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体罰に効果はあるのか

バスケットボール部の体罰事件に関連して、橋下徹さんは「事件を起こした高校の入試を中止にしたほうがいい」とおっしゃって波紋が広がっています。この橋下徹さんの主張する「入試の中止」は、まさに劇薬です。

実は、かつて同じことをして大成功した例があります。大学紛争時の「東大入試の中止」ですね。当時の文部省が主導して、「見せしめ」として東大の入試だけを中止にしたのですが、これは効果抜群でした。入試の中止は、学校にとってみれば、いわば「死刑宣告」のようなものです。だからこそ改革を成し遂げるための一番の特効薬でもある。ある意味では、橋下さんが施行してきたマネジメントスタイルの究極の姿とも言えるでしょう。

ただし、一方では、これは学校に対する「体罰」とも言えます。体罰というのは、自主的に改革を促すのではなくて、人に対して何かを強制することです。それが、教育の現場、あるいはマネジメントの現場ではたして許されるのか。許されたとしてどの程度許されるのか。これは普遍的な問題です。

僕は今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えています。同じような構造になってしまっている問題は、他にもたくさんあると思います。体罰的な行為に、本当に意味があるのかどうか。もし意味があるとして、それはどこまで許されるものなのか。ぜひ皆さんにご意見を伺えたらと思います。

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NO.312013-02-03 15:43:26 Tomoikukai 5
オリンピック柔道女子日本代表の園田監督が辞任しました。テレビの映像では、スローモーションにしたりして、ふてぶてしさを演出しようとしていましたが、人格の卑小さは微塵も見られず、むしろ、あっぱれな決断との好印象の方を強く感じました。こんな、好青年(好壮年?)がどうして体罰を繰り返していたのでしょうか?

問題の鍵は、どうも、園田監督が、警視庁に所属している事にあるような気がします。私の義兄は、数年前に警視庁を退職した、元刑事なのですが、彼は、現役の頃、剣道に熱中していました。私は、一度その練習風景を見学にいった事がありますが、ただの練習であるにもかかわらず、その場の空気はとても張りつめていました。中学校や高校クラブ活動で見て来た、どことなく甘さの残る態度と違って、一人一人が醸し出す雰囲気は、正に真剣勝負といった所でしょうか。私は、柔道の練習の方は見ていないのですが、テレビで放映される、園田監督の指導風景を見ると、やはり、柔道の方も同じなのだろうと思いました。

私は、これまで、「絶対に仕返しをされないという、上下関係の構図」で起きる人格否定に対して、日本の組織の、乗り越えなければならない大きな課題だと発言して来ましたが、これは、凡ての組織に一律に当てはめなければならない問題だと言う訳ではなくて、命令違反が、即、人命に関わりかねない組織、つまり、警察や消防署、軍隊などでは、時として、一糸乱れぬ行動をとる事が要求されますし、その上下関係も、信頼関係に裏打ちされていないと、十分な活躍は期待できません。そんな組織の中では、それこそ、形骸化していない儒教の構図は、むしろ望ましい事です。園田監督の大胆にして、細心とも見える、人間性は、この組織と、人間関係の中で育って来たのだろうし、非難すべき所は、何処にも無いように思えます。

然し乍ら、今回、オリンピックの女子柔道の強化合宿では、園田監督にとっては、当然と思える、体罰を加えながら指導するというやり方が、完全否定されました。国際柔道連盟の会長からも、近代柔道の創始者である嘉納治五郎先生の教えに全く反しているとして、強い非難の声明がありました。これはどういう事でしょうか?

私も、講道館系の合気道を教えてもらっている立場から言うと、国際柔道連盟の体罰をする事に対する非難はよくわかります。そして、真剣に選手を強くしたいという、園田監督の気持ちもよくわかります。それでは、何処がどう折り合いがつかないのでしょうか? 

私は、警視庁系の武道のやり方が、本来の武道とは違った発展をして来た事がこの問題の後ろに隠れた鍵だと思えてなりません。つまり、警視庁の武道は、即、実践の効果を要求されます。犯人を取り押さえる時、甘いことを言っていたり、油断すれば、逃げられたり、時には、殺されたりするかもしれません。大げさに言うと、彼らは、武道を通じて、命を的に鍛錬を積んでいるといっても過言ではないかもしれません。それに対して、スポーツとしての柔道、特に、オリンピックの種目となった柔道では、同じ真剣勝負といっても、始めから、ルールに乗っ取った競技としての柔道です。そこでは、なによりも、一人一人が、一個の人格者として扱われ、各選手それぞれの意思が尊重されるのは、当然の事です。

然し乍ら、日本の体育会系は、特に強いチームの強化は、どうやら、警視庁の鍛錬方法をモデルにして確立して来たのではないかと思えてなりません。そして、これは、ひとり、体育会系だけではなくて、そのやり方は、日本の教育界全体に影響を及ぼしているように思えます。例えば、日本の学校の入学式や卒業式は、本来、朗らかで楽しい筈の催しが、外国の人に言わせると、まるで、軍隊の教練のような雰囲気だし、学校に出席する事への義務感は、それが出来ない者にとっては、正に挫折感の積み重ねです。数え上げるときりがないのでこれだけにしますが、とにかく、色んな、警視庁方式の訓練や練習は、「絶対に仕返しの出来ない上下関係の構図」がどうしても必要な組織だけにとどめて、そこから一歩外へ出たら、「スポーツの世界」「武道の世界」「一般社会」(「教育の世界」も当然入ります)へと、衣を脱ぐように変身していただきたいと思います。

 警察と消防と自衛隊以外、警視庁方式のやり方はなくなってしまえ〜〜〜

あくまでも、警視庁方式は、警察官としての公式の態度であり、その他の世界は、人間の顔の見える、人と人とが出会える場として使い分けていただきたいと思います。

そして、この、公私の使い分けが、また、日本人の苦手な所で、本音と建前の使い分けとどう違うのか、いつかまた考えてみたいと思っています。

あの、好青年(好壮年?)の園田監督が、非難の的になるのは、ちょっと違うのではないかと思い、緊急に投稿を試みました。
纏まってなかったらゴメンナサイ

NO.302013-02-02 00:15:29 orcamie 4
terurunさん
丁寧な説明ありがとうございます。
もう一度、terurunさんのNo.26を読んでから
最初の投稿読み直しました。

良い結果が出たらご褒美が貰えると言う考えを
すべて否定されているわけではないというのが
よくわかりました。
安心しました。
私の聞き方があまり鋭すぎなければいいなと
思っています。
私の言葉は時々ストレートすぎると
自分で心配になるのです。
terurunさんも自分の考えを伝える難しさについて
言われてましたね。
私は、柔らかくに自分の言いたい事が
伝えられるといいのになと思うのですが
なかなかうまくいきません。
その点、terurunさんの優しい語り口は
読んでいて心地いいです。

NO.292013-02-01 18:56:23 ryosuke85 10
makimakoさんの
>日本の教育社会では、先生の言う事は、正しいという構図が成り立っているような気がしています。先生が言ったから、先生がやる事だから、と、疑問も持たずに支持していては、おかしいこともそのままになってしまいます。

という部分なのですが、これというのは、思考停止している状況であり、その状況が作られてしまっている事自体が危険だ、という認識を持たないと行けませんよね。

思考停止するまでには、ボクの大好きなマンガの中に荒木飛呂彦の「ジョジョの奇妙な冒険」があるのですが、第二部に登場する最終決戦の相手のカーズというキャラクターが主人公の苦肉の策でマグマの噴火を受け、宇宙空間に投げ出された際に、何とか地球に戻ろうとするも、空気を発する事で凍り付いてしまい、結果的に何も出来なくなり、自分で死ぬ事も出来ず、最終的に「考えるのをやめた」というシーンがあるのです。

これというのは、自らが意志を持って発現しようとした行為が全て否定され続けた結果に起こった、言い方を変えれば至った“思考”な訳ですが、体罰を与える、という事は再度、ボクの意見の上塗りになってしまうのですが、「思考や意見を奪う事」を指していると思うのです。

sana805さん
>子どもの世界。自分の世界。うるさくあーだこーだ言われない時間。個々の違いがKYとか色々口うるさく言われることなんか気にしないで、ありのままが認めれられる感じになればいいなと、理想かもしれないけど個人的には思っています。

という意見、非常に同意なのですが、結局、いつまでも「大人」だと自分で認識している人たちが、「子供」を「子供扱い」しているからこそ、あーだこーだなっているんだと個人的には思っています。

親があーだこーだ言うのも、ボクは子供からしてみたら一つの体罰だとすら思っていて、その姿を見るのは、非常に嫌なものです。

ボク自身、年齢的に幼い頃、両親とともに出掛けた飲食店で自分の父親が店員さんに対して注意・指摘する姿は見るのが非常に嫌なものでした。

しかし、きちんと自らの意志を持った上で、その姿を見れる様になった頃からは、全く持って逆の発想で見ていました。
自分の父親は「客としてされて嫌だった事」をお店に伝えているだけだったのです。

それは、自分の父親が自ら飲食店を経営しているからこその助言であったわけですが、それをそのお店の方々に伝える事は一切しませんでした。

自分の父親を完全肯定する訳ではないのですが、それをきちんと説明してくれていれば、ボクの子供時代における父親像も変わっていたかもしれません。

結局、自らの意見をどのように表現するのか、という所を「大人」だと認識している人間は、小さな人間に対しても意見を求めるべきだ、という事をボクは自分の父親から学んだ様な気がしています。

問いかけるだけの器量と余裕があれば、体罰なんて起こらないのではないでしょうか。

NO.282013-02-01 12:41:43 sana805 12
茂木さんのUstをみて「have fan」 と「個性」という言葉、一番印象に残っています。

Tomoikukaiさんの様々な経験の中でよくよく考えてきたのだなと感心する思考、orcamieさんの温かでしっかりと芯のある思考、terurunさんの素直な感性。正に個性的で掲示板で面白くて参加したくなる。

読んでいて思い出すのは、一番といっていいほどの影響をもらった高校生活時、先生が「沢山失敗したらいいんだ、最後に成功したらいいんやから」 とおっしゃっられていたこと。
それは私にとっては嬉しい言葉でした。自分で決めて、やりたいことが試してできるということ。
傍から見たら突飛なことも許される。丁寧に積み上げる人も許される。じっくりすることも許される。やるだけやって上手くいかなくても許される。(人に迷惑をかけることを許してるというのではなく)

自分なりに決めてやってみる、それから皆のも知ってすごいなって思うのも見て、また考えてやってみる。
その繰り返しが楽しかった。これが先生にうるさく言われてコントロールされたら楽しくなかったろうと思う。個々の違いを良さとして影響を受けて自分に活かす。そんなことが今はかけがえのない経験だったと思っています。

モノづくりで人と関わってきた人生なので、究極人がいなくなったら私はモノづくりもしないだろうと思う。
人に求められる成果は外発的動機付け、そこに重きをおくと義務になり苦しい気がします。
have fan は内発的動機付け、継続するんだと思う。自分がしたいかどうか。とか
抑圧されたところからの解放エンパワメントに近い感じ。何クソ今に見ていろっていうのもそうだし。
なんか自分の成長につながって楽しいからやってみたいとか。

今の子どもは学校外の時間も塾や習い事で忙しい。管理されてる。公園一つ何かあると大人は大騒ぎ。
子どもの世界。自分の世界。うるさくあーだこーだ言われない時間。個々の違いがKYとか色々口うるさく言われることなんか気にしないで、ありのままが認めれられる感じになればいいなと、理想かもしれないけど個人的には思っています。

NO.272013-02-01 12:34:19 makimako 13
no24のtomoikukaiさんの投稿を読みながら、今日の朝、通勤の車の中で考えていた事があります。最近の日本について。原発の事、そして、瓦礫処理のこと、この前の選挙、そして、この体罰の件。最近、これで大丈夫か?日本、と、思う事がありながらも、自分自身が、何かの行動ができているわけではない。物事には、賛否両論があるし、どちらが絶対に正しいという事はないのかもしれない。また、一概に、すべてを善か悪かで決められるわけではないとも思う。しかし、今は、これはおかしいではないかということが、普通に行われ、そして、そのことに疑問を思わず過ごしている人もいるし、おかしいと思っているが、思っているだけの人もたくさんいるだろう。また、おかしいから何かしようと思っても社会的立場やまわりの人間の事を考えると実際に行動をおこしづらい人もいるだろう。そういう人たちが大半以上なのかもしれない。そして、それが、まあしょうがないかで、おかしいと思われていた事が、意識の中から薄れ、日常の生活に奔放される。

だからこそ、今回のその体罰事件も、おかしいと思った人たちはたくさんいたであろう。しかし、それが普通にまかりとおっていたことで、おかしいことが、しょうがない事と認識され、放っておかれていた状況なのであろう。

tomoikukaiさんの、子ども達に英語を教えたいのくだりで、子ども達がただ試験の点を上げるための塾のことから、いろいろ普段考えている事と一致した。

この教育問題は、かなり大きいと思います。
子ども達が自分で考えられる、そして討論できる日本になっていくべきです。

詰め込み式の教育は、もうやめましょうよ!と思います。
でも、だからといって、どういうふうにこの思いをどこへ持っていけば良いのでしょう。

こういうことが、すべての部分できっとあるんですよね。
この体罰にしたって、その親やまわりの学生達もおかしいと思っていた人たちはいるはず、でも、言えなかったのかもしれない。それか、もう麻痺していて、もうおかしいと思っていた事が普通になってしまったのかもしれない。

もう少し、一個人の意見を公(役所や政府)に発する効率的な場があれば良いのにと感じます。

そして、それを受け止め検証してくれる上の立場の柔軟性も求められるのかなと思います。

それは、tomoikukaiさんも書いておられる洗脳のこと、洗脳というのは、おおげさかもしれませんが、日本の教育社会では、先生の言う事は、正しいという構図が成り立っているような気がしています。先生が言ったから、先生がやる事だから、と、疑問も持たずに支持していては、おかしいこともそのままになってしまいます。

今回のお題、体罰に効果はあるか?からずれてしまいましたが、上からの権力の押しつけは、ほとんど効果はないのではと思います。そこで、橋本さんの対応について考えた時、橋本さんは、いったん冷静になって考えてみましょうよ、これは、重大なことなんですよというふうに受け止められるので、ただの押しつけではないような気がします。

NO.262013-02-01 10:36:09 terurun 12
Tomoikukaiさんの

Why? 「なぜですか?」「どうしてそれをしなければいけないんですか?」

目が覚めます。ありがとう。

ただ、こういう人を、大人になると「面倒くさい人」と判断されますが(笑)、

やっぱり、WHY?は、とっても大事ですよね!!

教育にもやはり、とってもいい!!子どもに「なぜ?」と言う意識を持たせること

自分は、問題意識ばかり持つ性格なのに(><)。。。子どもにはそれをあまり、

意識させていませんでした(笑)。。。

とっても良い言葉。「「WHY?」」


orcamieさん

私は、成果主義=体罰と言うことではなく、

すぐに結果を出さなくてはいけないことへの手段として、

体罰が存在すると書いたつもりでした。

成果主義が全て体罰な訳ではなくて。。。ごめんなさい。

書き方がとっても曖昧でしたよね。。。

誤解される内容の書き方で申し訳ない。

すぐに結果を出さなくてはいけないから、体罰に

踏み切ると書いた方が良かったでしょうか。。。

大事なのは、成果主義と言うより、時間的な問題かと思ったのです。

つまり、「すぐに」「早く」と言うことです。

そこが重要なつもりで書きました。。。

人間だもの。人に評価されたいのは、当然です。

しかし、時間的な部分で、急ぎすぎている感じがするのです。。。

茂木さんのユーストリームでもお話なさったフロー状態。。。

それが人間が最も発揮できる状態だとお話しておりましたが。

しかし、フロー状態になるまでには、とてつもなく時間がかかると思います。

精神もスキルも同じ高い状態になった時にフロー状態に

なれるとしたら、それは、とてつもなく、時間がかかるということです。

なのに、すぐ結果を出せと言われたら、

どうするでしょうか。と言う問いでした。。。

文章は、非常に難しいです。勉強になります。。。

NO.252013-01-31 23:43:13 orcamie 10
No.6 Tomoikukaiさんが
>ローカルな文化の背景に横たわる日本の一番大きな問題に目をつぶったまま、日本の文化を世界に伝える事は次期尚早じゃないのかと疑問を提示させていただきました。
→とありましたが、私は色々問題を抱えたまま世界に投げかけるのも一つの手だと思います。日本の中の問題を、日本で解決しようと言う考え方はいけなくはないけれど
日本だけで解決しなければ外に出しては行けないと言う考え方も
日本や日本人が外になかなか出て行けない要因の一つだと思います。
世界にある知恵でその不備を補うと言う考え方もグローバルな世界の中では大事ではないかと 思いませんか。

それからTomoikukaiさん
私は思ったのですが、
日本のローカルな文化=硬直した上下関係ではない、と思います。
確かに日本の地方ではより硬直した人間関係があるとは思います。
人とは変わった事はしにくいとか人と違う意見を言いにくいなど
そんなことをしたら村八分になると言うような感じでしょうかね。
でも、ローカルな文化はそれが全てではないと思います。
それぞれの地方が伝える古き良き事がまだまだ埋もれていると思います。
と言う以上の事で、Tomoikukaiさんと私は意見を異にするなと思いました。
ですが
日本にチームが必要という事には大賛成です。
対等なパートナーの関係の上に成り立つ、チームどんどんできるといいですね。
チームかどうかわかりませんが、
この茂木さんの掲示板は 対等な人間関係における意見表明の場かな
と思います。

No.8 ryosuke85さんの
>これは上記の軍隊組織の“生命の危険”と同じで、その危険性が無いにも等しい環境の中で、それを問われ、今回の事案の様に、結果的に“自らの命”を絶つ、という答えを“指導”してしまった事は、あまりにも自虐的すぎる規律なのではないでしょうか。

これはすごく共感しました。

No.22 terurunさん
>成果主義があるから体罰がある
とは、私は思いません。
良い意味の成果主義もあります。
成果を上げたらご褒美が貰える。。。
というのはいい考えだと思いませんか。
ただ、それだけが人を評価する全ての尺度にしてしまったり
成果が上がらなかったら 体罰を与える
というような成果主義だったら民主主義的ではないと言えるでしょう。

私自身は成果主義とはほど遠い人物ですが
最近、Couchsurfingと言うのに惹かれております。
実は世界中にある無料で宿を提供してもらえるシステムです。
ひょっとしたら世界中ではないかもしれないのですがかなり近いです。
Couchsurfingで検索すると出てきます。
そこのメンバーになりプロフィールを作ります。
自分の行きたい所に住むメンバーを捜して宿泊をお願いします。
色々、子どもはだめとペットはだめとかありますが
自分の条件に合えばただで泊めてもらえるらしいのです。
そのかわり、ベッドではないかもしれないし、今のソファかもしれないのです。
また、自分が頼まれたら、泊めてあげなければ行けません。
もちろん断ることもできます。
自分でホームステイ先を探すような感じですね。
大枠のコンセンサスを決めて、細かな部分はそれぞれの個人が決める。
こういうスタイルが日本でもできるといいなと思います。
本題とはずれてますが。
 Hopefully, I want to think I’m not too old to challenge the Couchsurfing.

NO.242013-01-31 15:08:33 Tomoikukai 5
私は、先の投稿で、我々は、自らが作り上げた「洗脳マシーン」によって洗脳され続けて来た事に気付き始めています。と書いて、中途半端に終わってしまいましたが、これからその続きを書こうと思います。

まず、「洗脳」という言葉を少々安易に使ってしまいましたが、少し軽率だったと思います。というのは、「洗脳」というのは、今まで持っていた価値観を、精神的、時には物理的手法によって、全く違ったものに入れ替える時に使う言葉だと思うからです(個人的には、本当にしっかりした価値観を持っている人に対して、その価値観を変えてしまう事が出来るのかどうかは疑問だと思っています。変わってしまう人は、元々しっかりした自分の価値観を持っていなかったのだと思うのですが・・・)。しかしながら、我々は成長に伴って、周りの文化や環境から、何らかの価値観が刷り込まれ、その価値観をよりどころとして人生を歩んでいるのだと思います。だから、私が「洗脳マシーン」と表現したものは、「オーム」の電気刺激洗脳マシーンのようなものではなくて、その時代の、宗教観や文化に染められていく中でも、人生を歩むには、他律的な価値観、いわゆる偏見を抱かせるような仕組みや環境の事だと思っていただきたいと思います。

実際、私自身も、偏差値依存教育が始まった頃、他律的に大学受験を志しました。中学生の頃は理科が好きで、物理学を目指していたのですが、将来何をするかの目途は立たず、唯、評価された自分の偏差値に従って大学を選ぶという、完全に受け身な高校時代を過ごしました。そして、受験。この時、東大が無かったのです。それで、玉突き式に偏差値が高くなって、志望を変えなかった私は受験に失敗。一浪の後、渡辺格(わたなべいたる)の「生物学のすすめ」を読んで、日よった私は、生物学に転向。「生命とは何か」を考えようとして入った学部は、ただ、表面的な現象を取り扱うだけで、やる気が出ず、寮や下宿に止まって、その頃人気だった「高橋和己」や「ソルジェニーチン」「ショーロホフ」などの小説ばかり読みあさっていました。(そういえば、「赤毛のアン」や夏目漱石、コナンドイルのものは、中高生時代に、勿論日本語でだけれども、凡て読みました。)授業は必要最小限に出席して、卒業はギリギリ4年でクリアしたのですが、在学中に印象に残った本は、「オパーリン」の生命の起源ぐらい。全く無駄な4年間を過ごしたものです。今やり直すとしたら、アメリカに留学するとか、英語で論文を書けるようにするとか、何か目標を持ってやれるような気がします。とにかく、高校までの私の生き方は、他律的に偏差値教育の流れに乗っかっていただけで、浪人の一年間を除いては、押し付けられた課題をただ不器用にこなしていただけだったと思います。

それが、大学に入って、学生運動のせいもあって、それまでの権威が一時的に否定(文化大革命の影響もあってか、教授達に自己批判を迫って吊るし上げ集会が開かれた事もあったらしい。私はノンポリだったので、集会には出た事が無い)されたこともあって、自分のやるべき課題は、突然自分一人で考えるはめになってしまいました。正に、それまでの依存体質からニーチェの実存主義的世界へと放り出された感じでした。私は途方にくれ、小説の世界に早々と逃げ込んでいったのでした。それで、当然といえば当然なのですが、卒業する頃には、全く自分の進路は決める事が出来ず、北海道を皮切りに放浪の旅路を行く事となります。その流れの中で、青年海外協力隊に参加する事になるのですが、今、4人の子供を持った身として考えた時、親父は寺の跡継ぎである私をよく我慢して見守ってくれたものと、今更ながら、その寛容さに驚き、敬愛の情がわき起こります(今年は親父の33回忌にあたります)。今、こんな親はいないだろうな・・・アッ私が近い・・・蛙の子は蛙。子供達よ安心しろ。君たちは自由だ!

そういう訳で、私は学生運動の後半戦の傍観者なのですが、その最中は、その運動の意味も、方向性も殆ど見当がつきませんでした。連合赤軍の浅間山荘事件が起こった時、私はボーリングにうち興じていたのですが、その日の日記には、

「連合赤軍の人々よ、私が大人になって、世の中が分析できるようになるまで、私がこの事件を評価するのを待ってください」

と書いたものです。・・・そして、少しは世の中の事が解るようになった今、あの運動を振り返ってみると、学生達が、安保闘争を皮切りに、アメリカ軍と結びついた、日本の権力機構にがむしゃらに戦いを挑んで、始めは、一般の同情を得ながら、次第に力で押さえ込まれることによって内部分裂を起こし、最後は内ゲバ化して、崩壊していったという事になるのでしょう。一言でいうと、「学生達が若気の至りで、一途に凡ての権力、権威に立ち向かっていって、敗れ去った闘争」じゃなかったでしょうか。

その後、学生運動が下火になって、吊るし上げられた教授達の中にも学生運動の親派がいて、その人達は、「近頃の学生はおとなしくなって、言う事はよく聞くけど、覇気が感じられない」と嘆いたものでした。つまり、権威の前には、一切反発しなくなったという事だと思います。権威に従順な学生達は、私の例でも明らかなように、偏差値で輪切りにされるシステムによって家畜化されていったのではないかと思われます。学生運動を主導した、我々の少し前の先輩達までは、我々が頼もしいと感られる、リーダーシップを持った人達がたくさんいました。私たちが、ちょうど、権威に刃向かう事の出来た、最後の世代だというような気がします。

そのように、学生運動が力で押さえ込まれた後、世の中全体が、急速に、権力に対する帰順の態度を示し始めます。労働組合が、第二組合化し、国鉄や私鉄の組合も無力化。教育に目を向けると、偏差値社会はどんどん進み、今や、偏差値産業が、文科省から委託されて教育界を牛耳っている感があります。子供会は、名ばかりで、大人がしきり、学校には、小中高校は愚か、大学にまで自治の精神がない。そして、JOC を頂点とする、体協は、高校のクラブを巻き込んで、校長も手を出せない権力機構を作り上げている。実際、学生運動の、最後の抵抗である、安田講堂攻防戦と、それに続く東大入試の中止の後、世の中は、「絶対仕返しできないという上下関係の構図」を、どんどん強化していったのではないでしょうか。

そして、今朝のニュースをにぎわしているのが、柔道女子、オリンピックの強化選手達へのコーチの体罰事件です。その対応によって、はっきり見える柔道界の体質は、選手達を

「サーカスの猛獣のように見立てて芸を仕込むようなやりかたを公認している」

と言われても仕方がないと思います。人権無視の体質というより、柔道界は幹部に至るまで、本音の部分では、自分自身の人権以外は、他人の人権は気にも留めた事すらないのではないかと思われてなりません(警視庁の幹部でもあるそうだから、建前の部分では、挨拶の度に人権に言及していそうですが)。このように、「絶対に仕返しできないという上下関係の構図」に於いては、下位の者の人格は徹底的に否定され、隷属を余儀なくされていきます。これは、何も体罰がまかり通っている組織だけに限りません。William H. Saito の基準によれば、日本の組織のほとんどが、この上下関係を基としたグループ構造になっているようです。

ひとつ、学習塾の例を見てみましょう。私は、一度、小学校の学習塾で、子供達に英語を教えようと思い立った事があります。早速、大手進学塾へ行って、教務担当の方とお会いして、話し合ったのが以下のようなものです。

「子供達に英語を教えてみたいのですが」

「中学の入試に英語は入っていないので、必要ありません」

「では、理科を英語で教えたらどうでしょう」

「教師はマニュアル通に教える事になっているので、一分一秒の無駄も許されないのです」

「それでは子供達は、質問も出来ないのでは?」

「試験の点数を一点でも上げる為には、課題をこなすのが精一杯で、質問に応じる余裕なんかありません」

「それじゃ、子供達は何にも考えられなくなるじゃありませんか」

「でも、こんなやり方で、子供達の点数を上げてやらないとお母さん達は、すぐ、子供達を別の塾へ移してしまうので、塾の経営上仕方ないんです。」

「それじゃあ、子供達はどんないい大学へ入れたとしても何の役にも立たない人間になってしまいますよ。」

「確かにそういう現象は、既に出ていますが、そう言われても、われわれには、マニュアル通りに仕事する以外に、どうすることもできないんです。」

どうでしょう? 体罰はないとは思いますが(子供が、強制的に塾へ行かされている場合には、発生するかもしれない)、進学塾という熾烈な競争の中で子供達が家畜のように扱われ、人格を否定される構図は、桜宮高校のバスケット部や柔道女子の強化合宿と殆ど共通のものがあるのではないでしょうか? これでは、sana805 さんが、前々回に投稿された、三重県津市で、子どもの権利条約をつくるためにということで、子供に密着して行われたというアンケートや条約づくりも、なかなか、他の地方にまで広がって、全国の子供達を解放してくれる所までは行けそうもないような気がします。

このように、日本の組織の中では、「絶対に仕返しされないという構図」の中で
日々、当たり前のように人権侵害が起こっているのですが、マスコミが取り上げるのは、自殺とか、何か事件が起こってしまってからです。特に、オリンピックの強化選手達の練習ぶりは、テレビや新聞等でよく見聞きしますが、体罰その他の、人権侵害に関わるような記事は見た事も聞いた事もありません。当然、取材記事を書くときは、選手個人のインタビューや意見の聞き取りも行う筈ですが、選手には内部の事は話してはいけないという箝口令でもあるのでしょうか? 作戦や戦略に関してはそういうこともあり得ようと思いますが、もっとオープンな取材を心がけるべきだと思います。そういえば、ワールドカップ南アフリカ大会で見せた、フランスチームの選手と監督の対立は、監督もチームの一員であるべきだという文化を見せてくれたのだと思いながら、改めて振り返ってみると、彼我の違いに驚かされます。とにかく、マスコミの人達は、人権侵害の行為が無いのかといった視点からの取材も、常に心がけなければ、この、権力、権威には楯突けないという現在の文化を変える事は出来ないように思います。(そういえば、現在では、マスコミこそ、正攻法で権力や権威に楯突かない代表格となっているのかもしれないですね)

それでは、最後に、「洗脳マシーン」によって、金縛りにあったみたいな権威に楯突けない心理に、風穴をあける呪文。

Why? 「なぜですか?」「どうしてそれをしなければいけないんですか?」

(上から目線の相手からは「口答えするな!」というお叱りが聞こえて来そうですね)

「The Team (日本の一番大事な問題を解く)」にも書いてあったけど、小さいときから、What? 「なにをするの?」から Why? 「なぜそうするの?」という会話のし方に変えていければ、裸の王様の正体は一瞬に明らかになっていくような気がします。

Why? なぜって、What? では指示待ち症候群だし、Why? って、なんか対等な相手に言い返しているような雰囲気がありませんか?

NO.232013-01-30 15:05:28 sana805 5
terurun さん の文面 納得! 「成果主義の恐ろしさ」 確かにです。 
体罰の本質。即効性。でも持続可能ではないこと。
茂木さんの、「今の子どもたちが、現状でいいんだ、学校は、このままでいいんだ、と言うこと自体が、日本の停滞を象徴しているようにも感じます。」という言葉も
自治が進むことは持続可能のキーだと思っています。でもそれを支えるサポートも同時に不可欠な気がしています。

今回のケース、学校自体が積み上げた栄光を潰さないと子どもが潰れるかもという危機感のなさが一番痛いとこだったのかなと個人的に思えています。教育と集団と成果って複雑に絡んでいる気がします。教育が企業化している。
橋本さんの押さえ込みも言われると確かにそう感じる。でも本当に押さえ込みだけなのか。

橋本さんのやり方は過激です。彼のやり方なのだと思う。それを選んだのは市民。
その影響は、また市民に還って影響を与える。命が奪われた現状の彼なりの収め方であり、新たなスタートなのだと思って見ています。
体罰の本質からは外れますが、命が奪われたという重みをどう捉えるのか。

chigusaotsukiさんが以前書かれていた
〉高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことは、非常に残念なことと、思います。  という言葉が思い出されています。
はじめは私も橋本さんは教育現場に踏み込む判断をして、なんて僭越な行為をしているんだろうと驚きました。でもせざるおえない状況と判断したのだと思います。

命を奪った原因を明らかにして軌道修正すること、学校の関係者を信じること。でも放置でない関わり。難しい舵取りをされていること想像します。
成果主義とは目的が成果を出すことになっているから本末転倒で問題に見える。
教育の目的に沿って過程のなかで成果が生まれることは、発展だと個人的に捉えています。

なんども書き込んですみません。教育問題はとても気になっているので。
一意見として

NO.222013-01-30 13:02:35 terurun 5
体罰の即効性は、あります。

痛いので、最初は、やります。間違いなく、辛いので。

成果をすぐに出さなくてはいけない現代では、会社でも体罰とまでいかなくても、当然、

尻を叩かれ、いや、心も叩きのめされ、明日、成果を出す事を望まれる。

そのような現代に、「すぐに成果を出すために」その理由のために、体罰は、

「仕方なく」「最後の手」を使うのだと思います。

周りから、明日、成果を出す事を命令されたら、自分が死ぬか、相手を叩くかでは

ないでしょうか。

しかし、問題は、これは、即効性のみです。

なので、いずれ、体罰をされ続ければ、「伸びたゴム」になります。

伸びきります。伸びる事も出来なくなります。つまり、死ぬ場合も出て来ます。

すみません。過激で。

だから、体罰は、即効性はあっても、将来性は、まったくありません。

続かないんです。成果を短期間で出し続けるなんて。。。


決定的な事は、

すぐに成果を出さなくてはいけない。「日本の流れ」に問題があると考えます。

成果は、まったくもって、早く出るわけがないのに、です。

長い年月かけないと本当は、良いものなんて出て来ないのに。です。

すぐに、すぐに、すぐに、って焦らせ、

成果、成果、成果と連呼する。

だから、最後の手を使うしか無いんです。

それが、人間が人間に罰を与えて、無理矢理、生み出させるということです。

確かに、反面、経済が傾けば、日本にいる私たちは、危ない。

だから、崖の上で罰を受けながら、戦っている人がいるから、今があります。

しかし、この状態をいつまで続けるのでしょうか。

崖の上で、今、何人戦ってくださっているのでしょうか。

橋本さんのように学校を押さえ込んでも、

「なぜ、体罰をしなくてはいけないのか?することに至ってしまうのか?」

は、解決するのでしょうか。

体罰しなくてはいけない程の「「成果主義」」がそこに潜んでいるように思うのです。

体罰をやめたところで、成果主義は消えていない。

きっと、また、すぐに出さなくてはならない成果のために

体罰と同じぐらい即効性のある「何かを」

見つけてくるのではないか。と思うのです。

そうしなければ、「成果」が出ませんから。

成果主義があるから、体罰が存在すると考えます。

「成果主義」って、本当に恐ろしい言葉だと思います。

駄目だこりゃの後(笑)、考えたことでした。。。

学校と社会をごちゃまぜに書いてしまい、すみません。。。


NO.212013-01-30 12:21:47 茂木健一郎 5
確かに、東大紛争のときと、桜宮高校のケースは、現状の改革を目指しているかどうか、という点が異なりますね。東大紛争当時だったら、親や教師といった「権威」が体罰をしてきたら、「ふざけるな!」と反発していたのかもしれません。ですので、今の子どもたちが、現状でいいんだ、学校は、このままでいいんだ、と言うこと自体が、日本の停滞を象徴しているようにも感じます。

NO.202013-01-30 11:56:08 sana805 3
橋本さんのツイッター興味深く感じます
https://twitter.com/t_ishin

ヒューマンマインド、スポーツマインド、ソーシャルマインド、コーチングマインド(仮称)というコア科目を設置。そして臨床心理士にも加わってもらい、在校生のミーティングの開始。
子ども自身にも考える力をつけるカリキュラム。興味深い発想に感じました。

同じ過ちを繰り返さないように前向きに進む姿勢に感じるところがありましたので紹介まで。
話がずれて失礼。

NO.192013-01-29 17:55:13 orcamie 2
no.17 で 桜宮高校の名前を間違えてしまいました。申し訳ありませんでした。
         桜ヶ丘高校は 桜宮高校の間違いでした m(__)m

NO.182013-01-29 08:49:55 sana805 24
orcamieさんの投稿、共感します。

〉東大紛争の場合、抗議した学生や教員は 制度改革や待遇改善を訴えていたのに対し
桜が丘高校の学生や保護者、そして学校は 現状維持を希望していたように見受けます。

大学紛争は学生も主体者であった。でも大阪のケース、主体は大人になっていた気がする。
学生に主体はあったのか。

そもそも体育会系の高校進学希望者は純粋に得意なジャンルを活かして強くなりたいと憧れている。希望があるのです。強くなりたい、うまくなりたい、栄光を掴みたい。
顧問を乗り越えたいなんて思う生徒は皆無に近いと思う。むしろ認められたい。それはお墨付きと同様な意味合いを持つ。認められ居場所ができる。だからどんなにつらくても顧問の指導の先にはきっと目指す栄光に進むための意味があると思い込んで信じてしまう。

人を乗り越えるって反抗期がわかりやすいかと思いますが、力がついてきて初めて自分の力を試したかったり、親のいう事に違和感を覚えたりするとき自分の思いを押し通す。それが反抗と映る。それは対立であり勝負を挑むということになる。長年月の指導の達者な相手に数年の経験者が対立するなんて赤子の手をひねるようなもの。

高校教育は義務教育より専門性が高くなり、教職員の生徒との関わりはよりセクト的である傾向があります。保護者も思春期の子どもにどう関わるか手加減を悩む時期でもあります。 僕が責任をとりますなんて成果を出している人が言うと組織内で皆が黙る。組織も保護者も力のある人に依存している現場。それが無意識的にお世話になってるからという気持ちにすり代わり不条理がかき消されたりする。そんな雰囲気を感じます。

顧問と生徒の関係。おかしいと思っても抵抗する力が足りなさすぎる。結局、顧問の課題になり向き合う管理職の課題となり、システムの問題になっているのが今の現状のような気がしています。生徒は毎年循環する。でも顧問はその中で失敗成功を繰り返しある意味、指導という成長をして力を拡大する。自分の指導に慣れると麻痺して見失うこともある。

人は誰しも完璧ではない。立場のものは孤独な戦いをしてる。その行為をどう支えて関心を持って対話して協力してきたのか? 顧問の独裁だったといえばその通りだけど、民主主義って憲法でも唄われてる。国民の不断の努力がいると。責任はみんなにあるのだと個人的には思えています。

NO.172013-01-28 23:46:58 orcamie 18
何度も書いてしまうことになりますが。。。

私は 東大の入試中止と今回の桜ヶ丘高校の入試中止は
少し性質が違うのではないかと思っています。
確かに 入試中止が強制終了的で 体罰的な側面を持つ事は否定できませんが

東大紛争の場合、抗議した学生や教員は 制度改革や待遇改善を訴えていたのに対し
桜が丘高校の学生や保護者、そして学校は 現状維持を希望していたように見受けます。
入試中止を求めた大阪市側、そして教育委員会もしぶしぶなのでしょうか
体罰を禁止する、状況改善を主張して入試停止を決めました。

No.13で触れましたが、
桜ヶ丘高校の生徒が「私が死んだら体育科が復活するのか」のような発言を聞くと
明らかに、この高校の体育科の先生は 指導を誤ったのではないかと思ってしまいました。
なぜ、体罰の無い体育科を存続してくださいということや、
それについては生徒も最大限の努力をしますとか
体育科存続を訴えて署名活動をするなど
もっといろいろな方法があると思うのです。
普通科の生徒からも体育科は桜ヶ丘の誇りだから残して欲しいと言ったような
援護する発言も聞こえませんでした。
体育科は この学校で他の科とうまく共存していたのだろうか
という疑問も持ちました。

No.16のmasamiさんの指摘にありましたが
かの赤毛のアンも体罰をしてしまって苦しんだのだということ。
よく生きるということ、人を育てると言うことは 
正解がないだけに難しいんだなとつくづく思います。





NO.162013-01-28 10:07:16 masami 24
体罰を防止する施策が、体罰的になる構造・・・
と考えていて、体罰ではないけれど、自己啓発セミナーについての本を読んで、違和感を感じたことを思い出しました。
自己啓発セミナーは、自ら人格変容を望んで料金を支払って受講するもので、自分の思い込みに気づき、そしてその殻を破るために、長時間休みなしのプログラムを通して、ややもすると肉体的、精神的に疲弊しながら、生まれ変わった自分を手に入れようとするものであるそうです。自分の変わりたいという気持ちもあるけれど、外部から与えられたプログラムによって変容する過程に、自ら変わろうとして試行錯誤していく過程とは異なるのではないかと違和感を感じました。言い過ぎかもしれませんが、殻を破って新たな自分になるというよりは、社会に適応的な人間になるために、新たに洗脳され直すような印象を受けました。

No.12のchigusaotsuki さんが書かれた、
高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことしたことは、非常に残念なことと、思います。

と同じように、相手が、あるいは、自己啓発セミナーの例の場合は自らが、自分の内側から自発的に変わることができる、と信じることができない中で、ある時期までにこのように相手は、あるいは自分は変わるべきである、と思いこまれた時に、体罰的な行為が生まれてくるのかもしれない、と思いました。
人間は社会的な存在であるとともに、唯一の命である個としての存在でもあり、それはもともと相容れないあり方をはらんでいると言われます。そして体罰的なものは、社会的人間としてあることが、個としての人間であることよりも過大に要求されるような状況では、どのような場においてもあらゆる形で生まれる可能性があると思いました。

今回の学校における体罰については、No.5のmakimakoさんの
「人と人との関係性、信頼関係、またその他のいろいろな状況によって、物事の捉え方や取り方は、全く変わってくるのではないかと考えます。」
と同じように感じます。
体罰はあってほしくないと思いますが、全くなくなるようにするのは難しいとも思います。赤毛のアンのシリーズでも、教師になったアンが、どうしても従おうとしない子供に思いがけず体罰を行い、以後その子供は従うようになったけれど、アンにとって、大きな痛みを伴う体験だったシーンは、生々しく覚えています。体罰は、それを行う側もまた、同じ痛みを伴うものなのだと思います。そうでないものは、単なる暴力なのだと思います。
また、No.13のorcamieさんが例に挙げた中田英寿さんの罰走のエピソードからもわかるように、体罰を受ける側が抗議する余地や、受けないという選択もできる余地が必要だと思います。そのような余地が無い場合も、体罰ではなく単なる暴力だと思います。

最後にテーマからずれるかもしれませんが一つ付け加えたいです。
PTSDの治療をする現場では、同じ痛みを体験しても、心の傷として残る人と残らない人がいることの原因の一つに、その痛みの体験をどのように受け止められたか、が大きく影響する、ということがわかってきているそうです。この結果は、自分の体験に照らし合わせても、そうかもしれない、と感じます。
このことは、心に痛みを受ける人は決してゼロにはならないであろう世界に生きる人すべてに知ってほしいし、私自身真摯に受け止めたいと思います。

NO.152013-01-27 18:05:28 orcamie 13
続けてですが こちらの方が詳しく中田さんのエピソード載ってました。

http://www.footballchannel.jp/2012/12/16/post870/

NO.142013-01-27 17:55:10 orcamie 13
参考までに
中田英寿さんの罰走のエピソードが載っています。

http://footballnet.2chblog.jp/archives/22273302.html

NO.132013-01-27 17:30:08 orcamie 24
茂木さんの今回のお題は「体罰は効果があるか」というお題をまずシンプルに考えると、おそらくあるからその悪しき伝統が続いているのだと思います。そして効果があると言う意見はおそらく顧問の先生とその教え子、保護者、OBの方たちであろうと思われます。

しかし、当事者の意見なので、近視眼的、主観的で限定的な視点からのみの考えのような気がします。昨年の大津市で起きたいじめという名の下に行なわれた暴行による自殺、さらにその前には力士が稽古中に亡くなるということもありました。こうやってみると日本では高校のスポーツの場だけではなくスポーツの現場で広く暴力が日常的に行なわれているのかもしれないとちらりと頭に浮かび、橋下さんの今回のとられた処置はやむを得ないのではないかと思います。体育科の入試は中止となりましたが普通科の定員を増やし、体育科と同じ条件での入試科目で実施されるようです。私はそれよりも体罰を苦にして一人の生徒が命を落としたということに対して、現在の体育科の生徒が『私が死ねばいいのか』と言ったような短絡的な考えを述べた事に驚きました。彼らが自主的に記者会見を開いたらしいのですが、そのようなことを言ってしまう生徒たちは無意識のうちに日常的に追いつめられた生活をしているのかなって感じてしまいます。

今回の事を踏まえて、まずは高校はもちろんですが日本中の学校のスポーツと子どものスポーツでの体罰に関する調査を早急に、しかもなるべく詳細にして欲しいなと思います。体罰を経験した生徒が長期的にどのような影響を受けたかも是非調査して欲しいなと思います。現在の学校教育法では 校長も教師も懲罰として体罰を加える事はできないことになっているのにどうやら結構広く行なわれているかもしれないようなので。どれだけ正確な調査ができるのかなと思ってしまいます。いけないことになっているのにどうして黙認されるか正確な状況を是非明るみにしてほしいなと思います。

それから先生は暴力を使わない指導をもっと研究されるべきだと思います。今ではスポーツ科学の分野も発達して暴力以外で力を伸ばす方法がいくらでもあると思います。ですが、そういう方法を実行するのに顧問の先生一人では無理なのではないでしょうか。例えばわが子の一人は小学校から高校までサッカーをやっていましたが何人ものコーチに出会いました。その中でいいコーチだなと思った先生は個人的なつてを使って、例えば、クラブチームの試合の手伝いをして部活の資金的な支援をしてもらったり、知り合いの先生に来てもらって栄養の指導をうけたりしました。それを実行するのに先生ご本人がポケットマネーをだされたりしたのではないかと思っているのですが。中学や高校のクラブ活動の先生たちが能力向上のノウハウのアドバイスを自由に受けられるような支援体制を作ってあげることも必要なのではないかと思います。
私の息子は体罰はうけなかったなあと今朝まで思っていました。今朝twitterでどなたかが中田英寿さんが若い時にプレーのミスのせいで責任をとってグランドを何周か走れと言われてなぜ自分だけ走らされるのかとコーチに問いただした。という書き込みを読みました。息子のあるコーチはたとえばチームの誰かがサッカーシューズを忘れたとか、チームのボールを無くした等と言う不祥事が起きるとその学年は練習前のランニングを普段より多く走らされるということがあったのです。これは体罰かどうかって少し考えました。中田さんはそれに疑問を持ってコーチも一緒に走るならと言う事でコーチも一緒に走ったそうです。中田さんもすごいですが、コーチもいいかたですね。息子はその連日余計に走るので帰宅して夕食・風呂後即寝てしまうので勉強ができずに困ったものだなと言うのがその時の私の悩みでした。今でもこれは体罰なのかなってよくわからないです。

そして私が3人の子どもを育てる過程で小さい頃はお尻をぺんとしたり拳骨をしていたなと思い出しました。特に危ない事、他の子に危険が及ぶような事をした時にそうなったと思います。実際の暴力による痛みを実践を伴わずに女の子は理解したと思いますが、男の子は拳骨を貰わないとわからなかったであろうと思うのです。実際に手をあげたのは小学校低学年までだと思います。しかし先生が我が子に手をあげたらたとえ先生の側に正当な理由があったとしてもそれを正確に私は知りたいと思います。そして息子には先生にそのような行為をさせてしまった彼の行為についてじっくり話を聞きたいと思います。その上で同じ事を繰り返さないようにしようと話し合うと思います。

NO.122013-01-27 05:07:40 chigusaotsuki 21
体罰が行われていた高校で、高校生も、保護者も、教員も、体罰はあってはいけないことであると、多くの方が、気づいていらっしゃるのでは、ないでしょうか? 体罰の心の痛み、体の痛みは、暴力として、記憶に刻まれて、あまりにも、痛々しく、何より、人間を見くびっています。 もともと、人間は、体罰がなければ、成長しないなんていう教育論自体に、なぜ高校生も、保護者も、教員も、疑問を抱かないのでしょうか? 日本の教育のレベルは、そんなに低いのでしょうか? 1968年11月8日に、東大紛争では、教官有志は「基本的人権の重大な侵害。大学を無法地帯とする愚挙。」と声明を発表しましたが、私は、体罰こそ、基本的人権の重大な侵害であり、学校を無法地帯とする愚挙に、思えてなりません。

東大紛争では、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題をめぐり争われました。今回の事件で、橋下徹さんの指令はなくても、高校側は、学校運営の民主化を、強く主張できたのでは、ないでしょうか? 人間は、間違いを、おこします。でも、間違いを認めて、そこから変わる力があるのに、橋下徹さんは、変わるには、もっと、時間がかかると、判断したのです。でも、体罰をやめることなど、1日でできることでは、ないでしょうか?

橋下徹さんは、多数の方から、反発を受けているようですが、橋下徹さんは、学校自治の放棄を、求めてはいないようです。むしろ、学校自治活動の自由化、今後の高校の改革の方向性などを、高校生や保護者や教員に、求めているようです。

1968年12月29日 東大紛争では、加藤学長代行と坂田道太文相が会談、「現状のままでは入試中止。1969年1月15日までにスト解除・授業再開の見通しが立てばその時点で再考」とすることで意見が一致したのに対して、文部省(当時)が、大学側の意向を無視し1969年度の東大入試中止を発表して、東京教育大学も体育学部を除く入試中止を決定しましたが、今回の事件でも、その「現状のままで」あり続けることなど、できないことは、誰もが、わかっているはずです。高校生や、保護者や、教員に対して、橋下徹さんが、その能力を、過小評価したことは、非常に残念なことと、思います。

NO.112013-01-26 11:13:32 茂木健一郎 15
みなさま、さまざまなご意見の書き込み、ありがとうございます!

問題提起でも書きましたが、
今回と似たようなケースが、1969年の東大入試中止だったのかな、と思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E7%B4%9B%E4%BA%89

文部省(当時)によるこの「劇薬」が効いて、学生運動は急速に下火になっていきました。
このあたりの流れの歴史的評価も、もう一度考えてみたいものだと思います。

NO.102013-01-26 10:04:28 sana805 22
皆さんのいろんな考えや思い。。とても考えさせられます
dapetteさんの言葉とても心に響きました。

愛情と伝いたいことの程度のバランス。なにかそのようなものを感じます。
指導の程度と伝え方の手法。そして本人を信じる心。

そもそも指導ってなんなのか。体罰って何なんやろう、、とまた改めて思う。

私は親には手を挙げられたことはない。でも父親から小さい頃に叩かれそうになったことがある。
きっと、生意気なことを言って反発したのでしょう。おぼろげな記憶。でもきっと叩かれたら、許せないと思い続けたと思う。感情だけで判断していたから。

dapetteさんと同じく私も万引きをしたことがある。私は小学校低学年の頃、素敵な音楽のなるメッセージカードがあって、お小遣いが足りなくてでもどうしても欲しくて。いくらぐらいのやったのか。1000円ぐらいだったか。それがバレて、母親は私に内緒でこっそりそのお店に返しに行ったのだけはわかった。すごく迷惑かけて私は2度と死ないって心に決めた記憶があった。すごく情けなかった。

人に更生して欲しいと時の親の愛情って、、自分に向いている時には心底伝わるものがある。
でもそうでない、相手の思い通りにさせたい気持ちからくる指導に感じるとカチンとくるし、受け入れがたい。もしかしたら誤解も行き違いもあるかもしれない。受け入れるには幼すぎた経験しか持ってない場合もあるかもしれない。

指導の上での暴力が伴うケースは、本当に理解しがたい。生徒同士が喧嘩したらいかなる理由でも喧嘩両成敗。でも、教員が手を上げるのはなんでOKってなるのか。。。
子どもの喧嘩同様、相手が萎縮し追い詰められることもあるとは思わないのか??
子どもが、一方的に子どもに危害を加えるときは、かなりの時間と手間をかけて指導を行った。それはその行為が人の居場所を奪い萎縮させる行為だから。 
知ってる体育の先生は、そんなアホなことをうちのクラブの奴がしたら俺がボコボコにするって威張って言っていた。。。なんが動物を扱ってるみたいな発言やった。

今回の櫻宮のケース。ことはもっと複雑な気がする。橋本さんのツイッターをみて感じました。深刻。
桜宮にあこがれをもつ子ども。程度がズレた指導。外向けにいい顔が立つ結果や成果主義傾向にある高校。そしてそれを助長する世間の目。なぜなら結果で世間は判断し、入学の競争率も変わるから。
教育って本当は形にならない子どもの様々な育ち関わることに意味があったりするのになと思う。

またもやまとまりませんが、ふと書き込みたくなりました。。

NO.92013-01-26 00:15:50 dapette 27
私は体罰行う目的とは更生させることであると考えます.
私の体験として中学生の頃に軽い気持ちで万引きをしたことがあり、それが学校にばれて,母親が呼び出されました.そして泣きながら私を平手で打ちました.これが体罰といえるかは分からないですが,私は母親の気持ちがすごく伝わり,二度とするまいと心に決めました.
逆に,嫌いな体育教師に生活指導として殴られたのは、本当に嫌で反発心しか残りませんでした.基本的に体罰とは強制的に人を動かすという側面があり,本人に何が悪くて,何をすべきか考える機会を奪ってしまうことにつながることが多々あると思います.場合によっては今回の桜宮高校の生徒の様な例にもつながる恐れがあります.体罰とは人が人に対して行うものであり,人と人とが関わっている以上様々な要因によってその体罰の効果は変わってきます.体罰もコミュニケーションの問題であり,人とどのように向き合うかを考えていないとたんなる野蛮な暴力でしかないと思いました。

NO.82013-01-25 11:02:35 ryosuke85 30
辞典には、「体罰=懲らしめの為に身体的な苦痛を与える事」とあります。
つまり、肉体的な苦痛を与える事で服従させる事を目的とした暴力行為であり、権威の主張だと僕は認識しています。

過激な置換になってしまうのですが、今回の大阪での事案を受けて、「体罰 or 暴力=武力的制圧」と言う風に捉える様になりました。

無抵抗状態の相手に“ちから”を持った行為を行う事で、相手の意欲を奪い、服従させる為の支配体系だと思うのです。
これは、旧ソ連の生理学者I.P.パブロフの犬を使った反射の実験と、その本質を一緒にさせている様に思います。

そんな言い方をすれば怒られると思いますが、これは脳に刺激が入り、それを脳が電気信号を使って唾液を出させる様にする、という「脳支配」とでも言えるモノで、旧ソ連の場合、だからこそ、受け入れられた理論でした。フィードバック、トップダウン形式の中央集権的な思考だからです。

そのパブロフに対してN.A.ベルンシュタインは、そうでは無くて、皮膚や身体内にある感覚がこれから起こるで有ろう身体動作に対して先導する、つまり身体感覚達が予測を持って、あえて崩しているフィードフォワードを提唱します。人の動作は崩してこそ成立する、と。

簡単にすると、脳から身体各器官、だけでは無く、身体各器官から脳への逆説的なシグナルが存在し、その交流によって人間の動作行為は成り立つんだ、と言った訳です。各器官はそれぞれが“意志を持った”状態で動く、と。

そのベルンシュタインは中央を追われました。何故なら、中央政府や研究機関が“危険な思想”だと認識したからです。その証拠に、彼の著した「デクステリティ」という本は1947年初版だったにも関わらず、1999年になるまで日の目を見る事がありませんでした。

だから、体罰や暴力で相手を従わせる、というトップダウン形式の(無理矢理な)意思伝達方式は似ている、と考えた訳ですが、日本の旧来的な教育方針の中には(教育法が関係なくなってしまう所では)自らの考え、行動している事に間違いが無い、と言う事が前提で事が運びます。

つまり、暴力や体罰をかす側は“絶対的な存在”である、と言う事を示す事です。
それというのは、中央集権的な考え方であり、それが“絶対的な価値”を持つ、と信じるからこそ、罷り通って来たのだと思います。

ここからは論理の飛躍になってしまうのですが、それらの暴力行為を受けた状態で学校を卒業する、と言う事は、そのトップダウン形式を潜在的に植え付けられている事となり、結果的にそうやって受けて来た人たちが日本の社会を作っている訳です。

勿論、それだけで日本が成立している訳ではないとは思いますが、そうやって上から押さえつけられる事が“当然”として扱われて来ている事は、“思考停止”を招く要因として考えられてもおかしくは無いのではないでしょうか。

軍隊的な規律を求める組織には必要だとする意見が多くあると思います。
それは、その失敗が自らの団体、もしくは個人の“命”に関わるからであり、それだけの認識を持ってもらう為、という…で考えれば効果が認められるのかもしれません。

しかし、学校教育において“生命”に関わる様な失敗、というのはあるのでしょうか。ましてやスポーツの活動中における生命の危険を冒す様な失敗、というのは、スポーツに関わる人間として全く想像ができません。

球技系の競技において、自らの行為を否定され、暴力を受ける、と言う事は「創造性」を奪います。
相手との駆け引きがドンドン下手になります。競技が楽しく無くなります。せっかく巧くなる為に入った学校で巧くなる要素を削がれる訳です。

これは上記の軍隊組織の“生命の危険”と同じで、その危険性が無いにも等しい環境の中で、それを問われ、今回の事案の様に、結果的に“自らの命”を絶つ、という答えを“指導”してしまった事は、あまりにも自虐的すぎる規律なのではないでしょうか。

以上です。

ENDO,Ryosuke

NO.72013-01-25 10:04:07 terurun 34
私は、体罰の本質は、本当に分からない。

身体に痛みを感じさせる教育とは、いったい何なのでしょうか?

その本質は、正直、体罰経験があっても、理解は出来ない。



しかし、一つのお話なのですが、年始に地域の自治会の役員さんや政治家さんがたくさん集まる

新年会にお邪魔させて頂いた時に、私は、たまたま(笑)80歳以上のおじいちゃまの前に

座っていたんですね。

ちょうど、体罰のニュースがあった頃で、おじいちゃま達に「皆さんの頃は、本当に体罰と

言うのは、日常茶飯事(笑)だったかと思われるのですが(笑)、現代の体罰をどう思いますか?」

と質問させて頂いたら、その二人のおじいちゃまは、声を揃えて、こういうんです。

「今の先生は、子どもを見ていない。子どもの性格を見ていない。僕たちの頃、

叩かれたりする子どもは、決まって、「「叩かれても、平気な子。ひどく落ち込まない精神の

強い子を先生は、「「分かっていて」」、みんなも「分かっていて」」叩く。

見せしめのために叩く。軍隊帰りの先生は、怖かった(笑)歯を食いしばれ!ってすぐ

言うからね(笑)」とお話してくださいました。

そして、その後も、おじいちゃま達が「叩かれた子どもは、本当は、裏では、先生に一番、

可愛がられていたりした。ちゃんと褒めたり、期待しているが故、才能がある故に

怒っている等、裏で必ずフォローしている。今の先生は、やりっぱなし、フォローもない。

そうだろうね。いつも先生達が見ているのは、生徒ではなく、テストの答案なのだものね。

下を向いて、採点しているイメージしか思い浮かばない。そういう先生に子どもを理解する

余裕も時間も無い時代なのは、分かるけどもね。。。」とおっしゃってました。。。

makimakoさんの内容にとても共感したのですが、

「人と人との関係性、信頼関係、またその他のいろいろな状況によって、物事の捉え方や取り方は、全く変わってくるのではないかと考えます。」」

ここの部分、とても共感しました!!今回の体罰の問題も、自殺に追い込まれた本当の理由には、まったく先生と生徒の間に

信頼関係が結ばれていないと言うことは、考えられると思いました。

本当に最近、思うのは、何でも一方通行。。。先生は、死なせようと思って体罰していないとしても、

相手は、死んでいる。。。

伝わっていない。。。本当に情けないぐらい伝わっていない。。。

もっと、自分の事ばかりでなく、お互いを理解する心、相手の事を考える思いやり、持ちたいものです。。。

信頼関係。。。本当に大事ですよね(><)。。。

教師の問題、教育機関の問題ではなく、人間そのものの問題かと。。。

罰を与えることをただ、みんなが連鎖反応のようにぐるぐると行う事で、

一体、何が生まれるのでしょうか??

罰することは、「良くない」と言う事の提言のみかと。。。

その後は、どうするのでしょうか?余計に多くの学校は、いじめも体罰も悪い事だから、

隠したり、バレないように工夫するのではないでしょうか。

先生が生徒に罰を与えたので、学校が先生に罰を与え、市が学校に罰を与え、

市は、国から罰を与えられ、国は、世界から罰を与えられるという。。。

行き着くとこは、何でしょうか??

小さい事が、やっぱりどんどん大きい事になっていく。。。

面白い時代ですね(><)。。。

本当に理由なき、結論で無責任ですが、罰すること自体には、本質は、無いと考えます。

本質は、もっと、他のところに。。。あると。。。だけ、思ってます(笑)。駄目だこりゃ(笑)。

NO.62013-01-24 16:47:33 Tomoikukai 27
前回の「日本の様々なローカルな文化を世界に伝える効果的なアイデアとは?」
というテーマに対して、私は、今、ローカルな文化の背景に横たわる日本の一番大きな問題に目をつぶったまま、日本の文化を世界に伝える事は次期尚早じゃないのかと疑問を提示させていただきました。しかし、多分、説明の仕方が悪かったのか、あまり理解を得られたというような気がしていないので、今回、また、「日本の一番大きな問題を解く」という見地から、大阪、桜宮高校の事件を考えてみたいと思います。

今回のテーマは「体罰に効果はあるのか」となっていますが、私は、この事件を問題にする時、体罰の是非を論じても、事の本質を見逃してしまうように思えるので、この投稿では、この事件が起こった背景と、その事件に対する橋下市長の下した判断と措置を考えてみようと思います。

桜宮高校の事件で、その後明らかになったように、顧問の先生は、彼が指示した事が出来ないという理由で、亡くなった生徒に対して、集中的に、体罰や怒声を浴びせていたようです。これは、日本人の集団にありがちな、トップを完全に配下に置く事によって、全体を支配するという、一見効果的な方法です。これが、昔の日本の軍隊なら、キャップテンから、更に下位へと暴力での支配が続きます。各地の野球部で、先輩が後輩に暴力を振るう事件が多発するのはこの構図なのでしょう。そして、これらに共通するのが、彼の桑田選手が述べた、「絶対に仕返しできないという上下関係の構図」なのです。そして、その構図の中では、体罰であろうが、他の手法であろうが、例え、下位と目されるものが、自分の意見を持っていたとしても(持っているに決まっている)、ほぼすべてが圧殺される事になってしまう、つまりは、その人の人格が否定されてしまうという事になります。これを、昔の人は、むしろ、評価して「滅私奉公」と名付けました。・・・そう、反論を許さず、コミュニケーションのとれない日本の上下関係の構図は、正に、「滅私奉公」の関係になってしまっているのです。

この、トップを完全に支配下において、グループ全体を掌握するというやり方は、日本では実に一般的に行われています。特に政治の世界では、省庁の責任者を怒鳴りつけて、周りに自分の優位を見せつけ、自分の都合の良いように政策を実行させるという、桜宮高校バスケット部を思わせる手法は、数年前まではあたりまえのことだったのでしょう。原発事故の時、事故対策の大臣が、遅刻して来た知事を叱りつけて、自分の威光を見せつけようとして、一般の不興を買い、結局、辞任に追い込まれたことは、大臣級の方にもまだまだ、旧態依然の政治感覚を持っている人がいるのだという事を印象づけました。鈴木宗男さん、亀井静香さん・・・そして、愛すべき、田中眞紀子さん。省庁のトップを怒鳴りつけて自分がいかにも偉い人間だと、周りに思わせる手法で、一時は、総理大臣候補とまでいわれた人、小泉純一郎さんより上だとアピールしようとして、これは結局、最終的にはメッキがはがれて、国民に受け入れられず、今回の選挙では、とうとう撃沈してしまいました。今、行政の世界では、政治(家)主導か官僚主導かという綱引きがなされているように見えますが、「政治(家)主導」は、どうもいけないようです。どっちにしても、下位のものに滅私奉公を強制する話になってしまいます。

それならば、ここは、国民の「知恵」を総動員して、得られた民意を基とした民主主義本来の「政治主導」の道を新たに作らなければならないと思います。年末の総選挙では、新生(であってほしい)自民が勝利し、旧態依然たる政治勢力の力が弱まったと思えるので、自民党の若手が、維新の会やみんなの党、民主党の一部ともチームを組んで、エンジンの役割を担い、国民の知恵を集約する方法論を確立し、その上で、政治改革を早急に完成させなければならないと思いますし、また、絶好のチャンスでもあると思います。

鍵は、権威付けの為に、威張ったり、怒鳴ったりして上下関係を思い知らせながら、組織を支配するという、桜宮高校のバスケット部に見られたようなやり方をどう変えられるか? William H Saito が大きな役割を果たしてくれるような気がします。・・・「ザ・チーム(日本の一番大きな問題を解く)」・・・ネッ

Saito さんは、日本にはチームがなく、日本の組織は、ボスが支配するグループばかりだという。それでは、チームとグループでは何処が違うのでしょうか?私は、次の二つの点が大きく違うと思います。

一つは「チームではリーダーとフォロワーの違いがあるものの、個々人が   対等な人間関係であるが、グループはボスを頂点に上意下達の組織になっているという点」

二つ目は、「チームでは、本音で自分の弱点を話題にする事ができ、お互い             に弱点をカバーし合う事が出来る。つまりは、確固たる信頼関係が築けるのに 対して、グループでは、人に弱みは見せられない。つまり、信頼関係は建前だけという点」

という事であろうと思います。これを纏めていうならば、

「日本には、正しい意味でチームは見当たらず、殆どの組織は、絶対に仕返しをされないという上下関係の構図の上に成り立っている。」

どうでしょう、こう考えてくると、桜宮高校で起こった事件の問題の本質が、体罰の是非にあるのではなくて、日本の、あくまでも、今日のローカルな文化に由来するという事が見えてくるのではないでしょうか。そして、この、今日の日本のローカルな文化というのが、「絶対に仕返しをされないという上下関係の構図」、つまり、私がいうところの「形骸化した儒教」なのです。

今の日本は、殆どの組織が、この、「絶対に仕返しをされない上下関係の構図」で動いているようです。政治の世界は、先に挙げた事でも解るように、親分子分の関係で成り立っているようなものだし、他に、それが障害となって機能不全に陥っている例を挙げると、

日本の学校に英語を教えに来ている外国人の先生は、皆さんご存知のようにALT(Assistant Language Teacher)と呼ばれてて、正式の英語教諭のアシスタントという位置づけです。日本人の英語の教諭はALTの上司となります。だから、ALTは英語教諭の指示や命令を受けて、授業の補助をするという役割を担います。ところが、今日、どうしても子供が身につけなければならないという英語を話す能力となると、外国人教師はプロ級(当然)なのに、日本の先生は、よくてむこうの小学生レベルくらいで、年を取った先生になると、コミュニケーション能力は、ゼロに近いと言っていいくらいです。これでは、日本人の先生が、ALTを主導してコミュニカチヴな英語の授業を成り立たせるなんて事は不可能に近いと思います。実際ALTの何人かに聞いてみると、受験に関わるシビアな授業になると、ALTの人達は、教員室に残って、授業に出なくていいといわれる事がしばしばだそうです。それでいて、日本人の先生が、ALTに対してする評価は、「あの人達は、日本に遊びに来ているのだろうか、何も役に立っていないのに高い給料をもらっているらしい」・・・だそうです。

方や、会社や大学の組織では、社長や重役、教授といった、ヒエラルキーのトップやトップに近い人達は多分、英語のコミュニケーション能力や、ICTの素養は全然ダメという人も多いと思われますが、それで、本当に、彼らが先頭に立って、外国との取引や、学会の交流が出来るものなのでしょうか? それとも日本のトップの人たちは、ただ威張っているだけで、実質的な事は皆んな部下に任せているのでしょうか? 巷の評価は、「あの人達は会社や学校に遊びに来ているのだろうか、何も役に立っていないのに、とんでもない高い給料をもらっているらしい」・・・だそうです・・・ネッ茂木さん

日本のあらゆる組織には、このような風景が、多かれ少なかれ存在するのではないでしょうか。そして、それらのシステムが長く続いた結果、現在の日本のローカルな文化はガラパゴス化してこういう結果になってしまっています。


http://diamond.jp/articles/-/30674

それでは、この、「絶対に仕返しをされないという上下関係の構図」からぬけ出して、「日本の一番大きな問題を解く」には一体どうすれば良いのでしょうか? それを、William H Saitoは、日本の組織のあり方を、上意下達のグループから、リーダーとフォロワーからなるチームという仲間組織に変革する事だと提言し、実際、ご自身でもそういう組織を立ち上げられているようです。

では、先ほど上げた、機能不全の例がチームになるとどうなるか?

まず、日本人の英語の先生は、自分の弱点が英語である事を白状する。本当は、ちょっと英語がわかる人には、バレバレなのだけれど、生徒達の前で正直に白状すれば、ALTがその弱点を補う形の授業が考えられるし、ALTの方は、始めから、教授法は素人だと白状しているので、日本の先生は、そこの所を補ってあげられるかもしれない。ともかく、チームとして子供達が英語を話す能力を身につけるという課題を解決しようと一丸となれば、新たな授業のやり方もどんどん開発できるような気がする。

そして、会社や大学をチームにするのはWilliamさんの得意とする所でしょうし、茂木さんなんかにもSonny の研究所あたりでWilliamさんと同じチームの一員となって、お互いの弱点をさらけ出して、協力して、日本全体を世界の一員となれるTeam Japanに変える青写真を作ってくださるようお願いします。

ここまで、桜宮高校の事件の背景と、それに対して、我々は今後どのような方向に進むべきかを考えて来ましたが、次に、今回の第二のテーマ、「今回の桜宮高校の事件に対して橋下大阪市長の下した判断と措置」をどう考えるかに移ります。

これは、先の、大津の中学校で起きた、イジメによる自殺事件の対処の仕方と比較すると、今回の判断と措置は、正に望ましい判断であり、措置だったと思います。つまり、大津の事件では、マスコミに主導されて、事件を分析する事無く、烏合の衆のごとく、センセーショナルに悪者探しをしてしまった。そして、そのパニックのような世間の反応に狼狽したかのようにイジメの遠因(あるいは真の原因?)であると思える政府による管理強化が更になされるようになってしまったという事だと思うのです。これら一連の事件への対処の仕方により、想像の域は出ませんが、まだまだ、精神的犠牲者も含め、後遺症は続いていると思われます。全国の学校教育にも、益々管理教育が強化されるという形で、最悪の結果となった対処の仕方だったと思います。

それに対し、今回の橋下市長の対処の仕方は、体罰という事を表向きは問題にしながらも、真の問題の所在を、体罰を行った個人にではなく、クラブや学校の運営のシステムにあると判断し、そこにメスを当てる事によって、古い体質を変える試みをされているように思います。これは、私が今まで述べて来た、「絶対に仕返しの出来ないという上下関係の構図」を変えてやろうと決意されたのだと思います。そういう目で見ると、他の体育会系のクラブの部長さん達が、橋下市長に今まで通りのやり方で続けさせてほしいと訴えたのは、生徒達が、市長に対して、反論が出来るという道が開けた事であり、桜宮高校の学校としての組織の変革の方向が、チームを目指したものである事が推測されて、私としては、明るい光が感じられてなりません。

然し乍ら、生徒達が市長に訴えた内容は、今まで通り、「絶対に仕返しできないという上下関係の構図」のそのままの維持であり、それは、それまで、その構図の中で我慢し続ける事に適応するように洗脳され続けて来た事を意味するものだと思います。・・・そんな事を考えると、この子達が本当に可哀想になります。・・・いやいやいや、そうではない。つまり、本当は、この事こそが日本の一番大きな問題を解決する大事な大事な大事な鍵なのです。「洗脳!」。我々は気付き始めています、我々は、我々自身が作り上げてしまった、絶妙な「洗脳マシーン」で洗脳され続けていると・・・つづく

NO.52013-01-23 13:30:34 makimako 27
 自殺をするほどまでの体罰とは、いったいどれほどのものであったのか?それを容認していた学校ということもちょっと驚いています。私自身が今まで過ごしてきた学校では、実際に体罰という部分で、そこまで深刻になることは、なかったように思います。廊下に立たされてスリッパで頭をたたかれた、プールの脇で水着で正座させられたということが、私が覚えていることです。しかし、今、こう言葉に表して書いてみると、批判されるべき体罰の部類に入る物であるかもしれませんね。ただ、当時、本人達は、あれ、ちょっと痛かったよねー、こっちにだって遅刻した理由あるのにね。というくらいの受け取り方だった感じがします。でも、人の受け取り方は、様々ですので同じくらいの体罰だったとしても、全く違う受け取り方をするかもしれませんね。

 実際、自殺をするまでの体罰ということで想像すると、病院に行くくらいの傷や痛みを伴う物であったり、外傷が残るくらいのものを一瞬、考えてしまいますし、また、明らかにそれはだめであろう範囲を超えていたのではないかと、感じます。でも、ここで、それはあくまでも、想像であり、もしかしたら、体罰の痛みがどうのこうのという事ではなく、何らかの精神的苦痛が大きかったのかとも考えられますし、きっとその精神的苦痛の大きさでのことだったのではないかとじっくり考えてみるとますますそう感じてきます。

 ですので、今回のテーマが、体罰に効果はあるのか?というところで、いったい体罰と言われている物が、いったいどのようなことで、というのがわかりかねますので、私自身が思う体罰というところで、理性的に考え、また子育てと同じように考えたら、基本的に、体罰は、良くないのでは?また、効果もないのでは?と単純に思ってしまいます。また、それは、その人同士の関係性にもよるところが大きいのでは、と思ってしまいます。
 しかし、その体罰といわれるものが、一人一人の学生に対して、その個性を尊重し、理性的に対応されれば、効果のある場合もあるのでしょうか?

 今回の橋本さんの判断は、その学校の状況を確認し、それが、容認されるべき物でないことを厳重に受け止め、二度とあってはならないものと考えたためのものだとわかります。
 時に橋本さんの対応は、それはやり過ぎだろうと思うこともありましたが、今回のこの件は、事の重大さを世の中にも伝える事となったのかなと思います。

 常に、物事には、その受ける人の許容範囲、精神状態、また対応される人の誠実さ、感情、性格、そういう物のすべてが、関わってくるのではないかと思います。
 例えば、よく昔の学校の罰のイメージの中で、廊下で水の入ったバケツをもって立たされているというのがあると思うのですが、これもそれをやらされている学生によって、きちんと反省をする学生、また、それが、全くもって意味をなさない、ただの反発精神をあおるだけの物になる場合だってあると思うんですよね。

 ですので、人と人との関係性、信頼関係、またその他のいろいろな状況によって、物事の捉え方や取り方は、全く変わってくるのではないかと考えます。


 そして、再度、投稿されていた方のコメントを読み直してみたら、chigusaotsukiさんが、最後、下記のようにしめくくられておりました。
> あの、茂木健一郎先生は、今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的な>ものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えておられたのに、なぜか、私は、>生命をまもるための施策、と、捉えていて、話がズレてしまって、すいませんでした。。。

 ああ、そういう論点だったのか、と、改めて、私の論点もずれていたのかなと、思いつつ、でも、世界は、やはり、人と人との関わりにあると考えます。しかし、ここ最近は、その人と人との関わりが、不信感やあまりにも自分の考えを持たずにマスコミに流されてしまっている世の中であるなあと感じています。また、私もいろいろな人の意見を読ませていただきたいと思います。そして、再度考えたいと思います。

NO.42013-01-23 10:02:02 sana805 12
連投失礼。
橋本さんが今回の判断の根拠となる想いを今朝ツイッターで述べられてましたね。。。https://twitter.com/t_ishin 

NO.32013-01-23 08:00:19 茂木健一郎 19
chigusaotsuki さん、sana805 さん、真摯なご意見、ありがとうございます。教育とは、難しいものですね。そこには、人間観、生命観が表れる。ぼくは決して橋下徹さんのような意志決定はしない人間ですが、いつも、考えるきっかけを与えてくださる、かけがえのない方であるように感じています。

NO.22013-01-22 18:19:09 sana805 19
茂木さんの劇薬とはうまい表現ですね。なるほど。そんな感じがします。
良薬口に苦し 程度なら良かったのに、、、。と個人的には思う。
劇薬は人にどのような影響を与えるのか。橋本さんは何を見ているのでしょうか? 教育というものに関して。
亡くなったご遺族への想い、橋本さん自身の組織者としての責任。多くの想いをお持ちなのだろうと想像します。橋本さんの動きは勝手な主観ですか裁判官のような印象です。

命を奪う行為。交通事故で人を死に至らしめることがある。運転者が殺そうと思っていなくても罪は罪。以前、車の教習で道路は本来走っては行けない場所だと教わり驚いたことがある。勉強をして初めて道路を走ることを免じて許される。だから免許なのだと。だから、もし仮に、歩行者に過失が多くても免許の重みが係るのだと。ふと、思い出しました。
教習では危険予測。リスクマネージメント。それをルールとともに教わった。

人の育ちに関わるというのは簡単ではない。今はhow to 本という育児書のようなモノが多く出回っている。試してやってみるのは経験として意味がある。でもうまくいかず悩む人ほど自分が悪いのではと自信をなくすこともある。なぜなら子どもは一人ひとり生まれや育ちが違い感受性も発信力も表現力も違うから。通り一遍等なやり方で通用しないこともある。指導に入ると、伝えたいこと教えたいことが優先になる。子どもの立場に立ってものを考えるというのは同時には困難があったりする。その子どもとの常日頃の関係性が影響するのだと感じます。

私は大学で教員免許資格をとり、採用試験に合格し、私は教員を10年ぐらいさせて貰う機会がありましたが、悩みの連続でした。子どもに向き合い指導を行っていることが、本当に本人の将来の力になるかどうかなんて見た目でわからない。なんの保証もないのです。だから不安な日々でした。日々の関わりを振り返るしかない。指導ってなんやろうっていつも考えていた。

今、教育現場の現職教育は衰退しているイメージです。細分化された教育。管理職や他の分掌からくる書類の束。授業。親とのやりとり。子どもの生活指導。進路指導。HR活動。クラブ活動。行事の運営。子どものケース会議があったとしても主任関係者中心。クラブは顧問中心。みんなで見合うということは体制的にない。セクト的です。でも実情は子どもは色んなところでいろんな教員が関わっている。皆が支え合えればいいけれど、限界もあった。時間に追われ、仕事に追われ、教員自身が抱え込む今の教育現場。支え合いは教員だけでなく、親とも子ども同士とも、地域ともつながっているはずなのに。

自分は不安や想いを良くも悪くも多く出すタイプだったので、近しく仕事をする理解ある教員仲間が兄姉のように、色々と心配りをいただいた声かけ頂き世話になりました。それでも解決というスッキリ綺麗に治まるものばかりではなかったです。体育会系の指導スタイルは私にとっては理解を超えるものでした。腹が立つことも正直多くあった。自分の発言で相手を不愉快にさせることもあった。相手は相手の教育理念があったのかもしれない。今思うともっと理解し合えたら歩み寄りがお互いにあればよかったなと思う。

激動の社会。右往左往の教育。教育現場はその変化や人とのつながりの変化を子ども達と一緒にどう主体的に乗り越えていけばいいのか手探り状態なのだと感じています。

私もchigusaotsuki さんと同様に考えがまとまっていません。。。
chigusaotsukiさんの橋本さんの前半に書かれている捉え、ほんまそんな感じやなぁと共感します。

NO.12013-01-22 15:23:15 chigusaotsuki 21
橋下徹さんは、学校を、再生させるために、一度、学校を、破壊しようとしているのでは、ないでしょうか? 学校制度の崩壊から抜け出る道を探す、橋下徹さんは、ある状況に立たされているがために、有無を言わさぬ力をもって、私たちに迫ってきているようです。そして、橋下徹さんは、もしも、私たちが、誤解しているのであれば、その政治判断基準を、どうやって作ったかではなく、なぜ私たちが、そのような懐疑を、持ってしまったかということに対しても、その懐疑が発生する仕組みを、理解しようとしなければ、あるいは、答えられなければ、とても、人々に対して、りっぱなおこないをすることは、期待できないのではないでしょうか? そうでなければ、橋下徹さんは、何をしてもかまわないことになるのです。

私は、橋下徹さんは、次のように言われるのではないかと、想像しています。
体罰をした教師が、罪を償えば、それでいいのか、と。今回の事件で、最も重要なことは、新たな自殺者を出さないことではないか、と。
あらたな犠牲者を出さないために、橋下徹さんは、いかなる規則、法体系をも、定めるのではないでしょうか。

ただし、その規則体系に従っていても、実際問題のすべてを理解し、見通すことはできないのは、必然です。けれど、言葉だけで、その場しのぎをしていてもいけない。私は、一回性というのは、まさに、人間の命は、一つしかないからであり、ウイリアム・ジェイムズの言うとおり、例え、一人の権利を侵害することで、それと交換に、数百万、数億の人々が幸福になれるとしても、それはしてはならないというのが、道徳だと、思うのです。

橋下徹さんは、生命を守るための法体系と、道徳を、危険なディレンマを持たせることなく、両立させることができるのでしょうか? 私たちの生活の危うさを、露呈させるだけではなく、それをいっそう危ういものにすることこそ、避けていくことを、強く望んでいます。

あの、茂木健一郎先生は、今回の件については、体罰を防止するための施策が皮肉にも体罰的なものであるところをどう考えるかがもっとも重要な論点だと考えておられたのに、なぜか、私は、生命をまもるための施策、と、捉えていて、話がズレてしまって、すいませんでした。。。(T_T) うまくまとめられたら、また、投稿させて下さい。(>人<;)