「子どもとの付き合い方」について考える
これからの日本を考える上で、絶対に無視できない要素は、少子高齢化です。これは人口動態から考えて、非常に深刻な問題になることはほぼ確実でしょう。では、そういう時代において、我々は「子ども」とどのように付き合っていけば良いのでしょうか。
少子高齢化社会においては、子どもの重要性が相対的に高まるとも言えます。しかしだからと言って、腫れ物に触るようにしていては、子どもの社会化に問題が起きてきます。実際、イジメの問題も、子どもに対して社会の側が積極的に働きかけることができていないことも影響している気がします。
21世紀の日本は、「子ども」とどのように付き合っていけば良いのか。ご意見お待ちしております。
NO.242012-10-01 03:51:02 draw_spine 5
NO.13のdraw_spineです。NO.19の茂木さんのコメントに対し、微妙に反論を試みます。
子どもの成長は大人が制御できない・するべきでないという点はまったくその通りだと思すが、それぞれの関係性については疑問を感じました。
すっかり大人に成りきってしまうと時間感覚も肌感覚も子供とはあまり共感できない(爺ちゃん婆ちゃんはこの辺り本当にフレキシブルで凄い)ので、確かに子供同士の付き合いの方が色々と実りも多いでしょう。
ただ、そこに対等の関係を望むか否かは本人同士が判断するなり感じ取るなり、出来るようになって欲しい部分であって、「どうすれば対等になれるか」とか「ゆとりを持とう・与えよう」という発想は、幾分ナンセンスだと思うのです。
例えば今まで”子供同士の関係”などと一括りに考えてきましたが、本当に子供同士が刺激し合い成長や実りを期待できる取り合わせは、「同年齢の男女混成グループ」でしょうか。多分、違うはずです。
恐らく、2~3歳くらい年の離れた同性同士、或いは、同じく3歳ほど年上の女子と若年の男子で作ったグループの方が、ずっと色々な刺激がありつつコミュニケーションにも支障が出にくいように思います。何よりこの状況なら、すこぶる主体性が発揮されやすい。
こうした場面を想定すると、子供同士でも対等な関係が望ましいとは言えなくなります。遊ぶにしろ学ぶにしろ、年長組がイニシアティブを放棄すればグループは迷走するし、若年組の思うままになればグループの体を成しません。
どこか体育会チックな例えですが、国や地域に関わらずこれは社会の要請として誰もがそう振る舞って欲しい、こういうお約束は守って欲しいと思えるような健全な指向性では無いでしょうか。
私は常々”科目ごとの飛び級制度”が欲しいと考えているので、年齢や男女比率が流動的なクラス編成に抵抗感がありません。しかし、上の例は別の観点から発想しています。
NO.13で述べた”子供の性質”は、なるべく依存関係や気遣いみたいな社会的制約を排除しながら考えた、私自身の私見であり場合分けの条件です。少なくとも、当初の目的は考えを明示することでした。
ところがいざ書き出してみると、なんとも情けなくなるくらい自分にも”子供の性質”が認められ、健全性や社会理念に照らし合わせてみると、大人が大人に成りきれていない実態がありありと浮かんできました。
幸か不幸か、社会的制約を排除していたので言い訳じみた事は書きたくても書けず、途中から”自覚の為の文章”にすり替えました。そうすることで”大人の自覚”ではなく、”子供っぽい自覚”にはっきりとした輪郭を与えた次第です。
こうして要素ごとに”子供の性質”がはっきりすると、自分自身の人格がちぐはぐと成熟部分・未成熟部分に塗り分けられ、モザイクみたいな様相を呈しているのが分かるので、人を年齢で区別することの無意味さをより強く実感できます。そして、社会的制約のある現実に戻ってくると大変な事態に気付くのです。
大人と子供の間には忽せにできない経済的・精神的な依存関係があり、その一部(or大半?)は非可逆の影響と言えそうです。子供同士の場合でも、友達付き合いには局所的な依存関係が伴い、良好な関係を保つには部分的なリスペクトが相互に求められます。(アイデアを拝借)
ところが実際のシステムの中では、依存関係や影響の可逆・非可逆性はあまり意識されず、また人格のモザイク様相もさっぱり無視されるので、外から「平衡状態」を与えられても子供同士は、右も左も分からぬまま対人関係の最適化を、随時全方位に対して行わなければならず、当然、衝突や失敗のリスクが高まります。
諍いやいがみ合いも経験の内と見做す向きもあるでしょうが、私にはそれが教育の怠慢と映ります。そこでカウンターとして考えたのが、上で示した”年齢差のあるグループ構成”です。寒村の小学校などをイメージすると分り易いでしょう。
年齢、性別、目的、習熟度など、グループ分けの条件には色々ありますが、どれにも言えることは管理者にとって都合の良い画一性が優先されていることです。これをちょっと恣意的に、子供の主体性を引き出す為に操作するのは不公平でしょうか。
不平等ではあります。しかし社会理念に照らして考えれば、公平性は逆に高まっている筈です。ひたすら管理は面倒そうですが、情報機器を駆使すればあとは知恵の使い様でしょう。そういうマニュアル化なら私は大歓迎です。
大事なことは、やっぱり主体性と自律の精神を引き出すことでしょう。これは教えても身に付くものではありません。グルーピングの範囲を広くとって時折ガラガラポンとやれば、上手くいくものとも思えません。
効率や特定の目的だけに留意して、管理する側に都合の良い選別・グルーピングなどを行なって作り上げた画一的な環境は、ごく短期的な作業集中に適したシステムです。(ここまで抽象化すれば、大人と子供の境界は溶けて無くなります)
もっと主体性や自律判断が必要ならば、多少の面倒臭さや短期的な成果は二の次にして、画一的な環境を崩してやる事が先決だと考えます。ただ範囲を広げるのではなく、ちゃんと計画性をもって色んな条件の人を寄せ集める形で。
こういった手法にはかなり高度な判断と計画性が求められるので、とても個人レベルでは実行できません。それこそ本来的に行政が計画を練って、広く一般に提供するべき教育システムでしょう。学問・学術方面はプロの意見を聞きたいところ。
保護者の負担を減らして、子供の心身の機微を見抜くという大変な役目を果たして貰うことも必要です。その為には手間や心配事を減らさなければならないし、何より教育システムが信頼できないと何をやっても上手くいきません。
まずは「発見・判断」を保護者に、「手段の選択・処置」は行政にと役割分担のルールを定めて、ごちゃごちゃで出口の見えない教育システムに、相互運用を通した信頼関係を結ばないと事態は好転しないと思います。
どんな方法を採るにせよ、今の(日本の)教育施策やその理論、大人の一般的な認識はまだまだ未熟であるという認識に立ち、もっと公平に、もっと向上心を持ってダイナミックに進化することが大前提となる筈です。
馴染みのない領分を扱ってきたので、なんだか頭が凝ってきました。TomoikukaiさんがNO.14で「神と私の一対一の契約」について触れておられたので、気分転換にちょっと言及させて頂きましょう。
とは言え私もプロテスタントの教義に少し心得があるだけなので、キリスト教全般のことは分かり兼ねます。軽く参考程度に読んで下さい。
Tomoikukaiさんのおっしゃる通り、「神との契約」はエゴと向き合う手段と言えますが、その精神はあくまで主体的な自律を目指すものです。
「神との契約」は割礼や宣誓などの際に確認するもので、個人が内なる”原罪”に打ち克つ決意をする「誓いのセレモニー」として、儀礼の中に盛り込まれます。聖書の上に手をかざして行う、米大統領の就任式典で見られるアレです。
変な話に聴こえるかも知れませんが、プロテスタントは7歳頃から常に自分の内にある”原罪”を意識するよう諭されるので、内なる罪に負けないよう手本として原罪を持たぬ神や聖霊、或いは原罪に打ち克ったメシアや聖人を心に思い浮かべて、セルフ暗示に努めます。
「父なる神、救い主、導き手、創造主、羊飼いetc...」と多くの呼び名が示す通り、神の存在は一言では言い表せない幅広い意味を持っています。しかし、そのどれをとっても神格は一人称であり、そこが一神教たる所以です。
なので(厳格な)プロテスタントには、「如来の目」のように自らの人格を客観視したり、或いは自身の内面を批判的に捉える視点は、”個”の同一性を疑問視する考え方として背徳的に映る場合があります。
なにせ、全能の神が一人称で「契約」を結べるような方ですから、同一性が無いとなればお互いに”責任”が持てないのです。
彼らの社会では「人は間違いを犯すもの」という認識が根本にあり、善行や悪行といった”結果”に対してはアグレッシブですが、”罪”は告白すべきもので、償いそれを赦すことなどが美徳とされます。(なので罪を探り出す行為自体が善行になります)
つまり償いにせよ奉仕にせよ、あけっぴろげに罪を認めてしまうことが、プロテスタントにとって誇りある行動なのです。
一歩下がって眺めてみると、みんなが勇者を目指しつつ、同じくらい勇者を称えたいと思える、そんな上手い構図になっています。
また、7歳未満の子供はみんな「聖霊に守られた存在」として、敬々しくもほったらかして育てるのが良いとする向きがあります。
面白いのは本当にほったらかしておきながら、子供には「貴方の頭の上には聖霊様がいる」と教えることで安心感を与え、自発的に行動する意欲と自信を持たせるのです。(でもやっぱり野放し、悩んだりしません)
ただでさえ怖いもの知らずの子供が自発的に行動しだすと色々問題も起こしますが、モノを壊そうが不法侵入しようが、7歳までは叱りつけて償わせれば”聖霊に免じて”お咎め無し、というルールが適用されます。(親は弁償の代わりに、相当のチップを置いていくのが一応のマナー)
子供同士の喧嘩も同様ですがこの場合は、「聖霊様はみんなに一人ずついて、貴方の暴力を止めようとした聖霊様は貴方を守って傷付いているし、貴方の暴力は相手と一緒にその聖霊様も傷付けた。」といったお説教をします。
ひどいようですが、これを聞かされるとほとんどの子供がショックを受けて泣き腫らすそうです。暗に自分の行為の重大さを感じとるからでしょう。そう、私は勝手に想像します。
そうすることで中には性格が一変してしまう子供もいるらしいですが、都合よく捉えればそれだけ効果が期待できるとも言えます。
一般にキリスト者の目指すところは依存や制約ではなく”自律”なので、こうしたダイレクトに心を責めるやり方で、彼らなりの社会通念を刷り込むのです。
重要なのは”神のもとの平等”という考え方が、公平さの基準になっていることでしょう。彼らの”公平さ”に比べると、日本の風習的な公平さは曖昧なために平和裏に解釈を変えられますが、頼りなくて貴べるものではありません。
また、長くなってしまいました。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
子どもの成長は大人が制御できない・するべきでないという点はまったくその通りだと思すが、それぞれの関係性については疑問を感じました。
すっかり大人に成りきってしまうと時間感覚も肌感覚も子供とはあまり共感できない(爺ちゃん婆ちゃんはこの辺り本当にフレキシブルで凄い)ので、確かに子供同士の付き合いの方が色々と実りも多いでしょう。
ただ、そこに対等の関係を望むか否かは本人同士が判断するなり感じ取るなり、出来るようになって欲しい部分であって、「どうすれば対等になれるか」とか「ゆとりを持とう・与えよう」という発想は、幾分ナンセンスだと思うのです。
例えば今まで”子供同士の関係”などと一括りに考えてきましたが、本当に子供同士が刺激し合い成長や実りを期待できる取り合わせは、「同年齢の男女混成グループ」でしょうか。多分、違うはずです。
恐らく、2~3歳くらい年の離れた同性同士、或いは、同じく3歳ほど年上の女子と若年の男子で作ったグループの方が、ずっと色々な刺激がありつつコミュニケーションにも支障が出にくいように思います。何よりこの状況なら、すこぶる主体性が発揮されやすい。
こうした場面を想定すると、子供同士でも対等な関係が望ましいとは言えなくなります。遊ぶにしろ学ぶにしろ、年長組がイニシアティブを放棄すればグループは迷走するし、若年組の思うままになればグループの体を成しません。
どこか体育会チックな例えですが、国や地域に関わらずこれは社会の要請として誰もがそう振る舞って欲しい、こういうお約束は守って欲しいと思えるような健全な指向性では無いでしょうか。
私は常々”科目ごとの飛び級制度”が欲しいと考えているので、年齢や男女比率が流動的なクラス編成に抵抗感がありません。しかし、上の例は別の観点から発想しています。
NO.13で述べた”子供の性質”は、なるべく依存関係や気遣いみたいな社会的制約を排除しながら考えた、私自身の私見であり場合分けの条件です。少なくとも、当初の目的は考えを明示することでした。
ところがいざ書き出してみると、なんとも情けなくなるくらい自分にも”子供の性質”が認められ、健全性や社会理念に照らし合わせてみると、大人が大人に成りきれていない実態がありありと浮かんできました。
幸か不幸か、社会的制約を排除していたので言い訳じみた事は書きたくても書けず、途中から”自覚の為の文章”にすり替えました。そうすることで”大人の自覚”ではなく、”子供っぽい自覚”にはっきりとした輪郭を与えた次第です。
こうして要素ごとに”子供の性質”がはっきりすると、自分自身の人格がちぐはぐと成熟部分・未成熟部分に塗り分けられ、モザイクみたいな様相を呈しているのが分かるので、人を年齢で区別することの無意味さをより強く実感できます。そして、社会的制約のある現実に戻ってくると大変な事態に気付くのです。
大人と子供の間には忽せにできない経済的・精神的な依存関係があり、その一部(or大半?)は非可逆の影響と言えそうです。子供同士の場合でも、友達付き合いには局所的な依存関係が伴い、良好な関係を保つには部分的なリスペクトが相互に求められます。(アイデアを拝借)
ところが実際のシステムの中では、依存関係や影響の可逆・非可逆性はあまり意識されず、また人格のモザイク様相もさっぱり無視されるので、外から「平衡状態」を与えられても子供同士は、右も左も分からぬまま対人関係の最適化を、随時全方位に対して行わなければならず、当然、衝突や失敗のリスクが高まります。
諍いやいがみ合いも経験の内と見做す向きもあるでしょうが、私にはそれが教育の怠慢と映ります。そこでカウンターとして考えたのが、上で示した”年齢差のあるグループ構成”です。寒村の小学校などをイメージすると分り易いでしょう。
年齢、性別、目的、習熟度など、グループ分けの条件には色々ありますが、どれにも言えることは管理者にとって都合の良い画一性が優先されていることです。これをちょっと恣意的に、子供の主体性を引き出す為に操作するのは不公平でしょうか。
不平等ではあります。しかし社会理念に照らして考えれば、公平性は逆に高まっている筈です。ひたすら管理は面倒そうですが、情報機器を駆使すればあとは知恵の使い様でしょう。そういうマニュアル化なら私は大歓迎です。
大事なことは、やっぱり主体性と自律の精神を引き出すことでしょう。これは教えても身に付くものではありません。グルーピングの範囲を広くとって時折ガラガラポンとやれば、上手くいくものとも思えません。
効率や特定の目的だけに留意して、管理する側に都合の良い選別・グルーピングなどを行なって作り上げた画一的な環境は、ごく短期的な作業集中に適したシステムです。(ここまで抽象化すれば、大人と子供の境界は溶けて無くなります)
もっと主体性や自律判断が必要ならば、多少の面倒臭さや短期的な成果は二の次にして、画一的な環境を崩してやる事が先決だと考えます。ただ範囲を広げるのではなく、ちゃんと計画性をもって色んな条件の人を寄せ集める形で。
こういった手法にはかなり高度な判断と計画性が求められるので、とても個人レベルでは実行できません。それこそ本来的に行政が計画を練って、広く一般に提供するべき教育システムでしょう。学問・学術方面はプロの意見を聞きたいところ。
保護者の負担を減らして、子供の心身の機微を見抜くという大変な役目を果たして貰うことも必要です。その為には手間や心配事を減らさなければならないし、何より教育システムが信頼できないと何をやっても上手くいきません。
まずは「発見・判断」を保護者に、「手段の選択・処置」は行政にと役割分担のルールを定めて、ごちゃごちゃで出口の見えない教育システムに、相互運用を通した信頼関係を結ばないと事態は好転しないと思います。
どんな方法を採るにせよ、今の(日本の)教育施策やその理論、大人の一般的な認識はまだまだ未熟であるという認識に立ち、もっと公平に、もっと向上心を持ってダイナミックに進化することが大前提となる筈です。
馴染みのない領分を扱ってきたので、なんだか頭が凝ってきました。TomoikukaiさんがNO.14で「神と私の一対一の契約」について触れておられたので、気分転換にちょっと言及させて頂きましょう。
とは言え私もプロテスタントの教義に少し心得があるだけなので、キリスト教全般のことは分かり兼ねます。軽く参考程度に読んで下さい。
Tomoikukaiさんのおっしゃる通り、「神との契約」はエゴと向き合う手段と言えますが、その精神はあくまで主体的な自律を目指すものです。
「神との契約」は割礼や宣誓などの際に確認するもので、個人が内なる”原罪”に打ち克つ決意をする「誓いのセレモニー」として、儀礼の中に盛り込まれます。聖書の上に手をかざして行う、米大統領の就任式典で見られるアレです。
変な話に聴こえるかも知れませんが、プロテスタントは7歳頃から常に自分の内にある”原罪”を意識するよう諭されるので、内なる罪に負けないよう手本として原罪を持たぬ神や聖霊、或いは原罪に打ち克ったメシアや聖人を心に思い浮かべて、セルフ暗示に努めます。
「父なる神、救い主、導き手、創造主、羊飼いetc...」と多くの呼び名が示す通り、神の存在は一言では言い表せない幅広い意味を持っています。しかし、そのどれをとっても神格は一人称であり、そこが一神教たる所以です。
なので(厳格な)プロテスタントには、「如来の目」のように自らの人格を客観視したり、或いは自身の内面を批判的に捉える視点は、”個”の同一性を疑問視する考え方として背徳的に映る場合があります。
なにせ、全能の神が一人称で「契約」を結べるような方ですから、同一性が無いとなればお互いに”責任”が持てないのです。
彼らの社会では「人は間違いを犯すもの」という認識が根本にあり、善行や悪行といった”結果”に対してはアグレッシブですが、”罪”は告白すべきもので、償いそれを赦すことなどが美徳とされます。(なので罪を探り出す行為自体が善行になります)
つまり償いにせよ奉仕にせよ、あけっぴろげに罪を認めてしまうことが、プロテスタントにとって誇りある行動なのです。
一歩下がって眺めてみると、みんなが勇者を目指しつつ、同じくらい勇者を称えたいと思える、そんな上手い構図になっています。
また、7歳未満の子供はみんな「聖霊に守られた存在」として、敬々しくもほったらかして育てるのが良いとする向きがあります。
面白いのは本当にほったらかしておきながら、子供には「貴方の頭の上には聖霊様がいる」と教えることで安心感を与え、自発的に行動する意欲と自信を持たせるのです。(でもやっぱり野放し、悩んだりしません)
ただでさえ怖いもの知らずの子供が自発的に行動しだすと色々問題も起こしますが、モノを壊そうが不法侵入しようが、7歳までは叱りつけて償わせれば”聖霊に免じて”お咎め無し、というルールが適用されます。(親は弁償の代わりに、相当のチップを置いていくのが一応のマナー)
子供同士の喧嘩も同様ですがこの場合は、「聖霊様はみんなに一人ずついて、貴方の暴力を止めようとした聖霊様は貴方を守って傷付いているし、貴方の暴力は相手と一緒にその聖霊様も傷付けた。」といったお説教をします。
ひどいようですが、これを聞かされるとほとんどの子供がショックを受けて泣き腫らすそうです。暗に自分の行為の重大さを感じとるからでしょう。そう、私は勝手に想像します。
そうすることで中には性格が一変してしまう子供もいるらしいですが、都合よく捉えればそれだけ効果が期待できるとも言えます。
一般にキリスト者の目指すところは依存や制約ではなく”自律”なので、こうしたダイレクトに心を責めるやり方で、彼らなりの社会通念を刷り込むのです。
重要なのは”神のもとの平等”という考え方が、公平さの基準になっていることでしょう。彼らの”公平さ”に比べると、日本の風習的な公平さは曖昧なために平和裏に解釈を変えられますが、頼りなくて貴べるものではありません。
また、長くなってしまいました。最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
NO.232012-10-01 00:55:48 orcamie 10
さっき投稿したばかりでまたすぐ駆け込みで書き込みます。
実は私には上に書いたことよりももっとかきたいことがありました。
しかしここにそれを書き込むことがふさわしいかどうか迷う気持ちがあって
書き込むことを躊躇していました。
今私が一番心配している日本のこどもたちは
福島県に住んでいる子どもたちです。
国も、医師会も、主要メデイアもそれについてあまり語らない。
チェルノブイリ原発事故があった後
たぶん5〜7年後子どもたちの間で甲状腺癌の発症が
急激に増加した。
その統計数値などについては是非皆さんそれぞれ確認してください。
そして日本で、今現在は福島のこどもたちに表向きには深刻な健康被害はないらしい。
しかしtwitterでは 30万人中約40〜50%の子どもに異常が見られると言う報告を目にしました。
今、それほど深刻な状況ではなくても
彼らに健やかな将来を本当に保証できるのでしょうか。
明らかに放射能汚染との関連は認められないから
そのままにしておいていいのでしょうか。
日本に住む全ての大人たちでなくてもいい
本当に子どものために考えている大人が日本にいるのかな。。。
長期的に子どもの未来を考えることも重要だけれども
今、ここにひょっとしたら大きな危機が迫っていて
回避できる可能性があるのなら
それを実行できる大人でありたいと思います。
実は私には上に書いたことよりももっとかきたいことがありました。
しかしここにそれを書き込むことがふさわしいかどうか迷う気持ちがあって
書き込むことを躊躇していました。
今私が一番心配している日本のこどもたちは
福島県に住んでいる子どもたちです。
国も、医師会も、主要メデイアもそれについてあまり語らない。
チェルノブイリ原発事故があった後
たぶん5〜7年後子どもたちの間で甲状腺癌の発症が
急激に増加した。
その統計数値などについては是非皆さんそれぞれ確認してください。
そして日本で、今現在は福島のこどもたちに表向きには深刻な健康被害はないらしい。
しかしtwitterでは 30万人中約40〜50%の子どもに異常が見られると言う報告を目にしました。
今、それほど深刻な状況ではなくても
彼らに健やかな将来を本当に保証できるのでしょうか。
明らかに放射能汚染との関連は認められないから
そのままにしておいていいのでしょうか。
日本に住む全ての大人たちでなくてもいい
本当に子どものために考えている大人が日本にいるのかな。。。
長期的に子どもの未来を考えることも重要だけれども
今、ここにひょっとしたら大きな危機が迫っていて
回避できる可能性があるのなら
それを実行できる大人でありたいと思います。
NO.222012-10-01 00:15:23 orcamie 10
このこどもに関する投稿をながめて
「子供」と「子ども」があってなかなか興味深いです。
私自身は「子供」の供という字が大人のお供という意味だから
子どもは子どもで独立した存在だから
「子ども」の方がいいよとある師匠に言われて
「子ども」と意識して使っています。
皆さんの投稿を読むと
それぞれ子どもに対して真剣に考えていらっしゃるんだなあと
うれしく思いました。
日本の未来も捨てたものではないという感じです。
さて、No.2 tomoikukaiさんの
日本の子どもたちに実践的な英語教育をという強い思いを
今回に限らず以前の投稿でも読んでお伝えしたいと思っていたのですが、
民間レベルで進行している部分もあるということです。
これは札幌市における現状ですが、実際数的な統計をとってはおりません。
少子化により生徒獲得のために 例えば幼稚園・保育園で
英語教育を実践しているところが増加傾向にあります。
その多くはネイティブスピーカーによるものです。
また幼稚園によっては常駐のネイティブスピーカーの先生がいるところが増えてきています。
またこれは一つの例ですが、保育園時代に1か月に1度15分のネイティブスピーカーによる英語のレッスンを20人位のクラスで3年間受けていて
5年後6か月英語を学習して英検5級に合格例があります(中学生になる前に)。
5年間では英語は小学校で5年生の時に少し学んだだけです。
こんな風に機会は少なくても、その子が合格した理由は
「英語が好きだから」ということに尽きるのです。
もちろん実際に良質な英語を学ぶ機会を多く与えることも重要ですが
英語だけではなく、生きていくのに必要な事柄を学ぶためには
その対象を好きになる要素をたくさん子どもたちに持ってもらう
ことが大事です。
つまり生きることの楽しさを多くの子どもが知ることが一番大切でしょう。
No.9yamanorisuさんの肯定感を育てるに通じることになりますね。
しかしそれは楽しいことだけ知るのではなく
つまり困難を克服したのちに
何かを勝ち得る喜びを知っていれば
そう簡単にはくじけずに生きるということを身に着けられます。
家庭で、学校で、地域社会で
そのような機会を子どもたちにたくさん与えられる場所になること。
もちろん 親や周囲の大人が 身を挺して子どもたちにそれを示していくべきです。
NO.3 ryosukeさん のクラス担任制の撤廃というのに興味を惹かれます。
私は担任制撤廃よりも緩やかな担任制にならないかなと考えています。
他クラスと他学年との交流、クラス間で先生同士が協力し合う体制を
普段から作る。
行事の時に他学年との交流はどの学校でもあるのではないかと思います。
例えば遠足を、6年生と1年生、5年生と2年生、4年生と3年生で
グループになって行動するというようなことは現在よく行なわれていると思います。
しかし普段からクラス間や学年同士で
共同して学ぶ体制があればもっといいのではないかと思われます。
学校のクラス分けにおいて
能力別クラスを導入することによってクラス間・学年同士の普段からの交流が
より容易に実現するのではないかなあと考えています。
今日本の教育における平等を考えると
一人一人の子どもに同じ量の学習を与えるということが平等だというのが
基本的な方針です。
でも、こどもによって能力の差があります。
①10学んで10わかる子と
②1学んで10わかる子といる。
だけれど現実はみんな5学んで7わかる。というような中途半端なところで教えています。②の子にとっては何ら問題はなくても(実際はあると思いますが)①の子は確実に落ちこぼれてしまいますこの問題も、クラス間の垣根を低くすることや能力別授業というものを
設けることで解決できるのではないかと思います。
そのためには、能力の低いクラスに行くのは外見が悪いから
実施しないでくれというような表面的な理由で
実現できないよりは
落ちこぼれの子どもを減らすという実質的な面で
実現できたらいいのになと思っています。
私はこどもと付き合うということは子どもと生きるということであり
一緒に育つということなのではないかと考えています。
それは 親であっても、教師という立場であってもそうあるべきだと思います。
立ち位置は場合に応じて変えても 一緒に生きるという気持ちが大切です。
大人であっても完璧な人間は皆無です。
大人であっても発展的に生きることの方が魅力的ではありませんか。
自分のことは棚上げして子どもにだけ成長しなさいというのは
説得力がありません。
一緒に生きる、一緒に成長していくことが
子どもと付き合う最善な道ではないかと思っています。
さて、最後に私はこの問題が提起されたとき
「こどもとはいったいだれか」と考えました。
一般的には未成年者と考えるべきなのでしょう。
親に対してのこどもという存在なのでしょうか。
それとも学校にいるこどもという存在なのでしょうか。
しかし 少子高齢化の時代に 実は高齢者の中に認知症などで
こどもにもどってしまう方もおられます。
そのことで高齢の方の介護する人が大きな困難を抱えます。
日本で、学校で、高齢者の介護現場でも、虐待が起きてしまっています。
それぞれが孤立しているということが大きな要因の一つです。
先ほど、学校で能力別クラスを設けると同様に
子どもは子どもで、高齢者は高齢者でという分けてしまうのではなく
広い視野に立って総合的に問題を解決するという視点がもっと必要です。
それは、日本で昔3世代同居によって
一つの家庭が助け合う構造と似ています。
以前と同じという意味ではなくて
今、この日本で実現できる
多様なコミュニケーションの場所を築くことで
様々な問題に一緒に考えようと言う姿勢が
解決に繋がると思います。
老いると言うことも 終わっていくだめになっていくと取るよりも
ある意味成長して生きていく一つの過程ととらえることで
その生き様に尊敬の念を示すことができると思うのです。
「子供」と「子ども」があってなかなか興味深いです。
私自身は「子供」の供という字が大人のお供という意味だから
子どもは子どもで独立した存在だから
「子ども」の方がいいよとある師匠に言われて
「子ども」と意識して使っています。
皆さんの投稿を読むと
それぞれ子どもに対して真剣に考えていらっしゃるんだなあと
うれしく思いました。
日本の未来も捨てたものではないという感じです。
さて、No.2 tomoikukaiさんの
日本の子どもたちに実践的な英語教育をという強い思いを
今回に限らず以前の投稿でも読んでお伝えしたいと思っていたのですが、
民間レベルで進行している部分もあるということです。
これは札幌市における現状ですが、実際数的な統計をとってはおりません。
少子化により生徒獲得のために 例えば幼稚園・保育園で
英語教育を実践しているところが増加傾向にあります。
その多くはネイティブスピーカーによるものです。
また幼稚園によっては常駐のネイティブスピーカーの先生がいるところが増えてきています。
またこれは一つの例ですが、保育園時代に1か月に1度15分のネイティブスピーカーによる英語のレッスンを20人位のクラスで3年間受けていて
5年後6か月英語を学習して英検5級に合格例があります(中学生になる前に)。
5年間では英語は小学校で5年生の時に少し学んだだけです。
こんな風に機会は少なくても、その子が合格した理由は
「英語が好きだから」ということに尽きるのです。
もちろん実際に良質な英語を学ぶ機会を多く与えることも重要ですが
英語だけではなく、生きていくのに必要な事柄を学ぶためには
その対象を好きになる要素をたくさん子どもたちに持ってもらう
ことが大事です。
つまり生きることの楽しさを多くの子どもが知ることが一番大切でしょう。
No.9yamanorisuさんの肯定感を育てるに通じることになりますね。
しかしそれは楽しいことだけ知るのではなく
つまり困難を克服したのちに
何かを勝ち得る喜びを知っていれば
そう簡単にはくじけずに生きるということを身に着けられます。
家庭で、学校で、地域社会で
そのような機会を子どもたちにたくさん与えられる場所になること。
もちろん 親や周囲の大人が 身を挺して子どもたちにそれを示していくべきです。
NO.3 ryosukeさん のクラス担任制の撤廃というのに興味を惹かれます。
私は担任制撤廃よりも緩やかな担任制にならないかなと考えています。
他クラスと他学年との交流、クラス間で先生同士が協力し合う体制を
普段から作る。
行事の時に他学年との交流はどの学校でもあるのではないかと思います。
例えば遠足を、6年生と1年生、5年生と2年生、4年生と3年生で
グループになって行動するというようなことは現在よく行なわれていると思います。
しかし普段からクラス間や学年同士で
共同して学ぶ体制があればもっといいのではないかと思われます。
学校のクラス分けにおいて
能力別クラスを導入することによってクラス間・学年同士の普段からの交流が
より容易に実現するのではないかなあと考えています。
今日本の教育における平等を考えると
一人一人の子どもに同じ量の学習を与えるということが平等だというのが
基本的な方針です。
でも、こどもによって能力の差があります。
①10学んで10わかる子と
②1学んで10わかる子といる。
だけれど現実はみんな5学んで7わかる。というような中途半端なところで教えています。②の子にとっては何ら問題はなくても(実際はあると思いますが)①の子は確実に落ちこぼれてしまいますこの問題も、クラス間の垣根を低くすることや能力別授業というものを
設けることで解決できるのではないかと思います。
そのためには、能力の低いクラスに行くのは外見が悪いから
実施しないでくれというような表面的な理由で
実現できないよりは
落ちこぼれの子どもを減らすという実質的な面で
実現できたらいいのになと思っています。
私はこどもと付き合うということは子どもと生きるということであり
一緒に育つということなのではないかと考えています。
それは 親であっても、教師という立場であってもそうあるべきだと思います。
立ち位置は場合に応じて変えても 一緒に生きるという気持ちが大切です。
大人であっても完璧な人間は皆無です。
大人であっても発展的に生きることの方が魅力的ではありませんか。
自分のことは棚上げして子どもにだけ成長しなさいというのは
説得力がありません。
一緒に生きる、一緒に成長していくことが
子どもと付き合う最善な道ではないかと思っています。
さて、最後に私はこの問題が提起されたとき
「こどもとはいったいだれか」と考えました。
一般的には未成年者と考えるべきなのでしょう。
親に対してのこどもという存在なのでしょうか。
それとも学校にいるこどもという存在なのでしょうか。
しかし 少子高齢化の時代に 実は高齢者の中に認知症などで
こどもにもどってしまう方もおられます。
そのことで高齢の方の介護する人が大きな困難を抱えます。
日本で、学校で、高齢者の介護現場でも、虐待が起きてしまっています。
それぞれが孤立しているということが大きな要因の一つです。
先ほど、学校で能力別クラスを設けると同様に
子どもは子どもで、高齢者は高齢者でという分けてしまうのではなく
広い視野に立って総合的に問題を解決するという視点がもっと必要です。
それは、日本で昔3世代同居によって
一つの家庭が助け合う構造と似ています。
以前と同じという意味ではなくて
今、この日本で実現できる
多様なコミュニケーションの場所を築くことで
様々な問題に一緒に考えようと言う姿勢が
解決に繋がると思います。
老いると言うことも 終わっていくだめになっていくと取るよりも
ある意味成長して生きていく一つの過程ととらえることで
その生き様に尊敬の念を示すことができると思うのです。
NO.212012-09-30 02:10:26 anne1874 13
最近の境界線のごたごたのニュースを見ていると、3歳児の幼稚園児の姿が浮かびます。職場の幼稚園では、入園してしばらくは、自分の周りに園のお気に入りのものを並べて満足している姿がよくあります。他の子が自分のテリトリーに無断で入って触ろうものなら、「だめー!」の一点張り。相手が強引なら、言葉が立たないメンバーは力づくで反撃してきます。たくさんもっていることの安心感はわかります。希少価値の高いものならなおさらです。ただそういうときに、大人(保育者)が「一緒に使うと楽しいよ。」とか「貸してあげなさい。」とすぐ言わないように努めています。『Aちゃん、今線路を長くつなげて東京駅まで行きたいのかもね。」というように、想像を巡らしてつぶやいてみるのです。そうすると、「そう、これはやぶさなの。」といように当事者の反応が返ってきたりするのです。こういうことが、相手の事を思い巡らすきっかけに繋がっていくように思うのです。
大人は道理や理屈を話して正義を教えなければという圧力の中にいるのかもしれません。ただ、子どもも理屈で迫られれば、言葉が立つ者は理屈で返し、言葉がおぼつかなければ、力づくで(わめいたり、泣き叫んだり、蹴ったり、たたいたり、噛み付いたり)自分の正義を通そうとします。それよりもその子の行動の物語を思い巡らすことで、境界線を忘れてしまうチャンスを作る事の方が、これからの人を育てていくうえでのヒントが隠されているように思うのです。自分も大事、でも相手も大事。自分もおもろい。でも相手もおもろい。茂木さんの著書『挑戦する脳』の最初に出てくる目が見えないことによる自由度も、視覚による境界線が緩くなって相手の方と楽しく語り合えたのも、示唆に富んだエピソードだと感じました。自ら自然に相手の事を思い巡らす力が、多様性を受け入れ楽しんでいく根っこの一つのように思うのです。もちろん大人になった私たちがまず身につけなければ、子どもはまねできないのですが。。。
大人は道理や理屈を話して正義を教えなければという圧力の中にいるのかもしれません。ただ、子どもも理屈で迫られれば、言葉が立つ者は理屈で返し、言葉がおぼつかなければ、力づくで(わめいたり、泣き叫んだり、蹴ったり、たたいたり、噛み付いたり)自分の正義を通そうとします。それよりもその子の行動の物語を思い巡らすことで、境界線を忘れてしまうチャンスを作る事の方が、これからの人を育てていくうえでのヒントが隠されているように思うのです。自分も大事、でも相手も大事。自分もおもろい。でも相手もおもろい。茂木さんの著書『挑戦する脳』の最初に出てくる目が見えないことによる自由度も、視覚による境界線が緩くなって相手の方と楽しく語り合えたのも、示唆に富んだエピソードだと感じました。自ら自然に相手の事を思い巡らす力が、多様性を受け入れ楽しんでいく根っこの一つのように思うのです。もちろん大人になった私たちがまず身につけなければ、子どもはまねできないのですが。。。
NO.202012-09-29 18:28:59 thnkks0304 9
茂木氏の書き込みを読んで、小林秀雄氏の教育についての考えと結びつきました。小林秀雄氏は「子どもは周囲に敏感で、真似をする者である」と言っています。イジメの問題を筆頭に、子どもに関する問題には、大人たちの中の事情が投影されているのではないでしょうか。そのためにも、茂木氏が述べるように、子どもに対して1人の人間として真摯に接していくことが求められると思います。
竹内健太
竹内健太
NO.192012-09-29 17:58:26 茂木健一郎 9
No. 17 の竹内さん おっしゃる通り、子どもの成長は大人が制御できるものではないし、また制御すべきものではないと思います。もっとも肝要な点は、子どもどうしという対等な関係における相互作用を通してのみ学べることが多々ある、ということではないでしょうか。大人にあこがれるという垂直的関係も大切ですが、同じ年頃の人間と行き来することから学ぶこと以上の学習機会はないように思います。
NO.182012-09-29 12:14:49 yamaguti 12
子供との接し方ですが、できるだけ無理でもして明るく、楽しく、対等に接するようにしてますね。(できる限りでですが・・・)
私は、田舎の住宅街に住んでますが、draw_spineさんと同様に、田舎でも子供が自由に遊ぶ場がほとんど無く、公園も殆ど親が同伴ですね。家族との結びつきが消去法で強まってしまっているので、両親の価値観が子供に与える影響が強くなっていると感じますし、その責任感を重荷に思うこともあります。子供の好奇心と移り気には振り回されますが、できる限り面倒がらずに色々挑戦させてあげたいとは思っていますね。選択肢をどれだけ多く提示できるかと、後に自分で親の価値観を乗り越えていけるだけの知性は授けてあげたいと願ってますが・・・ムラのある子供の相手は面倒でもあります。
他の親御さんのお子さんには、少しの係りの中でも、親とは違う大人のありようを知って見識を広げて欲しいと思って係ってはいます。
私は、田舎の住宅街に住んでますが、draw_spineさんと同様に、田舎でも子供が自由に遊ぶ場がほとんど無く、公園も殆ど親が同伴ですね。家族との結びつきが消去法で強まってしまっているので、両親の価値観が子供に与える影響が強くなっていると感じますし、その責任感を重荷に思うこともあります。子供の好奇心と移り気には振り回されますが、できる限り面倒がらずに色々挑戦させてあげたいとは思っていますね。選択肢をどれだけ多く提示できるかと、後に自分で親の価値観を乗り越えていけるだけの知性は授けてあげたいと願ってますが・・・ムラのある子供の相手は面倒でもあります。
他の親御さんのお子さんには、少しの係りの中でも、親とは違う大人のありようを知って見識を広げて欲しいと思って係ってはいます。
NO.172012-09-29 08:26:36 thnkks0304 19
子供の成長は大人が制御できるものではありません。子供の成長にとって最も大事なのは、同じ年代の子供たちと自由に切磋琢磨できる環境と、子供たちを見守り取り囲む大人たちの振る舞いであると思います。子供たちの一つ一つの行動を逐一監視するのではなく、ある程度の自由度を与えて創造的な営みをできる環境を与えることであります。そのためには、灘や開成の学生のように、人それぞれ得意分野があり、多様性に富んだ子供達を集めて、自由に行動させることが大事です。自由に活動をしてもいいし、誰と組んでもいい。大人たちは子供たちに存分の期待を与え、子供たちにある程度の緊張感を与える。そして責任は大人たちが取る。そのように子供たちを取り囲む大人達の振る舞いも子供たちの成長に大きく影響すします。
子供達を自由に育てるのは、難しいです。どうしても大人たちは逐一子供たちの行動を制御したがります。私は、どこかで「自分が両親に自由に育ててくれたありがたみは、40歳を超えてからわかる。」と聞いたことがあります。大人になり社会人になってから、実際に自分が親になってから、子供を自由に育てることの難しさと我慢の必要性などがわかるのでしょう。
現代の大人たちにできるのは、子供たちに良質な環境を与えることと、自分たちの振る舞いを正すこと、そして子供達に裁量を与え見守る構えが必要であると思います。
竹内健太
子供達を自由に育てるのは、難しいです。どうしても大人たちは逐一子供たちの行動を制御したがります。私は、どこかで「自分が両親に自由に育ててくれたありがたみは、40歳を超えてからわかる。」と聞いたことがあります。大人になり社会人になってから、実際に自分が親になってから、子供を自由に育てることの難しさと我慢の必要性などがわかるのでしょう。
現代の大人たちにできるのは、子供たちに良質な環境を与えることと、自分たちの振る舞いを正すこと、そして子供達に裁量を与え見守る構えが必要であると思います。
竹内健太
NO.162012-09-28 20:59:57 masami 14
社会がどんどん変わっても、教室の風景は学校というものができてからさほど変わっていない。今、子どもたちは、一日中、ずっと学校のようなところにいるのかもしれません。
これまでも、いろいろな投稿にあったように、本当に、子供たちには様々なひと、子ども対象のビジネスとは関係ない生活者としての人たちに接する機会を持ってほしいと思います。
その中に、上から目線の人もいるけれど、N0.14 の Tomoikukaiさんが書かれているように、 必ず対等目線の人がいて、その人はちょっと違う、自分もこういう人になりたい、と子どもが思えるといいな、と思います。
No.10で茂木さんが書かれている、
大人どうしで、普段からお互いを一人の人間として「リスペクト」して接していなければならない
という、大人が直接子供に何かをするのではなく、大人がそのような姿を示すこと、大切だと思いました。
かすかな呟きも拾い上げられる可能性のある今、大きな声の人、大きな力を持つ人、抜きんでた財力のある人、優れた能力のある人、そういう人たちだけが、社会を変える時代は終わりつつあり、新しい社会を変える動きが、生まれつつあるのかもしれません。
そんな中で、私たちが無意識のうちに持つ、成功者や指導者のイメージも、変えていく必要があるのかもしれません。
課題山積の今の日本に必要なのは、勝ち抜いていくタイプの指導者や成功者ではなく、ひとりひとりが、大人も子どもも、他者のために生きることで自分も幸せになる、新しいタイプの成功者、指導者になることなのかもしれません。
これまでも、いろいろな投稿にあったように、本当に、子供たちには様々なひと、子ども対象のビジネスとは関係ない生活者としての人たちに接する機会を持ってほしいと思います。
その中に、上から目線の人もいるけれど、N0.14 の Tomoikukaiさんが書かれているように、 必ず対等目線の人がいて、その人はちょっと違う、自分もこういう人になりたい、と子どもが思えるといいな、と思います。
No.10で茂木さんが書かれている、
大人どうしで、普段からお互いを一人の人間として「リスペクト」して接していなければならない
という、大人が直接子供に何かをするのではなく、大人がそのような姿を示すこと、大切だと思いました。
かすかな呟きも拾い上げられる可能性のある今、大きな声の人、大きな力を持つ人、抜きんでた財力のある人、優れた能力のある人、そういう人たちだけが、社会を変える時代は終わりつつあり、新しい社会を変える動きが、生まれつつあるのかもしれません。
そんな中で、私たちが無意識のうちに持つ、成功者や指導者のイメージも、変えていく必要があるのかもしれません。
課題山積の今の日本に必要なのは、勝ち抜いていくタイプの指導者や成功者ではなく、ひとりひとりが、大人も子どもも、他者のために生きることで自分も幸せになる、新しいタイプの成功者、指導者になることなのかもしれません。
NO.152012-09-28 09:25:41 茂木健一郎 5
NO.14の Tomoikukaiさん。銀行での一言、good jobでした! 今朝、村上春樹さんが朝日新聞に寄稿していましたが、相手を独立の人格をもった、理性と熟慮への可能性をもった存在としてとらえることの必要性は、国際関係においても変わらないと思います。韓国や中国をまるで自分たちよりも劣った子どものような存在としてとらえて安酒に酔っている人たちは、結局自分自身を傷つけているのだと思います。
NO.142012-09-27 16:30:09 Tomoikukai 34
昨日、銀行で、椅子にかけながら順番を待っていると、隣に、5、6才の男の子を連れた、若い夫婦がやってきました。そこで、その奥さんの方は、鞄の中に手を入れながら,何か用事をしようとしていたのですが、子供がまとわりついて邪魔になったのか、突然、
「うるさいな! じっとしとれって言うとるやろが!」と子供を引き離して怒鳴りつけました。当然のことながら,周りの雰囲気は、凍り付きました。
私は、一瞬びっくりしたのですが、これはまずいと思って、「そんなこと言うと、子供に全部移るよ」 となるべく普通のトーンでたしなめて見ました。そしたらその奥さんは、すぐに、申し訳なさそうな顔になって、「本当にそうかもしらんね」と言ってくれました。私は、心の中で「坊主、よかったな」と思いました。それで、緊張していたその場の雰囲気が和らぎました。
この奥さんは、たまたま、人前をはばかることなく、虐待ともとれる躾をする人だったから、他人のアドバイスを受けることが出来たのですが、子供と親だけの空間で、虐待を受けている子供達は、きっとものすごい数に上るのだと思います。そういう虐待や、また、反対に極端な甘やかしが子供に全部刷り込まれて、それが、学校での問題行動になり、歪んだ社会を生み出していくことになるのだと思います。私は、就学前の子供達の育ち方が次の社会を決定づけてしまうという考え方は間違っていないと確信しています。
確かに、茂木さんの言われるように、子供の成長には、一人の人間として真摯に接することが必要不可欠です。また、今の大人に、それが出来れば、日本の将来は、例え貧乏になったとしても、少しも心配しなくても良いと思います。子供達は、自分たちで、幸せな国家を確実に築いていってくれるでしょう。世界中に幸せを広げることさえ出来るようになるかもしれません。
問題は、茂木さんも言われる通り、我々大人が、真摯に接することが出来ないというところにあると思うのです。どうしてそれが出来ないのでしょうか。今回の投稿者の方々の、「子供とのつきあい方」に対する考え方は、それぞれにすばらしいものばかりだと言うことは、誰でも納得するでしょう。しかし、私は、それでも、何か一つ欠けていることがあるような気がしてならなかったのです。それが、この投稿のことを考えているうちにやっとのことでそれに気づくことが出来たような気がします。それは,我々が言うところの「如来の目」といわれるような類いのものです。
これは,茂木さんが言われるところの、自分の行動や心の動きをちょっと離れたところから客観的に捉える「メタ認知」と似通っているところがありますが、「如来の目」は、特に自我執着に焦点を当てて、それを客観視するという目を戴くということです。その目を戴くとどうなるかというと、例えば、親鸞は、自分のことを愚禿といい、良寛は大愚と言ったように、誰はばかることなく本心から「自分は愚か者である」と公言できるようになる。そして、一度その様な心境になると、自分の見方に「上から目線」的な要素が無くなるということだと思います。親鸞は、さらに、「親鸞は弟子一人も持たず候」とも言っているように、究極の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」思想を体現していくことになります。(現在の浄土真宗は、一部の求道者をのぞいて、「如来の目」には関心がなさそうですが)
余談ですが、慶応大学では、教師や学生、事務方を含めて福沢諭吉先生以外は、お互いに、「君」付けで呼び合う伝統があると聞きましたが、これも、立派な「上から目線バスターズ」ではないでしょうか。(「福沢諭吉先生」は「福沢諭吉さん」の方がいいように思う。余計なお世話?)
何はともあれ、子供とつきあうには、真摯に接するのは勿論、目線の高さを同じにするということは、ほとんどの皆さんが述べておられることですが、私はこの対等目線こそ、自分のエゴと向き合う試練の場所だと思ってしまうのです。(子供には、かわいいながらも、何もかも鋭く見抜かれてしまいます。draw_spine さんfに納得)だからこそ、このことは、一生かけてでも、自分には出来ているのかを問い続けて行く問題だと思っています。
そして、子供達と対等な目線が成立して、お互いの心がつながった時、私が抱いている子供達に対する思いも素直に子供達の心に吸い取られていくような気がしています。(正に、アブソーベント)
この、対等目線は、子供達は、元々持っていて、それが言葉からだけではなく、いろんな形の情報を偏見無く、貪欲に吸い取っていける理由なのではないかと思っています。それが、アブソーベント・エイジをすぎた頃から、だんだんと飼いならされ、偏見の雲が頭の中を覆うようになる。その偏見を除いて、又少年、小女のような、とらわれの無い心を取り戻すには、「如来の目」あるいは、キリスト教で言うなら、「神と私の一対一の契約」(これが、自分のエゴと向き合うキリスト教での方法論であるのかは、私には、はっきりとは解らないのですが、キリスト教に詳しい方がおられたらお教えください)によって、自分自身を見つめ直すしか無い。宗教が、人間にとって必要とされるのは、このように、自分自身の自己執着から自由になって、心の底から、他の人とつながりを持つことが出来るようになることが期待されるからではなかろうかと愚考しています。
ともあれ、子供達は、周りの環境や、特に、人間の関わった自然の中から、多くのことを吸収し、夢や、希望、言葉、その他の能力を伸ばして行くように見えます。我々は、それに合わせて、精一杯環境を整えて行きたいと思っています。そして、それが、何にも増して、我々がやらなければならない最も大切な聖業ではないかと思っています。
最後に、この投稿で、始めにエピソードとしてあげた親子のことに関連して。今の子育ては、つくづく社会から遊離しているところで行われていると感じざるを得ません。どうにかして、再び、教育を開かれた社会の中で行うことが出来るようにならないものでしょうか。誰かが書いておられたように、外国人の目を通してみると、江戸時代の日本の子供達は、貧しいながらも、本当にかわいがられていたらしいということです。想像すると、そこには、理想の教育環境があったと思われます。豊かな自然の中で、人々のつながりの中で、寺子屋の中で、然し乍らも、親を助ける誇らしさの中で子供達は、世の中を切り開く力を身につけて行ったのだと思います。(少しやり過ぎたけど)
「うるさいな! じっとしとれって言うとるやろが!」と子供を引き離して怒鳴りつけました。当然のことながら,周りの雰囲気は、凍り付きました。
私は、一瞬びっくりしたのですが、これはまずいと思って、「そんなこと言うと、子供に全部移るよ」 となるべく普通のトーンでたしなめて見ました。そしたらその奥さんは、すぐに、申し訳なさそうな顔になって、「本当にそうかもしらんね」と言ってくれました。私は、心の中で「坊主、よかったな」と思いました。それで、緊張していたその場の雰囲気が和らぎました。
この奥さんは、たまたま、人前をはばかることなく、虐待ともとれる躾をする人だったから、他人のアドバイスを受けることが出来たのですが、子供と親だけの空間で、虐待を受けている子供達は、きっとものすごい数に上るのだと思います。そういう虐待や、また、反対に極端な甘やかしが子供に全部刷り込まれて、それが、学校での問題行動になり、歪んだ社会を生み出していくことになるのだと思います。私は、就学前の子供達の育ち方が次の社会を決定づけてしまうという考え方は間違っていないと確信しています。
確かに、茂木さんの言われるように、子供の成長には、一人の人間として真摯に接することが必要不可欠です。また、今の大人に、それが出来れば、日本の将来は、例え貧乏になったとしても、少しも心配しなくても良いと思います。子供達は、自分たちで、幸せな国家を確実に築いていってくれるでしょう。世界中に幸せを広げることさえ出来るようになるかもしれません。
問題は、茂木さんも言われる通り、我々大人が、真摯に接することが出来ないというところにあると思うのです。どうしてそれが出来ないのでしょうか。今回の投稿者の方々の、「子供とのつきあい方」に対する考え方は、それぞれにすばらしいものばかりだと言うことは、誰でも納得するでしょう。しかし、私は、それでも、何か一つ欠けていることがあるような気がしてならなかったのです。それが、この投稿のことを考えているうちにやっとのことでそれに気づくことが出来たような気がします。それは,我々が言うところの「如来の目」といわれるような類いのものです。
これは,茂木さんが言われるところの、自分の行動や心の動きをちょっと離れたところから客観的に捉える「メタ認知」と似通っているところがありますが、「如来の目」は、特に自我執着に焦点を当てて、それを客観視するという目を戴くということです。その目を戴くとどうなるかというと、例えば、親鸞は、自分のことを愚禿といい、良寛は大愚と言ったように、誰はばかることなく本心から「自分は愚か者である」と公言できるようになる。そして、一度その様な心境になると、自分の見方に「上から目線」的な要素が無くなるということだと思います。親鸞は、さらに、「親鸞は弟子一人も持たず候」とも言っているように、究極の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」思想を体現していくことになります。(現在の浄土真宗は、一部の求道者をのぞいて、「如来の目」には関心がなさそうですが)
余談ですが、慶応大学では、教師や学生、事務方を含めて福沢諭吉先生以外は、お互いに、「君」付けで呼び合う伝統があると聞きましたが、これも、立派な「上から目線バスターズ」ではないでしょうか。(「福沢諭吉先生」は「福沢諭吉さん」の方がいいように思う。余計なお世話?)
何はともあれ、子供とつきあうには、真摯に接するのは勿論、目線の高さを同じにするということは、ほとんどの皆さんが述べておられることですが、私はこの対等目線こそ、自分のエゴと向き合う試練の場所だと思ってしまうのです。(子供には、かわいいながらも、何もかも鋭く見抜かれてしまいます。draw_spine さんfに納得)だからこそ、このことは、一生かけてでも、自分には出来ているのかを問い続けて行く問題だと思っています。
そして、子供達と対等な目線が成立して、お互いの心がつながった時、私が抱いている子供達に対する思いも素直に子供達の心に吸い取られていくような気がしています。(正に、アブソーベント)
この、対等目線は、子供達は、元々持っていて、それが言葉からだけではなく、いろんな形の情報を偏見無く、貪欲に吸い取っていける理由なのではないかと思っています。それが、アブソーベント・エイジをすぎた頃から、だんだんと飼いならされ、偏見の雲が頭の中を覆うようになる。その偏見を除いて、又少年、小女のような、とらわれの無い心を取り戻すには、「如来の目」あるいは、キリスト教で言うなら、「神と私の一対一の契約」(これが、自分のエゴと向き合うキリスト教での方法論であるのかは、私には、はっきりとは解らないのですが、キリスト教に詳しい方がおられたらお教えください)によって、自分自身を見つめ直すしか無い。宗教が、人間にとって必要とされるのは、このように、自分自身の自己執着から自由になって、心の底から、他の人とつながりを持つことが出来るようになることが期待されるからではなかろうかと愚考しています。
ともあれ、子供達は、周りの環境や、特に、人間の関わった自然の中から、多くのことを吸収し、夢や、希望、言葉、その他の能力を伸ばして行くように見えます。我々は、それに合わせて、精一杯環境を整えて行きたいと思っています。そして、それが、何にも増して、我々がやらなければならない最も大切な聖業ではないかと思っています。
最後に、この投稿で、始めにエピソードとしてあげた親子のことに関連して。今の子育ては、つくづく社会から遊離しているところで行われていると感じざるを得ません。どうにかして、再び、教育を開かれた社会の中で行うことが出来るようにならないものでしょうか。誰かが書いておられたように、外国人の目を通してみると、江戸時代の日本の子供達は、貧しいながらも、本当にかわいがられていたらしいということです。想像すると、そこには、理想の教育環境があったと思われます。豊かな自然の中で、人々のつながりの中で、寺子屋の中で、然し乍らも、親を助ける誇らしさの中で子供達は、世の中を切り開く力を身につけて行ったのだと思います。(少しやり過ぎたけど)
NO.132012-09-27 03:06:34 draw_spine 26
最初に断りを入れておきたい。私には子供と直に触れ合った経験もその機運も絶望的に乏しい。興味うんぬん以前に、そういった環境や人間関係にほとほと縁が無かった。
だから以下で用いる”子供”という主語には、子供時代の私とその同輩たちを想定している。どこまで本性に迫れるか、私固有の特徴を除外できるか、どちらも私には判定できそうも無いので各人各々に汲み取って頂きたい。
主観が相手の問題ではまず私見を示しておくのが得策だと思う。必然、受け売りの知識や偏見や常識も含まれるだろう。それでも私見はコンテクストと主観の橋渡しをするものと考えているので、是非とも雑念を振り切って臨みたい。
では、私の考える”子供の性質”は以下の通り。
a.子供は無知である
知識・経験などの総量が、円滑な社会生活を送るために充分な水準に達していない。その為、突飛な言動や不道徳な行いを躊躇なく始めるが、その反面、常識に因われず偏見の少ない目線から、大人に示唆を与えられる
ただし、思考の基となる知識や経験が少ないので、その思考過程には相対的に不備や欠陥が多く、同時に、受け取った情報を総合的に解釈したり、その解釈を検めたり、自分の認識・観念を自ら修正する能力が低い。
b.常に知の飢餓状態にある
子供の場合、好奇心旺盛に見えるのは環境に対する不安の顕れと解釈すべきだろう。大人でも未知の環境に置かれれば同様の状態にはなるが、発達過程にある脳の欲求、類似性を見出す為の情報量の不足などを踏まえると、その飢餓レベルは比ぶべくもない。
論理的思考能力(或いは言語能力)の未熟さが飢餓を増長している面もあるが、論理思考を必要としない経験獲得(ニュアンスの汲み取り・雰囲気の察知・身体操作の習得・五感を通した感覚記憶など)では、大人には真似できないレベルで機転が利く。
c.子供には論理が通用しない
理屈ではなく論理である。目の前の結果とその原因を結びつけて因果関係を導いてくる手際は、寧ろ巧すぎてオーバーロードを始めるくらい達者だ。しかし経験を別の機会に活かしたり、因果そのものを展開させる為に必要な、一般性の表象・抽象化が苦手なので論理にまで発展しない。
この特性は大人にとって、同じ失敗を繰り返すように見えたり、「口で言っても分からない」といった思いを抱かせたりもするが、子供の驚異的な記憶力やニュアンスを汲み取る能力を考慮すると、そういった認識の方が間違っている可能性が高い。一般性を見付けるまでは諦めるべし。
d.時間の感覚がダイナミックに可変する
大人が経験的に取得する時間感覚は、膨大な事実関係の把握や、既に経験した状況記憶との対比によって説明できる。だとすれば、そのどちらも不足している子供にとって一定の期間・間隔を認識するのはひどく難しい。
つまり、時間の概念だけ教わっても、刻むための尺度を持たず”量”を測れないので、意識上は幾らでも伸び縮みさせられる。図らずもコンピュータを省エネ化する為に用いる、可変クロックと同じ原理と言えそうだ。
よく見せる集中力の高さや、言付けを忘れたり何時までも遊んでいたがる様子などは、ほぼ全てこの時間感覚の可変性で説明がつく。必要に応じて可変するのだから、その必要性を理解・比較することが出来れば、優れた能力にもなり得る。
e.情報のエラーやバグに弱い
これは無知であることに起因する、メタ認知や恒常性の不足が招く問題である。分りやすい簡単な情報にばかり接していて矛盾や不可解さを覚える機会が少ないと、誤った認識を獲得してしまった場合にエラーを修正できないので、大人よりずっと頑なに誤認識に固執してしまう。
バグに対する抵抗力は、普通、他の論理との整合性をとったり、根本的な原理・原則に照らし合わせて健全性を比較することで得られる。だから論理に弱く、常識に疎い子供には自力で解決できないし、まずバグを認識することが性質上、困難を極める。
f.知的飢餓に起因する感受性の高さ
常に不安をともなう知の飢餓状態にある子供は、並外れた雰囲気の察知能力を発揮する。子供のとる”子供らしい振る舞い”の多くは、その場の雰囲気に適応するための受動反応と捉える方が妥当だ。少なくとも生来的な特徴や一様の個性と見做すより、幅広いシチュエーションを説明できる。
更に、意味や仕組みといった論理思考を必要とする事柄にも並々ならぬ関心を示すが、やはり理解は出来ない為その対象が”聴き覚えのある響き”や”類推に使えそうな知覚情報”に傾斜しやすい。こうして汲み取られたニュアンスは精度がとても高く、総じて意味や内容は度外視される。
尚、子供が汲み取るニュアンスとは言わばその場面ごとの”質感”であり、そこから正誤を判断できる性質のものではない。相違や相似を見い出すことに特化していて、”違和感”や”好感”といった尺度の超上級者向け仕様だと思って間違いないだろう。大人のそれとは緻密さと次元数が異なる。
g.発達の準備期にある論理思考
言語能力については、幼児期から児童期にかけた展開が以後の発達とは異なる手順を踏むことは疑いようもない。このテーマは認知科学や発達心理学など広範な分野で扱われており様々な立場をとり得るので、ここではなるべく論理方面の私見だけ並べてみたい。
子供にとって精度の高いニュアンスや雰囲気ほど頼りになる情報は他に無く、記号としての単語の意味などは漫然と保留しておく特徴があるので、言葉のディテールには関心が向かいにくい。また、ニュアンスを掴む手段として有効な”語呂や音のパターン”に敏感で、パターンの記憶も驚くほど巧い。
環境要因が大きく一概には言えないが、子供の性質から典型的な発達過程を推測すると、【標準ニュアンスの獲得→低次パターンの蓄積→高次ジレンマの発見→再構築→標準化】といった順序で螺旋状にループを描き、段々と高度化しながら手段そのものの最適化・使い分けへと発展するものと思われる。
どうも文脈や文章から意味を”読み解く”作業は、高度であまり期待できそうもない。それよりもっと多くのパターンに触れ、「電池が切れる」みたいな慣用・比喩表現でジレンマを促す方が堅実だろう。依然、ニュアンスへの信頼は厚いので新しい事を始める際は、適切なポーズを示すと上達を早められそうだ。
―以上、私の考える”子供の性質”の概要、終わり。
意外とまともな内容に落ち着いたように思うが、どうだろう。持論の部分には大人との比較や、子供特有の問題に対する着眼点を盛り込んでみたので、少し違和感を感じて貰えたら首尾よく話を展開できたということだ。
今回のテーマは「子どもとの付き合い方を考える」なので、対象となる”子供”の性質を述べ終えた時点で私の考えはほぼ出し切った形になる。だからここからはあくまで傍論、方程式を展開して検討するような作業に取り掛かる。
a.~g.のタイトルだけに着目すると、その観点と対象との位置関係が一定でないことが分かると思う。単純な”大人目線”もあれば”アカデミックな視点”に見えるものもある。下の説明では更にもっとコロコロと視点が移り変わっている。
特に意識したわけでも無いのだが、結果として表現や説明そのものは上手くまとまっているのではないか。なにも自賛したいからお伺いを立てている訳ではない。一定の視点から眺めても、人格は正しく捉えられないと主張したい訳だ。
一応、a.~g.の順番は見掛け上分り易そうなものから降冪順に並べてある。なのに明確に”外からの目線”と言えそうなものは、a.c.f.g.辺りで不規則な歯抜け状態になっている。どうでも良さそうに思えるが、意外と馬鹿にできない。
恐らく、大人が自覚的に子供について考える時、意識の上では論理などを用いて普遍的・一般的な説明を試みるが、観測時には対象である子供を”人間”と見做したり、”子供”と突き放したりしないとその特徴を識別できないのだと思う。
考えてみれば”大人の定義”だって曖昧なのだからそれは当然のことなのだけど、改めてこうやって書き出してみると、やっぱり曖昧ではあるもののじっくり考えたことでそれなりに”精度良く”自覚できたように感じる。曖昧、上等。
観測だとか、なにやらテーマとは掛け離れているようだが、私にとってはド真ん中である。何しろ子供と会わない、知らない、問題があることにすら気付けない立場にある人間なのだから。
私には自覚より優先すべき事柄は無いし、恐らくこれは誰にとってもそうである筈だ。事実、あらゆる紛争の背景にあったのは相互理解の不足や、解釈や前提の食い違いではなかったか。
子供が特別な人間だとすれば、理解と自覚はほぼ同義であり、相互に補完し合う知見と言える。分からないことは無くせないだろうし、問題はもっと複雑だろうけど、それでもどちらか一方が100%正しい何てことは、先ずあり得ない。
だから私は”精度の良さ”を求めたい。この問題に100%の正解はあり得ないけれど、100%を目指して理解と自覚を深める努力、精度を追求するエンジニアのような姿勢がどこかしら必要なのではなかろうか。
まとめに入ろう。散々”子供と距離があるアピール”をしてきたが、実際のところ遠目から変な遊びに熱中しているヤツを眺めるのは面白いし、砂場で意味深な動作を繰り返す様子もシリアスで好きだ。
遠くで子供が泣いていればつい住所の見当をつけてしまうし、グラウンドを駆けまわってるサッカー小僧を見掛けると、正直、混ぜて欲しくてしょうがない。言葉の覚束ない幼児など、それこそ常に新しい発見があって見ていて飽きない。
しかしそれもどれも、みんな半径30メートル圏外の眺めか、車窓越しの隔たった光景ばかり。それ自体は淋しいとも残念だとも思わないが、普段から限られた大人に囲まれていつも同じ顔触れのお友達と遊んで、バスの送り迎え付き。
そんな環境が発達に良い影響を与える訳もなく、それだけは、子供を取り巻く環境だけは、とても残念だし憤りさえ感じている。聞けば、今はもう公園でサッカーボールが蹴れないそうじゃないか!そんな馬鹿な話があるか。
子供は楽しいところに寄ってくる。楽しい大人には群がる、触る、揉む、叩く。すべて何かを吸収したい気持ちの顕れと言える。でも、本当に吸収できるのはそのニュアンスとパターンだけで、意味なんかどうでも良い。
なにか子供に身に付けさせたいなら、大人が本気で本域のポーズをとってやればいい。それが最適パターンとして刷り込まれる筈だ。でも、子供の能力を考えれば10や20のパターンじゃ全然足りない、映像なんかで”質感”は補えない
なにか子供に問題があるなら、まず第一に疑うべきはその問題を感じた大人の認識の方だろう。昔からよく言うじゃないか、子供は鏡だと。
問題は面倒なものだけど、もし気持ちがエンジニアになっていれば、「見付かって良かった。危なかった!」と、胸を撫で下ろすところだ。人は機械じゃないけれど、精密さで言えばパソコンなんて百台集めたって人間には敵わない。
そしてエンジニアなら、問題の症状から不具合の原因として考えられる何通りかの候補を挙げて、すぐにバラしたりせず挙動を確かめる。そうしないと、不具合を特定できないからだ。まぁ、その後で結構な扱いをするけど。
子供に対して「こういう態度で付き合いましょう」とか「ああいうことはやっちゃいけません」とか、格言染みたことを言っても、多分どれも正解とは言えないだろう。その程度には複雑だし、想像を絶するほど難解でもない。
理解とまったく同等に自覚が大切だということと、多彩なパターンや適切なニュアンスを余すところ無く活用できるということ、天使でも天才でも愚かでも子供らしい訳でもなく、多様な未熟さを持つ小さな人間だということを、最後に確認しておきたいと思う。
長文、失礼、感謝。
だから以下で用いる”子供”という主語には、子供時代の私とその同輩たちを想定している。どこまで本性に迫れるか、私固有の特徴を除外できるか、どちらも私には判定できそうも無いので各人各々に汲み取って頂きたい。
主観が相手の問題ではまず私見を示しておくのが得策だと思う。必然、受け売りの知識や偏見や常識も含まれるだろう。それでも私見はコンテクストと主観の橋渡しをするものと考えているので、是非とも雑念を振り切って臨みたい。
では、私の考える”子供の性質”は以下の通り。
a.子供は無知である
知識・経験などの総量が、円滑な社会生活を送るために充分な水準に達していない。その為、突飛な言動や不道徳な行いを躊躇なく始めるが、その反面、常識に因われず偏見の少ない目線から、大人に示唆を与えられる
ただし、思考の基となる知識や経験が少ないので、その思考過程には相対的に不備や欠陥が多く、同時に、受け取った情報を総合的に解釈したり、その解釈を検めたり、自分の認識・観念を自ら修正する能力が低い。
b.常に知の飢餓状態にある
子供の場合、好奇心旺盛に見えるのは環境に対する不安の顕れと解釈すべきだろう。大人でも未知の環境に置かれれば同様の状態にはなるが、発達過程にある脳の欲求、類似性を見出す為の情報量の不足などを踏まえると、その飢餓レベルは比ぶべくもない。
論理的思考能力(或いは言語能力)の未熟さが飢餓を増長している面もあるが、論理思考を必要としない経験獲得(ニュアンスの汲み取り・雰囲気の察知・身体操作の習得・五感を通した感覚記憶など)では、大人には真似できないレベルで機転が利く。
c.子供には論理が通用しない
理屈ではなく論理である。目の前の結果とその原因を結びつけて因果関係を導いてくる手際は、寧ろ巧すぎてオーバーロードを始めるくらい達者だ。しかし経験を別の機会に活かしたり、因果そのものを展開させる為に必要な、一般性の表象・抽象化が苦手なので論理にまで発展しない。
この特性は大人にとって、同じ失敗を繰り返すように見えたり、「口で言っても分からない」といった思いを抱かせたりもするが、子供の驚異的な記憶力やニュアンスを汲み取る能力を考慮すると、そういった認識の方が間違っている可能性が高い。一般性を見付けるまでは諦めるべし。
d.時間の感覚がダイナミックに可変する
大人が経験的に取得する時間感覚は、膨大な事実関係の把握や、既に経験した状況記憶との対比によって説明できる。だとすれば、そのどちらも不足している子供にとって一定の期間・間隔を認識するのはひどく難しい。
つまり、時間の概念だけ教わっても、刻むための尺度を持たず”量”を測れないので、意識上は幾らでも伸び縮みさせられる。図らずもコンピュータを省エネ化する為に用いる、可変クロックと同じ原理と言えそうだ。
よく見せる集中力の高さや、言付けを忘れたり何時までも遊んでいたがる様子などは、ほぼ全てこの時間感覚の可変性で説明がつく。必要に応じて可変するのだから、その必要性を理解・比較することが出来れば、優れた能力にもなり得る。
e.情報のエラーやバグに弱い
これは無知であることに起因する、メタ認知や恒常性の不足が招く問題である。分りやすい簡単な情報にばかり接していて矛盾や不可解さを覚える機会が少ないと、誤った認識を獲得してしまった場合にエラーを修正できないので、大人よりずっと頑なに誤認識に固執してしまう。
バグに対する抵抗力は、普通、他の論理との整合性をとったり、根本的な原理・原則に照らし合わせて健全性を比較することで得られる。だから論理に弱く、常識に疎い子供には自力で解決できないし、まずバグを認識することが性質上、困難を極める。
f.知的飢餓に起因する感受性の高さ
常に不安をともなう知の飢餓状態にある子供は、並外れた雰囲気の察知能力を発揮する。子供のとる”子供らしい振る舞い”の多くは、その場の雰囲気に適応するための受動反応と捉える方が妥当だ。少なくとも生来的な特徴や一様の個性と見做すより、幅広いシチュエーションを説明できる。
更に、意味や仕組みといった論理思考を必要とする事柄にも並々ならぬ関心を示すが、やはり理解は出来ない為その対象が”聴き覚えのある響き”や”類推に使えそうな知覚情報”に傾斜しやすい。こうして汲み取られたニュアンスは精度がとても高く、総じて意味や内容は度外視される。
尚、子供が汲み取るニュアンスとは言わばその場面ごとの”質感”であり、そこから正誤を判断できる性質のものではない。相違や相似を見い出すことに特化していて、”違和感”や”好感”といった尺度の超上級者向け仕様だと思って間違いないだろう。大人のそれとは緻密さと次元数が異なる。
g.発達の準備期にある論理思考
言語能力については、幼児期から児童期にかけた展開が以後の発達とは異なる手順を踏むことは疑いようもない。このテーマは認知科学や発達心理学など広範な分野で扱われており様々な立場をとり得るので、ここではなるべく論理方面の私見だけ並べてみたい。
子供にとって精度の高いニュアンスや雰囲気ほど頼りになる情報は他に無く、記号としての単語の意味などは漫然と保留しておく特徴があるので、言葉のディテールには関心が向かいにくい。また、ニュアンスを掴む手段として有効な”語呂や音のパターン”に敏感で、パターンの記憶も驚くほど巧い。
環境要因が大きく一概には言えないが、子供の性質から典型的な発達過程を推測すると、【標準ニュアンスの獲得→低次パターンの蓄積→高次ジレンマの発見→再構築→標準化】といった順序で螺旋状にループを描き、段々と高度化しながら手段そのものの最適化・使い分けへと発展するものと思われる。
どうも文脈や文章から意味を”読み解く”作業は、高度であまり期待できそうもない。それよりもっと多くのパターンに触れ、「電池が切れる」みたいな慣用・比喩表現でジレンマを促す方が堅実だろう。依然、ニュアンスへの信頼は厚いので新しい事を始める際は、適切なポーズを示すと上達を早められそうだ。
―以上、私の考える”子供の性質”の概要、終わり。
意外とまともな内容に落ち着いたように思うが、どうだろう。持論の部分には大人との比較や、子供特有の問題に対する着眼点を盛り込んでみたので、少し違和感を感じて貰えたら首尾よく話を展開できたということだ。
今回のテーマは「子どもとの付き合い方を考える」なので、対象となる”子供”の性質を述べ終えた時点で私の考えはほぼ出し切った形になる。だからここからはあくまで傍論、方程式を展開して検討するような作業に取り掛かる。
a.~g.のタイトルだけに着目すると、その観点と対象との位置関係が一定でないことが分かると思う。単純な”大人目線”もあれば”アカデミックな視点”に見えるものもある。下の説明では更にもっとコロコロと視点が移り変わっている。
特に意識したわけでも無いのだが、結果として表現や説明そのものは上手くまとまっているのではないか。なにも自賛したいからお伺いを立てている訳ではない。一定の視点から眺めても、人格は正しく捉えられないと主張したい訳だ。
一応、a.~g.の順番は見掛け上分り易そうなものから降冪順に並べてある。なのに明確に”外からの目線”と言えそうなものは、a.c.f.g.辺りで不規則な歯抜け状態になっている。どうでも良さそうに思えるが、意外と馬鹿にできない。
恐らく、大人が自覚的に子供について考える時、意識の上では論理などを用いて普遍的・一般的な説明を試みるが、観測時には対象である子供を”人間”と見做したり、”子供”と突き放したりしないとその特徴を識別できないのだと思う。
考えてみれば”大人の定義”だって曖昧なのだからそれは当然のことなのだけど、改めてこうやって書き出してみると、やっぱり曖昧ではあるもののじっくり考えたことでそれなりに”精度良く”自覚できたように感じる。曖昧、上等。
観測だとか、なにやらテーマとは掛け離れているようだが、私にとってはド真ん中である。何しろ子供と会わない、知らない、問題があることにすら気付けない立場にある人間なのだから。
私には自覚より優先すべき事柄は無いし、恐らくこれは誰にとってもそうである筈だ。事実、あらゆる紛争の背景にあったのは相互理解の不足や、解釈や前提の食い違いではなかったか。
子供が特別な人間だとすれば、理解と自覚はほぼ同義であり、相互に補完し合う知見と言える。分からないことは無くせないだろうし、問題はもっと複雑だろうけど、それでもどちらか一方が100%正しい何てことは、先ずあり得ない。
だから私は”精度の良さ”を求めたい。この問題に100%の正解はあり得ないけれど、100%を目指して理解と自覚を深める努力、精度を追求するエンジニアのような姿勢がどこかしら必要なのではなかろうか。
まとめに入ろう。散々”子供と距離があるアピール”をしてきたが、実際のところ遠目から変な遊びに熱中しているヤツを眺めるのは面白いし、砂場で意味深な動作を繰り返す様子もシリアスで好きだ。
遠くで子供が泣いていればつい住所の見当をつけてしまうし、グラウンドを駆けまわってるサッカー小僧を見掛けると、正直、混ぜて欲しくてしょうがない。言葉の覚束ない幼児など、それこそ常に新しい発見があって見ていて飽きない。
しかしそれもどれも、みんな半径30メートル圏外の眺めか、車窓越しの隔たった光景ばかり。それ自体は淋しいとも残念だとも思わないが、普段から限られた大人に囲まれていつも同じ顔触れのお友達と遊んで、バスの送り迎え付き。
そんな環境が発達に良い影響を与える訳もなく、それだけは、子供を取り巻く環境だけは、とても残念だし憤りさえ感じている。聞けば、今はもう公園でサッカーボールが蹴れないそうじゃないか!そんな馬鹿な話があるか。
子供は楽しいところに寄ってくる。楽しい大人には群がる、触る、揉む、叩く。すべて何かを吸収したい気持ちの顕れと言える。でも、本当に吸収できるのはそのニュアンスとパターンだけで、意味なんかどうでも良い。
なにか子供に身に付けさせたいなら、大人が本気で本域のポーズをとってやればいい。それが最適パターンとして刷り込まれる筈だ。でも、子供の能力を考えれば10や20のパターンじゃ全然足りない、映像なんかで”質感”は補えない
なにか子供に問題があるなら、まず第一に疑うべきはその問題を感じた大人の認識の方だろう。昔からよく言うじゃないか、子供は鏡だと。
問題は面倒なものだけど、もし気持ちがエンジニアになっていれば、「見付かって良かった。危なかった!」と、胸を撫で下ろすところだ。人は機械じゃないけれど、精密さで言えばパソコンなんて百台集めたって人間には敵わない。
そしてエンジニアなら、問題の症状から不具合の原因として考えられる何通りかの候補を挙げて、すぐにバラしたりせず挙動を確かめる。そうしないと、不具合を特定できないからだ。まぁ、その後で結構な扱いをするけど。
子供に対して「こういう態度で付き合いましょう」とか「ああいうことはやっちゃいけません」とか、格言染みたことを言っても、多分どれも正解とは言えないだろう。その程度には複雑だし、想像を絶するほど難解でもない。
理解とまったく同等に自覚が大切だということと、多彩なパターンや適切なニュアンスを余すところ無く活用できるということ、天使でも天才でも愚かでも子供らしい訳でもなく、多様な未熟さを持つ小さな人間だということを、最後に確認しておきたいと思う。
長文、失礼、感謝。
NO.122012-09-27 02:19:10 trasque 15
terurunさん
若輩で結婚もしていない私が言うのもおこがましいとは思いますが……
>子供は、白紙で生まれてきているのですから、本当に生まれもって悪い子は、
>いるのでしょうか。。。
断言します。生まれ持って悪い子など断じていません。
それを確信できる大人がどれだけいるのか。私はそこに「社会の成熟度」を感じます。
子供とどのように付き合うべきか。
「社会全体として」 と 「個人として」 の二つの視点で考えたいと思います。
結局は同じ所に収束していくのかもしれませんが、目指すべき形があるのではないでしょうか。
その収束を一言で表せば <語って語って、語りかけまくる> です。
前回の書き込みで私は「あらゆる人に、あらゆる命の方向性が、本来的に備わっている」という内容で書き込みをさせて頂きました。terurunさんへの返答として断言したのも、私のこの思いからくるものです。ある種、子供は「生まれ持って悪い子 でも ある」のです。もちろん「生まれ持って良い子 でも ある」のだと思います。どんな子も、ひとりの人間として「生命」を持っています。色んな感情を持ち、色んな表情を出します。根源的に、そもそもすべて備わっているもののはずです。
目の前に一人の子がいる時、私達は「平穏無事に過ごしてほしい」と願う事があります。ですが、人生は何が起こるか分からないのがリアルなところです。何も人生という大きな括りでなくとも、例えば仕事、例えば1日、全てが平穏無事である事というのは言ってしまえば不自然な事となります。茂木さんの仰る「偶有性」というものだと思います。私達は「平穏無事な立場・状況を手に入れることが幸せだ」と考えてしまいがちですが、それは本質的なことではないように私は考えます。
「人生は何かが起こらないという事などない」というのが<当然>です。まず、そこから出発したならばどうでしょうか。ここで幸福論を議論する訳ではありませんが、この<当然>に対してどのような立場を目指していくのかを探るほうが、よりリアルな幸福ではないでしょうか。
単純かもしれませんが「何が起こるか分からない」のであれば「何が起ころうと決して負ける事がない」状態こそがよりリアルで本質的な幸福で、願うべきものではないかなと思うのです。
どんなにお金を持っていても不遇に出会う事はあるし、思わぬ僥倖に出くわす事もあります。もちろん、そのたびに色んな思い悩みや壁にぶちあたるのが人間として当たり前の姿だとは思います。しかし、最終的にはどんなものであろうと乗り越えられると確信できるかどうか、ではないかと思うのです。そして、どんな人であれ必ずその力は備わっていると私は信じています。
しかし、その為には様々な体験が必要です。また哲学を知らねばならないと思います。一人では難しく、お互いに支えられる仲間がいなければなりません。目標となる人物、行動の指針となる人物・指導。そしてそれらを活かすための知識・経験。結局、色んな刺激や交流といったものがどうしても欠かせないものとなります。
目の前の「この子がもし将来絶望してしまいそうになった時、自ら立ち上がり前進できる何らかのきっかけになれれば」という切実な思いを、接する側の大人(人間)がどれだけもてるかだと思うのです。ちょっとした親の愛情だったり、尊敬している人の一言だったり、仲の良い人の励ましだったり、何が「きっかけ」になるかは分かりません。どれだけ長い期間ダメダメな状態になっても、最後には奮起して負けずに生きようとできるかどうか。gotoichiさんのおっしゃる「タネを植える作業」とは、こういった事ではないかと思います。
ですから(1つ目の視点)「社会全体として」考えますと、子供に対しては出来るだけ多くの人との出会い、できるだけ広い年代層との対話、できるだけ多様な体験談の伝達、そして哲学的な興味に対して真剣に答え語り合ってくれる土壌、が必要ではないかと思います。
特に、現代(特に都市部)では子供と20~30代の青年世代の交流があまりにも少ないと個人的に感じています。いわゆる外のお兄さんお姉さん的な存在です。ですがその為には、平日昼間にほとんど仕事に缶ヅメとなっている青年世代がもう少し自由にならねば実現は難しいのかなと思います。その自由も、理想を言えば青年たちが自らひねり出そうとする気概をもって勝ち取るのが良いと思います。
ただ、これらも語る大人たちに「哲学」がなければならないと思います。
先日ネットで知り合った高校生と語る機会がありました。私の病の体験や就職を勝ち取った話などをしながら、なぜ勉強をするのかとか、どう生きていくべきかといった、思春期らしい話題を出してくれました。できるかぎり真剣に答えたつもりでしたが、彼は「こういった話をマジメにできることなんて中々ない」と嘆いておりました。どこかそういった話を冷笑するような空気ができてしまうと言うのです。
学校の中で哲学的な話をすることに、子供達同志がからかうというのはありがちな事だと思います。ですから親なり教師なり、そして時にちょっと年上のお兄さんお姉さんだったりとの対話が必要になるのだと思います。しかし、いまや大人たちでさえ哲学的なことを「下らない」とする空気を持っていたりはしないでしょうか。どこか真剣ではない空気。ただ感情が先走る大人気なさ。真剣に対話するということは、とりもなおさず相手を信頼するところから始まる、という事を意味します。レッテルと感情先走りでわめき散らすだけとなってしまう大人に、私たちでさえ信頼を感じる事ができないのですから、子供こそ無理からぬ話です。
茂木さんの仰る「大人同士の、一人の人間として、お互いのリスペクト」とはそういったことだと思います。社会に哲学の求道心を濃くして、どんどん理性的に語り合う街の姿を作っていければ良いなと思います。
哲学を求める事は、生き方を求める事です。生き方を求めると、幸福を求める事になります。私は、幸福を求める事は「負けない人生」を模索する事だと思うのです。哲学を求め深める事は、偶有性というリアルの濁流の中に、折れる事のない鉄柱を貫くという建設の精神を鍛える事になるはずです。
「社会全体として」でした。
はじめ子供との付き合い方の議論と聞いて、何か子育てテクニック的な事を思い浮かべましたが、考えれば考えるほどもっともっと本質的な議論が必要だなと思うに至りました。
話は変わりますが、ヴィクトル・ユゴー「九十三年」に師弟についてのエピソードがあります。
人間の深い絆という関係性には、親子、主従、師弟、などといったものがあります。ことさら親子という関係は強いものと考えられています。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は親子関係は決して「最強ではない」と考えています。(両親と私は結構仲が良いのでご心配無用ですw)
「九十三年」には、ある清廉厳格高名な元司祭が登場し、その昔一人の男子を教育したエピソードが描かれます。司祭はいわゆる学問から、思想、哲学、道徳などを惜しみなく指導します。縁によって、長い間二人は会わない時期がありますが、彼らは「師匠と弟子」として常につながっているのです。
その中でユゴーは「親でなくとも子を成せるのだ」といった表現を用いています。丁度スターウォーズのジェダイの関係のようなところです。
また「師」とは、向こうから現れるものでもありません。出会いのきっかけなどで、師の方から現れるといった場面はあるのかもしれませんが、師を師だと認めるのはあくまでも「弟子からの発意」でなければなりません。弟子が「この人は俺の師匠だ!」と宣言しなければ、それは師ではありません。師の方が、師弟関係を認めないとしたとしても、師を求める心は自由です。すでに遠い昔亡くなった作家や哲学者を師匠とする人もいます。認めてくれるかどうかではなく、師を求めようとする弟子であるかどうかが大切だと思います。
(2つ目の視点)「個人として」です。
師弟関係を持つ事。そしてそれを子供に語ることが大事だと考えます。
ちょっと師弟と言うと重いので、尊敬する人でも良いと思います。主従関係にあるような利益を含めた話でもなく、親子関係のような選択できない制限でもなく、あくまでも自ら求めようとする精神を伝えるには、師弟・尊敬のエピソードを語る必要があると思います。ですから、たとえ子供相手でも必然、見栄は張れませんし、真剣に説明しなければなりません。
最後に、社会全体・個人共々にして必要だと感じるのは「後の世界をどうぞよろしくお願いします」と本気で子供(赤子も含め)に頭を下げられるかだと思います。私もこれだけ書いておいて、何の戦歴もありませんが、私より後の世界をお願いするためにも、何かできることをしなければと、若い子と話をするたびに胸が熱くなるのです。私もまだ恐らく、あと50年くらいはこの世界にお世話になるので、彼らと進んでいく事になります。様々な経験を積んで、小さい彼らを少しでも励ませるようになりたい、何か大変な時のきっかけの1つにでもせめてなりたい、そういう風に願って止みません。その為にもっともっと「語って語って、語りかけまくる」挑戦をしていこうと思うのです。
若輩で結婚もしていない私が言うのもおこがましいとは思いますが……
>子供は、白紙で生まれてきているのですから、本当に生まれもって悪い子は、
>いるのでしょうか。。。
断言します。生まれ持って悪い子など断じていません。
それを確信できる大人がどれだけいるのか。私はそこに「社会の成熟度」を感じます。
子供とどのように付き合うべきか。
「社会全体として」 と 「個人として」 の二つの視点で考えたいと思います。
結局は同じ所に収束していくのかもしれませんが、目指すべき形があるのではないでしょうか。
その収束を一言で表せば <語って語って、語りかけまくる> です。
前回の書き込みで私は「あらゆる人に、あらゆる命の方向性が、本来的に備わっている」という内容で書き込みをさせて頂きました。terurunさんへの返答として断言したのも、私のこの思いからくるものです。ある種、子供は「生まれ持って悪い子 でも ある」のです。もちろん「生まれ持って良い子 でも ある」のだと思います。どんな子も、ひとりの人間として「生命」を持っています。色んな感情を持ち、色んな表情を出します。根源的に、そもそもすべて備わっているもののはずです。
目の前に一人の子がいる時、私達は「平穏無事に過ごしてほしい」と願う事があります。ですが、人生は何が起こるか分からないのがリアルなところです。何も人生という大きな括りでなくとも、例えば仕事、例えば1日、全てが平穏無事である事というのは言ってしまえば不自然な事となります。茂木さんの仰る「偶有性」というものだと思います。私達は「平穏無事な立場・状況を手に入れることが幸せだ」と考えてしまいがちですが、それは本質的なことではないように私は考えます。
「人生は何かが起こらないという事などない」というのが<当然>です。まず、そこから出発したならばどうでしょうか。ここで幸福論を議論する訳ではありませんが、この<当然>に対してどのような立場を目指していくのかを探るほうが、よりリアルな幸福ではないでしょうか。
単純かもしれませんが「何が起こるか分からない」のであれば「何が起ころうと決して負ける事がない」状態こそがよりリアルで本質的な幸福で、願うべきものではないかなと思うのです。
どんなにお金を持っていても不遇に出会う事はあるし、思わぬ僥倖に出くわす事もあります。もちろん、そのたびに色んな思い悩みや壁にぶちあたるのが人間として当たり前の姿だとは思います。しかし、最終的にはどんなものであろうと乗り越えられると確信できるかどうか、ではないかと思うのです。そして、どんな人であれ必ずその力は備わっていると私は信じています。
しかし、その為には様々な体験が必要です。また哲学を知らねばならないと思います。一人では難しく、お互いに支えられる仲間がいなければなりません。目標となる人物、行動の指針となる人物・指導。そしてそれらを活かすための知識・経験。結局、色んな刺激や交流といったものがどうしても欠かせないものとなります。
目の前の「この子がもし将来絶望してしまいそうになった時、自ら立ち上がり前進できる何らかのきっかけになれれば」という切実な思いを、接する側の大人(人間)がどれだけもてるかだと思うのです。ちょっとした親の愛情だったり、尊敬している人の一言だったり、仲の良い人の励ましだったり、何が「きっかけ」になるかは分かりません。どれだけ長い期間ダメダメな状態になっても、最後には奮起して負けずに生きようとできるかどうか。gotoichiさんのおっしゃる「タネを植える作業」とは、こういった事ではないかと思います。
ですから(1つ目の視点)「社会全体として」考えますと、子供に対しては出来るだけ多くの人との出会い、できるだけ広い年代層との対話、できるだけ多様な体験談の伝達、そして哲学的な興味に対して真剣に答え語り合ってくれる土壌、が必要ではないかと思います。
特に、現代(特に都市部)では子供と20~30代の青年世代の交流があまりにも少ないと個人的に感じています。いわゆる外のお兄さんお姉さん的な存在です。ですがその為には、平日昼間にほとんど仕事に缶ヅメとなっている青年世代がもう少し自由にならねば実現は難しいのかなと思います。その自由も、理想を言えば青年たちが自らひねり出そうとする気概をもって勝ち取るのが良いと思います。
ただ、これらも語る大人たちに「哲学」がなければならないと思います。
先日ネットで知り合った高校生と語る機会がありました。私の病の体験や就職を勝ち取った話などをしながら、なぜ勉強をするのかとか、どう生きていくべきかといった、思春期らしい話題を出してくれました。できるかぎり真剣に答えたつもりでしたが、彼は「こういった話をマジメにできることなんて中々ない」と嘆いておりました。どこかそういった話を冷笑するような空気ができてしまうと言うのです。
学校の中で哲学的な話をすることに、子供達同志がからかうというのはありがちな事だと思います。ですから親なり教師なり、そして時にちょっと年上のお兄さんお姉さんだったりとの対話が必要になるのだと思います。しかし、いまや大人たちでさえ哲学的なことを「下らない」とする空気を持っていたりはしないでしょうか。どこか真剣ではない空気。ただ感情が先走る大人気なさ。真剣に対話するということは、とりもなおさず相手を信頼するところから始まる、という事を意味します。レッテルと感情先走りでわめき散らすだけとなってしまう大人に、私たちでさえ信頼を感じる事ができないのですから、子供こそ無理からぬ話です。
茂木さんの仰る「大人同士の、一人の人間として、お互いのリスペクト」とはそういったことだと思います。社会に哲学の求道心を濃くして、どんどん理性的に語り合う街の姿を作っていければ良いなと思います。
哲学を求める事は、生き方を求める事です。生き方を求めると、幸福を求める事になります。私は、幸福を求める事は「負けない人生」を模索する事だと思うのです。哲学を求め深める事は、偶有性というリアルの濁流の中に、折れる事のない鉄柱を貫くという建設の精神を鍛える事になるはずです。
「社会全体として」でした。
はじめ子供との付き合い方の議論と聞いて、何か子育てテクニック的な事を思い浮かべましたが、考えれば考えるほどもっともっと本質的な議論が必要だなと思うに至りました。
話は変わりますが、ヴィクトル・ユゴー「九十三年」に師弟についてのエピソードがあります。
人間の深い絆という関係性には、親子、主従、師弟、などといったものがあります。ことさら親子という関係は強いものと考えられています。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は親子関係は決して「最強ではない」と考えています。(両親と私は結構仲が良いのでご心配無用ですw)
「九十三年」には、ある清廉厳格高名な元司祭が登場し、その昔一人の男子を教育したエピソードが描かれます。司祭はいわゆる学問から、思想、哲学、道徳などを惜しみなく指導します。縁によって、長い間二人は会わない時期がありますが、彼らは「師匠と弟子」として常につながっているのです。
その中でユゴーは「親でなくとも子を成せるのだ」といった表現を用いています。丁度スターウォーズのジェダイの関係のようなところです。
また「師」とは、向こうから現れるものでもありません。出会いのきっかけなどで、師の方から現れるといった場面はあるのかもしれませんが、師を師だと認めるのはあくまでも「弟子からの発意」でなければなりません。弟子が「この人は俺の師匠だ!」と宣言しなければ、それは師ではありません。師の方が、師弟関係を認めないとしたとしても、師を求める心は自由です。すでに遠い昔亡くなった作家や哲学者を師匠とする人もいます。認めてくれるかどうかではなく、師を求めようとする弟子であるかどうかが大切だと思います。
(2つ目の視点)「個人として」です。
師弟関係を持つ事。そしてそれを子供に語ることが大事だと考えます。
ちょっと師弟と言うと重いので、尊敬する人でも良いと思います。主従関係にあるような利益を含めた話でもなく、親子関係のような選択できない制限でもなく、あくまでも自ら求めようとする精神を伝えるには、師弟・尊敬のエピソードを語る必要があると思います。ですから、たとえ子供相手でも必然、見栄は張れませんし、真剣に説明しなければなりません。
最後に、社会全体・個人共々にして必要だと感じるのは「後の世界をどうぞよろしくお願いします」と本気で子供(赤子も含め)に頭を下げられるかだと思います。私もこれだけ書いておいて、何の戦歴もありませんが、私より後の世界をお願いするためにも、何かできることをしなければと、若い子と話をするたびに胸が熱くなるのです。私もまだ恐らく、あと50年くらいはこの世界にお世話になるので、彼らと進んでいく事になります。様々な経験を積んで、小さい彼らを少しでも励ませるようになりたい、何か大変な時のきっかけの1つにでもせめてなりたい、そういう風に願って止みません。その為にもっともっと「語って語って、語りかけまくる」挑戦をしていこうと思うのです。
NO.112012-09-26 10:28:18 terurun 27
私の文章力のなさから、浅く捉えられてしまうことを申し訳なく思います。
笑顔の難しさは、大人になってからの方が、痛感します。
甘やかされたり、精神的に弱いものには、表情としては、出てきません。
「笑顔」と「笑い」は違います。
「笑顔」と言っても微笑みに近い意味でしょうか(笑)。
大人が子供に微笑むことが出来ないのに、
なぜ、子供が周りの人に微笑むことが出来るのでしょうか。
これが、いつも疑問です。
私も子供が2人いますが、日々、子供を育てることは、自分との
闘いです。
感情的になることを抑えることがこんなにも難しいものなのか。と
常に感じています。
私は、自分の子供も学校にいる子供も子供自体そのものが悪い子だなと
思うお子さんを見たことがありません。。。
大概、問題を起こさざるおえないお子さんは、親に家庭に問題があります。
子供は、白紙で生まれてきているのですから、本当に生まれもって悪い子は、
いるのでしょうか。。。
私は、自分が大人でありながら、いつも子供ではなく、
いろんな子供の問題は、大人に責任があるように思えてならないのです。。。
子供に何か指導、指摘をする前に、大人である自分は、どうであるかが
先になります。
子供は、自分が幼い時もそうですが、
常に大人を異常なほどに見ています。
私は、幼い頃から、大人の汚く、弱い世界を見る機会が多く。。。
それを人よりも痛感しているがために、皮肉なってすみません。。。
子供は、とてつもなく大人をよく見ています。。。
社会、大人を見るということは、すなわち、子供を見るということ。
子供を見るということは、社会、大人を見ているのと同じことだと思います。
皆さんが言うように、鏡だと思います。
子供のいじめを考える前に、大人のいじめが先だと考えます。
大人にいじめをしている大人を子供は、よく見ています。
笑顔の難しさは、大人になってからの方が、痛感します。
甘やかされたり、精神的に弱いものには、表情としては、出てきません。
「笑顔」と「笑い」は違います。
「笑顔」と言っても微笑みに近い意味でしょうか(笑)。
大人が子供に微笑むことが出来ないのに、
なぜ、子供が周りの人に微笑むことが出来るのでしょうか。
これが、いつも疑問です。
私も子供が2人いますが、日々、子供を育てることは、自分との
闘いです。
感情的になることを抑えることがこんなにも難しいものなのか。と
常に感じています。
私は、自分の子供も学校にいる子供も子供自体そのものが悪い子だなと
思うお子さんを見たことがありません。。。
大概、問題を起こさざるおえないお子さんは、親に家庭に問題があります。
子供は、白紙で生まれてきているのですから、本当に生まれもって悪い子は、
いるのでしょうか。。。
私は、自分が大人でありながら、いつも子供ではなく、
いろんな子供の問題は、大人に責任があるように思えてならないのです。。。
子供に何か指導、指摘をする前に、大人である自分は、どうであるかが
先になります。
子供は、自分が幼い時もそうですが、
常に大人を異常なほどに見ています。
私は、幼い頃から、大人の汚く、弱い世界を見る機会が多く。。。
それを人よりも痛感しているがために、皮肉なってすみません。。。
子供は、とてつもなく大人をよく見ています。。。
社会、大人を見るということは、すなわち、子供を見るということ。
子供を見るということは、社会、大人を見ているのと同じことだと思います。
皆さんが言うように、鏡だと思います。
子供のいじめを考える前に、大人のいじめが先だと考えます。
大人にいじめをしている大人を子供は、よく見ています。
NO.102012-09-26 09:55:23 茂木健一郎 17
子どもの成長を促すためには、一人の人間として真摯に接する必要があると思います。そのためには、結局、大人どうしで、普段からお互いを一人の人間として「リスペクト」して接していなければならない。それが今の日本人はどれくらいできているのでしょうか? 相手に、自律性に基づく判断や行動を促すだけのスペース、余裕を与えているのでしょうか? 結局、子どもへの向き合い方の中に、大人の社会の事情が投影されているように思います。
NO.92012-09-26 09:35:15 yamanorisu 15
No.7masamiさん、No.8terurunさんの投稿、共感しながら拝読いたしました。
自己肯定感を育てるために、褒めること。
笑顔で生きること。
どちらも、子どもであれば、あたりまえのことであってほしいと願います。
ただ、子育てをしてみて思うのは、褒めてばかりでも、笑ってばかりでもダメなこともあるということです。
masamiさんの投稿の最後にある『「私はあなたの意見に反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という究極の大人の姿』を軸に据えて、そこに反することを子どもがしているとき、考えている時には、真剣に、それは良くない、してはいけない、お母さん(親・大人)はそういうことをする(考える)あなたには失望する…ということを伝えないといけないと感じています。
今、学校で、子どもたちは当たり前のように「うざい」「きもい」という言葉を使います。TVでも、大人たちの間でも当たり前に使われているのですから、当然の姿かもしれません。
娘も同様でした。
言っている本人には、悪意がないのですが、言われた人はとても傷ついて学校に行きたくないと言っているということが起きました。
このときは、娘と向き合い、お父さんやお母さんにとってあなたが大切な大好きな存在であるように、○○ちゃんも、○○ちゃんのお父さん、お母さんにとってとても大切な存在であること。
あなたが他の子から「うざい」「きもい」と言われていやな気もちになったとしたら、お母さんはとても悲しい。
あなたが、他の子に「うざい」「きもい」なんて言っていて他の子を切ない気持ちにさせてしまうことも、悲しい。
と話ました。
娘は、ぽろぽろっと涙を流しながら、黙って考えていたようです。そして、その後、学校で、言葉遣いに気をつけているようだと先生からお話がありました。
もちろん、その時は、娘のことを褒めまくりました。
要は、親や大人が一番大切しなければいけない「軸」をもち、そこからはぶれてはいけない、と思うのです。
自己肯定感を育てるために褒めましょう、というと、なんでもかんでも褒めて、ダメなことをダメと言わないのは、子どものためではないし、笑顔でいてほしいから、怒らない、泣かせないというのも、やはり、片手落ちだろう思います。
masamiさんの投稿の中に、「大人は子どもの鏡」とあります。私もそう思います。
大人も人からのアドバイスを受け変わることもある、反省することもある。
笑っていたいけれど、泣きたいときや怒るときもある。
それは、大切にしなければいけない「軸」があるからなんだ、ということを映し出せる鏡でありたいと思います。
子どもにとって理不尽にならない付き合い方を、いつも意識していきたいと思います。
自己肯定感を育てるために、褒めること。
笑顔で生きること。
どちらも、子どもであれば、あたりまえのことであってほしいと願います。
ただ、子育てをしてみて思うのは、褒めてばかりでも、笑ってばかりでもダメなこともあるということです。
masamiさんの投稿の最後にある『「私はあなたの意見に反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という究極の大人の姿』を軸に据えて、そこに反することを子どもがしているとき、考えている時には、真剣に、それは良くない、してはいけない、お母さん(親・大人)はそういうことをする(考える)あなたには失望する…ということを伝えないといけないと感じています。
今、学校で、子どもたちは当たり前のように「うざい」「きもい」という言葉を使います。TVでも、大人たちの間でも当たり前に使われているのですから、当然の姿かもしれません。
娘も同様でした。
言っている本人には、悪意がないのですが、言われた人はとても傷ついて学校に行きたくないと言っているということが起きました。
このときは、娘と向き合い、お父さんやお母さんにとってあなたが大切な大好きな存在であるように、○○ちゃんも、○○ちゃんのお父さん、お母さんにとってとても大切な存在であること。
あなたが他の子から「うざい」「きもい」と言われていやな気もちになったとしたら、お母さんはとても悲しい。
あなたが、他の子に「うざい」「きもい」なんて言っていて他の子を切ない気持ちにさせてしまうことも、悲しい。
と話ました。
娘は、ぽろぽろっと涙を流しながら、黙って考えていたようです。そして、その後、学校で、言葉遣いに気をつけているようだと先生からお話がありました。
もちろん、その時は、娘のことを褒めまくりました。
要は、親や大人が一番大切しなければいけない「軸」をもち、そこからはぶれてはいけない、と思うのです。
自己肯定感を育てるために褒めましょう、というと、なんでもかんでも褒めて、ダメなことをダメと言わないのは、子どものためではないし、笑顔でいてほしいから、怒らない、泣かせないというのも、やはり、片手落ちだろう思います。
masamiさんの投稿の中に、「大人は子どもの鏡」とあります。私もそう思います。
大人も人からのアドバイスを受け変わることもある、反省することもある。
笑っていたいけれど、泣きたいときや怒るときもある。
それは、大切にしなければいけない「軸」があるからなんだ、ということを映し出せる鏡でありたいと思います。
子どもにとって理不尽にならない付き合い方を、いつも意識していきたいと思います。
NO.82012-09-26 08:17:52 terurun 22
子供が何を学び、何を感じ、大きくなるのか。
子供達の顔に「笑顔」がいっぱい溢れますように。
「笑顔」は、本当に素晴らしい。
笑顔と言うのは、人生のバロメーターだと思います。
笑顔になれる子供で、問題な子供は、まず、いないと思います。
自分で自分の自然な笑顔を見ることは出来ないけれど、
相手には、見てもらうことが出来るのだから、素晴らしい。
笑顔を見た相手にも、笑顔は、うつります。。。
「笑顔になれる子供を育てること。」
大人になれば、なるほど、笑顔が自然に出来る人は、本当に
減っていきますね。。。
だからこそ、子供達には、「笑顔」になれる人間になって欲しいと
願います。
笑顔は、心の豊かさと人を許せる寛容さ、優しさと相手に対する思いやり
そういったものがトータルになければ、生まれません。。。
最近の大人の方の顔を見る度に、機嫌悪そうな顔をしている人、怒っているような
顔をしている人、不満そうな顔をしている人。。。
みんな、笑顔が足りないな。。。と思います。。。
私も、そう若くないので、いつ笑顔が失われるだろう?っと思いながら
生きています。
自分も。。。心の余裕。。。本当に大事なことだけは、分かっています。。。
そして、子供達にも、笑顔で人と接することが出来る
心の余裕がある人間になって欲しいと願っています。。。
本題から、いつもずれてしまいますが・・・
大人として自分が子供に出来る付き合い方。
それは、「笑顔で子供達と接するということ」を
心がけることです。
子供達の顔に「笑顔」がいっぱい溢れますように。
「笑顔」は、本当に素晴らしい。
笑顔と言うのは、人生のバロメーターだと思います。
笑顔になれる子供で、問題な子供は、まず、いないと思います。
自分で自分の自然な笑顔を見ることは出来ないけれど、
相手には、見てもらうことが出来るのだから、素晴らしい。
笑顔を見た相手にも、笑顔は、うつります。。。
「笑顔になれる子供を育てること。」
大人になれば、なるほど、笑顔が自然に出来る人は、本当に
減っていきますね。。。
だからこそ、子供達には、「笑顔」になれる人間になって欲しいと
願います。
笑顔は、心の豊かさと人を許せる寛容さ、優しさと相手に対する思いやり
そういったものがトータルになければ、生まれません。。。
最近の大人の方の顔を見る度に、機嫌悪そうな顔をしている人、怒っているような
顔をしている人、不満そうな顔をしている人。。。
みんな、笑顔が足りないな。。。と思います。。。
私も、そう若くないので、いつ笑顔が失われるだろう?っと思いながら
生きています。
自分も。。。心の余裕。。。本当に大事なことだけは、分かっています。。。
そして、子供達にも、笑顔で人と接することが出来る
心の余裕がある人間になって欲しいと願っています。。。
本題から、いつもずれてしまいますが・・・
大人として自分が子供に出来る付き合い方。
それは、「笑顔で子供達と接するということ」を
心がけることです。
NO.72012-09-26 07:56:25 masami 19
本当に難しいテーマだと思いました。漠然としていますが、私がこのテーマから考えたことを書いてみます。
BigIssue 198号のエコノミスト、浜矩子さんのインタビュー「分かち合いへ「think local act global」日本の課題の解決が世界のモデルになる時代」を参考にしたいと思います。今の日本はロールモデルを求めることは許されない、私たちが目標。日本でしか課題になっていないことがたくさんある。最大のポイントは人の痛みがわかるということ。居心地のよい自己完結の世界だけでは終わらず、自分たちではない、誰かのために何かをしているという意識が必要なのではないでしょうか。と、浜矩子さんは語っています。過去の成功体験にとらわれていたら、新しい今の課題に向き合えない時代。
社会の仕組みや経済だけでなく、その他の分野を眺めても、私たち大人が今の子どもたちにできることはそれほど多くないと思います。いろいろなことが、どんどん変化してきている点、これから社会がどうなっていくかわからないという点で、子どもと大人がほぼ同じ地平に立って、それぞれの場で、自分のできることを模索する時代にいるように感じます。そんな今、私は子供たちには、自己肯定感を持ってほしいです。
自己肯定感があれば、ありのままの自分でいることや、失敗することを恐れず、新しい人や知識と出会うことに前向きになり、自らの力で問題を解決する力を養うことができると思います。そのために私たち大人ができることは、子どもたちのよい面を映し出す鏡になることだと思います。人は、特に子供は、確固たる自分の姿を知っているわけではなく、他者の自分に対する態度を見て、自分なるものを形作っていくのだと思います。極端な例を考えると、怒られたり無視されたりし続けた人が、自分に価値があると思うのはとても難しいでしょう。また、何かができたときは大げさにほめられ、大人の意にそわないことをした時は激しく怒られるとしたら、人の顔色が、その場の損得が自分の在り方の基準になってしまうでしょう。そのような状態で、自分の中に備わる能力を安心して発揮できるようにはならないと思います。子どもに対する時、大人が理想と思うように作り上げる存在ではなく、尊い命と向き合っているという意識を持っていたいと思います。そして、成長を楽しみに見守りたいと思います。
明治から大正、昭和の初めにかけての多くの大人たちは、自分には理解できないけれども、子どもたちが新しい世界に出て行くことをただ楽しみに、ひたすら後押ししたと思います。今の私たちは、その頃の親と違う、教育を受けていろいろわかっている子供を導く立場、と思っているかもしれないけれど、実は、当時の親たちと同じではないでしょうか。
今の子どもたちが出て行くのは、かつての若者が目指した高度成長社会ではなく、浜矩子さんが語っている、奪い合いではなく、分かち合いでしか誰も生きていけないグローバルジャングル。そこで大切なのは「私はあなたの意見に反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という究極の大人の姿。このような大人に成長するためには、まず自分の意見を主張する権利が守られる体験が大切なのだと思います。
BigIssue 198号のエコノミスト、浜矩子さんのインタビュー「分かち合いへ「think local act global」日本の課題の解決が世界のモデルになる時代」を参考にしたいと思います。今の日本はロールモデルを求めることは許されない、私たちが目標。日本でしか課題になっていないことがたくさんある。最大のポイントは人の痛みがわかるということ。居心地のよい自己完結の世界だけでは終わらず、自分たちではない、誰かのために何かをしているという意識が必要なのではないでしょうか。と、浜矩子さんは語っています。過去の成功体験にとらわれていたら、新しい今の課題に向き合えない時代。
社会の仕組みや経済だけでなく、その他の分野を眺めても、私たち大人が今の子どもたちにできることはそれほど多くないと思います。いろいろなことが、どんどん変化してきている点、これから社会がどうなっていくかわからないという点で、子どもと大人がほぼ同じ地平に立って、それぞれの場で、自分のできることを模索する時代にいるように感じます。そんな今、私は子供たちには、自己肯定感を持ってほしいです。
自己肯定感があれば、ありのままの自分でいることや、失敗することを恐れず、新しい人や知識と出会うことに前向きになり、自らの力で問題を解決する力を養うことができると思います。そのために私たち大人ができることは、子どもたちのよい面を映し出す鏡になることだと思います。人は、特に子供は、確固たる自分の姿を知っているわけではなく、他者の自分に対する態度を見て、自分なるものを形作っていくのだと思います。極端な例を考えると、怒られたり無視されたりし続けた人が、自分に価値があると思うのはとても難しいでしょう。また、何かができたときは大げさにほめられ、大人の意にそわないことをした時は激しく怒られるとしたら、人の顔色が、その場の損得が自分の在り方の基準になってしまうでしょう。そのような状態で、自分の中に備わる能力を安心して発揮できるようにはならないと思います。子どもに対する時、大人が理想と思うように作り上げる存在ではなく、尊い命と向き合っているという意識を持っていたいと思います。そして、成長を楽しみに見守りたいと思います。
明治から大正、昭和の初めにかけての多くの大人たちは、自分には理解できないけれども、子どもたちが新しい世界に出て行くことをただ楽しみに、ひたすら後押ししたと思います。今の私たちは、その頃の親と違う、教育を受けていろいろわかっている子供を導く立場、と思っているかもしれないけれど、実は、当時の親たちと同じではないでしょうか。
今の子どもたちが出て行くのは、かつての若者が目指した高度成長社会ではなく、浜矩子さんが語っている、奪い合いではなく、分かち合いでしか誰も生きていけないグローバルジャングル。そこで大切なのは「私はあなたの意見に反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という究極の大人の姿。このような大人に成長するためには、まず自分の意見を主張する権利が守られる体験が大切なのだと思います。
NO.62012-09-26 06:49:03 gotoichi 14
訂正と補足をさせていただきたいです。
まず、シーディングはシュタイナー教育ではなかったです。
大変すみません。しかし、考え方は同じ立ち位置です。
教育の成果がすぐに出るなんてのは嘘だとおもいます。
いつか花開くのを夢見て、子どもに接する姿勢が大切だと
考えています。
収穫の時期とタネを植える時期は全然意味が違います。
子どもは収穫を期待してはいけないように思うのです。
もちろん、才能を発揮する機会に恵まれることもあるかもしれません。
でも、そんなことやって、大人になって役に立つのか?
という議論には違和感があります。
タネをいくら観察しても、どんな花が咲くかを想像することは
難しいからです。
種まきしているという認識で子どもに接するべきであると考えています。
まず、シーディングはシュタイナー教育ではなかったです。
大変すみません。しかし、考え方は同じ立ち位置です。
教育の成果がすぐに出るなんてのは嘘だとおもいます。
いつか花開くのを夢見て、子どもに接する姿勢が大切だと
考えています。
収穫の時期とタネを植える時期は全然意味が違います。
子どもは収穫を期待してはいけないように思うのです。
もちろん、才能を発揮する機会に恵まれることもあるかもしれません。
でも、そんなことやって、大人になって役に立つのか?
という議論には違和感があります。
タネをいくら観察しても、どんな花が咲くかを想像することは
難しいからです。
種まきしているという認識で子どもに接するべきであると考えています。
NO.52012-09-25 22:30:18 yamanorisu 18
「子どもとの付き合い方」は、「向き合い方」であってはいけないと思っています。
サン・テグジュペリの言葉に「愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである」とありますが、向き合ってしまうと、お互いの顔はよく見えるかもしれませんが、周囲のことは見えずらくなってしまいます。
社会の中で自分を見失わずに生きていける人に育てていくことが、子どもへの愛だと思っています。
そのためには、一緒に同じ方向を向いて、最初は狭い子どもの視野を、広げて行くこと、世の中ってこんなに広いんだよということを教えていくことが大事なことだと思います。
また、同時に、広い世界の中にいる自分という存在に気づき、、自分以外の人がいることにも、目を向けられるようにしていくことも、とても大切なことだと思っています。
少し前に、茂木さんのツイート(だったかな?)にもありましたが、メタ認知を育てる、ということでしょうか。
そう考えたとき、子どものとの付き合い方は、翻って、大人がどう生きるかという問題につながると思います。
子どもに、私(親)は、あなたのことをこう見ているよ、あなたのしたことをこう思ったよ、あなたはこんなところがいいね、このへんはどうだろうか?と伝えていく。
世の中の人は、あなたのことをこう見ているんじゃないかな?あなたのしたことがどう思われたかな?自分ってどういう存在?と考えられるようにしていく。
子育て歴10年。子どもにそのことを伝えている自分は、どうだろうか…?と、我が身を振り返り、深く自省することがどれだけあったか…。
No.1chigusaotsukiさんの「子ども支援におけるソリューション・フォーカスト・アプローチ」は、子どもへの視点と親への視点の両方から考察されている点が、とてもすてきだと思いました。
その引用文の中に、親は子どもを誇りに思いたい、子どもは親に誇りに思ってもらえる自分になりたい、と書かれていますが、「誇り」は、単にお互いのことを尊重し好きになることではなく、社会の中の存在として立派であることが基準だろうと思います。
他の子どもたちの中で自分を誇りに思う。他の子どもたちの中にあって自分の子どもを誇りに思う。
社会の中で自分を誇りに思う。社会の中で、子どもから誇りに思ってもらえる自分(親)である。
その判断の基準は、「社会人としての生き方」にあるのではないでしょうか。
今の社会で求められている社会人。
それは、グローバル社会の中で自立して生きるということだと思います。
日本に生きるひとりとして、世界という視野でメタ認知する。
そのときに自分を、日本を、誇りに思える生き方をできているかどうか…。
子どもたちが、将来に夢や希望をもって、社会の中で役立つ人になりたいと思えるような社会を作っているかどうか…。
子どもは、大人を見て育っていきます。
まず、私たち大人が、メタ認知に磨きをかけ、親として、社会人として、日本人として…多様性を認め、命を大事にできる、スマートで優しい自立した大人になれるよう、努力していくことが、大事ではないかな。と思います。
サン・テグジュペリの言葉に「愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである」とありますが、向き合ってしまうと、お互いの顔はよく見えるかもしれませんが、周囲のことは見えずらくなってしまいます。
社会の中で自分を見失わずに生きていける人に育てていくことが、子どもへの愛だと思っています。
そのためには、一緒に同じ方向を向いて、最初は狭い子どもの視野を、広げて行くこと、世の中ってこんなに広いんだよということを教えていくことが大事なことだと思います。
また、同時に、広い世界の中にいる自分という存在に気づき、、自分以外の人がいることにも、目を向けられるようにしていくことも、とても大切なことだと思っています。
少し前に、茂木さんのツイート(だったかな?)にもありましたが、メタ認知を育てる、ということでしょうか。
そう考えたとき、子どものとの付き合い方は、翻って、大人がどう生きるかという問題につながると思います。
子どもに、私(親)は、あなたのことをこう見ているよ、あなたのしたことをこう思ったよ、あなたはこんなところがいいね、このへんはどうだろうか?と伝えていく。
世の中の人は、あなたのことをこう見ているんじゃないかな?あなたのしたことがどう思われたかな?自分ってどういう存在?と考えられるようにしていく。
子育て歴10年。子どもにそのことを伝えている自分は、どうだろうか…?と、我が身を振り返り、深く自省することがどれだけあったか…。
No.1chigusaotsukiさんの「子ども支援におけるソリューション・フォーカスト・アプローチ」は、子どもへの視点と親への視点の両方から考察されている点が、とてもすてきだと思いました。
その引用文の中に、親は子どもを誇りに思いたい、子どもは親に誇りに思ってもらえる自分になりたい、と書かれていますが、「誇り」は、単にお互いのことを尊重し好きになることではなく、社会の中の存在として立派であることが基準だろうと思います。
他の子どもたちの中で自分を誇りに思う。他の子どもたちの中にあって自分の子どもを誇りに思う。
社会の中で自分を誇りに思う。社会の中で、子どもから誇りに思ってもらえる自分(親)である。
その判断の基準は、「社会人としての生き方」にあるのではないでしょうか。
今の社会で求められている社会人。
それは、グローバル社会の中で自立して生きるということだと思います。
日本に生きるひとりとして、世界という視野でメタ認知する。
そのときに自分を、日本を、誇りに思える生き方をできているかどうか…。
子どもたちが、将来に夢や希望をもって、社会の中で役立つ人になりたいと思えるような社会を作っているかどうか…。
子どもは、大人を見て育っていきます。
まず、私たち大人が、メタ認知に磨きをかけ、親として、社会人として、日本人として…多様性を認め、命を大事にできる、スマートで優しい自立した大人になれるよう、努力していくことが、大事ではないかな。と思います。
NO.42012-09-25 20:58:45 gotoichi 18
子どもとの付き合い方についての意見を塾講師として書いてみたいとおもいます。
基本的に、子どもはいつか大人になります。
あまり、理不尽な扱いはしないほうがよいです。
その場はよいようでも、長い目で見ると間違っている場合があります。
これは先生を10年以上してきて思うことです。
案外、相手はなんとも思ってないことも多いです。
でも、こっちとしては立派になった教え子に
恥ずかしいことはないようにしたいとおもいます。
でも、だからといって、機嫌をとるわけにはいきません。
指導者が同じ目線であることは大切かもしれませんが、
同じ立ち位置でいては子どもは伸びません。
やはり、指導者は引っ張りあげる感覚が必要ですし、
客観的に評価を与える必要があります。
最終的には愛情だと思っています。
心底、相手のためになると思っていることは通じる時がきます。
僕は子育てをしたことがないので、きれいごとかもしれませんが、
少々の感情の齟齬は問題ないと考えています。
それは大人になるだけではなくて、育てる立場にやがて子どもが立つからです。
そのときに真意が伝わるのでも問題ないだろうとおもいます。
シュタイナー教育で有名なルドルフ シュタイナーはシーディングと
言っていたと思いますが、教育とはタネを植える作業です。
その場で成果は確認出来ない。でも、きっかけがあれば、芽を出して
花を咲かせるものです。もちろん、その花が教育の成果だとはわからないのです。
そのくらいのスタンスで子どもとの距離感をもつことが必要かなと思います。
基本的に、子どもはいつか大人になります。
あまり、理不尽な扱いはしないほうがよいです。
その場はよいようでも、長い目で見ると間違っている場合があります。
これは先生を10年以上してきて思うことです。
案外、相手はなんとも思ってないことも多いです。
でも、こっちとしては立派になった教え子に
恥ずかしいことはないようにしたいとおもいます。
でも、だからといって、機嫌をとるわけにはいきません。
指導者が同じ目線であることは大切かもしれませんが、
同じ立ち位置でいては子どもは伸びません。
やはり、指導者は引っ張りあげる感覚が必要ですし、
客観的に評価を与える必要があります。
最終的には愛情だと思っています。
心底、相手のためになると思っていることは通じる時がきます。
僕は子育てをしたことがないので、きれいごとかもしれませんが、
少々の感情の齟齬は問題ないと考えています。
それは大人になるだけではなくて、育てる立場にやがて子どもが立つからです。
そのときに真意が伝わるのでも問題ないだろうとおもいます。
シュタイナー教育で有名なルドルフ シュタイナーはシーディングと
言っていたと思いますが、教育とはタネを植える作業です。
その場で成果は確認出来ない。でも、きっかけがあれば、芽を出して
花を咲かせるものです。もちろん、その花が教育の成果だとはわからないのです。
そのくらいのスタンスで子どもとの距離感をもつことが必要かなと思います。
NO.32012-09-21 06:45:27 ryosuke85 31
子供との付き合い方
よく聞かれる「子供に対しては夢を与える」という文言に対して、なんともいえない違和感を覚えます。
勿論、なにも現実的な話だけをし、絶望させることを望んでいるのではないのですが、子供を守りすぎる事は子供自身の考えを削ぐことにもなりかねないのではないでしょうか。
発育発達という観点で、子供が生まれ、首が座り、寝返りを打ち、這いずり、つかまり、立ち、歩き、走る、という運動動作学習においても、各フェーズにおいて大人は誰一人として“教える”ことはできませんが、彼らは勝手に習得していきます。
しかし、例えば知識的な部分で大人が、「ハイハイが短かった子供は、その後の運動形成において肩甲帯、つまり肩周りの運動が小さくなる」という統計的(しかし、あくまで統計的な)知識を持っていれば、早く立たせることよりも、ハイハイのバリエーションを増やすような働きかけをすることは可能だと思います。
私自身の考えは、その後の接し方においても運動学習と似通っていていいのではないか、と考えています。
言葉を使用して、理解を得ながらするのがいいのか。それとも様々な実践を通して本人に得てもらっていくのがいいのか。これは運動学習においては生物学的年齢を勘案する事が必要ですが、親が子と接する場合には、子供の成長を把握した上で話しかける事がいいのかどうかの判断をする必要があり、ここの判断をする事が親の務めでは無いでしょうか。
何がしたくて、どう生きたいのか、という事を考える事が出来るのはなにも大人だけでは無く、現在日本にいる子供たちも考え、行動に移すことができます。
それを実行した上で考えが変わる事は否定してはいけないし、否定できるものではありません。こちらが間違っていると思う事は、何が間違っているのか、という事を本人の身近な“社会”からメタファーを用いて説明し、考えてもらう必要があるのではないか、と考えます。
その機会を与え、考えを聞き、行動を促すことが結果的に当人にとって夢を考えさせるのであって、その個々人的な人格形成を促す意味も含めて、子供に対しては一人の人間として接していく事が大切なような気がします。
“子供なんだから子供らしく”なんて言葉は大人の勝手な幻想であり、子供はそうしたかったら勝手にそうします。それを押しつけがましく“子供らしさ”を押し付ける大人に限って、そうでない子供を見た時に悪い意味での「特別扱い」をしてしまうのではないでしょうか。
だからこそ、子供に対しては不安を煽るという意味では無く、現実的に自らの立ち位置が社会的にどこにあるのかを各年代ごとに考えてもらうように働きかけるというのが、私個人の考えであり、子供と接する上での我慢のしどころだと思っています。
結果的にそれが社会に対する、その子供のパーソナリティを育むことになり、社会をはぐくむことになるのだと思っています。
もし、社会としての接し方を考えるのであれば、初等教育の「クラス担任制」の撤廃を視野に入れた中で教育というものを再考していく必要があるのではないでしょうか。
現在の日本という国は受験という呪縛に縛られ、それ以外の教科に対しては不要とすらする向きもあります。
私は運動に携わる人間として、指導している中で体育不要論を感じる事が多々あります。
「体育をしたところで何になるのか」という態度が出ること自体、自らの体に対して関心がないということであり、そもそも勉強というものは自身の健康が前提条件である事を蔑にしている意見です。
それは、体育の社会的な立場としてもそうなのですが、“体育を教える先生が体育が苦手な場合がある”という矛盾する状況をはらんでいることも忘れてはなりません。
音楽にしても、家庭科教育にしても同様の事が言えるはずであり、指導要領に関しても、初頭から高等学校までにおける12ヶ年一貫性を望んでいる(これも現実的では無いように思えます。)事を考えると、教育のシステムについて再考する必要があるのではないでしょうか。
多少強引な結び付けをした部分もあったとは思いますが、社会として、というよりも個人対個人として見た際の子供に対する付き合い方を述べました。
遠藤涼介
@ryosuke_endo
よく聞かれる「子供に対しては夢を与える」という文言に対して、なんともいえない違和感を覚えます。
勿論、なにも現実的な話だけをし、絶望させることを望んでいるのではないのですが、子供を守りすぎる事は子供自身の考えを削ぐことにもなりかねないのではないでしょうか。
発育発達という観点で、子供が生まれ、首が座り、寝返りを打ち、這いずり、つかまり、立ち、歩き、走る、という運動動作学習においても、各フェーズにおいて大人は誰一人として“教える”ことはできませんが、彼らは勝手に習得していきます。
しかし、例えば知識的な部分で大人が、「ハイハイが短かった子供は、その後の運動形成において肩甲帯、つまり肩周りの運動が小さくなる」という統計的(しかし、あくまで統計的な)知識を持っていれば、早く立たせることよりも、ハイハイのバリエーションを増やすような働きかけをすることは可能だと思います。
私自身の考えは、その後の接し方においても運動学習と似通っていていいのではないか、と考えています。
言葉を使用して、理解を得ながらするのがいいのか。それとも様々な実践を通して本人に得てもらっていくのがいいのか。これは運動学習においては生物学的年齢を勘案する事が必要ですが、親が子と接する場合には、子供の成長を把握した上で話しかける事がいいのかどうかの判断をする必要があり、ここの判断をする事が親の務めでは無いでしょうか。
何がしたくて、どう生きたいのか、という事を考える事が出来るのはなにも大人だけでは無く、現在日本にいる子供たちも考え、行動に移すことができます。
それを実行した上で考えが変わる事は否定してはいけないし、否定できるものではありません。こちらが間違っていると思う事は、何が間違っているのか、という事を本人の身近な“社会”からメタファーを用いて説明し、考えてもらう必要があるのではないか、と考えます。
その機会を与え、考えを聞き、行動を促すことが結果的に当人にとって夢を考えさせるのであって、その個々人的な人格形成を促す意味も含めて、子供に対しては一人の人間として接していく事が大切なような気がします。
“子供なんだから子供らしく”なんて言葉は大人の勝手な幻想であり、子供はそうしたかったら勝手にそうします。それを押しつけがましく“子供らしさ”を押し付ける大人に限って、そうでない子供を見た時に悪い意味での「特別扱い」をしてしまうのではないでしょうか。
だからこそ、子供に対しては不安を煽るという意味では無く、現実的に自らの立ち位置が社会的にどこにあるのかを各年代ごとに考えてもらうように働きかけるというのが、私個人の考えであり、子供と接する上での我慢のしどころだと思っています。
結果的にそれが社会に対する、その子供のパーソナリティを育むことになり、社会をはぐくむことになるのだと思っています。
もし、社会としての接し方を考えるのであれば、初等教育の「クラス担任制」の撤廃を視野に入れた中で教育というものを再考していく必要があるのではないでしょうか。
現在の日本という国は受験という呪縛に縛られ、それ以外の教科に対しては不要とすらする向きもあります。
私は運動に携わる人間として、指導している中で体育不要論を感じる事が多々あります。
「体育をしたところで何になるのか」という態度が出ること自体、自らの体に対して関心がないということであり、そもそも勉強というものは自身の健康が前提条件である事を蔑にしている意見です。
それは、体育の社会的な立場としてもそうなのですが、“体育を教える先生が体育が苦手な場合がある”という矛盾する状況をはらんでいることも忘れてはなりません。
音楽にしても、家庭科教育にしても同様の事が言えるはずであり、指導要領に関しても、初頭から高等学校までにおける12ヶ年一貫性を望んでいる(これも現実的では無いように思えます。)事を考えると、教育のシステムについて再考する必要があるのではないでしょうか。
多少強引な結び付けをした部分もあったとは思いますが、社会として、というよりも個人対個人として見た際の子供に対する付き合い方を述べました。
遠藤涼介
@ryosuke_endo
NO.22012-09-21 05:43:44 Tomoikukai 14
前回のテーマ「誠実さ」について考える の投稿に対するコメントの中で、茂木さんは、「アブソーベント・エイジ」のことを取り上げてくださいました。SYNTOMOLOGY(真友学)と共に、これらの言葉を皆さんに親しんでいただけるようになると、とてもうれしいです。
その中で、茂木さんは、英語の学習は、子供の時に、必ずしもやる必要はないと述べておられます。でも、私の受けた日本の英語教育では、英語をマスターするという観点から見れば、私にとっては、全く妨げにしかならなかったと思っています。それで、私は学校で、英語は10年間勉強しましたが、英語の学習は、40才から始めたといってもいいと思います。40才から全く白紙(灰色かも)から始めて、今は61才ですから、かれこれもう二十年以上になります。学習法は、京都に週一回合気道を習いに行く道すがら、片道2時間往復で4時間、ひたすらCDを聞き続けること(シャドーイングしながら)。質の良い英文を読むこと。テレビの英語ニュースを聞くこと。トイレで瞬間英作文をすること。学習のモチベーション作りには、ひたすら英語検定を受け続けることと、機会さえあれば、英語スピーカーと友達になるということを心がけました。大方針は、「耳から英語をマスターする。」というものでした。それでどうなったか?皆さん気になるでしょう? 残念ながら、大方の期待を裏切って、去年の11月無事、英検一級をクリアーしました! 人生至福の一瞬でした(あと、結婚が決まった時と、4人の子供がそれぞれ生まれた瞬間もそうでしたが)。長年の夢が叶って、もう死んでもいい・・・と言う訳ではなくて、これからが、夢にまで見た幼子達と英語での交流が始まります。だから、茂木さんに、英語は、「20才からでもものになる」といわれると、それはそうかもしれないけど、自分の経験に照らして、時間が〜 コミュニケーション力が〜 お金があ〜 よっぽど頑張らないと〜 等々と、思ってしまうのです。私は、今の学校教育のやり方を変えることで、英語が役に立つものにすることもある程度は出来ると思いますが、万人が、気軽に、しかも深く英語を身につける為には、アブソーベント・エイジ教育で英語が喋られるようになることが、結局、ものすごく安上がりで、将来に期待が持てるやり方だと確信しています。
なんでこんな、何処にでもいるような、何の取り柄もない坊さんが、必死になって英語に取り組んでいるのか?長くなりそうですが、書いてみようと思います。
私は1977年8月に青年海外協力の野菜栽培指導隊員(実際は研修隊員のようなもの)として、バングラデシュの農業開発公社のアドバイザーに赴任しました。言葉は、ベンガリ語で、日常会話が出来るように、ベンガル人の先生に(チョードリさんとアザドさん)四ヶ月ほど教えていただいて、現地に赴任しました。普段の仕事は、片言のベンガリ語で済ますことが出来て、それも日に日に上達して行くのですが、たまにあるミーティングは英語でした。私は、英語は、日本の学校で受験の為に勉強しただけですから、その時全く使い物になりませんでした。それどころか、同僚に、「お前は大学まで出てるくせになんで英語が話せないんだ?」と馬鹿にされる始末です。この同僚には、任地を離れる時、職場に残す英語のレポートを手伝ってもらいました。私がベンガル語で話し、シラーズが英語に訳して行くというやり方です。おかげで、友情は深まりましたが英語が出来ないということで、かなり深い劣等感を帰国後もずっと持ち続けました。それで、1979年に帰国してから少しずつ英語の勉強を始めていたのですが、同時に、何故、日本の学校で英語の教育を受けても海外では全く!全然!何の役にも立たないのだろうか? 学生にとっては、お金と、貴重な青春の大〜大無駄遣いじゃないか!と強く強く思うようになりました。「よし!俺が子供達の為に日本の教育を完全にかえてやる!」と思い始めたのは、自分の初めての子が小学校へ行くようになった頃のことでした。それには、まず、自分が英語を喋られるようになるのが先決だと思いながら、何をどうしていいか解らなかったところへ、お隣にオランダ人の奥さんとやはり協力隊帰りの夫である橋本さん夫婦が引っ越してきました。二人は、英語で会話を成り立たせていたので、私は、奥さんのコリーナさんに英会話を只で習い始めました。しかし、それは、只ということもあってか、あまり長続きはせず、その後は、家族ぐるみの付き合いになって行ったのですが、それからは、外国人に話しかける度胸だけはどうにかついたようです。
1995年、世界体操選手権大会が近くの町鯖江でありました。選手や関係者の案内役等、多くのボランティアを募集していたので、英語力を試してみるいい機会だと思って、応募しました。そこで、簡単に採用されたのはいいのですが、あまり英語力が信用されなかったのか、出番は全くありませんでした。何人かは生き生きと活躍していたので、とても悔しい思いをしました。でも、何でもやってみるもの。そこで、ALT(アシスタント・ランゲッジ・ティーチャー)サム・デニー と友達になりました。それで、早速、娘が通っている小学校で英語だけで英語を教えるボランティアをしてくれないかと頼んでみました。サムは、他のALT同様日本の学校のALTの使い方に辟易としていたところなので、二つ返事で引き受けてくれました。ところが、赤崎小学校で英語で英語の授業(遊びながら)が始まる時になって、サムさんの父上が重い病気にかかり、サムさんはアメリカへ帰って行きました。しかし、一度心がつながった信頼関係は強く、代わりにサマンサ・ペリーという語学の天才(5カ国語)・バイリンガルを育てる奇才?を代役に頼んでおいてくれました(今、サマンサは敦賀で英語塾を開いていて、3年生と1年生の男の子を完全バイリンガルに子育て中、ついでに、兄貴は空手もすごい)。
このサマンサと赤崎小学校で行った英語で英語の授業(遊びながら)に強く感銘を受けて(最初の日から、全く日本語を交えずに、特に低学年の子供達は、サマンサの言葉を理解した)、私は、他の英語教育に関心のある日本人と共に市内のALTと子供達をつなぐ「えいごクラブ」を作りました。その中から、多くの英語好きの子供達が誕生してきたのですが、数年の活動の後、私の方は、自分で子供達と直接英語で話すようになりたいと強く思うようになり、「えいごクラブ」からは離れて、英語のマスターを目指して、英語オタクとなりました。なんと、英検一級の試験は、20回目でやっと合格することが出来ました。その間八年の年月が流れていました。
あんなに取りたかった英検一級の資格。それを取ってみて、いざ、幼児の英語教育を始めようと意気込んだのはいいのですが、そこでまた感じたのが英語力の不足です。英検一級と言っても、実用的な観点から言うと、ネイチヴレヴェルから見れば、まだまだせいぜい30点位のもの。大垣で子供達に英語を教えておられる Kim Horne さんのワークショップに サマンサの子供達と参加した時、キムさんとジャスパーやキアンくん達のあの英語でつながった躍動感を目の当たりにて、私には,まだまだ足下にも及ばないなと思い知らされました。子供達に英語力を伝える為には、まだまだ精進しなければと思っているこの頃ですが、敦賀では、数ヶ月前からNHKワールドが見られるようになり、それを見ながら、英語のブラッシュアップを続け、今は、子供の前で英語の紙芝居をやることから始めようと思っています。
私が、英語オタクを続けている間に世間では、私が思い描いていた通りの英語教育に関しての動きが見られるようになってきました。ごく最近では、小学校低学年から英語が必須になるということ。それに、福井県では、子供が生まれると同時に、行政が積極的に子育てに関わるプログラムを立ち上げるということ。私は、英語とのふれあいは、幼稚園からにしてほしいし、福井県には、もっと小さい年齢で、子供達が英語に触れる環境作りをしてほしいと思っていますが、より肝心なことは、世界から学ぶこと。英語教育の場合は、特に東南アジアや、香港に学ぶこと。そして、研究して得られた結果は、その都度現場に反映させていくことを特に望みたいと思います。
そういう意味で、我田引水になりますが、アブソーベント・エイジ教育を一つの学問として、現場、研究機関、行政の情報交換を密にして行くことを押し進めていっていただきたいと思います。
SYNTOMOLOGY(真友学)会 なってほしい会員リスト(一部)
石原 多賀子 前金沢市教育長
杉左近 正 元敦賀市教育委員長
サマンサ・ペリー イングリッシュ・イン・ジャパン
茂木健一郎 脳科学者
橋下 徹 大阪市長
西川 一誠 福井県知事
河瀬 一治 敦賀市長
塩井 信孝 共友育会(ともいくかい)
ここにあげた人だけでも、アブソーベント・エイジ教育についてお互いに情報交換し、現場に反映する道筋を作ることができれば、確実に日本の教育をかえることが出来ると確信しています。
この中で、この、樹下の微睡みを見ている人があったら、是非とも、ここに投稿して、意見をお聞かせください。
最後に、子供とのつきあい方は、全身全霊、対等目線で・・・後生畏るべし!
その中で、茂木さんは、英語の学習は、子供の時に、必ずしもやる必要はないと述べておられます。でも、私の受けた日本の英語教育では、英語をマスターするという観点から見れば、私にとっては、全く妨げにしかならなかったと思っています。それで、私は学校で、英語は10年間勉強しましたが、英語の学習は、40才から始めたといってもいいと思います。40才から全く白紙(灰色かも)から始めて、今は61才ですから、かれこれもう二十年以上になります。学習法は、京都に週一回合気道を習いに行く道すがら、片道2時間往復で4時間、ひたすらCDを聞き続けること(シャドーイングしながら)。質の良い英文を読むこと。テレビの英語ニュースを聞くこと。トイレで瞬間英作文をすること。学習のモチベーション作りには、ひたすら英語検定を受け続けることと、機会さえあれば、英語スピーカーと友達になるということを心がけました。大方針は、「耳から英語をマスターする。」というものでした。それでどうなったか?皆さん気になるでしょう? 残念ながら、大方の期待を裏切って、去年の11月無事、英検一級をクリアーしました! 人生至福の一瞬でした(あと、結婚が決まった時と、4人の子供がそれぞれ生まれた瞬間もそうでしたが)。長年の夢が叶って、もう死んでもいい・・・と言う訳ではなくて、これからが、夢にまで見た幼子達と英語での交流が始まります。だから、茂木さんに、英語は、「20才からでもものになる」といわれると、それはそうかもしれないけど、自分の経験に照らして、時間が〜 コミュニケーション力が〜 お金があ〜 よっぽど頑張らないと〜 等々と、思ってしまうのです。私は、今の学校教育のやり方を変えることで、英語が役に立つものにすることもある程度は出来ると思いますが、万人が、気軽に、しかも深く英語を身につける為には、アブソーベント・エイジ教育で英語が喋られるようになることが、結局、ものすごく安上がりで、将来に期待が持てるやり方だと確信しています。
なんでこんな、何処にでもいるような、何の取り柄もない坊さんが、必死になって英語に取り組んでいるのか?長くなりそうですが、書いてみようと思います。
私は1977年8月に青年海外協力の野菜栽培指導隊員(実際は研修隊員のようなもの)として、バングラデシュの農業開発公社のアドバイザーに赴任しました。言葉は、ベンガリ語で、日常会話が出来るように、ベンガル人の先生に(チョードリさんとアザドさん)四ヶ月ほど教えていただいて、現地に赴任しました。普段の仕事は、片言のベンガリ語で済ますことが出来て、それも日に日に上達して行くのですが、たまにあるミーティングは英語でした。私は、英語は、日本の学校で受験の為に勉強しただけですから、その時全く使い物になりませんでした。それどころか、同僚に、「お前は大学まで出てるくせになんで英語が話せないんだ?」と馬鹿にされる始末です。この同僚には、任地を離れる時、職場に残す英語のレポートを手伝ってもらいました。私がベンガル語で話し、シラーズが英語に訳して行くというやり方です。おかげで、友情は深まりましたが英語が出来ないということで、かなり深い劣等感を帰国後もずっと持ち続けました。それで、1979年に帰国してから少しずつ英語の勉強を始めていたのですが、同時に、何故、日本の学校で英語の教育を受けても海外では全く!全然!何の役にも立たないのだろうか? 学生にとっては、お金と、貴重な青春の大〜大無駄遣いじゃないか!と強く強く思うようになりました。「よし!俺が子供達の為に日本の教育を完全にかえてやる!」と思い始めたのは、自分の初めての子が小学校へ行くようになった頃のことでした。それには、まず、自分が英語を喋られるようになるのが先決だと思いながら、何をどうしていいか解らなかったところへ、お隣にオランダ人の奥さんとやはり協力隊帰りの夫である橋本さん夫婦が引っ越してきました。二人は、英語で会話を成り立たせていたので、私は、奥さんのコリーナさんに英会話を只で習い始めました。しかし、それは、只ということもあってか、あまり長続きはせず、その後は、家族ぐるみの付き合いになって行ったのですが、それからは、外国人に話しかける度胸だけはどうにかついたようです。
1995年、世界体操選手権大会が近くの町鯖江でありました。選手や関係者の案内役等、多くのボランティアを募集していたので、英語力を試してみるいい機会だと思って、応募しました。そこで、簡単に採用されたのはいいのですが、あまり英語力が信用されなかったのか、出番は全くありませんでした。何人かは生き生きと活躍していたので、とても悔しい思いをしました。でも、何でもやってみるもの。そこで、ALT(アシスタント・ランゲッジ・ティーチャー)サム・デニー と友達になりました。それで、早速、娘が通っている小学校で英語だけで英語を教えるボランティアをしてくれないかと頼んでみました。サムは、他のALT同様日本の学校のALTの使い方に辟易としていたところなので、二つ返事で引き受けてくれました。ところが、赤崎小学校で英語で英語の授業(遊びながら)が始まる時になって、サムさんの父上が重い病気にかかり、サムさんはアメリカへ帰って行きました。しかし、一度心がつながった信頼関係は強く、代わりにサマンサ・ペリーという語学の天才(5カ国語)・バイリンガルを育てる奇才?を代役に頼んでおいてくれました(今、サマンサは敦賀で英語塾を開いていて、3年生と1年生の男の子を完全バイリンガルに子育て中、ついでに、兄貴は空手もすごい)。
このサマンサと赤崎小学校で行った英語で英語の授業(遊びながら)に強く感銘を受けて(最初の日から、全く日本語を交えずに、特に低学年の子供達は、サマンサの言葉を理解した)、私は、他の英語教育に関心のある日本人と共に市内のALTと子供達をつなぐ「えいごクラブ」を作りました。その中から、多くの英語好きの子供達が誕生してきたのですが、数年の活動の後、私の方は、自分で子供達と直接英語で話すようになりたいと強く思うようになり、「えいごクラブ」からは離れて、英語のマスターを目指して、英語オタクとなりました。なんと、英検一級の試験は、20回目でやっと合格することが出来ました。その間八年の年月が流れていました。
あんなに取りたかった英検一級の資格。それを取ってみて、いざ、幼児の英語教育を始めようと意気込んだのはいいのですが、そこでまた感じたのが英語力の不足です。英検一級と言っても、実用的な観点から言うと、ネイチヴレヴェルから見れば、まだまだせいぜい30点位のもの。大垣で子供達に英語を教えておられる Kim Horne さんのワークショップに サマンサの子供達と参加した時、キムさんとジャスパーやキアンくん達のあの英語でつながった躍動感を目の当たりにて、私には,まだまだ足下にも及ばないなと思い知らされました。子供達に英語力を伝える為には、まだまだ精進しなければと思っているこの頃ですが、敦賀では、数ヶ月前からNHKワールドが見られるようになり、それを見ながら、英語のブラッシュアップを続け、今は、子供の前で英語の紙芝居をやることから始めようと思っています。
私が、英語オタクを続けている間に世間では、私が思い描いていた通りの英語教育に関しての動きが見られるようになってきました。ごく最近では、小学校低学年から英語が必須になるということ。それに、福井県では、子供が生まれると同時に、行政が積極的に子育てに関わるプログラムを立ち上げるということ。私は、英語とのふれあいは、幼稚園からにしてほしいし、福井県には、もっと小さい年齢で、子供達が英語に触れる環境作りをしてほしいと思っていますが、より肝心なことは、世界から学ぶこと。英語教育の場合は、特に東南アジアや、香港に学ぶこと。そして、研究して得られた結果は、その都度現場に反映させていくことを特に望みたいと思います。
そういう意味で、我田引水になりますが、アブソーベント・エイジ教育を一つの学問として、現場、研究機関、行政の情報交換を密にして行くことを押し進めていっていただきたいと思います。
SYNTOMOLOGY(真友学)会 なってほしい会員リスト(一部)
石原 多賀子 前金沢市教育長
杉左近 正 元敦賀市教育委員長
サマンサ・ペリー イングリッシュ・イン・ジャパン
茂木健一郎 脳科学者
橋下 徹 大阪市長
西川 一誠 福井県知事
河瀬 一治 敦賀市長
塩井 信孝 共友育会(ともいくかい)
ここにあげた人だけでも、アブソーベント・エイジ教育についてお互いに情報交換し、現場に反映する道筋を作ることができれば、確実に日本の教育をかえることが出来ると確信しています。
この中で、この、樹下の微睡みを見ている人があったら、是非とも、ここに投稿して、意見をお聞かせください。
最後に、子供とのつきあい方は、全身全霊、対等目線で・・・後生畏るべし!
NO.12012-09-18 19:45:14 chigusaotsuki 17
私は、現代のエスプリ 451号 家族療法の現在より、
子ども支援におけるソリューション・フォーカスト・アプローチ
磯貝希久子さんの引用文献を、参考にしています。
「Working Assumptions about Children」
「子どもと関わるときの前提」
Until proven otherwise we believe that all children want to:
すべての子どもは、
☆ have their parents be proud of them
親に自分のことを誇りに思ってほしい、と望んでいる
☆ please their parents and other adults
親や大人たちを喜ばせたい、と望んでいる
☆ be accepted as a part of a social group
社会の一員として受け入れられたい、と望んでいる
☆ be active and involved in activities with others
他の人たちと一緒に活動したい、と望んでいる
☆ learn new things
新しいことを学びたい、と望んでいる
☆ be surprise and surprise others
他の人たちを驚かせたい、自分も驚きたい、と望んでいる
☆ voice their opinions and choices
自分の意見や選択をはっきりと言い表したい、と望んでいる
☆ make choices when given an opportunity
機会が与えられて、いろいろな選択をしたい、と望んでいる
ーーーーーーーーー
「Working Assumptions about Parents」
「親と関わるときの前提」
Until proven otherwise we believe all parents want to:
すべての親は、
☆ be proud of their child
自分の子どもを誇りに思いたい
☆ have a positive influence on their child
自分の子どもにポジティブな影響を与えたい
☆ hear good news about their child and what their child is good at
自分の子どもについてのよい知らせや、
子どもが何をうまくやっているかを聞きたい
☆ give their child a good education and a good chance of success in life
(however they define it)
子どもによい教育を受けさせて、成功へのチャンスを与えたい
☆ see their child’s future is better than theirs
自分の将来よりも、より良い子どもの将来が見たい
☆ have a good relationship with their child
子どもと好ましい関係を持ちたい
☆ be hopeful about their child
自分の子どもについて希望を持ちたい
☆ feel that are good parents
自分がよい親であると感じたい
(Insoo Kim Berg, 2002)
http://www.brief-therapy.org/
子ども支援におけるソリューション・フォーカスト・アプローチ
磯貝希久子さんの引用文献を、参考にしています。
「Working Assumptions about Children」
「子どもと関わるときの前提」
Until proven otherwise we believe that all children want to:
すべての子どもは、
☆ have their parents be proud of them
親に自分のことを誇りに思ってほしい、と望んでいる
☆ please their parents and other adults
親や大人たちを喜ばせたい、と望んでいる
☆ be accepted as a part of a social group
社会の一員として受け入れられたい、と望んでいる
☆ be active and involved in activities with others
他の人たちと一緒に活動したい、と望んでいる
☆ learn new things
新しいことを学びたい、と望んでいる
☆ be surprise and surprise others
他の人たちを驚かせたい、自分も驚きたい、と望んでいる
☆ voice their opinions and choices
自分の意見や選択をはっきりと言い表したい、と望んでいる
☆ make choices when given an opportunity
機会が与えられて、いろいろな選択をしたい、と望んでいる
ーーーーーーーーー
「Working Assumptions about Parents」
「親と関わるときの前提」
Until proven otherwise we believe all parents want to:
すべての親は、
☆ be proud of their child
自分の子どもを誇りに思いたい
☆ have a positive influence on their child
自分の子どもにポジティブな影響を与えたい
☆ hear good news about their child and what their child is good at
自分の子どもについてのよい知らせや、
子どもが何をうまくやっているかを聞きたい
☆ give their child a good education and a good chance of success in life
(however they define it)
子どもによい教育を受けさせて、成功へのチャンスを与えたい
☆ see their child’s future is better than theirs
自分の将来よりも、より良い子どもの将来が見たい
☆ have a good relationship with their child
子どもと好ましい関係を持ちたい
☆ be hopeful about their child
自分の子どもについて希望を持ちたい
☆ feel that are good parents
自分がよい親であると感じたい
(Insoo Kim Berg, 2002)
http://www.brief-therapy.org/