学びの場はどうあるべきか
松下村塾や適塾といった「私塾」のあり方を見直すべき時期にあると思います。現代では「塾」というと、大学受験のための予備校の印象しかありませんが、幕末という激動の時代に多数の人材を輩出した「学びの場」は、はたしてどのような場所であったのか。
適塾で勉強した福澤諭吉は自伝のなかで「枕を使って寝たことがない」と書いています。これらの私塾には、そうした猛勉強が行われる土壌があったわけです。塾生同士がお互いに刺激し合って、切磋琢磨する学びの場。
規模は関係ないと思います。適塾でも1000人程度、松下村塾などは数十人程度の塾生しかいなかったようですが、その中から高杉晋作や久坂玄瑞といった幕末の志士たちが出てきました。特に現代にはインターネットがあります。
ですから、このメルマガを購読してくださっている人たちが集まれば、十分に適塾も松下村塾も作れてしまいますし、日本を変えることができる。
このメルマガそして掲示板はすでに有効な「学びの場」になり始めていますが、さらなる発展を目指すために、あるべき「学びの場」の姿について考えてみませんか。日本の教育全体に対するご意見でも結構ですし、このメルマガや掲示板をよりよく運営するためのアイデアを出していただいても結構です。例えば、適塾では「ポイントシステム」を採用していて、良い成績を取ると席次が上がっていったそうです。切磋琢磨の仕方にはいろいろな形がありえます。ぜひ考えてみてください。もし良いアイデアがあれば、さっそく採用してみたいと思います。
NO.412011-07-04 11:02:14 LAMPRIGERA 0
Thank you very much for your reply, motakeen-san. I think it will be a great help for most of us to learn English if you could post some of your contributions in English.
I am looking forward to discussing on various topics with you and many others in here.
I am looking forward to discussing on various topics with you and many others in here.
NO.402011-07-04 05:54:03 motakeen 0
LAMPRIGERA-san:
I agree with you, I also think that one of the most important factors in bullying is how closed the environment is. Bullying won't work if the bullied don't think they are "stuck" in that environment and can't get out. As we grow older, we realize what a small world we used to live in- in a class room with a small circle of friends- and how big the rest of the world is. But when you are in it- that is your world, there's nothing beyond.
I agree that there should be more flexibility... and perhaps someone who can at least give them a glimpse of what else the world can offer. I think internet can definitely offer a wider perspective in life... if you have the right kind of mindset.
I agree with you, I also think that one of the most important factors in bullying is how closed the environment is. Bullying won't work if the bullied don't think they are "stuck" in that environment and can't get out. As we grow older, we realize what a small world we used to live in- in a class room with a small circle of friends- and how big the rest of the world is. But when you are in it- that is your world, there's nothing beyond.
I agree that there should be more flexibility... and perhaps someone who can at least give them a glimpse of what else the world can offer. I think internet can definitely offer a wider perspective in life... if you have the right kind of mindset.
NO.392011-07-04 02:48:04 waterlily 0
メルマガや掲示板を使った学びの場という内容では、
残念ながら今のところ考えが無く、投稿できませんでした。
NO.30 motakeen さん
>他人とは違う自分の発見。自分に響くものの探求。
NO.31 ryosuke85 さん
>社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事
大いに共感します。
特に学問をするということではなく、社会に出ることを意識した場合の、学びの場で
重要なのは、自分自身について学ぶ、ということだったのではないか?
今となっては、そのように思います。
自分がどういう人間なのかを知ることが、世界について知ることと平行してなされなければ、
その人間は、社会に出てどうやって生きていったらいいのか、分からないままだと思う。
市場で通用する価値を生み出さなければ、資本主義社会で自立して生きていけない。
いろんなことが出来る優秀な人は、自分の良いところを見つけるのに苦労はしないだろうけど、
そうでない人は、何とかして1つでも良いところを見つけて、悪いところをカバーしなければ、
働く場も、自分の居場所も、見つけることができなくなる。
私は、年齢相応の人間関係が築けないということが、
生きていく上でかなりの障害となる、重要な問題だということを、
学校・学生時代に、学ぶことができなかった。
実社会について、何も分かっていなかった。
そのことを、気付かせてくれる人もいなかったし、
自分で深刻さに気付いていなかったのだから、どうしようもない。
遅くとも二十歳になる前に、人は、自分自身と本当の親友になっているべきなのかも知れない。
でも、何歳になったって、遅いということはないと思う。
もちろん、間に合わないことは多々あるが、
こういう人生だからこそ出会えたことや知り得たことが山ほどある。
そんなことより、どんなことより、今の私は、やっと、私にとって何よりもたいせつなものが分かっている。
話がそれたので 戻します。
AKB48の人たちも、選挙で、彼女達自身について知ることになるのだと思います。
(選挙が公平かどうかは、疑問です。投票者は、1人一票とは決まっていず、CDを多く買えば
多く投票できるそうで、中には、CDを1人で2千枚買った人がいるらしい、と噂に聞きました。)
お互いに切磋琢磨するのは、自分の得意なことと そうでないことを、見極めるために必要だと思います。
自分の限界を知った上で、さらに努力することも、方向転換することも、できると思います。
闘争心というのは、どちらかというと、男性的な要素のように思わなくもありません。
生物学上の性別で言っているのではなく、男女問わず、個性によって、
闘争心の強い人も そうでない人も いるのではないかということ。
AKB48の人たちは、どうなのか分からないですが、
私自身の感性で想像するなら、順位が上がることは、
他の人に勝ったから嬉しいのではなく、
自分の頑張りが認められたことと、
自分がよりいっそう輝けるためのシートを手に入れたことが、
いちばん嬉しいのでは?
闘争心の強い人には、学びの場に競争を取り入れることは有効だと思いますが、
あからさまに競争したくない人には、かえって、意欲を失くさせることになると思います。
私は、たとえば職場の仕事で、良くも悪くも、評価されるのはいやです。
人と比べるだけのような、相対評価になりがちだからかも知れません。
自分で、人と比べることはしますが、それは、比べて優越感や劣等感を持つためではなく、
自分が良く出来れば、少しでも自信が持てるから嬉しいのだし、
人のほうが出来が良ければ、自分のやり方を改善しようと思うから前進できる。
自分で分かっていればいいこと。
相対評価的な評価は、意味がないと思います。
自分では気付かない自分の面や、他の人の優れた面を、
適切に知らしめることは指導者の力量。
掲示板とメルマガを通して、そのように感じています。
残念ながら今のところ考えが無く、投稿できませんでした。
NO.30 motakeen さん
>他人とは違う自分の発見。自分に響くものの探求。
NO.31 ryosuke85 さん
>社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事
大いに共感します。
特に学問をするということではなく、社会に出ることを意識した場合の、学びの場で
重要なのは、自分自身について学ぶ、ということだったのではないか?
今となっては、そのように思います。
自分がどういう人間なのかを知ることが、世界について知ることと平行してなされなければ、
その人間は、社会に出てどうやって生きていったらいいのか、分からないままだと思う。
市場で通用する価値を生み出さなければ、資本主義社会で自立して生きていけない。
いろんなことが出来る優秀な人は、自分の良いところを見つけるのに苦労はしないだろうけど、
そうでない人は、何とかして1つでも良いところを見つけて、悪いところをカバーしなければ、
働く場も、自分の居場所も、見つけることができなくなる。
私は、年齢相応の人間関係が築けないということが、
生きていく上でかなりの障害となる、重要な問題だということを、
学校・学生時代に、学ぶことができなかった。
実社会について、何も分かっていなかった。
そのことを、気付かせてくれる人もいなかったし、
自分で深刻さに気付いていなかったのだから、どうしようもない。
遅くとも二十歳になる前に、人は、自分自身と本当の親友になっているべきなのかも知れない。
でも、何歳になったって、遅いということはないと思う。
もちろん、間に合わないことは多々あるが、
こういう人生だからこそ出会えたことや知り得たことが山ほどある。
そんなことより、どんなことより、今の私は、やっと、私にとって何よりもたいせつなものが分かっている。
話がそれたので 戻します。
AKB48の人たちも、選挙で、彼女達自身について知ることになるのだと思います。
(選挙が公平かどうかは、疑問です。投票者は、1人一票とは決まっていず、CDを多く買えば
多く投票できるそうで、中には、CDを1人で2千枚買った人がいるらしい、と噂に聞きました。)
お互いに切磋琢磨するのは、自分の得意なことと そうでないことを、見極めるために必要だと思います。
自分の限界を知った上で、さらに努力することも、方向転換することも、できると思います。
闘争心というのは、どちらかというと、男性的な要素のように思わなくもありません。
生物学上の性別で言っているのではなく、男女問わず、個性によって、
闘争心の強い人も そうでない人も いるのではないかということ。
AKB48の人たちは、どうなのか分からないですが、
私自身の感性で想像するなら、順位が上がることは、
他の人に勝ったから嬉しいのではなく、
自分の頑張りが認められたことと、
自分がよりいっそう輝けるためのシートを手に入れたことが、
いちばん嬉しいのでは?
闘争心の強い人には、学びの場に競争を取り入れることは有効だと思いますが、
あからさまに競争したくない人には、かえって、意欲を失くさせることになると思います。
私は、たとえば職場の仕事で、良くも悪くも、評価されるのはいやです。
人と比べるだけのような、相対評価になりがちだからかも知れません。
自分で、人と比べることはしますが、それは、比べて優越感や劣等感を持つためではなく、
自分が良く出来れば、少しでも自信が持てるから嬉しいのだし、
人のほうが出来が良ければ、自分のやり方を改善しようと思うから前進できる。
自分で分かっていればいいこと。
相対評価的な評価は、意味がないと思います。
自分では気付かない自分の面や、他の人の優れた面を、
適切に知らしめることは指導者の力量。
掲示板とメルマガを通して、そのように感じています。
NO.382011-07-04 01:10:40 LAMPRIGERA 0
ryosuke85さんの投稿を見ていると、まさに世界が変わっていくのを実感するような気がします。また、No.32~37は、ますます私塾の様相を呈してきました!という感じですね。なんか、ほんとにすごいなと思います。僕も奮起して、ずっと放置していた英語投稿やってみます。
ところで、僕のお勧めの勉強法は、自分が一番感動したような本の英語版を読むことです。もし自分が感動した著者が英語圏の人なら、さらにyoutubeなんかに講演の映像が載っていたりするので、そういうのを見るのもいいですね。また最近では、日本の漫画もたくさん英訳されて出ていますから、それも使えるかもしれません。英語を読むときは、語学の知識だけではなく、著者の考え方や物語の世界観といった「背景」もある程度知っていないと読めないことがあるのですが、いきなりなじみのない本を読みだすと、全く分からなかったりします。わからない原因の半分は背景の予備知識の無さかもしれないのに、語学力が全くないんだと余計にショックを受けてしまう可能性があります。本のレベルは、大人向けから児童書まで自由に選べばいいでしょう。僕は興味が持続することが一番だと思いますので、一番魅かれ、かつ馴染みのあるものを教材にするのがいいと思います。
英語をいっぱい読んでいれば、だんだんよく出てくるパターンの文章を真似たりしながら、自分の文が書けるようになってくると思います。
---------------
In my former contribution (N0.8), I have said that I will post summaries of my contributions later. But I changed my mind because I noticed that the most weighted suggestion in my past contribution was ‘express what you have thought and inspire another thinker.’ In this sense, making summaries is not good enough because summary does not express one’s thought fully. So I decided to post new one in English.
Before going into my new topic, let me explain what I mean by the word ‘thought.’ I use ‘thought’ as a process to reach somewhere you have never been by building bridge to 'unknown,' using logic as a tool. We often call a process of ‘chain reactions’ of past memories as a thought. In this process, one memory invites another and then the new one invites next. This process goes on and on but this is only a repetitive process, because in this case, our answer always lays only in our memories (=past).
In my contribution I don’t call this type of process‘thought’ because this type of thought always end up with something you know and this does not take you to somewhere ‘new.’ The repetitive process only takes you to where you were, which means you have no progress, no creation. But by thinking, we should break the pattern and make creation.
Adding to this, I want to suggest that we should think about various matters, which means we should NOT be a specilalist thinker.
As you may know, ‘logical thinking’ is taught in universities and colleges all over the world and many people had trained to think logically. Some of them even become scientists, a professional thinker. But generally, scientists think logically only in their field. As soon as they step out of their field, they start to behave opposite. In daily life he might follow ordinary and traditional ways, and do not 'think' about other topics. For example, an economist might be very intelligent in his own field, but he could be very poor in criticizing politicians. We should be a generalist thinker, who thinks many important issues across the fields.
---------------
Now let me go into today's contribution. This one was inspired by contribution No.30. In No.30 motakeen-san has mentioned about bullying. I have hypothesis for the cause of bullying. That is, ‘fixed membership in schools is the main cause of this problem.’
I think bullying starts when one become to dislike somebody. In the first stage of disliking, you try not to look at him, or not to talk, just ignore. I think if you can take time and cool down hatred in this early stage, it is easier to stop bullying. But in fixed membership classroom, kid cannot cool down their hatred because they are physically in the same class room. Meeting the person almost every day rather strengthen hatred. If you can move class room more flexibly, problem could be solved. So changing ‘fixed membership’ to ‘flexible membership,’ bullying might decrease.
This is only a hypothesis. I don't know the answer whether it is right or wrong, unless I do some experiments. But most of parents are often too conservative to welcome such experiments in school and this kind of attitude prevents the evolution in education. People never try to reach supreme as long as there current system is bearable.
We need place to experiment our ideas. Internet could be a place for this kind of experiment. If you have few tools, you can test and improve many worthwhile ideas here. This of course doesn't mean that every element of man to man relationship could be replaced into the internet environment, but I want to say that internet is a place where you can start your own action most freely.
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こういう掲示板での投稿って「contribution」って訳でいいのかな…。頻出単語なのに、英語でどういうかわからない。
ところで、僕のお勧めの勉強法は、自分が一番感動したような本の英語版を読むことです。もし自分が感動した著者が英語圏の人なら、さらにyoutubeなんかに講演の映像が載っていたりするので、そういうのを見るのもいいですね。また最近では、日本の漫画もたくさん英訳されて出ていますから、それも使えるかもしれません。英語を読むときは、語学の知識だけではなく、著者の考え方や物語の世界観といった「背景」もある程度知っていないと読めないことがあるのですが、いきなりなじみのない本を読みだすと、全く分からなかったりします。わからない原因の半分は背景の予備知識の無さかもしれないのに、語学力が全くないんだと余計にショックを受けてしまう可能性があります。本のレベルは、大人向けから児童書まで自由に選べばいいでしょう。僕は興味が持続することが一番だと思いますので、一番魅かれ、かつ馴染みのあるものを教材にするのがいいと思います。
英語をいっぱい読んでいれば、だんだんよく出てくるパターンの文章を真似たりしながら、自分の文が書けるようになってくると思います。
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In my former contribution (N0.8), I have said that I will post summaries of my contributions later. But I changed my mind because I noticed that the most weighted suggestion in my past contribution was ‘express what you have thought and inspire another thinker.’ In this sense, making summaries is not good enough because summary does not express one’s thought fully. So I decided to post new one in English.
Before going into my new topic, let me explain what I mean by the word ‘thought.’ I use ‘thought’ as a process to reach somewhere you have never been by building bridge to 'unknown,' using logic as a tool. We often call a process of ‘chain reactions’ of past memories as a thought. In this process, one memory invites another and then the new one invites next. This process goes on and on but this is only a repetitive process, because in this case, our answer always lays only in our memories (=past).
In my contribution I don’t call this type of process‘thought’ because this type of thought always end up with something you know and this does not take you to somewhere ‘new.’ The repetitive process only takes you to where you were, which means you have no progress, no creation. But by thinking, we should break the pattern and make creation.
Adding to this, I want to suggest that we should think about various matters, which means we should NOT be a specilalist thinker.
As you may know, ‘logical thinking’ is taught in universities and colleges all over the world and many people had trained to think logically. Some of them even become scientists, a professional thinker. But generally, scientists think logically only in their field. As soon as they step out of their field, they start to behave opposite. In daily life he might follow ordinary and traditional ways, and do not 'think' about other topics. For example, an economist might be very intelligent in his own field, but he could be very poor in criticizing politicians. We should be a generalist thinker, who thinks many important issues across the fields.
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Now let me go into today's contribution. This one was inspired by contribution No.30. In No.30 motakeen-san has mentioned about bullying. I have hypothesis for the cause of bullying. That is, ‘fixed membership in schools is the main cause of this problem.’
I think bullying starts when one become to dislike somebody. In the first stage of disliking, you try not to look at him, or not to talk, just ignore. I think if you can take time and cool down hatred in this early stage, it is easier to stop bullying. But in fixed membership classroom, kid cannot cool down their hatred because they are physically in the same class room. Meeting the person almost every day rather strengthen hatred. If you can move class room more flexibly, problem could be solved. So changing ‘fixed membership’ to ‘flexible membership,’ bullying might decrease.
This is only a hypothesis. I don't know the answer whether it is right or wrong, unless I do some experiments. But most of parents are often too conservative to welcome such experiments in school and this kind of attitude prevents the evolution in education. People never try to reach supreme as long as there current system is bearable.
We need place to experiment our ideas. Internet could be a place for this kind of experiment. If you have few tools, you can test and improve many worthwhile ideas here. This of course doesn't mean that every element of man to man relationship could be replaced into the internet environment, but I want to say that internet is a place where you can start your own action most freely.
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こういう掲示板での投稿って「contribution」って訳でいいのかな…。頻出単語なのに、英語でどういうかわからない。
NO.372011-07-04 00:49:33 orcamie 0
NO.35 ryosuke85 どういたしまして。ここは公的でもあり個人的であってもいい場所ではないかなと私は考えています。(どうも『思います』という言葉を多用しがちなので、『考える』に切り替えるとぎくしゃくしちゃって。)
ryosukeさんの 『学ぶぞ!』という気概を感じて 勢いに乗せられて添削してしまったようです。よかったのかどうか投稿してからtwitterでお聞きしてからにするとよかったかなと思ったりしました。嬉しいと言ってくださってちょっとほっとしてます。おやすみなさい。
ryosukeさんの 『学ぶぞ!』という気概を感じて 勢いに乗せられて添削してしまったようです。よかったのかどうか投稿してからtwitterでお聞きしてからにするとよかったかなと思ったりしました。嬉しいと言ってくださってちょっとほっとしてます。おやすみなさい。
NO.362011-07-04 00:31:07 orcamie 0
No.33で 学びの場の英訳を the best learning placeとしましたが the best place for learningの方がいいかなと思います。
NO.352011-07-04 00:29:40 ryosuke85 0
No33.orcamieさん
僕の恥かしい英語(とまでいえないレベルのもの)を添削していただき、本当に、本当にありがとうございます。
単語を羅列するだけの何の工夫も無いものになってしまいましたが、こうやって添削していただいた事で勉強になります。
いや、嬉しい。
何だか公的な場なのに個人的なものにしてしまってすいません。
僕の恥かしい英語(とまでいえないレベルのもの)を添削していただき、本当に、本当にありがとうございます。
単語を羅列するだけの何の工夫も無いものになってしまいましたが、こうやって添削していただいた事で勉強になります。
いや、嬉しい。
何だか公的な場なのに個人的なものにしてしまってすいません。
NO.342011-07-04 00:28:31 orcamie 0
続けての投稿です。
No18の自分の投稿で 「理想の学びの場は No16のtrasqeさんのおっしゃるように「目的」をはっきりと定める事がかなりのウエイトを占めるということ賛成です。」とは言ったのですが 適塾の事を少し調べたら、『福沢諭吉は「目的なしの勉強」を提唱して 塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを目指した』とありました。
つまり個人で目的を持つ事は重要だけれど、ここでも 理解力・判断力などを育む『目的があって目的がない学び』を目指したらどうかなと思います。
そして、既に指摘されていますように「仲間」は大切だと思います。たとえ現実の世界で相対する側に立つことになったとしても同じ土壌で学んだということはたいへん意味のある事だと考えます。
NO.23 terurun の「飛びぬけている人をなぜ、育てないのか?」ということについてですが
他の国で行われている「飛び級」のような事が日本でなぜ実現できないかというとその是非を議論していると永遠に実現しないのではと私は考えています。日本では教育の機会の平等という事に対して偏見があるような気がします。皆に同じ質と量の教育を与える事が平等のような考え方が根強いのではないでしょうか。その是非を話し合うより賢く「飛び級」を実現したらいいのになあと思うのです。
小学校から全て「単位制」にする。例えば小学校6年生までに最低小6Aという内容までは全員終了することにして、さらに余力のある人は小6BとかCまでできるようにしておく。内容的には中学校に行ったら中1ABCとあり小学校で学んだ内容に合わせてそのクラスに行く。そして進度は科目別にする。こうすると比較的理解を得やすいのではないかなと考えました。
学びの場はどうあるべきかという本来のテーマについては 皆さんの投稿をよんで なるべく自由な場がいいと考えますが、今までの日本の教育のように偏差値やいい大学に入る事を優先するのではなく、理解力や判断力を養うこと、人間として人道的な考え方を基調としてもてるようなことを優先する学びの場が日本の学校で実現されればほんとうにうれしいと思いました。
No18の自分の投稿で 「理想の学びの場は No16のtrasqeさんのおっしゃるように「目的」をはっきりと定める事がかなりのウエイトを占めるということ賛成です。」とは言ったのですが 適塾の事を少し調べたら、『福沢諭吉は「目的なしの勉強」を提唱して 塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを目指した』とありました。
つまり個人で目的を持つ事は重要だけれど、ここでも 理解力・判断力などを育む『目的があって目的がない学び』を目指したらどうかなと思います。
そして、既に指摘されていますように「仲間」は大切だと思います。たとえ現実の世界で相対する側に立つことになったとしても同じ土壌で学んだということはたいへん意味のある事だと考えます。
NO.23 terurun の「飛びぬけている人をなぜ、育てないのか?」ということについてですが
他の国で行われている「飛び級」のような事が日本でなぜ実現できないかというとその是非を議論していると永遠に実現しないのではと私は考えています。日本では教育の機会の平等という事に対して偏見があるような気がします。皆に同じ質と量の教育を与える事が平等のような考え方が根強いのではないでしょうか。その是非を話し合うより賢く「飛び級」を実現したらいいのになあと思うのです。
小学校から全て「単位制」にする。例えば小学校6年生までに最低小6Aという内容までは全員終了することにして、さらに余力のある人は小6BとかCまでできるようにしておく。内容的には中学校に行ったら中1ABCとあり小学校で学んだ内容に合わせてそのクラスに行く。そして進度は科目別にする。こうすると比較的理解を得やすいのではないかなと考えました。
学びの場はどうあるべきかという本来のテーマについては 皆さんの投稿をよんで なるべく自由な場がいいと考えますが、今までの日本の教育のように偏差値やいい大学に入る事を優先するのではなく、理解力や判断力を養うこと、人間として人道的な考え方を基調としてもてるようなことを優先する学びの場が日本の学校で実現されればほんとうにうれしいと思いました。
NO.332011-07-03 23:53:23 orcamie 0
こんばんは。ryosukeさんの英語を僭越ながら少し添削しました。かなりアバウトなものです。私も我流で英語を学んだので私のアドバイスが正しいとは限りません。参考にしていただいて今後の学びに役立ててください。*以降が私の考えた英文です。
学びの場をどう考えるか? How think to “Study Place”.
* How to think of “Studying Place”の方が文法的に正しいかなあと思いますが そうしてしまうと 日本語では勉強する場所についての考え方となってしまって本来意図するところと少し違うかなと思います。
最高の学びの場とはどんな場所かと考えるいう意味にするためには
(わたしは学びの英語訳としては learningの方がいいかなとも思います。)
“What is the best learning place”, “What do you consider the best learning place” “What is your thought over the best learning place” What to consider “the best Learning Place”
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the how think of “Study Place”. To begin with think the how study.
*First, before debating what to think of “the best Studying place” we need to consider what is studying.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Not gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
*As I myself have been trained to develop thinking ability here, I can’t help being interested in what kind of progress will be made at this bulletin board.
話を議題に戻しまして… Return to topic for discussion…
*Returning to the basic topic
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
I think “not deciding” is important at the studying scene.
これだと一切決断しない、決めない事が大事だといことになるので何を決めないか入れた方がより内容が明確になると思います。たとえば
I think “Not to decide any limits” is important at the studying scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
*I believe “studying” is to search for as much possibility as we can find.
人生において、答えというのは人によって違います。無いと言えば無いにも等しい。
Except life, The answer human differ with individual. Equal to never nothing.
*People have their own answers when they consider what is life . There may be no right answers for it.
しかし、八方美人になれ、というのでは無い。我々は【決まり】として成立しているものをそのまま受け入れるということを考えるべきだ。
But, Not into please every-body. We should think, Leave it effect rules.
But it doesn’t mean you should be everyone’s friend. We should think we accept the rules decided.
そして、社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
And, Into the society and an individual relational, How begin to beat myself on society, Need to study place bring up spirit !
*And how to demonstrate your own ability in the relation between society and individual must be taught at the learning place.
The learning place needs to provide the guts, which demonstrate your own ability in the society as much as possible
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂流する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
Koshi, Him self not see the light of day. He also drift day, Except society, A pupil’s explain useful to society. And him self still aim at the chance. A result, Pupil’s succeed a thought. Many Person’s have important job of the nation.
*Although Koshi wasn’t regarded highly and had been wandering in the world
he had taught his followers that they must put themselves to good use for the society. On the other hand he had tried to live seeking for his own opportunity.
As the result, his students followed his will and many of them became to take important posts of the countries.
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
It’s, Koshi was take an attitude critically to society. Koshi had good balance keep to society, and he was offer “study place” his pupil’s.
*Though Koshi criticized the society very severely, he had known how to coexist well there. So Koshi created the best learning school for his students.
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
To begin with if not existence Koshi, [Rongo] is not existence. I think he’s life accomplished, [Rongo] is linger in the present.
* Basicly [Rongo]didn’t exist without Koushi. I think he had lived his own life,
which rendered a great achievement to us at present.
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
Outlive on life is don’t ignore to society.
* We can’t deny society to live.
けれど、社会に縛られて画一的な存在にならず、あらゆることを思考、考察し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく必要があると考えている。
But, don’t succeed in uniform existence be restricted by society. Think, consider, In every way. I think need to action, think near the answer.
*However not being one of the same individuals restrained to society, it is necessary that we should live for looking for the right answers by thinking and considering.
僕は昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
I begun twitter last year. Touch the various opinions. I shock the think, too many.
*I began to twitter since last year. The various opinions and thoughts there often inspired me greatly.
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとおもっている節があったのも認めます。
Honesty till then, acknowledged, I thought have nothing to do with this world founded.
* To be honest with you, I had been thinking I had had nothing to do with things in this world.
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
But, I think individual can do limited, individual think, and gather, and give an opinions on this a bulletin. I feel change absolutely.
*Well the ability of one person is limited. But by thinking and gathering at a place like here and exchanging ideas, I have a feeling there must be something being changed.
ここまで*以下が私の英作文です。
英語では日本語より動詞の主語が何かという事をはっきりさせる必要があります。
最初は短めの文で 2つの事の関係をしっかり表す事を心がけるといいと思います。
だから、英語で考えると物事が整理できるんだな。。。とこれはryousukeさんの英文を勉強する事によって私が学んだ事です。
学びの場をどう考えるか? How think to “Study Place”.
* How to think of “Studying Place”の方が文法的に正しいかなあと思いますが そうしてしまうと 日本語では勉強する場所についての考え方となってしまって本来意図するところと少し違うかなと思います。
最高の学びの場とはどんな場所かと考えるいう意味にするためには
(わたしは学びの英語訳としては learningの方がいいかなとも思います。)
“What is the best learning place”, “What do you consider the best learning place” “What is your thought over the best learning place” What to consider “the best Learning Place”
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the how think of “Study Place”. To begin with think the how study.
*First, before debating what to think of “the best Studying place” we need to consider what is studying.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Not gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
*As I myself have been trained to develop thinking ability here, I can’t help being interested in what kind of progress will be made at this bulletin board.
話を議題に戻しまして… Return to topic for discussion…
*Returning to the basic topic
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
I think “not deciding” is important at the studying scene.
これだと一切決断しない、決めない事が大事だといことになるので何を決めないか入れた方がより内容が明確になると思います。たとえば
I think “Not to decide any limits” is important at the studying scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
*I believe “studying” is to search for as much possibility as we can find.
人生において、答えというのは人によって違います。無いと言えば無いにも等しい。
Except life, The answer human differ with individual. Equal to never nothing.
*People have their own answers when they consider what is life . There may be no right answers for it.
しかし、八方美人になれ、というのでは無い。我々は【決まり】として成立しているものをそのまま受け入れるということを考えるべきだ。
But, Not into please every-body. We should think, Leave it effect rules.
But it doesn’t mean you should be everyone’s friend. We should think we accept the rules decided.
そして、社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
And, Into the society and an individual relational, How begin to beat myself on society, Need to study place bring up spirit !
*And how to demonstrate your own ability in the relation between society and individual must be taught at the learning place.
The learning place needs to provide the guts, which demonstrate your own ability in the society as much as possible
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂流する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
Koshi, Him self not see the light of day. He also drift day, Except society, A pupil’s explain useful to society. And him self still aim at the chance. A result, Pupil’s succeed a thought. Many Person’s have important job of the nation.
*Although Koshi wasn’t regarded highly and had been wandering in the world
he had taught his followers that they must put themselves to good use for the society. On the other hand he had tried to live seeking for his own opportunity.
As the result, his students followed his will and many of them became to take important posts of the countries.
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
It’s, Koshi was take an attitude critically to society. Koshi had good balance keep to society, and he was offer “study place” his pupil’s.
*Though Koshi criticized the society very severely, he had known how to coexist well there. So Koshi created the best learning school for his students.
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
To begin with if not existence Koshi, [Rongo] is not existence. I think he’s life accomplished, [Rongo] is linger in the present.
* Basicly [Rongo]didn’t exist without Koushi. I think he had lived his own life,
which rendered a great achievement to us at present.
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
Outlive on life is don’t ignore to society.
* We can’t deny society to live.
けれど、社会に縛られて画一的な存在にならず、あらゆることを思考、考察し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく必要があると考えている。
But, don’t succeed in uniform existence be restricted by society. Think, consider, In every way. I think need to action, think near the answer.
*However not being one of the same individuals restrained to society, it is necessary that we should live for looking for the right answers by thinking and considering.
僕は昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
I begun twitter last year. Touch the various opinions. I shock the think, too many.
*I began to twitter since last year. The various opinions and thoughts there often inspired me greatly.
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとおもっている節があったのも認めます。
Honesty till then, acknowledged, I thought have nothing to do with this world founded.
* To be honest with you, I had been thinking I had had nothing to do with things in this world.
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
But, I think individual can do limited, individual think, and gather, and give an opinions on this a bulletin. I feel change absolutely.
*Well the ability of one person is limited. But by thinking and gathering at a place like here and exchanging ideas, I have a feeling there must be something being changed.
ここまで*以下が私の英作文です。
英語では日本語より動詞の主語が何かという事をはっきりさせる必要があります。
最初は短めの文で 2つの事の関係をしっかり表す事を心がけるといいと思います。
だから、英語で考えると物事が整理できるんだな。。。とこれはryousukeさんの英文を勉強する事によって私が学んだ事です。
NO.322011-07-03 16:09:51 chigusaotsuki 0
NO.31 遠藤涼介 様
こんにちは。
NO.31 遠藤さん、大丈夫です。私は、オランダで、Oxford University Press の、New English File の Pre-intermediate から、英語の勉強をはじめましたが、それから、2年で、英語で、レポートが書けるまでに、成長しました。
(教材のウェブサイトは、こちらです。)
http://elt.oup.com/student/englishfile/?cc=global&selLanguage=en
この本は、英語の文法を、英語で学ぶのに、おすすめです。
英語の文法や、単語を、英語で学ぶのは、楽しいですよ。
これからも、ぜひ、英語を続けてください。
こんにちは。
NO.31 遠藤さん、大丈夫です。私は、オランダで、Oxford University Press の、New English File の Pre-intermediate から、英語の勉強をはじめましたが、それから、2年で、英語で、レポートが書けるまでに、成長しました。
(教材のウェブサイトは、こちらです。)
http://elt.oup.com/student/englishfile/?cc=global&selLanguage=en
この本は、英語の文法を、英語で学ぶのに、おすすめです。
英語の文法や、単語を、英語で学ぶのは、楽しいですよ。
これからも、ぜひ、英語を続けてください。
NO.312011-07-03 00:04:59 ryosuke85 0
学びの場をどう考えるか?
How think to “Study Place”.
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the how think of “Study Place”. To begin with think the how study.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Not gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
話を議題に戻しまして…
Return to topic for discussion…
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
人生において、答えというのは人によって違います。無いと言えば無いにも等しい。
Except life, The answer human differ with individual. Equal to never nothing.
しかし、八方美人になれ、というのでは無い。我々は【決まり】として成立しているものをそのまま受け入れるということを考えるべきだ。
But, Not into please every-body. We should think, Leave it effect rules.
そして、社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
And, Into the society and an individual relational, How begin to beat myself on society, Need to study place bring up spirit !
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂流する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
Koshi, Him self not see the light of day. He also drift day, Except society, A pupil’s explain useful to society. And him self still aim at the chance. A result, Pupil’s succeed a thought. Many Person’s have important job of the nation.
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
It’s, Koshi was take an attitude critically to society. Koshi had good balance keep to society, and he was offer “study place” his pupil’s.
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
To begin with if not existence Koshi, [Rongo] is not existence. I think he’s life accomplished, [Rongo] is linger in the present.
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
Outlive on life is don’t ignore to society.
けれど、社会に縛られて画一的な存在にならず、あらゆることを思考、考察し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく必要があると考えている。
But, don’t succeed in uniform existence be restricted by society. Think, consider, In every way. I think need to action, think near the answer.
僕は昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
I begun twitter last year. Touch the various opinions. I shock the think, too many.
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとおもっている節があったのも認めます。
Honesty till then, acknowledged, I thought have nothing to do with this world founded.
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
But, I think individual can do limited, individual think, and gather, and give an opinions on this a bulletin. I feel change absolutely.
現在、26歳で1月に27歳になる僕ですが、今後も皆さんと、この場を借りて思考力を高めていきたいと考えておりますので、どうかよろしくお願いします。
Now, My age is 26 years old. Next January come to 27 years old. I rely on everybody further kindness, I borrow this place, I think I will improve my the power of thinking.
My twitter account: ryosuke_endo
いやぁ…。
苦しかったですし、苦しいです…。
文章として成り立っているのか分かりませんが、一応、今現在の自分の目一杯です…。
読みづらい事、意味不明なこと、多々あるとは思いますが、どうか宜しくお願いします。
ご忠告などあれば、ドシドシ下さい。
遠藤涼介
How think to “Study Place”.
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the how think of “Study Place”. To begin with think the how study.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Not gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
話を議題に戻しまして…
Return to topic for discussion…
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
人生において、答えというのは人によって違います。無いと言えば無いにも等しい。
Except life, The answer human differ with individual. Equal to never nothing.
しかし、八方美人になれ、というのでは無い。我々は【決まり】として成立しているものをそのまま受け入れるということを考えるべきだ。
But, Not into please every-body. We should think, Leave it effect rules.
そして、社会と個人の関係性の中で、いかに社会に自分を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
And, Into the society and an individual relational, How begin to beat myself on society, Need to study place bring up spirit !
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂流する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
Koshi, Him self not see the light of day. He also drift day, Except society, A pupil’s explain useful to society. And him self still aim at the chance. A result, Pupil’s succeed a thought. Many Person’s have important job of the nation.
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
It’s, Koshi was take an attitude critically to society. Koshi had good balance keep to society, and he was offer “study place” his pupil’s.
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
To begin with if not existence Koshi, [Rongo] is not existence. I think he’s life accomplished, [Rongo] is linger in the present.
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
Outlive on life is don’t ignore to society.
けれど、社会に縛られて画一的な存在にならず、あらゆることを思考、考察し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく必要があると考えている。
But, don’t succeed in uniform existence be restricted by society. Think, consider, In every way. I think need to action, think near the answer.
僕は昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
I begun twitter last year. Touch the various opinions. I shock the think, too many.
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとおもっている節があったのも認めます。
Honesty till then, acknowledged, I thought have nothing to do with this world founded.
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
But, I think individual can do limited, individual think, and gather, and give an opinions on this a bulletin. I feel change absolutely.
現在、26歳で1月に27歳になる僕ですが、今後も皆さんと、この場を借りて思考力を高めていきたいと考えておりますので、どうかよろしくお願いします。
Now, My age is 26 years old. Next January come to 27 years old. I rely on everybody further kindness, I borrow this place, I think I will improve my the power of thinking.
My twitter account: ryosuke_endo
いやぁ…。
苦しかったですし、苦しいです…。
文章として成り立っているのか分かりませんが、一応、今現在の自分の目一杯です…。
読みづらい事、意味不明なこと、多々あるとは思いますが、どうか宜しくお願いします。
ご忠告などあれば、ドシドシ下さい。
遠藤涼介
NO.302011-07-02 05:41:04 motakeen 0
初めて投稿します。(どきどき)
私はアメリカに住んで10年、最近とみに日本語力(日本人力?)が落ちてきている気がするので必死になって本やらインターネットでいろいろ読み漁っています。(笑)
学び、についてですが、今の自分とは違う未来の自分、それがどれだけ遠くまで飛べるのか、それが学びの場の質ではないかな、と思っています。 遠くにいければいけるほど質が高い。自分が変わっていくこと、それが学びだと思っています。
大学に入る事が目的になっている、という指摘がいくつか見られました。
ひとつの問題点は、偏差値による単一的な価値基準ではないかな、と思っています。偏差値、いってみればいかに入るのが難しいか、というひとつの基準で大学を選択する。
この基準はとてもわかりやすいし、決して悪いものではないとは思っています。でも基準がひとつしかないのが問題ではないか。
ひとつの案としては、茂木さんも提案しているように、もうすこし多様性を考慮した入学基準を考えるということ。会社の入社選考でもやり始めているようですが、一芸選考とか?(でもおそらく私大では結構やってますよね、たぶん。)
また大学の評価ももう少し分散、複雑化してもよいのではないでしょうか。この分野では最高峰、とか、名物教授がいる、とか、会社の採用担当者が選ぶ学校、とか、教務課がすばらしい寮がすばらしい、学生の満足度が高いとか、多角的で信頼性のあるランキングがほかにもあればもうすこしばらけるかもしれない。(もしかしたらもうあるのかもしれませんが、あまりインパクトがない、残念ながら。)
なんていいつつ、自分が東大に受かったのに名物教授がいるから私大に行く、なんてかなり無理だよな、と考えてしまいます。(ちなみにアメリカでは、けっこう評価がいろいろなので、ハーバードをけってイェールにいく、またはあえてもっと小さな大学に行く、という人はあまり珍しくありません。例えばグーグルで”Harvard or”とタイプし始めるとさまざまな大学が並びます。まあ、だいたいがIvy Leagueですけど。。。)
みんなが行きたいところに行きたい。みんながほしいものがほしい。
これを打開するにはどうしたらいいのか、どこからはじめたらいいのか。本当にこの呪縛は根が深くて、難しい。
本来であれば、これこそ学びの目的でもあるべきではないかと思うのですが。
他人とは違う自分の発見。自分に響くものの探求。
いじめの問題にしても、いじめをなくそうということで、みんな仲良くすることを強要する。すると子供は先生に隠れてやるようになっていじめがさらに陰険になる、というような訴えを(Twitterかな?)読んだことがあります。
別にみんな無理に仲良くならなくてもいいじゃん。
それぞれ自分に合う人をさがせればいいよね?
一人で本読むのが好きなの、という子はそれもあり、というのびのびとした環境をつくれないものか。
おそらく大人がのびのびと生きていないので、子供ものびのびと生きられないのだと思ってます。でも本当にどこからはじめたらいいか。
胸が痛みます。
私はアメリカに住んで10年、最近とみに日本語力(日本人力?)が落ちてきている気がするので必死になって本やらインターネットでいろいろ読み漁っています。(笑)
学び、についてですが、今の自分とは違う未来の自分、それがどれだけ遠くまで飛べるのか、それが学びの場の質ではないかな、と思っています。 遠くにいければいけるほど質が高い。自分が変わっていくこと、それが学びだと思っています。
大学に入る事が目的になっている、という指摘がいくつか見られました。
ひとつの問題点は、偏差値による単一的な価値基準ではないかな、と思っています。偏差値、いってみればいかに入るのが難しいか、というひとつの基準で大学を選択する。
この基準はとてもわかりやすいし、決して悪いものではないとは思っています。でも基準がひとつしかないのが問題ではないか。
ひとつの案としては、茂木さんも提案しているように、もうすこし多様性を考慮した入学基準を考えるということ。会社の入社選考でもやり始めているようですが、一芸選考とか?(でもおそらく私大では結構やってますよね、たぶん。)
また大学の評価ももう少し分散、複雑化してもよいのではないでしょうか。この分野では最高峰、とか、名物教授がいる、とか、会社の採用担当者が選ぶ学校、とか、教務課がすばらしい寮がすばらしい、学生の満足度が高いとか、多角的で信頼性のあるランキングがほかにもあればもうすこしばらけるかもしれない。(もしかしたらもうあるのかもしれませんが、あまりインパクトがない、残念ながら。)
なんていいつつ、自分が東大に受かったのに名物教授がいるから私大に行く、なんてかなり無理だよな、と考えてしまいます。(ちなみにアメリカでは、けっこう評価がいろいろなので、ハーバードをけってイェールにいく、またはあえてもっと小さな大学に行く、という人はあまり珍しくありません。例えばグーグルで”Harvard or”とタイプし始めるとさまざまな大学が並びます。まあ、だいたいがIvy Leagueですけど。。。)
みんなが行きたいところに行きたい。みんながほしいものがほしい。
これを打開するにはどうしたらいいのか、どこからはじめたらいいのか。本当にこの呪縛は根が深くて、難しい。
本来であれば、これこそ学びの目的でもあるべきではないかと思うのですが。
他人とは違う自分の発見。自分に響くものの探求。
いじめの問題にしても、いじめをなくそうということで、みんな仲良くすることを強要する。すると子供は先生に隠れてやるようになっていじめがさらに陰険になる、というような訴えを(Twitterかな?)読んだことがあります。
別にみんな無理に仲良くならなくてもいいじゃん。
それぞれ自分に合う人をさがせればいいよね?
一人で本読むのが好きなの、という子はそれもあり、というのびのびとした環境をつくれないものか。
おそらく大人がのびのびと生きていないので、子供ものびのびと生きられないのだと思ってます。でも本当にどこからはじめたらいいか。
胸が痛みます。
NO.292011-07-01 03:36:33 trasque 0
またも私的な事を書き込むことになりますが……
先々週より、隣の古い長屋のようなアパートから怒号が響いてきました。子供の泣き叫ぶ声も聞こえてきて、更には何かを叩くような音まで伝わってきたのです。一過性のケンカかなとも思ったのですが、その「叫び方」は少し離れた自宅にいてもゾッとさせるものがありました。また、私の家族はそれぞれ違った時間帯で動いているので、状況を聞き整理してみると1週間程、時間帯を問わずそのような「喧騒」を起こしている事がわかりました。
結局、私が休日の時、またも昼間に「喧騒」が始まったので、場所を突き止めて一度訪ねることにしました。出てきてくれたのは同世代と思われる女性と、痩せ細った小さな男の子でした。喧騒の先入観もあったのかもしれませんが、とても子供とは思えぬ「弱さ」を感じてしまいました。その場は「大丈夫ですか」と一言伝えただけとなりましたが、どうやら周囲の住人が市に連絡をしたらしく、民生委員らしき方が訪問してくるようにもなりました。
お節介とは思いつつも、今週から私の母と相談しつつ、時々訪問してみようという事になりました。「虐待」とまでは行かないにしても、その子がどうなってしまうのかと心配でならないのです。
なぜこのような事を綴るのかと言いますと、子供達への教育を考えた時、現代ではすでに「学校中心」、ともすれば「学校が全て」となっていると感じるからです。また、それは事実だとも思います。
皆様の書き込みの中で、これだけ「学校の持つべき教育の考え方」に転換や反省を必要とする意見が挙げられる状況にも関わらず、現実では「とりあえず学校でうまくやれればいい」と丸投げになっている地域が多いのではないでしょうか。
私は都内で生まれ、都内に近い千葉で育ちましたので、いわゆる現代の都市型の環境にいました。地方の状況はわかりませんが「地域のつながり」がほんとうに断絶してきてしまっていると感じております。
数年前に、地域の子供会に対しボランティアのような形で携わったことがあります。参加対象となる子供達の家々へ「開催のお知らせ」等といった名目で次々と訪問する事がありました。20代の「お兄さん」的存在との繋がりは珍しいもののようで、不在時の手紙に記していた携帯番号などを知って喜んでいる事などを親御さんから聞く度に「地域の教育」はどうしても不可欠ではないかと思わされてしまいました。
私自信も小・中学生時代に面倒を見てくれた「お兄さん・お姉さん」が居まして、学校・友達・家庭では話さないような事を不思議と話せてしまう事が嬉しかった記憶があります。また、少なからずその後に躓きかけた時の支えになった部分もあったのです。
また「学校」は規則性の強い場所ですから、いわゆる「弱者」になってしまう子供が、その子供自ら身を引く事を考えざるを得ない状況も発生したりします。授業に行きたくない、勉強についていけない、だからといってそれを表明する事すら許されない。と、そこまで酷い状況ではないにしても、子供会のような所では「参加したくない」といって叱られることはありません。
私自身が直接「行きたくない」と言われても、それで悪い事は無いんだよと言ってあげられる事の意味は少なからずあるのではないかと感じたのです。行きたくなくても、会ってくれるのならその場で色んな話をすれば良いと、当時の私は考えました。
学校の先生ほど多数、かつ長期間の子供を面倒見る訳ではありませんから、確かにその分「甘い」のだとも思います。しかし、子供はまさにそれぞれ千差万別であって、子供達の感情は濁流のように常に溢れているものの、全て「活きるべき」ものだとも思います。
話は変わって……
私が現在仕事で通っている一つの現場に、一人「不思議な人」が居ます。詳しくは判りませんが、その人は何となく知的障害のような感じがあって、うまく仕事ができない雰囲気があります。私が外部の人間として伺っているだけなのもあって、ほとんど関わりがありませんが、その現場を見ているとその人は同業の人たちから「疎まれている」のが私にも伝わってきてしまうのです。
接客を要する現場ですので、他の人たちはその人へ「余計な事をするな」と言わんばかりの態度で接しているのが伝わってきます。実際にその人への指示も乱暴で、そこで大人しくしていろ、と放置されてしまっている……そんな状態なのです。
私はその現場を見るたびに頭を悩ませています。どうして積極的に、粘り強く育てようとしないのだろうと。ただ出来ない部分をみてイライラして解決せず、ずっと放置する事を、一体いつまで続けるのだろうと考えてしまうのです。
外部の人間で、かつ立場の弱めな私が、一体どこまで意見して良いものか今現在悩んでいる所だったりもしますが機会あらばその人と対話を持とうと画策しています。
この二つの話をさせて頂いた理由としては、現在の「教育」「社会」は、「人間が最優先ではない」という部分があるなと感じたからなのです。もちろん割と極端な例だと思いますし、素晴らしい現場はたくさんあるとも思います。
私は「学びの場」において、優劣は一旦無関係であると思うのです。あるとすれば「怠惰」の優劣かもしれません。その人の身体的・能力的なハンデや、知識・学識の多少が序列を作るものではないと思っています。
yamanorisuさんが仰る「みんな違って・みんな良い」の精神。
LAMPRIGERAさんが仰る「素になってしまえば、本当は普通の人なんていないんでしょう」ということ。
竹内さんが仰る「化学反応」の為に、あらゆる価値観を認めていこうとする気概。
どこか、共通するものがあるように感じます。
同じ場で車座になり会話する時に、優秀な専門家・博士の話も、身体ハンデを抱えつつどう生きるかという話も、共に同じくらい真剣に聞けるものではないかと思います。
そういう意味ではNo26でご返答頂いたように「点取り屋さんが居たって良い」のかもしれない、と思いなおしました。点を取る事を自ら喜び、誰かが点を取る事も素直に喜べる、ただそれだけでも良いのかもしれませんね。
先々週より、隣の古い長屋のようなアパートから怒号が響いてきました。子供の泣き叫ぶ声も聞こえてきて、更には何かを叩くような音まで伝わってきたのです。一過性のケンカかなとも思ったのですが、その「叫び方」は少し離れた自宅にいてもゾッとさせるものがありました。また、私の家族はそれぞれ違った時間帯で動いているので、状況を聞き整理してみると1週間程、時間帯を問わずそのような「喧騒」を起こしている事がわかりました。
結局、私が休日の時、またも昼間に「喧騒」が始まったので、場所を突き止めて一度訪ねることにしました。出てきてくれたのは同世代と思われる女性と、痩せ細った小さな男の子でした。喧騒の先入観もあったのかもしれませんが、とても子供とは思えぬ「弱さ」を感じてしまいました。その場は「大丈夫ですか」と一言伝えただけとなりましたが、どうやら周囲の住人が市に連絡をしたらしく、民生委員らしき方が訪問してくるようにもなりました。
お節介とは思いつつも、今週から私の母と相談しつつ、時々訪問してみようという事になりました。「虐待」とまでは行かないにしても、その子がどうなってしまうのかと心配でならないのです。
なぜこのような事を綴るのかと言いますと、子供達への教育を考えた時、現代ではすでに「学校中心」、ともすれば「学校が全て」となっていると感じるからです。また、それは事実だとも思います。
皆様の書き込みの中で、これだけ「学校の持つべき教育の考え方」に転換や反省を必要とする意見が挙げられる状況にも関わらず、現実では「とりあえず学校でうまくやれればいい」と丸投げになっている地域が多いのではないでしょうか。
私は都内で生まれ、都内に近い千葉で育ちましたので、いわゆる現代の都市型の環境にいました。地方の状況はわかりませんが「地域のつながり」がほんとうに断絶してきてしまっていると感じております。
数年前に、地域の子供会に対しボランティアのような形で携わったことがあります。参加対象となる子供達の家々へ「開催のお知らせ」等といった名目で次々と訪問する事がありました。20代の「お兄さん」的存在との繋がりは珍しいもののようで、不在時の手紙に記していた携帯番号などを知って喜んでいる事などを親御さんから聞く度に「地域の教育」はどうしても不可欠ではないかと思わされてしまいました。
私自信も小・中学生時代に面倒を見てくれた「お兄さん・お姉さん」が居まして、学校・友達・家庭では話さないような事を不思議と話せてしまう事が嬉しかった記憶があります。また、少なからずその後に躓きかけた時の支えになった部分もあったのです。
また「学校」は規則性の強い場所ですから、いわゆる「弱者」になってしまう子供が、その子供自ら身を引く事を考えざるを得ない状況も発生したりします。授業に行きたくない、勉強についていけない、だからといってそれを表明する事すら許されない。と、そこまで酷い状況ではないにしても、子供会のような所では「参加したくない」といって叱られることはありません。
私自身が直接「行きたくない」と言われても、それで悪い事は無いんだよと言ってあげられる事の意味は少なからずあるのではないかと感じたのです。行きたくなくても、会ってくれるのならその場で色んな話をすれば良いと、当時の私は考えました。
学校の先生ほど多数、かつ長期間の子供を面倒見る訳ではありませんから、確かにその分「甘い」のだとも思います。しかし、子供はまさにそれぞれ千差万別であって、子供達の感情は濁流のように常に溢れているものの、全て「活きるべき」ものだとも思います。
話は変わって……
私が現在仕事で通っている一つの現場に、一人「不思議な人」が居ます。詳しくは判りませんが、その人は何となく知的障害のような感じがあって、うまく仕事ができない雰囲気があります。私が外部の人間として伺っているだけなのもあって、ほとんど関わりがありませんが、その現場を見ているとその人は同業の人たちから「疎まれている」のが私にも伝わってきてしまうのです。
接客を要する現場ですので、他の人たちはその人へ「余計な事をするな」と言わんばかりの態度で接しているのが伝わってきます。実際にその人への指示も乱暴で、そこで大人しくしていろ、と放置されてしまっている……そんな状態なのです。
私はその現場を見るたびに頭を悩ませています。どうして積極的に、粘り強く育てようとしないのだろうと。ただ出来ない部分をみてイライラして解決せず、ずっと放置する事を、一体いつまで続けるのだろうと考えてしまうのです。
外部の人間で、かつ立場の弱めな私が、一体どこまで意見して良いものか今現在悩んでいる所だったりもしますが機会あらばその人と対話を持とうと画策しています。
この二つの話をさせて頂いた理由としては、現在の「教育」「社会」は、「人間が最優先ではない」という部分があるなと感じたからなのです。もちろん割と極端な例だと思いますし、素晴らしい現場はたくさんあるとも思います。
私は「学びの場」において、優劣は一旦無関係であると思うのです。あるとすれば「怠惰」の優劣かもしれません。その人の身体的・能力的なハンデや、知識・学識の多少が序列を作るものではないと思っています。
yamanorisuさんが仰る「みんな違って・みんな良い」の精神。
LAMPRIGERAさんが仰る「素になってしまえば、本当は普通の人なんていないんでしょう」ということ。
竹内さんが仰る「化学反応」の為に、あらゆる価値観を認めていこうとする気概。
どこか、共通するものがあるように感じます。
同じ場で車座になり会話する時に、優秀な専門家・博士の話も、身体ハンデを抱えつつどう生きるかという話も、共に同じくらい真剣に聞けるものではないかと思います。
そういう意味ではNo26でご返答頂いたように「点取り屋さんが居たって良い」のかもしれない、と思いなおしました。点を取る事を自ら喜び、誰かが点を取る事も素直に喜べる、ただそれだけでも良いのかもしれませんね。
NO.282011-06-30 20:46:44 masami 0
最近、車や洋服、夢をシェアしているのですね。(クローズアップ現代で知りました。)
無料で、顔の見える関係で手渡しするそうです。
知識や考えも、シェアする、と考えると、学びが少し気楽なものになるかもしれない、と思いました。
考えることを、一から自分で始められた人は、現代にはいないですよね。
学びとは本来、いろいろな人の考えを、膨らませていくものだから、シェアするという感覚の方が、伝える、受け取る、という感覚よりもぴったりしているように思いました。
化学反応にも、似ているかもしれません。
ポイント制とか、ツリー表示とか、いろいろアイデアが出ていますが、シェアするためには、新しい投稿者が増えるといいですね。
無料で、顔の見える関係で手渡しするそうです。
知識や考えも、シェアする、と考えると、学びが少し気楽なものになるかもしれない、と思いました。
考えることを、一から自分で始められた人は、現代にはいないですよね。
学びとは本来、いろいろな人の考えを、膨らませていくものだから、シェアするという感覚の方が、伝える、受け取る、という感覚よりもぴったりしているように思いました。
化学反応にも、似ているかもしれません。
ポイント制とか、ツリー表示とか、いろいろアイデアが出ていますが、シェアするためには、新しい投稿者が増えるといいですね。
NO.272011-06-29 14:53:04 thnkks0304 0
No.10でも少し意見を述べましたが、付け加えさせていただきます。
学びの場は、思考の化学反応が起きる場であってほしいです。教師としての相手の言葉や行動によって、自分の頭の中で、何か新しい考えがひらめいたり、生き方が変わったりする。今まで自分の頭の中で、もんもんとしていて、うごめいていたものが、はっきりと「これだ!」とか「なるほど!」と答えがみつかる。
思考の化学反応は、一対一の場面で、お互いが協力し合って起こるものであってもいいし、一方だけに起こってもいい。また3人以上の人が集まって、意見を闘わせて新しい考えが生まれてもいいと思います。
私の今までの人生の中では、一対一の場面で、自分の頭の中だけで化学反応が起きていたことが多いです。本と向かい合っている場面でもそうですし、茂木氏の講演に行ったときは、茂木氏の意見によって今までくすぶっていたものが、はっきりと見えたりしました。茂木氏と私は、講演者と聴衆という一対一の一方通行の関係であり、私の頭の中だけで化学反応が起きていました。そういった関係であっても、学びの場であると思います。
この掲示板は、様々な考え方を持った人たちが、意見を出し合って、それらがぶつかり合って、新しい考え方が生まれたりする場であると思います。それはまさしく、異種格闘技戦のような場所。
そういった場にtrasqueさんがおっしゃるような「同志」が集まれば、なおさら激しい化学反応が起きると思います。生命科学者の上田泰乙氏の研修室では、数学、情報科学、生化学、医学、生物などそれぞれの分野で抜きんでた知識と技術を持った者が集まり、「生命を解明する」という目的のもと、意見を出し合って、研究を進めています。「生命を解明する」という目的を持った同志が集まり、新しい概念を構築していく、そういった研究室も、一種の学びの場であると思います。
一対一の一方の頭の中で起こる化学反応、双方によって起こる化学反応、集団となって起こる化学反応、それぞれのパターンの場面で、新しい考え方が生まれる場が学びの場ではないでしょうか。
学びの場は、思考の化学反応が起きる場であってほしいです。教師としての相手の言葉や行動によって、自分の頭の中で、何か新しい考えがひらめいたり、生き方が変わったりする。今まで自分の頭の中で、もんもんとしていて、うごめいていたものが、はっきりと「これだ!」とか「なるほど!」と答えがみつかる。
思考の化学反応は、一対一の場面で、お互いが協力し合って起こるものであってもいいし、一方だけに起こってもいい。また3人以上の人が集まって、意見を闘わせて新しい考えが生まれてもいいと思います。
私の今までの人生の中では、一対一の場面で、自分の頭の中だけで化学反応が起きていたことが多いです。本と向かい合っている場面でもそうですし、茂木氏の講演に行ったときは、茂木氏の意見によって今までくすぶっていたものが、はっきりと見えたりしました。茂木氏と私は、講演者と聴衆という一対一の一方通行の関係であり、私の頭の中だけで化学反応が起きていました。そういった関係であっても、学びの場であると思います。
この掲示板は、様々な考え方を持った人たちが、意見を出し合って、それらがぶつかり合って、新しい考え方が生まれたりする場であると思います。それはまさしく、異種格闘技戦のような場所。
そういった場にtrasqueさんがおっしゃるような「同志」が集まれば、なおさら激しい化学反応が起きると思います。生命科学者の上田泰乙氏の研修室では、数学、情報科学、生化学、医学、生物などそれぞれの分野で抜きんでた知識と技術を持った者が集まり、「生命を解明する」という目的のもと、意見を出し合って、研究を進めています。「生命を解明する」という目的を持った同志が集まり、新しい概念を構築していく、そういった研究室も、一種の学びの場であると思います。
一対一の一方の頭の中で起こる化学反応、双方によって起こる化学反応、集団となって起こる化学反応、それぞれのパターンの場面で、新しい考え方が生まれる場が学びの場ではないでしょうか。
NO.262011-06-29 02:56:56 LAMPRIGERA 0
>ノートをとらなくても、頭に入る天才をなぜ、特別に育てず、見捨てるのか?(No.23)
サンテグ・ジュペリが『人間の土地』の最終章で述べていることですが、人間の世界には、植物の育種家(園丁)のような存在があまりにも少ないから、このように「天才が見捨てられる」事態が起きるのだと思います。園丁というのは、変わり種、「新しい苗」を、育て大事にする人のことです。変わり種や新しいものの良さを理解し、その良さを引き出していく能力のある教育者は本当に少ないのではないかと思います。良いものが適切な対処を受けず、腐っていくというこは、terurunさんの指摘の通り、現状ではよくあることだと思います。
ですが、今、情報技術がこんなにも発達してきているのだから、たくさんの新しい苗と優秀な園丁が、例えばネット上で出会えるようにする、ということは可能になってきているのではないでしょうか。そして、そのようなプロジェクトの一つが夜間飛行であると理解しています。
茂木さんは現代の園丁のお一人だと思います。この掲示板を介して、もっとたくさんの「これから開こうとしている芽」が園丁と出会うチャンス、開花していけるようなチャンスを提供するために、どのような改良ができるのか?
ポイントの導入にしても何にしても、本当の目的は、つまる所そこにあると思います。広い視野を持って様々な価値を認め、育てることができる人間と、今、現に開こうとしながらも様々な圧力の下にある芽が出会い、互いを育てていくような環境が必要です。
どうやったら、よりたくさんの芽が集まってくるのか、どうやったらそれをきちんと育てていくことができるのか、そのための一つの案として、ポイント制ということが検討課題に上がってきているのだと思います。だから、本当に投稿のハードルが上がるとか、委縮するとかいうことがあるのなら、導入は全く無意味だと思います。しかし、もし活性化するチャンスがあるのなら、それも検討してみる必要があると考えます。
例えば、僕はまた節操のないことを思いついたのですが、ポイントを茂木さんの著書や、講演の招待券に変えられるようにするのはどうでしょう(図々しいかな)?こうすれば、ポイントは「使うもの」になるので、序列の指標にはなりません(笑)ホリエモンのメルマガでは、毎回抽選で賞品をプレゼントしていますが、夜間飛行ではそれを掲示板でためたポイントと交換するわけです。またしても実現可能性は検討しておりません…
trasqueさんの指摘(No.16)に対してですが、点取り屋さんみたいな人が現れるとしても、掲示板の進行としては実害はないと考えています。投稿が多ければ、質が希釈されていうようと、次の発想に繋がっていく可能性は高いです。だから結果的には投稿の活性化になると思います。また、現時点で、掲示板を見ている限りではそのような人はそうそう表れないのではないかと思っていますが、どうでしょう。
---------------
ところで、これを書いていて思ったのですが、茂木さんのように、僕らもまた園丁となり、新しい芽を育てられるような人間になること、それがここで学ぶ目的の一つかもしれないですね。
ちなみに、僕は「新しい苗」というときに、年齢のことでくくっているわけではありません。また、「変わり種」に対して「普通の種」があるかというと、そう思っているわけでもありません。「普通の種」があるように見えるのは、同調化圧力の結果、多くの人が「普通の人」として共有されている概念を演じるようになってしまったというだけの話で、みんな素になってしまえば、本当は普通の人なんていないんでしょう、と思っています。(念のため)
---------------
そうだ、もう一点。
>色々書きたい話はありますがもうこんなに長くなってしまった…!そろそろまとめに入りたいと思います。(No.20)
時間が許せば、ぜひ全部書いて頂きたいですね。ビバ長文、ということで。
サンテグ・ジュペリが『人間の土地』の最終章で述べていることですが、人間の世界には、植物の育種家(園丁)のような存在があまりにも少ないから、このように「天才が見捨てられる」事態が起きるのだと思います。園丁というのは、変わり種、「新しい苗」を、育て大事にする人のことです。変わり種や新しいものの良さを理解し、その良さを引き出していく能力のある教育者は本当に少ないのではないかと思います。良いものが適切な対処を受けず、腐っていくというこは、terurunさんの指摘の通り、現状ではよくあることだと思います。
ですが、今、情報技術がこんなにも発達してきているのだから、たくさんの新しい苗と優秀な園丁が、例えばネット上で出会えるようにする、ということは可能になってきているのではないでしょうか。そして、そのようなプロジェクトの一つが夜間飛行であると理解しています。
茂木さんは現代の園丁のお一人だと思います。この掲示板を介して、もっとたくさんの「これから開こうとしている芽」が園丁と出会うチャンス、開花していけるようなチャンスを提供するために、どのような改良ができるのか?
ポイントの導入にしても何にしても、本当の目的は、つまる所そこにあると思います。広い視野を持って様々な価値を認め、育てることができる人間と、今、現に開こうとしながらも様々な圧力の下にある芽が出会い、互いを育てていくような環境が必要です。
どうやったら、よりたくさんの芽が集まってくるのか、どうやったらそれをきちんと育てていくことができるのか、そのための一つの案として、ポイント制ということが検討課題に上がってきているのだと思います。だから、本当に投稿のハードルが上がるとか、委縮するとかいうことがあるのなら、導入は全く無意味だと思います。しかし、もし活性化するチャンスがあるのなら、それも検討してみる必要があると考えます。
例えば、僕はまた節操のないことを思いついたのですが、ポイントを茂木さんの著書や、講演の招待券に変えられるようにするのはどうでしょう(図々しいかな)?こうすれば、ポイントは「使うもの」になるので、序列の指標にはなりません(笑)ホリエモンのメルマガでは、毎回抽選で賞品をプレゼントしていますが、夜間飛行ではそれを掲示板でためたポイントと交換するわけです。またしても実現可能性は検討しておりません…
trasqueさんの指摘(No.16)に対してですが、点取り屋さんみたいな人が現れるとしても、掲示板の進行としては実害はないと考えています。投稿が多ければ、質が希釈されていうようと、次の発想に繋がっていく可能性は高いです。だから結果的には投稿の活性化になると思います。また、現時点で、掲示板を見ている限りではそのような人はそうそう表れないのではないかと思っていますが、どうでしょう。
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ところで、これを書いていて思ったのですが、茂木さんのように、僕らもまた園丁となり、新しい芽を育てられるような人間になること、それがここで学ぶ目的の一つかもしれないですね。
ちなみに、僕は「新しい苗」というときに、年齢のことでくくっているわけではありません。また、「変わり種」に対して「普通の種」があるかというと、そう思っているわけでもありません。「普通の種」があるように見えるのは、同調化圧力の結果、多くの人が「普通の人」として共有されている概念を演じるようになってしまったというだけの話で、みんな素になってしまえば、本当は普通の人なんていないんでしょう、と思っています。(念のため)
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そうだ、もう一点。
>色々書きたい話はありますがもうこんなに長くなってしまった…!そろそろまとめに入りたいと思います。(No.20)
時間が許せば、ぜひ全部書いて頂きたいですね。ビバ長文、ということで。
NO.252011-06-29 00:37:23 yamanorisu 0
あ。
yamanorisuは、かれこれ20数年、障がい福祉分野で働いています。
やりたいことは、ノーマライゼーションを進めること。
正義の判断基準は「ノーマライゼーションに適っているかどうか」
英語は…。。。I wil...am going to... challenge(^^;
yamanorisuは、かれこれ20数年、障がい福祉分野で働いています。
やりたいことは、ノーマライゼーションを進めること。
正義の判断基準は「ノーマライゼーションに適っているかどうか」
英語は…。。。I wil...am going to... challenge(^^;
NO.242011-06-29 00:27:55 yamanorisu 0
子どもを「子ども扱い」しない。
障がい者を「障害者扱い」しない。
じいちゃん、ばあちゃんを大切にする。
違いを大切にする(排斥しない)。「みんなちがって、みんないい」の哲学。
正解のない(決められない)問題をおそれずに、とことん議論する。
久しぶりの投稿。酔っぱらっていて、すみません…(^^;
障がい者を「障害者扱い」しない。
じいちゃん、ばあちゃんを大切にする。
違いを大切にする(排斥しない)。「みんなちがって、みんないい」の哲学。
正解のない(決められない)問題をおそれずに、とことん議論する。
久しぶりの投稿。酔っぱらっていて、すみません…(^^;
NO.232011-06-28 23:15:30 terurun 0
飛びぬけている人をなぜ、育てないのか?です。
ノートをとらなくても、頭に入る天才をなぜ、特別に育てず、見捨てるのか?
黒しか色を使わないで絵を描く子供をどうして、おかしいというのか?
5歳で船の設計図を白い紙にかき写している子を、アスペルガーと
判断し、どうでも良い教室で、「普通に生きられるようにと称した学校で」訓練を受けなくてはいけないのか?
なぜ、睡眠を1週間とらないで、没頭して何かに打ち込む人を変わり者と言うのか?
私には、まったく分からない。
普通に生きられるように・・・、なんて、なんの意味があるのでしょう?
人より飛びぬけているということは、
医学的に言う、「病気」なのでしょうか?
私は、普通の人の教育よりも群を抜いて、能力のある人たちの
教育をなんとかして欲しいと思う。
天才は、天才なりの苦しみがある。
天才を異質と判断する日本の教育に本当にあきれる。
普通の人間ばかり作って、何にも生産されない日本に
なることに何の意味があるのか、分からない。
もっと、変人、奇人、天才、大いに出てくるべきだと思うし、
そういう人達がのびのびと才能を発揮し、軽視されず、
大切にされる教育をして欲しい!!
人に迷惑を掛けなければ、個性的であること、何にも悪くないと思う。
強烈で、存在感のある人を、もっと尊重すべきだと思う!
ノートをとらなくても、頭に入る天才をなぜ、特別に育てず、見捨てるのか?
黒しか色を使わないで絵を描く子供をどうして、おかしいというのか?
5歳で船の設計図を白い紙にかき写している子を、アスペルガーと
判断し、どうでも良い教室で、「普通に生きられるようにと称した学校で」訓練を受けなくてはいけないのか?
なぜ、睡眠を1週間とらないで、没頭して何かに打ち込む人を変わり者と言うのか?
私には、まったく分からない。
普通に生きられるように・・・、なんて、なんの意味があるのでしょう?
人より飛びぬけているということは、
医学的に言う、「病気」なのでしょうか?
私は、普通の人の教育よりも群を抜いて、能力のある人たちの
教育をなんとかして欲しいと思う。
天才は、天才なりの苦しみがある。
天才を異質と判断する日本の教育に本当にあきれる。
普通の人間ばかり作って、何にも生産されない日本に
なることに何の意味があるのか、分からない。
もっと、変人、奇人、天才、大いに出てくるべきだと思うし、
そういう人達がのびのびと才能を発揮し、軽視されず、
大切にされる教育をして欲しい!!
人に迷惑を掛けなければ、個性的であること、何にも悪くないと思う。
強烈で、存在感のある人を、もっと尊重すべきだと思う!
NO.222011-06-28 22:29:30 tomotomo 0
「学びの場」の響き、素敵だなと思います。
振り返ってみると、勉強はおもしろいと思わなかった、するものだからやっていた学生時代。
だから社会人になったときにも宿題やテストがなくなって良かったぐらいにしか思わなかった気がします。
それから十?年、学ぶことって楽しいことなんだと感じているこの頃。
そのちがいは?と考えてみると、学ぶことは自分のことなんだなあというのがわかったことが大きい気がします。
学校での勉強は受け身だったんですね。
今は自分の関心から学びが始まるので、わかったときリアルに嬉しいです。
大人になっての学びのいいところは、社会という現実を見ながら考えることができることだと思ってます。
NO.8LAMPRIGERAさんの「考えたことをきっかけに日常生活でちょっと行動を変えてみたとか、考えたことと生活がなにかリンクした」というところに共感しました。
この掲示板は一つのテーマについてみんなで意見を出し合っているのでおもしろいです。大切なテーマでもこういうこと人とあまり話したりしないですよね。
自分が考えているときにいい意見を見ると「なるほど!」の思いが深くなることにも気付きました。
学びの場は人と人が行きかう場所。
こどもの頃に家で退屈して「ちょっと近くの公園にいってくる!」と出かけて、知ってる友達に会った時のうれしい気持、こんなかんじが掲示板にあったらいいなと思いました。
振り返ってみると、勉強はおもしろいと思わなかった、するものだからやっていた学生時代。
だから社会人になったときにも宿題やテストがなくなって良かったぐらいにしか思わなかった気がします。
それから十?年、学ぶことって楽しいことなんだと感じているこの頃。
そのちがいは?と考えてみると、学ぶことは自分のことなんだなあというのがわかったことが大きい気がします。
学校での勉強は受け身だったんですね。
今は自分の関心から学びが始まるので、わかったときリアルに嬉しいです。
大人になっての学びのいいところは、社会という現実を見ながら考えることができることだと思ってます。
NO.8LAMPRIGERAさんの「考えたことをきっかけに日常生活でちょっと行動を変えてみたとか、考えたことと生活がなにかリンクした」というところに共感しました。
この掲示板は一つのテーマについてみんなで意見を出し合っているのでおもしろいです。大切なテーマでもこういうこと人とあまり話したりしないですよね。
自分が考えているときにいい意見を見ると「なるほど!」の思いが深くなることにも気付きました。
学びの場は人と人が行きかう場所。
こどもの頃に家で退屈して「ちょっと近くの公園にいってくる!」と出かけて、知ってる友達に会った時のうれしい気持、こんなかんじが掲示板にあったらいいなと思いました。
NO.212011-06-28 12:46:57 chigusaotsuki 0
NO.17の訂正です。
アルタネイティブ、ではなくて、オールタナティブ、でした。
発音、間違えて、ごめんよー。
アルタネイティブ、ではなくて、オールタナティブ、でした。
発音、間違えて、ごめんよー。
NO.202011-06-28 03:31:02 guheguhe18 0
こんにちは。私は22歳で、絵描きやバンドや現代アートのような活動をしている者です。
学び とは何でしょうか。
私は、人間がその社会で生きていく上で、必要なスキルを身につけることであると考えます。
国語理科社会のような教養だけでなく、食べて寝て住む環境をつくる方法、人生という壁にぶち当たった時におおいに悩んで、それを解決する方法でもあります。
そこで、義務教育と、それ以外の学びについて
私の実体験から書かせていただきます。
・義務教育について
義務教育は小中とありますが、そこでは何を学ぶのでしょうか。
私自身は、常に外で遊んでいたために勉強した記憶はありません。
数学では3点をとったことがあります、、、。
今年大学を卒業したてなので、大学については記憶が割と鮮明にあるので
今時点と大学の教育から、義務教育についても関連させていきたいと思います。
大学は美大でしたので、少し特殊な環境であったであろうことは先に書いておきます。
大学で感じたことは、ほとんどの人が自分の考えを発表することが苦手だということ。
そして、議論やレポートのような文章を書くことが下手だということです。
これは日本の美術にも深く関係があると考えているのですが、
それはつまり、「思う」と「考える」が分けられていない、という点に集約されると考えています。
私たち日本人は、古くから おもふ ことに対して非常な関心をはらっていたのでしょう。
それは、俳句などの文化や、情緒を表現する美術作品にもよく表れています。
そして、日本語自体がオノマトペ的表現が豊富で、そういった情感を表現することを得意とする言語だと考えています。
対して英語ではどうでしょうか。
「思う」も「考える」も "think" ですよね。
私はそこまで英語に詳しくないので、日本語の「思う」に相当する
英語での表現が思いつきません。詳しい方がいらっしゃれば伺ってみたいです。
しかし、「思う」とはかなり抽象的というか哲学的ですらある単語だと思います。悪く言えば漠然としすぎている。
かなり詩的な表現で、自分の考えを表現する時には使い方に注意が必要な語のように感じます。
それらは、義務教育の時点で指摘されるべき点ではないでしょうか?
そして日本の義務教育では、思いを発表することに重きが置かれているとも感じます。
自分の考えを発表し、議論することを教育されない。
これは、茂木さんが仰っていました「同質化圧力」とも深く関係すると考えています。
同質化圧力が高い上に、考えを発表する訓練も、環境もない。
そこではもはや圧力を振り切って思いのたけを表現することに美意識を持っているように見えます。
(そういえば大学で、しきりに飲みゅにケーション的なことを勧められますが、あれの意味が僕にはわかりません。
私は飲むのは好きですし、飲み会も大学時代はよくやったし、だいたい最後までいるタイプの人間ですが
話し合いのために飲み会をセッティングするのはどうしてでしょう。少しならいいですが、
酔っぱらってしまっては記憶もあいまいになるし、まともな話し合いにならない。。
感情を出すことと、考えを発表することがごっちゃになってしまっている。
こういうことも関係しているでしょう。)
学ぶことは複雑です。が、思いのたけをぶつけあうだけでは議論にならず、
考えを昇華することが困難です。これは、日本が抱えている問題の一つであると考えています。
・学外での学びについて
僕は小学生の頃、自然教室という活動に参加していました。
ボーイスカウトなどとも全然違うタイプで、山や川や海で合宿したり、家でゲームしたり。
日本の各地へ出向いて、田植えをしたり、その米で日本酒を造ったり。
伝統工芸の作家のじーさんばーさんのところへ行ったり、とにかく色々なかたちで
自然や社会と接点を持つような活動でした。
その先生は民俗学に詳しい方で、この前会った時に「世間師」という言葉を教えてもらいました。
世間師とは、ある疑問の回答を捜して若者が旅に出て、世間に答えを探すことでもあれば
そういった世の中をよく知った人のことでもある、というふうに私は解釈しました。
詳しくは宮本常一の"忘れられた日本人"を読むといいそうです。ちなみに私はまだ読んでいません、、。
そこで、私は昔色々なところへ連れていってもらっていたのは、こういうことだったのかな?
と今になって思いました。
大学では色々な人がいましたが、多くの人はこういう経験をしていないように感じました。
今では、世間師は大学だともその先生は言っていました。
自分の世話を焼いてくれる、社会に通じている大人と話し合える環境。
それにしては、あまり機能していないように感じます。
人間的な成長とは本当に色々あってなんとも言い難いですが、こういう経験が
私の人生には良い影響を与えてくれたと感じています。
色々書きたい話はありますがもうこんなに長くなってしまった…!
そろそろまとめに入りたいと思います。
・大学を卒業して、大人になるとはどういうことかふと考えた時があります。
成人式というものが一応ありますが、あってないようなものですし。。
私は経済的な自立を本当に意識した時、そして学内などの限定的なコミュニティーでない、
広い社会への参加を意識した時なのかな、と考えました。
そうすると、私は学部の3年の頃だったのかな、と思います。
そこで、問題が一つあります。
私は学び、教育に関して一つ重要なことは、自由な想像力をはばたかせることだと考えています。
それは、モノづくりだけでなく、社会の構造や全ての創造に関わってきます。
今の教育機関は、モラトリアム期間のための環境です。そこでは、そうした
現実的な食う食わないの問題は棚上げして、自由に発想することができます。
それらを大切に議論し育て、豊かな発想から社会を創り上げていくことが重要だと考えていますが、
実際の教育現場ではどうでしょうか。そうした個人の自由な発想は尊重されるでしょうか?
議論されるでしょうか?されないと思います。
なぜなら、個人の意見を尊重 という言葉をよく目にしますが、それ以前の段階だと考えているからです。
個人の意見を尊重するには、それをどう扱うかということが共有されていなければなりません。
私は、そういった個人の豊かな想像力を伸ばすこと、それを議論して共有し、
高めること、その方法を深めることが、学びの場には必要な事だと考えています。
そこで今一番必要なことは、その個人の発想を受け止める土壌だと感じています。
現実的に食う食わない。他人の評価などが気になりだした時に、想像力はしぼんでゆきます。
そこから抜け出すには、自分の表現を疑わないことです。そのために、自分の思いだけでなく、
考えを発表していくこと、それを受け入れる環境がとても大切だと考えています。
繰り返しますが、自由な想像力から、物事を深く考えること。その考えを発表し、
聞く側はそれを受け止めること。そしてそれを議論し、何らかの答えを出すこと。
それらをサポートする環境をつくること。
そういう基礎的なことが、義務教育含めた広く学びの場に必要なことだと考えています。
・この掲示板でできることは?
ということを少し考えてみました。
今回この文章を書くにあたって、「思う」と「考える」の使い方をなるべく
実感に素直に使ってみました。普段、「思う」で済ませてしまうところも、
「考える」と書くと、脳ミソの違う部分が働く気がして新鮮でした。
この分野を伸ばしていくべきかな、と感じました。
日本語は曖昧な表現が多い言語ですから、こういうところを
気をつけつつ、日本語の文としてはちょっと妙ですが 考える という
言葉をあえて使ってみるのも面白いかな、と思いました。
あとは、自分の職種や年齢なんかも公開していくと、
どういう環境にいる人なのかがわかって話し合いに幅が出るかもしれないとも思いました。
これは個人の自由だし、逆に書きにくくなる場合もあるかもしれませんが。。
試しに今回は文の一番上に書いてみました。
あと、、、ここを見れる人が増えるといいのかもしれません。
長々と失礼しました。
学び とは何でしょうか。
私は、人間がその社会で生きていく上で、必要なスキルを身につけることであると考えます。
国語理科社会のような教養だけでなく、食べて寝て住む環境をつくる方法、人生という壁にぶち当たった時におおいに悩んで、それを解決する方法でもあります。
そこで、義務教育と、それ以外の学びについて
私の実体験から書かせていただきます。
・義務教育について
義務教育は小中とありますが、そこでは何を学ぶのでしょうか。
私自身は、常に外で遊んでいたために勉強した記憶はありません。
数学では3点をとったことがあります、、、。
今年大学を卒業したてなので、大学については記憶が割と鮮明にあるので
今時点と大学の教育から、義務教育についても関連させていきたいと思います。
大学は美大でしたので、少し特殊な環境であったであろうことは先に書いておきます。
大学で感じたことは、ほとんどの人が自分の考えを発表することが苦手だということ。
そして、議論やレポートのような文章を書くことが下手だということです。
これは日本の美術にも深く関係があると考えているのですが、
それはつまり、「思う」と「考える」が分けられていない、という点に集約されると考えています。
私たち日本人は、古くから おもふ ことに対して非常な関心をはらっていたのでしょう。
それは、俳句などの文化や、情緒を表現する美術作品にもよく表れています。
そして、日本語自体がオノマトペ的表現が豊富で、そういった情感を表現することを得意とする言語だと考えています。
対して英語ではどうでしょうか。
「思う」も「考える」も "think" ですよね。
私はそこまで英語に詳しくないので、日本語の「思う」に相当する
英語での表現が思いつきません。詳しい方がいらっしゃれば伺ってみたいです。
しかし、「思う」とはかなり抽象的というか哲学的ですらある単語だと思います。悪く言えば漠然としすぎている。
かなり詩的な表現で、自分の考えを表現する時には使い方に注意が必要な語のように感じます。
それらは、義務教育の時点で指摘されるべき点ではないでしょうか?
そして日本の義務教育では、思いを発表することに重きが置かれているとも感じます。
自分の考えを発表し、議論することを教育されない。
これは、茂木さんが仰っていました「同質化圧力」とも深く関係すると考えています。
同質化圧力が高い上に、考えを発表する訓練も、環境もない。
そこではもはや圧力を振り切って思いのたけを表現することに美意識を持っているように見えます。
(そういえば大学で、しきりに飲みゅにケーション的なことを勧められますが、あれの意味が僕にはわかりません。
私は飲むのは好きですし、飲み会も大学時代はよくやったし、だいたい最後までいるタイプの人間ですが
話し合いのために飲み会をセッティングするのはどうしてでしょう。少しならいいですが、
酔っぱらってしまっては記憶もあいまいになるし、まともな話し合いにならない。。
感情を出すことと、考えを発表することがごっちゃになってしまっている。
こういうことも関係しているでしょう。)
学ぶことは複雑です。が、思いのたけをぶつけあうだけでは議論にならず、
考えを昇華することが困難です。これは、日本が抱えている問題の一つであると考えています。
・学外での学びについて
僕は小学生の頃、自然教室という活動に参加していました。
ボーイスカウトなどとも全然違うタイプで、山や川や海で合宿したり、家でゲームしたり。
日本の各地へ出向いて、田植えをしたり、その米で日本酒を造ったり。
伝統工芸の作家のじーさんばーさんのところへ行ったり、とにかく色々なかたちで
自然や社会と接点を持つような活動でした。
その先生は民俗学に詳しい方で、この前会った時に「世間師」という言葉を教えてもらいました。
世間師とは、ある疑問の回答を捜して若者が旅に出て、世間に答えを探すことでもあれば
そういった世の中をよく知った人のことでもある、というふうに私は解釈しました。
詳しくは宮本常一の"忘れられた日本人"を読むといいそうです。ちなみに私はまだ読んでいません、、。
そこで、私は昔色々なところへ連れていってもらっていたのは、こういうことだったのかな?
と今になって思いました。
大学では色々な人がいましたが、多くの人はこういう経験をしていないように感じました。
今では、世間師は大学だともその先生は言っていました。
自分の世話を焼いてくれる、社会に通じている大人と話し合える環境。
それにしては、あまり機能していないように感じます。
人間的な成長とは本当に色々あってなんとも言い難いですが、こういう経験が
私の人生には良い影響を与えてくれたと感じています。
色々書きたい話はありますがもうこんなに長くなってしまった…!
そろそろまとめに入りたいと思います。
・大学を卒業して、大人になるとはどういうことかふと考えた時があります。
成人式というものが一応ありますが、あってないようなものですし。。
私は経済的な自立を本当に意識した時、そして学内などの限定的なコミュニティーでない、
広い社会への参加を意識した時なのかな、と考えました。
そうすると、私は学部の3年の頃だったのかな、と思います。
そこで、問題が一つあります。
私は学び、教育に関して一つ重要なことは、自由な想像力をはばたかせることだと考えています。
それは、モノづくりだけでなく、社会の構造や全ての創造に関わってきます。
今の教育機関は、モラトリアム期間のための環境です。そこでは、そうした
現実的な食う食わないの問題は棚上げして、自由に発想することができます。
それらを大切に議論し育て、豊かな発想から社会を創り上げていくことが重要だと考えていますが、
実際の教育現場ではどうでしょうか。そうした個人の自由な発想は尊重されるでしょうか?
議論されるでしょうか?されないと思います。
なぜなら、個人の意見を尊重 という言葉をよく目にしますが、それ以前の段階だと考えているからです。
個人の意見を尊重するには、それをどう扱うかということが共有されていなければなりません。
私は、そういった個人の豊かな想像力を伸ばすこと、それを議論して共有し、
高めること、その方法を深めることが、学びの場には必要な事だと考えています。
そこで今一番必要なことは、その個人の発想を受け止める土壌だと感じています。
現実的に食う食わない。他人の評価などが気になりだした時に、想像力はしぼんでゆきます。
そこから抜け出すには、自分の表現を疑わないことです。そのために、自分の思いだけでなく、
考えを発表していくこと、それを受け入れる環境がとても大切だと考えています。
繰り返しますが、自由な想像力から、物事を深く考えること。その考えを発表し、
聞く側はそれを受け止めること。そしてそれを議論し、何らかの答えを出すこと。
それらをサポートする環境をつくること。
そういう基礎的なことが、義務教育含めた広く学びの場に必要なことだと考えています。
・この掲示板でできることは?
ということを少し考えてみました。
今回この文章を書くにあたって、「思う」と「考える」の使い方をなるべく
実感に素直に使ってみました。普段、「思う」で済ませてしまうところも、
「考える」と書くと、脳ミソの違う部分が働く気がして新鮮でした。
この分野を伸ばしていくべきかな、と感じました。
日本語は曖昧な表現が多い言語ですから、こういうところを
気をつけつつ、日本語の文としてはちょっと妙ですが 考える という
言葉をあえて使ってみるのも面白いかな、と思いました。
あとは、自分の職種や年齢なんかも公開していくと、
どういう環境にいる人なのかがわかって話し合いに幅が出るかもしれないとも思いました。
これは個人の自由だし、逆に書きにくくなる場合もあるかもしれませんが。。
試しに今回は文の一番上に書いてみました。
あと、、、ここを見れる人が増えるといいのかもしれません。
長々と失礼しました。
NO.192011-06-27 22:49:42 ryosuke85 0
学びの場をどう考えるか?
What think of “Study Place”.
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the what think of “Study Place”. To begin with think the what is study.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Nothing gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
話を議題に戻しまして…
Return to topic for discussion…
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
人生において答えというのは、人によって違いますから、無いと言えば無いにも等しいのかな、という気がします。
ただ、八方美人になれ、というのでは無く、【決まり】として成り立っているものをそのまま受け入れるのでは無く、考える事をすべきだと。
そして、社会と個人の関係性において、いかに社会に自分という人間を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂浪する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
けど、それに縛られて画一的な存在になってしまう事もせず、あらゆることを思考、論考し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく。
かく言う僕は、昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとさえおもっている節があったのも認めます。
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、その個人達が、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
現在、26歳で1月に27歳になる僕ですが、今後も皆さんと、この場を借りて思考体系を高めていきたいと考えておりますので、どうかよろしくお願いします。
中途半端な感じになってしまいましたが、もっと精進したいと思います!!
What think of “Study Place”.
まず、“学びの場”をどう考えるか、を論じるというのは、そもそも学びが何なのか、という事を考えなければいけない。
First, Debate the what think of “Study Place”. To begin with think the what is study.
僕自身、この掲示板で大変な勢いで思考力を鍛えられ、この掲示板が今後どのように成長していくのだろうと非常に好奇心をくすぐられています。
My self, Training for power of thinking this a bulletin board, Nothing gives me more pleasure than what sort kind of growth this bulletin board.
話を議題に戻しまして…
Return to topic for discussion…
「決めつけない」事が学びの現場には大切な気がします。
I think “Not Decide” is important study scene.
あらゆる可能性を探っていく事が学びだと僕は信じているのです。
I believed “study” search for various kinds of possibility.
人生において答えというのは、人によって違いますから、無いと言えば無いにも等しいのかな、という気がします。
ただ、八方美人になれ、というのでは無く、【決まり】として成り立っているものをそのまま受け入れるのでは無く、考える事をすべきだと。
そして、社会と個人の関係性において、いかに社会に自分という人間を打ち出していくか、という気概を育む事が学びの場に必要なことでは無いでしょうか。
孔子は、自身がなかなか日の目を見る事も出来ず、漂浪する時期がありましたが、社会において自分自身を役立てる事を弟子達に説きながら、尚且つ自分自身も機会を伺って生き、結果、弟子達はその思想を受け継ぎ、国の重要な役職についた人間が多数いました。
それは、孔子が社会に対して批判的な態度を取る事もありましたが、うまく社会とのバランスを保つことが出来たから弟子達に“学びの場”を提供できたのでしょう。
そもそも、孔子がいなければ「論語」自体存在しませんし、孔子が人生を(そうかどうかは本人によりますが…)全うしたから現在にも残るものになっているものだと思うのです。
生きる上で社会を無視する事は出来ない。
けど、それに縛られて画一的な存在になってしまう事もせず、あらゆることを思考、論考し、答えに近いと思われる事を目指して行動していく。
かく言う僕は、昨年からtwitterをはじめ、様々な意見や考えにふれ、自らの思考を揺さぶられる事が多くありました。
それまでは正直、世の中で起きている事は自分に無関係だとさえおもっている節があったのも認めます。
けど、個人が出来る事は限られているかも知れませんが、その個人が考える事、そして、その個人達が、この掲示板のように集まり、意見を通わせることによって変わる事が絶対にあるのだと感じています。
現在、26歳で1月に27歳になる僕ですが、今後も皆さんと、この場を借りて思考体系を高めていきたいと考えておりますので、どうかよろしくお願いします。
中途半端な感じになってしまいましたが、もっと精進したいと思います!!
NO.182011-06-27 20:44:15 orcamie 0
評価については 私自身苦手なもので 評価なしなら しめしめという気持ちが
むくむと湧いてきます。
が、ここはあえて生温くならないように あえてこの場所で評価するとしたら
と考えました。
個人個人を評価するより、言葉に投票したらどうでしょう?
今回のテーマに沿って 重要だと考える言葉を各自3語選ぶ。
この掲示板は 相手の姿は見えない。
ことばが 歩いたり 走ったり 飛んだり 時には格闘している。
目的は 各人あるかもしれません。
でも テーマをできるだけ深く掘り下げて 幅広く 多角的な見地から 捉えたい。
というような部分は必ずあると思います。
何人が投票に参加して、共感することばがあるか、
そのテーマに関する 人の感じ方の傾向のようなものがわかるといいな。
そうするとその後のテーマで 違う方向へ 違う傾向でできないのかな
という目安にならないでしょうか。
No17のchigusaotsukiさんの言われるようにルールの有効性に関しては
いろいろ疑問が残りますが
ルールを決めてもそれをずーっと続ける必要はないと思います。
ここに参加されてる人は 無効になってもそのルールをしきたりのように
残したい人はいないように思います。
私自身本当にルールを望んでいるかどうかハッキリ決めかねてます。
例えば掲示板の表記を変更可能でしょうか。
ツリー表示にするとどうなるかなのように考えます。
そうすると自分の確認したいと思った投稿にすぐ行ける。
ただしこの長い投稿を行ったり来たり読んで
考えるスタイルも嫌いではないです。
ツリー表示ししてしまったら
自分の繰り返し読んだ部分だけで自分の意見を形成することになり
偏ってしまうかなとも思いますし。
それにしても茂木先生は なぜ適塾のポイント制を紹介したんでしょうね。
色々質問したい事がたくさんあってでもひとり一つなのでこれもすぐ聞かないで
考えようと思っています。
大学のたこつぼ化については
急激な少子高齢化と 大学の独立法人化が 影響している面があると思います。
大学間の競争が高まり 質の高い教育を提供する代わりに
生徒を獲得したらそれで終わり。
たとえば学生数の増加を狙って
司法試験合格のための大学院?を増設して
実際には合格しないなどの不満が続出したり。
生徒も有名大学に入ったら終わり
学校も生徒を獲得したら終わり。
どちらも短絡的で 効率や利益が優先する結果でしょうか。
たしかに存続するためには利益が必要ですが
長期的なビジョンに立ち 質的向上を同時に成し遂げる
という部分がどちらの側にも欠落しているように思います。
質的向上がなかなかできない背景に
日本全体が 全国画一的な様相を呈しているかもしくは望んでいる。
今は少し違うかもしれませんが
東京のような暮らしを 便利で快適な暮らしに価値を見いだす。
地方の特色を尊重して来なかった 日本の政治の弊害かもしれません。
日本人の特性なんでしょうか。
私の考えも迷い始めて取り留めなくなってきました。
理想の学びの場は No16のtrasqeさんのおっしゃるように
「目的」をはっきりと定める事がかなりのウエイトを占めるということ
賛成です。
むくむと湧いてきます。
が、ここはあえて生温くならないように あえてこの場所で評価するとしたら
と考えました。
個人個人を評価するより、言葉に投票したらどうでしょう?
今回のテーマに沿って 重要だと考える言葉を各自3語選ぶ。
この掲示板は 相手の姿は見えない。
ことばが 歩いたり 走ったり 飛んだり 時には格闘している。
目的は 各人あるかもしれません。
でも テーマをできるだけ深く掘り下げて 幅広く 多角的な見地から 捉えたい。
というような部分は必ずあると思います。
何人が投票に参加して、共感することばがあるか、
そのテーマに関する 人の感じ方の傾向のようなものがわかるといいな。
そうするとその後のテーマで 違う方向へ 違う傾向でできないのかな
という目安にならないでしょうか。
No17のchigusaotsukiさんの言われるようにルールの有効性に関しては
いろいろ疑問が残りますが
ルールを決めてもそれをずーっと続ける必要はないと思います。
ここに参加されてる人は 無効になってもそのルールをしきたりのように
残したい人はいないように思います。
私自身本当にルールを望んでいるかどうかハッキリ決めかねてます。
例えば掲示板の表記を変更可能でしょうか。
ツリー表示にするとどうなるかなのように考えます。
そうすると自分の確認したいと思った投稿にすぐ行ける。
ただしこの長い投稿を行ったり来たり読んで
考えるスタイルも嫌いではないです。
ツリー表示ししてしまったら
自分の繰り返し読んだ部分だけで自分の意見を形成することになり
偏ってしまうかなとも思いますし。
それにしても茂木先生は なぜ適塾のポイント制を紹介したんでしょうね。
色々質問したい事がたくさんあってでもひとり一つなのでこれもすぐ聞かないで
考えようと思っています。
大学のたこつぼ化については
急激な少子高齢化と 大学の独立法人化が 影響している面があると思います。
大学間の競争が高まり 質の高い教育を提供する代わりに
生徒を獲得したらそれで終わり。
たとえば学生数の増加を狙って
司法試験合格のための大学院?を増設して
実際には合格しないなどの不満が続出したり。
生徒も有名大学に入ったら終わり
学校も生徒を獲得したら終わり。
どちらも短絡的で 効率や利益が優先する結果でしょうか。
たしかに存続するためには利益が必要ですが
長期的なビジョンに立ち 質的向上を同時に成し遂げる
という部分がどちらの側にも欠落しているように思います。
質的向上がなかなかできない背景に
日本全体が 全国画一的な様相を呈しているかもしくは望んでいる。
今は少し違うかもしれませんが
東京のような暮らしを 便利で快適な暮らしに価値を見いだす。
地方の特色を尊重して来なかった 日本の政治の弊害かもしれません。
日本人の特性なんでしょうか。
私の考えも迷い始めて取り留めなくなってきました。
理想の学びの場は No16のtrasqeさんのおっしゃるように
「目的」をはっきりと定める事がかなりのウエイトを占めるということ
賛成です。
NO.172011-06-27 09:09:14 chigusaotsuki 0
うーん、今回は、嫌われることを、書きます。
ルールって、枠を決めると、枠をはみだすものが出てきて、それで、何のためのルールであるのかを、議論しているうちに、そのルールが、無効になっていて、でも、しきたりのように、ルールだけが、残るのは、今の古い日本では、ないのかなあ。
私は、自分の書いていることを、評価されても、評価されなくても、どちらでもよいのですが、茂木さんは、アルタネイティブって、ツイッターで、言っていたような。
アンチではなくて、アルタネイティブって。
まさに、私の書いていることも、1つのアルタネイティブに、すぎないんだけどなあ。
学びの場に、必要なものは、アルタネイティブのような、自由なたくさんの選択肢で、こうやったら、もっといいかも?っていう、たくさんの意見の中で、自分に合うものを、見つければいいんじゃないのかなあ。
本当に、有効な評価って、すべてのデータを集めているという、妥当性と、この数字は、正しくて、測定結果が、一貫しているという、信頼性に、基づくものでは、ないのかなあ?
ルールって、枠を決めると、枠をはみだすものが出てきて、それで、何のためのルールであるのかを、議論しているうちに、そのルールが、無効になっていて、でも、しきたりのように、ルールだけが、残るのは、今の古い日本では、ないのかなあ。
私は、自分の書いていることを、評価されても、評価されなくても、どちらでもよいのですが、茂木さんは、アルタネイティブって、ツイッターで、言っていたような。
アンチではなくて、アルタネイティブって。
まさに、私の書いていることも、1つのアルタネイティブに、すぎないんだけどなあ。
学びの場に、必要なものは、アルタネイティブのような、自由なたくさんの選択肢で、こうやったら、もっといいかも?っていう、たくさんの意見の中で、自分に合うものを、見つければいいんじゃないのかなあ。
本当に、有効な評価って、すべてのデータを集めているという、妥当性と、この数字は、正しくて、測定結果が、一貫しているという、信頼性に、基づくものでは、ないのかなあ?
NO.162011-06-27 01:50:33 trasque 0
学びの場に必要なもの、それは「目的」と「同志」だと思います。
さまざまな学びの場がありますが、私達は「何の為」に学ぶのでしょうか。
ある資格を取る為、お金持ちになる為、有名になる為、何かを成し遂げる為。
「何の為」とは「目的」のことです。私達は何の為に、どんな「目的」を持ってこの夜間飛行の掲示板に参加しているのでしょうか。ひとつこの点を改めて考えておきたい、と考えました。
「目的」を目指す為に存在する一つ一つの段階を「目標」として設定しクリアして、それを繰り返しながら目的に近づいていきます。
「ある資格を取る為」は目的なのか、目標なのか。ある時点では、確かに目的とも言えますが、では取得した後はどうでも良い、という訳でもありません。
その資格を活かして仕事をしたい。その仕事を通してお金を稼ぎたい。お金を稼いで生活を安定させたい。では、生活を安定させてどうするのか。
こうして考えていくと、どれも「目標」に過ぎないようにも思えます。
目的を追い込んでいくと、どんどん「人間として根源的な部分」に行き着くことが多いのではないかと思います。もちろん、中には「生活を安定させる事が大目的で、それでいい!」という方もいるかも知れません。
この点について、結論から言いますと私は「人間として正しく、強くなること」といった事を目的としてあらゆる事を学ぼうとすべきではないか、と考えています。
No10竹内さんが指摘されている「手段と目的の間違い」は非常に重要なものだと私は捉えております。「良い学校に入る事」が目的となっていて、その先が無い。良い学校に入る事は一つの目標に過ぎず(竹内さんの表現では「手段」です)、それが最大の目的ではないのは明白です。しかしこの間違いが目的として定められている以上、大学は学力テストの点数だけで合否を図り、小中高とそれにあわせた教育が繰り広げられる事になります。
そして「点数」が良ければ「良い会社」に入れる。経済的に安定するという方向になっていきます。これはひとえに「経済的に優位になりやすい人になる事」を教育の大目的としている、とも言い換えることができるのではないでしょうか。
この掲示板に参加する時、恐らく皆さんは「何かを得よう」と思って書き込まれているのだと思います。多くのネット上にある「その他のBBS」とは、明らかにその比重が異なる事を私自身感じております。
それが「学ぼうと思っている何か」だと思いますが、では、私達はこの掲示板で得た事をそのまま「経済的に豊かになりやすいから」という風に考えているのでしょうか?
恐らく、答えはNoだと思います。参加されている皆さんは、もっと先の、奥底にある「目的」に近づかんが為に、この掲示板を読んだり、書き込んだりしていると思うのです。(茂木さんのメルマガについても同様だと思います)
もちろん、仕事の上でよりよい働きをしたいと思われている方もいると思いますし、それを批判しようというものではありません。あくまでも「経済主義」ではなく、人間としての成長、というようなものが根底にあるような目的を、それぞれお持ちなのだろうと思うのです。
私は学びの場に「何の為に学ぶのか」という目的を持つべきと考えます。
そしてそれは常に突き詰められていき、忘れてはならないのだと思います。
ちょっといちいち声に出すのも恥ずかしい気がしますが、例えば「人間としてより強くある為に」とか「日本をより良く出来る一人になる為に」とか、更に「世界の平和に貢献できるようになる為に」とか、どんどん突っ込んでいっていけば良いと思っています。
そういった「人間主義」的な目的は、表現や度合いの差はどうあれ、それぞれ共通したものになっていくと思います。(☆1)
====
一言で「人間的な目的」としても、それぞれあまりにも状況が異なります。
例えば私なら「病気になって一旦は落ちこぼれてしまったが……」というその先をどう生き抜いていくのかという問題から、かえって「その悩みの中で得たものをどこかに還元できるかもしれない」と昇華してみようとするかもしれません。
あまりの貧乏を課題とする人だったり、また逆に資産を持ちすぎるが故の悩みもあるかもしれません。十人十色、千差万別、それぞれの中で「人間としてより進もう」という目的は一緒でも、その途中の目標は大きく異なってきます。
だから私は二つ目に必要なものとして「同志」を挙げたいのです。
同じ学びの場に、同じ目的を共有する人々が、それぞれのステージで異なる戦い(☆1)をして、また改めて学びの場に集う。こういった姿が理想ではないかと思っています。
あくまでも自己の問題は自分で解決していかねばなりませんから、悩みの中で答えが見えない場面が多々出てくるのが当然の姿でしょう。
ですから、この掲示板のような場で集い、それぞれの状況を話し、どんな挑戦をして、どんな悩みにぶつかったのか、ということをお互いに交換して「目的」をより明確にしていく必要があるのだと思います。
自分とは異なる状況で悩む人が行った「挑戦」が、自分の挑戦の指標になるといった形です。これは「目的」を同じくする同志だからできる事だと思っています。この点はNo.8:LAMPRIGERAさんの「課題一つ目」に対する、一つの返答になるかなあ、とも思います。
現在の学校教育では「点数」を取るという部分で評価される為に、それが目的となっています。ですからクラスメイトはみな「同志」である事に変わりは無いのですが、その目的を達成する為の目標が「ほとんど一緒」なので、上記のような切磋琢磨はありませんし、また非常に偏った評価と言わざるを得ない、と私は考えます。
「目的」とか「同志」とか重苦しい表現をしてしまいましたが……
私達はこの掲示板で真剣な投稿を続けている限り、これは結構満たされているんじゃないかなと思っています。
気持ち悪いかもしれませんが、私はこの掲示板に参加されている皆さんを勝手に「同志!」と思い込んで勉強させて頂いてたりします!
この掲示板に限らず「何の為に学ぼうとしているのか」を常に忘れずにいたいと思う次第です。
この点について、No13でmasamiさんが言及しているお話はとても大切な視点だと思います。震災以降「何の為に生きているのか」と迷う人々が増えたと聞きます。
「学びの場」に限らずとも「何の為」という点を、実は真剣に考える場面が少なかったという人は、残念ながら多いのかもしれません。
====
この掲示板における評価システムの話題で……
私は個人的に「システム上で配分されるポイント」のような機構はあまり好きではありません。私はTVゲーム(PCゲーム)が好きで、色々とプレイしているのですが悪い意味での「得点の稼ぎ方」がどうしても存在してしまう事を連想してしまうのです。
昨今、海外産のゲームが国内外で高い評価を受けていて、同じゲームの中でも「人間同士の対戦」を意識した機能が盛り込まれており、むしろ「対戦」をメインに据えたゲームも増えてまいりました。
パーティ的にワイワイと楽しむ為のゲームならばあまり気になりませんが、賞金を稼ぐようなプロゲーマーが存在するゲームタイトルでは、その得点や評価のシステムがとてもシビアに設定されたりしています。
この手の「対戦ゲーム」を世に出すメーカーとして「ブリザード」という海外の会社が大きな評価を得ています。1対1のガチンコ勝負を売りとして、全世界のプレイヤーを厳密に評価するためのシステムを研究し、最近新たなゲームをリリースしました。
そのゲームの評価システムはやはり評価されました。これまでのどのゲームよりも「公平」で「厳正」であると言った様な形でしたが、それでも「穴」は存在するのです。
ゲームとして「ルール」が存在するという事は、行動を大きく制限されている事を意味します。だからこそ、まだなんとか公平に近い評価を行えるというのが「システム」の限界だと思うのです。
もし、掲示板のような「自由意志」を尊重する場でシステムを設計するとすればそれはどうしても「穴だらけ」になってしまうのではないでしょうか。
「得点さえ取れればよい」という書き込みを狙って行われてもつまらないですし、結局そうなってしまっては得点の意味がなくなり、だれも参考にしなくなってしまう事にもなります。
否定だらけの意見になってしまいましたが……
私も何らかの評価と言いますか「書き込んでよかった」と思える何かがあればまた違うかもしれないと思っております。
評価システムという点で見れば既に茂木先生のメルマガで取り上げて頂くといった事や、投稿者が他の投稿を引用したり言及したりする事が、そのまま評価システムになっているのではないかなとも思います。
また、具体的には何も思いつきませんが、この掲示板の「敷居」が上がってしまっているような気もしていて、このあたりなんとかならないかなあと思っています。(私が長すぎる文を投げてるせいかもしれませんが……)
さまざまな学びの場がありますが、私達は「何の為」に学ぶのでしょうか。
ある資格を取る為、お金持ちになる為、有名になる為、何かを成し遂げる為。
「何の為」とは「目的」のことです。私達は何の為に、どんな「目的」を持ってこの夜間飛行の掲示板に参加しているのでしょうか。ひとつこの点を改めて考えておきたい、と考えました。
「目的」を目指す為に存在する一つ一つの段階を「目標」として設定しクリアして、それを繰り返しながら目的に近づいていきます。
「ある資格を取る為」は目的なのか、目標なのか。ある時点では、確かに目的とも言えますが、では取得した後はどうでも良い、という訳でもありません。
その資格を活かして仕事をしたい。その仕事を通してお金を稼ぎたい。お金を稼いで生活を安定させたい。では、生活を安定させてどうするのか。
こうして考えていくと、どれも「目標」に過ぎないようにも思えます。
目的を追い込んでいくと、どんどん「人間として根源的な部分」に行き着くことが多いのではないかと思います。もちろん、中には「生活を安定させる事が大目的で、それでいい!」という方もいるかも知れません。
この点について、結論から言いますと私は「人間として正しく、強くなること」といった事を目的としてあらゆる事を学ぼうとすべきではないか、と考えています。
No10竹内さんが指摘されている「手段と目的の間違い」は非常に重要なものだと私は捉えております。「良い学校に入る事」が目的となっていて、その先が無い。良い学校に入る事は一つの目標に過ぎず(竹内さんの表現では「手段」です)、それが最大の目的ではないのは明白です。しかしこの間違いが目的として定められている以上、大学は学力テストの点数だけで合否を図り、小中高とそれにあわせた教育が繰り広げられる事になります。
そして「点数」が良ければ「良い会社」に入れる。経済的に安定するという方向になっていきます。これはひとえに「経済的に優位になりやすい人になる事」を教育の大目的としている、とも言い換えることができるのではないでしょうか。
この掲示板に参加する時、恐らく皆さんは「何かを得よう」と思って書き込まれているのだと思います。多くのネット上にある「その他のBBS」とは、明らかにその比重が異なる事を私自身感じております。
それが「学ぼうと思っている何か」だと思いますが、では、私達はこの掲示板で得た事をそのまま「経済的に豊かになりやすいから」という風に考えているのでしょうか?
恐らく、答えはNoだと思います。参加されている皆さんは、もっと先の、奥底にある「目的」に近づかんが為に、この掲示板を読んだり、書き込んだりしていると思うのです。(茂木さんのメルマガについても同様だと思います)
もちろん、仕事の上でよりよい働きをしたいと思われている方もいると思いますし、それを批判しようというものではありません。あくまでも「経済主義」ではなく、人間としての成長、というようなものが根底にあるような目的を、それぞれお持ちなのだろうと思うのです。
私は学びの場に「何の為に学ぶのか」という目的を持つべきと考えます。
そしてそれは常に突き詰められていき、忘れてはならないのだと思います。
ちょっといちいち声に出すのも恥ずかしい気がしますが、例えば「人間としてより強くある為に」とか「日本をより良く出来る一人になる為に」とか、更に「世界の平和に貢献できるようになる為に」とか、どんどん突っ込んでいっていけば良いと思っています。
そういった「人間主義」的な目的は、表現や度合いの差はどうあれ、それぞれ共通したものになっていくと思います。(☆1)
====
一言で「人間的な目的」としても、それぞれあまりにも状況が異なります。
例えば私なら「病気になって一旦は落ちこぼれてしまったが……」というその先をどう生き抜いていくのかという問題から、かえって「その悩みの中で得たものをどこかに還元できるかもしれない」と昇華してみようとするかもしれません。
あまりの貧乏を課題とする人だったり、また逆に資産を持ちすぎるが故の悩みもあるかもしれません。十人十色、千差万別、それぞれの中で「人間としてより進もう」という目的は一緒でも、その途中の目標は大きく異なってきます。
だから私は二つ目に必要なものとして「同志」を挙げたいのです。
同じ学びの場に、同じ目的を共有する人々が、それぞれのステージで異なる戦い(☆1)をして、また改めて学びの場に集う。こういった姿が理想ではないかと思っています。
あくまでも自己の問題は自分で解決していかねばなりませんから、悩みの中で答えが見えない場面が多々出てくるのが当然の姿でしょう。
ですから、この掲示板のような場で集い、それぞれの状況を話し、どんな挑戦をして、どんな悩みにぶつかったのか、ということをお互いに交換して「目的」をより明確にしていく必要があるのだと思います。
自分とは異なる状況で悩む人が行った「挑戦」が、自分の挑戦の指標になるといった形です。これは「目的」を同じくする同志だからできる事だと思っています。この点はNo.8:LAMPRIGERAさんの「課題一つ目」に対する、一つの返答になるかなあ、とも思います。
現在の学校教育では「点数」を取るという部分で評価される為に、それが目的となっています。ですからクラスメイトはみな「同志」である事に変わりは無いのですが、その目的を達成する為の目標が「ほとんど一緒」なので、上記のような切磋琢磨はありませんし、また非常に偏った評価と言わざるを得ない、と私は考えます。
「目的」とか「同志」とか重苦しい表現をしてしまいましたが……
私達はこの掲示板で真剣な投稿を続けている限り、これは結構満たされているんじゃないかなと思っています。
気持ち悪いかもしれませんが、私はこの掲示板に参加されている皆さんを勝手に「同志!」と思い込んで勉強させて頂いてたりします!
この掲示板に限らず「何の為に学ぼうとしているのか」を常に忘れずにいたいと思う次第です。
この点について、No13でmasamiさんが言及しているお話はとても大切な視点だと思います。震災以降「何の為に生きているのか」と迷う人々が増えたと聞きます。
「学びの場」に限らずとも「何の為」という点を、実は真剣に考える場面が少なかったという人は、残念ながら多いのかもしれません。
====
この掲示板における評価システムの話題で……
私は個人的に「システム上で配分されるポイント」のような機構はあまり好きではありません。私はTVゲーム(PCゲーム)が好きで、色々とプレイしているのですが悪い意味での「得点の稼ぎ方」がどうしても存在してしまう事を連想してしまうのです。
昨今、海外産のゲームが国内外で高い評価を受けていて、同じゲームの中でも「人間同士の対戦」を意識した機能が盛り込まれており、むしろ「対戦」をメインに据えたゲームも増えてまいりました。
パーティ的にワイワイと楽しむ為のゲームならばあまり気になりませんが、賞金を稼ぐようなプロゲーマーが存在するゲームタイトルでは、その得点や評価のシステムがとてもシビアに設定されたりしています。
この手の「対戦ゲーム」を世に出すメーカーとして「ブリザード」という海外の会社が大きな評価を得ています。1対1のガチンコ勝負を売りとして、全世界のプレイヤーを厳密に評価するためのシステムを研究し、最近新たなゲームをリリースしました。
そのゲームの評価システムはやはり評価されました。これまでのどのゲームよりも「公平」で「厳正」であると言った様な形でしたが、それでも「穴」は存在するのです。
ゲームとして「ルール」が存在するという事は、行動を大きく制限されている事を意味します。だからこそ、まだなんとか公平に近い評価を行えるというのが「システム」の限界だと思うのです。
もし、掲示板のような「自由意志」を尊重する場でシステムを設計するとすればそれはどうしても「穴だらけ」になってしまうのではないでしょうか。
「得点さえ取れればよい」という書き込みを狙って行われてもつまらないですし、結局そうなってしまっては得点の意味がなくなり、だれも参考にしなくなってしまう事にもなります。
否定だらけの意見になってしまいましたが……
私も何らかの評価と言いますか「書き込んでよかった」と思える何かがあればまた違うかもしれないと思っております。
評価システムという点で見れば既に茂木先生のメルマガで取り上げて頂くといった事や、投稿者が他の投稿を引用したり言及したりする事が、そのまま評価システムになっているのではないかなとも思います。
また、具体的には何も思いつきませんが、この掲示板の「敷居」が上がってしまっているような気もしていて、このあたりなんとかならないかなあと思っています。(私が長すぎる文を投げてるせいかもしれませんが……)
NO.152011-06-27 00:37:35 orcamie 0
No14masamiさん
ストッパーになってる訳ではないと思います。
それぞれ自分が実際に通って来た小学校・中学校・高校について
様々な思いがあると思います。
わたしは それが愚痴にならないようにまとめるのがたいへんだな
と思います。
日本の教育の現場で
一番変えて欲しいと思うのは結果第一主義なところです。
問題に対しての答えは決まっているので
そこに至る過程をもっと大切にする学びであって欲しいと思います。
現在の日本の教育は
問題から答えまでの道筋を最短距離で教師が生徒を連れて行く
ような印象を受けます。
しかし 少子化の中良い大学、高校へ合格できる学校が
良い学校という親の要望に応えないと
学校も存続が難しい面もあり 背に腹は変えられない。
2、3日前に 灘高の伝説の教師の方の授業を少し拝見しました。
学びは遊びだというような事もおっしゃってたと思います。
問題から答えまでの道を遊びながら歩いて行く。
その遊び方を 教育大学の方でカリキュラムにいれるのは
随分時間がかかるでしょうから
やはり twitter facebook mixi ameba などの
ネット上での働きかけに多いに期待したいです。
この掲示板が理想の学びの場となるには
遊びのような楽しさがあること
評価もまた遊びになれば。
良い評価を得たらもちろん嬉しいとしても
良くない評価を得ても笑えるような
新しい事を創造する場となる事
皆が生徒であり先生であること
既成概念に捕われない
実は先ほどもっとちゃんとしたのを投稿しようとしたら
猫が消してしまって
消えたからよく思えるだけかもしれません。
ストッパーになってる訳ではないと思います。
それぞれ自分が実際に通って来た小学校・中学校・高校について
様々な思いがあると思います。
わたしは それが愚痴にならないようにまとめるのがたいへんだな
と思います。
日本の教育の現場で
一番変えて欲しいと思うのは結果第一主義なところです。
問題に対しての答えは決まっているので
そこに至る過程をもっと大切にする学びであって欲しいと思います。
現在の日本の教育は
問題から答えまでの道筋を最短距離で教師が生徒を連れて行く
ような印象を受けます。
しかし 少子化の中良い大学、高校へ合格できる学校が
良い学校という親の要望に応えないと
学校も存続が難しい面もあり 背に腹は変えられない。
2、3日前に 灘高の伝説の教師の方の授業を少し拝見しました。
学びは遊びだというような事もおっしゃってたと思います。
問題から答えまでの道を遊びながら歩いて行く。
その遊び方を 教育大学の方でカリキュラムにいれるのは
随分時間がかかるでしょうから
やはり twitter facebook mixi ameba などの
ネット上での働きかけに多いに期待したいです。
この掲示板が理想の学びの場となるには
遊びのような楽しさがあること
評価もまた遊びになれば。
良い評価を得たらもちろん嬉しいとしても
良くない評価を得ても笑えるような
新しい事を創造する場となる事
皆が生徒であり先生であること
既成概念に捕われない
実は先ほどもっとちゃんとしたのを投稿しようとしたら
猫が消してしまって
消えたからよく思えるだけかもしれません。
NO.142011-06-26 22:10:07 masami 0
すみません、付け加えます。
”学ぶということに境界はなく、人は、何歳になっても、どんな人からも、どんな出来事からも学ぶことができる。”
は、あくまでも、私の学ぶということへの基本的な態度であって、望ましい学びの場を求める気持がない、ということではないのです。
ただ残念ながら、それを具体的に思い描けなかったので、書けませんでした。
前回の投稿がストッパーになっていたら申し訳ないと思い、付け足してみました。
皆さんが思い描く学びの場を、楽しみにしています。
”学ぶということに境界はなく、人は、何歳になっても、どんな人からも、どんな出来事からも学ぶことができる。”
は、あくまでも、私の学ぶということへの基本的な態度であって、望ましい学びの場を求める気持がない、ということではないのです。
ただ残念ながら、それを具体的に思い描けなかったので、書けませんでした。
前回の投稿がストッパーになっていたら申し訳ないと思い、付け足してみました。
皆さんが思い描く学びの場を、楽しみにしています。
NO.132011-06-25 06:37:10 masami 0
「迷った人にだけ、神は道を示すのだ」
この言葉、このフォームを開こうとしたら、目に入った名越康文さんの『愛の錬金術』の紹介文の中にありました。
NO.11 orcamie さんの 「迷う・さまよう」ということはすごくいい事だと思います。
と通じるている、と思いました。
皆さんにとって、学ぶとは、どういうことなのかな?何を学びたいのかな?とぼんやり考えていました。
NO.10 の thnkks0304 さんの
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。
私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。
明快な文章に、そうかぁ、と頷いていました。
NO.12 LAMPRIGERA さんのような具体策も、すごいな、と読ませていただきました。
そして、というか、にもかかわらず、不明快な私が感じたことを書いてみます。
私はつい最近、茂木さんがよく書かれている、”大学(学問?)のたこつぼ化”を、あ、こういうことなのね、と実感しました。
ユングの『分析心理学』を読んで、ユングは生まれてくるのが100年早かった、と言われる理由がわかったように思いました。
彼が今生きていたら、目を輝かせて脳科学者や、神経科学者たちと話をしただろうに、と想像しました。アインシュタインとも、何回か話をしたそうですからね。
意識とは?という疑問を持っている人たちが、それぞれの分野からの知見を持ち寄ったら、楽しいだろうな、と想像します。
そんな場は、あるのでしょうか?
これだけ情報が自由に行き交う時代なのに、そのような試みはなされているのでしょうか?
ひそかにどこかでなされていたら、楽しいだろうな、と思います。
私にとっての学びの場とはそのような場。
様々な人が、自分の関心事を語りつつ、それにこだわり続けるのではなく、普遍性を持った語りにつながっていく場。
でも、現実は、まだまだ、たこつぼ?
私にとって関心がある事のひとつは、特に、3月11日以降、強くなった思い。
なぜ私は生きている?
なぜ、あの震災で私は死なないで、ここに生きている?
被災地に住んでいなかったから、ということではなく、生き残ってしまったという罪悪感でもなく、平均寿命まであと〇十年あるから、確率的に生きていて当たり前というのでもなく。
いつだって、死は身近にあり、若くして亡くなる方もいられるのに、それでも生きているのは?
この答えは、人に教えられものではなく、自分が納得することなのだと思います。
そして、この問いを突き詰めれば、なぜ生まれてきた?に行きつくのかな、と思います。
私にとって、学ぶという行為の根底には、この問いが、常に横たわっているような気がします。
そしてどんな学問も、この世の森羅万象と無縁ではないのだから、その学びの根底に、この問いは横たわっているように思うのです。
そういう意味で、学ぶということに境界はなく、人は、何歳になっても、どんな人からも、どんな出来事からも学ぶことができる。
これが私の学びの基本です。
要するに、学びの場は、可能な限りオープンであって欲しい、あとは、あまりこだわらないかな。
瓢箪から駒、みたいなことにたくさん出会いたい、と思います。
つい最近 twitter の英語用アカウントを作り直しました。@masamimed です。できれば、いろいろな国の人のつぶやきをのぞいてみたいと思いながら、前回は、どうやって広げるかわからずにいました。今回も、まずは、Good morning だけでもいいか、と軽い気持ちでの再スタートです。日本語版は、@masamibean です。こちらも、最初は各県の人のつぶやきを見てみたいな、外国にいる人も、と思いながら、地元の人が多く、つぶやきも愚痴になったり…。
思いと行いが裏腹。
学問の府を揶揄する資格はないのかもしれません。
この言葉、このフォームを開こうとしたら、目に入った名越康文さんの『愛の錬金術』の紹介文の中にありました。
NO.11 orcamie さんの 「迷う・さまよう」ということはすごくいい事だと思います。
と通じるている、と思いました。
皆さんにとって、学ぶとは、どういうことなのかな?何を学びたいのかな?とぼんやり考えていました。
NO.10 の thnkks0304 さんの
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。
私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。
明快な文章に、そうかぁ、と頷いていました。
NO.12 LAMPRIGERA さんのような具体策も、すごいな、と読ませていただきました。
そして、というか、にもかかわらず、不明快な私が感じたことを書いてみます。
私はつい最近、茂木さんがよく書かれている、”大学(学問?)のたこつぼ化”を、あ、こういうことなのね、と実感しました。
ユングの『分析心理学』を読んで、ユングは生まれてくるのが100年早かった、と言われる理由がわかったように思いました。
彼が今生きていたら、目を輝かせて脳科学者や、神経科学者たちと話をしただろうに、と想像しました。アインシュタインとも、何回か話をしたそうですからね。
意識とは?という疑問を持っている人たちが、それぞれの分野からの知見を持ち寄ったら、楽しいだろうな、と想像します。
そんな場は、あるのでしょうか?
これだけ情報が自由に行き交う時代なのに、そのような試みはなされているのでしょうか?
ひそかにどこかでなされていたら、楽しいだろうな、と思います。
私にとっての学びの場とはそのような場。
様々な人が、自分の関心事を語りつつ、それにこだわり続けるのではなく、普遍性を持った語りにつながっていく場。
でも、現実は、まだまだ、たこつぼ?
私にとって関心がある事のひとつは、特に、3月11日以降、強くなった思い。
なぜ私は生きている?
なぜ、あの震災で私は死なないで、ここに生きている?
被災地に住んでいなかったから、ということではなく、生き残ってしまったという罪悪感でもなく、平均寿命まであと〇十年あるから、確率的に生きていて当たり前というのでもなく。
いつだって、死は身近にあり、若くして亡くなる方もいられるのに、それでも生きているのは?
この答えは、人に教えられものではなく、自分が納得することなのだと思います。
そして、この問いを突き詰めれば、なぜ生まれてきた?に行きつくのかな、と思います。
私にとって、学ぶという行為の根底には、この問いが、常に横たわっているような気がします。
そしてどんな学問も、この世の森羅万象と無縁ではないのだから、その学びの根底に、この問いは横たわっているように思うのです。
そういう意味で、学ぶということに境界はなく、人は、何歳になっても、どんな人からも、どんな出来事からも学ぶことができる。
これが私の学びの基本です。
要するに、学びの場は、可能な限りオープンであって欲しい、あとは、あまりこだわらないかな。
瓢箪から駒、みたいなことにたくさん出会いたい、と思います。
つい最近 twitter の英語用アカウントを作り直しました。@masamimed です。できれば、いろいろな国の人のつぶやきをのぞいてみたいと思いながら、前回は、どうやって広げるかわからずにいました。今回も、まずは、Good morning だけでもいいか、と軽い気持ちでの再スタートです。日本語版は、@masamibean です。こちらも、最初は各県の人のつぶやきを見てみたいな、外国にいる人も、と思いながら、地元の人が多く、つぶやきも愚痴になったり…。
思いと行いが裏腹。
学問の府を揶揄する資格はないのかもしれません。
NO.122011-06-25 02:17:52 LAMPRIGERA 0
>誰も使っていない言葉をつかってテーマについてコメントしたら1pとか
この評価は客観的だし、事前に加点の対象が明確に決まっているので安心感がありますね。
ところで、やはり投票でいきなり評価されるのが少し怖いというのは、拭いがたい気持ちなのかもしれません。
思いついたのは、最初の何回かの投稿では、評価(投票)を無効にして参加点のみを与え、ある一定の回数以上投稿したら、その時点から評価ボタンをONにするというものです。
例えば、ある投稿者が「21回目の投稿から評価を有効にする」と設定したら、参加点を10(点/回)として…、
20回目までの投稿では単純に10点ずつ加算されていきますが、20回目にポイントが200点になった時点で以降の点数は、「10(参加点)+ 投票数」とする、という事です。
何回目から投票を有効にするかは、例えば0~20回の範囲で自分で設定するとか。
このシステムなら、自分で設定した試行回の後、ときには冷たい風も吹きすさぶ点数評価の世界を自力で運航していくという夜間飛行的な世界観に近いかもしれません(笑)
技術的な検証は全くしていませんが…、あくまでブレストということで。
この評価は客観的だし、事前に加点の対象が明確に決まっているので安心感がありますね。
ところで、やはり投票でいきなり評価されるのが少し怖いというのは、拭いがたい気持ちなのかもしれません。
思いついたのは、最初の何回かの投稿では、評価(投票)を無効にして参加点のみを与え、ある一定の回数以上投稿したら、その時点から評価ボタンをONにするというものです。
例えば、ある投稿者が「21回目の投稿から評価を有効にする」と設定したら、参加点を10(点/回)として…、
20回目までの投稿では単純に10点ずつ加算されていきますが、20回目にポイントが200点になった時点で以降の点数は、「10(参加点)+ 投票数」とする、という事です。
何回目から投票を有効にするかは、例えば0~20回の範囲で自分で設定するとか。
このシステムなら、自分で設定した試行回の後、ときには冷たい風も吹きすさぶ点数評価の世界を自力で運航していくという夜間飛行的な世界観に近いかもしれません(笑)
技術的な検証は全くしていませんが…、あくまでブレストということで。
NO.112011-06-24 21:59:12 orcamie 0
NO.9 chigusaotsuki san Thank you for answering me. Now I can acquire more accurate understanding of your comment.
The importance of the emotional competence for high achievers reminded me of a book [脳はもっとあそんでくれる 茂木先生の本です] . I am likely to estimate the value of the emotional abilities rather low unconsciously. Because I am sometimes afraid of not controlling my emotion while I am doing some intellectual activities. I think we could conduct better if we can find out how to create the fusion of intellectual and emotional activities all together.
I always make to-do-list. But problem is that I always make a difficult one to be carried out. And then I used to be depressed a lot when I couldn't do it. Recently I solved it by making always another one. Everyday I am facing a kind of deadline.
I think "wondering" is always wonderful even if you don't feel in that way. You may be able to find a new way of thinking.
感情面での能力(the emotional competence )をもっといい日本語にすると 感性となるのでしょうか。知的活動において感性も大事だと思いながら ときどき邪魔に感じてしまう事がわたしはあります。知性と感性をバランスよく使いこなせると 知的活動ももっと高度な内容を実現できるのかもしれません。
私はいつも予定表をつくるのですが 実行できないと以前は精神的に落ち込んでいましたが、最近では 作り直す事で落ち込まないことにしています。
「迷う・さまよう」ということはすごくいい事だと思います。迷っているときはあまりうれしくはないかもしれませんが。迷っているうちに新しい考えに行き着く事もあるからと思ってます。
以上 英語のようやくです?
評価については 投稿を活気づけるような方法があるといいですね。成績恐怖症の私は評価と言うと恐ろしいですが。(^^;テレビの番組だあったとおもうのですが、タイトルをわすれてしまって。たとえば、誰も使っていない言葉をつかって テーマについてコメントしたら1pとか。これは素朴な評価ですが。わくわくどきどきが無くならない評価の仕方があるといいですね。
The importance of the emotional competence for high achievers reminded me of a book [脳はもっとあそんでくれる 茂木先生の本です] . I am likely to estimate the value of the emotional abilities rather low unconsciously. Because I am sometimes afraid of not controlling my emotion while I am doing some intellectual activities. I think we could conduct better if we can find out how to create the fusion of intellectual and emotional activities all together.
I always make to-do-list. But problem is that I always make a difficult one to be carried out. And then I used to be depressed a lot when I couldn't do it. Recently I solved it by making always another one. Everyday I am facing a kind of deadline.
I think "wondering" is always wonderful even if you don't feel in that way. You may be able to find a new way of thinking.
感情面での能力(the emotional competence )をもっといい日本語にすると 感性となるのでしょうか。知的活動において感性も大事だと思いながら ときどき邪魔に感じてしまう事がわたしはあります。知性と感性をバランスよく使いこなせると 知的活動ももっと高度な内容を実現できるのかもしれません。
私はいつも予定表をつくるのですが 実行できないと以前は精神的に落ち込んでいましたが、最近では 作り直す事で落ち込まないことにしています。
「迷う・さまよう」ということはすごくいい事だと思います。迷っているときはあまりうれしくはないかもしれませんが。迷っているうちに新しい考えに行き着く事もあるからと思ってます。
以上 英語のようやくです?
評価については 投稿を活気づけるような方法があるといいですね。成績恐怖症の私は評価と言うと恐ろしいですが。(^^;テレビの番組だあったとおもうのですが、タイトルをわすれてしまって。たとえば、誰も使っていない言葉をつかって テーマについてコメントしたら1pとか。これは素朴な評価ですが。わくわくどきどきが無くならない評価の仕方があるといいですね。
NO.102011-06-24 13:11:48 thnkks0304 0
日本の教育全体を見渡してみて、最も根幹にある問題は、学問や教育機関に入ることに関して手段と目的を間違って教えられていることだ。
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
「あなたは東大に入って、大企業に勤めて、幸せな人生を歩むのよ。」と諭す両親。
「君は、成績が学年でもトップクラスなのだから、東大に入りなさい。」と諭す進路担当教師。
「東大合格500人!」と宣伝する予備校。
本来であれば、学校は学ぶ場である手段であり、そこで出会う先生や友人、先輩などと切磋琢磨して議論したりすることで、自分の思考を構築したり、化学反応を起こし新たな考えを生み出す場である。しかし、多くの学生が上記の教師や両親の教えにより、偏差値の高い学校、私立よりも国立大学、東大理1よりも東大理3、などのようにただ単に教育機関に入ることが目的となってしまっている。
教育機関に入ることが目的化してしまっていると、例えば大学に入ったことで目標の8割が達成されてしまっているので、大学という学びの場で、何を目標にどんな分野に興味を持って勉強していけばよいのかわからず、、また学問に対する情熱や茂木氏のいう「インセイン(狂気)」がないため、学びの場を十分に活かすことができなくなってしまう。
進学実績の高い高校や、偏差値の高い大学などは、ある一定以上の学力を持った学生が集まっているため、より高いレベルで切磋琢磨して自分自身を研鑽できる手段の場であるということを認識することが重要であると考える。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。私の中学、高校時代を振り返ってみても、英語の文法を学ぶこと、数学の微分方程式を学ぶこと、物理の力学を学ぶこと、などなど1つ1つの単位でしか教師は教えないし、それを覚えること学ぶことが目的となってしまっていた。本来であれば、英語、数学、物理、生物といったものは、ある問題を解くために必要な道具であり、有機的につながっていないといけない。
それらを切り離して、一個の単位で目的化して教えられたため、授業が簡素なものとなり、授業という学びの場にはワクワクやドキドキはなかった。
大学に入ってから、学問が手段であり有機的につながっていることに自分自身で気づいた(遅いっ!)。神経科学に興味を持ち、それを勉強するには英語で論文が読めないといけないし、細胞や分子の働きなどの生物、物理の知識、数学の知識が必要だということを知った。神経科学の分野にはこんな問題が残されていることを知ってワクワクドキドキしたのを今でも覚えている。
以上のように、私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。
竹内 健太
まず1つ目、学生の多くは教育機関に入ることが目的であると教育を受けていることだ。
「あなたは東大に入って、大企業に勤めて、幸せな人生を歩むのよ。」と諭す両親。
「君は、成績が学年でもトップクラスなのだから、東大に入りなさい。」と諭す進路担当教師。
「東大合格500人!」と宣伝する予備校。
本来であれば、学校は学ぶ場である手段であり、そこで出会う先生や友人、先輩などと切磋琢磨して議論したりすることで、自分の思考を構築したり、化学反応を起こし新たな考えを生み出す場である。しかし、多くの学生が上記の教師や両親の教えにより、偏差値の高い学校、私立よりも国立大学、東大理1よりも東大理3、などのようにただ単に教育機関に入ることが目的となってしまっている。
教育機関に入ることが目的化してしまっていると、例えば大学に入ったことで目標の8割が達成されてしまっているので、大学という学びの場で、何を目標にどんな分野に興味を持って勉強していけばよいのかわからず、、また学問に対する情熱や茂木氏のいう「インセイン(狂気)」がないため、学びの場を十分に活かすことができなくなってしまう。
進学実績の高い高校や、偏差値の高い大学などは、ある一定以上の学力を持った学生が集まっているため、より高いレベルで切磋琢磨して自分自身を研鑽できる手段の場であるということを認識することが重要であると考える。
2つ目は、学問を学ぶことが目的となってしまっていることだ。私の中学、高校時代を振り返ってみても、英語の文法を学ぶこと、数学の微分方程式を学ぶこと、物理の力学を学ぶこと、などなど1つ1つの単位でしか教師は教えないし、それを覚えること学ぶことが目的となってしまっていた。本来であれば、英語、数学、物理、生物といったものは、ある問題を解くために必要な道具であり、有機的につながっていないといけない。
それらを切り離して、一個の単位で目的化して教えられたため、授業が簡素なものとなり、授業という学びの場にはワクワクやドキドキはなかった。
大学に入ってから、学問が手段であり有機的につながっていることに自分自身で気づいた(遅いっ!)。神経科学に興味を持ち、それを勉強するには英語で論文が読めないといけないし、細胞や分子の働きなどの生物、物理の知識、数学の知識が必要だということを知った。神経科学の分野にはこんな問題が残されていることを知ってワクワクドキドキしたのを今でも覚えている。
以上のように、私の経験から、基本的なことであるが学びの場というのは手段であり、目的化してはいけないことだ。
竹内 健太
NO.92011-06-24 07:38:53 chigusaotsuki 0
Hello, NO.7 orcamie-san.
I try to tell you what the word means in context.
The report makes the implication that emotional competence is twice as important as purely mental abilities, especially for high achievers.
At this stage, emotional competence is conceived as relative to their psychology.
A good psychologist has to be particularly good at time management.
Have you ever experienced you make a study plan or to-do-list during an exam?
Do you always try to meet deadlines?
If only I could stick to those things!
Anyway, do not follow my example.
We should not delay until a later time.
Oh, my mind starts to wonder.
Sorry!
I try to tell you what the word means in context.
The report makes the implication that emotional competence is twice as important as purely mental abilities, especially for high achievers.
At this stage, emotional competence is conceived as relative to their psychology.
A good psychologist has to be particularly good at time management.
Have you ever experienced you make a study plan or to-do-list during an exam?
Do you always try to meet deadlines?
If only I could stick to those things!
Anyway, do not follow my example.
We should not delay until a later time.
Oh, my mind starts to wonder.
Sorry!
NO.82011-06-24 03:08:04 LAMPRIGERA 0
申し訳ないことに、最初の投稿で行った宣言にたがって、メルマガの「質問」がずっと提出できていません。先週はとうとう投稿も書けずと、最初の決意の遂行がなかなか難しい状況です。それでも、trasqueさんの感想メールが紹介されたりすれば、もはや後には引けませんね(^^;
---------------
今回のテーマは、僕もとても関心を持っています。メルマガとBBS(+現代のIT技術)というシステムに、さらなる工夫を凝らし、一体どこまで過去の名だたる私塾に迫るものを築けるのか、とても面白いテーマです。
先日、梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」というものを知りました。僕がそのとき理解した限りでは、この宣言の主旨は、「思想」というものを自由に駆使して、身の回りの色々なことを考えてみよう、というものだったと思います。このことを、ちょうど当時流行り出した「アマチュアカメラマン」になぞらえ、彼らはカメラについて体系だった理解はしていないかもしれないが、それでもカメラを道具にして、ちゃんと写真を取っているじゃないか、ということから提言したものだったようです。思想は、実際に日常で使って、活かされてこそ意味がある、という主張だと解釈しました。
思想とは、思考と読み替えても良いでしょう。今、この掲示板では、みんなが自由に自分の思考を使って、また他の人の思考に影響を受けながら、与えられたテーマについて考え、発表しています。夜間飛行BBSは、各人が自由に自分の考えを発表する場として、とてもよく機能していると思います。これはすごいことだです。
今週の初め、堀江貴文さんが収監されましたが、彼は「思考停止」がいかによくない状態かという事について、再三警鐘を鳴らしていました。確かに、思考停止に陥ることが、今の無意味なしきたりの継続や、あたらしい変化の兆しを潰す行為に繋がっているとも考えられます。逆に言えば、思考する個人が増えることこそが、日本を変えていくことに他ならないのだと思います。
この掲示板は、自分の思考を駆使して、自由に世界を捉え直していく活動と、その活動の発表の場として十分に機能しているし、その内容が無償で公開されていることが、このような活動に、波及効果を与えるものと思います。
さらに今後の展望を考えた時、投稿内容が英語化していけば、波及力はますます増大するでしょう。
---------------
今回のテーマですが、僕には、さしあたり二つの課題があるように思われます。
■一つは、実世界に対する働きかけをどう増幅するかという点です。
思想や思考の目的は、たぶん、人間の日々の生活を変えることにあると思います。だから、以前、trasqueさんが具体的な行動に落とし込もう、と呼びかけていたのは面白いと思いました。もちろん、具体的な行動を書きこむと、ネット上で自由に発言するための一つの重要な要素である「匿名性」が脅かされるということはあるでしょう。強制できない部分ではあると思います。
ただ、BBSで考えたことをきっかけに日常生活でちょっと行動を変えてみたとか、考えた事と生活が何かリンクしたようなことが報告できると、思考を行動に変えていく流れを促進できるかもしれません。
それにしても、特に前回の英語に関する投稿から、掲示板で英語で投稿する人や、英語でツイートする人が出ているようで、議論の内容が生活(自分が生きる場)に影響を与えたいい例となっていると思います。
■もう一つは、投稿のモチベーションの維持、また、投稿を活性化させるためにどうするかという点です。
ポイントシステムで、投稿したこと自体に加点すれば、投稿のモチベーションにはなりそうですね。また、youtubeのコメントに付く「thumbs up/down」の投票みたいなもので、読者が各投稿に対して加点するというのもすぐに思いつくことだと思います。
難しいのは、今回のメルマガでも取り上げられていたAKBの総選挙とも関連して、得票数による「量的な支持」の部分がわかりやすすぎて、「質的な支持」が見えにくくなるのでは、という懸念があることです。投票システムを導入するためには、この二つ要素を上手く評価する必要があるでしょう。
考えられるのは、今までのように、どこがどう良かったのかという投稿をみんながすることで、質的な評価をカバーするという事でしょうか。
後は、加点(評価)することで、投稿のハードルが少し上がってしまうのではないか、という懸念もあります。この点、みなさんはどう考えますか?
いずれにせよ、これらの事に関しては、いきなりすごいアイディアが浮かぶというわけにも行かないでしょうから、ブレインストーミングみたいな感じで、とりあえず思いついたことを箇条書きでもなんでも投稿してみれば、色々と面白いアイディアが出てくるんじゃないかと思います。
ポイントで勲章を付けるのはいいけど、新規の人も参加してくるわけだから、何らかの形で勲章をリセットする必要があるかもしれない、とか、質的な価値をしっかり評価した投稿には、余計に加点したらいいのではないか、とか。色々、意見があると思います。
---------------
※最後に、英語に関してですが、僕は自分の投稿に英語のサマリーを付けることを試みてみます。今日は時間がなくなってしまったので、また後日…(hopefully)。
英語で書くことは、慣れないと難しいですが、例えば最初は見出しだけ英語で付けるとか、長めの副題みたいなものを書いてどんどん長くしていくとか、あるいは、重要な言葉にカッコを付けて訳語を入れるだけでも、投稿内容を世界にアピールしていく事に繋がると思います。
ちなみにこの投稿に限定して言えば、世界に向けて発信できたのは"hopefully"だけですね(^^;
いきなり全て英語で文章を書かなくても、ウォームアップする方法はたくさんあると思います。
---------------
今回のテーマは、僕もとても関心を持っています。メルマガとBBS(+現代のIT技術)というシステムに、さらなる工夫を凝らし、一体どこまで過去の名だたる私塾に迫るものを築けるのか、とても面白いテーマです。
先日、梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」というものを知りました。僕がそのとき理解した限りでは、この宣言の主旨は、「思想」というものを自由に駆使して、身の回りの色々なことを考えてみよう、というものだったと思います。このことを、ちょうど当時流行り出した「アマチュアカメラマン」になぞらえ、彼らはカメラについて体系だった理解はしていないかもしれないが、それでもカメラを道具にして、ちゃんと写真を取っているじゃないか、ということから提言したものだったようです。思想は、実際に日常で使って、活かされてこそ意味がある、という主張だと解釈しました。
思想とは、思考と読み替えても良いでしょう。今、この掲示板では、みんなが自由に自分の思考を使って、また他の人の思考に影響を受けながら、与えられたテーマについて考え、発表しています。夜間飛行BBSは、各人が自由に自分の考えを発表する場として、とてもよく機能していると思います。これはすごいことだです。
今週の初め、堀江貴文さんが収監されましたが、彼は「思考停止」がいかによくない状態かという事について、再三警鐘を鳴らしていました。確かに、思考停止に陥ることが、今の無意味なしきたりの継続や、あたらしい変化の兆しを潰す行為に繋がっているとも考えられます。逆に言えば、思考する個人が増えることこそが、日本を変えていくことに他ならないのだと思います。
この掲示板は、自分の思考を駆使して、自由に世界を捉え直していく活動と、その活動の発表の場として十分に機能しているし、その内容が無償で公開されていることが、このような活動に、波及効果を与えるものと思います。
さらに今後の展望を考えた時、投稿内容が英語化していけば、波及力はますます増大するでしょう。
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今回のテーマですが、僕には、さしあたり二つの課題があるように思われます。
■一つは、実世界に対する働きかけをどう増幅するかという点です。
思想や思考の目的は、たぶん、人間の日々の生活を変えることにあると思います。だから、以前、trasqueさんが具体的な行動に落とし込もう、と呼びかけていたのは面白いと思いました。もちろん、具体的な行動を書きこむと、ネット上で自由に発言するための一つの重要な要素である「匿名性」が脅かされるということはあるでしょう。強制できない部分ではあると思います。
ただ、BBSで考えたことをきっかけに日常生活でちょっと行動を変えてみたとか、考えた事と生活が何かリンクしたようなことが報告できると、思考を行動に変えていく流れを促進できるかもしれません。
それにしても、特に前回の英語に関する投稿から、掲示板で英語で投稿する人や、英語でツイートする人が出ているようで、議論の内容が生活(自分が生きる場)に影響を与えたいい例となっていると思います。
■もう一つは、投稿のモチベーションの維持、また、投稿を活性化させるためにどうするかという点です。
ポイントシステムで、投稿したこと自体に加点すれば、投稿のモチベーションにはなりそうですね。また、youtubeのコメントに付く「thumbs up/down」の投票みたいなもので、読者が各投稿に対して加点するというのもすぐに思いつくことだと思います。
難しいのは、今回のメルマガでも取り上げられていたAKBの総選挙とも関連して、得票数による「量的な支持」の部分がわかりやすすぎて、「質的な支持」が見えにくくなるのでは、という懸念があることです。投票システムを導入するためには、この二つ要素を上手く評価する必要があるでしょう。
考えられるのは、今までのように、どこがどう良かったのかという投稿をみんながすることで、質的な評価をカバーするという事でしょうか。
後は、加点(評価)することで、投稿のハードルが少し上がってしまうのではないか、という懸念もあります。この点、みなさんはどう考えますか?
いずれにせよ、これらの事に関しては、いきなりすごいアイディアが浮かぶというわけにも行かないでしょうから、ブレインストーミングみたいな感じで、とりあえず思いついたことを箇条書きでもなんでも投稿してみれば、色々と面白いアイディアが出てくるんじゃないかと思います。
ポイントで勲章を付けるのはいいけど、新規の人も参加してくるわけだから、何らかの形で勲章をリセットする必要があるかもしれない、とか、質的な価値をしっかり評価した投稿には、余計に加点したらいいのではないか、とか。色々、意見があると思います。
---------------
※最後に、英語に関してですが、僕は自分の投稿に英語のサマリーを付けることを試みてみます。今日は時間がなくなってしまったので、また後日…(hopefully)。
英語で書くことは、慣れないと難しいですが、例えば最初は見出しだけ英語で付けるとか、長めの副題みたいなものを書いてどんどん長くしていくとか、あるいは、重要な言葉にカッコを付けて訳語を入れるだけでも、投稿内容を世界にアピールしていく事に繋がると思います。
ちなみにこの投稿に限定して言えば、世界に向けて発信できたのは"hopefully"だけですね(^^;
いきなり全て英語で文章を書かなくても、ウォームアップする方法はたくさんあると思います。
NO.72011-06-22 20:11:50 orcamie 0
Hi, NO.5 chigusaotsuki san. Could you explain “competence” you used ? Did you use it for the meaning of ability or something like a field? And then “emotional competence” refers to how sensitive or impressive or moving to an object we’re learning, does it?
How to evaluate is difficult. Do we have to evaluate ? I'd like to know why we need to evaluate. Isn't there any other way to brush up our skills?
How to evaluate is difficult. Do we have to evaluate ? I'd like to know why we need to evaluate. Isn't there any other way to brush up our skills?
NO.62011-06-22 13:58:42 locomoco 0
それぞれの個性を伸ばせるシステムがあればいいなと思います。例えば英語が得意な人もいるし、論理的思考が得意な人もいるし、また芸術的才能に優れている人もいます。それぞれの良い部分を伸ばしつつ、他の人の美点を見習って弱点を補いあっていく。そんなことができれば理想ですね。
そのためには、どうしたらいいのでしょう?
すぐには思いつかないのですが、評価の仕方がポイントのような気もします。試験とは違った評価方法があるといいのですが。
そのためには、どうしたらいいのでしょう?
すぐには思いつかないのですが、評価の仕方がポイントのような気もします。試験とは違った評価方法があるといいのですが。
NO.52011-06-21 10:51:21 chigusaotsuki 0
There are many things we can infer from the word 'manabi'.
On one level the word 'manabi' denotes that we use for expressing ideas or conveying a message, but the connotation of the word is many: It evokes an atmosphere of study aims.
I assert that experience is personal and cannot be generalised.
Thus, you are free to interpret a notion.
That is your notion, not ours, not theirs, not mine.
Be that as it may, most people would agree that a movement is a key group with shared aims.
For this reason, 'manabi' is also, apparently, a consequence of an individual.
It would appear that 'manabi' is the most intellectual and emotional competence.
On one level the word 'manabi' denotes that we use for expressing ideas or conveying a message, but the connotation of the word is many: It evokes an atmosphere of study aims.
I assert that experience is personal and cannot be generalised.
Thus, you are free to interpret a notion.
That is your notion, not ours, not theirs, not mine.
Be that as it may, most people would agree that a movement is a key group with shared aims.
For this reason, 'manabi' is also, apparently, a consequence of an individual.
It would appear that 'manabi' is the most intellectual and emotional competence.
NO.42011-06-20 21:23:26 orcamie 0
学びの場という表現が好きです。勉強も学習も文部省の指導要綱の匂いがして したくなくなってしまう私です。学びの場では先生が大事かな。それと先生と生徒のコミュニケーション。一方向ではなく双方向である事。
twitterで英語でつぶやくこと、簡単そうで簡単ではないです。一番始めは去年だったけれど 途切れてしまって。長くかっこいいことを言おうとすると 続かなかった (--;
茂木先生の英語のtwitterを読んで 短くてもいいし、天気のことでもいいし 何でもいいんだって思ったらまた書き始めることができました。茂木先生の思考の多様性・柔軟性・鋭さ・明るさ、 読んでいると私も何か書きたいと思ったり 学びたい気持ちになる。そういう発信の仕方をわたしもできるようになれたらと思います。
twitterで英語でつぶやくこと、簡単そうで簡単ではないです。一番始めは去年だったけれど 途切れてしまって。長くかっこいいことを言おうとすると 続かなかった (--;
茂木先生の英語のtwitterを読んで 短くてもいいし、天気のことでもいいし 何でもいいんだって思ったらまた書き始めることができました。茂木先生の思考の多様性・柔軟性・鋭さ・明るさ、 読んでいると私も何か書きたいと思ったり 学びたい気持ちになる。そういう発信の仕方をわたしもできるようになれたらと思います。
NO.32011-06-20 18:50:31 orcamie 0
Hello. I also have my twitter account under the name of orcamie. This name orcamie means I'm a big fan of orcas. The word "amie" came from French, friend. I try to twitter everyday in English though those twitters are very short. I also want to say all of you are welcomed to twitter me.
NO.22011-06-20 16:35:17 chigusaotsuki 0
Please correct My twitter account → My twitter accounts. Sorry.
NO.12011-06-20 16:30:25 chigusaotsuki 0
There was a lively debate on the issue of globalisation in the last lesson. Thanks for all.
My twitter account consist of @chigusa_o and @chigusaotsuki, respectively.
Feel free to connect if you have any questions or want to make a comment.
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