「学歴」とは何だろうか
「学歴」とは何だろうか、ということについてみなさんのご意見をうかがいたいと思います。「学歴社会」が崩壊したとはいいながら、大手企業の中ではその採用において事実上の「指定校」制度をとっているところもあると聞きます。
はたして、18歳の時の入試の成績が、そんなに重要なのか。学歴は、それを持つ者にとっても、持たないものにとっても、やっかいな存在です。さまざまなコンプレックスの原因にもなる。情報ビッグバンで、多くの人が自由に情報にアクセスできる時代に、本当に「学歴」は必要なのでしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。
NO.232011-10-01 05:08:40 LAMPRIGERA 0
>orcamieさん(No.22)
野口悠紀夫 著『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎(2011)
http://amzn.to/r4nbLU
学習社会という言葉は直接出ていないようですが(著者の言葉では「勉強社会」)、「ポスト学歴社会」的なことが書かれています。まだお読みでなければ是非。学歴社会の分析もよくまとまっているので、そのまま要約して投稿してもいいくらいです(笑)。
---------------
*ちなみに、僕の先の投稿(No.5)で述べている「実力でみる」ということは、見る対象の実力というよりは、みる側が「自分の地力でみる」ということを言ったものです。実力主義的なこととは少し趣旨が違います。
どちらとも取れる文章だったのでこの場をかりて追記させていただきました。
野口悠紀夫 著『実力大競争時代の「超」勉強法』幻冬舎(2011)
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学習社会という言葉は直接出ていないようですが(著者の言葉では「勉強社会」)、「ポスト学歴社会」的なことが書かれています。まだお読みでなければ是非。学歴社会の分析もよくまとまっているので、そのまま要約して投稿してもいいくらいです(笑)。
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*ちなみに、僕の先の投稿(No.5)で述べている「実力でみる」ということは、見る対象の実力というよりは、みる側が「自分の地力でみる」ということを言ったものです。実力主義的なこととは少し趣旨が違います。
どちらとも取れる文章だったのでこの場をかりて追記させていただきました。
NO.222011-10-01 00:48:10 orcamie 0
学歴について
学歴は ある人の個人史の中でどこの学校へ行って何を学んだかという客観的な事実です。学歴が真実であるかぎりそのものが悪い訳ではないと思います。私はWikipediaの『学歴』という項目を読んでみたのですが、日本は学歴社会ではないという記述がありました。学歴による収入格差が他国に比べて小さいからだそうです。日本が学歴社会かどうかというのは賛否両論あるようです。
江戸時代の士農工商の身分制度に比べたら 学歴社会はずっと平等で武士のうちに生まれようが 農民の子に生まれようが平等に試験さえ受かりさえすれば東大に入学できます。江戸時代と今を比べて現在が最善とは思いませんが、確かに日本の国も変化しているのだということを感じたいのです。
Wikipediaにはさらに 士農工商の身分制度がなくなり 政府の官僚機構に優秀な人間を供給するのに大学を卒業した人間が大量に必要となったこと。19世紀以降大企業が生まれて会社が官僚機構化して ホワイトカラーが大勢必要になったこと。学歴社会はなるべくしてうまれた身分社会のあとの 平等な社会を構築することを目的にできたしくみで、不平等にしようと思って作られた訳ではないと思います。。
どうして身分社会がいけなくて、学歴社会がいけなくなるのか? きっと社会が停滞するからではないかと思います。現在世界は出口の無い不況に喘いでいます。高収入を得る職業が同じ家族の人によって引き継がれていくと能力があっても大学へ行けなかった人は低い収入の仕事に甘んじなければいけない。不平等だということになる。こういうのを階層の再生産というらしいのですが。
学歴社会がよくないという主張のもう一つの根拠は グローバリゼーションとネット社会の波の中で 学歴社会では対応できないということがあると思います。大学で学んだことが社会に出た時に既に社会で役立てるには古くなってしまう。では大学で何を学んだらいいのでしょうか。
社会で役に立つことを大学で学べないのなら、どこでどう学んだらいいのか。
教育社会学という学問だとおもうのですが、世界が身分社会から学歴社会へと変貌し次に求められるのは学習社会というのだそうです。どなたの著者かちょっとはっきりしないのですが。それについて読んだ資料をもう一度探せなくて。どなたかご存知でしたら教えてください。学習社会がどんなものであるかそれについて書かれた本をまだ読んでいないので勝手に想像したのですが。学校では学んで、会社に出たら働くと言ったはっきりした区分けを止めて、いろいろなところと時で学んだり働いたりできる社会に日本もなればいいなと思います。
私は学ぶための会社というのがあればいいと思います。NPO団体で利益を上げるがそこで働く人が学びながら働くために会社の利益をその為の環境を整備するために使う。給料はあまり高くないが学ぶ権利が認められる。半分会社で半分大学のような組織。そこを足場にして 能力を身につけたら別の仕事に就けるという環境ができないでしょうか。私は現在の日本の大学、会社が世界においていかれる原因の一つは異分野間での流動性が難しいことで固定観念を打破できないことにあると思います。ですからいろいろの分野の人が集まって働き、学べる環境があればいいなと思ったのです。
学歴社会の弊害については 解決しようと学歴社会ではない社会を構築するのはいいと思うのです。ですが欠点があるからといって全否定しなくてもいいと考えています。原発のところでは脱原発を強く主張しましたが、原発による発電を選んだ日本が100%悪だとも思いません。大きな欠点があったとしても それ全てが悪い、100%だめだと決めつける考え方を 私自身はしたくないのです。どんなに悪いことが起こってもそのことの良い面を見つけたいと思っています。
学歴は ある人の個人史の中でどこの学校へ行って何を学んだかという客観的な事実です。学歴が真実であるかぎりそのものが悪い訳ではないと思います。私はWikipediaの『学歴』という項目を読んでみたのですが、日本は学歴社会ではないという記述がありました。学歴による収入格差が他国に比べて小さいからだそうです。日本が学歴社会かどうかというのは賛否両論あるようです。
江戸時代の士農工商の身分制度に比べたら 学歴社会はずっと平等で武士のうちに生まれようが 農民の子に生まれようが平等に試験さえ受かりさえすれば東大に入学できます。江戸時代と今を比べて現在が最善とは思いませんが、確かに日本の国も変化しているのだということを感じたいのです。
Wikipediaにはさらに 士農工商の身分制度がなくなり 政府の官僚機構に優秀な人間を供給するのに大学を卒業した人間が大量に必要となったこと。19世紀以降大企業が生まれて会社が官僚機構化して ホワイトカラーが大勢必要になったこと。学歴社会はなるべくしてうまれた身分社会のあとの 平等な社会を構築することを目的にできたしくみで、不平等にしようと思って作られた訳ではないと思います。。
どうして身分社会がいけなくて、学歴社会がいけなくなるのか? きっと社会が停滞するからではないかと思います。現在世界は出口の無い不況に喘いでいます。高収入を得る職業が同じ家族の人によって引き継がれていくと能力があっても大学へ行けなかった人は低い収入の仕事に甘んじなければいけない。不平等だということになる。こういうのを階層の再生産というらしいのですが。
学歴社会がよくないという主張のもう一つの根拠は グローバリゼーションとネット社会の波の中で 学歴社会では対応できないということがあると思います。大学で学んだことが社会に出た時に既に社会で役立てるには古くなってしまう。では大学で何を学んだらいいのでしょうか。
社会で役に立つことを大学で学べないのなら、どこでどう学んだらいいのか。
教育社会学という学問だとおもうのですが、世界が身分社会から学歴社会へと変貌し次に求められるのは学習社会というのだそうです。どなたの著者かちょっとはっきりしないのですが。それについて読んだ資料をもう一度探せなくて。どなたかご存知でしたら教えてください。学習社会がどんなものであるかそれについて書かれた本をまだ読んでいないので勝手に想像したのですが。学校では学んで、会社に出たら働くと言ったはっきりした区分けを止めて、いろいろなところと時で学んだり働いたりできる社会に日本もなればいいなと思います。
私は学ぶための会社というのがあればいいと思います。NPO団体で利益を上げるがそこで働く人が学びながら働くために会社の利益をその為の環境を整備するために使う。給料はあまり高くないが学ぶ権利が認められる。半分会社で半分大学のような組織。そこを足場にして 能力を身につけたら別の仕事に就けるという環境ができないでしょうか。私は現在の日本の大学、会社が世界においていかれる原因の一つは異分野間での流動性が難しいことで固定観念を打破できないことにあると思います。ですからいろいろの分野の人が集まって働き、学べる環境があればいいなと思ったのです。
学歴社会の弊害については 解決しようと学歴社会ではない社会を構築するのはいいと思うのです。ですが欠点があるからといって全否定しなくてもいいと考えています。原発のところでは脱原発を強く主張しましたが、原発による発電を選んだ日本が100%悪だとも思いません。大きな欠点があったとしても それ全てが悪い、100%だめだと決めつける考え方を 私自身はしたくないのです。どんなに悪いことが起こってもそのことの良い面を見つけたいと思っています。
NO.212011-09-30 18:27:23 rachan 0
今回のテーマは関心はあるのですが、幅の広い問題でなかなかうまくまとまらず、結局自分の経験談を中心に書いてみました。
学歴は、その人を知る一つの手がかりで、その人が背負っているであろう文化の背景や教養を推測させるものだと思います。現に私は良くも悪くも、その人が卒業した大学名や高校名を聞くと、「ああいう文化の中で育って、ああいうカラーを持って人なのかな」と何となく分類して考えます。しかし、その人が何者なのかは実際に自分で確かめなければなりません。
私は地方の進学校を経て東京の四年制大学を出ましたが、「学歴」に関しては、ちょっと屈折した思いがあります。それにはおそらく、一つに父の影響があります。私の父は、私から見ると学歴だけで人を判断する人でした。友人・知人の話をしても、その人の大学名が東大や早稲田などの名の知れた大学であると、私がした話の本質ではないのに、「へぇ~、立派な人だなあ」と言うのです。大学は国立大学でなければダメ、結婚相手は一流大学で大企業の人でないとダメ、という父によく反発しました。父は、言葉は悪いですが、お世辞にも一流とは言えない大学を出て、苦労して仕事についた人なので、今思えばコンプレックスの裏返しなのかもしれません。しかし、一方で父のような評価の仕方が世間でされていることも案外多いのかな、と思います。
また、日本で一番優秀とされる東京大学に関して「東大出てもしょうもない人がたくさんいる」「東大出ても仕事では使えない」とか、そんな話がよく耳に入り、それがかえって先入観になり、また学生時代身近に東大生がいても、たいしてその知性に感動することもなかったので、有名大学という「学歴」を重視する気持ちもありませんでした。
就職する時になり、学歴で就職に有利・不利があることを知りました。
私が就職した年は就職難でしたが、友人に「あなたの大学だったら、採ってくれるよ」と言われ、そんなものかと驚いたことがあります。
私は大学四年生になっても、将来何かになりたいという強い気持ちがなく、就職活動にも乗り遅れていました。行きたくもない会社に面接に行き、大学で勉強したこととおよそ関係のない仕事についていくことに対して(専門性を活かせる仕事ももちろんありますが)違和感を感じていました。
就職では、大学で学んだこととおよそ関係のない、以前から興味のあった飲食の会社に就職しました。父への反発もありましたし、単純に「こういう大学・学部を出たらこういう仕事につく」という枠を破ってみたいという気持ちもありました。それなりに名のある大学であったからか、2回目くらいの面接で「あなたはもう採用する方向で考えているよ」と言われました。
しかし、働いてみて、私が実際した仕事の上で私が持つ「学歴」はほとんど無用でした。
むしろ邪魔にさえなりました。「なぜ○○大学を出たのに、こんな仕事ができないの?」という言い方をされるのです。外食産業の世界には、学歴よりも経験と体力とセンスが必要です。そして、それは大学で別のことを専門にしてきた私が「好きだから」ぐらいで太刀打ちできるものではないと身をもって知りました。
その後、「世間には棲み分けのようなものがあって、私は自分が今でしてきた勉強を生かして何かできることがあるのでは」と思うようになりました。
父が大学名で人を判断するのに反発していた私ですが、学歴に対して現在は以下のように考えています。
たとえば、世間で名のある一流大学に入った人は、少なくともそれに見合うだけの知性の持ち主です(そう思いたいです)。
ある時自分は、自分がいいな、と思う文化人や作家、企業の経営者、政治家などが東大を出た人が多いことに気づきました。やはり、東大の入試を考えても、あれだけの科目で高得点を取れるのは、一部の人をのぞいて、教養のある、知的好奇心の高い人物だと思います。いろいろ学んだからこそできることがあります。それは世の中の動きを見極める力だとか、物事をよりよく進める力だとか。これらのことは別に学歴といいますか学力がなくてもできますが、学力があるからよりよくできることもあるのではないでしょうか。
だから、大学名などの学歴で人が期待感を持つこともわかります。そしていわゆる「学歴」の高い人はそれ相応の責任も担っていると思います。
しかし、「学歴」が異様に幅を利かせているのは危険だと思います。
学歴は、その人が何々大学に入るだけの力を持っているというだけで、その後のその人の成長は本人の努力如何によって大きく変わってきます。
就職に関しても、官公庁や大企業は有名大学が有利という印象を持っていますが、それと仕事ができるか否や問題解決能力や発想力があるかが一致しない時もあります。採用する側も面接や適性検査ではなく、実際に何日か仕事をさせてみて採用する、という形を取るのが望ましいのではないでしょうか。
また今の日本の混迷する現状を打破するのは、学歴という鎧を越えたところにあるものだと思います。
学歴は、その人を知る一つの手がかりで、その人が背負っているであろう文化の背景や教養を推測させるものだと思います。現に私は良くも悪くも、その人が卒業した大学名や高校名を聞くと、「ああいう文化の中で育って、ああいうカラーを持って人なのかな」と何となく分類して考えます。しかし、その人が何者なのかは実際に自分で確かめなければなりません。
私は地方の進学校を経て東京の四年制大学を出ましたが、「学歴」に関しては、ちょっと屈折した思いがあります。それにはおそらく、一つに父の影響があります。私の父は、私から見ると学歴だけで人を判断する人でした。友人・知人の話をしても、その人の大学名が東大や早稲田などの名の知れた大学であると、私がした話の本質ではないのに、「へぇ~、立派な人だなあ」と言うのです。大学は国立大学でなければダメ、結婚相手は一流大学で大企業の人でないとダメ、という父によく反発しました。父は、言葉は悪いですが、お世辞にも一流とは言えない大学を出て、苦労して仕事についた人なので、今思えばコンプレックスの裏返しなのかもしれません。しかし、一方で父のような評価の仕方が世間でされていることも案外多いのかな、と思います。
また、日本で一番優秀とされる東京大学に関して「東大出てもしょうもない人がたくさんいる」「東大出ても仕事では使えない」とか、そんな話がよく耳に入り、それがかえって先入観になり、また学生時代身近に東大生がいても、たいしてその知性に感動することもなかったので、有名大学という「学歴」を重視する気持ちもありませんでした。
就職する時になり、学歴で就職に有利・不利があることを知りました。
私が就職した年は就職難でしたが、友人に「あなたの大学だったら、採ってくれるよ」と言われ、そんなものかと驚いたことがあります。
私は大学四年生になっても、将来何かになりたいという強い気持ちがなく、就職活動にも乗り遅れていました。行きたくもない会社に面接に行き、大学で勉強したこととおよそ関係のない仕事についていくことに対して(専門性を活かせる仕事ももちろんありますが)違和感を感じていました。
就職では、大学で学んだこととおよそ関係のない、以前から興味のあった飲食の会社に就職しました。父への反発もありましたし、単純に「こういう大学・学部を出たらこういう仕事につく」という枠を破ってみたいという気持ちもありました。それなりに名のある大学であったからか、2回目くらいの面接で「あなたはもう採用する方向で考えているよ」と言われました。
しかし、働いてみて、私が実際した仕事の上で私が持つ「学歴」はほとんど無用でした。
むしろ邪魔にさえなりました。「なぜ○○大学を出たのに、こんな仕事ができないの?」という言い方をされるのです。外食産業の世界には、学歴よりも経験と体力とセンスが必要です。そして、それは大学で別のことを専門にしてきた私が「好きだから」ぐらいで太刀打ちできるものではないと身をもって知りました。
その後、「世間には棲み分けのようなものがあって、私は自分が今でしてきた勉強を生かして何かできることがあるのでは」と思うようになりました。
父が大学名で人を判断するのに反発していた私ですが、学歴に対して現在は以下のように考えています。
たとえば、世間で名のある一流大学に入った人は、少なくともそれに見合うだけの知性の持ち主です(そう思いたいです)。
ある時自分は、自分がいいな、と思う文化人や作家、企業の経営者、政治家などが東大を出た人が多いことに気づきました。やはり、東大の入試を考えても、あれだけの科目で高得点を取れるのは、一部の人をのぞいて、教養のある、知的好奇心の高い人物だと思います。いろいろ学んだからこそできることがあります。それは世の中の動きを見極める力だとか、物事をよりよく進める力だとか。これらのことは別に学歴といいますか学力がなくてもできますが、学力があるからよりよくできることもあるのではないでしょうか。
だから、大学名などの学歴で人が期待感を持つこともわかります。そしていわゆる「学歴」の高い人はそれ相応の責任も担っていると思います。
しかし、「学歴」が異様に幅を利かせているのは危険だと思います。
学歴は、その人が何々大学に入るだけの力を持っているというだけで、その後のその人の成長は本人の努力如何によって大きく変わってきます。
就職に関しても、官公庁や大企業は有名大学が有利という印象を持っていますが、それと仕事ができるか否や問題解決能力や発想力があるかが一致しない時もあります。採用する側も面接や適性検査ではなく、実際に何日か仕事をさせてみて採用する、という形を取るのが望ましいのではないでしょうか。
また今の日本の混迷する現状を打破するのは、学歴という鎧を越えたところにあるものだと思います。
NO.202011-09-30 08:17:50 scidreamer 0
今の政府にすぐやって欲しい政策を一つだけ挙げておきます。それは、
「定年を迎えた団塊の世代を教員として各学校に配備する」
です。
彼らの得た「知」、それも成功や「失敗」などの「経験知」が、今にも永久に失われようとしています。その「経験知」には、ニュートンの発見に代表される「新しい知識が生まれる過程」と同じだけの価値があるはずです。成功談だけでなく、生活保護や元囚人などの、いわゆる「失敗」の経験も、きっと子供のその後の生涯で役に立つはずです。
「他人の過ちを自分の過ちとして認識できるか」
は当人の学習能力の高さを決定づけます。なぜなら、各人が一生に経験出来る失敗の数には限りがあるからです。失敗を未然に防ぐには、
「人の振り見て我が振り直せ」
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
この「過去」の人間が発したこの2つの言葉を、学習出来るどうかが鍵である事は確かでしょう。
「定年を迎えた団塊の世代を教員として各学校に配備する」
です。
彼らの得た「知」、それも成功や「失敗」などの「経験知」が、今にも永久に失われようとしています。その「経験知」には、ニュートンの発見に代表される「新しい知識が生まれる過程」と同じだけの価値があるはずです。成功談だけでなく、生活保護や元囚人などの、いわゆる「失敗」の経験も、きっと子供のその後の生涯で役に立つはずです。
「他人の過ちを自分の過ちとして認識できるか」
は当人の学習能力の高さを決定づけます。なぜなら、各人が一生に経験出来る失敗の数には限りがあるからです。失敗を未然に防ぐには、
「人の振り見て我が振り直せ」
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
この「過去」の人間が発したこの2つの言葉を、学習出来るどうかが鍵である事は確かでしょう。
NO.192011-09-29 11:52:31 ken_tokunaga 0
大学を受験しようかどうか迷っている時、母から
「行ってみて、自分に必要かどうか判断すればいいじゃない。必要なかったらやめればいいから」と言われました。
それで僕は半年間一生懸命受験勉強をし、早稲田大学に入り、大学では友人と映画を作り、劇団を作り、結局中退しました。
大学をやめる時、父は、「後悔しないだけ考えたんだな」と僕に訊き、僕が「後悔しない」と答えるとはんこを押してくれました。
今は、グラフィックデザインの会社を経営しています。
今、入試制度や就職制度を批判されている茂木さんの言葉に心から同意できるのは、「大学コンプレックス」を抱いていないからだと言う気もします。
両親には、本当に感謝しています。
「行ってみて、自分に必要かどうか判断すればいいじゃない。必要なかったらやめればいいから」と言われました。
それで僕は半年間一生懸命受験勉強をし、早稲田大学に入り、大学では友人と映画を作り、劇団を作り、結局中退しました。
大学をやめる時、父は、「後悔しないだけ考えたんだな」と僕に訊き、僕が「後悔しない」と答えるとはんこを押してくれました。
今は、グラフィックデザインの会社を経営しています。
今、入試制度や就職制度を批判されている茂木さんの言葉に心から同意できるのは、「大学コンプレックス」を抱いていないからだと言う気もします。
両親には、本当に感謝しています。
NO.182011-09-29 11:28:19 motakeen 0
私も、学歴は、TOEICの点数やその他資格同様、努力の結果であり、別によくも悪くもないと、思っています。 職歴と同じ。私が今まで何してきたか。
結局のところ、もしその人を見ただけでその人の過去がんばってきたこと苦悩してきたこと、得意なこと不得意なことが一瞬にして共感できその人を総合的に評価できれば、学歴も職歴も履歴書も必要ない。
ただ、そういった「人を見る目」を持つ人がほとんどいないから、ついつい、安易な学歴とか職歴にまかせてしまう。
またそこに劣等感とか優越感など、ややこしい人間的感情をからめて考えてしまうからなお悩ましい。
でもそれを採用担当者に責めるのは酷かなあ、と思います。会社の採用実績を元に、OO大学とXX大学の卒業生は会社の企業文化にあっている、そういったことをベースに採用をするということは、競馬をする人がサラブレッドを調べて勝率を上げようとすることに似ているよう思います。もちろん100%勝てるとは思っていない。でも勝てる確立は他の馬より高いかも知れない。
個人的なことをいうと、私自身は、東京の私立の高校・大学を出ていますが、高校は変わった先生が多く「ノミの視点」「茶の間でロックンロールがわかるか!身体性の問題」「自由について大討論会」などと変わった授業を受けてきました。(もちろん、まともな国語・数学の授業もありましたよ!英語はめちゃくちゃ力入ってましたし。)また大学は入試自体変わっていて、あまり偏差値ランキングになじまない、どちらもアットホームで、メーンストリームではない学校でした。
その中で私個人がみて思ったのは、大学入試、新卒一括採用に関しては、たくさん問題はあるものの、実績としてやはり優秀な人を選ぶという観点からは優れているのではないかとということです。私の高校からも何名か東大・京大その他国立大学に受かった人がいますが、なるほど、頭のいい生徒でした。(別に点取り虫ということではなく、本当に優秀。)私は氷河期初期に就職活動しましたが、やっぱり採用担当者はちゃんとみてるなー、というのが個人的な意見です。
「学歴」による周囲からの評価はなくならないし、それは決して悪いことではないと思うんですよね。
がんばった成果だと思うし、実際(決して全員じゃないけど)確かに優秀な人も多い。
正直これが身近でみてきた実感です。
(ちなみに、アメリカでは、日本以上に「指定校制」のような気がします。日本のように、新卒一括採用という社会的なプレッシャーがあまりないので、アメリカでの大手の新卒採用はかなり厳選されており、方針としては対象とする学生を限定し、一人ひとりに時間をかけているように思います。しかも法律で差別を禁じられていないのであからさまです。大手企業のリクルートチームは、指定校を定め、キャンパスを訪問し、キャンパスでインタビューします。ただ大手企業は、日本のように東京に集中しているのではなく、けっこう全米に散らばっているので、けっこう地元の大学も強かったりします。)
でも別に東大に行かなかったからといって劣等感も持つ必要は全然ないし、
そもそももうすでに「東大as No. 1!!!」信仰は崩れつつあるんじゃないでしょうか。
海外にも無数の学校がある。
また日本でも「今一どう評価していいか分からない」特徴のある学校が増えるのでは、と思います。(というか、少子化の中そこにしか生き残りがないように思います。)
価値観が多様化し、複雑化する。それは、ランキングは古い!自分の頭で考えろ!という世界で、以外に結構若い人は、それをわかって生きてるのではないかな、なんて妄想しています。
なんか支離滅裂で申し訳ないですが、もう一点付け加えると、
私は海外で仕事しているので、ほんっと日本での学歴は学士を持っている、ということ意外あまり意味を持ちません。
たとえ東大を出ていても。(出てませんけど。笑)
それでも私は母校を誇りに思っていますし、私にはぴったりだったなあ、と思ってます。
きっとたくさんの人が自分の母校に愛を感じれば、「学歴」は残っても「学歴問題」はなくなるのではないかなあー、と思ってます。
結局のところ、もしその人を見ただけでその人の過去がんばってきたこと苦悩してきたこと、得意なこと不得意なことが一瞬にして共感できその人を総合的に評価できれば、学歴も職歴も履歴書も必要ない。
ただ、そういった「人を見る目」を持つ人がほとんどいないから、ついつい、安易な学歴とか職歴にまかせてしまう。
またそこに劣等感とか優越感など、ややこしい人間的感情をからめて考えてしまうからなお悩ましい。
でもそれを採用担当者に責めるのは酷かなあ、と思います。会社の採用実績を元に、OO大学とXX大学の卒業生は会社の企業文化にあっている、そういったことをベースに採用をするということは、競馬をする人がサラブレッドを調べて勝率を上げようとすることに似ているよう思います。もちろん100%勝てるとは思っていない。でも勝てる確立は他の馬より高いかも知れない。
個人的なことをいうと、私自身は、東京の私立の高校・大学を出ていますが、高校は変わった先生が多く「ノミの視点」「茶の間でロックンロールがわかるか!身体性の問題」「自由について大討論会」などと変わった授業を受けてきました。(もちろん、まともな国語・数学の授業もありましたよ!英語はめちゃくちゃ力入ってましたし。)また大学は入試自体変わっていて、あまり偏差値ランキングになじまない、どちらもアットホームで、メーンストリームではない学校でした。
その中で私個人がみて思ったのは、大学入試、新卒一括採用に関しては、たくさん問題はあるものの、実績としてやはり優秀な人を選ぶという観点からは優れているのではないかとということです。私の高校からも何名か東大・京大その他国立大学に受かった人がいますが、なるほど、頭のいい生徒でした。(別に点取り虫ということではなく、本当に優秀。)私は氷河期初期に就職活動しましたが、やっぱり採用担当者はちゃんとみてるなー、というのが個人的な意見です。
「学歴」による周囲からの評価はなくならないし、それは決して悪いことではないと思うんですよね。
がんばった成果だと思うし、実際(決して全員じゃないけど)確かに優秀な人も多い。
正直これが身近でみてきた実感です。
(ちなみに、アメリカでは、日本以上に「指定校制」のような気がします。日本のように、新卒一括採用という社会的なプレッシャーがあまりないので、アメリカでの大手の新卒採用はかなり厳選されており、方針としては対象とする学生を限定し、一人ひとりに時間をかけているように思います。しかも法律で差別を禁じられていないのであからさまです。大手企業のリクルートチームは、指定校を定め、キャンパスを訪問し、キャンパスでインタビューします。ただ大手企業は、日本のように東京に集中しているのではなく、けっこう全米に散らばっているので、けっこう地元の大学も強かったりします。)
でも別に東大に行かなかったからといって劣等感も持つ必要は全然ないし、
そもそももうすでに「東大as No. 1!!!」信仰は崩れつつあるんじゃないでしょうか。
海外にも無数の学校がある。
また日本でも「今一どう評価していいか分からない」特徴のある学校が増えるのでは、と思います。(というか、少子化の中そこにしか生き残りがないように思います。)
価値観が多様化し、複雑化する。それは、ランキングは古い!自分の頭で考えろ!という世界で、以外に結構若い人は、それをわかって生きてるのではないかな、なんて妄想しています。
なんか支離滅裂で申し訳ないですが、もう一点付け加えると、
私は海外で仕事しているので、ほんっと日本での学歴は学士を持っている、ということ意外あまり意味を持ちません。
たとえ東大を出ていても。(出てませんけど。笑)
それでも私は母校を誇りに思っていますし、私にはぴったりだったなあ、と思ってます。
きっとたくさんの人が自分の母校に愛を感じれば、「学歴」は残っても「学歴問題」はなくなるのではないかなあー、と思ってます。
NO.172011-09-28 20:18:44 scidreamer 0
No.15のtrasqueさん "「何の為に学ぶのか」これを考え抜いて学校生活、学生生活を生き抜いて欲しいなと思います。"
No.16のtomotomoさん"テストに出る出ないを基準にして進めていく受験勉強では答えを合わせることで精一杯じゃないでしょうか"
この2つを聞いて最近見たテレビ番組を思い出しました。番組名は忘れましたが、教育について語り合うものでした。
そこで学力の高い北欧の国々が紹介されていたのですが、驚いた事に、フィンランドでは「テスト」というものが一切無いそうです。
そしてさらに深いと思ったのは、その話を聞いた人のコメントで、
”テストがあるからテストの為の勉強になっちゃうんですかね。”
というものでした。
確かに私たちはテストでいい点を取ろうとして、小中高まで上がり、受験勉強に臨みます。つまりテストに特化した人間となっているわけです。
しかしそれは本当に社会や大学が望んでいる事なのでしょうか?
大学が望んでいるのはちゃんと研究に取り組んでくれる人間です。社会では働ける人が望まれます。どちらもこの先テストなど経験しない人が大多数です。そうまでして、テストにこだわる理由は何なのでしょうか?
大学なら研究室を意識して集まる人が欲しいでしょうから、その研究に見合った知識や考え方、技術を身に付けている生徒を独自に面接や試験で問うべきではないでしょうか?
全国には研究室は山ほどあり、同じ分野でもやっている事は研究室によって異なります。高校時代に1年もかけてテスト勉強する必要があるなら、研究室をよく調べて、自分で訪問してみれば学ぶ意欲も増すばかりでしょう。
さらにこの利点は単に目標が定まってやる気が上がるだけではありません。
目標が明確に定まれば、勉強すべき内容も絞り込む事が出来ます。私の場合は、ユビキチンを医薬品に応用出来ないかと考えた時点で、薬学部生が3年もかけて習う全範囲を覚えなくても、必要な情報をその都度集めてこれば良いだけです。
この情報化社会では、学ぶ目的を明確化させる事が一番効率が良いのではないでしょうか?
「子供をテストで評価する」というのも実はおかしな話です。
子供が良く覚えていたら褒められるべきは先生ではないでしょうか?逆に子供の出来が悪くて責められるべきも先生なはずです。
もしテストを行うにしても、生徒が間違えた所は先生がアフターフォローしなくてはならないはずです。なのに学期末テストや受験勉強ではそれが出来ない。なんせ大学入試に至っては、答案用紙さえ返って来ませんからね。私の通う大学の場合だけかもしれませんが、大学ではテストの答案やレポートも返って来ません。
まさに「先生が生徒を評価する」ためにしか使われていません。
私は以上を簡単な表現で表す事にしました。
先生のすべき事は「知」を与え、子供の「夢」を認める事。
子供は先生の「知」に感謝し、自分の「夢」を惜し気もなく語る事。
ですから、
"「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていた"
も当然なのでしょう。
この考えから私は、「時代を変えるのは常に若い世代だ」と確信しました。
だから私は、上の世代の人に夢を語るだけでなく、子供への教育「知」も変えていこうと教員志望の友人にアプローチを開始しました。
私は学習の段階についても考えてみました。
他律自立=他(先生)が律して自(生徒)が立つ。
自律自立=自(生徒)が律して自(生徒)が立つ。
自律他立=自(生徒)が律して他(周り)が立つ。
当人が、この三段階を学習、教育という行為の両面で、「行ったり来たりして」こなしていけば、新たな「知」を生み、それを社会に還元出来るサイクルが回ると考えます。
今の義務教育は最初の段階しか行われていないのではないでしょうか?
「行ったり来たり」は過ちを犯す人間に必要な事です。最初の段階をクリアしてから、とやって上手くいく場合は少ないでしょう。
義務教育で自由度を持って三段階を経験出来るようなシステムになれば良いと思います。
No.16のtomotomoさん"テストに出る出ないを基準にして進めていく受験勉強では答えを合わせることで精一杯じゃないでしょうか"
この2つを聞いて最近見たテレビ番組を思い出しました。番組名は忘れましたが、教育について語り合うものでした。
そこで学力の高い北欧の国々が紹介されていたのですが、驚いた事に、フィンランドでは「テスト」というものが一切無いそうです。
そしてさらに深いと思ったのは、その話を聞いた人のコメントで、
”テストがあるからテストの為の勉強になっちゃうんですかね。”
というものでした。
確かに私たちはテストでいい点を取ろうとして、小中高まで上がり、受験勉強に臨みます。つまりテストに特化した人間となっているわけです。
しかしそれは本当に社会や大学が望んでいる事なのでしょうか?
大学が望んでいるのはちゃんと研究に取り組んでくれる人間です。社会では働ける人が望まれます。どちらもこの先テストなど経験しない人が大多数です。そうまでして、テストにこだわる理由は何なのでしょうか?
大学なら研究室を意識して集まる人が欲しいでしょうから、その研究に見合った知識や考え方、技術を身に付けている生徒を独自に面接や試験で問うべきではないでしょうか?
全国には研究室は山ほどあり、同じ分野でもやっている事は研究室によって異なります。高校時代に1年もかけてテスト勉強する必要があるなら、研究室をよく調べて、自分で訪問してみれば学ぶ意欲も増すばかりでしょう。
さらにこの利点は単に目標が定まってやる気が上がるだけではありません。
目標が明確に定まれば、勉強すべき内容も絞り込む事が出来ます。私の場合は、ユビキチンを医薬品に応用出来ないかと考えた時点で、薬学部生が3年もかけて習う全範囲を覚えなくても、必要な情報をその都度集めてこれば良いだけです。
この情報化社会では、学ぶ目的を明確化させる事が一番効率が良いのではないでしょうか?
「子供をテストで評価する」というのも実はおかしな話です。
子供が良く覚えていたら褒められるべきは先生ではないでしょうか?逆に子供の出来が悪くて責められるべきも先生なはずです。
もしテストを行うにしても、生徒が間違えた所は先生がアフターフォローしなくてはならないはずです。なのに学期末テストや受験勉強ではそれが出来ない。なんせ大学入試に至っては、答案用紙さえ返って来ませんからね。私の通う大学の場合だけかもしれませんが、大学ではテストの答案やレポートも返って来ません。
まさに「先生が生徒を評価する」ためにしか使われていません。
私は以上を簡単な表現で表す事にしました。
先生のすべき事は「知」を与え、子供の「夢」を認める事。
子供は先生の「知」に感謝し、自分の「夢」を惜し気もなく語る事。
ですから、
"「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていた"
も当然なのでしょう。
この考えから私は、「時代を変えるのは常に若い世代だ」と確信しました。
だから私は、上の世代の人に夢を語るだけでなく、子供への教育「知」も変えていこうと教員志望の友人にアプローチを開始しました。
私は学習の段階についても考えてみました。
他律自立=他(先生)が律して自(生徒)が立つ。
自律自立=自(生徒)が律して自(生徒)が立つ。
自律他立=自(生徒)が律して他(周り)が立つ。
当人が、この三段階を学習、教育という行為の両面で、「行ったり来たりして」こなしていけば、新たな「知」を生み、それを社会に還元出来るサイクルが回ると考えます。
今の義務教育は最初の段階しか行われていないのではないでしょうか?
「行ったり来たり」は過ちを犯す人間に必要な事です。最初の段階をクリアしてから、とやって上手くいく場合は少ないでしょう。
義務教育で自由度を持って三段階を経験出来るようなシステムになれば良いと思います。
NO.162011-09-28 12:39:44 tomotomo 0
「学歴」はやはり問題があると思います。
そして「学歴」を得るために払う労力に無駄が多いと思います。
受験のためでも勉強するのはいいことですが、
学ぶというのは本来、科目の垣根を越えて広がっていくもの。
テストに出る出ないを基準にして進めていく受験勉強では答えを合わせることで精一杯じゃないでしょうか。
振り返って残念に思うのは、「学歴」や受験の問題は以前から(わたしが子どものときには。30年超ですね!)言われていたということ。
それなのに変わってなく、いえ、日本の行き詰まりの焦りもあるでしょう、もっと締めつけられてるかんじがすることです。
日本という箱の中で若い人が、テストの点や「学歴」でお互いを見合い自己評価につなげているとしたらもったいないことです。
もっと違うことに目を向けてほしい。
今は理想かもしれませんが、「学歴」は特別なものではなく、たくさんの価値の中のひとつだよというのがコモンセンスになればいいと思います。
そして「学歴」を得るために払う労力に無駄が多いと思います。
受験のためでも勉強するのはいいことですが、
学ぶというのは本来、科目の垣根を越えて広がっていくもの。
テストに出る出ないを基準にして進めていく受験勉強では答えを合わせることで精一杯じゃないでしょうか。
振り返って残念に思うのは、「学歴」や受験の問題は以前から(わたしが子どものときには。30年超ですね!)言われていたということ。
それなのに変わってなく、いえ、日本の行き詰まりの焦りもあるでしょう、もっと締めつけられてるかんじがすることです。
日本という箱の中で若い人が、テストの点や「学歴」でお互いを見合い自己評価につなげているとしたらもったいないことです。
もっと違うことに目を向けてほしい。
今は理想かもしれませんが、「学歴」は特別なものではなく、たくさんの価値の中のひとつだよというのがコモンセンスになればいいと思います。
NO.152011-09-28 07:19:25 trasque 0
No.10 myyourdreamscさんの書き込みで…
”宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。”
”本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。”
この部分に感銘を受けました。まさしくその通りだと私も感じます。
学歴については日本の場合、高名な大学程に入学が困難だという印象もある為、その大学にいるというだけで「それなりの努力ができる人物」という評価はできるのだと思います。
私自身はいわゆるお勉強が好きではありませんでしたから大学の学歴はありませんし、事実としてそういった「コツコツと努力する」という性質を持っていません。常々反省しなければと感じてしまうのですが、努力の継続が出来るというのは一つの立派な能力であって、大事にすべきだと感じます。
また、程度の差こそあれ「本番」までの期間はそれぞれ同じような長さなので「効率よく、要領よくがんばれる」という面もあるのかもしれません。そういった評価は出せるのかもしれません。
ですから、大学等の学歴から「何らかの目的に対して、毎日アプローチできる人物」かどうかをある程度読み取れるのではないかと思う訳です。一つの目標に対して、最も地道にして近道なのは継続だというのは、多くの人が考える所だと思うからです。
なので私は、これから学歴を積んでいこうとする人達に「何をしに大学へ行くのか」と、彼等へ問い続けてあげて欲しいと思う事があります。多くの少年達は「やりたいことが決まっている訳でもなくただ大学へ行く」のだと思います。夢や目標が漠然としたままである事が悪ではありませんが、やはり単なる「就職有利の保険」の為だけになってしまうよりかは、意識していてほしいなと思う訳です。
何の為に学ぼうとするのか。これを忘れないでほしい。
そうやって、何度も語れる大人が、学生の周りにいるかどうか。
それによって「彼等の学歴の意味」も、輝いていくのではないでしょうか。
私自身、学力(というべきか、他にいい言葉がみつかりません)は「人間の為に」という目標を持って積んでいって貰えればと思っています。もちろん人間以外を無視した、という意味ではありません。
将来自分がただ安定する為だったり、ただ人より突出する為だけだったり、そういうことでは寂しいと思います。世界を救えとは言いませんが、身の回りの誰かの力になれるような、そんな目的を持って自分を高めていって欲しいと思います。
「何の為に学ぶのか」これを考え抜いて学校生活、学生生活を生き抜いて欲しいなと思います。そうすれば学歴の先に行っても、常に「学ぶ人」で居られると思うからです。社会人でも「何の為に学ぶのか」を忘れないからです。そうして「人間の為に」走りぬけようとする人にこそ、輝くものが見えてくると私は感じます。
学歴を聞いた時、同時につい聞いてしまう事があります。
それは「その大学で、あなたは何をしているのですか」という事です。
欲しいのは学歴ではなくて「戦歴」なのかな、と質問しておいて自分で考えたりします。
ノーベル文学賞を受賞したロマン・ロランは、トルストイと文通をしていました。ガンジーとも対談をしたと言われています。こういったことも「学び」の一つではないでしょうか。
どれだけ高名になっても、どれだけ権威があろうと、あらゆる人や事から学ぶ事ができる。
そういった「活動」こそが学歴、学んだ歴史、ではないでしょうか。
ですから学歴は本来、履歴書に羅列できるようなものではないと思うのです。
いや、履歴書に書かれていることは単なる「経歴」に過ぎないとも言えると私は考えます。
戦歴を積みましょう!あらゆる事を!
”統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。”
こういったことも私は戦歴だと思っています。私自身もクローン病を通して学んだ事は数知れず持っていると自負している部分があります。
学歴を卑下しないで欲しいなと思います。その大学に入るまでに至る物語は、その人にしかないものですから。自分はやり抜いたんだというモノがあったのならば武器にすればいいし、実はそんなに苦労せずに受かってしまったというのであれば、一度死に物狂いの努力をやってみようとバネにすればいいんです。
就職において「指定校」などがあるというのは少し悲しい話ではありますね。
私は高校が工業高校でした。卒業当時、高校生の就職氷河期のような事が言われていて、全国平均で求人件数が100%を大きく下回っていましたが、その中でさえ私の通う高校は800%を超える求人を誇っていました。
工業高校なのでいわゆる「偏差値」はかなり低い学校なのですが、企業からの評価がとても高いという話を教師がしていたのを覚えています。卒業生達の礼節がとても良く、しっかり働き結果を残していて、後輩の為に道を拓いているのだ、と。
これも一つの「学歴による就職優位差」なのかもしれません。
その当時の私は、その事に疑問を抱かず、むしろその学校にいる事を誇りに思っていました。
しかし、大学生就職活動で似たような話を聞くと「なんだかな」と思ってしまう。この差はなんでしょう。
私の居た工業高校は何より「礼節」を重んじていました。
「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていたように思います。といっても、重苦しく感じたことはなく、これが当たり前という風土があったおかげで、自分から話しかけるのが苦手な自分でも、挨拶だけは苦もなくできるようになりました。
多少校則を破っているのは良いとしても、挨拶できない奴はダメだ! 全ての教師の原則のようになっており、教師の方もかならず目を見て、大きな声で返してくれたものです。挨拶しなければ、いちいち呼び止めて注意をしてくれました。
生徒も教師も「工業高校生として、社会に役立つ人物になるんだ、するんだ」という意識がとても強い学校でした。そういう目的を同一としていましたから、ある意味で生徒と教師は同じ土俵の立場になっていました。
私は学歴こそ高卒ですが、大学にいた時期があります。
まず入学して、何より驚いたのが 「誰も挨拶をしない」 という事でした。
教師のような人とすれ違う時に、自然と挨拶をするクセが出来ていましたので、入学直後は声をかけていたのですが、学生でそういうことをしている人をまず見かけない…
しかしそれ以上に驚いたのは、声を掛けた「教師が驚く」のです、いや、それどころか「教師が挨拶を返してこない(ように見える?)」事でした。
私にとっては衝撃的な数日間だったのですが、数ヶ月もして気がつけば、私自身も「そんな彼等」と同じように、よく見知った相手でもない限り挨拶をするというような事はなくなっていってしまいました。
それでも、在学中はそういった空気に「さみしさ」を感じていたのは事実です。
その中で「あの工業高校では”人間的な教育”をしていたんだな」と考えるようになりました。
企業が「指定する」という気持ちはわからなくもありません。
安全パイを取りたいという部分もあるでしょう。当時の高校が高い求人率を誇っていたのは、どういった安全パイだったからなのか。私は「質の高い人間」を企業が欲していたのだと考えています。
大学生への就職活動で違和感を感じるのは、このあたりなのではないでしょうか。
最高学府である大学だけは、何かそれまでの「学校とは違う何か」があるように感じます。
私の中でそれは「自己責任という名の、人間的教育の放棄」だと考えています。
大学在籍中、私が最も「学んだ」と思えたのは、懇意にしてくださった教授との一対一の対話でした。授業でも、実験でもなく、その年老いた教授との「教育とは何か」に対する情熱の対談でした。
成績も良くなく、何らかの才能があった訳でもない私に「4年次の研究室選びでは、待っているよ」とさえ言って下さいました。残念ながら病気の為に4年次になる前に退学してしまいましたが、私の中の大事な思い出になっています。
学歴よりも、そういったエピソードの方が「聞いて欲しい」と思ったりします。
「子供じゃないんだから、自分のことは自分でやれ」というのは確かに正しいと思います。
大学が過保護である必要は、私も全く無いだろうと考えます。
しかし、それと人間的教育を放棄したような、ある種の距離感を作ってしまうのは、また別の問題だと思うのです。
No.8 mayugeさんが仰るように「名は体を現す」かのような話として、高名な学校では、人間的教育も含めて「信頼できる(と思いたい)」というのが企業から見た本音ではないだろうかと思います。
多くの人の評価を得ているという事実(≒権威)に意味があるかも知れない、という一種の信仰のようなものなのかもしれません。
信仰、という単語が出たついでになりますが、権威にしろ信仰にしろ本来は「人間の為」にあるものです。ルールの為に人がある訳ではない、というものです。
ですから本来信仰が持つ役割は、あくまでも「信仰者(=人間)中心」の為であり、その宗教団体への「悪しき実利的な犠牲」は間違いと言わざるを得ません。
現実的に考えて「あなたは何故信仰をするのか」と言う質問に答えるとするならば、現代社会においては「自らが幸せになる為」でなければ、私は嘘ではないかと思うのです。あくまでも、信者ではなく実践の人……「行者」であるべきだと私は考えます。
信仰をした事で不幸になってしまうようでは、それは間違いだと思います。幸せとは何かという定義はとても難しい事ですが、どんな信仰であれ、現実社会に即して冷静に自分自身を、常に判断していく事は、信仰者と言えど必要な素養だと考えます。
mayugeさんの仰るとおり、権威や信仰には「普遍的な価値がある」からこそ無視できないという部分はあります。しかし、なぜそれが普遍的足りえたかを見誤ってはならないのです。そここそが「人間主義」とも言うべきか、人間的なアプローチがあるかどうかだと思います。
権威が好きだから権威が権威足るのではありません。そこに実質的な人間的価値があるから、それがだんだんと有力となっていくに過ぎないのです。そういった地道ながら有効なものを積み上げていった所に対して、さも「それら全てが自分の力」で実現され「その権利は自分にある」と勘違いしたものが、いわゆる「嫌われるべき権威」というものです。そしてそれは権威などと呼ぶに相応しからず、たんなる権力の魔性に過ぎません。しかしそれは最も恐れてしかるべきものだと思います。
宗教と呼ぶに相応しい宗教ならば、確かに荘厳たる建築物があったとしても、それが目的ではない事が判るはずです。その信仰者が一人の人間として、どうやって幸せになっていくのかを、信仰者同士が真剣に対話するというのが最も重要視されるはずだからです。
そうであるならば、どんな金持ちも、どんな貧乏人も、等しく信仰を持てるのであり、どんな貧相な家に住んでいようと、彼を励ます為に身分に関わらず信仰体験を話すはずです。苦しんでいる同胞の為に、寺院ではなく、彼の家に足を運ぶはずなのです。
信仰は寺にお参りすることが目的ではなく、自らがどう幸せになるかを、この現実社会で見極めていく事を目的としているはずだからです。そういう活動が出来る人達がどれだけいるかが、その信仰の「権威」を作っていくのだと思います。
東大が権威を持っているとするならば、それは先人達が積み上げて言った実績や伝統が、人間として高く磨かれていったという事実があったからなのだと思います。それがある時期から「単に名前の為だけ」となってしまう学生が増えたり、実はそんなに実力がない卒業生だらけになってしまったとするならば、その権威は弱くなっていくはずです。
茂木さんが現在の東大などに対して持っている批判は、この部分ではないかと私は思います。お前達は本当に日本の代表を張るような大学として、世界と勝負できるのか!?という渇なのではないかと思って、意見を読んでいます。
企業としては、どうやってその「人間性」を見極めるのか、わからないままになっている所が多いのではないかと思います。「人事部」なるものが存在し、異なる現場で自らが関わるわけでもない場所の人員を採用する専門機関となって、新卒学生達を見定めていくというのが一般的なスタイルなのでしょうか。
そして、もし「使えない学生」がある部署に配属された時、その彼が実績を出せなかった事の責任は、その部署の長に降ってくるのでしょう。そこに「人事部」の責任は一切存在しない事になります。
責任がなければ仕事は疎かになっていく一方です。そういう意味では、いわゆる「人事部」は不要という事になります。現場現場で面接するのが最も賢いと言わざるを得ません。そうなった時、現場の人々は面接の際どういったことを聞きたがるのでしょうか?
今まさに皆さんが現場で働いていて、人を採ろうと面接をする時に、何を聞こうとするのでしょうか。自分と一緒に働きやすい人なのか、一体何ができるのか、どういう性格なのか、結局こういうことじゃないかと思います。そこに学歴の関係性がどれだけあるというのでしょうか。
私の居た工業高校と、大学新卒の就職活動最前線の違いが、ここにあるような気がします。学歴とは、そういったものではないかと私は思います。
”宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。”
”本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。”
この部分に感銘を受けました。まさしくその通りだと私も感じます。
学歴については日本の場合、高名な大学程に入学が困難だという印象もある為、その大学にいるというだけで「それなりの努力ができる人物」という評価はできるのだと思います。
私自身はいわゆるお勉強が好きではありませんでしたから大学の学歴はありませんし、事実としてそういった「コツコツと努力する」という性質を持っていません。常々反省しなければと感じてしまうのですが、努力の継続が出来るというのは一つの立派な能力であって、大事にすべきだと感じます。
また、程度の差こそあれ「本番」までの期間はそれぞれ同じような長さなので「効率よく、要領よくがんばれる」という面もあるのかもしれません。そういった評価は出せるのかもしれません。
ですから、大学等の学歴から「何らかの目的に対して、毎日アプローチできる人物」かどうかをある程度読み取れるのではないかと思う訳です。一つの目標に対して、最も地道にして近道なのは継続だというのは、多くの人が考える所だと思うからです。
なので私は、これから学歴を積んでいこうとする人達に「何をしに大学へ行くのか」と、彼等へ問い続けてあげて欲しいと思う事があります。多くの少年達は「やりたいことが決まっている訳でもなくただ大学へ行く」のだと思います。夢や目標が漠然としたままである事が悪ではありませんが、やはり単なる「就職有利の保険」の為だけになってしまうよりかは、意識していてほしいなと思う訳です。
何の為に学ぼうとするのか。これを忘れないでほしい。
そうやって、何度も語れる大人が、学生の周りにいるかどうか。
それによって「彼等の学歴の意味」も、輝いていくのではないでしょうか。
私自身、学力(というべきか、他にいい言葉がみつかりません)は「人間の為に」という目標を持って積んでいって貰えればと思っています。もちろん人間以外を無視した、という意味ではありません。
将来自分がただ安定する為だったり、ただ人より突出する為だけだったり、そういうことでは寂しいと思います。世界を救えとは言いませんが、身の回りの誰かの力になれるような、そんな目的を持って自分を高めていって欲しいと思います。
「何の為に学ぶのか」これを考え抜いて学校生活、学生生活を生き抜いて欲しいなと思います。そうすれば学歴の先に行っても、常に「学ぶ人」で居られると思うからです。社会人でも「何の為に学ぶのか」を忘れないからです。そうして「人間の為に」走りぬけようとする人にこそ、輝くものが見えてくると私は感じます。
学歴を聞いた時、同時につい聞いてしまう事があります。
それは「その大学で、あなたは何をしているのですか」という事です。
欲しいのは学歴ではなくて「戦歴」なのかな、と質問しておいて自分で考えたりします。
ノーベル文学賞を受賞したロマン・ロランは、トルストイと文通をしていました。ガンジーとも対談をしたと言われています。こういったことも「学び」の一つではないでしょうか。
どれだけ高名になっても、どれだけ権威があろうと、あらゆる人や事から学ぶ事ができる。
そういった「活動」こそが学歴、学んだ歴史、ではないでしょうか。
ですから学歴は本来、履歴書に羅列できるようなものではないと思うのです。
いや、履歴書に書かれていることは単なる「経歴」に過ぎないとも言えると私は考えます。
戦歴を積みましょう!あらゆる事を!
”統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。”
こういったことも私は戦歴だと思っています。私自身もクローン病を通して学んだ事は数知れず持っていると自負している部分があります。
学歴を卑下しないで欲しいなと思います。その大学に入るまでに至る物語は、その人にしかないものですから。自分はやり抜いたんだというモノがあったのならば武器にすればいいし、実はそんなに苦労せずに受かってしまったというのであれば、一度死に物狂いの努力をやってみようとバネにすればいいんです。
就職において「指定校」などがあるというのは少し悲しい話ではありますね。
私は高校が工業高校でした。卒業当時、高校生の就職氷河期のような事が言われていて、全国平均で求人件数が100%を大きく下回っていましたが、その中でさえ私の通う高校は800%を超える求人を誇っていました。
工業高校なのでいわゆる「偏差値」はかなり低い学校なのですが、企業からの評価がとても高いという話を教師がしていたのを覚えています。卒業生達の礼節がとても良く、しっかり働き結果を残していて、後輩の為に道を拓いているのだ、と。
これも一つの「学歴による就職優位差」なのかもしれません。
その当時の私は、その事に疑問を抱かず、むしろその学校にいる事を誇りに思っていました。
しかし、大学生就職活動で似たような話を聞くと「なんだかな」と思ってしまう。この差はなんでしょう。
私の居た工業高校は何より「礼節」を重んじていました。
「教師とすれ違う時にはかならず元気な声で挨拶をする事!」 というのがまず何よりも重要視されていたように思います。といっても、重苦しく感じたことはなく、これが当たり前という風土があったおかげで、自分から話しかけるのが苦手な自分でも、挨拶だけは苦もなくできるようになりました。
多少校則を破っているのは良いとしても、挨拶できない奴はダメだ! 全ての教師の原則のようになっており、教師の方もかならず目を見て、大きな声で返してくれたものです。挨拶しなければ、いちいち呼び止めて注意をしてくれました。
生徒も教師も「工業高校生として、社会に役立つ人物になるんだ、するんだ」という意識がとても強い学校でした。そういう目的を同一としていましたから、ある意味で生徒と教師は同じ土俵の立場になっていました。
私は学歴こそ高卒ですが、大学にいた時期があります。
まず入学して、何より驚いたのが 「誰も挨拶をしない」 という事でした。
教師のような人とすれ違う時に、自然と挨拶をするクセが出来ていましたので、入学直後は声をかけていたのですが、学生でそういうことをしている人をまず見かけない…
しかしそれ以上に驚いたのは、声を掛けた「教師が驚く」のです、いや、それどころか「教師が挨拶を返してこない(ように見える?)」事でした。
私にとっては衝撃的な数日間だったのですが、数ヶ月もして気がつけば、私自身も「そんな彼等」と同じように、よく見知った相手でもない限り挨拶をするというような事はなくなっていってしまいました。
それでも、在学中はそういった空気に「さみしさ」を感じていたのは事実です。
その中で「あの工業高校では”人間的な教育”をしていたんだな」と考えるようになりました。
企業が「指定する」という気持ちはわからなくもありません。
安全パイを取りたいという部分もあるでしょう。当時の高校が高い求人率を誇っていたのは、どういった安全パイだったからなのか。私は「質の高い人間」を企業が欲していたのだと考えています。
大学生への就職活動で違和感を感じるのは、このあたりなのではないでしょうか。
最高学府である大学だけは、何かそれまでの「学校とは違う何か」があるように感じます。
私の中でそれは「自己責任という名の、人間的教育の放棄」だと考えています。
大学在籍中、私が最も「学んだ」と思えたのは、懇意にしてくださった教授との一対一の対話でした。授業でも、実験でもなく、その年老いた教授との「教育とは何か」に対する情熱の対談でした。
成績も良くなく、何らかの才能があった訳でもない私に「4年次の研究室選びでは、待っているよ」とさえ言って下さいました。残念ながら病気の為に4年次になる前に退学してしまいましたが、私の中の大事な思い出になっています。
学歴よりも、そういったエピソードの方が「聞いて欲しい」と思ったりします。
「子供じゃないんだから、自分のことは自分でやれ」というのは確かに正しいと思います。
大学が過保護である必要は、私も全く無いだろうと考えます。
しかし、それと人間的教育を放棄したような、ある種の距離感を作ってしまうのは、また別の問題だと思うのです。
No.8 mayugeさんが仰るように「名は体を現す」かのような話として、高名な学校では、人間的教育も含めて「信頼できる(と思いたい)」というのが企業から見た本音ではないだろうかと思います。
多くの人の評価を得ているという事実(≒権威)に意味があるかも知れない、という一種の信仰のようなものなのかもしれません。
信仰、という単語が出たついでになりますが、権威にしろ信仰にしろ本来は「人間の為」にあるものです。ルールの為に人がある訳ではない、というものです。
ですから本来信仰が持つ役割は、あくまでも「信仰者(=人間)中心」の為であり、その宗教団体への「悪しき実利的な犠牲」は間違いと言わざるを得ません。
現実的に考えて「あなたは何故信仰をするのか」と言う質問に答えるとするならば、現代社会においては「自らが幸せになる為」でなければ、私は嘘ではないかと思うのです。あくまでも、信者ではなく実践の人……「行者」であるべきだと私は考えます。
信仰をした事で不幸になってしまうようでは、それは間違いだと思います。幸せとは何かという定義はとても難しい事ですが、どんな信仰であれ、現実社会に即して冷静に自分自身を、常に判断していく事は、信仰者と言えど必要な素養だと考えます。
mayugeさんの仰るとおり、権威や信仰には「普遍的な価値がある」からこそ無視できないという部分はあります。しかし、なぜそれが普遍的足りえたかを見誤ってはならないのです。そここそが「人間主義」とも言うべきか、人間的なアプローチがあるかどうかだと思います。
権威が好きだから権威が権威足るのではありません。そこに実質的な人間的価値があるから、それがだんだんと有力となっていくに過ぎないのです。そういった地道ながら有効なものを積み上げていった所に対して、さも「それら全てが自分の力」で実現され「その権利は自分にある」と勘違いしたものが、いわゆる「嫌われるべき権威」というものです。そしてそれは権威などと呼ぶに相応しからず、たんなる権力の魔性に過ぎません。しかしそれは最も恐れてしかるべきものだと思います。
宗教と呼ぶに相応しい宗教ならば、確かに荘厳たる建築物があったとしても、それが目的ではない事が判るはずです。その信仰者が一人の人間として、どうやって幸せになっていくのかを、信仰者同士が真剣に対話するというのが最も重要視されるはずだからです。
そうであるならば、どんな金持ちも、どんな貧乏人も、等しく信仰を持てるのであり、どんな貧相な家に住んでいようと、彼を励ます為に身分に関わらず信仰体験を話すはずです。苦しんでいる同胞の為に、寺院ではなく、彼の家に足を運ぶはずなのです。
信仰は寺にお参りすることが目的ではなく、自らがどう幸せになるかを、この現実社会で見極めていく事を目的としているはずだからです。そういう活動が出来る人達がどれだけいるかが、その信仰の「権威」を作っていくのだと思います。
東大が権威を持っているとするならば、それは先人達が積み上げて言った実績や伝統が、人間として高く磨かれていったという事実があったからなのだと思います。それがある時期から「単に名前の為だけ」となってしまう学生が増えたり、実はそんなに実力がない卒業生だらけになってしまったとするならば、その権威は弱くなっていくはずです。
茂木さんが現在の東大などに対して持っている批判は、この部分ではないかと私は思います。お前達は本当に日本の代表を張るような大学として、世界と勝負できるのか!?という渇なのではないかと思って、意見を読んでいます。
企業としては、どうやってその「人間性」を見極めるのか、わからないままになっている所が多いのではないかと思います。「人事部」なるものが存在し、異なる現場で自らが関わるわけでもない場所の人員を採用する専門機関となって、新卒学生達を見定めていくというのが一般的なスタイルなのでしょうか。
そして、もし「使えない学生」がある部署に配属された時、その彼が実績を出せなかった事の責任は、その部署の長に降ってくるのでしょう。そこに「人事部」の責任は一切存在しない事になります。
責任がなければ仕事は疎かになっていく一方です。そういう意味では、いわゆる「人事部」は不要という事になります。現場現場で面接するのが最も賢いと言わざるを得ません。そうなった時、現場の人々は面接の際どういったことを聞きたがるのでしょうか?
今まさに皆さんが現場で働いていて、人を採ろうと面接をする時に、何を聞こうとするのでしょうか。自分と一緒に働きやすい人なのか、一体何ができるのか、どういう性格なのか、結局こういうことじゃないかと思います。そこに学歴の関係性がどれだけあるというのでしょうか。
私の居た工業高校と、大学新卒の就職活動最前線の違いが、ここにあるような気がします。学歴とは、そういったものではないかと私は思います。
NO.142011-09-28 07:08:51 masami 0
私にとって、学歴とは、NO.2の chigusaotsuki さんの
どこの学校を、入学した、とか、卒業した、ということではなくて、人生に添うように、学歴は、ついてきてくれます。
現時点から、過去を振り返れば、学歴は、今までの学びの道筋を、教えてくれます。
そして、現時点から、将来に向かって、どのような学びがしたいのか、今の自分を、把握することで、これからの学びが、見えてきます。
という意見に似ています。
どこで生まれ、どのように生きてきたか、の一部分のようなもの。でも、本当に興味があるのは、その経験をその人がどのように受け止めているか、ということかもしれません。
日本の入試制度や大学の現状を見れば、学歴がその人の知識の量とか、そこで学んできたことをそのまま表すものではないと感じます。ですから、それを指標にして人を選ぶという点については、選ぶ人が、学歴というものをどのように考えて、何のためにそうしているのか、よくわからないな、と感じます。もしかしたら、大学がとても少なかった時代の名残なのかな、と思いました。
でも、学歴は、人と人との関係にも影響するくらい、日本では、大きな存在だな、とも感じています。それがとても変だな、とも感じます。
その人そのものを見ないで、経歴を見て判断する。人間の経験の一部だけで判断するのはおかしい、とほとんどの人が思いながら、とりあえず頼っている、ということが多いように思います。 自分で判断するのがこわいからか、不安だから、でしょうか。
どのようなことに挑戦するか、何を目標にするか、といった自分のさまざまな体験の中の一つとして、自分なりに学歴を位置づけることは、意味があるかもしれない、と思います。
どこの学校を、入学した、とか、卒業した、ということではなくて、人生に添うように、学歴は、ついてきてくれます。
現時点から、過去を振り返れば、学歴は、今までの学びの道筋を、教えてくれます。
そして、現時点から、将来に向かって、どのような学びがしたいのか、今の自分を、把握することで、これからの学びが、見えてきます。
という意見に似ています。
どこで生まれ、どのように生きてきたか、の一部分のようなもの。でも、本当に興味があるのは、その経験をその人がどのように受け止めているか、ということかもしれません。
日本の入試制度や大学の現状を見れば、学歴がその人の知識の量とか、そこで学んできたことをそのまま表すものではないと感じます。ですから、それを指標にして人を選ぶという点については、選ぶ人が、学歴というものをどのように考えて、何のためにそうしているのか、よくわからないな、と感じます。もしかしたら、大学がとても少なかった時代の名残なのかな、と思いました。
でも、学歴は、人と人との関係にも影響するくらい、日本では、大きな存在だな、とも感じています。それがとても変だな、とも感じます。
その人そのものを見ないで、経歴を見て判断する。人間の経験の一部だけで判断するのはおかしい、とほとんどの人が思いながら、とりあえず頼っている、ということが多いように思います。 自分で判断するのがこわいからか、不安だから、でしょうか。
どのようなことに挑戦するか、何を目標にするか、といった自分のさまざまな体験の中の一つとして、自分なりに学歴を位置づけることは、意味があるかもしれない、と思います。
NO.132011-09-27 16:21:09 chigusaotsuki 0
Now let's turn to the problem of the society which sets a greater value on the academic career of an individual than on his/her real ability.
Firstly, I need to distinguish between his/her educational background and overemphasis of educational qualifications.
The former relates to an overall judgement you will make on the value; the latter may be misguided, because it is inadequate to recognise his/her real ability.
It is noteworthy that Japanese had difficulty explaining these phenomena, therefore we would adopt a principled stance towards the criteria.
There are simultaneous frameworks to help people evaluate the criteria.
So, what is your main criterion in choosing your way of thinking?
How do you describe a marked or perceptible change?
Has important new information been gained from the internet?
That is all I have to say.
Thank you.
Firstly, I need to distinguish between his/her educational background and overemphasis of educational qualifications.
The former relates to an overall judgement you will make on the value; the latter may be misguided, because it is inadequate to recognise his/her real ability.
It is noteworthy that Japanese had difficulty explaining these phenomena, therefore we would adopt a principled stance towards the criteria.
There are simultaneous frameworks to help people evaluate the criteria.
So, what is your main criterion in choosing your way of thinking?
How do you describe a marked or perceptible change?
Has important new information been gained from the internet?
That is all I have to say.
Thank you.
NO.122011-09-26 23:13:50 ryosuke85 0
>No.8 mayugeさん
権威主義というのは、そもそも過去から現在における人間が作り出したものであり、
それを否定する事には何の生産性もない。それは人がそうしたいと望んできたから、
という事で宜しいでしょうか。
そもそも人の評価というのは何処で誰が決めるものでしょうか。
これはmayugeさんの意見を拝見して僕が勝手に考えたことなのですが、
我々は評価の仕方が下手なのかな、と思います。
評価のされ方が下手とも言えると思うのですが。
結局、今まで「学校歴」でしか評価して来なかったから、
“履歴書”の“学歴欄”がここまで尊重されてきてしまったのかな、と。
人の評価をするのに、まずそこありきになっている事は、僕は問題だと思うのです。
それは僕の個人的な僻みに通ずると言われればそうかも知れません。
じゃあ、僕が何で茂木さんのメルマガを読むに至るまで茂木さんを評価しているのか。
という点をmayugeさんの投稿を拝見してから考えてみたのですが、
僕、茂木さんの書籍に書いてある経歴を見たのは、今年に入ってからです。
それもどうかと思うのですが、基本的に僕は著書の経歴欄は見ません。
僕の中では“どうでもいい事”になってしまっているのです。
ただ、自分の出来ていない事をしている人は純粋に尊敬しますし、
僕の人生には無いものを経験されているのですから、非常に尊い存在です。
そもそも、茂木さんの存在を知ったのは、
NHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀~」の司会者をされていたのを見たから
なんですが、その時に多くのプロフェッショナルに対する質問をしている姿を
見て、“何となく”惹きつけられて、フラッと本屋に並んでいる書籍を手にとって
読み始めたのがきっかけです。
その時から今年に入るまで僕は茂木さんが今までどんな経歴をしてきたのかについて
特に興味もなく、書籍を読んでいました。
今年に入って「そう言えば」的な感覚で見てみたら…
という流れなのですが、僕は茂木さんを“何となく高く評価”していました。
著名人だから、とか
(TVで発言されることのメインとして)脳科学的には…という発言が、とか
そんな理由では無くて、自分の人生において何かを与えてくれたという
感覚を得たから高く評価させていただくに至りました。
これは完全に僕の感覚です。
それ以上でもそれ以下でも無く、僕が茂木さんに間接的に触れた中で、
自分にとって“必要”だと思え、結局、評価というのは人をどう見るか、
その人がしている事がどういう作用を及ぼすのかを判断する事なのだと思うのです。
急転直下で茂木さんへの気持ちが冷めてしまう事もあるとは思うのですが、
少なくとも現在、僕は茂木さんの闘う姿勢であったり、物事の見え方が
僕の過去の人生には無かったものなので様々な示唆を与えていただけるという点で
必要だと思っております。
そういう点で言うと、まだ何もしてきていない新卒学生を企業が一括で
採用しているという現状、学校別にラベルわけをして身勝手な評価しているという点には
納得できません。
学生個々人の、例えば東京大学入学に至るまでの過程を否定はしません。
凄いことだと思います。ただ、そうしたくてしたのである以上、
それは他の大学に入学した学生と差がある事に僕は納得がいきません。
(これも僻みでしょうか)
そのラベル分けする事は評価なのでしょうか。
その学生の“顔”を見ての評価だとは到底思えないのですが、
mayugeさんをはじめ、他の皆さんはどうお考えですか。
権威主義というのは、そもそも過去から現在における人間が作り出したものであり、
それを否定する事には何の生産性もない。それは人がそうしたいと望んできたから、
という事で宜しいでしょうか。
そもそも人の評価というのは何処で誰が決めるものでしょうか。
これはmayugeさんの意見を拝見して僕が勝手に考えたことなのですが、
我々は評価の仕方が下手なのかな、と思います。
評価のされ方が下手とも言えると思うのですが。
結局、今まで「学校歴」でしか評価して来なかったから、
“履歴書”の“学歴欄”がここまで尊重されてきてしまったのかな、と。
人の評価をするのに、まずそこありきになっている事は、僕は問題だと思うのです。
それは僕の個人的な僻みに通ずると言われればそうかも知れません。
じゃあ、僕が何で茂木さんのメルマガを読むに至るまで茂木さんを評価しているのか。
という点をmayugeさんの投稿を拝見してから考えてみたのですが、
僕、茂木さんの書籍に書いてある経歴を見たのは、今年に入ってからです。
それもどうかと思うのですが、基本的に僕は著書の経歴欄は見ません。
僕の中では“どうでもいい事”になってしまっているのです。
ただ、自分の出来ていない事をしている人は純粋に尊敬しますし、
僕の人生には無いものを経験されているのですから、非常に尊い存在です。
そもそも、茂木さんの存在を知ったのは、
NHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀~」の司会者をされていたのを見たから
なんですが、その時に多くのプロフェッショナルに対する質問をしている姿を
見て、“何となく”惹きつけられて、フラッと本屋に並んでいる書籍を手にとって
読み始めたのがきっかけです。
その時から今年に入るまで僕は茂木さんが今までどんな経歴をしてきたのかについて
特に興味もなく、書籍を読んでいました。
今年に入って「そう言えば」的な感覚で見てみたら…
という流れなのですが、僕は茂木さんを“何となく高く評価”していました。
著名人だから、とか
(TVで発言されることのメインとして)脳科学的には…という発言が、とか
そんな理由では無くて、自分の人生において何かを与えてくれたという
感覚を得たから高く評価させていただくに至りました。
これは完全に僕の感覚です。
それ以上でもそれ以下でも無く、僕が茂木さんに間接的に触れた中で、
自分にとって“必要”だと思え、結局、評価というのは人をどう見るか、
その人がしている事がどういう作用を及ぼすのかを判断する事なのだと思うのです。
急転直下で茂木さんへの気持ちが冷めてしまう事もあるとは思うのですが、
少なくとも現在、僕は茂木さんの闘う姿勢であったり、物事の見え方が
僕の過去の人生には無かったものなので様々な示唆を与えていただけるという点で
必要だと思っております。
そういう点で言うと、まだ何もしてきていない新卒学生を企業が一括で
採用しているという現状、学校別にラベルわけをして身勝手な評価しているという点には
納得できません。
学生個々人の、例えば東京大学入学に至るまでの過程を否定はしません。
凄いことだと思います。ただ、そうしたくてしたのである以上、
それは他の大学に入学した学生と差がある事に僕は納得がいきません。
(これも僻みでしょうか)
そのラベル分けする事は評価なのでしょうか。
その学生の“顔”を見ての評価だとは到底思えないのですが、
mayugeさんをはじめ、他の皆さんはどうお考えですか。
NO.112011-09-25 22:58:32 scidreamer 0
追記です。
統合失調症の症状に、『他人に自分の頭の中を読まれている』と妄想してしまう、というものがあるそうです。
私もそれと似たような経験があり、例えばテレビなどで、知人の姓と名を組み合わせたような赤の他人の名前を見ると、自分の個人情報が漏れていると感じて非常に怖くなった経験があります。
ところが被害妄想的な症状が収まっても、自分の考えていたキーワードがテレビで流れてくると、ちょっと意識が向いてしまいます。
たった今まで、先の長文の投稿を書き終えてテレビを見に行ったのですが、何の番組かは知りませんが、日米修好通商条約を批准しに行ったという方の話がありました。その話の中でテレビの中の人が「彼は本望だったと思いますよ。自分の「シメイ」を果たしたのだから。」と表現していました。
私は実は今日、親からもらった自分の名に新たな意味を持たせるという大儀を行いました。
それを自分のFacebookのノートに書き残したのですが、そこで
…「氏名」であり、「指名」であり、「使命」でもある。
という表現を用いているのです。
そのせいで私は、先のテレビの一節を聞いただけで、「誰の事を言っているのか」、「何と言う名前なのか」に凄く関心が行きました。
9月の頭位に、「2ちゃんねる」という掲示板で、死刑制度にふと興味を持って書き込みを始めました。
死刑存置派ばかりだったので、自分はとりあえず廃止派という事で議論を始めましたが、複数の存置派の全ての書き込みに、逐一長文レスで返していました。
おかげで、スレッドの容量オーバーになってしまったので反省して2ちゃんから離れる事にしました。
そんな書き込みを続けている際、ある存置派の人から「頭が悪い」と書き込みがあった時に、
「いや、確実にお前たちより多くシナプスが働いている。自分の理解できない者を頭が悪いとするのは愚かだ。」
という横レスが入ったのです。
ちなみに私はそのスレでも自分が統合失調症だと明かしております。
また、私は死刑廃止の論拠を示すのに、
「死んだ命はどうあっても取り戻す事はできないから、凶悪犯を殺したところで責任をとった事にはならない。」
とレスしましたが、昨日、twitterのTLに、
「電力はお金で買えるけど、命はお金じゃ買えないんだよ。」
というものを見つけて、すぐに
「亡くした命はお金では戻らない、が真理ですね。」
と返しました。
以上は、情報のキャプチャー力が非常に優れているのかもしれないと考えています。
そしてたとえそうでなくても、過去に自分が考えた事と現在自分が認識した情報との連結力が、明らかに上がったように思えてなりません。つまり、
「この情報との出会いは運命だ。」
と感じる事が多々あるという事です。
さらに、始めたばかりの2ちゃんねるやtwitterでも、自分や相手の論理の「矛盾」にいち早く気付けるように思います。
というのは、相手が自分に対して「論理が矛盾している」と言ってきた時に、
「私の論拠のどこに『矛』と『盾』があるのか教えてください。」
というと相手のreplyが返って来なくなる事があったからです。
また、死刑廃止派で始めた議論を始めたものの、
「死刑に執行猶予を認める事で、死刑から終身刑、有期刑までの一連の法体系が完成して機能する」
「死刑に執行猶予を認める事で、裁判所は死刑判決が出しやすくなり、比較的軽犯罪んでも死刑にされるという可能性を恐れて、犯罪者が減る」
という死刑を認める形での自分なりの最善策を見出せました。
ところがこの策は存置派には論破されるどころか、相手にもされなかったのです。
有機刑が有効と仮定すれば、法体系に連続性を持たせるのも当然有効だと思います。
また、裁判所と犯罪者の心理状態の変化を利用するというのは、心理は不変という観念にとらわれない大胆な発想だと考えています。
統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。
もはや何を持って「実力がある」とするのか、私にも分からないです。
ぜひ茂木さんのご意見もお聞きしたいです。
統合失調症の症状に、『他人に自分の頭の中を読まれている』と妄想してしまう、というものがあるそうです。
私もそれと似たような経験があり、例えばテレビなどで、知人の姓と名を組み合わせたような赤の他人の名前を見ると、自分の個人情報が漏れていると感じて非常に怖くなった経験があります。
ところが被害妄想的な症状が収まっても、自分の考えていたキーワードがテレビで流れてくると、ちょっと意識が向いてしまいます。
たった今まで、先の長文の投稿を書き終えてテレビを見に行ったのですが、何の番組かは知りませんが、日米修好通商条約を批准しに行ったという方の話がありました。その話の中でテレビの中の人が「彼は本望だったと思いますよ。自分の「シメイ」を果たしたのだから。」と表現していました。
私は実は今日、親からもらった自分の名に新たな意味を持たせるという大儀を行いました。
それを自分のFacebookのノートに書き残したのですが、そこで
…「氏名」であり、「指名」であり、「使命」でもある。
という表現を用いているのです。
そのせいで私は、先のテレビの一節を聞いただけで、「誰の事を言っているのか」、「何と言う名前なのか」に凄く関心が行きました。
9月の頭位に、「2ちゃんねる」という掲示板で、死刑制度にふと興味を持って書き込みを始めました。
死刑存置派ばかりだったので、自分はとりあえず廃止派という事で議論を始めましたが、複数の存置派の全ての書き込みに、逐一長文レスで返していました。
おかげで、スレッドの容量オーバーになってしまったので反省して2ちゃんから離れる事にしました。
そんな書き込みを続けている際、ある存置派の人から「頭が悪い」と書き込みがあった時に、
「いや、確実にお前たちより多くシナプスが働いている。自分の理解できない者を頭が悪いとするのは愚かだ。」
という横レスが入ったのです。
ちなみに私はそのスレでも自分が統合失調症だと明かしております。
また、私は死刑廃止の論拠を示すのに、
「死んだ命はどうあっても取り戻す事はできないから、凶悪犯を殺したところで責任をとった事にはならない。」
とレスしましたが、昨日、twitterのTLに、
「電力はお金で買えるけど、命はお金じゃ買えないんだよ。」
というものを見つけて、すぐに
「亡くした命はお金では戻らない、が真理ですね。」
と返しました。
以上は、情報のキャプチャー力が非常に優れているのかもしれないと考えています。
そしてたとえそうでなくても、過去に自分が考えた事と現在自分が認識した情報との連結力が、明らかに上がったように思えてなりません。つまり、
「この情報との出会いは運命だ。」
と感じる事が多々あるという事です。
さらに、始めたばかりの2ちゃんねるやtwitterでも、自分や相手の論理の「矛盾」にいち早く気付けるように思います。
というのは、相手が自分に対して「論理が矛盾している」と言ってきた時に、
「私の論拠のどこに『矛』と『盾』があるのか教えてください。」
というと相手のreplyが返って来なくなる事があったからです。
また、死刑廃止派で始めた議論を始めたものの、
「死刑に執行猶予を認める事で、死刑から終身刑、有期刑までの一連の法体系が完成して機能する」
「死刑に執行猶予を認める事で、裁判所は死刑判決が出しやすくなり、比較的軽犯罪んでも死刑にされるという可能性を恐れて、犯罪者が減る」
という死刑を認める形での自分なりの最善策を見出せました。
ところがこの策は存置派には論破されるどころか、相手にもされなかったのです。
有機刑が有効と仮定すれば、法体系に連続性を持たせるのも当然有効だと思います。
また、裁判所と犯罪者の心理状態の変化を利用するというのは、心理は不変という観念にとらわれない大胆な発想だと考えています。
統合失調症と自殺未遂の経験によって、既存の考え方に囚われなくなった影響だと考えいます。
もはや何を持って「実力がある」とするのか、私にも分からないです。
ぜひ茂木さんのご意見もお聞きしたいです。
NO.102011-09-25 21:21:18 scidreamer 0
私は、学歴というよりそれを決める入試制度、義務教育から始まり受験勉強で『終わる』知識偏重の日本の教育問題という観点で論じて行きたいと思います。
まず、現状分析。
現在の日本の教育が知識偏重である事に異論は無いと思います。小学1年生から始まる暗記テストの繰り返し。暗記数学などという言葉が蔓延り、まかり通る受験勉強。
次に、問題把握。
「知識を得る事自体は素晴らしい」事です。しかし、我々の目的は常に、知識を覚える事ではなく、「新しい知識を生み出す」事にあるはずです。しかし、日本の教育は、子供に「知識を生み出す過程」を経験する機会を与えていません。そもそも「知識が生み出される過程」というものさえまともに教えていないのです。
さて、原因分析。
バリバリの理系で歴史には疎い私ですが、日本の近代教育の始まりが明治維新の頃であった事は容易に推察できます。江戸時代まで鎖国状態にあった日本は、開国して欧米の大量の知識を目の当たりにしました。そしてその大量の知識を急いで国民に普及しなければ、と考えたのでしょう。それが現在に至るまで続く、知識偏重の日本の教育の根幹なのです。
しかし、ここで一つ重大な過ちを犯したのです。
それは、大量の知識を普及する事にこだわるあまり、その「知識が生み出された過程」を国民に学ばせる事をしなかったのです。いや、正確にはできなかったのです。万有引力の法則を見出したニュートンは、もはや過去の人。ヨーロッパの人々は彼と共に時代を生き、「彼の発見に至るまでの過程を余す事無く堪能」できたのです。日本人にはもはやそれは出来なかった。だから今でも大多数の日本国民は、ニュートンの名前と、万有引力の法則の内容と、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見てひらめいたという逸話しか知らないのです。しかし、万有引力の法則という重大な法則の発見が、そんな簡単に見つかったはずがないのです。私がその事を知ったのは、とあるテレビ番組で、ニュートンが発見に至るまでにいかに月の観測に執念を持って取り組んだか、について取り上げられているのをちらっと見たときでした。そんな事は日本の教科書にはまともに取り上げられていないのです。そんな教科書より、私がその後床屋で適当に手に取って読んだ「ギャグマンガ日和」の方がよっぽど、ニュートンが文字通り「頭をフル回転して発見に至った」事が「想像」できます。このように、日本は義務教育から受験勉強に至るまで、「新たな知識が生まれる過程」を「見聞」する機会も「経験」する機会も与えていないのです。
では、論点整理。
『知識が生まれる過程を教えるのは、ある程度知識が身に付いてからでいい』と仰る方には、ここで私個人の話を聞いて頂きたいです。長いので以上の点に納得している方は一気に飛ばして頂いて結構です。
私は現在大学三年生、『理学部』の化学系です。実は『一浪』した上に、いわゆる『駅弁大学』に通い、さらにそこで既に『一留』までしています。世間的には大学名どころの学歴の話では済みません。
そして私は当然のようにこの先の『就職の心配』をしていたため、大学院から、より『就職状況のいい薬学研究科』を目指す事としました。今年の春休み中、有機化学の『教科書』を読んでいたのです。
さて、『院試対策』を意識して、早い時期に研究室訪問をしようと考えた私は、「自分がやってみたかった」分子設計に必要だろうと早計して、構造生物学の研究室と「アポを取り」ました。
流石に「訪問する」前にいくつか『論文』というものを読んでおかなければ、と考えた(『順番が逆』)私は、論文を検索して「読んでみよう」としましたが、『一文読むのに30分』という状況に挫折しました。現時点での私は、『英語力』もさる事ながら、『高校で生物Ⅰしか履修していない』、『大学の生物系の授業も通年で1コマのみ』という『知識レベル』であったため、『専門用語も理解できない』状態でした。
仕方がないので、基本的な「知識を得たい」と思った私は、「偶然」大学生協で「見つけた」【たんぱく質入門】という本で基礎「知識を得よう」としました。
簡単で「面白い」本だったのですらすら読め、訪問の当日には本にメモしてあった「質問する」内容をピックアップしようと、バスの中でもう一度「読み返し」ていました。
そこで、ユビキチンというタンパク質を扱った節に至りました。ユビキチンとは壊れたタンパク質を分解機構に導くための目印(タグ)となる小さなタンパク質で、生体内のどの細胞中にも存在するものです。「後で知った」事ですが、このユビキチンの分解機構に関する研究は、2004年の『ノーベル賞』となっています。
そして、このユビキチンを見て私には、「標的となる病原タンパク質に結合できる医薬分子に、予めユビキチンを結合させておいたらどうなるか」という「疑問」を抱きました。
この事を訪問先の研究室の教授に「質問」したところ、「私は聞いた事がありません」という回答を頂きました。
これに「気を良く」した私は、さらに「自分で調べ」ながら、「自分の考えた」、ターゲットタンパク質を破壊できる「かもしれない」【ユビキチン医薬】を、旧友で『薬学部に在籍中』の女の子に、「相談して」みる事にしました。
その女の子の感想は、「スゲー」という言葉。しかしそれは『まず基礎を一番に』との前置きの後。
私の思いついた【ユビキチン医薬】が実際に実現可能かどうかなどは問題ではありません。重要なのは、『基礎』からみっちりと『薬学部』で学んでいるはずの薬学部生も教授も「分からない事を思いついた」という事実です。
「分からない事を思いついた」事こそ、新たな知識が生まれる前提条件ではないでしょうか?
一般向けに書かれた、挿絵だらけの【たんぱく質入門】というブルーバックスの「本1冊が、大量にある教科書を上回る」のです。
これは偶然で片づけられる問題か。それは私が分子設計にこだわったルーツを省みる事である程度説明出来る事に気が付きました。
私は「小学校3年生の頃」、小学校の授業で図書室に行った際、「その時点で既に強く関心を持っていた」科学の本が並んだ棚から、【もしも原子がみえたなら】という本を「手に取り」ました。まだ授業で原子について「習う事など無い」はずの小学生が「偶然」「手に取った」本が、私が化学の「道を選んだ」始まりだったのです。
私にはある癖があります。
私はごくたまに、自分の手の親指と人差し指をゆっくりくっつけたり開いたりするのです。
これは、原子の大きさを再現しようという、正にタイトル通りの【もしも原子がみえた「なら」】を実践していたのです。
これこそ正に本の書き手が「望んでいた」事なのでしょう。
人類の進歩や教育が、「新しい知識を生み出す」ためにあるなら、わざわざ指導要領で雁字搦めにする必要などないのです。新たな知識とは科学の世界だけの話ではありません。
この先生じる社会問題に挑む上でも不可欠になってきます。
そして『最初に基礎知識だけでも詰め込んでおいた方が効率がいい』というのも間違いです。
私はこの先薬学部生が学んだ『教科書を総ざらい』しなくても、ユビキチンに「重点を置いて情報収集にあたる」事ができます。
そもそもこの情報化社会で、どれが重要な情報かなどもはや定義できません。それを無理矢理定義したところで、人生最初の20年で学んだ事はすぐに風化します。それよりも自分の関心のある事を自分で学ぶ「自立学習」の経験を幼少期から積ませれば、社会に出た後も「自動制御で必要な知識を身に付けて生きていける」ようになります。
そして、解決策模索。
さて「自立学習」をする上で重要なのが、先にも述べた「知識が生まれる過程」を経験する事です。指導方法は難しいかもしれませんが、『知識を詰め込み続ける』事に弊害がある事は確かでしょう。子供に「自分で考える余裕」を与えないのですから。
そして「知識が生まれる過程」を見聞させる方法も必ずや有効になると思います。子供は何でも真似して覚えますから。
最後に、解決策提案。
このような「自立学習」を子供に根付かせる方法をいくつか提案してみたいと思います。
一つは、多分野から先生を用意する事です。
各子供の関心に応えられるように、社会のあらゆる所から先生を募るのです。私が早急に始めるべきだと考えているのは、団塊の世代の登用です。彼らの「経験」こそ一番の知的財産です。年金生活を始めてこのまま呆けていくのを待つのみ、というは非常にもったいないです。『知識』よりも「経験」。彼らの「失敗と成功の過程」こそ、ニュートンのそれをはるかに超える遺産です。
二つ目に、それら多分野から集めた「専門」の先生の教室をそれぞれ用意し、児童はその先生の教室まで行って授業に臨みます。
担任が『一人で全ての分野を教える』今のやり方では、子供の関心に応える事など無理だったのです。
多くの大人を知る事で、子供の視野は大幅に広がるでしょう。
しかし、クラスは定め、言語力、計算力、倫理観、健康観などは原則必修として、クラス一体で授業を受けさせます。
担任の先生は子供の意志で多分野の先生から選ばせます。
さて、ここで多くの教室が必要となりそうですが、これらは全学年共通の授業を行うという形で対応します。
すると低学年の中に授業が理解出来ない子が出てきます。
しかし、これこそが私のもう一つの狙いです。
そういう低学年の子に対して、先生は上級生に教えてあげるよう促すのです。子供のうちに「先生の経験」をさせる、いわば「自立教育」が大切なのです。
私がそう思うようになったのは、研究テーマに関する質問を薬学部の子にしても『自分で調べてから人に聞きなさい』と言われた経験からです。これこそが『自分一人で何でも調べられる』と考えている『完璧主義』の表れです。それが出来るなら誰も大学で授業を受ける事無く自分で調べられるはずでしょう。そして人に知識を提供する気も無くわざわざ大学にまで通っているのは、『利己主義』でしかありません。
また、twitterをしている時も、明らかに自分より知識があるはずなのに『私は先生では無いので』とお茶を濁す方も複数いました。
誰も貴方に完璧など求めていないのです。人間は無知で無能な存在であり、人によって向き不向きがあります。宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。
そのような「博愛主義」が日本に根付かないのは、点数で評価するシステムの大きな弊害です。『教育とは点数の上の者から下の者に与えられるもの』という暗黙の了解のせいで、もはや『満点を取っていない自分は教える側ではない』という論理に結びついているのです。
本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。
『完璧主義』より「成長主義」なのです。
「自立学習」に始まり、「自立教育」の必要性を説いたところで結ばさせて頂きます。
しかし、私自身も驚きましたが、実は私も先に投稿していた方と同様、『統合失調症』なのです。
私の場合は自殺未遂まで至り、『一留』となりました。
しかし、先の方と同様私の感覚でも、症状が安定した後は学習能力が高まったような印象を受けています。
私の場合は、マイナス思考に苛まれた際、頭の回転速度のパイが大幅に上がったのではないかと推察しています。
今は症状が安定してきて、研究テーマを考えたり、社会問題の解決策を講じたりするような建設的な方向に頭を使う機会が増えましたが、一週間ずっと一日中考え事をしても、全く苦にならないのです。
また、一度生死の概念もひっくり返るような自殺未遂に至った事で、生きる意義について普段から真剣に考えるようになりました。
私はこれを、脳の「再統合化」と呼んでいます。
ぜひ脳科学者の茂木さんの見解をうかがいたいです。
*ちなみに「」と『』は自分なりに意味を持たせた
つもりです。読みにくかったかもしれませんがご了承ください。
まず、現状分析。
現在の日本の教育が知識偏重である事に異論は無いと思います。小学1年生から始まる暗記テストの繰り返し。暗記数学などという言葉が蔓延り、まかり通る受験勉強。
次に、問題把握。
「知識を得る事自体は素晴らしい」事です。しかし、我々の目的は常に、知識を覚える事ではなく、「新しい知識を生み出す」事にあるはずです。しかし、日本の教育は、子供に「知識を生み出す過程」を経験する機会を与えていません。そもそも「知識が生み出される過程」というものさえまともに教えていないのです。
さて、原因分析。
バリバリの理系で歴史には疎い私ですが、日本の近代教育の始まりが明治維新の頃であった事は容易に推察できます。江戸時代まで鎖国状態にあった日本は、開国して欧米の大量の知識を目の当たりにしました。そしてその大量の知識を急いで国民に普及しなければ、と考えたのでしょう。それが現在に至るまで続く、知識偏重の日本の教育の根幹なのです。
しかし、ここで一つ重大な過ちを犯したのです。
それは、大量の知識を普及する事にこだわるあまり、その「知識が生み出された過程」を国民に学ばせる事をしなかったのです。いや、正確にはできなかったのです。万有引力の法則を見出したニュートンは、もはや過去の人。ヨーロッパの人々は彼と共に時代を生き、「彼の発見に至るまでの過程を余す事無く堪能」できたのです。日本人にはもはやそれは出来なかった。だから今でも大多数の日本国民は、ニュートンの名前と、万有引力の法則の内容と、リンゴの木からリンゴが落ちるのを見てひらめいたという逸話しか知らないのです。しかし、万有引力の法則という重大な法則の発見が、そんな簡単に見つかったはずがないのです。私がその事を知ったのは、とあるテレビ番組で、ニュートンが発見に至るまでにいかに月の観測に執念を持って取り組んだか、について取り上げられているのをちらっと見たときでした。そんな事は日本の教科書にはまともに取り上げられていないのです。そんな教科書より、私がその後床屋で適当に手に取って読んだ「ギャグマンガ日和」の方がよっぽど、ニュートンが文字通り「頭をフル回転して発見に至った」事が「想像」できます。このように、日本は義務教育から受験勉強に至るまで、「新たな知識が生まれる過程」を「見聞」する機会も「経験」する機会も与えていないのです。
では、論点整理。
『知識が生まれる過程を教えるのは、ある程度知識が身に付いてからでいい』と仰る方には、ここで私個人の話を聞いて頂きたいです。長いので以上の点に納得している方は一気に飛ばして頂いて結構です。
私は現在大学三年生、『理学部』の化学系です。実は『一浪』した上に、いわゆる『駅弁大学』に通い、さらにそこで既に『一留』までしています。世間的には大学名どころの学歴の話では済みません。
そして私は当然のようにこの先の『就職の心配』をしていたため、大学院から、より『就職状況のいい薬学研究科』を目指す事としました。今年の春休み中、有機化学の『教科書』を読んでいたのです。
さて、『院試対策』を意識して、早い時期に研究室訪問をしようと考えた私は、「自分がやってみたかった」分子設計に必要だろうと早計して、構造生物学の研究室と「アポを取り」ました。
流石に「訪問する」前にいくつか『論文』というものを読んでおかなければ、と考えた(『順番が逆』)私は、論文を検索して「読んでみよう」としましたが、『一文読むのに30分』という状況に挫折しました。現時点での私は、『英語力』もさる事ながら、『高校で生物Ⅰしか履修していない』、『大学の生物系の授業も通年で1コマのみ』という『知識レベル』であったため、『専門用語も理解できない』状態でした。
仕方がないので、基本的な「知識を得たい」と思った私は、「偶然」大学生協で「見つけた」【たんぱく質入門】という本で基礎「知識を得よう」としました。
簡単で「面白い」本だったのですらすら読め、訪問の当日には本にメモしてあった「質問する」内容をピックアップしようと、バスの中でもう一度「読み返し」ていました。
そこで、ユビキチンというタンパク質を扱った節に至りました。ユビキチンとは壊れたタンパク質を分解機構に導くための目印(タグ)となる小さなタンパク質で、生体内のどの細胞中にも存在するものです。「後で知った」事ですが、このユビキチンの分解機構に関する研究は、2004年の『ノーベル賞』となっています。
そして、このユビキチンを見て私には、「標的となる病原タンパク質に結合できる医薬分子に、予めユビキチンを結合させておいたらどうなるか」という「疑問」を抱きました。
この事を訪問先の研究室の教授に「質問」したところ、「私は聞いた事がありません」という回答を頂きました。
これに「気を良く」した私は、さらに「自分で調べ」ながら、「自分の考えた」、ターゲットタンパク質を破壊できる「かもしれない」【ユビキチン医薬】を、旧友で『薬学部に在籍中』の女の子に、「相談して」みる事にしました。
その女の子の感想は、「スゲー」という言葉。しかしそれは『まず基礎を一番に』との前置きの後。
私の思いついた【ユビキチン医薬】が実際に実現可能かどうかなどは問題ではありません。重要なのは、『基礎』からみっちりと『薬学部』で学んでいるはずの薬学部生も教授も「分からない事を思いついた」という事実です。
「分からない事を思いついた」事こそ、新たな知識が生まれる前提条件ではないでしょうか?
一般向けに書かれた、挿絵だらけの【たんぱく質入門】というブルーバックスの「本1冊が、大量にある教科書を上回る」のです。
これは偶然で片づけられる問題か。それは私が分子設計にこだわったルーツを省みる事である程度説明出来る事に気が付きました。
私は「小学校3年生の頃」、小学校の授業で図書室に行った際、「その時点で既に強く関心を持っていた」科学の本が並んだ棚から、【もしも原子がみえたなら】という本を「手に取り」ました。まだ授業で原子について「習う事など無い」はずの小学生が「偶然」「手に取った」本が、私が化学の「道を選んだ」始まりだったのです。
私にはある癖があります。
私はごくたまに、自分の手の親指と人差し指をゆっくりくっつけたり開いたりするのです。
これは、原子の大きさを再現しようという、正にタイトル通りの【もしも原子がみえた「なら」】を実践していたのです。
これこそ正に本の書き手が「望んでいた」事なのでしょう。
人類の進歩や教育が、「新しい知識を生み出す」ためにあるなら、わざわざ指導要領で雁字搦めにする必要などないのです。新たな知識とは科学の世界だけの話ではありません。
この先生じる社会問題に挑む上でも不可欠になってきます。
そして『最初に基礎知識だけでも詰め込んでおいた方が効率がいい』というのも間違いです。
私はこの先薬学部生が学んだ『教科書を総ざらい』しなくても、ユビキチンに「重点を置いて情報収集にあたる」事ができます。
そもそもこの情報化社会で、どれが重要な情報かなどもはや定義できません。それを無理矢理定義したところで、人生最初の20年で学んだ事はすぐに風化します。それよりも自分の関心のある事を自分で学ぶ「自立学習」の経験を幼少期から積ませれば、社会に出た後も「自動制御で必要な知識を身に付けて生きていける」ようになります。
そして、解決策模索。
さて「自立学習」をする上で重要なのが、先にも述べた「知識が生まれる過程」を経験する事です。指導方法は難しいかもしれませんが、『知識を詰め込み続ける』事に弊害がある事は確かでしょう。子供に「自分で考える余裕」を与えないのですから。
そして「知識が生まれる過程」を見聞させる方法も必ずや有効になると思います。子供は何でも真似して覚えますから。
最後に、解決策提案。
このような「自立学習」を子供に根付かせる方法をいくつか提案してみたいと思います。
一つは、多分野から先生を用意する事です。
各子供の関心に応えられるように、社会のあらゆる所から先生を募るのです。私が早急に始めるべきだと考えているのは、団塊の世代の登用です。彼らの「経験」こそ一番の知的財産です。年金生活を始めてこのまま呆けていくのを待つのみ、というは非常にもったいないです。『知識』よりも「経験」。彼らの「失敗と成功の過程」こそ、ニュートンのそれをはるかに超える遺産です。
二つ目に、それら多分野から集めた「専門」の先生の教室をそれぞれ用意し、児童はその先生の教室まで行って授業に臨みます。
担任が『一人で全ての分野を教える』今のやり方では、子供の関心に応える事など無理だったのです。
多くの大人を知る事で、子供の視野は大幅に広がるでしょう。
しかし、クラスは定め、言語力、計算力、倫理観、健康観などは原則必修として、クラス一体で授業を受けさせます。
担任の先生は子供の意志で多分野の先生から選ばせます。
さて、ここで多くの教室が必要となりそうですが、これらは全学年共通の授業を行うという形で対応します。
すると低学年の中に授業が理解出来ない子が出てきます。
しかし、これこそが私のもう一つの狙いです。
そういう低学年の子に対して、先生は上級生に教えてあげるよう促すのです。子供のうちに「先生の経験」をさせる、いわば「自立教育」が大切なのです。
私がそう思うようになったのは、研究テーマに関する質問を薬学部の子にしても『自分で調べてから人に聞きなさい』と言われた経験からです。これこそが『自分一人で何でも調べられる』と考えている『完璧主義』の表れです。それが出来るなら誰も大学で授業を受ける事無く自分で調べられるはずでしょう。そして人に知識を提供する気も無くわざわざ大学にまで通っているのは、『利己主義』でしかありません。
また、twitterをしている時も、明らかに自分より知識があるはずなのに『私は先生では無いので』とお茶を濁す方も複数いました。
誰も貴方に完璧など求めていないのです。人間は無知で無能な存在であり、人によって向き不向きがあります。宮本武蔵はそれを自分という人間に当てはめ「我以外皆師」という言葉を残したそうですが、それに「皆が我と同じ人間である」という「人間性」を加えれば「我は皆の師である」という事が導かれます。
そのような「博愛主義」が日本に根付かないのは、点数で評価するシステムの大きな弊害です。『教育とは点数の上の者から下の者に与えられるもの』という暗黙の了解のせいで、もはや『満点を取っていない自分は教える側ではない』という論理に結びついているのです。
本当は教え合う事こそ自分の知識や考えを洗練させる事につながると言うのに。
『完璧主義』より「成長主義」なのです。
「自立学習」に始まり、「自立教育」の必要性を説いたところで結ばさせて頂きます。
しかし、私自身も驚きましたが、実は私も先に投稿していた方と同様、『統合失調症』なのです。
私の場合は自殺未遂まで至り、『一留』となりました。
しかし、先の方と同様私の感覚でも、症状が安定した後は学習能力が高まったような印象を受けています。
私の場合は、マイナス思考に苛まれた際、頭の回転速度のパイが大幅に上がったのではないかと推察しています。
今は症状が安定してきて、研究テーマを考えたり、社会問題の解決策を講じたりするような建設的な方向に頭を使う機会が増えましたが、一週間ずっと一日中考え事をしても、全く苦にならないのです。
また、一度生死の概念もひっくり返るような自殺未遂に至った事で、生きる意義について普段から真剣に考えるようになりました。
私はこれを、脳の「再統合化」と呼んでいます。
ぜひ脳科学者の茂木さんの見解をうかがいたいです。
*ちなみに「」と『』は自分なりに意味を持たせた
つもりです。読みにくかったかもしれませんがご了承ください。
NO.92011-09-25 20:20:05 thnkks0304 0
No8. mayugeさん
確かに、茂木さんの書籍には日本人の誰が見ても引けを取らない学歴が書かれています。そして消費者の中にはその学歴で判断して、書籍に書かれている内容は確かであると思い買う人もいるでしょう。私もその中の1人でした。
しかし、それはまさしく我々が学歴社会の中で生きている功罪であると思います。書籍を数ページ読んである程度の内容の質を判断するのではなく、学歴で購入を決めてしまうことが思考停止になっているのです。
東京大学を卒業していない人でも素晴らしい文章を書く人はいっぱいいます。例えば、中卒のdankogaiさんとかです。学歴で判断する人は、中卒ということで彼のブログや書籍を読まないでしょう。彼は日本でも上位に入るブロガーで、書かれている文章は読む人をひきつけ、感動させ覚えます。
学歴なんかで相手を判断するとか、書籍を買うとか、そんな低レベルな思考をするのは止めようではないでしょうか。相手と対話したり、書いた文章を読んだりして、相手の本質を見抜けるように、知的レベルを上げていきましょう。
あと、書籍に書かれているのは学歴と呼ぶものではなくて、経歴であると思います。この人がどんな人生を歩んできたのか、簡単に紹介しますという、編集者の配慮だと思います。そして、紙幅の関係で出身大学や勤めてきた会社や大学、研究所のみが書かれるようになったのだと推測します。
そこのところはどうなんでしょうか、出版会社の編集者のみなさま。
竹内健太(kentatakeuchi)
確かに、茂木さんの書籍には日本人の誰が見ても引けを取らない学歴が書かれています。そして消費者の中にはその学歴で判断して、書籍に書かれている内容は確かであると思い買う人もいるでしょう。私もその中の1人でした。
しかし、それはまさしく我々が学歴社会の中で生きている功罪であると思います。書籍を数ページ読んである程度の内容の質を判断するのではなく、学歴で購入を決めてしまうことが思考停止になっているのです。
東京大学を卒業していない人でも素晴らしい文章を書く人はいっぱいいます。例えば、中卒のdankogaiさんとかです。学歴で判断する人は、中卒ということで彼のブログや書籍を読まないでしょう。彼は日本でも上位に入るブロガーで、書かれている文章は読む人をひきつけ、感動させ覚えます。
学歴なんかで相手を判断するとか、書籍を買うとか、そんな低レベルな思考をするのは止めようではないでしょうか。相手と対話したり、書いた文章を読んだりして、相手の本質を見抜けるように、知的レベルを上げていきましょう。
あと、書籍に書かれているのは学歴と呼ぶものではなくて、経歴であると思います。この人がどんな人生を歩んできたのか、簡単に紹介しますという、編集者の配慮だと思います。そして、紙幅の関係で出身大学や勤めてきた会社や大学、研究所のみが書かれるようになったのだと推測します。
そこのところはどうなんでしょうか、出版会社の編集者のみなさま。
竹内健太(kentatakeuchi)
NO.82011-09-25 13:17:11 mayuge 0
権威主義は人間だれもが大好きなものじゃないでしょうか?昔の人もありがたやありがたやと権威のあるものにあやかるために奔走したんじゃないですか?それを否定するのに意味があるんでしょうか。
やはり価値があるものはみな認めているわけで(認めているから価値があるわけで)、まだ社会から認められていないものから価値を見出すことには大きな創造力が必要だと思いますが、価値があるとされているものにあやかりたいと思うのは人類普遍の特徴だと思うのです。宗教なんて権威主義の最たるものじゃないですか?ですから大学であれば日本なら東京大学であるし、企業であれば社会に影響力をもっている大企業となるであろうし、職業そのものであれば人の寿命に関わる医者が偉くなるわけじゃないですか。
既存の価値をを否定したとしても、すぐに新たに価値を見出すことが必要とされて、新たな権威主義が顕れてくるに過ぎないわけです。権威を排除して全てフラットにした途端、新たな権威が必要とされるわけですよ。
東京大学の建屋がほったて小屋で良いわけがありません。権威を付加されているわけですから、壮大な建築物になるわけで、寺院だってそうじゃないですか。寺院がほったて小屋で、誰がお参りに来るんでしょうか?やはり権威のある物を人はあがめ、支えにして生きるんですよ。
逆にいえば、権威を付加されている対象は、それだけの期待や責任を負わなければならない。権威と責任は表裏一体の物です。人からあがめられるには、その期待にこたえねばならぬという義務が常に存在しているわけです。そういう意味で悪いものじゃないですよ。権威というのは。
採用が出身大学で決まるのは、悪い事じゃないと思います。例えば東京大学の学生は、それだけ期待されているわけで、それに応えなければならない。これはしんどいことですよ。
少なくとも大学生が企業に就職するのは学校の延長なわけじゃないですか。今の日本は少なくともそうですよね。誰もが学校を卒業し社会での何の業績もない無垢な状態で就職しますよね。ある意味、学生時代の成果として学歴があるんじゃないですか?それでしか評価しようがないじゃないですか?学歴以外でどうやって学生を評価できるんですか?たとえば、無名大学であっても、数学オリンピックで優勝したとか、こういう学会で賞をもらったとか、地域社会を変えるようなこんなイノベーションをしたとか、そういう業績があれば評価されるべきでしょう。しかしそういうものがない大多数の学校で教育を受けてきただけの学生であれば学歴自体がその学生の業績になるんじゃないですか?そうでしょう?
茂木さんが学歴に異を発することに僕は納得がいかない。茂木さんの著書には必ず著者紹介欄に東京大学理学部、法学部卒、東京大学大学院博士課程修了と書かれているじゃないですか。この経歴がどれだけ茂木さんの本の売れ行きを左右していることか。どれだけ茂木さんの発言の説得力を保障しているか。茂木さんはご存じのはずです。学歴を否定することは、茂木さんが社会に認められている理由を否定することになる。つまり学歴は茂木さんの弁慶の泣き所なわけです。それが気に食わないから茂木さんがしきりに学歴社会を否定するのは目に見えています。自分を不自由にする要素はできる限り消してしまいたいと思うのは理解できます。けれど、学歴権威主義を茂木さんが否定するというのは、あまりにも欺瞞を含んでいると思うのです。
やはり価値があるものはみな認めているわけで(認めているから価値があるわけで)、まだ社会から認められていないものから価値を見出すことには大きな創造力が必要だと思いますが、価値があるとされているものにあやかりたいと思うのは人類普遍の特徴だと思うのです。宗教なんて権威主義の最たるものじゃないですか?ですから大学であれば日本なら東京大学であるし、企業であれば社会に影響力をもっている大企業となるであろうし、職業そのものであれば人の寿命に関わる医者が偉くなるわけじゃないですか。
既存の価値をを否定したとしても、すぐに新たに価値を見出すことが必要とされて、新たな権威主義が顕れてくるに過ぎないわけです。権威を排除して全てフラットにした途端、新たな権威が必要とされるわけですよ。
東京大学の建屋がほったて小屋で良いわけがありません。権威を付加されているわけですから、壮大な建築物になるわけで、寺院だってそうじゃないですか。寺院がほったて小屋で、誰がお参りに来るんでしょうか?やはり権威のある物を人はあがめ、支えにして生きるんですよ。
逆にいえば、権威を付加されている対象は、それだけの期待や責任を負わなければならない。権威と責任は表裏一体の物です。人からあがめられるには、その期待にこたえねばならぬという義務が常に存在しているわけです。そういう意味で悪いものじゃないですよ。権威というのは。
採用が出身大学で決まるのは、悪い事じゃないと思います。例えば東京大学の学生は、それだけ期待されているわけで、それに応えなければならない。これはしんどいことですよ。
少なくとも大学生が企業に就職するのは学校の延長なわけじゃないですか。今の日本は少なくともそうですよね。誰もが学校を卒業し社会での何の業績もない無垢な状態で就職しますよね。ある意味、学生時代の成果として学歴があるんじゃないですか?それでしか評価しようがないじゃないですか?学歴以外でどうやって学生を評価できるんですか?たとえば、無名大学であっても、数学オリンピックで優勝したとか、こういう学会で賞をもらったとか、地域社会を変えるようなこんなイノベーションをしたとか、そういう業績があれば評価されるべきでしょう。しかしそういうものがない大多数の学校で教育を受けてきただけの学生であれば学歴自体がその学生の業績になるんじゃないですか?そうでしょう?
茂木さんが学歴に異を発することに僕は納得がいかない。茂木さんの著書には必ず著者紹介欄に東京大学理学部、法学部卒、東京大学大学院博士課程修了と書かれているじゃないですか。この経歴がどれだけ茂木さんの本の売れ行きを左右していることか。どれだけ茂木さんの発言の説得力を保障しているか。茂木さんはご存じのはずです。学歴を否定することは、茂木さんが社会に認められている理由を否定することになる。つまり学歴は茂木さんの弁慶の泣き所なわけです。それが気に食わないから茂木さんがしきりに学歴社会を否定するのは目に見えています。自分を不自由にする要素はできる限り消してしまいたいと思うのは理解できます。けれど、学歴権威主義を茂木さんが否定するというのは、あまりにも欺瞞を含んでいると思うのです。
NO.72011-09-25 13:16:58 thnkks0304 0
相手がどういった人か判断する際に必要となる感性が鈍化しているため、学歴というわかりやすい判断指標が濫用されていることが今の世の中の問題だと思います。
学歴というものさしで相手を判断することによって、自分の心の中で安心し納得する部分があり、また同時に世間一般で学歴が相手を計るものさしとして標準化しているため、周囲のひとたちも自分の判断を納得してくれます。
相手を学歴や他のあらゆる指標を使用しないで、評価しようとした場合、様々な教養や、自分が過去にどれだけ多様な人たちと出会い、対話してきたのかという経験などが必要となります。企業の人事担当者に人を評価する上で必要となる感性、教養、経験などを持った人がどれだけいるのか、おそらくそう多くはないと思います。(私は企業に勤めていないので、人事担当者がどう人たちかわかりませんが。)
そうなると、自分がこれから同じ会社で働く、または大学で学生を選抜する際に、優秀な人材を自分の感性で見抜くことができるという自信を持つことができず、不安になります。不安な部分を埋め合わせるために学歴が頼られていると思います。
そのため、人を評価する際に必要となる感性というものを磨いていくことが必要となります。様々なことを学び、考え、人と会い、対話する。そういった経験が感性に磨きがかかり、相手と対話するだけで、相手がどういった人か判断できると思います。
竹内健太(kentatakeuchi)
学歴というものさしで相手を判断することによって、自分の心の中で安心し納得する部分があり、また同時に世間一般で学歴が相手を計るものさしとして標準化しているため、周囲のひとたちも自分の判断を納得してくれます。
相手を学歴や他のあらゆる指標を使用しないで、評価しようとした場合、様々な教養や、自分が過去にどれだけ多様な人たちと出会い、対話してきたのかという経験などが必要となります。企業の人事担当者に人を評価する上で必要となる感性、教養、経験などを持った人がどれだけいるのか、おそらくそう多くはないと思います。(私は企業に勤めていないので、人事担当者がどう人たちかわかりませんが。)
そうなると、自分がこれから同じ会社で働く、または大学で学生を選抜する際に、優秀な人材を自分の感性で見抜くことができるという自信を持つことができず、不安になります。不安な部分を埋め合わせるために学歴が頼られていると思います。
そのため、人を評価する際に必要となる感性というものを磨いていくことが必要となります。様々なことを学び、考え、人と会い、対話する。そういった経験が感性に磨きがかかり、相手と対話するだけで、相手がどういった人か判断できると思います。
竹内健太(kentatakeuchi)
NO.62011-09-25 13:06:16 seikunchi 0
結論から言うと、この問いとしての意味での「学歴」は、必要ない、と思います。
学歴とはその人の“学んできた歴史”であり、それ以上の意味はないと思います。
日本の大学では、よっぽど授業出席をさぼって単位を落とすかしない限りは卒業できてしまいます(代返という技を使えば実際に本人が出席してなくても出席扱いになる)。さきほど、“学んできた歴史”と言いましたが、卒業するのが簡単なので、真剣に深く学んできた者とそうでない者との差に相当開きがあります。しかし、両者が同じ大学・学部・学科であれば、履歴書には同じ表記になります。これでは意味がありません。
なので僕の親世代などは、“いい学校を出れば(入れば)いい会社に就職できる”という古い世間の実態を知っているので、“何を深く学んできた・学びたい”という中身ではなく、“どこの学校を出たか・どれだけ大きい会社に入ったか”などの外側の部分にばかり目が行ってしまいます。これでは中身が良くなるはずがありません。「限られたパイのおいしい部分は自分が手に入れる」というレベルで話していること自体が情けないです。
そもそも、“いい学校を出れば(入れば)いい会社に就職できる”、の何をもって“いい”とするのか僕には全く理解できません。“いい”というのは人それぞれ違うはずです。それぞれが考える“いい”、をなりふり構わずそれぞれが情熱を持ってその“いい”を深く追求していけばいい。そしてWin-Winの作用でそれぞれの“いい”を共有していけばいい。“いい”の意味を世間的に画一化するのはやめてもらいたい。同じ理由で“勝ち組負け組”も理解できません。
世の中はいろんなことに関してとかく整理しようと思って区分したがりますが、ある意味では便利ですが危険だと思います。自分は今まで深く音楽を学び、演奏法を学び、作曲法を学び、活動しています。しかし、「音楽活動をしている」と言うと、鼻で笑われることが多々あります。この鼻笑には「まだそんなことをしているのか」という意味が含まれているのは明らかです。これは音楽を真剣に学んでいる者に対して失礼千万です。学校では音楽は特殊扱いです。つまり軽く見られています。芸術科目の授業数は減らされ、5教科は強化されています。まるで5教科以外は学問ではない、と言わんばかりに。
今の学校教育は結局、入試に向けた詰め込み式丸暗記方式。学問の本当の面白さなんてほとんど分からない。もっと実社会にリンクした教え方にすればいいのに、と前から思っていました。例えば、「車のこのパーツ設計にはこの物理計算式が使われている」とか、「この映画の台詞で面白い英文がある」とか、「この数学の公式はなぜ生まれる必要があったのか」とか、「みんなが見てる液晶テレビの“液晶”という物質はこんな化学式で構成されている」など。本当の学問の楽しさってそういうところにあるんじゃないかな。それが本当の教育なんじゃないかな。「この勉強が社会に何の役に立つの?」って結構前から言われてて、おそらくみんな感じてることだと思うけど、いつまでたっても授業の仕方は変わらない。ただ入試に必要だからやっている勉強なんてつまらないでしょ。社会でこういうことに役立つから、とか、こういうことに必要だから、という学問の根本動機と結び付かないと自主性は生まれないし、頭に入っていかない。
何かに興味を持ち、そこから深く学びたい、と思うタイミングは人によって違うと思う。きっかけはいつ現れるかわからない。小学校からの人もいれば、社会に出て何年もたってという人もいれば、60過ぎてからという人もいれば。始めるなら早い方がいいとは思うけど、何かを始めるのに年齢は関係ない。高校2年時で全員画一的に「何かを目指せ」という方が無理があると思う。
大切なのは“今”と“これから”だと思う。人間性も含めて今まで学んできたことによって、何のことについて知り、今どういう能力があり、今何に情熱を持って、これから何をしていきたいのか。人を統計のようなものさしで見るのではなく、個人個人をじっくり見てほしい。統計というものがあったとしても個人レベルでは結局みんな違うんだから。
そういう“学歴”はすごく意味があると思います。
混沌としている世の中に過剰にメスを入れ下手に整理するのではなく、(事柄にもよるとは思うけど)混沌としているものはある程度混沌としたままで、その中から1つを引き出していくような(アプリで言うところのEvernote的な)考え方が良いと思います。
学歴とはその人の“学んできた歴史”であり、それ以上の意味はないと思います。
日本の大学では、よっぽど授業出席をさぼって単位を落とすかしない限りは卒業できてしまいます(代返という技を使えば実際に本人が出席してなくても出席扱いになる)。さきほど、“学んできた歴史”と言いましたが、卒業するのが簡単なので、真剣に深く学んできた者とそうでない者との差に相当開きがあります。しかし、両者が同じ大学・学部・学科であれば、履歴書には同じ表記になります。これでは意味がありません。
なので僕の親世代などは、“いい学校を出れば(入れば)いい会社に就職できる”という古い世間の実態を知っているので、“何を深く学んできた・学びたい”という中身ではなく、“どこの学校を出たか・どれだけ大きい会社に入ったか”などの外側の部分にばかり目が行ってしまいます。これでは中身が良くなるはずがありません。「限られたパイのおいしい部分は自分が手に入れる」というレベルで話していること自体が情けないです。
そもそも、“いい学校を出れば(入れば)いい会社に就職できる”、の何をもって“いい”とするのか僕には全く理解できません。“いい”というのは人それぞれ違うはずです。それぞれが考える“いい”、をなりふり構わずそれぞれが情熱を持ってその“いい”を深く追求していけばいい。そしてWin-Winの作用でそれぞれの“いい”を共有していけばいい。“いい”の意味を世間的に画一化するのはやめてもらいたい。同じ理由で“勝ち組負け組”も理解できません。
世の中はいろんなことに関してとかく整理しようと思って区分したがりますが、ある意味では便利ですが危険だと思います。自分は今まで深く音楽を学び、演奏法を学び、作曲法を学び、活動しています。しかし、「音楽活動をしている」と言うと、鼻で笑われることが多々あります。この鼻笑には「まだそんなことをしているのか」という意味が含まれているのは明らかです。これは音楽を真剣に学んでいる者に対して失礼千万です。学校では音楽は特殊扱いです。つまり軽く見られています。芸術科目の授業数は減らされ、5教科は強化されています。まるで5教科以外は学問ではない、と言わんばかりに。
今の学校教育は結局、入試に向けた詰め込み式丸暗記方式。学問の本当の面白さなんてほとんど分からない。もっと実社会にリンクした教え方にすればいいのに、と前から思っていました。例えば、「車のこのパーツ設計にはこの物理計算式が使われている」とか、「この映画の台詞で面白い英文がある」とか、「この数学の公式はなぜ生まれる必要があったのか」とか、「みんなが見てる液晶テレビの“液晶”という物質はこんな化学式で構成されている」など。本当の学問の楽しさってそういうところにあるんじゃないかな。それが本当の教育なんじゃないかな。「この勉強が社会に何の役に立つの?」って結構前から言われてて、おそらくみんな感じてることだと思うけど、いつまでたっても授業の仕方は変わらない。ただ入試に必要だからやっている勉強なんてつまらないでしょ。社会でこういうことに役立つから、とか、こういうことに必要だから、という学問の根本動機と結び付かないと自主性は生まれないし、頭に入っていかない。
何かに興味を持ち、そこから深く学びたい、と思うタイミングは人によって違うと思う。きっかけはいつ現れるかわからない。小学校からの人もいれば、社会に出て何年もたってという人もいれば、60過ぎてからという人もいれば。始めるなら早い方がいいとは思うけど、何かを始めるのに年齢は関係ない。高校2年時で全員画一的に「何かを目指せ」という方が無理があると思う。
大切なのは“今”と“これから”だと思う。人間性も含めて今まで学んできたことによって、何のことについて知り、今どういう能力があり、今何に情熱を持って、これから何をしていきたいのか。人を統計のようなものさしで見るのではなく、個人個人をじっくり見てほしい。統計というものがあったとしても個人レベルでは結局みんな違うんだから。
そういう“学歴”はすごく意味があると思います。
混沌としている世の中に過剰にメスを入れ下手に整理するのではなく、(事柄にもよるとは思うけど)混沌としているものはある程度混沌としたままで、その中から1つを引き出していくような(アプリで言うところのEvernote的な)考え方が良いと思います。
NO.52011-09-25 10:11:14 LAMPRIGERA 0
おはようございます。久々の投稿です。
先週興味深いブログ記事を知ったので、まずはその紹介をさせて頂きたいと思います。今回のテーマとも深く関連していると思います。夜間飛行規定には投稿にリンクを貼ることに関する決まりはないようでしたが(?)、不適切であれば削除して下さい。
http://moritagen.blogspot.com/2009/01/blog-post_16.html
記事自体は小山龍介さんのtwitter上の紹介で知りました。本来なら要約でも付けるべきなのでしょうが、面白い記事だったので読んでみて下さい。YouTubeの動画付きで紹介されています。
---------------
この記事は、経歴や形になった実績などのわかりやすい「指標」がないときに、人がいかに物事の真価のようなものを自分で判断できないのか、ということを浮き彫りにしていると思います。
今回のテーマで問題にしている学歴というのは、人がある人を評価するときの「指標としての学歴」のことであるように思います。
そして、学歴のような指標が、なぜ時として非常に重視されるかというと、ラベルなしに実力を判断しようとする人があまりにも少ないからだと思います。
絵画の世界もまた同じような状況があるようで、今度はこのことに関連した岡本太郎の文章を引用させて下さい(岡本太郎著『自分の中に毒を持て』より)。
「…ぼくは多くの人の鑑賞の仕方が不純に思えてならない。
たとえば、作品の前に立って、それを直接見とどける前に、まずこれはいったい誰の作かということを気にする。有名な巨匠の作品、ゴッホでもピカソでもいい、そんな偉い人のだとわかると、とたんに「なるほど、やっぱりいいですね。さすがは」などと口先で感嘆してしまう。…
それらの作品を自分の生きる責任において、じっと見つめてごらんなさい。直接自分の実力、精神力で、内に秘めたものをバトン・タッチすれば、決してただ結構だったり、楽しく、気持ちのよいものではないはずだ。…」
僕は、「人間をみる」ときにも同じような態度で見ることが重要なのだと思います。
---------------
学歴は、「人間をみる」際によく用いられる指標の一つです。不当なことだとは思いますが、ただ学歴主義的なことを批判するのはあまり意味があるとは思えません。
重要なのは、一人一人が人間をみる際に自分の「実力でみる」ことだと思います。実力でみるということをせずに、学歴主義を排除するだけなら、今度はそれを補填する別の指標が必要になってくるだけです。そして学歴に似た代替物(IQ+αとか?)が考案され、今度はそれが重要視されるようになるでしょう。
これとは反対に、もしある人が自分の実力でみることを実践し、その実践をとおして眼力を磨くなら、少なくともその人のなかで学歴主義は完全になくなります。誰もが自分の実際の行動・言動を介して、他人に影響を与えながら生きています。だから「実力で見る人」が社会の中に増え、影響力を増していけば、学歴主義だって自然に消滅していくかもしれません。
---------------
*現段階で深く触れることは困難ですが、「指標(ラベル)でみる」ということは、一つの計測可能な要素を過大に評価しているということだと思います。それに対して、「実力でみる」という見方は、もっと包括的に色んな要素を同時に見ようとする見方であるように思えます。なぜそう言えそうなのか上手く説明できませんが…。
先週興味深いブログ記事を知ったので、まずはその紹介をさせて頂きたいと思います。今回のテーマとも深く関連していると思います。夜間飛行規定には投稿にリンクを貼ることに関する決まりはないようでしたが(?)、不適切であれば削除して下さい。
http://moritagen.blogspot.com/2009/01/blog-post_16.html
記事自体は小山龍介さんのtwitter上の紹介で知りました。本来なら要約でも付けるべきなのでしょうが、面白い記事だったので読んでみて下さい。YouTubeの動画付きで紹介されています。
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この記事は、経歴や形になった実績などのわかりやすい「指標」がないときに、人がいかに物事の真価のようなものを自分で判断できないのか、ということを浮き彫りにしていると思います。
今回のテーマで問題にしている学歴というのは、人がある人を評価するときの「指標としての学歴」のことであるように思います。
そして、学歴のような指標が、なぜ時として非常に重視されるかというと、ラベルなしに実力を判断しようとする人があまりにも少ないからだと思います。
絵画の世界もまた同じような状況があるようで、今度はこのことに関連した岡本太郎の文章を引用させて下さい(岡本太郎著『自分の中に毒を持て』より)。
「…ぼくは多くの人の鑑賞の仕方が不純に思えてならない。
たとえば、作品の前に立って、それを直接見とどける前に、まずこれはいったい誰の作かということを気にする。有名な巨匠の作品、ゴッホでもピカソでもいい、そんな偉い人のだとわかると、とたんに「なるほど、やっぱりいいですね。さすがは」などと口先で感嘆してしまう。…
それらの作品を自分の生きる責任において、じっと見つめてごらんなさい。直接自分の実力、精神力で、内に秘めたものをバトン・タッチすれば、決してただ結構だったり、楽しく、気持ちのよいものではないはずだ。…」
僕は、「人間をみる」ときにも同じような態度で見ることが重要なのだと思います。
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学歴は、「人間をみる」際によく用いられる指標の一つです。不当なことだとは思いますが、ただ学歴主義的なことを批判するのはあまり意味があるとは思えません。
重要なのは、一人一人が人間をみる際に自分の「実力でみる」ことだと思います。実力でみるということをせずに、学歴主義を排除するだけなら、今度はそれを補填する別の指標が必要になってくるだけです。そして学歴に似た代替物(IQ+αとか?)が考案され、今度はそれが重要視されるようになるでしょう。
これとは反対に、もしある人が自分の実力でみることを実践し、その実践をとおして眼力を磨くなら、少なくともその人のなかで学歴主義は完全になくなります。誰もが自分の実際の行動・言動を介して、他人に影響を与えながら生きています。だから「実力で見る人」が社会の中に増え、影響力を増していけば、学歴主義だって自然に消滅していくかもしれません。
---------------
*現段階で深く触れることは困難ですが、「指標(ラベル)でみる」ということは、一つの計測可能な要素を過大に評価しているということだと思います。それに対して、「実力でみる」という見方は、もっと包括的に色んな要素を同時に見ようとする見方であるように思えます。なぜそう言えそうなのか上手く説明できませんが…。
NO.42011-09-25 03:56:10 minami2006 0
無形の大学
一般に、物事は、いろいろな現象や事物の膨大な蓄積である。
人間とは関係あってもなくても、それはそこに存在するものである。
その物事を人間が記述し、表現し、記録し、他者または後世に伝える段階で、それは、データとなり、現象や事件、出来事として表現され、他の側面を捨象されて、一定の特色、特徴、あらましだけを、記録され、順々に伝えられてゆく。
そうした記録の積み重ねから、経験的に、あるいは、帰納法的に、理論が生まれ、法則と成り、法則や理論、仮説となったものが、現実によって検証されて、徐々に洗練されて、より確からしくなって、定説となる。
また、デカルト的に、「われ思う、ゆえに、われ有り」から始まって、合理論的に演繹されて、帰納法による法則、理論の抽出、発見とあいまって、科学と成り、人間の世界観をも形成する。
人間の知見もそうした有史以来の蓄積と発見があって、文化・文明を形成し、現代の社会を成り立たせてきた。
人間の世界は、そうした一定の確からしさを確認された知識や定理、法則、経験則の蓄積によって動いている。道徳や法律も、人間社会の活動を円滑ならしめて、無用な紛争を円満に抑止し、解決するためにある。
教育とは、そうした知識や情報、道徳、法則を徐々に子供が成長するに従って段階的に教え込み、次世代に伝えてゆく、営々と続く人間の活動である。
その教育の頂点としての高等教育機関である大学や大学院は、日進月歩の速さで拡大する人間の知識の地平を検証し、記録し、発見者から大勢の他者に伝えてゆく試みである。
よって、知識・知見の発見・拡大・記録・検証・伝達が上手くできるならば、大学や大学院などという形式にこだわる事は、ないのである。
ましてや、大学が有名かどうか、偏差値が高いかどうかなどといった事は、効率的な知識や知見の発見・記録・伝達が出来るかどうか、ということについての結果、評価であり、より効率の良い教育が出来るならば、銘柄大学に入学し、卒業したかどうか、といったことは、二次的な事に過ぎない。
つまり、大学・大学院でなくとも、同等の知識獲得や経験が出来るならば、別の知識・経験の獲得方法でも、構わないのである。
よって、特に文系の学問で言える事だが、書物やネット、実社会で同等の知識・経験・知見を得られるならば、それは、既存の大学と同等の価値のある「無形の大学」と言えるのである。
人生は、どれだけの知識や経験を積んで、他者に有益な価値を提供できるか、どれだけ、人の役に立つ人間になれるか、人に迷惑をかけないか、といった事で、決まる事が多いと私は思う。
だから、銘柄大学出身はおろか、院卒か、大卒か、高卒か、中卒か、といった学歴によって直ちに人間の価値を決めるのは、ナンセンスである。
モノをいうのは、社会に出てから役に立つ能力や経験、知識であり、決して学歴だけで人間の価値が決まる事はないのである。
また、近年は、中国やインドなど、BRICsやVISTA、G20諸国の追い上げ、追い越し、バブルもある。
大学の現役学生には、上記の事を踏まえて、少子高齢化する日本、「老いるアジア」(小峰隆夫)、ネットで「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)、中東やTPPなどで塗り変わりつつある世界情勢、日進月歩のITなどの技術革新を念頭に、「マーケティング3.0」(フィリップ・コトラー)によって、しっかりと社会及び一体化しつつある世界のニーズを把握して、心して、勉学と人格形成、内外の知人・友人との交流に励んで欲しい。
一般に、物事は、いろいろな現象や事物の膨大な蓄積である。
人間とは関係あってもなくても、それはそこに存在するものである。
その物事を人間が記述し、表現し、記録し、他者または後世に伝える段階で、それは、データとなり、現象や事件、出来事として表現され、他の側面を捨象されて、一定の特色、特徴、あらましだけを、記録され、順々に伝えられてゆく。
そうした記録の積み重ねから、経験的に、あるいは、帰納法的に、理論が生まれ、法則と成り、法則や理論、仮説となったものが、現実によって検証されて、徐々に洗練されて、より確からしくなって、定説となる。
また、デカルト的に、「われ思う、ゆえに、われ有り」から始まって、合理論的に演繹されて、帰納法による法則、理論の抽出、発見とあいまって、科学と成り、人間の世界観をも形成する。
人間の知見もそうした有史以来の蓄積と発見があって、文化・文明を形成し、現代の社会を成り立たせてきた。
人間の世界は、そうした一定の確からしさを確認された知識や定理、法則、経験則の蓄積によって動いている。道徳や法律も、人間社会の活動を円滑ならしめて、無用な紛争を円満に抑止し、解決するためにある。
教育とは、そうした知識や情報、道徳、法則を徐々に子供が成長するに従って段階的に教え込み、次世代に伝えてゆく、営々と続く人間の活動である。
その教育の頂点としての高等教育機関である大学や大学院は、日進月歩の速さで拡大する人間の知識の地平を検証し、記録し、発見者から大勢の他者に伝えてゆく試みである。
よって、知識・知見の発見・拡大・記録・検証・伝達が上手くできるならば、大学や大学院などという形式にこだわる事は、ないのである。
ましてや、大学が有名かどうか、偏差値が高いかどうかなどといった事は、効率的な知識や知見の発見・記録・伝達が出来るかどうか、ということについての結果、評価であり、より効率の良い教育が出来るならば、銘柄大学に入学し、卒業したかどうか、といったことは、二次的な事に過ぎない。
つまり、大学・大学院でなくとも、同等の知識獲得や経験が出来るならば、別の知識・経験の獲得方法でも、構わないのである。
よって、特に文系の学問で言える事だが、書物やネット、実社会で同等の知識・経験・知見を得られるならば、それは、既存の大学と同等の価値のある「無形の大学」と言えるのである。
人生は、どれだけの知識や経験を積んで、他者に有益な価値を提供できるか、どれだけ、人の役に立つ人間になれるか、人に迷惑をかけないか、といった事で、決まる事が多いと私は思う。
だから、銘柄大学出身はおろか、院卒か、大卒か、高卒か、中卒か、といった学歴によって直ちに人間の価値を決めるのは、ナンセンスである。
モノをいうのは、社会に出てから役に立つ能力や経験、知識であり、決して学歴だけで人間の価値が決まる事はないのである。
また、近年は、中国やインドなど、BRICsやVISTA、G20諸国の追い上げ、追い越し、バブルもある。
大学の現役学生には、上記の事を踏まえて、少子高齢化する日本、「老いるアジア」(小峰隆夫)、ネットで「フラット化する世界」(トーマス・フリードマン)、中東やTPPなどで塗り変わりつつある世界情勢、日進月歩のITなどの技術革新を念頭に、「マーケティング3.0」(フィリップ・コトラー)によって、しっかりと社会及び一体化しつつある世界のニーズを把握して、心して、勉学と人格形成、内外の知人・友人との交流に励んで欲しい。
NO.32011-09-25 00:49:07 cyoito 0
学歴など無用と低学歴では言えず。
NO.22011-09-20 18:39:57 chigusaotsuki 0
学歴とは、何か、私なりの経験で、言わせてください。
今日、TOEIC 試験の、模試を、受けてきました。
3年前のスコアは、490点でした。
今日の模試では、535~640点まで、点数が、上がりました。
点数は、さておき、これって、すごいことなんです。
1つは、「加齢とともに、脳は、老化して、特に、勉強する能力が落ちる」 という仮説が、間違っていることを、証明できたことです。
私は、36歳です。
それでも、20歳の頃より、テストの点数は、まだまだ、伸びているのです。
もう1つは、私は、10年前から、統合失調症で、精神障害者なのですが、精神障害になる前より、精神障害に、なった後の方が、テストの点数が、飛躍的に、伸びたことです。
私が、言いたいのは、障害になってしまったら、そこで、終わってしまう、ということでは、ないと、いうことです。
障害を、持ってしまっても、どんどん、先に進むことができる。 決して、終わりじゃない。
あきらめてしまうことが、一番、もったいないです。
そして、私にとっては、これらのことが、私の学歴なのです。
どこの学校を、入学した、とか、卒業した、ということではなくて、人生に添うように、学歴は、ついてきてくれます。
現時点から、過去を振り返れば、学歴は、今までの学びの道筋を、教えてくれます。
そして、現時点から、将来に向かって、どのような学びがしたいのか、今の自分を、把握することで、これからの学びが、見えてきます。
そういう意味の中で、今日の、TOEICの模試で、私は、非常によい経験をしたのだと、思います。
今日、TOEIC 試験の、模試を、受けてきました。
3年前のスコアは、490点でした。
今日の模試では、535~640点まで、点数が、上がりました。
点数は、さておき、これって、すごいことなんです。
1つは、「加齢とともに、脳は、老化して、特に、勉強する能力が落ちる」 という仮説が、間違っていることを、証明できたことです。
私は、36歳です。
それでも、20歳の頃より、テストの点数は、まだまだ、伸びているのです。
もう1つは、私は、10年前から、統合失調症で、精神障害者なのですが、精神障害になる前より、精神障害に、なった後の方が、テストの点数が、飛躍的に、伸びたことです。
私が、言いたいのは、障害になってしまったら、そこで、終わってしまう、ということでは、ないと、いうことです。
障害を、持ってしまっても、どんどん、先に進むことができる。 決して、終わりじゃない。
あきらめてしまうことが、一番、もったいないです。
そして、私にとっては、これらのことが、私の学歴なのです。
どこの学校を、入学した、とか、卒業した、ということではなくて、人生に添うように、学歴は、ついてきてくれます。
現時点から、過去を振り返れば、学歴は、今までの学びの道筋を、教えてくれます。
そして、現時点から、将来に向かって、どのような学びがしたいのか、今の自分を、把握することで、これからの学びが、見えてきます。
そういう意味の中で、今日の、TOEICの模試で、私は、非常によい経験をしたのだと、思います。
NO.12011-09-20 13:36:55 ryosuke85 0
学歴
解せないので必要ない。
それが僕の結論です。良く分からんのです。
それを必要としたことが無いというのが一番なのですが、
学歴で人を好きとか嫌いになったことが無い、という事が前提にある気がします。
確かに、僕みたいな在野の人間は東京大学だなんて大それた場所へ
行こうともしていなかったし、行きたい場所では無かったのです。
けど、悲しいかな小さいころの記憶を探ってみると、
自分の親父から『いっぱい勉強して国立大学目指せよ』みたいなことを
冗談交じりで言われていたことを思い出しました。
特に東京大学の名前は本当にすごい所なんだというプレゼンを受けていたので
年齢を重ねていく内に、それが僕の根底にずっと存在して続けていたのは
事実です。
けど、そんな親父に僕が『じゃーいく。』というと、一笑しながら『無理だよ。』
という始末。『どっちなんだよ』と小さいながらも思ったことも思い出しました。
そんな小さい僕が抱いたのは、自分の親父がどこを出ていようが僕は親父が好き
だった、という事です。もちろん、“学歴の価値”が全く持って分からない状況で
あったにしろ、小さい僕にはそんなもの何にも関係のない事でした。
何より、僕の親父は工業高校出身のそば屋で、店の自慢料理はカツ丼です。
学歴なんて何にも関係ないじゃないですか。
歴史の教科書を読み返してみると、学歴の前は家柄だったようで。
自分の生まれた家の位によって自分の人生が決まるとは無情にも程がありますね。
それを考えると学歴になっただけまだマシなのでしょうか。
けど、将来、「士農工商」みたいな形で「学歴社会」なんて載りそうですが…。
結局、人は差別が好きなのでしょうか。
人との差を作りたい。人よりも前でスタートしたい人がそういったプロセス差別を
作り上げたようにも思えます。
歌劇や舞台演劇、TVドラマで「身分の違い」に焦点をあてられて作られているものが
その無情感を訴えています。
けど、実際に触れてみたら身分だなんてどうでもいい。
それは学歴でも一緒で、学歴に関係なく、好ましい人は好ましいですよね。
大企業で、一人一人と触れている時間を“作ろうとしない”所は、それで評価する
しかないのでしょうが、僕みたいに触れることでしかその人を判断できない人間は、
学歴なんて関係ないです。
そんな事を言っていたら人と会えなくなってしまいます。
これと同じ議論って資格取得にも言えることですか?
無論、仕事をする上で必要な資格は、それが必要である以上とる必要があると
思うのですが、資格取得を必ずしも善とする向きは解せません。
これと並列で述べていいのであれば、資格はそれを取りたい人が取るもので、
僕の観点から言えば学歴もそれと一緒です。
その学校に行きたいから言葉は悪いかも知れませんが“勝手に”行っただけであって、
それで凄いとか凄くないとか
偉いとか偉くないとか
賢いとか賢くないとか
出来るとか出来ないとか
カッコいいとか悪いとか
いいやつかそうでないかとか
そんなもの関係ない。
それは学歴で規定出来るものでは無い事だし、あくまでその人の人生のプロセスの一つ。
小話程度にならいいかも知れないけど、それ以上は必要ない。
よって僕の中の結論。
解せないから必要ない。
根本的にそれが好きな人たちはずっとそれを言い続けるんでしょうし、
それは否定しません。
否定したところで、それしか他に生きてきた世界がないのですから、
理解しがたいと思うのです。
ただ、それがすべてでは無い、という事を理解して貰えるように意見していく所存です。
解せないので必要ない。
それが僕の結論です。良く分からんのです。
それを必要としたことが無いというのが一番なのですが、
学歴で人を好きとか嫌いになったことが無い、という事が前提にある気がします。
確かに、僕みたいな在野の人間は東京大学だなんて大それた場所へ
行こうともしていなかったし、行きたい場所では無かったのです。
けど、悲しいかな小さいころの記憶を探ってみると、
自分の親父から『いっぱい勉強して国立大学目指せよ』みたいなことを
冗談交じりで言われていたことを思い出しました。
特に東京大学の名前は本当にすごい所なんだというプレゼンを受けていたので
年齢を重ねていく内に、それが僕の根底にずっと存在して続けていたのは
事実です。
けど、そんな親父に僕が『じゃーいく。』というと、一笑しながら『無理だよ。』
という始末。『どっちなんだよ』と小さいながらも思ったことも思い出しました。
そんな小さい僕が抱いたのは、自分の親父がどこを出ていようが僕は親父が好き
だった、という事です。もちろん、“学歴の価値”が全く持って分からない状況で
あったにしろ、小さい僕にはそんなもの何にも関係のない事でした。
何より、僕の親父は工業高校出身のそば屋で、店の自慢料理はカツ丼です。
学歴なんて何にも関係ないじゃないですか。
歴史の教科書を読み返してみると、学歴の前は家柄だったようで。
自分の生まれた家の位によって自分の人生が決まるとは無情にも程がありますね。
それを考えると学歴になっただけまだマシなのでしょうか。
けど、将来、「士農工商」みたいな形で「学歴社会」なんて載りそうですが…。
結局、人は差別が好きなのでしょうか。
人との差を作りたい。人よりも前でスタートしたい人がそういったプロセス差別を
作り上げたようにも思えます。
歌劇や舞台演劇、TVドラマで「身分の違い」に焦点をあてられて作られているものが
その無情感を訴えています。
けど、実際に触れてみたら身分だなんてどうでもいい。
それは学歴でも一緒で、学歴に関係なく、好ましい人は好ましいですよね。
大企業で、一人一人と触れている時間を“作ろうとしない”所は、それで評価する
しかないのでしょうが、僕みたいに触れることでしかその人を判断できない人間は、
学歴なんて関係ないです。
そんな事を言っていたら人と会えなくなってしまいます。
これと同じ議論って資格取得にも言えることですか?
無論、仕事をする上で必要な資格は、それが必要である以上とる必要があると
思うのですが、資格取得を必ずしも善とする向きは解せません。
これと並列で述べていいのであれば、資格はそれを取りたい人が取るもので、
僕の観点から言えば学歴もそれと一緒です。
その学校に行きたいから言葉は悪いかも知れませんが“勝手に”行っただけであって、
それで凄いとか凄くないとか
偉いとか偉くないとか
賢いとか賢くないとか
出来るとか出来ないとか
カッコいいとか悪いとか
いいやつかそうでないかとか
そんなもの関係ない。
それは学歴で規定出来るものでは無い事だし、あくまでその人の人生のプロセスの一つ。
小話程度にならいいかも知れないけど、それ以上は必要ない。
よって僕の中の結論。
解せないから必要ない。
根本的にそれが好きな人たちはずっとそれを言い続けるんでしょうし、
それは否定しません。
否定したところで、それしか他に生きてきた世界がないのですから、
理解しがたいと思うのです。
ただ、それがすべてでは無い、という事を理解して貰えるように意見していく所存です。