもの食うべからず」という考えは、この「人間は助け合い、関わりあうことなくしては生きていけない」ということを体で分かったあとに来る自分に対する教訓なのかなと思います。
そういう意味では、日本は今、Tomoikukaiさんのおっしゃるようにすごろくで「3コマ戻る」ように、スタートラインにもう一度立たされているのかなと。そのときに、利他主義を上から教えるのではなくて、できれば「しくみ」として作りたい。「宗教」という飛び道具がないので、難しいところだと思うのですが。
くどくて恐縮です。脱線になっていたらすみません。
NO.52012-08-11 16:20:27 Tomoikukai 5
「働かざるもの食うべからず」とは、聖書に出てくる言葉だそうですが、共産主義革命では、プロレタリアートがブルジョワジーを一掃するための明快な思想のバックボーンになったように思われます。しかし、共産化が進むにつれて、労働者のサボタージュがおこり、地位、立場の既得権化(利己主義化)が進んだ結果、働かないものほど得をするという社会になっていきました。欲望をモチベーションにしたとはいえ、働くことによって際限なくお金を稼ぐ自由主義に経済力ではとてもかなわなくなって、旧ソビエト連邦は崩壊していきました。
方や、日本でも、「働かざるもの食うべからず」は、儒教的道徳観念として、他の国以上に定着した考え方です。しかし、この考え方は、先の、ソ連邦に見らるように、今では必ずしも国家の繁栄をもたらす原動力になるとはいえないような気がします。というのは、日本のように工業化された国では、機械化やコンピュータ化が進み、個人の労働が、供給される生産材の量や質とはあまり関係なくなってきたからです。こういう状況では、政治がよほどしっかりしていないと、富の配分は、既得権化(利己主義化)していかざるを得ないと思います。
今、富の配分においても、ほとんどの人が賛成しそうな考え方は、「働かざるもの食うべからず」です。そして、この考えにたてば、一生懸命働いてきた人の年金を減らして、ろくに働きもしないで遊んでばかりいる若い人達にその一部を回すなんていうことはとんでもないということになるのでしょう。
確かに「働かざるもの食うべからず」あるいは「労働の美徳」をいうことは、昔は特に意味があったし、いまでも、働かないでぐうたらしているのを認めるのはなかなか楽ではありません。しかし、これらの価値観が本当に意味を持つのは、昔も今も、自分自身に問いかける時です。もともと、「働かざるもの食うべからず」はキリスト教の概念です。それは、神と私の一対一の契約である以上、自分自身の問題と捉えることであって、他人に対して、批判的にいうものではありません。かたや、儒教的価値観にしても、私自身が利他的考え方をすることが前提となっていますから、「働かない私が、皆さんの分の食べ物を食べてしまうのは誠に申し訳がない」という具合に捉えるべきで、「働かないお前に食べる資格はない」というような捉え方は、鬼か蛇のような考え方だということになるでしょう。
私は先の投稿(No.2)で、日本人は、戦後教育と繁栄した資本主義経済の中で儒教という利他の皮をかぶりながら、利己主義者になってしまったと書きましたが、利己主義の目で、儒教の価値観に触れると、いつもその枠から外れる他人を批判します。たとえば、明るい挨拶運動があるとします。運動だから、個人の自由に任せればいいと思うのですが、日本では、ほとんど強制です。つまり、挨拶しない子は、悪い子であり、矯正の対象となってしまいます。挨拶そのものは利他の行動であるはずなのに、強制されることによって、心の中はますます利己的になってしまう(とりあえず挨拶しとけば文句ないだろう)ということです。
自利利他円満という言葉があります。人の為に尽し、他人の幸福を心から願うことこそが自分自身の内面を磨いていくということでしょうか。
それに対して、自損損他ということは、他人を貶め、不幸に追いやることは、結局自分を傷つけ自分自身を貶めてしまうということでしょうか。
今の日本を見ていると、自損損他の意見や行動が巷にあふれています。それが儒教の皮をかぶっているので、お互いに自分の正当性を主張して譲らないという具合になっているようです。
人間の世の中で、理想とされるのは、文句なく自利々他円満の世界でしょう。これを実現する為には、まず、一人一人が利己主義者に陥ってしまったことを自覚しなければ始まりません。どうにかして、それができれば、後は簡単で、自分の損得からはなれた視点に立って、政治や世の中を眺められるようになると思います。本当の民主主義というものは結局利他と利他(演技じゃなく)の関係でしか成立しないもののようです。
「歎異抄」という本の中に「悪人正機」の章があります。この中で、悪人とは、自分自身の中にどうしようもない煩悩を見いだし、慚愧する人であり、善人とは、自分は立派な生き方をしてきたが故に、そうしない人間を裁判官のように裁くような人とされています。私は、この「悪人正機」は、人は、凡夫(自分も他人と同じでどうしようもない煩悩を持った人間)の自覚を持って初めて、他人と心が通じ合う関係が成り立つのだということを言っているように思います。だって、心が通じ合わなかったら、いくら意見が一致しても少しもうれしくないでしょう?
方や、日本でも、「働かざるもの食うべからず」は、儒教的道徳観念として、他の国以上に定着した考え方です。しかし、この考え方は、先の、ソ連邦に見らるように、今では必ずしも国家の繁栄をもたらす原動力になるとはいえないような気がします。というのは、日本のように工業化された国では、機械化やコンピュータ化が進み、個人の労働が、供給される生産材の量や質とはあまり関係なくなってきたからです。こういう状況では、政治がよほどしっかりしていないと、富の配分は、既得権化(利己主義化)していかざるを得ないと思います。
今、富の配分においても、ほとんどの人が賛成しそうな考え方は、「働かざるもの食うべからず」です。そして、この考えにたてば、一生懸命働いてきた人の年金を減らして、ろくに働きもしないで遊んでばかりいる若い人達にその一部を回すなんていうことはとんでもないということになるのでしょう。
確かに「働かざるもの食うべからず」あるいは「労働の美徳」をいうことは、昔は特に意味があったし、いまでも、働かないでぐうたらしているのを認めるのはなかなか楽ではありません。しかし、これらの価値観が本当に意味を持つのは、昔も今も、自分自身に問いかける時です。もともと、「働かざるもの食うべからず」はキリスト教の概念です。それは、神と私の一対一の契約である以上、自分自身の問題と捉えることであって、他人に対して、批判的にいうものではありません。かたや、儒教的価値観にしても、私自身が利他的考え方をすることが前提となっていますから、「働かない私が、皆さんの分の食べ物を食べてしまうのは誠に申し訳がない」という具合に捉えるべきで、「働かないお前に食べる資格はない」というような捉え方は、鬼か蛇のような考え方だということになるでしょう。
私は先の投稿(No.2)で、日本人は、戦後教育と繁栄した資本主義経済の中で儒教という利他の皮をかぶりながら、利己主義者になってしまったと書きましたが、利己主義の目で、儒教の価値観に触れると、いつもその枠から外れる他人を批判します。たとえば、明るい挨拶運動があるとします。運動だから、個人の自由に任せればいいと思うのですが、日本では、ほとんど強制です。つまり、挨拶しない子は、悪い子であり、矯正の対象となってしまいます。挨拶そのものは利他の行動であるはずなのに、強制されることによって、心の中はますます利己的になってしまう(とりあえず挨拶しとけば文句ないだろう)ということです。
自利利他円満という言葉があります。人の為に尽し、他人の幸福を心から願うことこそが自分自身の内面を磨いていくということでしょうか。
それに対して、自損損他ということは、他人を貶め、不幸に追いやることは、結局自分を傷つけ自分自身を貶めてしまうということでしょうか。
今の日本を見ていると、自損損他の意見や行動が巷にあふれています。それが儒教の皮をかぶっているので、お互いに自分の正当性を主張して譲らないという具合になっているようです。
人間の世の中で、理想とされるのは、文句なく自利々他円満の世界でしょう。これを実現する為には、まず、一人一人が利己主義者に陥ってしまったことを自覚しなければ始まりません。どうにかして、それができれば、後は簡単で、自分の損得からはなれた視点に立って、政治や世の中を眺められるようになると思います。本当の民主主義というものは結局利他と利他(演技じゃなく)の関係でしか成立しないもののようです。
「歎異抄」という本の中に「悪人正機」の章があります。この中で、悪人とは、自分自身の中にどうしようもない煩悩を見いだし、慚愧する人であり、善人とは、自分は立派な生き方をしてきたが故に、そうしない人間を裁判官のように裁くような人とされています。私は、この「悪人正機」は、人は、凡夫(自分も他人と同じでどうしようもない煩悩を持った人間)の自覚を持って初めて、他人と心が通じ合う関係が成り立つのだということを言っているように思います。だって、心が通じ合わなかったら、いくら意見が一致しても少しもうれしくないでしょう?
NO.42012-08-11 12:32:02 ryosuke85 5
お金について
竹中平蔵さんの言葉を拝借して…
お金というのは「国の信頼度」であり、経済学は英語で「Economics(エコノミクス)」だが、その源流はギリシャ語の「Oikonomikos(オイコノミクス)」であり、この意味は共同体の在り方、というものです。
この言葉に頭をガツンと打たれたのですが、経済学というのは、日本の中で、引いて言えば世界の中でどういう風なあり方をしていけばいいのかを考える学問であるという事です。
また、「円」の価値は、=日本の世界的な価値を示しているのはいうまでも無いのですが、これは日本の中でも当然あるわけで、僕たち日本人が1万円を非常に高価な紙幣だと思っているというのは、日本という国を信頼し、信用しているからであり、この信頼がなければ日本という国は動いていないのと同じことになります。
また、他の国に行って、他国の紙幣を手にした瞬間に感じる“陳腐”な感覚を、同じく竹中さんは「信頼感が無いから」と説明します。つまり、われわれ日本人は日本の円という紙幣の価値については、長年使ってきたことから信頼していますが、他の国の紙幣に関しては使い慣れてない僕みたいな人間は、それを信用できていないので、おもちゃのお金のように感じてしまいます。
それを踏まえた上でお金が必要なのか、必要でないのか、という点に触れると、僕は必要なものだと思っています。代替物が無いのであれば。
例えば、円では無く、織物が日本の貨幣だと決まってしまって、それが流通しうるのであれば、それでいいと思います。
ユーロは欧州圏の統一貨幣ですが、これによって起こっている事は、ユーロ圏の中で過疎化が起こっています。ドイツとギリシャは同じユーロ圏に属しているにも拘らず、大きな差が生じています。これは何も世界の話では無く、日本の中でも散々言われている都市部と地方都市の格差というのは、同じ“日本円”という土俵の上でも起こっている事で、貨幣を揃えた所で経済的な問題を帳消しにできるかと言えば、そうではない事が分かります。
同じ土俵に上がる事で全体の底上げは可能ですが、全体が裕福で幸福度が増えるかと言えば、それは全くの別問題だという訳です。
「お金なんていらない」という議論が出てきているという事は、日本人がある程度日本という国に満足しているからなのかもしれません。
それはもしからしたら、投げだしているのかもしれませんが…
あとは、お金の「使い方」について考える機会が小学生のころに多くあり、それを検証してくれる場があればいいのかなぁと勝手に思っています。
というのも、稼ぐよりも使い方の方が難しいと思うんですね。
その理由は、例えば、時給1000円で働いて、それを即金でもらい、それをどのように使うのか、という点においては個人戦略が必要です。
稼ぐというのは、ある程度ならば誰にでもチャンスがあるわけで、そこからどう使うのか、という点で色々な人の中で差があるように思います。
もちろん、その差が生じるのは当然なのですが、ある程度、うまく使う事が出来るようになれば、貨幣価値が上がるように思います。
そんなところから、僕の個人的な意見を言えば、お金は必要であり、円には価値が高まってもらいたい。
それは別に何の理由もありません。ただの愛国心からです。
そして、円の価値が高まるという事は、日本の価値が世界の中で高まっているという事ですから、日本という国を好きである以上は、日本の価値を、もちろん、貨幣的なもの以外でも高めていきたいというのが僕の意見です。
Twitter:ryosuke_endo
遠藤涼介
竹中平蔵さんの言葉を拝借して…
お金というのは「国の信頼度」であり、経済学は英語で「Economics(エコノミクス)」だが、その源流はギリシャ語の「Oikonomikos(オイコノミクス)」であり、この意味は共同体の在り方、というものです。
この言葉に頭をガツンと打たれたのですが、経済学というのは、日本の中で、引いて言えば世界の中でどういう風なあり方をしていけばいいのかを考える学問であるという事です。
また、「円」の価値は、=日本の世界的な価値を示しているのはいうまでも無いのですが、これは日本の中でも当然あるわけで、僕たち日本人が1万円を非常に高価な紙幣だと思っているというのは、日本という国を信頼し、信用しているからであり、この信頼がなければ日本という国は動いていないのと同じことになります。
また、他の国に行って、他国の紙幣を手にした瞬間に感じる“陳腐”な感覚を、同じく竹中さんは「信頼感が無いから」と説明します。つまり、われわれ日本人は日本の円という紙幣の価値については、長年使ってきたことから信頼していますが、他の国の紙幣に関しては使い慣れてない僕みたいな人間は、それを信用できていないので、おもちゃのお金のように感じてしまいます。
それを踏まえた上でお金が必要なのか、必要でないのか、という点に触れると、僕は必要なものだと思っています。代替物が無いのであれば。
例えば、円では無く、織物が日本の貨幣だと決まってしまって、それが流通しうるのであれば、それでいいと思います。
ユーロは欧州圏の統一貨幣ですが、これによって起こっている事は、ユーロ圏の中で過疎化が起こっています。ドイツとギリシャは同じユーロ圏に属しているにも拘らず、大きな差が生じています。これは何も世界の話では無く、日本の中でも散々言われている都市部と地方都市の格差というのは、同じ“日本円”という土俵の上でも起こっている事で、貨幣を揃えた所で経済的な問題を帳消しにできるかと言えば、そうではない事が分かります。
同じ土俵に上がる事で全体の底上げは可能ですが、全体が裕福で幸福度が増えるかと言えば、それは全くの別問題だという訳です。
「お金なんていらない」という議論が出てきているという事は、日本人がある程度日本という国に満足しているからなのかもしれません。
それはもしからしたら、投げだしているのかもしれませんが…
あとは、お金の「使い方」について考える機会が小学生のころに多くあり、それを検証してくれる場があればいいのかなぁと勝手に思っています。
というのも、稼ぐよりも使い方の方が難しいと思うんですね。
その理由は、例えば、時給1000円で働いて、それを即金でもらい、それをどのように使うのか、という点においては個人戦略が必要です。
稼ぐというのは、ある程度ならば誰にでもチャンスがあるわけで、そこからどう使うのか、という点で色々な人の中で差があるように思います。
もちろん、その差が生じるのは当然なのですが、ある程度、うまく使う事が出来るようになれば、貨幣価値が上がるように思います。
そんなところから、僕の個人的な意見を言えば、お金は必要であり、円には価値が高まってもらいたい。
それは別に何の理由もありません。ただの愛国心からです。
そして、円の価値が高まるという事は、日本の価値が世界の中で高まっているという事ですから、日本という国を好きである以上は、日本の価値を、もちろん、貨幣的なもの以外でも高めていきたいというのが僕の意見です。
Twitter:ryosuke_endo
遠藤涼介
NO.32012-08-10 19:49:52 sunameli 6
まず、私にはお金というものの全体像が見えません。にも関わらず、そういうものを盲目的に普段信用しているっていうことには恐怖を感じます。
お金は「快適な生活」や「幸せな気持ち」をおおぜいに効率よく配るための便利な道具なんじゃないかなと思います。でも、結果としてそこまで理想的な形には全然なっていないということなのかなと。
正直、半分以上なくなっても困らないくらいにお金が貯まったことがないので、「ただの道具だ」ということを体では思い出せません。
この「思い出せない」というのが結構致命的で、お金=価値、=命のように思っていると、経済的な余裕のある・なしで人を評価しがちであったり、お金がないときに持っている人を羨んだりとか、高い税金をとる国に対して被害妄想にかられたりとか、実際、心がギスギスしてきます。
ですから、ちょっとまわりくどい言い方になりましたが、お金をなくせ、とは思いませんが、
お金がただの「道具」であるということを思い出すために、公の経済活動として、「無償でやったことを無償で返してもらう」形が、もっと多様に存在してもいいんじゃないかと思っています。
自分の本音を底まで裏返すと、社会人になって久しい今でも、やはりどこかに「お金さえあればなあ。どうにかして働かないで生きていけないかなー」というヨコシマな考えがないとは言えません。
その考えが、根本的にどう間違っているのかは、頭では分かっていても、やはり体でしっかりと感じることができない。そういう「絶望と呼ぶには浅い、でも自分では取り除けないどうしようもなさ」があるんですが、みなさんどうなんでしょう。
とりとめがなくなりましたが、無理矢理まとめると
お金はその機能が便利すぎる(利己的な目的で無限に殖やせる・貯められる)ゆえに、
「自分という人間は自分だけのために存在しているわけじゃない」「働かざるもの食うべからず」といった志を、その社会に属する人たちの多くが共有していないと、本来持っている前向きな機能を果たさないんじゃないかと思っています。
そういう前提を思い出すための試みやしくみを作る必要があると思っています。昔の人がこれを聞いたら、「何かバカなことやってるなあ」ぐらいの感じでしょうが。
お金は「快適な生活」や「幸せな気持ち」をおおぜいに効率よく配るための便利な道具なんじゃないかなと思います。でも、結果としてそこまで理想的な形には全然なっていないということなのかなと。
正直、半分以上なくなっても困らないくらいにお金が貯まったことがないので、「ただの道具だ」ということを体では思い出せません。
この「思い出せない」というのが結構致命的で、お金=価値、=命のように思っていると、経済的な余裕のある・なしで人を評価しがちであったり、お金がないときに持っている人を羨んだりとか、高い税金をとる国に対して被害妄想にかられたりとか、実際、心がギスギスしてきます。
ですから、ちょっとまわりくどい言い方になりましたが、お金をなくせ、とは思いませんが、
お金がただの「道具」であるということを思い出すために、公の経済活動として、「無償でやったことを無償で返してもらう」形が、もっと多様に存在してもいいんじゃないかと思っています。
自分の本音を底まで裏返すと、社会人になって久しい今でも、やはりどこかに「お金さえあればなあ。どうにかして働かないで生きていけないかなー」というヨコシマな考えがないとは言えません。
その考えが、根本的にどう間違っているのかは、頭では分かっていても、やはり体でしっかりと感じることができない。そういう「絶望と呼ぶには浅い、でも自分では取り除けないどうしようもなさ」があるんですが、みなさんどうなんでしょう。
とりとめがなくなりましたが、無理矢理まとめると
お金はその機能が便利すぎる(利己的な目的で無限に殖やせる・貯められる)ゆえに、
「自分という人間は自分だけのために存在しているわけじゃない」「働かざるもの食うべからず」といった志を、その社会に属する人たちの多くが共有していないと、本来持っている前向きな機能を果たさないんじゃないかと思っています。
そういう前提を思い出すための試みやしくみを作る必要があると思っています。昔の人がこれを聞いたら、「何かバカなことやってるなあ」ぐらいの感じでしょうが。
NO.22012-08-09 18:41:40 Tomoikukai 9
お金について、ここ二三日考え続けているのですが、どうもとりとめがなく、いろんなことが浮かんできてしまうので、まとまりがないのですが、思いついたままを書いてみようと思います。
お金は、使う人によって、全く別のものになるような気がします。お金そのものには違いはないのですが、利己的な興味に使ってしまう人の金と、家族や子供、或は世の中の為に使いがちな、利他的な考えを持つ人の使う金では、先々の結果に大きな違いを生むようです。ただ、日本は、儒教の価値観を長く続けた国なので、社会通念として、暗黙のうちに、利他の行動をとるように求められます。このことが、戦後教育と、繁栄した資本主義経済の中で育ち、強い利己的な内面を持ってしまった人々にストレスを生み、結果、儒教の体面を保ちながら、利己的な自分を隠すため、胸襟を開いて人と人と話し合う関係ができなくなったのではないでしょうか。これは、儒教の価値観が上下固定的であり、利他的であるため、それに対応できない人々は、その関係をお金で保とうとしたり(冠婚葬祭、各種寄付行為)表面的に利他を演技することで、組織の評価を得、(各種営業、サービス業)それによってお金を得るという、まるで二重人格者のような生き方になってしまっているかのようです。この人たちのストレスは当然のごとく想像に難くないのですが、一方では、そんな中に始めから入っていけない人も多くいます。ドロップアウトや、引きこもり等々、むしろ自分に忠実に生きようとするものほど、世の中からは疎外されるようになってしまっているように思います。問題は、表面利他的に見える人でも、日本人のほとんどは利己的になってしまったということだと思います。この利己的な人が使うお金は、世の中にとっては、決して幸せをもたらすようなものになるとは思えません。結婚が減り、子供を産まなくなり、生んでも育てないことなどが、これらのことと関係がないとは決していえないでしょう。儒教の形式をお金で済ます。これは社会の隅々まで浸透していたので、お金が世の中に回らなくなってきた今、その形も保てなくなり、独身者の増加、家族崩壊、一人暮らしや孤独死の増加、三万人を超える自殺者等々がもうだいぶん前から表面化しているのは、皆さんご存知の通りです。
こんな世の中をどうしたらいいのか、もし、儒教の価値観を、今、全部否定してしまったとしたら、表面的に利他を保っていた人達が、パンドラの箱をあけたように、それぞれが勝手に暴れだし、社会秩序は全くなくなってしまうに違いないと、私は思います。ツイッターやSNS上の匿名によるものすごい個人攻撃、インターネットのポルノ、出会い系サイト、オレオレ詐欺等、その兆候は枚挙にいとまがないというところでしょう。
これらのことを一挙に解決するという妙案というものは、なかなかないと思いますが、長期的な作戦を練るということは考えられそうです。問題ははっきり言って利己主義です。そして、利己主義となってしまった大人をそうでなくするということは大変に骨が折れることですし、それを買って出る人も居そうにありません。そこで、一番近道は、小さな子供達がいる夫婦に日本の将来を託すという考えです。子供達を育てている間の夫婦は、最も利他的な環境を作りやすいし、母性本能もその為にあるのだと思います。子供を利他的な環境の中で育てること。教育学でも心理学でも、こういうことを研究されている学者の方は多いだろうし、もっともっとそのことを研究して、子育ての現場に反映するシステムを作っていただきたいと思います。まず、親と子が、儒教の強制から外れて(儒教の縛りのない本物の利他)自然に人を思いやる心を獲得していけば、周りの人達もだんだんとそれに感化されていくでしょう。おじいちゃんやおばあちゃんが孫と関わることもとっても大事なことになってくるでしょう。おとぎ話や、昔話も息を吹き返すことになるでしょう。
そして、このことをやり遂げるには、逆説的ですが、これら若い親子に対する経済的なバックアップが必要となります。人間にとって最も大切で聖なる仕事は、次の世代を生み育てることです。今、この子供達を育てる世代にお金が十分に回っていません。今、何人かの学者の人達がベーシックインカムの導入を検討されているようです。もしこの考えが実現できたら、国家規模で、今あるお金の問題の多くに対処できるのではないかと、実は、大いに期待しているところです。勿論、多くの既得権のある方達には、おおいに、特にお金の面で、権利を譲っていただくことになると思いますが、それは、おおまかにいって、若い世代の為にお年寄り達の財産を移動してあげてくださいということになると思います。利他的な使い方ともいえましょう。日本が生き返る為に、数少ない選択肢のうちの一つです。
そして、この20年の計が成功すれば、日本は諸外国にその成果を伝授することさへできるようになるかもしれないし、その中には、福島第一発電所原発事故の封じ込め技術も含まれているかもしれません。
お金は、使う人によって、全く別のものになるような気がします。お金そのものには違いはないのですが、利己的な興味に使ってしまう人の金と、家族や子供、或は世の中の為に使いがちな、利他的な考えを持つ人の使う金では、先々の結果に大きな違いを生むようです。ただ、日本は、儒教の価値観を長く続けた国なので、社会通念として、暗黙のうちに、利他の行動をとるように求められます。このことが、戦後教育と、繁栄した資本主義経済の中で育ち、強い利己的な内面を持ってしまった人々にストレスを生み、結果、儒教の体面を保ちながら、利己的な自分を隠すため、胸襟を開いて人と人と話し合う関係ができなくなったのではないでしょうか。これは、儒教の価値観が上下固定的であり、利他的であるため、それに対応できない人々は、その関係をお金で保とうとしたり(冠婚葬祭、各種寄付行為)表面的に利他を演技することで、組織の評価を得、(各種営業、サービス業)それによってお金を得るという、まるで二重人格者のような生き方になってしまっているかのようです。この人たちのストレスは当然のごとく想像に難くないのですが、一方では、そんな中に始めから入っていけない人も多くいます。ドロップアウトや、引きこもり等々、むしろ自分に忠実に生きようとするものほど、世の中からは疎外されるようになってしまっているように思います。問題は、表面利他的に見える人でも、日本人のほとんどは利己的になってしまったということだと思います。この利己的な人が使うお金は、世の中にとっては、決して幸せをもたらすようなものになるとは思えません。結婚が減り、子供を産まなくなり、生んでも育てないことなどが、これらのことと関係がないとは決していえないでしょう。儒教の形式をお金で済ます。これは社会の隅々まで浸透していたので、お金が世の中に回らなくなってきた今、その形も保てなくなり、独身者の増加、家族崩壊、一人暮らしや孤独死の増加、三万人を超える自殺者等々がもうだいぶん前から表面化しているのは、皆さんご存知の通りです。
こんな世の中をどうしたらいいのか、もし、儒教の価値観を、今、全部否定してしまったとしたら、表面的に利他を保っていた人達が、パンドラの箱をあけたように、それぞれが勝手に暴れだし、社会秩序は全くなくなってしまうに違いないと、私は思います。ツイッターやSNS上の匿名によるものすごい個人攻撃、インターネットのポルノ、出会い系サイト、オレオレ詐欺等、その兆候は枚挙にいとまがないというところでしょう。
これらのことを一挙に解決するという妙案というものは、なかなかないと思いますが、長期的な作戦を練るということは考えられそうです。問題ははっきり言って利己主義です。そして、利己主義となってしまった大人をそうでなくするということは大変に骨が折れることですし、それを買って出る人も居そうにありません。そこで、一番近道は、小さな子供達がいる夫婦に日本の将来を託すという考えです。子供達を育てている間の夫婦は、最も利他的な環境を作りやすいし、母性本能もその為にあるのだと思います。子供を利他的な環境の中で育てること。教育学でも心理学でも、こういうことを研究されている学者の方は多いだろうし、もっともっとそのことを研究して、子育ての現場に反映するシステムを作っていただきたいと思います。まず、親と子が、儒教の強制から外れて(儒教の縛りのない本物の利他)自然に人を思いやる心を獲得していけば、周りの人達もだんだんとそれに感化されていくでしょう。おじいちゃんやおばあちゃんが孫と関わることもとっても大事なことになってくるでしょう。おとぎ話や、昔話も息を吹き返すことになるでしょう。
そして、このことをやり遂げるには、逆説的ですが、これら若い親子に対する経済的なバックアップが必要となります。人間にとって最も大切で聖なる仕事は、次の世代を生み育てることです。今、この子供達を育てる世代にお金が十分に回っていません。今、何人かの学者の人達がベーシックインカムの導入を検討されているようです。もしこの考えが実現できたら、国家規模で、今あるお金の問題の多くに対処できるのではないかと、実は、大いに期待しているところです。勿論、多くの既得権のある方達には、おおいに、特にお金の面で、権利を譲っていただくことになると思いますが、それは、おおまかにいって、若い世代の為にお年寄り達の財産を移動してあげてくださいということになると思います。利他的な使い方ともいえましょう。日本が生き返る為に、数少ない選択肢のうちの一つです。
そして、この20年の計が成功すれば、日本は諸外国にその成果を伝授することさへできるようになるかもしれないし、その中には、福島第一発電所原発事故の封じ込め技術も含まれているかもしれません。
NO.12012-08-06 16:01:58 chigusaotsuki 6
お金の稼ぎ方、あるいは、遣い方に対して、「いけない」と、思われるものを、
小さい時には、親から、教わり、
成長するにつれて、社会的な外見、体裁を、保つために、
意識外に、追いやっておこうとしたり、
(お金の問題を認めないようにしたり、)
あるいは、お金の問題を認める人を、非難する空気が、ないでしょうか?
「お金なんていらない」という神話の形成と維持のために、
あるいは、
「お金よりも大事なのは、人とのつながりである」という神話の形成と維持のために、
そのルール、要求に、従うことを、強制されるように、感じてしまうことは、
ないでしょうか?
もちろん、実際には、生活をしてみると、
お金のことも、人とのつながりのことも、
当初には、予想していなかった出来事に、たくさん直面することになるから、
単純化できないし、軽視することも、できません。
お金の問題は、更にややこしく、複雑なものになればいいとも、
思っていないですが、
お金を稼ぐ行為、遣う行為に、
身をゆだねてしまうことには、恐怖を感じます。
お金を稼ぎ、遣うことは、
この地球上では、終わりのないゲームです。
せめて、お金に対しては、憂うつや嫉妬などではなく、
自分なりに、満足していたいですよね。
小さい時には、親から、教わり、
成長するにつれて、社会的な外見、体裁を、保つために、
意識外に、追いやっておこうとしたり、
(お金の問題を認めないようにしたり、)
あるいは、お金の問題を認める人を、非難する空気が、ないでしょうか?
「お金なんていらない」という神話の形成と維持のために、
あるいは、
「お金よりも大事なのは、人とのつながりである」という神話の形成と維持のために、
そのルール、要求に、従うことを、強制されるように、感じてしまうことは、
ないでしょうか?
もちろん、実際には、生活をしてみると、
お金のことも、人とのつながりのことも、
当初には、予想していなかった出来事に、たくさん直面することになるから、
単純化できないし、軽視することも、できません。
お金の問題は、更にややこしく、複雑なものになればいいとも、
思っていないですが、
お金を稼ぐ行為、遣う行為に、
身をゆだねてしまうことには、恐怖を感じます。
お金を稼ぎ、遣うことは、
この地球上では、終わりのないゲームです。
せめて、お金に対しては、憂うつや嫉妬などではなく、
自分なりに、満足していたいですよね。