トップ 書籍一覧 メルマガ一覧 ご利用ガイド サロン・通信講座

「成果主義」について考える

人間の脳には、「報酬系部位」というものがあります。その部位が喜ぶような刺激を加えると、人間は高いパフォーマンスを発揮することができる。企業や学校が導入しようとした「成果主義」というのは、そもそもそうした科学的な裏付けに則ったものであったと思います。しかし、現実の「成果主義」は、反対に人間の脳の働きを萎縮させるように作用してしまっているように見えます。はたして真に効果的な「成果主義」は可能なのでしょうか。もし可能であるとすれば、どのようなことに気をつけて運用しなくてはならないのでしょうか。みなさんのご意見をお聞かせください。

その他のテーマ一覧
NO.272013-02-16 07:08:40 茂木健一郎 10
みなさん、ありがとうございます。
みなさんとの議論を受けて、考えたことを、のちほどustいたします。
引き続き、有意義な議論をしましょう!
この場が、次第に骨太に育っていくような気がして、うれしいです。

NO.262013-02-15 23:55:48 ryosuke85 9
茂木さんの「同じ成果主義でも、自分自身で設定した目標だと、意味が違うように思います。」というのは、スポーツの指導においても同じことが言えると思っていて、個人的な意見ですが、指導者が選手を「うまくする」ことなんて出来ないと考えています。

理由としては、実質的に取り組んでいるのは選手自身であり、指導者はアドバイスは出来ても自分自身が取り組むことは出来ないからです。

それは成果主義も同じことが言えるのではないでしょうか。

NO.252013-02-14 13:28:59 masami 18
「評価関数は、たとえ設定するとしても、自分自身で設計するのが良いように思うのです。」

私も、あ、そういうありかたがあったか、と思いました。

そして、前回の投稿を書いているとき、評価は他者から与えられるもの、と無意識のうちに思いこんでいたことに気づきました。これは私の中ではかなり強力な、評価というものに対する固定観念になっているかもしれません。自ら目標を設定すれば、試行錯誤を繰り返しながらも、自分の経験に沿った目標設定ができますし、sana805さんが書かれたように、
「外部からの評価に振り回されるだけになり、うまくいかないと他者のせいにするか、ひどく落ち込み自信をなくす」
ということはなくなりますね。

Tomoikukaiさんが書かれていた春江工業高校の、「トレーニングの方法まで自分の頭で考えながらやるという事で、徹底的に選手の自主性を重んじているようです。」というのは、まさに、目標を自ら設定する在り方ですね。なんらかの結果を出すことが求められる場でも、こういうあり方が受け入れられたり、奨励される環境を増やしていかれるといいな、と思いました。

NO.242013-02-14 12:44:06 sana805 8
茂木さんの「評価関数は、たとえ設定するとしても、自分自身で設計するのが良いように思う。」ってなるほどって感じることあります。

仕事や学校には当選その組織の成果という目標設定があるけれども、それはそれ。
自分の中で、置かれている環境で、どうしたいかという自己の目標設定や、実現のための行動計画、実施、振り返り等の、自分自身の目標や評価基準を大切にできること。

そのベースがあるのとないのとでは、外部からの評価に振り回されるだけになり、うまくいかないと他者のせいにするか、ひどく落ち込み自信をなくすか、そんな道が待っている気がしました。

NO.232013-02-13 09:31:51 茂木健一郎 15
同じ成果主義でも、自分自身で設定した目標だと、意味が違うように思います。
ぼくは、子どもの頃から、案外、自分で自分の目標を設定して、それに向けて努力するということが多かったから、比較的ストレスがなかったのかもしれません。
これが他人から与えられた目標だと、そもそも自分に合っているかわからないし。
評価関数は、たとえ設定するとしても、自分自身で設計するのが良いように思うのです。

NO.222013-02-12 23:07:49 masami 15
No.18 茂木さんの

「成果主義って、つまり、「評価関数」を設定するということ」

を読んで、評価関数が重視される世界では、何となく良さそう、という直観を大切にすることや、これまでなかった新しいものを創造する力を育てるのが難しそうだな、成果主義の弱点はそういうところかな、と思いました。

それから、たまたま今日、学校現場でのフィールドワークについての文章を読みました。そこには、教育評価を、形式や、固定的なシステムとして捉えないで、経験として捉えることが可能であること、教える側が達成の基準を一律に規定し、それに基づいて評価しようとシステムを整えようとすればするほど、教師が子どもたちの体験そのものから目をそらすようになり、子どもたちの生きる場が息苦しくなっていく危険性が増すということが分かった、と書かれていました。そして、子どもひとりひとりの経験に付き合うことが大切であると確認していった過程の中で、評価の教育的機能と選抜的機能のうち、最初は強調されていた選抜的機能がだんだん薄れていったそうです。

入試に代表されるような選抜的機能の評価を一切避けて生きていくことは難しいと思いますが、常に選抜的機能が強調されるような評価のなかで、人は、生き生きと自分の能力を発揮することは難しいと思いました。

Tomoikukaiさんが引用されていたヴィゴツキーのDynamic Assessment という評価法、初めて知りました。教えてくださりありがとうございます。
ヴィゴツキーは、確か発達の中での一人一人の体験をとても重視していたと思います。評価関数を用いる場合でも、一人一人の体験を大切にできるようであると、評価も生かせるかもしれない、と思いました。

NO.212013-02-12 17:28:01 Tomoikukai 20
私は、正直言って、成果主義とはどういうものなのか、実際に体験していないので、実感する事が出来ないのですが、ウィキペディアその他で、調べた事を基に、私なりの理解、見解を書いてみたいと思います。

「成果主義」という言葉と、「実力(能力、ここでは、特に断らない限り、実力と能力を同じ意味で使う)主義」という言葉がありますが、「成果主義」を英訳するとresultism だし、「実力主義」は、merit system です。これを、私流に解釈すると、組織に「実力主義」を取り入れようとすると、「成果主義」を基に、人を評価すれば、大体、実力が反映された組織になるはずだという事でしょうか。しかし、これは、実力や努力だけでは、必ずしも、いい結果が得られる訳ではない事を考えると、成果というものは、実力を測る、色んな指標のうちの一つにすぎないという事になるのではないかと思います。だから、日本の企業も、一時は、「成果主義」を取り入れて、組織を活性化しようとしたけれど、結果だけで評価するのは、どうしても無理があり、不満、不公平感、ノウハウの私物化という風な弊害によって、今や、大きく修正を迫られていることのようです。

しかし、今日、日本にもグローバル化の浪が押し寄せ、企業、学校、役所等、多くの組織では、各個人の能力に従って、適材適所を実現しなければ、激しい競争には、勝ち残れないという現実が突きつけられています。年功序列や、終身雇用制を排して、何らかの「実力主義」を導入する事は、殆どの組織にとって、もはや、避けて通れない課題です。一人一人の能力を、最大限に発揮できる環境を整え、組織全体として、競争力を増して生き残りを計るというのが、「実力主義」導入の目的だと言えると思います。

それでは、そもそも、「実力主義」とは、どういうものなのでしょうか? 実力(能力)といってもいろいろあります。スポーツだと、巧かったり、強かったり、早かったり、その他、判断力や精神力、リーダーシップもあるかもしれない。一概に、この競技には、この実力が必要と決めつける訳にはいかない所がありそうです。企業等、色々な組織でも、部署、部門によって、必要とされる能力はそれぞれに違いがあるのは、当然の事だと思います。これを茂木さん流にいうと、「実力を見る為の「評価関数」が多すぎてなかなか適切な判断が出来ない」という事になるのではないかと思います。そう言う事をふまえて、競争力のある、「実力主義的組織」を実現する為には、色んな指標によって、個々人の能力を、一人一人総合的に判断して、その人が最大限能力を発揮できる場所を見つけるという、気の遠くなるような作業が必要となり、また、それをやり遂げられる人材も必須となります。私は、全くの素人なので解りませんが、多分、外国の経営学なんかでは、こんな分野が、学問として成り立っているのではないかと想像されます。

ということで、今回のテーマ、「成果主義について考える」に対しての私の考えは、今、日本のほとんどの組織では、組織を効率化し、競争力をつけることを目的として、「実力主義」を取り入れようとしていますが、適材適所を実現する為に個人の実力を評価しようとしても、経営者側に人材もノウハウも無いので、安易に、「仕事をした成果」だけで人を判断しようとしている。というふうに思います。そして、成果によって、人を判断しても、それを励みに益々能力を開発するというよりも、むしろ自己満足や挫折感に陥り易いということや、誰がどれだけ貢献したのかは、意見が分かれる所だと思うので、不満、不公平感は当然出てくるだろうと思います。だから、「成果や結果」だけを基に人の能力を評価するやり方は、あまり利口なやり方ではないのは確かなようです。

さて、前置きはこれくらいにして、これからが本番です。

「成果主義」のことを考えていると、terurunさんの投稿にも出て来たように、「体罰」のことが同時に思い浮かびます。これは、「成果主義」は、「褒美をもらう事」だし、「体罰」は、「罰を受ける事」で、何れにしても、「御上」から「下し置かれる」ものです。つまり、ボスが部下を支配する構図は、「成果主義」も「体罰」も同じ仕組みになっていると思っていいと思います。この、上下関係の構図は、どちらの場合も、「上には逆らえない」という日本の上下関係のなかでは表立って文句は出ないでしょうが、不満が内に溜まっていきます。主従の礼がうるさかった戦国時代でさえ文武両道に優れた明智光秀が、織田信長を討ったように、「成果主義」や「体罰」は、組織にとっては諸刃の剣となります。とくに、儒教が形骸化してしまった今日の日本の社会や組織の中では、一人一人の実力を伸ばす為には、「成果主義」や「体罰」は、効果が上がらないどころか、時には逆効果になる事さえあるようです。

私は先に、このグローバル化の浪の中で、日本の組織にとって、「実力主義」を実現する事は避けて通れない課題だと書きましたが、私自身には、その道筋を示せるような経験も見識もありません。ただ、先日、そのヒントとなるような考え方に出会いましたので、ご紹介したいと思います。

それは、レフ ヴィゴツキー(Lev Vigotsky)の、Dynamic Assessment という主に語学能力を高める為の、評価指導方法です。(あるいは、皆さんご存知で、私一人が知らなかったのかもしれませんが、その時はお釈迦様に説法をやらせてください)ご存知のように、児童心理学者のピアジェは、子供の知能や発達に関しての理論を構築しました。そして、その多くのものが、子供の教育現場で、今でも有効です。しかしながら、ピアジェの考え方は、能力の発達を後追い的に確認するもので、例えば、発達の各段階で、試験を課し、それを達成するかどうかでその段階の学習達成度を確認するという形をとるようです。つまり、これは、現在日本の教育制度で実施している、達成度確認テストを子供達の主な評価基準としているという事に通じるものがあります。これは、まさに、「成果主義」とは言えないでしょうか。偏差値教育もこの流れにあるようです。これに対して、Dynamic Assessment では、テストで達成度を測るという事はしません。指導する側は、コミュニケーションを通じて、その場その場で、被指導者を評価します。そしてその課題とする達成度を評価すると同時に、弱点を補強し、次の課題へ導くヒントを与えていきます。つまり、一人一人の達成度に応じて、一人一人が、自分の課題に気付くように導きます。偏差値教育が、上から目線で、生徒達に一律に課題を課すのに対して、ヴィゴツキーの考え方は、生徒に自分自身の課題を考えさせ、それを解決する方法を評価者と一緒になって見つけようとするもののようです。我田引水で申し訳ありませんが、ヴィゴツキーのこの考え方は、Tomoiku(友共育・Synducation)の考え方と、かなり近いものがあります。

なぜ、ヴィゴツキーの考え方がすばらしいかというと、彼の方法論は、発達段階にある子供達だけに適応されるものではなくて、組織のリーダーとフォロワーとの関係にも適用できるという点です。ピアジェの考えでは、子供が発達段階を終われば、実力は確定してしまいます。まるで、東大に合格すれば、一生その実力のままで、世間に通用するのと似ていますネ。それに対して、ヴィゴツキーの考え方では、企業に就職した後でも、官庁に入所した後でも、チームの中で、実力は、何処までも伸びる可能性があります。(当然、東大卒だけとは限らない)つまり、これはどういう事かというと、ボスと部下からなる「グループ」の中での「実力主義」というものは、確立してしまった実力を基準に組織が運営される、つまり、「成果主義」とあまり違わない「実力主義」と言えるのではないでしょうか。一方、リーダーとフォロワーからなるチームの中では、いつまでも、お互いが切磋琢磨し、弱点をガバーし合いながら、それぞれが強みとする実力を何処までも高めていける、実力増強システムのような「実力主義」という事になりはしないでしょうか。

纏めると:今、日本社会は、グローバル化の浪の中で、年功序列や、終身雇用制に変わって、実力主義をとり入れなければ、いずれ、世界の舞台からは取り残されてしまうと思われるが、「逆らえない上下関係」の文化のままに、実力主義を導入してみても、それは、「成果主義」となって、なかなか競争力の向上にはつながりそうもない。日本の組織の競争力を真に、高める為には、組織を、グループからチームという考え方に変えて、実力を高める事が出来る実力主義を導入すべきである。

最後に:今年春の選抜高校野球に福井県から、二つの高校が出場する事になりました。一つは、敦賀気比高校で、もう一つは、春江工業高校です。気比高校は、以前、監督の体罰が問題となり、強かったチーム(グループ)の監督が解任された事がありました。その後、新聞記事によると、今回のチームは、一人一人が自分の課題を考えて、得意の分野の能力を何処までも伸ばす努力をしていて、例え正選手で実績があっても、いつ補欠になるかわからない程熾烈な競争があると言う事です。そして、春江工業、こちらの方は、トレーニングの方法まで自分の頭で考えながらやるという事で、徹底的に選手の自主性を重んじているようです。特に春江工業高校は県大会でも殆ど注目されずに、チームワークの良さで、一戦一戦実力をつけて来ました。チームに実力主義を導入したモデルのようなケースです。どちらも、甲子園で活躍して、これからの日本のモデルとなったら嬉しいナ。

NO.202013-02-11 13:26:28 chigusaotsuki 5
冷たいお言葉です。
評価関数を、設定しているのが、人間で、その人間の作ったものが、陳腐だったり、部分的ならば、ふくよかな成長が起こらないから、そんな作りものには、付き合うなって、おっしゃっていますか?

絶対音感にこだわる一個人は、ユニークと言われて、みんなが、こだわりはじめて、それが絶対だ、ということになると、そうでない人 ( 絶対音感にこだわらない人 ) や、みんなの立場が、こころが、きゅうくつになって、実力を発揮しにくくなるから、絶対音感に、こだわる必要はない、絶対音感にこだわるなんて愚かだ、というのなら、わかります。

心理学的に、付き合わなくていい、というのが、そんな評価とは、付き合わなくていいけれど、そんな評価をする人も、その他に良いところはたくさんあるのだから、という意味で、とらえると、それなのに、その人と付き合わなくていい、ということになると、私も経験がありますが、たしかに、嫌な人と付き合わなくていいって、一人でいるのって、楽なんです。でも、嫌な人とでも、カウンセリングをしていると、はじめは、嫌な人だったのに、逆に、親切にされて、うれしくなったりも、するんですね。

評価関数の設定内容で、ゆがんだ成長が起こるから、必要最低限の設定で、あとは、自由にやらせる、というスタンスは、私も大好きです。もっと言えば、はじめから、自由の方がいいですね。

NO.192013-02-11 10:23:28 sana805 5
評価関数に付き合わなくてもよい。 ホッとする言葉に感じます。
ふくよかな成長。心に響きます。

NO.182013-02-11 07:11:20 茂木健一郎 5
成果主義って、つまり、「評価関数」を設定するということだから、その設定が陳腐だったり、部分的だったりすると、ゆがんだ成長が起こることは当然なんだよね。
たとえば、音楽を考えるときに、「絶対音感」なんかにこだわる人が、日本では相変わらずいる。
愚かだよね。
そういう評価関数を設定すると、当然、ふくよかな成長は起こりません。だから、そういう評価関数には、つきあわなくてもよい。

NO.172013-02-09 07:47:26 sana805 14
モチベーションのモノカルチャー。Easterlin Paradox、、、。
なるほど、勉強になります。イースタリンパラドックス。富と幸福。比較論。慣れ。
高度経済成長、バブルで幸せを感じた歴史的感覚がそこに答えを求める傾向を生む日本人の性なのでしょうか?相関関係はひとにぎりのものしか心地よい快の達成感は得られず。それもしばらくすると慣れて幸福感は麻痺する。しかしながら成果を出し続けるのは継続した努力が必要。とても厳しい世界に感じます。

考えると、学生でも社会人でも各々興味あることや優先順位は各々に違い、何に対して努力したいかも人それぞれ。成果は努力の結果。でも学びの過程は結果に関係なくどんな楽しさを感じられているかが、未来への活力になるのかなと思えてきました。
例えは、茂木さんが毎日メルマガで英語塾を繰り広げてくれている内容に、感覚が活性化され英語の面白みを知って勉強したくなる。そんな活力。楽しさ。

最近、自分は子ども時代や学生時代を思い出すことがよくあります。その中で点数や結果の記憶はほんの一部。楽しかったこと嬉しかったこと悲しさ悔しさ感情とともに感覚的に思い出される記憶。先生の言葉、友達の言葉、仲間の言葉そして姿勢。一緒にテスト前に友達と勉強した楽しさ。遊びの面白さ、頑張って切磋琢磨した記憶。友人関係に悩んだ記憶。ほろ苦い恋愛の切なさ。数字という比較によって感じられた悔しさや嬉しさも。どんな気持ちで過ごしていたか。

今は情報社会で多くの情報や考え価値観が散乱している。社会に出たらわからないことだらけ。その中で何を力に生き抜いて行くのか。家庭の役割、学校の役割、地域の役割、大人の世界、子どもの世界、それぞれ異なる役割や立場がある。そんな中で、子どもは知識やいろんな視点や価値観や姿勢や考え方を得ることは、今の世の中には大切な要素だと感じます。そしてときには自分で考えて意見を言って学びを深くして力をつけていくこと。

昨日、偶然、池上さんの解説しているテレビを見ました。ミャンマーの事が紹介され、ミャンマーの歴史、今の暮らしぶり、人柄、経済の様子が分かりよく伝わってきました。発展途上の喜び活気を感じました。視野の広がりと経済の豊かさ双方味わえる。幸せそうに見えました。抑圧され支配され識字が無いことは情報の少なさを意味している。おのずと考えたり判断するテーブルが狭くなる。偏見に気づかず感覚が慣れ麻痺する。日本は情報の散乱で逆行中。モチベーションのモノカルチャー。

多様さを無視して同化に流れることはまさにモノカルチャー的。
生きていく中で、働くための居場所、自分の趣味の居場所、家族の居場所、仲間との居場所。遊びの居場所。様々な居場所や繋がりがあり価値がある。そう考えると成果主義の価値観に多くを振り回される事もないのかなとも思える。
何のために生きていくか、どこに価値を置いて生きるかは人それぞれだと思うので。

全くまとまりませんが、ふと書き込みたくなりました。

NO.162013-02-07 23:30:33 terurun 20
私は、成果主義の報酬が、

お金より愛だったら、もっと頑張っちゃいます!(><)

男の人にも、女の人にも、笑顔で微笑んでもらえたり、大好き♪って言われたり、

一緒にずっといたいって言われたり、自分自身を相手が大切にしてくれたり、

愛のこもったプレゼントをもらったり。。。私に会うと楽しいと笑顔になってくれたり、

その感動のために毎日、ちっちゃな事を一生懸命やってます!(笑)。

夜、眠る時に、今日、何人の笑顔を見たかなって思い出すのが、私の成果の報酬です。

お金や人からどう評価されているかと言うのを気にすると、本当に空しくなります。。。

ごめんなさい。本当は、そういうことに振り回されたくないんです。。。

その報酬だと、自分で決められないし、常に相手がくれるお金の量や変動する他人の評価

に振り回されなくてはいけないので。ただ、それが嫌なだけですね(T T)。。。

だから、勝手に報酬を自分なりに決めちゃう所があります。。。

しかし。。。

社会や他人の目に常にさらされているような、私と正反対の生活の方々は、

「相手の笑顔が見れた」なんて言ってられないと思います。。。

むしろ、戦いなら、「相手の笑顔を奪わなくては、勝てない」のだと思う所が

あっても無理もない気がしてなりません。。。

ビジネスや試合の成果主義は、相手があってこそだからだと思うからです。。。



体罰の話ですが。。。他人が体罰までして、相手の成果を出させようとするのは、

体罰をされた人の成果が体罰した人の報酬に結びつくからではないかと思うのです。

だから、体罰をされた人は、体罰する人の報酬のために自分が使われていると感じた場合、

利用されると言う感覚から自分の存在価値が薄れ、自殺を考えてしまうこともあるのだと

一つの展開として考えられると思いました。

体罰の裏には、体罰される人のためではなく、体罰する人の報酬が関係していることもある。

と考えられます。

特に子どもと言うのは、

「自分のためにしてくれているのか」

「自分を利用して大人のためにしているのか」

が、すぐ分かります。

学業も子どもに勉強させることが「優秀な成績の子どもを持つ親」と思われる。。。

もっとひどい言い方をすれば、子どもが優秀な事を自分の事のように親は思い、酔いしれる。

その子の将来のためというより、成績の良い子どもを持つ「親」つまり

そういう子どもを持つ親として見られたいと言う理由で親のエゴで子どもを

無理矢理勉強させたりするのも子どもはすぐに気がつきます。。。

子どもは、いつも「自分のために何かしてくれること」を一番に求めます。

しかし、私自身、ほとんどその経験が無いので。。。

この親が自分に「何かしてくれる」と言う事に非常にあこがれます。

飛びますが。。。

「「自分の報酬のために、相手を叩くだったらば、最悪だと思いました。」」

NO.152013-02-07 16:00:02 makimako 19
茂木さんの投稿の下記の一文で、成果主義のことが、とてもわかりやすかったです。
>日本のペーパーテストの入試がダメな理由も、単純なる成果主義である点にあると、私は考えます。

私は、このペーパーテストによる入試を変えていかなくては!と強く思っております。
この入試が、教育のベースになっている事がとても恐ろしい。

もっともっと、それぞれの能力を引き出していけるような教育になっていってほしいし、またこの詰め込み教育をやめてほしいです。
子ども達の考える力や、やりたい事、何に興味を持っているかをつぶしているような気がするからです。もちろん、時には、覚える事も必要かもしれませんが、やはり、何か学びたいという欲求があるからこそ、学ぶという姿勢、そして、疑問、またそこからの発展が必要です。

何に対しても個人差がある中、画一的なやり方では、だめだと思います。

ただ、その成果主義というのが、それぞれに対して、目標を持ってという事であったら、また違う気もするのですが、なかなかその例が見えてきません。このことを考えていたときに、個人事業主さん達は、もしかしたら、成果主義の渦中にいるのだろうか?とか。

やはり、個人事業主にとっては、成果を出さないとお金が入ってこないのが現実ですし、そこをビジネスとしてやはり、うまくやらないとつぶれてしまう。

まだまだ、はっきりと成果主義という物がつかめてないのかもしれませんが、今後もいろいろな方の意見を読み、考えを深めていきたいと思います。


NO.142013-02-07 10:16:40 chigusaotsuki 15
モチベーションだけでなく、人の心が、経済が、教育が、単一だったら、と、想像すると、こわいですね。

多様性が、失われてしまいますね。

学校や企業が、安定した人材を、作るために、人間の多様性を無視して、学校や企業にとって、とても楽な方法で、具体的には、学校や企業が言う、単一の技術や、モチベーションを、絶対的に強制することで、そこで決められた成果が、実現できないと、学校や企業にとっても、効率的ではないと、評価されたら、そんなことを強制させられたら、人間は、壊れてしまいます。

そして、何より、一個人の中で、学校や企業が言う、単一の技術や、モチベーションが、すべてになってしまったら、一個人の、それ以外の能力を、発展させて、実力を発揮することが、極めて困難になります。

確かに、反人間的と、言えると思います。

Easterlin Paradox の本質は、自分自身の幸福を知らない人は、自分自身を不幸にしてしまう、と、いうことのように、思います。
私は、私の幸福を、しっかりと、つかんでいるので、私にとっては、経済成長は、幸福の本質とは、あまりつながっていません。でも、経済成長がなくなるとか、経済成長がすべてとかではない、と、いう意味です。

NO.132013-02-07 07:41:07 茂木健一郎 20
成果主義がうまくいかない理由は、「経済成長が幸福につながらない」という、いわゆるEasterlin Paradoxと関係している可能性がありますね。
人はパンのみにて生きるにあらず、といいますが、つまり、モチベーションのモノカルチャーは、基本的に反人間的だということではないでしょうか。
日本のペーパーテストの入試がダメな理由も、単純なる成果主義である点にあると、私は考えます。

NO.122013-02-07 01:12:05 orcamie 20
こんばんは。
皆さんの成果主義についての考えを色々読んでいたら
私の思ってた成果主義は生温いものだったかもしれません。

成果主義の最たるものは
体罰問題で揺れた柔道の
オリンピックで金メダルを取れと言うのだと思います。
日本のお家芸である柔道では金メダルしか意味が無いと言ったような
発言を柔道選手がよくテレビで言ってます。
柔道はアマチュアですけど
プロのスポーツの世界は成果主義ですよね。


あと、保険の外交員さんのような営業的な仕事で
基本報酬が低く抑えられていて
売り上げに応じて成功報酬が受け取れるというような仕組みでしょうか。
多く売り上げた人はひと月100万の報酬
全く売れない人はひと月基本法集の15万円だけ。

こんな風に実際の例をあげると
成果主義って厳しいですね。
こういう営業の世界では売り上げがすべてのような
価値感がどうしても幅をきかせるので
結果を出せなければだめと言う烙印が押される感じで
いつも切迫した状態なのかな。
twitterで脱原発を主張している中学生さんに
大人の人が「お前は明日の売り上げの事考えた事あるか」
と聞いているのを見かけて
売り上げが問題となる世界では結果が一番だという
考えが主流なんだろうと思います。

そうすると、成果主義ではないけれど
良い結果を評価することはなんていうでしょうね。

又は、結果はでないけれど
評価できる事ってなんだろうなっていうのも気になります。

金メダルを取った選手の事を考えると
きっとその人の周りには支えてくれる人がたくさんいて
その中に、金メダルはとれないけれど
その選手の練習相手となってひたすら投げられた人とか
家族とか
練習場を掃除してくれる人とか
多くの人が影で支えてくれていると思います。

私アメリカのアカデミー賞の授賞式を見るのが好きです。
受賞した人のスピーチを聞くのがすごく楽しみです。
彼らは家族や支援してくれた人の名前をあげて
感謝します。

私の結論は
成果主義はある程度必要で
しかし、結果がでない事も評価する事が
とても大事なんではないかなと思います。
良い結果が出てそれだけを評価していたら
いつか行き詰まってしまうような気がします。
そんな時、今まで結果が出ないで繰り返してきた
試行錯誤が新しいアイデアをもたらして
次の良い結果を生み出せるような気がします。
成果主義があって人が幸せになれるには
結果が出ない事をどれだけ評価できるか
と言う事を大切にできるかできないかじゃないかなと
思います。

NO.112013-02-06 23:50:04 iwaizono 19
自身のおかれている環境を報酬とするならば
既に、我々は成果主義のなかで生活しているという視点もありますね。

社会全体の価値観にそって、成果主義は存在している

例えば音楽で成功したい人が、楽器演奏が上手いだけでは成功できなかったり
単にきれいなだけでは、女優になれなかったり。。「プラスアルファの価値」が必要

エンタメの世界は、この「プラスアルファの価値」を成果対象にしているのかも(雑な表現ですみません)
本来、成果は自分で定義できるもの。。 その定義が価値あるモノでなければ望む報酬は得られない

という事は、自分で定義する「価値」が大事で

より「高い価値」を見つけるには自分が成長しないと、見つけだすコトすらできない。

あ〜ぐるぐる回るw

■結論
誰かが定義した「成果主義」は窮屈になる”人”も出てくるだろうが、 人が「も〜れつになりたい自分」を定義できるなら「成果主義」は可能であり、窮屈なモノにはならない。。。はず

NO.102013-02-06 23:20:23 masami 20
成果主義を、ryousuke85さんの、結果重視として考えてみました。

sana805さんが紹介してくださった茂木さんの旅の様子。一度も船から降りない人もいると聞いて、わかるような気がする、というところが印象的でしたけれど、そこには、目標を達成することとは違う豊かさがあるように思いました。
そして、いつもとても忙しくされている茂木さんが、波を感じながらお昼寝をするところは、心底羨ましく思いました。

ずっと以前のことですが、子どもたちと餃子づくりをしたら、きれいに揃って出来上がることを楽しみにせっせと作るこ子がいる一方で、ぐちゃぐちゃだけれど、作っていることそのものを楽しむ子もいました。
成果主義の教育の影響でしょうか、せっせと言われた通りに作ることしか頭になかった私は、出来上がったいろんな形の餃子を、羊みたい!と楽しんで食べながら、すごく考えさせられました。
そして、注意が一点に集中しやすい自分の在り方に息苦しさを感じ始めたこともあり、目標に向かって息を詰めて頑張るのではなく、やることそのものを楽しめるようになりたいな、と思うようになりました。
目標に向かってまい進することの反対は、遊びかな?と思います。苦しんで目標に向かうことが喜びとなる人もいるでしょうけれど、真に効果的な成果主義があるとしたら、成果を出そうとするなかでも、どこかでふっと遊びに転じられる余裕があることは、とても大切かもしれないな、と思いました。

今日、たまたま、TEDの翻訳のボランティアをしているイタリア人についての記事を見つけました。
その中で、今回のテーマと関係があるように感じた部分を紹介します。
 
What’s a phrase in your language that you wish would catch on globally?

“Let’s talk about this over coffee/lunch/dinner.”
The idea is that to properly address important issues, people require a comfortable and relaxed environment, something a large number of Italians would not find in formal settings like an office or a meeting. I think you could roughly translate that phrase as: “I think the issue is important and I value your opinion, so it will be worthwhile to invest our free time in discussing this where we can both feel comfortable and speak our minds freely.”

http://blog.ted.com/2013/02/05/meet-the-translator-alberto-pagani-who-brings-you-ted-talks-in-italian/

イタリアでは、本当に大切なことにきちんと取り組むためには、心地よくて、リラックスした環境で、自由に話せることが大切だと思われているようですね。
このような、考え方が共有できていれば、成果を上げる過程そのものが楽しくなり、効果的な成果主義になるように感じました。

NO.92013-02-06 17:06:05 sana805 11
またまた書き込み失礼します。茂木さんFacebookでの豪華客船の旅の文面ご覧になりましたか?
何だか今回のテーマに通じる内容があるなと勝手ながら感じ考えさせられました。
https://www.facebook.com/ken.mogi.1

NO.82013-02-06 14:46:48 ky09_03_46 12
ky09_03_46 猫無
塾長 申し訳ありません。「成果主義」なる 一つのTermiolgyを理解せずに投稿しました。済みません。これで 塾長のご提起の文章が理解出来ました。仮に管理システムと理解すれば NASAのPERTの様に 徹底して合理化する手法が 軋轢が生じないのではないでしょうか? 私の先程の投稿はあれで 生かして下さい。宜しくお願いします。

NO.72013-02-06 13:21:27 makimako 9
成果主義についてなのですが、どうも成果主義という事が具体的にどういうことだかわからず、考えがまとまりません。Wikipediaなどでも調べてみましたが、以前は、企業でも成果主義が取り入れられていたが、最近ではなくなっているのかなという印象でした。具体的に、今、行われている成果主義の例をあげていただきたいのですが。
どなたか、どうぞよろしくお願いします。

NO.62013-02-06 09:22:21 ky09_03_46 12
ky09_03_46
高度成長期 盛んに林野を崩しゴルフ場に開発していた日本。これに対し当時の英国高官は「自然残すのも重要な政策だ」と。「成果主義」には明確な 目標 目的が設定されます。個人も同じですが Visionが貧弱で手段を選ばずは破綻します。「持続可能な」事が必須ではないでしょうか?「成果主義」に かつての 「新聞勧誘員」を私は思ってしまいます。「山がそこにあるから登る!」式に次から次へと征服する これは素晴らしい 人間の「業」だと思います。何かをやるには犠牲を伴うと私は決め込んでいます。バランスを保つのは個人の哲学だと思っています。「成果主義」そのものには何ら反対はしません。

NO.52013-02-05 22:59:55 ryosuke85 17
簡単に述べます。

成果主義って言葉を変えれば“結果重視”とも言えませんか?
良い悪いで言えば、決して良くは無いでしょう。
しかし、結果に対しての検証が行われるのであれば良いとは思います。

結果重視は、その過程に何があったのか、を見る事が少ないと個人的には感じていて、要は反省が無いと思いますし、それでは行き当たりばったりの成果しか挙げれないでしょう。

それが今までの日本が取って来た成果主義なのではないでしょうか。

NO.42013-02-05 19:37:56 iwaizono 23
■成果主義を難しくしているコト

成果主義で一番わかりやすいのは、動物の世界だと思います。
自身のグループに食料を与え、外敵を追い払い、さらに影響力を広げられる者

成果報酬として、子孫を増やす権利を得ることが出来る事だったり。。
成果報酬が生きる事そのものだったり。。

たぶん昔の日本人の家族もそうだった気が。。。
現代では「お父ちゃんが、そとで一生懸命働いて家族を養い 危険から守る」って事を見てこないとか、感じるコトが出来ない人が多いものだから、人を思いやるとかリスペクトするって事を圧倒的に経験しない。。 

この自然界の成果主義を感じれないのが、成果主義を難しくしている一つの要因だとおもいます。

■成果主義は可能か
社会全体、あらゆるカテゴリの職種で成果主義は可能だと思います。
ただし、条件がひとつ。。 関わるすべての人に「自分以外の人へのリスペクトや思いやり」が必要です。

自分で言ってて笑ってしまいますがw

難しいコトかもしれませんが、相手を信頼し、欺かず、自身のスキル向上と、誰かへ貢献しているという事に喜びを感じることが「普通」になるのであれば、成果主義は可能であると思います。

日本においては、動物界の自然の厳しさ(食うか食われるか)が緩い分 皆がその気になれば”思いやり”の元、成果主義が可能となり。。 日本も生き返る。。。かも。。。

追記:乱暴ですが、動物的な感覚を取り戻せば 「成果主義」に萎縮しない人が増えるかもと思います。


NO.32013-02-05 15:32:11 sana805 14
真に効果的な「成果主義」。あまりにも漠然とした提示で困惑しています。
教育職についていた癖が出てしまいますが、目的があって成果があるので、目的がなんであるかで目標や成果も捉えが変わる気がしています。
報酬系部位という部分が脳にはあるのですね。報酬部位が喜ぶ刺激。

世で言う成果至上主義。行動、観測、結果、統計、分析そしてまた行動。
成果は上がるとその瞬間嬉しい。そして次はより以上を目指したくなる。可能性が見えると面白い。
成果は右肩上がりだと成長であり幸せに感じる。 成長は幸福感の一つなのかなと思う。
ただその先に物理的限界がある場合もある。今の経済は右肩下がりに感じて不安で幸せに感じない。
だから別の成果を探すほうが幸せを得られる気がして自ずと視点を変えたくなる。

客観性のある成果は、人びとから認められるので心地よい。地位という居場所もできる。
でも本来あるべき居場所とは能力や成果を認める認めない関係なくありのまま受け入れられることだと思っている。何に目的を求めるか。他者の目的に求めるなら、成果を出せない時、自分の膨大な無償の労力や同情という犠牲で許してもらおうとする。それで居場所を確保する。

他信なのだと思う。時には他信も必要。そして自信も必要。
自信って孤独から生まれる気がしています。チャレンジして飛び込んで経験の中から自分で掴み取るしかない。自分で自分をOKする視点や思考をどれほど持てるか。

私は子ども支援に関心を持って時に関わっています。子どもの可能性に惹かれているから。
関わり方で子どもは生きる力を存分に発揮する。もともと人間として持っている力。そこに直接関わることが面白い。子どもの成長は無垢で右肩あがり、子どもたちがどのような価値観をもち次世代を形成するのか。そのために必要な適切な関わりってどうしたらいいかってずっと考えている。
それが私の力になり成長なのだと思っているから楽しい。

私の報酬は形じゃない。感謝を感じられたり、喜ばれたりすること。一緒に遊んで楽しめること。
それは私が経済的に紛糾するほどでない環境に居させてもらえているから。
これが苦しい生活なら感謝をお金で貰いたいと思う。
ギブブ&テイク。 これは形あるものないもの関わらずあるのではないかと思う。それが人とのつながりになり。 それが自分を豊かにする成長だと思っている。それが私の中での成果。

客観的な、真の成果主義と言われると、正直どう捉えていいかよくわかりません。。。
思いつきまで。

NO.22013-02-05 15:08:04 chigusaotsuki 15
私は、真に効果的な「成果主義」は、「実力」を、ともなわせることで、可能になると、考えています。

基本的に、私は、実力の世界で、生きています。
私の脳にとっては、「実力を発揮する」ことが、「高いパフォーマンスを発揮する」ことであり、報酬でもあります。

成果主義のデメリットと言われる、低評価についても、周囲の評価が、何点であっても、私は、自分で、自分自身の、実力の評価をしていて、なおかつ、実力をつけることを目指す、意欲に、満ちあふれていることで、デメリット (低評価) も、気づきの過程を経て、メリットに変わります。
成果主義において、その評価が、自分の実力をのばすものであれば、私は、喜んで、素直に、他者の意見に、耳を傾けます。

まとめると、私がしているのは、実力をともなった、効果的な成果主義と、言えると思いました。

NO.12013-02-05 14:53:21 茂木健一郎 15
ぼく自身は、成果主義って、あまり人を育まないと思うんだけどね。一種の、搾取のようなものではないかと。他人だけじゃなくて、自分自身もね。でも、自由に議論ください!