日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?
「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざる
もの、之を独立自尊の人と云ふ」。これは福澤諭吉の言葉です。でも、明
治以来、日本人の「独立自尊」はまだ達成できているとは思えません。ど
うしたら日本人に「独立自尊」を根付かせることができるのか。言い換え
ると、「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」。前回の「組
織と個人のあるべき関係とは?」から引き続いて、議論をしていきまし
ょう。
NO.442011-05-01 10:52:44 yamato 0
再度の投稿で失礼します。
今回のお題で重要だと感じるのは、「日本人が」と言う部分だと思っています。
前回のお題の「組織」に当たる部分です。
今回のお題で重要だと感じるのは、「日本人が」と言う部分だと思っています。
前回のお題の「組織」に当たる部分です。
NO.432011-05-01 03:24:20 trasque 0
強くなる、弱くなる、という話から他者を相対的に評価してしまう視点は私も気をつけねばならないなと思いました。読んでいて「人間はそれぞれ、弱くもあり、強くもあり、それをまず認めていく所から始まる」という主張、特に共感致します。
また「自己裁量」を得んが為に、もしくは「尺度」を貫かんが為に、社会的な不利を被るという視点も現実問題として無視してはならないと考えます。
恐らく皆さんにもそういった「信念」と「現実」のトレードオフ、心の葛藤は幾度も体験されてきた事だと思います。その時、自分にどういった信念や尺度があったのか、それを貫けなかった自身の価値とは何なのか、そういったことに悩み苦しんでいくのかもしれません。
私はそういった状況で、ひとたび「ひいてしまう」事はどうしてもあると思います。現実社会を無視した精神性は「自然ではない」と考えるからです。しかし、その点だけを見て「自分は弱かった」とか「負けてしまった」と悲観する必要はないと思います。
その挑戦する心を失わない事、またどうするべきだったかを考え抜く事、自分の持つ尺度と自分の位置を再確認する事、そのような挑戦がその瞬間からまた始まるのだと思うのです。
勝負には「時」があると思います。その為の訓練が、また始まったのだと思えば、私は「負けではない」として良いのではないかと考えます。
そういう挑戦は、正直な自分への連続的な問いですから、同時に他者も「弱くもあり、強くもある」のだと認められるようになっていくのかもしれません。それはそのまま心の許容性に繋がっていくのではないでしょうか。
切実な一市民としての「信念」と、社会団体との「現実」で戦う中で壁を越えようとしていく。
そういった気概を持つ人が増えるかどうか。それが「民衆の力」として現れてくるのではないかと思います。
イケニエ、外的な圧力が効果をもたらすことは確かにあると思います。
それでも私は、最も遠回りであるように見えて、最も「根本的な変化」をもたらすのは、そういった「強い」民衆が少しでも増えていく事、すなわち一人が一人を奮い立たせる対話を重ねていけるかどうか、ではないかと信じたいな、と思っています。
また「自己裁量」を得んが為に、もしくは「尺度」を貫かんが為に、社会的な不利を被るという視点も現実問題として無視してはならないと考えます。
恐らく皆さんにもそういった「信念」と「現実」のトレードオフ、心の葛藤は幾度も体験されてきた事だと思います。その時、自分にどういった信念や尺度があったのか、それを貫けなかった自身の価値とは何なのか、そういったことに悩み苦しんでいくのかもしれません。
私はそういった状況で、ひとたび「ひいてしまう」事はどうしてもあると思います。現実社会を無視した精神性は「自然ではない」と考えるからです。しかし、その点だけを見て「自分は弱かった」とか「負けてしまった」と悲観する必要はないと思います。
その挑戦する心を失わない事、またどうするべきだったかを考え抜く事、自分の持つ尺度と自分の位置を再確認する事、そのような挑戦がその瞬間からまた始まるのだと思うのです。
勝負には「時」があると思います。その為の訓練が、また始まったのだと思えば、私は「負けではない」として良いのではないかと考えます。
そういう挑戦は、正直な自分への連続的な問いですから、同時に他者も「弱くもあり、強くもある」のだと認められるようになっていくのかもしれません。それはそのまま心の許容性に繋がっていくのではないでしょうか。
切実な一市民としての「信念」と、社会団体との「現実」で戦う中で壁を越えようとしていく。
そういった気概を持つ人が増えるかどうか。それが「民衆の力」として現れてくるのではないかと思います。
イケニエ、外的な圧力が効果をもたらすことは確かにあると思います。
それでも私は、最も遠回りであるように見えて、最も「根本的な変化」をもたらすのは、そういった「強い」民衆が少しでも増えていく事、すなわち一人が一人を奮い立たせる対話を重ねていけるかどうか、ではないかと信じたいな、と思っています。
NO.422011-04-30 18:06:34 LAMPRIGERA 0
僕の投稿に対して率直に返して頂いて、本当にありがとうございます。
後半部分の「社会は個人として強くなることを欲していないのかもしれない」という部分はとても考えさせられました。今の教育、社会のあり様が、結局は次世代のあり様を規定するのですね。
逆に、どこかの時点で、誰かが、現行の流れを断ち切らないと、永遠に今の状態が続くと言えるでしょう。しかし、流れを断ち切る行為をすることによって、waterlilyさんが指摘されるような、経済的(社会的?)制裁、その他を受けることも予測されます。とはいえ、誰かが踏み出さないと変わらない。では、誰が踏み出すのか?
岡本太郎の言葉を引けば、社会を変えるためには「イケニエ」とならなければならないと、まさにそういうことだと感じました。
それで、自分は「イケニエ」になれるのだろうか?
僕は、自分の身近でできる小さな抵抗(流れを断ち切る行為)から、とりあえず積極的に行えばいいと思います。それで何かが見えてくると楽観的に考えています。いきなりイケニエとなって死ぬところまで行かなくても、それで少しでも前進できると思います。
明日からでも自分でできることをやろう、という考えは、trasqueさんの具体的行動を挙げましょうという呼びかけと同じかも知れません。
後半部分の「社会は個人として強くなることを欲していないのかもしれない」という部分はとても考えさせられました。今の教育、社会のあり様が、結局は次世代のあり様を規定するのですね。
逆に、どこかの時点で、誰かが、現行の流れを断ち切らないと、永遠に今の状態が続くと言えるでしょう。しかし、流れを断ち切る行為をすることによって、waterlilyさんが指摘されるような、経済的(社会的?)制裁、その他を受けることも予測されます。とはいえ、誰かが踏み出さないと変わらない。では、誰が踏み出すのか?
岡本太郎の言葉を引けば、社会を変えるためには「イケニエ」とならなければならないと、まさにそういうことだと感じました。
それで、自分は「イケニエ」になれるのだろうか?
僕は、自分の身近でできる小さな抵抗(流れを断ち切る行為)から、とりあえず積極的に行えばいいと思います。それで何かが見えてくると楽観的に考えています。いきなりイケニエとなって死ぬところまで行かなくても、それで少しでも前進できると思います。
明日からでも自分でできることをやろう、という考えは、trasqueさんの具体的行動を挙げましょうという呼びかけと同じかも知れません。
NO.412011-04-30 02:09:42 waterlily 0
NO.37 を投稿した者です。
掲示板内で、直接、感想やアドバイスを頂き、恐縮しています。
今日になって自分の投稿を読み返すと、
書いた事とは反対に、誰よりも私自身が、自分と人、人と人を、比べて、
何が出来る出来ない、によって、強さ弱さを測り、序列をつけているのだと
思わずにいられませんでした。
それではだめなのだと、自分に言い聞かせていたのかも知れません。
NO.12 で、LAMPRIGERA さんが書かれている、
>ただ、僕は、本質的には(抽象的ですが、個性のさらに根元では)人間は同じものであると考えています。
というのと同じ事を、私も、別の言い方で書こうとしたのだと思います。
LANPRIGERA さんの、
”人間は同じ”、”計ってはいけないところを計らない”、は、難しいことですよね?
”自分の尺度を自分以外には適用しない”ということも、
1人でいるときには出来ても、人と接したり仕事をしたりするときは・・・。
NO.25 で、masami さんが書かれていた、
>明治維新以降作り上げた社会は、一人一人に、物語る自己を持つことを要求する社会だった、
というのは事実そうなのだろうと思います。
そして、現代の日本が、さらに、独立自尊を要求する社会になっていくのだとしたら、
それはどんな社会なのでしょう。
(文字どおりの意味で) 個人として強くなる、ということを、
まだ、求めてはいない日本人が、少なからずいると私は思います。
現状がそのような社会の中で、
いったい、何が強くて、何が弱いのか、私には分からないです。
たとえば、自分を曲げなかったために職場に居られなくなる等が、
実際にあることだと思います。
周りに合わせて自分を主張しないのも、ある種の自分らしい選択、ある種の強さとは言えないのでしょうか?
あるいは、自ら死を選んでしまった方々は、弱かったのでしょうか?
それとも、ある意味で、強すぎたのでしょうか?
二度目の投稿、失礼しました。
長文をお読み下さり、どうもありがとうございました。
さいごになりましたが、
皆さんの投稿を読んで、個人的に特に印象的だった言葉や共感した言葉を、
以下に、勝手に引用させて頂いても構わないでしょうか?
不自然な抜粋になりご迷惑になっているようでしたら、ご指摘下さいませ。
NO.16 ts0822 さん
>利己的なものを超える価値観、
それを探す事が、結局は自立につながるように私も思います。
何の為に自分の生を使うのか、という事を自分で意識できる事が自立の精神的側面の一つの要素だと思うからです。
NO.17 YOtomo さん
>自分は誰にも「心的に支配されない」のだから、同時に「誰かを心的に支配する」ということもない
NO.18 masami さん
>個人という感覚がない状態を想像できますか?
NO.19 acoyacoya さん
>そうならざるを得ないのだったら、誰がそれを宣言するのかでモジモジしているのが現況かもしれない。
みんながそれに気付いて自発的に行動できたら宣言なんて必要ないですし、私は言われなくても勝手に強くなっていこうと思います。
NO.22 yamanorisu さん
>それでも、その人たちの「自己」は、あるのですよね。
NO.23 ko_bee_mana_boo さん
>未来の人々にとっては、今生きている全ての人が「親」ではありませんか?
NO.27 yamato さん
>時代と社会と言う条件に関わりながら、これらを自分で判断実行する事は、物事や自然、人などとの「距離感」を重んじる日本人にとって、決して得意な事では無いと感じます。
NO.29 orcamie さん
>「独立自尊」を全うするには不条理に直面しても尚、それを守り続ける強さが必要だと思います。
NO.35 trasque さん
>どこまでも「心」の問題ではないかと思うのです。
掲示板内で、直接、感想やアドバイスを頂き、恐縮しています。
今日になって自分の投稿を読み返すと、
書いた事とは反対に、誰よりも私自身が、自分と人、人と人を、比べて、
何が出来る出来ない、によって、強さ弱さを測り、序列をつけているのだと
思わずにいられませんでした。
それではだめなのだと、自分に言い聞かせていたのかも知れません。
NO.12 で、LAMPRIGERA さんが書かれている、
>ただ、僕は、本質的には(抽象的ですが、個性のさらに根元では)人間は同じものであると考えています。
というのと同じ事を、私も、別の言い方で書こうとしたのだと思います。
LANPRIGERA さんの、
”人間は同じ”、”計ってはいけないところを計らない”、は、難しいことですよね?
”自分の尺度を自分以外には適用しない”ということも、
1人でいるときには出来ても、人と接したり仕事をしたりするときは・・・。
NO.25 で、masami さんが書かれていた、
>明治維新以降作り上げた社会は、一人一人に、物語る自己を持つことを要求する社会だった、
というのは事実そうなのだろうと思います。
そして、現代の日本が、さらに、独立自尊を要求する社会になっていくのだとしたら、
それはどんな社会なのでしょう。
(文字どおりの意味で) 個人として強くなる、ということを、
まだ、求めてはいない日本人が、少なからずいると私は思います。
現状がそのような社会の中で、
いったい、何が強くて、何が弱いのか、私には分からないです。
たとえば、自分を曲げなかったために職場に居られなくなる等が、
実際にあることだと思います。
周りに合わせて自分を主張しないのも、ある種の自分らしい選択、ある種の強さとは言えないのでしょうか?
あるいは、自ら死を選んでしまった方々は、弱かったのでしょうか?
それとも、ある意味で、強すぎたのでしょうか?
二度目の投稿、失礼しました。
長文をお読み下さり、どうもありがとうございました。
さいごになりましたが、
皆さんの投稿を読んで、個人的に特に印象的だった言葉や共感した言葉を、
以下に、勝手に引用させて頂いても構わないでしょうか?
不自然な抜粋になりご迷惑になっているようでしたら、ご指摘下さいませ。
NO.16 ts0822 さん
>利己的なものを超える価値観、
それを探す事が、結局は自立につながるように私も思います。
何の為に自分の生を使うのか、という事を自分で意識できる事が自立の精神的側面の一つの要素だと思うからです。
NO.17 YOtomo さん
>自分は誰にも「心的に支配されない」のだから、同時に「誰かを心的に支配する」ということもない
NO.18 masami さん
>個人という感覚がない状態を想像できますか?
NO.19 acoyacoya さん
>そうならざるを得ないのだったら、誰がそれを宣言するのかでモジモジしているのが現況かもしれない。
みんながそれに気付いて自発的に行動できたら宣言なんて必要ないですし、私は言われなくても勝手に強くなっていこうと思います。
NO.22 yamanorisu さん
>それでも、その人たちの「自己」は、あるのですよね。
NO.23 ko_bee_mana_boo さん
>未来の人々にとっては、今生きている全ての人が「親」ではありませんか?
NO.27 yamato さん
>時代と社会と言う条件に関わりながら、これらを自分で判断実行する事は、物事や自然、人などとの「距離感」を重んじる日本人にとって、決して得意な事では無いと感じます。
NO.29 orcamie さん
>「独立自尊」を全うするには不条理に直面しても尚、それを守り続ける強さが必要だと思います。
NO.35 trasque さん
>どこまでも「心」の問題ではないかと思うのです。
NO.402011-04-29 21:45:56 LAMPRIGERA 0
ごめんなさい、投稿タッチの差でしたね。
僕のも、waterlilyさん宛です。決して非難じゃないので、どうか敵意を持っていると思わないでください。本来計られるべきでないところを計られて、苦しんでいる人がいるというのはあってはならないことです。
僕のも、waterlilyさん宛です。決して非難じゃないので、どうか敵意を持っていると思わないでください。本来計られるべきでないところを計られて、苦しんでいる人がいるというのはあってはならないことです。
NO.392011-04-29 21:37:43 LAMPRIGERA 0
とても、面白い観点だと思います。しかし、尺度を持つことで、必ずしも序列が発生するということではないと思います。
一つの尺度で、複数の人間を計れば、否応なく優劣がつくと思います。しかし、個人個人がそれぞれ自分の尺度を使って自分のことを計り、その尺度を自分以外には適用しない、とすれば、少なくとも理論的には序列は解消できると思います。
たぶん、「計る」ことが大切な領域と、計ることで本質を見失ってしまう領域がある、ということだと思います。
例えば、茂木さんのよく言われているベストエフォートの例で言えば;
自分の最大値(最大努力量)に対して、今、何パーセントの努力をしているかを、適切な尺度で「計る」ことは意味があると思います。
しかし、自分と他人の最大値を計って比較することは、「いま、自分にできるベストを尽くす」という最も大切な点を見失いかねません。どうせ自分はどんなに頑張ってもあの人にはかなわないから、もういいや、みたいなことです。(この例は、そのまま茂木さんの著作に載っていたかもしれません…、どの著作だったかな)
問題は、現実世界ではこの例のように、計るべきことと、計るべきでないこととの区別が見分けにくいことだと思います。
現実では、複雑な要素が色々混じっているから、混乱し、計るべきところを計らず、計ってはいけないところを計るようなことが横行しているということではないでしょうか?
一つの尺度で、複数の人間を計れば、否応なく優劣がつくと思います。しかし、個人個人がそれぞれ自分の尺度を使って自分のことを計り、その尺度を自分以外には適用しない、とすれば、少なくとも理論的には序列は解消できると思います。
たぶん、「計る」ことが大切な領域と、計ることで本質を見失ってしまう領域がある、ということだと思います。
例えば、茂木さんのよく言われているベストエフォートの例で言えば;
自分の最大値(最大努力量)に対して、今、何パーセントの努力をしているかを、適切な尺度で「計る」ことは意味があると思います。
しかし、自分と他人の最大値を計って比較することは、「いま、自分にできるベストを尽くす」という最も大切な点を見失いかねません。どうせ自分はどんなに頑張ってもあの人にはかなわないから、もういいや、みたいなことです。(この例は、そのまま茂木さんの著作に載っていたかもしれません…、どの著作だったかな)
問題は、現実世界ではこの例のように、計るべきことと、計るべきでないこととの区別が見分けにくいことだと思います。
現実では、複雑な要素が色々混じっているから、混乱し、計るべきところを計らず、計ってはいけないところを計るようなことが横行しているということではないでしょうか?
NO.382011-04-29 21:37:23 masami 0
個人として強くなるためには、という問いかけに、最初に投稿された方をはじめ、多くの方が、自らの体験を通して語られ、考えられていたことがとても印象的でした。それもまた、個人の強さであり、個人の強さを育てることでもあるのかな、と思いました。
教育、未来を見据える、大河の一滴、『私を離さないで』、本然の生、自分教など、印象に残る言葉を含めたくさんの言葉に影響を受けて、自己とは、個人の強さとは、と考えて来られたのだなと思います。
前回の投稿を終えたとき、このテーマは、まさに今の私の問題だったことに気がつきました。このテーマにじっくり向き合いながら、私にとって未知の場所である掲示板に投稿できたのは、もしかしたら、前回のテーマのまとめの言葉、公私混同を極める、に背中を押されたのかな、とふと思いました。
NO.37 waterlily さんの
日本人が個人として自立するためには、個人として強くなるためには、
何かが出来る、出来ない、で、強さ弱さを決めるのでなく、
本来は皆、同じぐらい強くて弱いのだと思うことで、
自分も相手も同じぐらい尊重するという、本物の個人主義、
人間本来の個人主義を、思い描くのが大切と思います。
とても共感しました。このような人がいれば、その周りの人たちもまた自分の強さを育てられていくように感じました。
今日までゆっくり考えてきて、個人として強くなる方法の私のキーワードは、小猿のように、でしょうか。
観念的なままでは、現実に通用しないかな、と少し気分を変えてみました。
組織の中で自由裁量できるような強さには及ばないかもしれませんが、分別がなく、ものの良し悪しもわからないけれど、好奇心だけは旺盛な小猿の気持ちになって周りを見てみると、無邪気な強さが持てるような気がします。
日本人は昔から、「分を守る」ことがとても大切、「分」(身分に近い感覚)の考え方は大好きで、無意識に「分」というものを持っているそうです。(『なるほどの対話』の中の河合隼雄さんの言葉より)それを少し意識的に取り払ってみることで、周りの「分」を犯す行動にも寛大になって、自由にぶつかりあえるようになれば、お互いに強さを育てあえるかな、と思いました。
まだまだ抽象的ではありますが、私としては、これからの自分の在り方の、イメージがつかめたかな、と思います。
掲示板という場に投稿した経験がなかった私は、まさに、この掲示板にとって小猿だったのかもしれません。
調子が狂って投稿し損ねた方がいらしたら、心からお詫びいたします。
教育、未来を見据える、大河の一滴、『私を離さないで』、本然の生、自分教など、印象に残る言葉を含めたくさんの言葉に影響を受けて、自己とは、個人の強さとは、と考えて来られたのだなと思います。
前回の投稿を終えたとき、このテーマは、まさに今の私の問題だったことに気がつきました。このテーマにじっくり向き合いながら、私にとって未知の場所である掲示板に投稿できたのは、もしかしたら、前回のテーマのまとめの言葉、公私混同を極める、に背中を押されたのかな、とふと思いました。
NO.37 waterlily さんの
日本人が個人として自立するためには、個人として強くなるためには、
何かが出来る、出来ない、で、強さ弱さを決めるのでなく、
本来は皆、同じぐらい強くて弱いのだと思うことで、
自分も相手も同じぐらい尊重するという、本物の個人主義、
人間本来の個人主義を、思い描くのが大切と思います。
とても共感しました。このような人がいれば、その周りの人たちもまた自分の強さを育てられていくように感じました。
今日までゆっくり考えてきて、個人として強くなる方法の私のキーワードは、小猿のように、でしょうか。
観念的なままでは、現実に通用しないかな、と少し気分を変えてみました。
組織の中で自由裁量できるような強さには及ばないかもしれませんが、分別がなく、ものの良し悪しもわからないけれど、好奇心だけは旺盛な小猿の気持ちになって周りを見てみると、無邪気な強さが持てるような気がします。
日本人は昔から、「分を守る」ことがとても大切、「分」(身分に近い感覚)の考え方は大好きで、無意識に「分」というものを持っているそうです。(『なるほどの対話』の中の河合隼雄さんの言葉より)それを少し意識的に取り払ってみることで、周りの「分」を犯す行動にも寛大になって、自由にぶつかりあえるようになれば、お互いに強さを育てあえるかな、と思いました。
まだまだ抽象的ではありますが、私としては、これからの自分の在り方の、イメージがつかめたかな、と思います。
掲示板という場に投稿した経験がなかった私は、まさに、この掲示板にとって小猿だったのかもしれません。
調子が狂って投稿し損ねた方がいらしたら、心からお詫びいたします。
NO.372011-04-29 03:26:46 waterlily 0
前回の、公私混同を極めることが組織を活性化させる、という解説は、
私にとっては思いもよらぬ見解で、まさに目から鱗でした。
公私混同がまかり通る、ではなくて、極めていく、という言葉を
trasqueさんが使われているところが、重要な気がしました。
組織の目的とするところを達成するための公私混同は、私利私欲とは違う。そして、
個人がその優れた良識を発揮し、それによって相手の能力を引き出すというのは、
公正な手続きなのだ、とも思いました。
それは、テストの点数や営業成績などの、数値に対しての公正さではなく、
個人の良識に対する公正さ、個人の可能性に対する公正さ、という気がしました。
客観的に測れないそういうものに対する尺度を、自分の中に持つことが、
個人として自立するために必要なのかも知れない、と思いました。
掲示板の皆さんの議論が、すでに、広く深いものになっていて、
ますます追いつかず、私自身の考える事も、まとまらなくなっております。
最初に、現代の日本人は、そんなに自立していないでしょうか?
個人として弱いのでしょうか?
たしかに、選挙の投票率が示すように、
自分で物事を考えず、人任せにする人は多いと思います。
でも、それは、そうやっていても何となく生きていける、と思っているから、
意識が向かないのではないか?と思います。
少なくとも私のまわりの、身近な職場の女性たちは、
彼女たちが自由裁量を発揮したくなる場においては、おおいに自立していて、
強いです。
彼女たちは、私より、友達が多く、会話が上手く、おしゃれを楽しみ、
たとえ、新しいものを発明するような傑出した才能はなくても、
社会生活に必要な実践的なスキルや、
自分の生き方を自分らしく決めてきた決断力において、
とても優れているように、私には思われます。
ただ、彼女たちの中に、
人間は、付加的なすべてを取り払ったとき、皆、同じぐらい強くて、同じぐらい弱いのだ
ということを、知らない人が、何人かは、いるような気がするのです。
私がそのように言える資格があるわけではないけれど。
それに、付加的なもの、なんて言い方は幻想で、
付加的なものこそが、その人なのかも知れません。
けれど、もしそうなら、
尺度を、客観的な数値から、個人の感覚へ、シフトさせても、
多様な尺度を、社会に取り入れても、
結局は、序列や差別が、なくならないのではないでしょうか?
知性や教養、技術やセンス、さまざまな能力を高めることは、当然、重要で、
努力は、限りなく尊敬に値します。
でも、それは、その人、ひとりひとりの、自然な人生なのだから、
何かが出来るか、何かが出来ないかで、強さや弱さが決まるのは、
不公平ではないのかな?と・・・あまり何も出来ない私なので、よく、そう思います。
たとえば、坂本龍馬さんは
(もちろんお目にかかったことはないので、ドラマ等で知るかぎり)、
たぶん、自らの強さで自らを武装するような方ではなかっただろう、と思います。
私は、文学や芸術は語れないですが、
たとえば、歌なら、心にじかに語りかけてくる歌声は、なんと言うか、 無防備です。
もしかしたら、おそらく私達は、社会生活でなかなかそうは成れないから、
そのような情景に憧れる・・ということもあるのでしょうか?
日本人が個人として自立するためには、個人として強くなるためには、
何かが出来る、出来ない、で、強さ弱さを決めるのでなく、
本来は皆、同じぐらい強くて弱いのだと思うことで、
自分も相手も同じぐらい尊重するという、本物の個人主義、
人間本来の個人主義を、思い描くのが大切と思います。
私にとっては思いもよらぬ見解で、まさに目から鱗でした。
公私混同がまかり通る、ではなくて、極めていく、という言葉を
trasqueさんが使われているところが、重要な気がしました。
組織の目的とするところを達成するための公私混同は、私利私欲とは違う。そして、
個人がその優れた良識を発揮し、それによって相手の能力を引き出すというのは、
公正な手続きなのだ、とも思いました。
それは、テストの点数や営業成績などの、数値に対しての公正さではなく、
個人の良識に対する公正さ、個人の可能性に対する公正さ、という気がしました。
客観的に測れないそういうものに対する尺度を、自分の中に持つことが、
個人として自立するために必要なのかも知れない、と思いました。
掲示板の皆さんの議論が、すでに、広く深いものになっていて、
ますます追いつかず、私自身の考える事も、まとまらなくなっております。
最初に、現代の日本人は、そんなに自立していないでしょうか?
個人として弱いのでしょうか?
たしかに、選挙の投票率が示すように、
自分で物事を考えず、人任せにする人は多いと思います。
でも、それは、そうやっていても何となく生きていける、と思っているから、
意識が向かないのではないか?と思います。
少なくとも私のまわりの、身近な職場の女性たちは、
彼女たちが自由裁量を発揮したくなる場においては、おおいに自立していて、
強いです。
彼女たちは、私より、友達が多く、会話が上手く、おしゃれを楽しみ、
たとえ、新しいものを発明するような傑出した才能はなくても、
社会生活に必要な実践的なスキルや、
自分の生き方を自分らしく決めてきた決断力において、
とても優れているように、私には思われます。
ただ、彼女たちの中に、
人間は、付加的なすべてを取り払ったとき、皆、同じぐらい強くて、同じぐらい弱いのだ
ということを、知らない人が、何人かは、いるような気がするのです。
私がそのように言える資格があるわけではないけれど。
それに、付加的なもの、なんて言い方は幻想で、
付加的なものこそが、その人なのかも知れません。
けれど、もしそうなら、
尺度を、客観的な数値から、個人の感覚へ、シフトさせても、
多様な尺度を、社会に取り入れても、
結局は、序列や差別が、なくならないのではないでしょうか?
知性や教養、技術やセンス、さまざまな能力を高めることは、当然、重要で、
努力は、限りなく尊敬に値します。
でも、それは、その人、ひとりひとりの、自然な人生なのだから、
何かが出来るか、何かが出来ないかで、強さや弱さが決まるのは、
不公平ではないのかな?と・・・あまり何も出来ない私なので、よく、そう思います。
たとえば、坂本龍馬さんは
(もちろんお目にかかったことはないので、ドラマ等で知るかぎり)、
たぶん、自らの強さで自らを武装するような方ではなかっただろう、と思います。
私は、文学や芸術は語れないですが、
たとえば、歌なら、心にじかに語りかけてくる歌声は、なんと言うか、 無防備です。
もしかしたら、おそらく私達は、社会生活でなかなかそうは成れないから、
そのような情景に憧れる・・ということもあるのでしょうか?
日本人が個人として自立するためには、個人として強くなるためには、
何かが出来る、出来ない、で、強さ弱さを決めるのでなく、
本来は皆、同じぐらい強くて弱いのだと思うことで、
自分も相手も同じぐらい尊重するという、本物の個人主義、
人間本来の個人主義を、思い描くのが大切と思います。
NO.362011-04-28 01:59:07 LAMPRIGERA 0
>…自伝とは、私とは何者かと自らに問い、たとえ自分にとって不利な出来事であっても隠すことなくまた偽ることなく、誠実に自己について語り直すということ…(No.34)
面白いですね!!ということは、自伝を書くという行為は、茂木さんが言っておられるようなメタ認知のプロセスに近いと捉えられているのでしょうか。そのように考えたことはありませんでした。
No.18のmasamiさんの投稿から、自己とはなにかということがかなり掘り下げられましたが、非常に興味深く読ませて頂きました。trasqueさんの投稿(No.33)を受けてですが、概念レベルで議論をするとしばしば話がかみ合わず、上手くいかないことがあります。その原因の一つは、同じ言葉でも、人によってその言葉に与えている意味合いが違っていて、互いに理解しようとするときに障害が生じてしまう点にあると思います。
特に、このような場所に集まった皆さんは、物を考える方々と思いますので、様々な概念をそれぞれ独自に探求し、異なるレベルで捉えていらっしゃるのではないでしょうか。言葉の意味合いを丁寧に掘り下げていくことは、互いに自分がその言葉で意味していたものを明快にし、共通理解を作っていく上でとても重要な作業だと、投稿を見ていて感じました。
また、trasqueさんのご指摘のように、概念ではなく、より具体的なことを取り扱うのは、誤解が最も少ない議論の仕方かもしれませんね。BBSで議論を展開させる中、どのくらいまで個人的な情報を提示するべきか迷っていましたが、僕も少し具体的なレベルでの投稿を試してみます。
----------------------------
自己を強くする方法、あるいは自立する方法は、端的に言えば、自分で考え、それを実践し、結果を検証することに尽きると考えています。方策としてはシンプルだと思いますが、このステップに僕のやっていることを当てはめてみたいと思います。
僕は、生物学系の研究室に在籍している学生です。しかし、僕が研究室に在籍する目的は研究者になることではありません。そうではなく、研究のプロセスを習得し、教育プログラムに落とし込むことで、新しい教育の形を提供することを秘めた目標にしています。生きものと関係することで感性的な面を、また、生きものから得たデータを用いて理論を構築するプロセスで、ロジカルな思考を養うことを考えているのですが、もちろんこれは絵に描いた餅です。どうしたら本当にプログラムとして実現できるだろうかというところは非常に難しい。
こうした方針なので、僕にとっては教育こそが本当の仕事にしたいことであって、研究室で研究に従事することはスキルアップのためのトレーニングと捉えています。僕は、週に2回程度、教育プログラムを提供できる場所で働かせて頂いているので、現時点では、ここが僕の「現場」です。
先に挙げた「方策」に照らせば、学生生活で仕入れたことをどうやって教育プログラムに活かすかという部分が、僕の考えることです。考えて作ったプログラムは、僕の「現場」で提供します(必ずしも採用してもらえるわけではありませんが)。検証は、実際にプログラムを体験した参加者が、示す反応になるでしょうか。
この中で、最も困難なのは、正しく検証することだと思います。特に教育では長期的な展望まで視野に入れる必要があって、経験が少ない僕のような者では、例え成功したと思ったとしても、長期的には必ずしもそうでない可能性もあるわけです。とはいえ、時には成功したと感じることができる時もあり、そういう日には、ささやかに幸せな気分になり、人生が小さく前進したと思うこともあります。
一方、研究室では、専門分野に精通するために、たくさんの文献を読むこと、たくさんのデータを採ることなどが求められます。しかし、僕の仕事のことを考えれば、教育に関係する書籍を読むこと、教育プログラムを良いものにするための準備など、専門分野以外のことにもたくさんの時間を費やしたい。
専門の勉強をたくさんしていて、知識が豊富なことがほとんど絶対の価値となっている研究室で、週にまるまる数日、研究とは別の分野に費やし、さらに文献調査を一部放り出して他の分野の本を読んでいることは、指導教官も全く気に入らないらしく、関係は随分悪化してきています。しかし、僕は「いい学生」と評価されるよりも、自分の目的に沿ってちゃんと機能する教育プログラムを実現することの方がはるかに重要な問題だと考えています。僕は一時期、入院しない程度に精神的にもかなり低迷しましたが、なんとか自分の方向に進むことを考え、その方向に前進することを喜びとしてやっていきたいと思っています。
だいたい以上のようなことが、僕の今回の投稿(No.3)の背景です。
しかし、新しい教育の提案なんて、そうそう上手くいくものではないですね。僕は、色々なところにヒントを求めて探し続けています。実は、「夜間飛行」に出会うことができたのは、その結果です。BBSとメルマガでの私塾という発想にとても魅かれています。この私塾が、これからどう展開していくのかとても楽しみです。
----------------------------
ところで、trasqueさんの投稿(No.33)の「ちゃんと挨拶する、ありがとうを言う」という点、僕は怠っていましたので、この場を借りて謝罪させていただきたいと思います。
まず、僕はNo.9の投稿でorcamieさんに話を振ったにもかかわらず、それを受けた投稿で、お礼を言っていませんでした。個人的な話になってしまい申し訳ありませんが、僕は「多様性を受容する」という傾向は、仏教的な素地のあるアジア文化においてより強いのではないかと思っていましたが、日本の教育との比較ではアメリカの方がむしろ多様性を受け入れる姿勢が強いことを示唆され、開眼させられました。ありがとうございました。
また、茂木塾長には「人生の質入れ」ということに関連して質問を取り上げて頂きましたが、まだお礼を言っていませんでした。怖れ多い気持ちが先に来て、どうコミュニケーションをとっていいのかわからなかったのですが、この際、この場でお礼をさせていただきます。
送信させて頂いた質問文では具体的ではありませんでしたが、僕の場合、「人生の準備期間」が、研究スキルを身につけるために費やす年限、教育プログラムを提供できる現場に本格的に立てるようになって「人生の本番」と考えています。僕は、今年、博士課程に進んだのですが(体が壊れそうになりましたが修士過程はなんとか両立できました)、研究以外のことに時間をかけることに対して、いよいよ風当たりが厳しくなってくると予想しています。この環境で、これから最低3年を費やすことを考えると、正直吐き気がしていました。スキルはそこそこにして、もういっそ現場に行ってしまおうか、とも考えていました。
茂木塾長に質問に答えて頂き、リターンを信じて他の要素を凍結させ、これから最低3年間を必死にやるのもありかなと、今まで前向きに考えることができなかった選択肢を、前向きにとらえることができるようになりました。ありがとうございました。
(最初の投稿で、毎回質問すると書きましたが、前回質問を取り上げていただいたので、今回は控えさせていただきました)
----------------------------
茂木塾長、そして皆さま、色々至らない点がありましたこと、お詫び申し上げます。
面白いですね!!ということは、自伝を書くという行為は、茂木さんが言っておられるようなメタ認知のプロセスに近いと捉えられているのでしょうか。そのように考えたことはありませんでした。
No.18のmasamiさんの投稿から、自己とはなにかということがかなり掘り下げられましたが、非常に興味深く読ませて頂きました。trasqueさんの投稿(No.33)を受けてですが、概念レベルで議論をするとしばしば話がかみ合わず、上手くいかないことがあります。その原因の一つは、同じ言葉でも、人によってその言葉に与えている意味合いが違っていて、互いに理解しようとするときに障害が生じてしまう点にあると思います。
特に、このような場所に集まった皆さんは、物を考える方々と思いますので、様々な概念をそれぞれ独自に探求し、異なるレベルで捉えていらっしゃるのではないでしょうか。言葉の意味合いを丁寧に掘り下げていくことは、互いに自分がその言葉で意味していたものを明快にし、共通理解を作っていく上でとても重要な作業だと、投稿を見ていて感じました。
また、trasqueさんのご指摘のように、概念ではなく、より具体的なことを取り扱うのは、誤解が最も少ない議論の仕方かもしれませんね。BBSで議論を展開させる中、どのくらいまで個人的な情報を提示するべきか迷っていましたが、僕も少し具体的なレベルでの投稿を試してみます。
----------------------------
自己を強くする方法、あるいは自立する方法は、端的に言えば、自分で考え、それを実践し、結果を検証することに尽きると考えています。方策としてはシンプルだと思いますが、このステップに僕のやっていることを当てはめてみたいと思います。
僕は、生物学系の研究室に在籍している学生です。しかし、僕が研究室に在籍する目的は研究者になることではありません。そうではなく、研究のプロセスを習得し、教育プログラムに落とし込むことで、新しい教育の形を提供することを秘めた目標にしています。生きものと関係することで感性的な面を、また、生きものから得たデータを用いて理論を構築するプロセスで、ロジカルな思考を養うことを考えているのですが、もちろんこれは絵に描いた餅です。どうしたら本当にプログラムとして実現できるだろうかというところは非常に難しい。
こうした方針なので、僕にとっては教育こそが本当の仕事にしたいことであって、研究室で研究に従事することはスキルアップのためのトレーニングと捉えています。僕は、週に2回程度、教育プログラムを提供できる場所で働かせて頂いているので、現時点では、ここが僕の「現場」です。
先に挙げた「方策」に照らせば、学生生活で仕入れたことをどうやって教育プログラムに活かすかという部分が、僕の考えることです。考えて作ったプログラムは、僕の「現場」で提供します(必ずしも採用してもらえるわけではありませんが)。検証は、実際にプログラムを体験した参加者が、示す反応になるでしょうか。
この中で、最も困難なのは、正しく検証することだと思います。特に教育では長期的な展望まで視野に入れる必要があって、経験が少ない僕のような者では、例え成功したと思ったとしても、長期的には必ずしもそうでない可能性もあるわけです。とはいえ、時には成功したと感じることができる時もあり、そういう日には、ささやかに幸せな気分になり、人生が小さく前進したと思うこともあります。
一方、研究室では、専門分野に精通するために、たくさんの文献を読むこと、たくさんのデータを採ることなどが求められます。しかし、僕の仕事のことを考えれば、教育に関係する書籍を読むこと、教育プログラムを良いものにするための準備など、専門分野以外のことにもたくさんの時間を費やしたい。
専門の勉強をたくさんしていて、知識が豊富なことがほとんど絶対の価値となっている研究室で、週にまるまる数日、研究とは別の分野に費やし、さらに文献調査を一部放り出して他の分野の本を読んでいることは、指導教官も全く気に入らないらしく、関係は随分悪化してきています。しかし、僕は「いい学生」と評価されるよりも、自分の目的に沿ってちゃんと機能する教育プログラムを実現することの方がはるかに重要な問題だと考えています。僕は一時期、入院しない程度に精神的にもかなり低迷しましたが、なんとか自分の方向に進むことを考え、その方向に前進することを喜びとしてやっていきたいと思っています。
だいたい以上のようなことが、僕の今回の投稿(No.3)の背景です。
しかし、新しい教育の提案なんて、そうそう上手くいくものではないですね。僕は、色々なところにヒントを求めて探し続けています。実は、「夜間飛行」に出会うことができたのは、その結果です。BBSとメルマガでの私塾という発想にとても魅かれています。この私塾が、これからどう展開していくのかとても楽しみです。
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ところで、trasqueさんの投稿(No.33)の「ちゃんと挨拶する、ありがとうを言う」という点、僕は怠っていましたので、この場を借りて謝罪させていただきたいと思います。
まず、僕はNo.9の投稿でorcamieさんに話を振ったにもかかわらず、それを受けた投稿で、お礼を言っていませんでした。個人的な話になってしまい申し訳ありませんが、僕は「多様性を受容する」という傾向は、仏教的な素地のあるアジア文化においてより強いのではないかと思っていましたが、日本の教育との比較ではアメリカの方がむしろ多様性を受け入れる姿勢が強いことを示唆され、開眼させられました。ありがとうございました。
また、茂木塾長には「人生の質入れ」ということに関連して質問を取り上げて頂きましたが、まだお礼を言っていませんでした。怖れ多い気持ちが先に来て、どうコミュニケーションをとっていいのかわからなかったのですが、この際、この場でお礼をさせていただきます。
送信させて頂いた質問文では具体的ではありませんでしたが、僕の場合、「人生の準備期間」が、研究スキルを身につけるために費やす年限、教育プログラムを提供できる現場に本格的に立てるようになって「人生の本番」と考えています。僕は、今年、博士課程に進んだのですが(体が壊れそうになりましたが修士過程はなんとか両立できました)、研究以外のことに時間をかけることに対して、いよいよ風当たりが厳しくなってくると予想しています。この環境で、これから最低3年を費やすことを考えると、正直吐き気がしていました。スキルはそこそこにして、もういっそ現場に行ってしまおうか、とも考えていました。
茂木塾長に質問に答えて頂き、リターンを信じて他の要素を凍結させ、これから最低3年間を必死にやるのもありかなと、今まで前向きに考えることができなかった選択肢を、前向きにとらえることができるようになりました。ありがとうございました。
(最初の投稿で、毎回質問すると書きましたが、前回質問を取り上げていただいたので、今回は控えさせていただきました)
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茂木塾長、そして皆さま、色々至らない点がありましたこと、お詫び申し上げます。
NO.352011-04-27 23:46:45 trasque 0
No34 masamiさん、私の読み込みが足らずに申し訳ありませんでした。
「組織の中で、どれだけ自由裁量を行えるか」は確かに個人の強さだと、私も考えます。
もちろん、個人個人が好き勝手にやれば良い、という話ではないと思います。
それぞれ所属する組織の中で、自分がいかに自由裁量を手に入れるかは私も考えるのが難しいです。
前回のテーマの中で私は「公私混同」と主張しましたが、現実ではそこまで自由闊達ではありません。
特に役職を持つわけでもなく、実力がある訳でもありませんから、いつも下手になってるだけ、というのが私の正直な姿です。情けない話ですが、ネット弁慶、と言われても仕方ありません。
では、社会の中で「権力」「名声」「資産」を手に入れればそれが自由裁量になるのか、と考えるとそれも違うような気がしてきます。どこまでも「心」の問題ではないかと思うのです。(思いたい、のかもしれませんが)
私は前回と今回のテーマを議論する上で、その「心」からくる自由さを、どう具体的に鍛えていけるのかを知りたいなと考えていたりします。やはり、難しい問題ですね。
「組織の中で、どれだけ自由裁量を行えるか」は確かに個人の強さだと、私も考えます。
もちろん、個人個人が好き勝手にやれば良い、という話ではないと思います。
それぞれ所属する組織の中で、自分がいかに自由裁量を手に入れるかは私も考えるのが難しいです。
前回のテーマの中で私は「公私混同」と主張しましたが、現実ではそこまで自由闊達ではありません。
特に役職を持つわけでもなく、実力がある訳でもありませんから、いつも下手になってるだけ、というのが私の正直な姿です。情けない話ですが、ネット弁慶、と言われても仕方ありません。
では、社会の中で「権力」「名声」「資産」を手に入れればそれが自由裁量になるのか、と考えるとそれも違うような気がしてきます。どこまでも「心」の問題ではないかと思うのです。(思いたい、のかもしれませんが)
私は前回と今回のテーマを議論する上で、その「心」からくる自由さを、どう具体的に鍛えていけるのかを知りたいなと考えていたりします。やはり、難しい問題ですね。
NO.342011-04-27 09:24:50 masami 0
NO.33 trasque さん、あえて自己とは「あらゆるものの総合」だと知れ、という主張であると思いますが、いかがでしょうか。
ありがとうございます。
「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」が普遍的にあるものではないとは、自伝という物語についての文脈の中のありました。
古典文学があまたある中、日本で最初に書かれた自伝は、明治時代のものということからの考察です。つまり、自己という感覚は、明治になって初めて生まれたということだと思いました。それ以前の語りのなかには自己は存在していなかったのではないか、自己とは「あらゆるものの総合」と考えることすらできなかった状態であったのかな、と思い、想像するのが難しいと感じたのでした。
ちなみに自伝とは、私とは何者かと自らに問い、たとえ自分にとって不利な出来事であっても隠すことなくまた偽ることなく、誠実に自己について語り直すということ、と捉えられていました。
私にとって、強い個人の根底には、このように自分を語り直せることがあるかな、と想像します。
今回のテーマについて、茂木さんの文章の中に
このように「公正さ」を理由に個人の自由裁量を殺してしまっているのが、
今の日本の組織です。これをあらためて、私的な自由裁量に基づく組織の
在り方を蘇らせる。そうすれば、日本の組織もずっと魅力的な仕事ができ
るようになると思うのです。
という文章から、今回の個人の強さとは、組織の中で自由裁量が出来る強さかな、と思います。
組織の中で自由裁量が出来る強さを考えるのは、私にとって、とてもハードルが高く、考えるのがとても難しいです。
今やっと、強い個人の私なりのイメージができるところだと思います。
組織に埋没していない自分を語れる人でしょうか。
今、原子力発電について、関心が高まっています。この問題について、父から息子への手紙という形式で語る文章を読みました。そこには、この問題は価値観の問題だから、とても難しい、と書いてありました。
原子力発電の問題を価値観の問題、として捉えられることは、強さの一つかな、と感じました。賛成、反対と二分することなく、自分の立場を固定しなくても、自分の問題として考え続けることができるのは、個人の強さかなと感じます。
すみません、具体的な方法までたどり着くのは、難しいかもしれません。
ありがとうございます。
「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」が普遍的にあるものではないとは、自伝という物語についての文脈の中のありました。
古典文学があまたある中、日本で最初に書かれた自伝は、明治時代のものということからの考察です。つまり、自己という感覚は、明治になって初めて生まれたということだと思いました。それ以前の語りのなかには自己は存在していなかったのではないか、自己とは「あらゆるものの総合」と考えることすらできなかった状態であったのかな、と思い、想像するのが難しいと感じたのでした。
ちなみに自伝とは、私とは何者かと自らに問い、たとえ自分にとって不利な出来事であっても隠すことなくまた偽ることなく、誠実に自己について語り直すということ、と捉えられていました。
私にとって、強い個人の根底には、このように自分を語り直せることがあるかな、と想像します。
今回のテーマについて、茂木さんの文章の中に
このように「公正さ」を理由に個人の自由裁量を殺してしまっているのが、
今の日本の組織です。これをあらためて、私的な自由裁量に基づく組織の
在り方を蘇らせる。そうすれば、日本の組織もずっと魅力的な仕事ができ
るようになると思うのです。
という文章から、今回の個人の強さとは、組織の中で自由裁量が出来る強さかな、と思います。
組織の中で自由裁量が出来る強さを考えるのは、私にとって、とてもハードルが高く、考えるのがとても難しいです。
今やっと、強い個人の私なりのイメージができるところだと思います。
組織に埋没していない自分を語れる人でしょうか。
今、原子力発電について、関心が高まっています。この問題について、父から息子への手紙という形式で語る文章を読みました。そこには、この問題は価値観の問題だから、とても難しい、と書いてありました。
原子力発電の問題を価値観の問題、として捉えられることは、強さの一つかな、と感じました。賛成、反対と二分することなく、自分の立場を固定しなくても、自分の問題として考え続けることができるのは、個人の強さかなと感じます。
すみません、具体的な方法までたどり着くのは、難しいかもしれません。
NO.332011-04-26 14:43:54 trasque 0
連投ですみません。「自己が強くなる為の方策」を、もっと具体的に、身近に感じたいと思い、ひとつ皆様に提案がございます。方策があるのなら、明日から、いや、今からでも実践できるはずではないか、と考えたのです。
その提案とは「具体的に取り組んでいる自己強化(+エピソード)」を紹介して欲しいというものです。
たとえば「絶対に朝は早く起きるようにしている」とか「好き嫌いせずに食べている」とか、そんな程度の話でも結構です。その実践の解説を頂けると更にありがたいと思います。
掲示板のテーマが大きく、どうしても議論が「観念的」になりやすいと思います。
この掲示板で語っている私達だけでも、少なくともここから「すぐに実践できる人達」でありたい、そんな風に私は考えています。折角このような場で様々に吸収せんと集っていますから、最終的には「できるだけ具体的な何か」を掴んで、毎度の議論をシメたいなあ、なんて思うわけです。
本を読んだり、格言を覚えたり、体験談を聞いたりしても、一旦は「頭でしか理解していない」状態で終わってしまう事は多いと思うのですが、そういった蓄積をしておく事で「いざ」って時にその蓄積が自分の身体と心を通して実践され「心で理解した」と言えるようになると思います。
それは一般的には「マイナス」とされるような事でさえも、あらゆる価値にしていける可能性を、自分の中に築いていく工程だと思うのです。つまり怖いものなしって事です。
その蓄積を、みなさんで出し合って共有したいなと考えております。
====
言いだしっぺなので私の具体的な実践は……
「ありがとう、を欠かさない。ありがとう、の意味を考える」
「可能な限り自分から先に挨拶をする。確実に聞こえる音量で、相手の方を見て行う」
職場での実践ですが、ひとつ何かをしてもらった場面や、気を使ってもらった場合には必ずお礼を言うようにしています。人によっては「そこで一々言う必要はないのでは」と思われてしまうくらいの場面でも丁寧に言うようにしています。
そうすると一つ一つの自分と相手の行動を考える事になって、どの部分に「ありがとう」と言ったのかが段々明確になってくるからです。そうなると、仕事にも筋を通せるようになり(そうな気がし)ます。
挨拶については守るべき順番がある場面がありますが、そういったケースを除いた、たとえばすれ違いの時などの挨拶は可能な限り自分が先に行うようにしています。自然と少し遠目の場所から行いますし、声も大きくなります。
これを実践する為には常に周囲に気を配っているようになりますし、相手の挨拶から、今どんな心身状態なのかもある程度察する事ができるようになり(そうな気がし)ます。
と、こんな感じです。ちゃんと挨拶する、ありがとうを言う。って小学生みたいな話ですが、これだけでも意外と「やらない人」「テキトーな人」がいるものだなと感じています。
もしよければ皆様の「具体的な実践」を教えて下さいませ。
その提案とは「具体的に取り組んでいる自己強化(+エピソード)」を紹介して欲しいというものです。
たとえば「絶対に朝は早く起きるようにしている」とか「好き嫌いせずに食べている」とか、そんな程度の話でも結構です。その実践の解説を頂けると更にありがたいと思います。
掲示板のテーマが大きく、どうしても議論が「観念的」になりやすいと思います。
この掲示板で語っている私達だけでも、少なくともここから「すぐに実践できる人達」でありたい、そんな風に私は考えています。折角このような場で様々に吸収せんと集っていますから、最終的には「できるだけ具体的な何か」を掴んで、毎度の議論をシメたいなあ、なんて思うわけです。
本を読んだり、格言を覚えたり、体験談を聞いたりしても、一旦は「頭でしか理解していない」状態で終わってしまう事は多いと思うのですが、そういった蓄積をしておく事で「いざ」って時にその蓄積が自分の身体と心を通して実践され「心で理解した」と言えるようになると思います。
それは一般的には「マイナス」とされるような事でさえも、あらゆる価値にしていける可能性を、自分の中に築いていく工程だと思うのです。つまり怖いものなしって事です。
その蓄積を、みなさんで出し合って共有したいなと考えております。
====
言いだしっぺなので私の具体的な実践は……
「ありがとう、を欠かさない。ありがとう、の意味を考える」
「可能な限り自分から先に挨拶をする。確実に聞こえる音量で、相手の方を見て行う」
職場での実践ですが、ひとつ何かをしてもらった場面や、気を使ってもらった場合には必ずお礼を言うようにしています。人によっては「そこで一々言う必要はないのでは」と思われてしまうくらいの場面でも丁寧に言うようにしています。
そうすると一つ一つの自分と相手の行動を考える事になって、どの部分に「ありがとう」と言ったのかが段々明確になってくるからです。そうなると、仕事にも筋を通せるようになり(そうな気がし)ます。
挨拶については守るべき順番がある場面がありますが、そういったケースを除いた、たとえばすれ違いの時などの挨拶は可能な限り自分が先に行うようにしています。自然と少し遠目の場所から行いますし、声も大きくなります。
これを実践する為には常に周囲に気を配っているようになりますし、相手の挨拶から、今どんな心身状態なのかもある程度察する事ができるようになり(そうな気がし)ます。
と、こんな感じです。ちゃんと挨拶する、ありがとうを言う。って小学生みたいな話ですが、これだけでも意外と「やらない人」「テキトーな人」がいるものだなと感じています。
もしよければ皆様の「具体的な実践」を教えて下さいませ。
NO.322011-04-26 00:53:28 trasque 0
長すぎてご迷惑をおかけし、1日戦々恐々としておりました。
私もNo18の、「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない、という点について意見を書き込みたいと思います。
この文章がどのような流れで書かれていたのかは分かりませんので、額面どおりに受け取ると……
「自分で自分のことを表現するのって無理じゃね?」っていう事なのかな、と考えました。
たとえば日記に書かれる事は全て真実でしょうか?日記は人によって大きく書き方の変わるものでもありますが、それがすべて真実とは限りません。創作を含む人もいますし、希望を羅列する人もいます。
また何か自分の功績を聴衆に発表する事になった場合、その原稿は「精密に事実を記したもの」になるでしょうか?恐らくはドラマっぽくなったり、多少盛り上がるようにしたり、そういうことがあると思います。
ゲーテの自伝「詩と真実」でも、序文で「作品を作ったときの事を語ろうとすると、本当に色んなことを書かなければならない。突き詰めると、自分以外の事、自分に影響してくれた色々な人達のことも出てくる」というような事を記述しています。
ですので私はNo18にて紹介されている……
<「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、
普遍的に存在するというのではない>
という部分は「自己を語る自己が存在しない」と言うのではないと思うのです。
「自己」とは大部分が「あらゆるものをごちゃまぜにして固めたもの」で出来ているのだ。
そう主張しているのではないでしょうか。
ゲーテはこうも続けています。
(引用)
「また、誰でも僅か十年早くか、遅く生まれていたとすれば、その人自身の教養から見ても、外部への影響から見ても、全然別人になったと言い得るくらいに、否応なしに人間を拉し去り、人間を規定し、形成するものとしての時代を知れという要求なのである」
(以上引用)
時代も含めたあらゆるものが総合されたものが自己ですから、今日語った自己と明日語る自己では異なる事になります。そもそも、語っているのはその 総合 ではないでしょうか。ですから「普遍的に存在するものではない」と仰っているのだと思います。
決して「自己の喪失」とか、そういったことではないと思うのです。
あえて自己とは「あらゆるものの総合」だと知れ、という主張であると思いますが、いかがでしょうか。
私もNo18の、「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない、という点について意見を書き込みたいと思います。
この文章がどのような流れで書かれていたのかは分かりませんので、額面どおりに受け取ると……
「自分で自分のことを表現するのって無理じゃね?」っていう事なのかな、と考えました。
たとえば日記に書かれる事は全て真実でしょうか?日記は人によって大きく書き方の変わるものでもありますが、それがすべて真実とは限りません。創作を含む人もいますし、希望を羅列する人もいます。
また何か自分の功績を聴衆に発表する事になった場合、その原稿は「精密に事実を記したもの」になるでしょうか?恐らくはドラマっぽくなったり、多少盛り上がるようにしたり、そういうことがあると思います。
ゲーテの自伝「詩と真実」でも、序文で「作品を作ったときの事を語ろうとすると、本当に色んなことを書かなければならない。突き詰めると、自分以外の事、自分に影響してくれた色々な人達のことも出てくる」というような事を記述しています。
ですので私はNo18にて紹介されている……
<「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、
普遍的に存在するというのではない>
という部分は「自己を語る自己が存在しない」と言うのではないと思うのです。
「自己」とは大部分が「あらゆるものをごちゃまぜにして固めたもの」で出来ているのだ。
そう主張しているのではないでしょうか。
ゲーテはこうも続けています。
(引用)
「また、誰でも僅か十年早くか、遅く生まれていたとすれば、その人自身の教養から見ても、外部への影響から見ても、全然別人になったと言い得るくらいに、否応なしに人間を拉し去り、人間を規定し、形成するものとしての時代を知れという要求なのである」
(以上引用)
時代も含めたあらゆるものが総合されたものが自己ですから、今日語った自己と明日語る自己では異なる事になります。そもそも、語っているのはその 総合 ではないでしょうか。ですから「普遍的に存在するものではない」と仰っているのだと思います。
決して「自己の喪失」とか、そういったことではないと思うのです。
あえて自己とは「あらゆるものの総合」だと知れ、という主張であると思いますが、いかがでしょうか。
NO.312011-04-25 23:47:44 yamanorisu 0
すみません。まとめたというより、自分の決意表明のようなつもりで…。
YOtomoさん同様、おむつをとったらシャーっとシャワー…「わー!なんでー!もー!!」と大騒ぎしていたころから、今すでに8年たちましたが、初めての子育ては、いつまで経っても初めてのことばかりで、日々母親道の修行に励んでおります。
外国語に対する脳のリミッターをはずす努力もしなければいけません…ね…orz
YOtomoさん同様、おむつをとったらシャーっとシャワー…「わー!なんでー!もー!!」と大騒ぎしていたころから、今すでに8年たちましたが、初めての子育ては、いつまで経っても初めてのことばかりで、日々母親道の修行に励んでおります。
外国語に対する脳のリミッターをはずす努力もしなければいけません…ね…orz
NO.302011-04-25 21:26:24 orcamie 0
続けて投稿です。
茂木塾長の今回の樹下のまどろみを読み返し
日本における「知の劣化」と「言語的な閉鎖性」という指摘がありました。
そういう意味で教育が重要だという事はいうまでもないのですが
既存の教育制度のなかで 短期間に革新の風を吹き込むには
外国語の習得が重要な気がしました。
日本における外国語の習得は英語の習得が中心です。
小学校から、英語以外の言語も親しむ程度の会話中心に取り入れたらと思います。
原発事故でそんな人材を確保できるかどうか心もとないですが。
きっとそれに対応できる日本人はいるはず。
英語一辺倒だとやはり、グローバルな思考に制限がついてしまう。
より多くの人が、英語以外の情報にもアクセスできるようにならないかなと
思ったのです。
しかし知的レベルの高さでは、英語情報はかなり高いという事を否定するものではありません。
実は今回アフリカ・中東で政情不安が続いていますが
一緒に仕事をするエジプトの方に
アルジャジーラの放送の英訳を見ていると
アラビア語で言われている事と違う事を英語で言っていると。
英語の情報は時として 全てを語らないという事初めてしりました。
yamanorisuさんが折角まとめてくださってるところで
余計な事を言う私ですが、29で投稿したら始めの原稿が消えてしまい
思い出しながら書いていたらふと思いついて書き込みました。
茂木塾長の今回の樹下のまどろみを読み返し
日本における「知の劣化」と「言語的な閉鎖性」という指摘がありました。
そういう意味で教育が重要だという事はいうまでもないのですが
既存の教育制度のなかで 短期間に革新の風を吹き込むには
外国語の習得が重要な気がしました。
日本における外国語の習得は英語の習得が中心です。
小学校から、英語以外の言語も親しむ程度の会話中心に取り入れたらと思います。
原発事故でそんな人材を確保できるかどうか心もとないですが。
きっとそれに対応できる日本人はいるはず。
英語一辺倒だとやはり、グローバルな思考に制限がついてしまう。
より多くの人が、英語以外の情報にもアクセスできるようにならないかなと
思ったのです。
しかし知的レベルの高さでは、英語情報はかなり高いという事を否定するものではありません。
実は今回アフリカ・中東で政情不安が続いていますが
一緒に仕事をするエジプトの方に
アルジャジーラの放送の英訳を見ていると
アラビア語で言われている事と違う事を英語で言っていると。
英語の情報は時として 全てを語らないという事初めてしりました。
yamanorisuさんが折角まとめてくださってるところで
余計な事を言う私ですが、29で投稿したら始めの原稿が消えてしまい
思い出しながら書いていたらふと思いついて書き込みました。
NO.292011-04-25 21:01:30 orcamie 0
<自己のない状態>組織や社会に完全に埋没してしまっている。皆さんの意見を読むうちにカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(Never let me go)の中の登場人物が実に見事に自己がない状態で描かれてます。教育を受ける機会がない、文明から隔離されている。タイトルの恋愛小説を思わせるような雰囲気からは想像を絶する壮絶なストーリーです。
それから投稿の中に『大河の一滴』ということばで、五木寛之さんの「さらばモスクワ愚連隊」を思い出し、共産党独裁下のソ連で小説家が、投獄の根拠となった小説を実は本人が執筆したわけではないのに、真実を語らない。ある意味彼は「独立自尊」を貫いたと思うのです。
「独立自尊」を全うするには不条理に直面しても尚、それを守り続ける強さが必要だと思います。
教育や文化の継承で、自分の立ち位置を確認したらそこが出発点。
そこから「未来に向けて」オリジナリテイを築くために
時には既存の文化を壊したり、対立することになる
そこに生じる不条理に臆する事なく、進む。
「独立自尊」をもとめるならば
単なる便利さや暮らしやすさを求めては決して
手に入る事はない
皆さんの意見を何度も読んで自分なりの感想です。
それから投稿の中に『大河の一滴』ということばで、五木寛之さんの「さらばモスクワ愚連隊」を思い出し、共産党独裁下のソ連で小説家が、投獄の根拠となった小説を実は本人が執筆したわけではないのに、真実を語らない。ある意味彼は「独立自尊」を貫いたと思うのです。
「独立自尊」を全うするには不条理に直面しても尚、それを守り続ける強さが必要だと思います。
教育や文化の継承で、自分の立ち位置を確認したらそこが出発点。
そこから「未来に向けて」オリジナリテイを築くために
時には既存の文化を壊したり、対立することになる
そこに生じる不条理に臆する事なく、進む。
「独立自尊」をもとめるならば
単なる便利さや暮らしやすさを求めては決して
手に入る事はない
皆さんの意見を何度も読んで自分なりの感想です。
NO.282011-04-25 10:25:16 yamanorisu 0
今朝の茂木“塾長”のクオリア日記で、「師匠」からの示唆をいただいた気がします。
・・・* クオリア日記より引用 *・・・・
みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。
自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。
・・・* 引用おわり *・・・・
アスリートとなる!と宣言されているmogi“塾長”の想いの源を感じました。
できないことを嘆いたり、いじけたりするのではなく、できるようにしていこう!努力し続けていこう!と思います。
今から将来永劫続く私たちの「子どもたち」のために、「いい親」でありたいと思います。
・・・* クオリア日記より引用 *・・・・
みんなが目一杯に現場を生きているのだとしたら、その目一杯を超えるのは難しいだろうと思った。変化のためには、結局は、個々人がスキルを上げるしかない。そう思い至った時、ぼくは大乗から小乗になった。
自分にもできないことがある。できていないことがある。ひとりの人間として、できないことをできるように努力することが、結果として、日本の復興や、日本という国が世界において輝きを取り戻すことに貢献するのではないかと思うようになったのである。
・・・* 引用おわり *・・・・
アスリートとなる!と宣言されているmogi“塾長”の想いの源を感じました。
できないことを嘆いたり、いじけたりするのではなく、できるようにしていこう!努力し続けていこう!と思います。
今から将来永劫続く私たちの「子どもたち」のために、「いい親」でありたいと思います。
NO.272011-04-25 10:02:05 yamato 0
「日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか?」
初めての投稿です。
読みにくい部分が有るかもしれません。ご容赦下さい。
「自立」をどのような定義と結果で評価するかに寄っても、意味が変わって来ます。
私は、自立とは「自分の位置」と「進んでいる方向」を個人が自覚しているかどうかの問題に始まると思います。今、自分がどこに居るのか? どこに行こうとしているのか? これを自覚するには、状況と状態を個人が判断し、「自分は、今ここに居て、こっちに進んでいる」と結論付けなければなりません。世界観で言えば、大河の一滴が己の位置と流れを自覚するのは、とても難しいように思えます。
自立とは、自分の位置を自分で判断し、どの方向に進むのかを自分で決める事だと考えます。
判断と決定に至までには、常に多くの情報を自分で整理し、自分の進む先を推測する必要が有ります。
時代と社会と言う条件に関わりながら、これらを自分で判断実行する事は、物事や自然、人などとの「距離感」を重んじる日本人にとって、決して得意な事では無いと感じます。
まずは「己の位置に旗を立てる」行為が重要でしょう。これには、教育を含め多くの時間が必要です。DNAが何度か書き変わるほどの時間と多くのエネルギーを注がなければなりません。
海水で芋を洗い初めたのは「小猿」です。決して大人の猿ではありません。
初めての投稿です。
読みにくい部分が有るかもしれません。ご容赦下さい。
「自立」をどのような定義と結果で評価するかに寄っても、意味が変わって来ます。
私は、自立とは「自分の位置」と「進んでいる方向」を個人が自覚しているかどうかの問題に始まると思います。今、自分がどこに居るのか? どこに行こうとしているのか? これを自覚するには、状況と状態を個人が判断し、「自分は、今ここに居て、こっちに進んでいる」と結論付けなければなりません。世界観で言えば、大河の一滴が己の位置と流れを自覚するのは、とても難しいように思えます。
自立とは、自分の位置を自分で判断し、どの方向に進むのかを自分で決める事だと考えます。
判断と決定に至までには、常に多くの情報を自分で整理し、自分の進む先を推測する必要が有ります。
時代と社会と言う条件に関わりながら、これらを自分で判断実行する事は、物事や自然、人などとの「距離感」を重んじる日本人にとって、決して得意な事では無いと感じます。
まずは「己の位置に旗を立てる」行為が重要でしょう。これには、教育を含め多くの時間が必要です。DNAが何度か書き変わるほどの時間と多くのエネルギーを注がなければなりません。
海水で芋を洗い初めたのは「小猿」です。決して大人の猿ではありません。
NO.262011-04-25 03:11:49 trasque 0
非常に長くなりました。テーマをずっと考えていたら、触れるべき部分が膨大でうまくまとめられませんでした。読みづらいと思いますが、書き込みをさせて頂きます。
この度はメールマガジンで書き込みを取り上げて頂き、ありがとうございました。
メールマガジンを読んだ時には、自分のハンドルネームを見て心臓が止まりそうでした。
若輩としては純粋に嬉しく、同時に様々な人たちへの感謝もせずにはいられませんでした。
ご迷惑になると思いつつ…… 長文のまま投稿させて頂きます。
最後にまとめてみましたので、ご容赦下さい。
(1)「自分」とはこれまでのあらゆる総合
前回書き込んだ内容は私の頭の中で考えたもので、特にどこからか引用したわけではありません。
しかし、その内容はこれまで様々な人から教えられたり、何かを読んだりしたものが僕の中で蓄積されていって、色々な体験を通じて固められていったものであります。ですから、場合によっては誰かが発した言葉をそのまま同じように綴っている部分があるかもしれませんし、時には結果として「丸パクり」に近くなるのかもしれません。
いずれにせよ「自分」とは「それまで生きてきて、聞き、見て、学び、話し、考え、動き等したものの総合」であるはずです。十人十色とは言いますが、それはお互いがお互いの色を常に取り出したり与えたりしながら混ざったり分離したりしているものだと思います。
ですから、この度取り上げて頂き「面白い指摘」と評価を頂いた事は、私自身への評価にとどまらず、それまで私を構成してくれた「色んな何か」に対しての評価でもあるのです。であれば、それらに対して感謝しても、私は良いと思います。結局、人生に無駄は無い、と言われる通りなのかもしれません。
(2)人生には基準が必要
ところで先日、友人と話をしていた時に「自分の外にある基準」の話題になりました。
この度のお題である「自立」に対して、一つのヒントになったな、と思ったのです。
それは「人生において 正しい尺度を持っている と断言できるか」どうかという点でした。
平たく言えば「自分が基準に沿って動いているか」即座に答えられるものがあるかどうか、です。
物事には「基準」が必要です。長さをはかるためには定規やメジャーを使います。重さはキログラム原器が必要です。温度には1気圧下の水の凝固沸騰という自然の尺度もあります。
安く質の悪いメジャーを使って長さに誤差があったのならば、それで家を建てようとすると後でとんでもない事故になってしまいます。だから基準は「正しくあるべき」で「動く事のない」ものである必要があります。
これは私達が生きていく人生にも必要なものであると考えます。人生の基準が必要なのです。
(3)「自分教」からの脱出が自立への第一歩
皆様が会話される中で「自分教」を標榜する方が、たまにいるかも知れません。──信じられるのは自分だけである。自分の心なのだからそれは裏切る事は無い。他者に傾倒して自分を失ってはならない── そう主張する人達です。
私はまず、この「自分教からの脱出が、自立への第一歩」だと考えます。
人間の心は瞬間瞬間、常に変化しています。身近な話なら「お腹すいた」と思った矢先に「仕事したくないな」とか、ぐるぐる回っているのが人間の心です。だからこそ柔軟であり、強くなれるものでもあるはずです。
また、何か外部からの刺激によっても「自分の意思とは別にして」心が動かされてしまう事は日常茶飯事となります。感動したり、驚いたり、そこから心だけではなく身体までも動かされてしまうのです。
これほどまでに「正しいとも悪いとも言えず」かつ「動かない事のない」ものを基準にしてしまおうというものが「自分教」の正体であると私は考えます。先に上げたように基準とは「正しく、動かないもの」ですから、全く逆の性質のものです。それを「人生の基準にしてしまった」時、家が壊れる以上の事故がやってくる未来が、見えるようではありませんか。
ですから私はまず「自分教を脱出」し、動かない(ブレない)基準を求め抜いていく生き方がまず必要だと考えます。究極的なパターンは「宗教を持つ人」や「哲学を持つ人」でしょうか。
こういった話をすると、多くの場合私は反発を受けます。それは自分を見失ってしまうだとか、自分で何も考えなくなるから危険だとか、です。
自分という自分にしか見えない心を「一旦信じない」という行為ですから、怖くなるのは当然だと私も思います。だから「求めぬく」必要があるのです。どんな本を読んだのか、それは人生の基準になる何かが書かれているのか、あの言葉は何を教えようとしているのか、本当にそれは間違っていないのか。結局、悩みぬいていかねばならないはずなのです。自分を動かす為の基準を探す行為は、疑念の連続、苦悩苦闘の連続であるはずです。行動も必要であり、実践が必要であり、だからこそ間違いを犯す事もあり、また改めて悩み考える。自分の心をどんどん動かしていく「生きた作業」です。
(4)基準に合わせる事は自分を失う事ではなく、自由になる事
もし「人生の基準」が手に入れられたのならばどうするか。定規を使うとき、まず長さを目測で正確にははかれませんから、対象物に定規をあてます。そして正確な数値を得てはじめて、自分の頭を回転させることになります。同じように、人生の基準を「生き様」に当てはめ、悩んで考えて動く。
「人生の基準」という軸を中心に「自分が周囲を回る」というイメージでしょうか。
これに皆さんはどう感じられるでしょうか?自分を失っているでしょうか。縛られたように感じるでしょうか。結局振り回されているだけに見えるでしょうか。
私は、基準を手に入れた人間の精神はとても「自由」だと感じます。一旦自分の感情を抑えたりする場面は必ずあると思いますが、それは基準から判断した理性であり、よりよい行動を選択した事になるからです。私はこの時点で、ある程度の自立は成立していると言っても良いのではないかと思います。
(5)正しい基準を求めぬく ──素直さ
しかし、基準が間違っている場合があります。質の悪いメジャーで家を建てても、何とか形にはなるかもしれませんが間違ったメジャーを使ってしまえば、もはや着工は不可能です。それでも気付かずに突進してしまうと、それこそ悲惨な結果になります。
「人生の基準」も同様であると私は考えます。その基準が間違っている時、その人生は破壊されてしまうと思うのです。だから「正しい基準を求めぬく姿勢」が必要です。
故松下幸之助さんは「素直な心」を主張されていました。様々な教えを、まずは素直に聞いてみる姿勢は思いの他重要であると考えます。受け入れた教えが実践できるのかどうか、その結果として人間的に成長できるのかどうか。恐らくこの挑戦は、自分の心と真正面に向き合う連続的な闘争になるでしょう。しかし、そこにこそ心も頭も体も含めた全人格的な前進があると思うのです。
(6)基準を求める意識を「教育」で作るには ──師匠を持つ
この度のテーマで皆様が語られている中に「教育」があります。私も非常に重要な項目だと考えます。ですからその教育が「間違っている訳にはいかない」と思うのです。
知識、学力、社会の立ち回り、それらは大事なものです。でも、教育で最も大事な部分は「人間として生きる力を磨き続ける心」をいかにして伝えていくかだと私は考えます。
クラスに生徒を集めて、科目ごとに講義を行う形態は、体系的教育、効率的教育としては非常に良い方法だと思います。しかし、それだけでは不足だと思うのです。
教育には「人格的交流」が必要だと考えます。メルマガに掲載されていた「ホラス・バーロー教授」は茂木さんがお世話になった方との事でしたが、こういった関係の中で磨かれるものがあると思います。
一言で済ませば「師匠を持つかどうか」です。
最近の芥川賞を受賞された西村賢太さんは、藤澤清造という作家を師匠として自らを弟子と称し活動するようになりました。しかし、この藤澤清造はその時点で既に亡くなられていました。
「師匠」とは自らが求めるものだと思います。自称だとしても、既に居なくとも、この人が師匠であり、絶対に裏切らないという心からの決意が、その人を大きく飛躍させると私は思います。
師匠を持つと言う事は「その人の言う事には絶対に逆らわない」という程の覚悟が必要です。現実的には無理だとしても、そのような気概を持てる人に出会えるかどうかは、とても人生において大きな影響をもたらすと思います。
これは(4)での「基準に自分を合わせていく」事と同じ意味があります。師匠という人生の基準に、自分を周回させていくからです。
「この人の為なら身を惜しまない」と思えるような人を求める。そういう人との関わりはとても人間的な交流であります。厳愛の中にも慈悲のあるような師匠との交流ほど、人間としての訓練として素晴らしいものはないと思うのです。
子供たちはどんな子であれ、あらゆる可能性を秘めていると思います。私達でさえ、時間をかければやってやれない事はないと奮起できるはずです。子供たちへの教育は、まず子供たちを「例外なく無限の可能性を持つ未来の宝」だと信じぬく事からはじまると思います。
生きるとはどういうことなのか。真剣に打ち込んでくれる誰かの事を、子供たちは絶対に覚えています。彼等が将来辛い目にあった時、その真剣であった大人の誰かとの思い出が、その子達を救う事さえあると思うのです。
障害を持っていたり、要領の悪い子であったりしても、彼等の未来は無限大だと思います。それを彼等に伝え、真剣さを見せていく事が子供たちへの「人間的教育」だと私は考えます。
(7)組織と個人の関係の中に
師匠と弟子の関係が出来やすい「組織」の一つとして大学があります。多くの場合は研究室の教授と学部生がその関係です。また、院生と学部生で同じような関係になる場合もあるでしょう。師匠とおおげさに言っていますが「スポーツの師匠」「芸術の師匠」などと、複数作っても良いと思います。
前回の「組織と個人」の話では多くが会社をベースとした議論だったと思います。そういった中ではどうしても「稼ぎ目的」だったり「営利勝負」だったりで中々師匠と弟子のような関係は難しくなると思うのです。
大学は「知」で勝負するところで、教育の最高学府です。であれば(6)の通りに、人格的教育の最高学府でもなければならないと私は考えます。
教授と学部生の双方向的な尊敬の関係。研究という共通の目的に進む中で生まれる交流という人間的教育。これをどれだけの教授、学生が意識していることでしょうか。
私の偏見が含まれますが、多くの教授は「仕事」に過ぎないと考え、多くの学生は「通過儀礼」としてしか感じていないようにも思うのです。どれだけ「うまく」単位を処理できるか。それが多くの「日本の大学人の目的」です。
私はここに大きな危険があると考えます。
営利や金銭の関係を含まない、異世代の純粋な交流を持てる機会を自ら捨ててしまう行為だからです。何年たっても懐かしく思える、感謝できる教授や先輩を手に入れられるかというチャンスを、です。
組織は目的を持っており、属する人達がそれぞれの方法で共通する目的を追っています。組織は様々な人がいますから、当然指導する人間が必要です。しかし、指導する側もされる側も同じ目的を持っているから、お互いがそれに向かって前進していくことになります。
指導者と被指導者が関わり合いながら一緒に目的へ肉薄していく。これも師匠と弟子の関係だと思います。つまり、人生の基準となる師匠を手に入れる為には組織がどうしても必要だと思うのです。
師匠と自分だけという極小な組織もあると思います。師匠も組織の中の個人であり、自分もそうである。その関係性を推進していく場が組織となる。
組織には目的がありますが、個人は常に人格全体で勝負している。「目的の事だけをやっていればよい」なんて事はむしろ、できないはず。それこそ公私混同であるべき…… 私はそう考えます。
(8)「日本人が」個人として自立するには
今回の問いである「日本人が個人として自立する為の方策」を、以上から考えてみます。
そうすると「日本人教からの脱却」をまず計るべきなのかもしれません。
グローバルと言う訳でもありません。日本人としての自信を捨てよというのでもありません。しかしそれらは基準にはならないはずなのです。歴史の長い日本と言えど「日本人は変化し続けている」からです。
上記の「自立」をした日本人が増えるのならば、日本は自ずと「地球での生き方」という基準を持てるようになると思います。人間的教育を深めているからです。
そうなれば、日本という国がすべき事が見えてくると思うのです。基準を元に、日本という国の環境を勘案できるようになるからです。それこそ日本が自由であると言えるのではないでしょうか。
その自由を手に入れた日本は、世界に対し躍動して大貢献できる国になっていると思います。
ですので、まずは私達個人から心を変化させていけば良いと私は思います。
少しまとめてみようと思います。
・自分とはこれまでのあらゆるモノの総合であり、これからも吸収変化し続けていく
・自分という不安定なものを人生の基準にしてはいけない
・人生の基準を探し、基準に自分を合わせていく挑戦を続ける
(自分を一旦抑える場面もありうる)
・人生の基準を一つでも見つければ、それは自由を一つ得た事になる
・「自立」とは上記の「自分教」を脱却した状態を言うのではないか
・間違った基準は非常に恐ろしいものである
・まずは素直な心で受け止め、自ら考え実践していく必要がある
・その時の指針として「人間的成長があるか」「人間を主としたものか」を参考とする
・教育では子供たちの可能性を信じぬき、真剣に向き合う必要がある
・大学等の教育で「師弟」のような関係性を重視する
(師匠は人生の基準となる)
・大学はこれまでの「知識偏重」「儲け主義」を反省し「人間性の練磨」を意識する
・「日本人教」を脱却する:自立した日本人が増えれば、日本が基準を手に入れられる
・結果として「自立した日本」になっていく
No20でyamanorisuさんが仰っている教育現場は私も心配になります。
子供たちの可能性を信じぬくという姿勢はとても大変なものだと思います。
教師はそれほど使命があり、難しく、心を使う仕事だと思うのです。
その教師がどれだけ「人生の基準」を獲得しているのか。大きな課題だと思います。
やはり私も、教育が「日本人の自立」を促す強力な一手であると思うのです。
私にも一応、基準があります。師匠と呼びたい方がいます。
一人になった時や「絶対にバレないような悪事が出来てしまう場面」になった時、その基準と師匠の事を考えるのです。その時、自分の中で大きな闘争が始まります。師匠だったらどうするか!?と。
結果として、誰が見ている訳でなくとも、私は悪事を働かずに済んだ場面があります。
そして職場で堂々としていられるようになりました。自分は間違う事はあっても、自分の心に負けることは無いのだ!と少しは思えるようになったからだと思います。
この度はメールマガジンで書き込みを取り上げて頂き、ありがとうございました。
メールマガジンを読んだ時には、自分のハンドルネームを見て心臓が止まりそうでした。
若輩としては純粋に嬉しく、同時に様々な人たちへの感謝もせずにはいられませんでした。
ご迷惑になると思いつつ…… 長文のまま投稿させて頂きます。
最後にまとめてみましたので、ご容赦下さい。
(1)「自分」とはこれまでのあらゆる総合
前回書き込んだ内容は私の頭の中で考えたもので、特にどこからか引用したわけではありません。
しかし、その内容はこれまで様々な人から教えられたり、何かを読んだりしたものが僕の中で蓄積されていって、色々な体験を通じて固められていったものであります。ですから、場合によっては誰かが発した言葉をそのまま同じように綴っている部分があるかもしれませんし、時には結果として「丸パクり」に近くなるのかもしれません。
いずれにせよ「自分」とは「それまで生きてきて、聞き、見て、学び、話し、考え、動き等したものの総合」であるはずです。十人十色とは言いますが、それはお互いがお互いの色を常に取り出したり与えたりしながら混ざったり分離したりしているものだと思います。
ですから、この度取り上げて頂き「面白い指摘」と評価を頂いた事は、私自身への評価にとどまらず、それまで私を構成してくれた「色んな何か」に対しての評価でもあるのです。であれば、それらに対して感謝しても、私は良いと思います。結局、人生に無駄は無い、と言われる通りなのかもしれません。
(2)人生には基準が必要
ところで先日、友人と話をしていた時に「自分の外にある基準」の話題になりました。
この度のお題である「自立」に対して、一つのヒントになったな、と思ったのです。
それは「人生において 正しい尺度を持っている と断言できるか」どうかという点でした。
平たく言えば「自分が基準に沿って動いているか」即座に答えられるものがあるかどうか、です。
物事には「基準」が必要です。長さをはかるためには定規やメジャーを使います。重さはキログラム原器が必要です。温度には1気圧下の水の凝固沸騰という自然の尺度もあります。
安く質の悪いメジャーを使って長さに誤差があったのならば、それで家を建てようとすると後でとんでもない事故になってしまいます。だから基準は「正しくあるべき」で「動く事のない」ものである必要があります。
これは私達が生きていく人生にも必要なものであると考えます。人生の基準が必要なのです。
(3)「自分教」からの脱出が自立への第一歩
皆様が会話される中で「自分教」を標榜する方が、たまにいるかも知れません。──信じられるのは自分だけである。自分の心なのだからそれは裏切る事は無い。他者に傾倒して自分を失ってはならない── そう主張する人達です。
私はまず、この「自分教からの脱出が、自立への第一歩」だと考えます。
人間の心は瞬間瞬間、常に変化しています。身近な話なら「お腹すいた」と思った矢先に「仕事したくないな」とか、ぐるぐる回っているのが人間の心です。だからこそ柔軟であり、強くなれるものでもあるはずです。
また、何か外部からの刺激によっても「自分の意思とは別にして」心が動かされてしまう事は日常茶飯事となります。感動したり、驚いたり、そこから心だけではなく身体までも動かされてしまうのです。
これほどまでに「正しいとも悪いとも言えず」かつ「動かない事のない」ものを基準にしてしまおうというものが「自分教」の正体であると私は考えます。先に上げたように基準とは「正しく、動かないもの」ですから、全く逆の性質のものです。それを「人生の基準にしてしまった」時、家が壊れる以上の事故がやってくる未来が、見えるようではありませんか。
ですから私はまず「自分教を脱出」し、動かない(ブレない)基準を求め抜いていく生き方がまず必要だと考えます。究極的なパターンは「宗教を持つ人」や「哲学を持つ人」でしょうか。
こういった話をすると、多くの場合私は反発を受けます。それは自分を見失ってしまうだとか、自分で何も考えなくなるから危険だとか、です。
自分という自分にしか見えない心を「一旦信じない」という行為ですから、怖くなるのは当然だと私も思います。だから「求めぬく」必要があるのです。どんな本を読んだのか、それは人生の基準になる何かが書かれているのか、あの言葉は何を教えようとしているのか、本当にそれは間違っていないのか。結局、悩みぬいていかねばならないはずなのです。自分を動かす為の基準を探す行為は、疑念の連続、苦悩苦闘の連続であるはずです。行動も必要であり、実践が必要であり、だからこそ間違いを犯す事もあり、また改めて悩み考える。自分の心をどんどん動かしていく「生きた作業」です。
(4)基準に合わせる事は自分を失う事ではなく、自由になる事
もし「人生の基準」が手に入れられたのならばどうするか。定規を使うとき、まず長さを目測で正確にははかれませんから、対象物に定規をあてます。そして正確な数値を得てはじめて、自分の頭を回転させることになります。同じように、人生の基準を「生き様」に当てはめ、悩んで考えて動く。
「人生の基準」という軸を中心に「自分が周囲を回る」というイメージでしょうか。
これに皆さんはどう感じられるでしょうか?自分を失っているでしょうか。縛られたように感じるでしょうか。結局振り回されているだけに見えるでしょうか。
私は、基準を手に入れた人間の精神はとても「自由」だと感じます。一旦自分の感情を抑えたりする場面は必ずあると思いますが、それは基準から判断した理性であり、よりよい行動を選択した事になるからです。私はこの時点で、ある程度の自立は成立していると言っても良いのではないかと思います。
(5)正しい基準を求めぬく ──素直さ
しかし、基準が間違っている場合があります。質の悪いメジャーで家を建てても、何とか形にはなるかもしれませんが間違ったメジャーを使ってしまえば、もはや着工は不可能です。それでも気付かずに突進してしまうと、それこそ悲惨な結果になります。
「人生の基準」も同様であると私は考えます。その基準が間違っている時、その人生は破壊されてしまうと思うのです。だから「正しい基準を求めぬく姿勢」が必要です。
故松下幸之助さんは「素直な心」を主張されていました。様々な教えを、まずは素直に聞いてみる姿勢は思いの他重要であると考えます。受け入れた教えが実践できるのかどうか、その結果として人間的に成長できるのかどうか。恐らくこの挑戦は、自分の心と真正面に向き合う連続的な闘争になるでしょう。しかし、そこにこそ心も頭も体も含めた全人格的な前進があると思うのです。
(6)基準を求める意識を「教育」で作るには ──師匠を持つ
この度のテーマで皆様が語られている中に「教育」があります。私も非常に重要な項目だと考えます。ですからその教育が「間違っている訳にはいかない」と思うのです。
知識、学力、社会の立ち回り、それらは大事なものです。でも、教育で最も大事な部分は「人間として生きる力を磨き続ける心」をいかにして伝えていくかだと私は考えます。
クラスに生徒を集めて、科目ごとに講義を行う形態は、体系的教育、効率的教育としては非常に良い方法だと思います。しかし、それだけでは不足だと思うのです。
教育には「人格的交流」が必要だと考えます。メルマガに掲載されていた「ホラス・バーロー教授」は茂木さんがお世話になった方との事でしたが、こういった関係の中で磨かれるものがあると思います。
一言で済ませば「師匠を持つかどうか」です。
最近の芥川賞を受賞された西村賢太さんは、藤澤清造という作家を師匠として自らを弟子と称し活動するようになりました。しかし、この藤澤清造はその時点で既に亡くなられていました。
「師匠」とは自らが求めるものだと思います。自称だとしても、既に居なくとも、この人が師匠であり、絶対に裏切らないという心からの決意が、その人を大きく飛躍させると私は思います。
師匠を持つと言う事は「その人の言う事には絶対に逆らわない」という程の覚悟が必要です。現実的には無理だとしても、そのような気概を持てる人に出会えるかどうかは、とても人生において大きな影響をもたらすと思います。
これは(4)での「基準に自分を合わせていく」事と同じ意味があります。師匠という人生の基準に、自分を周回させていくからです。
「この人の為なら身を惜しまない」と思えるような人を求める。そういう人との関わりはとても人間的な交流であります。厳愛の中にも慈悲のあるような師匠との交流ほど、人間としての訓練として素晴らしいものはないと思うのです。
子供たちはどんな子であれ、あらゆる可能性を秘めていると思います。私達でさえ、時間をかければやってやれない事はないと奮起できるはずです。子供たちへの教育は、まず子供たちを「例外なく無限の可能性を持つ未来の宝」だと信じぬく事からはじまると思います。
生きるとはどういうことなのか。真剣に打ち込んでくれる誰かの事を、子供たちは絶対に覚えています。彼等が将来辛い目にあった時、その真剣であった大人の誰かとの思い出が、その子達を救う事さえあると思うのです。
障害を持っていたり、要領の悪い子であったりしても、彼等の未来は無限大だと思います。それを彼等に伝え、真剣さを見せていく事が子供たちへの「人間的教育」だと私は考えます。
(7)組織と個人の関係の中に
師匠と弟子の関係が出来やすい「組織」の一つとして大学があります。多くの場合は研究室の教授と学部生がその関係です。また、院生と学部生で同じような関係になる場合もあるでしょう。師匠とおおげさに言っていますが「スポーツの師匠」「芸術の師匠」などと、複数作っても良いと思います。
前回の「組織と個人」の話では多くが会社をベースとした議論だったと思います。そういった中ではどうしても「稼ぎ目的」だったり「営利勝負」だったりで中々師匠と弟子のような関係は難しくなると思うのです。
大学は「知」で勝負するところで、教育の最高学府です。であれば(6)の通りに、人格的教育の最高学府でもなければならないと私は考えます。
教授と学部生の双方向的な尊敬の関係。研究という共通の目的に進む中で生まれる交流という人間的教育。これをどれだけの教授、学生が意識していることでしょうか。
私の偏見が含まれますが、多くの教授は「仕事」に過ぎないと考え、多くの学生は「通過儀礼」としてしか感じていないようにも思うのです。どれだけ「うまく」単位を処理できるか。それが多くの「日本の大学人の目的」です。
私はここに大きな危険があると考えます。
営利や金銭の関係を含まない、異世代の純粋な交流を持てる機会を自ら捨ててしまう行為だからです。何年たっても懐かしく思える、感謝できる教授や先輩を手に入れられるかというチャンスを、です。
組織は目的を持っており、属する人達がそれぞれの方法で共通する目的を追っています。組織は様々な人がいますから、当然指導する人間が必要です。しかし、指導する側もされる側も同じ目的を持っているから、お互いがそれに向かって前進していくことになります。
指導者と被指導者が関わり合いながら一緒に目的へ肉薄していく。これも師匠と弟子の関係だと思います。つまり、人生の基準となる師匠を手に入れる為には組織がどうしても必要だと思うのです。
師匠と自分だけという極小な組織もあると思います。師匠も組織の中の個人であり、自分もそうである。その関係性を推進していく場が組織となる。
組織には目的がありますが、個人は常に人格全体で勝負している。「目的の事だけをやっていればよい」なんて事はむしろ、できないはず。それこそ公私混同であるべき…… 私はそう考えます。
(8)「日本人が」個人として自立するには
今回の問いである「日本人が個人として自立する為の方策」を、以上から考えてみます。
そうすると「日本人教からの脱却」をまず計るべきなのかもしれません。
グローバルと言う訳でもありません。日本人としての自信を捨てよというのでもありません。しかしそれらは基準にはならないはずなのです。歴史の長い日本と言えど「日本人は変化し続けている」からです。
上記の「自立」をした日本人が増えるのならば、日本は自ずと「地球での生き方」という基準を持てるようになると思います。人間的教育を深めているからです。
そうなれば、日本という国がすべき事が見えてくると思うのです。基準を元に、日本という国の環境を勘案できるようになるからです。それこそ日本が自由であると言えるのではないでしょうか。
その自由を手に入れた日本は、世界に対し躍動して大貢献できる国になっていると思います。
ですので、まずは私達個人から心を変化させていけば良いと私は思います。
少しまとめてみようと思います。
・自分とはこれまでのあらゆるモノの総合であり、これからも吸収変化し続けていく
・自分という不安定なものを人生の基準にしてはいけない
・人生の基準を探し、基準に自分を合わせていく挑戦を続ける
(自分を一旦抑える場面もありうる)
・人生の基準を一つでも見つければ、それは自由を一つ得た事になる
・「自立」とは上記の「自分教」を脱却した状態を言うのではないか
・間違った基準は非常に恐ろしいものである
・まずは素直な心で受け止め、自ら考え実践していく必要がある
・その時の指針として「人間的成長があるか」「人間を主としたものか」を参考とする
・教育では子供たちの可能性を信じぬき、真剣に向き合う必要がある
・大学等の教育で「師弟」のような関係性を重視する
(師匠は人生の基準となる)
・大学はこれまでの「知識偏重」「儲け主義」を反省し「人間性の練磨」を意識する
・「日本人教」を脱却する:自立した日本人が増えれば、日本が基準を手に入れられる
・結果として「自立した日本」になっていく
No20でyamanorisuさんが仰っている教育現場は私も心配になります。
子供たちの可能性を信じぬくという姿勢はとても大変なものだと思います。
教師はそれほど使命があり、難しく、心を使う仕事だと思うのです。
その教師がどれだけ「人生の基準」を獲得しているのか。大きな課題だと思います。
やはり私も、教育が「日本人の自立」を促す強力な一手であると思うのです。
私にも一応、基準があります。師匠と呼びたい方がいます。
一人になった時や「絶対にバレないような悪事が出来てしまう場面」になった時、その基準と師匠の事を考えるのです。その時、自分の中で大きな闘争が始まります。師匠だったらどうするか!?と。
結果として、誰が見ている訳でなくとも、私は悪事を働かずに済んだ場面があります。
そして職場で堂々としていられるようになりました。自分は間違う事はあっても、自分の心に負けることは無いのだ!と少しは思えるようになったからだと思います。
NO.252011-04-24 22:04:22 masami 0
自己について語る自己がない、個人という感覚がない状態って?という問いかけに対して、言及してくださった方々、ありがとうございます。
少しイメージが膨らみました。
組織や共同体にすっかり埋め込まれていることに違和感を感じず、十分に自分らしく生きていると感じるような状態かなぁ、と漠然と思いました。
No.22のお話、身体の感覚統合が困難な方のことかな、と思いながら読みました。興味深いですね。多くの人が自然に習得する身体の感覚。
たとえば、多くの人が、身体の感覚を統合することができなかったら、そういう人たちに都合のいいような社会システムが出来上がったのでしょうか?そして、知らず知らずのうちに、身体の感覚統合ができる人たちが特別な存在、生きにくい社会ができあがったのでしょうか?
同じように、明治維新前は、組織や共同体に埋め込まれていても特に違和感を感じずにいられた社会が出来上がっていたけれど、明治維新以降作り上げた社会は、一人一人に、物語る自己を持つことを要求する社会だった、とも考えられるのかなぁと思いました。
我ながらくどい考え方だと思うのですが、皆さんの投稿を読むことで、個人として強くなる、独立自尊の人、という言葉が示すイメージがやっと出来てきた段階に来られたように思います。
少しイメージが膨らみました。
組織や共同体にすっかり埋め込まれていることに違和感を感じず、十分に自分らしく生きていると感じるような状態かなぁ、と漠然と思いました。
No.22のお話、身体の感覚統合が困難な方のことかな、と思いながら読みました。興味深いですね。多くの人が自然に習得する身体の感覚。
たとえば、多くの人が、身体の感覚を統合することができなかったら、そういう人たちに都合のいいような社会システムが出来上がったのでしょうか?そして、知らず知らずのうちに、身体の感覚統合ができる人たちが特別な存在、生きにくい社会ができあがったのでしょうか?
同じように、明治維新前は、組織や共同体に埋め込まれていても特に違和感を感じずにいられた社会が出来上がっていたけれど、明治維新以降作り上げた社会は、一人一人に、物語る自己を持つことを要求する社会だった、とも考えられるのかなぁと思いました。
我ながらくどい考え方だと思うのですが、皆さんの投稿を読むことで、個人として強くなる、独立自尊の人、という言葉が示すイメージがやっと出来てきた段階に来られたように思います。
NO.242011-04-24 16:39:16 YOtomo 0
<No.22 Yamanorisuさんのご意見について>
ある行動を観察した結果、「自他」の区別がつかず、「自己」が認知できていないと診断される方々がいらっしゃると伺います。とすると、その方々にとっては、もしかしたら「自己」なる意識は存在していないのかも知れません。ただ、Yamanorisuさんがおっしゃるように、私には、その方々の感覚を想像することは難しいです・・・
「頭が真っ白になる」、ということが「脳の機能障害」というのであれば、その症状は私自身、感覚的に想像できます。
大昔、受験の本番。普段は簡単に読めるような国語の文章が読めない。「ウー」というサイレンとともに、心臓がバクバク鼓動しはじめ、まさに「頭が真っ白」。最初の一行を、何度も何度も、読み返しても、それらが、すんなり、頭に入ってこない。もちろん、その試験は、落ちました。こういったことが脳の機能障害と言われるものなのですね。
(ちなみに先の面接はそれでも採用してくださいました・・・)
一方、「自己とは何か、分からないから、教えて」とおっしゃる方に、それでは「あなたの全財産を私にください」、と申し上げますと、「・・・?」となるのではないでしょうか。
もし、そうならば、それは、「自己とは何か分からない」といいながらも、やっぱり「自己」を認知しているからとはいえませんでしょうか?これは「私」のもので「あなた」にはやるわけにはいかないと・・・。
とはいえ、
>「自己」って、なんなのでしょうか… ?
そうですね、何でしょうね?
ちなみに、辞書(広辞苑)の説明によりますと、・・・われ。おのれ。自分。その人自身。
ちょっと冷たいですよね・・・
さらに、「尊い」とか、「大切」・・・って、なんなのでしょう?
(お話の趣旨がずれていたり、間違っていたりしたらごめんなさい。)
<No.23 ko_bee_mana_booさんのご意見について>
僕は親になって数年たちますが、日々子に育てられております。
(よく言われる話ですが。)
オムツひとつ換えるのに、ギャーギャー泣かれ、ついつい「おい、動くな!」と一緒にギャーギャー騒いでおります。まさに「独立自尊」から、ほど遠い感じです。はい。
そんな中でも親としての生き様、ってあるのでしょうね。きっと。
ありがとうございました。
ある行動を観察した結果、「自他」の区別がつかず、「自己」が認知できていないと診断される方々がいらっしゃると伺います。とすると、その方々にとっては、もしかしたら「自己」なる意識は存在していないのかも知れません。ただ、Yamanorisuさんがおっしゃるように、私には、その方々の感覚を想像することは難しいです・・・
「頭が真っ白になる」、ということが「脳の機能障害」というのであれば、その症状は私自身、感覚的に想像できます。
大昔、受験の本番。普段は簡単に読めるような国語の文章が読めない。「ウー」というサイレンとともに、心臓がバクバク鼓動しはじめ、まさに「頭が真っ白」。最初の一行を、何度も何度も、読み返しても、それらが、すんなり、頭に入ってこない。もちろん、その試験は、落ちました。こういったことが脳の機能障害と言われるものなのですね。
(ちなみに先の面接はそれでも採用してくださいました・・・)
一方、「自己とは何か、分からないから、教えて」とおっしゃる方に、それでは「あなたの全財産を私にください」、と申し上げますと、「・・・?」となるのではないでしょうか。
もし、そうならば、それは、「自己とは何か分からない」といいながらも、やっぱり「自己」を認知しているからとはいえませんでしょうか?これは「私」のもので「あなた」にはやるわけにはいかないと・・・。
とはいえ、
>「自己」って、なんなのでしょうか… ?
そうですね、何でしょうね?
ちなみに、辞書(広辞苑)の説明によりますと、・・・われ。おのれ。自分。その人自身。
ちょっと冷たいですよね・・・
さらに、「尊い」とか、「大切」・・・って、なんなのでしょう?
(お話の趣旨がずれていたり、間違っていたりしたらごめんなさい。)
<No.23 ko_bee_mana_booさんのご意見について>
僕は親になって数年たちますが、日々子に育てられております。
(よく言われる話ですが。)
オムツひとつ換えるのに、ギャーギャー泣かれ、ついつい「おい、動くな!」と一緒にギャーギャー騒いでおります。まさに「独立自尊」から、ほど遠い感じです。はい。
そんな中でも親としての生き様、ってあるのでしょうね。きっと。
ありがとうございました。
NO.232011-04-24 11:14:00 ko_bee_mana_boo 0
No.14の投稿にて「「日本人が個人として自立する」ためには、未来を見つめる視点が必要なのでは?」と自分の考えを書きました。
「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか?」という問いについてもその後色々と思考をめぐらせました。
それでもやはり、僕には「未来を見つめること」が大切だと思います。それは今いる自分の周りのものを思いやり、自分が住む世界のことだけを考えるのではなく、次の世代、次の次の世代のことまで思いやり、考えることではないでしょうか?
「親が、大人が導くものではないか?」とのご意見もありました。
確かにそういう側面はあると思います。導くことのできる親、大人も多数おられると思います。
でも、マジョリティとしての親が、大人が、独立自尊を教えることができるほどに自立しているとは残念ながら思えません。
そのような風土があったのであれば、親の世代、大人の世代が今のような政治を許していたはずがないと思います。
「最近の若いもの」を育ててきたのは、今の親であり、大人なのです。
僕も今は人の親ですが、人の親となることで、自分が成長するということを実感できる局面が多々ありました。それでも、まだ自分の身近なものにしか「思いやり」の目を向けることはなかなかできません。それを更に先に目を向けることで、良い方向に自立できることを、僕は期待しています。
自分が親になってみて、「親ってすごかったんだ」と同時に「親だってそんなに偉くないんだ」という思いが局面局面で交錯しました。
未来の人々にとっては、今生きている全ての人が「親」ではありませんか?
「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか?」という問いについてもその後色々と思考をめぐらせました。
それでもやはり、僕には「未来を見つめること」が大切だと思います。それは今いる自分の周りのものを思いやり、自分が住む世界のことだけを考えるのではなく、次の世代、次の次の世代のことまで思いやり、考えることではないでしょうか?
「親が、大人が導くものではないか?」とのご意見もありました。
確かにそういう側面はあると思います。導くことのできる親、大人も多数おられると思います。
でも、マジョリティとしての親が、大人が、独立自尊を教えることができるほどに自立しているとは残念ながら思えません。
そのような風土があったのであれば、親の世代、大人の世代が今のような政治を許していたはずがないと思います。
「最近の若いもの」を育ててきたのは、今の親であり、大人なのです。
僕も今は人の親ですが、人の親となることで、自分が成長するということを実感できる局面が多々ありました。それでも、まだ自分の身近なものにしか「思いやり」の目を向けることはなかなかできません。それを更に先に目を向けることで、良い方向に自立できることを、僕は期待しています。
自分が親になってみて、「親ってすごかったんだ」と同時に「親だってそんなに偉くないんだ」という思いが局面局面で交錯しました。
未来の人々にとっては、今生きている全ての人が「親」ではありませんか?
NO.222011-04-24 09:43:18 yamanorisu 0
今の次の一瞬を自分ではどう行動すればいいか考えられない人がいます。
その瞬間、まさに頭が真っ白…ブラックホールに吸い込まれるよう…だと表現する人もいます。
布団に入り、朝目覚めたとき、自分の身体をマニュアルでないと感じられない、動かせない人がいます。
こたつに入ると、足が無くなってしまう気がする人がいます。
昨日の自分と、今日の自分が、本当に同じひとりの人間なのか、確信を持てない人がいます。
脳の機能障害によるものだそうです。
それでも、その人たちは、この社会で生きています。
私(たち)には、想像することの難しい感覚の中で。
それでも、その人たちの「自己」は、あるのですよね。
環境、社会などとは関係なく、「自分」というものを認識は、人それぞれ。
「自己」って、なんなのでしょうか…?
その瞬間、まさに頭が真っ白…ブラックホールに吸い込まれるよう…だと表現する人もいます。
布団に入り、朝目覚めたとき、自分の身体をマニュアルでないと感じられない、動かせない人がいます。
こたつに入ると、足が無くなってしまう気がする人がいます。
昨日の自分と、今日の自分が、本当に同じひとりの人間なのか、確信を持てない人がいます。
脳の機能障害によるものだそうです。
それでも、その人たちは、この社会で生きています。
私(たち)には、想像することの難しい感覚の中で。
それでも、その人たちの「自己」は、あるのですよね。
環境、社会などとは関係なく、「自分」というものを認識は、人それぞれ。
「自己」って、なんなのでしょうか…?
NO.212011-04-24 08:46:02 YOtomo 0
<No.18 masami さんのご意見について>
> 自己について語る自己がない状態を、想像するのはとても難しい…、と感じました。
おっしゃるとおりだと思います。「自己」について自身の言葉で語っているのだから、「自己」がない状態で語るなんて言ってみても、何だかよく理解できませんよね。
> 個人という感覚がない状態を想像できますか?
懸命に、何かに取り組んでいる時はいかがでしょう。
ゴールを目指して、ひたすら駆けるような。
例えば、
・小さな子供が、前を歩く母親の背中を、ひたすら追っている。
・大切に思う人に、その思いを伝えようと、ひたすら手紙をしたためる。
(大昔、撃沈しました。内容はともかく・・・)
・ある分野について、より知識を蓄えようと、関連書籍を大量に読み漁る。
・取引先に自ら開発した商品のPRをするために、プレゼンテーション資料を作る。
・採用面接などで、無我夢中に、自己PRをする。
(昔、面接官の前で、頭が真っ白になり、声が上ずってしまったことがありました)
などなど。
先にいろいろと書き込みましたが、正直な話、私自身、ずっと夢中になっていられているわけではないです。気づけば、「自己」(あるいは、「公」や「私」)って意識されてしまいます。
例えば、このBBSに書き込むべき内容とか・・・、どこまで書いていいのだろうかって。
でも最後は、私なりに「公私混同」を極めて、「ぽちっ」て投稿してしまうのです・・・ありがとうございました。
それでは、ぽちっ!
> 自己について語る自己がない状態を、想像するのはとても難しい…、と感じました。
おっしゃるとおりだと思います。「自己」について自身の言葉で語っているのだから、「自己」がない状態で語るなんて言ってみても、何だかよく理解できませんよね。
> 個人という感覚がない状態を想像できますか?
懸命に、何かに取り組んでいる時はいかがでしょう。
ゴールを目指して、ひたすら駆けるような。
例えば、
・小さな子供が、前を歩く母親の背中を、ひたすら追っている。
・大切に思う人に、その思いを伝えようと、ひたすら手紙をしたためる。
(大昔、撃沈しました。内容はともかく・・・)
・ある分野について、より知識を蓄えようと、関連書籍を大量に読み漁る。
・取引先に自ら開発した商品のPRをするために、プレゼンテーション資料を作る。
・採用面接などで、無我夢中に、自己PRをする。
(昔、面接官の前で、頭が真っ白になり、声が上ずってしまったことがありました)
などなど。
先にいろいろと書き込みましたが、正直な話、私自身、ずっと夢中になっていられているわけではないです。気づけば、「自己」(あるいは、「公」や「私」)って意識されてしまいます。
例えば、このBBSに書き込むべき内容とか・・・、どこまで書いていいのだろうかって。
でも最後は、私なりに「公私混同」を極めて、「ぽちっ」て投稿してしまうのです・・・ありがとうございました。
それでは、ぽちっ!
NO.202011-04-23 23:04:17 yamanorisu 0
今回は、おばさんの心配する幕ではなかったので(笑)、のんびり構えておりました。
が、あまりのんびりしていて、次のお題になってしまってもいけないので、参加させていただきます。
今回も、一児の母であり、女性であり、後進の育成が役割になってきている立場から、書かせていただこうと思います。
日本人として…という議論について。
私は、海外へ行ってみた経験が2回しかなく、生活をしたことはありません。でも、仕事柄海外の知識や情報やスキルを学ぶ機会があります。
そこで感じるのは、まず、自分の国を大事に考えていること、それから、先端の知識も技術もスキルも必ず歴史や基礎的なものの上にあり、それをとても大事にしているということ。いいものはなんでも取り入れればいい、今までの自分が足りなかったり間違っていたら、修正すればいいじゃないかというしなやかさ。そして、失敗も成功もおおらかに前向きに受け止め、いつも前にむかって進んでいこうという姿勢。誰もが、いいものをつくりだしていこうと自由闊達に意見をぶつけ合っていること。などなどです。
一方、娘が小学生になり、現在の義務教育・学校教育というものに久しぶりに直接ふれるようになり、感じていることは…。
自分の住む場所や日本という国を大事に感じられるように…という意図で組まれたカリキュラムでさえ、用意された「ここはいいところなんだ」という答えにむかって教え込まれるだけで、いいところも悪いところもある、自分でもいいと思うところ、嫌だなとおもうところがある、それはどうしてなんだろう?というような議論や思考を経ることはないように感じます。
それ以外でも(例えば「道徳」の授業でさえ)、常に(教えるべき)正解があり、そこに向けて迷うことなく進んでいくことをよしとする価値観が強いのではないでしょうか。結果として、子どもたちの中に、今ここで得る答えさえわかればいい、という気持ちがどんどん大きくなっているように感じます。
プロセスを大事にしないということは、基礎や歴史を大事にできないというところにつながりかねないのでは…、物事には必ず正解があり、間違いや変化、人と違うこと(違う意見を持つこと)は良くないものと思いこんでしまうのでは…、と心配しています。
授業中に子どもたちが思ったこと気づいたこと感じたことを口々に話し始めると、「静かに」と言われてしまうのは、娘の学級だけでしょうか?
進むべき道をじゃまする意見は、先生の「今は関係ありません」「それは違います」の一言で片づけられてしまっていいのでしょうか?
そのような環境の中で、「自立自尊」は育つのでしょうか?
自分という存在を、長い歴史の中のかけがえのない一瞬としてとらえ、自分に自信を持ち、自分を大好きになり、しなやかにタフに生きていくことができるようになるのでしょうか?
私は、「自立自尊」は勝手に育つものではなく、親が大人が教え導いていくものだと思っています。
No.18 masamiさんの投稿にある「「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない」というのは、組織や体制によって強制された自己しかもてない時代・社会があるということではないでしょうか?親が、大人が、社会が、自立自尊の自己を認めない…。それは、過去の遺物のようでありながら、今この日本にある現実ではないかと思ったりもします。
「最近の若い者は」は、いつの時代も「おばさん、おじさん」の愚痴。
でも、あえて、「今の若い者は」、自分で自分をほめられない、議論もコミュニケーションも苦手、「どうすればうまくいくか、どうすればいい方向へ進むか」を考えられない、プロセスを面倒くさがる、遊び心がない、失敗をおそれる、人にどう思われるかを気にして躊躇する…人が多いなぁ…と感じるのは…今の日本の教育のせいではなく、私がおばさんになったから、でしょうか…?
がむしゃらになる、失敗して悔しがる、感動して泣く、成功して…泣く、そんな心の動きを、本当は求めているはずなのに、抑え込んでいないでしょうか?
「何か」(例えば今回のような大震災)があると、若い人たちの一生懸命な行動がたくさんニュースになります。なぜ、普段からそれができないのでしょうか…?
人のため、日本のため、自分のために、やれること、やるべきことは、日常のあちこちにあるはずなのに…。
あぁ。やはり、おばさんの愚痴でしかないのでしょうか。
長くなってすみません。
が、あまりのんびりしていて、次のお題になってしまってもいけないので、参加させていただきます。
今回も、一児の母であり、女性であり、後進の育成が役割になってきている立場から、書かせていただこうと思います。
日本人として…という議論について。
私は、海外へ行ってみた経験が2回しかなく、生活をしたことはありません。でも、仕事柄海外の知識や情報やスキルを学ぶ機会があります。
そこで感じるのは、まず、自分の国を大事に考えていること、それから、先端の知識も技術もスキルも必ず歴史や基礎的なものの上にあり、それをとても大事にしているということ。いいものはなんでも取り入れればいい、今までの自分が足りなかったり間違っていたら、修正すればいいじゃないかというしなやかさ。そして、失敗も成功もおおらかに前向きに受け止め、いつも前にむかって進んでいこうという姿勢。誰もが、いいものをつくりだしていこうと自由闊達に意見をぶつけ合っていること。などなどです。
一方、娘が小学生になり、現在の義務教育・学校教育というものに久しぶりに直接ふれるようになり、感じていることは…。
自分の住む場所や日本という国を大事に感じられるように…という意図で組まれたカリキュラムでさえ、用意された「ここはいいところなんだ」という答えにむかって教え込まれるだけで、いいところも悪いところもある、自分でもいいと思うところ、嫌だなとおもうところがある、それはどうしてなんだろう?というような議論や思考を経ることはないように感じます。
それ以外でも(例えば「道徳」の授業でさえ)、常に(教えるべき)正解があり、そこに向けて迷うことなく進んでいくことをよしとする価値観が強いのではないでしょうか。結果として、子どもたちの中に、今ここで得る答えさえわかればいい、という気持ちがどんどん大きくなっているように感じます。
プロセスを大事にしないということは、基礎や歴史を大事にできないというところにつながりかねないのでは…、物事には必ず正解があり、間違いや変化、人と違うこと(違う意見を持つこと)は良くないものと思いこんでしまうのでは…、と心配しています。
授業中に子どもたちが思ったこと気づいたこと感じたことを口々に話し始めると、「静かに」と言われてしまうのは、娘の学級だけでしょうか?
進むべき道をじゃまする意見は、先生の「今は関係ありません」「それは違います」の一言で片づけられてしまっていいのでしょうか?
そのような環境の中で、「自立自尊」は育つのでしょうか?
自分という存在を、長い歴史の中のかけがえのない一瞬としてとらえ、自分に自信を持ち、自分を大好きになり、しなやかにタフに生きていくことができるようになるのでしょうか?
私は、「自立自尊」は勝手に育つものではなく、親が大人が教え導いていくものだと思っています。
No.18 masamiさんの投稿にある「「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない」というのは、組織や体制によって強制された自己しかもてない時代・社会があるということではないでしょうか?親が、大人が、社会が、自立自尊の自己を認めない…。それは、過去の遺物のようでありながら、今この日本にある現実ではないかと思ったりもします。
「最近の若い者は」は、いつの時代も「おばさん、おじさん」の愚痴。
でも、あえて、「今の若い者は」、自分で自分をほめられない、議論もコミュニケーションも苦手、「どうすればうまくいくか、どうすればいい方向へ進むか」を考えられない、プロセスを面倒くさがる、遊び心がない、失敗をおそれる、人にどう思われるかを気にして躊躇する…人が多いなぁ…と感じるのは…今の日本の教育のせいではなく、私がおばさんになったから、でしょうか…?
がむしゃらになる、失敗して悔しがる、感動して泣く、成功して…泣く、そんな心の動きを、本当は求めているはずなのに、抑え込んでいないでしょうか?
「何か」(例えば今回のような大震災)があると、若い人たちの一生懸命な行動がたくさんニュースになります。なぜ、普段からそれができないのでしょうか…?
人のため、日本のため、自分のために、やれること、やるべきことは、日常のあちこちにあるはずなのに…。
あぁ。やはり、おばさんの愚痴でしかないのでしょうか。
長くなってすみません。
NO.192011-04-23 18:56:43 acoyacoya 0
もし、「個人としてもっと強くなれ!」と求められたら・・・。
私はどうする?と考えてみました。
もっと具体的に、明日から日本が「責任は全て自分でとってね、会社からも地域からも守られていると思わないで。
寄りかかっても、誰も支えてくれませんからね。」という体制になったら・・・。
月曜日、会社に行くか行かないかも自分次第。行ったからといって、いつものように上司からの指示もなく、自分で仕事を探さなければいけない。
そもそも、会社へ行くことが普通でも安定でもなくて、他にもいっぱい生きていく選択肢がある。と気付く。
やばい、稼がないと。食べていかないと!生きていかないと!
そしたら、今の自分に何ができる?
自分の身で、どうやって稼いでいくのか。仲間を集めるか。培ったスキルで新しいことを始めるか。
死活問題として、自己と対面しなくてはいけない。
こういう状況を考えると、今までなんて気楽に生きてきたのだろうと思います。
日本はなんて気楽に生きていける環境だったんだろう。安心、安全、平和。素晴らしい環境だった。
無くなってこそ思う素晴らしさに、また気付くのだろう。
でも安定の中に、自己が埋没していたのではないか?安心、安全、平和に本当の幸福感があったのか?
もっと先にはそう思い始めるかもしれません。
上記は極端だとは思いますが、答えが見えない今の日本、本当に自己が強くならないと生きていけないかも。
そうならざるを得ないのだったら、誰がそれを宣言するのかでモジモジしているのが現況かもしれない。
みんながそれに気付いて自発的に行動できたら宣言なんて必要ないですし、私は言われなくても勝手に強くなっていこうと思います。
私はどうする?と考えてみました。
もっと具体的に、明日から日本が「責任は全て自分でとってね、会社からも地域からも守られていると思わないで。
寄りかかっても、誰も支えてくれませんからね。」という体制になったら・・・。
月曜日、会社に行くか行かないかも自分次第。行ったからといって、いつものように上司からの指示もなく、自分で仕事を探さなければいけない。
そもそも、会社へ行くことが普通でも安定でもなくて、他にもいっぱい生きていく選択肢がある。と気付く。
やばい、稼がないと。食べていかないと!生きていかないと!
そしたら、今の自分に何ができる?
自分の身で、どうやって稼いでいくのか。仲間を集めるか。培ったスキルで新しいことを始めるか。
死活問題として、自己と対面しなくてはいけない。
こういう状況を考えると、今までなんて気楽に生きてきたのだろうと思います。
日本はなんて気楽に生きていける環境だったんだろう。安心、安全、平和。素晴らしい環境だった。
無くなってこそ思う素晴らしさに、また気付くのだろう。
でも安定の中に、自己が埋没していたのではないか?安心、安全、平和に本当の幸福感があったのか?
もっと先にはそう思い始めるかもしれません。
上記は極端だとは思いますが、答えが見えない今の日本、本当に自己が強くならないと生きていけないかも。
そうならざるを得ないのだったら、誰がそれを宣言するのかでモジモジしているのが現況かもしれない。
みんながそれに気付いて自発的に行動できたら宣言なんて必要ないですし、私は言われなくても勝手に強くなっていこうと思います。
NO.182011-04-23 16:02:13 masami 0
少し抽象的ですが、投稿を読んでいて思い出したので、書いてみます。
『人生を物語る』という本に、自伝について書いてありました。日本最初の自伝は、『福翁自伝』と言われることがあるが、それより以前、内村鑑三によって、英語で書かれた自伝が最初である、ということでした。
「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない、と書かれていました。
この文章は私にとって、大きな驚きでした。自己について語る自己がない状態を、想像するのはとても難しい…、と感じました。
今回のテーマ提起の文章から(福沢諭吉の時代から思い起こした点などより)、このテーマの中の個人は、この本の中の自己と近いのではないかな?と感じたので、個人という感覚を持たないで、存在することを想像してみました。
「自分の母親」「自分のもの」という具体的に何かを個人のものとする所有する感覚は、江戸時代にもあったかな、と思います。
それでは、個人という感覚がないとできないことはあるだろうか?
思想や概念、方針など、目に見えないものに対して、どのような態度をとるか決めることは、個人という感覚がないと難しいかな、と思いました。
だから、組織と個人、というテーマから、独立自尊、個人の強さというテーマに続いたのだな、と納得しました。
ということで、投げかけられた意図をやっと理解できた段階です。
抽象的ですが、皆さんは、個人という感覚がない状態を想像できますか?
『人生を物語る』という本に、自伝について書いてありました。日本最初の自伝は、『福翁自伝』と言われることがあるが、それより以前、内村鑑三によって、英語で書かれた自伝が最初である、ということでした。
「自己について語る自己」「自己によって語られる自己」はいつの時代にもどのような社会にも、普遍的に存在するというのではない、と書かれていました。
この文章は私にとって、大きな驚きでした。自己について語る自己がない状態を、想像するのはとても難しい…、と感じました。
今回のテーマ提起の文章から(福沢諭吉の時代から思い起こした点などより)、このテーマの中の個人は、この本の中の自己と近いのではないかな?と感じたので、個人という感覚を持たないで、存在することを想像してみました。
「自分の母親」「自分のもの」という具体的に何かを個人のものとする所有する感覚は、江戸時代にもあったかな、と思います。
それでは、個人という感覚がないとできないことはあるだろうか?
思想や概念、方針など、目に見えないものに対して、どのような態度をとるか決めることは、個人という感覚がないと難しいかな、と思いました。
だから、組織と個人、というテーマから、独立自尊、個人の強さというテーマに続いたのだな、と納得しました。
ということで、投げかけられた意図をやっと理解できた段階です。
抽象的ですが、皆さんは、個人という感覚がない状態を想像できますか?
NO.172011-04-23 08:33:17 YOtomo 0
「独立自尊」に関して補足いたしますが、それは決して「利己的」になる、ということではないと思います。自分は誰にも「心的に支配されない」のだから、同時に「誰かを心的に支配する」ということもないといった、「お互いの立場を尊重する」という精神が含まれていると思います。きっと皆様がおっしゃられているような「多様性を許容する」ということが、そのことにあたるのかなぁ、なんて感じております。そんな教育もきっと大切ですよね。
また、「私」が、誰かに「心的に支援を求めない」からといって、困っている人を見て、「物的にも心的にも支援しない」ということではない、と思っております。「支援したい」という心底湧き出てきた気持ちで支援することはあっても、その見返りを求めない、ということなのだと感じております。いわゆる、「自利」を意図した“give and take”とは異なるものかと思います。
Ko_bee_mana_boo さんの“未来を見つめる視点”って本当に大切だと感じます。私自身は、気づけば、足もとばかり見ております・・・過去から未来への流れの中に身をおいているという意識がどうも薄くなってしまいがちです。
また、「私」が、誰かに「心的に支援を求めない」からといって、困っている人を見て、「物的にも心的にも支援しない」ということではない、と思っております。「支援したい」という心底湧き出てきた気持ちで支援することはあっても、その見返りを求めない、ということなのだと感じております。いわゆる、「自利」を意図した“give and take”とは異なるものかと思います。
Ko_bee_mana_boo さんの“未来を見つめる視点”って本当に大切だと感じます。私自身は、気づけば、足もとばかり見ております・・・過去から未来への流れの中に身をおいているという意識がどうも薄くなってしまいがちです。
NO.162011-04-23 03:12:23 ts0822 0
NO.14のko_bee_mana_booさんがおっしゃる、
>自分やその身近な周りの事、自分が生きる世代のことだけを考えて自立しようとすると、”自立[independence]”ではなく”利己的[selfish]”になるのではないか
ということ、とても同意します。
利己的なものを超える価値観、
それを探す事が、結局は自立につながるように私も思います。
何の為に自分の生を使うのか、という事を自分で意識できる事が自立の精神的側面の一つの要素だと思うからです。
>自分やその身近な周りの事、自分が生きる世代のことだけを考えて自立しようとすると、”自立[independence]”ではなく”利己的[selfish]”になるのではないか
ということ、とても同意します。
利己的なものを超える価値観、
それを探す事が、結局は自立につながるように私も思います。
何の為に自分の生を使うのか、という事を自分で意識できる事が自立の精神的側面の一つの要素だと思うからです。
NO.152011-04-23 00:48:26 orcamie 0
「日本人が個人として自立する」ためには、私は目的をもったバランスや流動性が大切のような気がしてきました。だからといって日和見主義的な意味ではなくて。
1の組織と個人のあるべき関係では、双方向に多様性や寛容性を許容できるような関係が重要だとすれば、個人として自立するために、未来へ向かって自分の信念を貫こうとすると、多様性と相反することになってしまうのではないかと思います。
視野を広く、相反するいろいろな要素のバランスの上に自立する自分の立ち位置を常に考えながら生きていく、弥次郎兵衛のような存在かな。
1の組織と個人のあるべき関係では、双方向に多様性や寛容性を許容できるような関係が重要だとすれば、個人として自立するために、未来へ向かって自分の信念を貫こうとすると、多様性と相反することになってしまうのではないかと思います。
視野を広く、相反するいろいろな要素のバランスの上に自立する自分の立ち位置を常に考えながら生きていく、弥次郎兵衛のような存在かな。
NO.142011-04-22 13:33:03 ko_bee_mana_boo 0
「日本人が個人として自立する」ためには、未来を見つめる視点が必要なのではないでしょうか?
自分やその身近な周りの事、自分が生きる世代のことだけを考えて自立しようとすると、”自立[independence]”ではなく”利己的[selfish]”になるのではないかと思います。
「教育」にはこれまでに日本人が歩んできた歴史・慣習・文化などが反映されるように思います。勿論過去にも現在にも個人として自立している日本人は数多くいると思います。ただ個人として自立することは、教えて身に付くものではないように思います。教えて身に付くものなのであれば、既に日本人は自立した国民性を有す事ができていると思います。現実には「自立」の概念が根付いていないと言っていいと思います。
「個人として自立する」にせよ、周りを無視しては生きて行く事はできません。また、今を生きている自分たちの世代の事だけではなく、次の世代、その次の世代が暮らす日本のことを個人個人が考えながら日々の生活を営み、友人や同僚や家族と接する事が自然とできるような世の中になれば、太い幹となって自立という概念が根付くのではないかと思います。
その為には、「日本とはどういう国なのか?」「他の国と何が違うのか?」を知る必要があり、「日本にとっての豊かさ・幸せ」を再定義する必要があると考えます。
自分やその身近な周りの事、自分が生きる世代のことだけを考えて自立しようとすると、”自立[independence]”ではなく”利己的[selfish]”になるのではないかと思います。
「教育」にはこれまでに日本人が歩んできた歴史・慣習・文化などが反映されるように思います。勿論過去にも現在にも個人として自立している日本人は数多くいると思います。ただ個人として自立することは、教えて身に付くものではないように思います。教えて身に付くものなのであれば、既に日本人は自立した国民性を有す事ができていると思います。現実には「自立」の概念が根付いていないと言っていいと思います。
「個人として自立する」にせよ、周りを無視しては生きて行く事はできません。また、今を生きている自分たちの世代の事だけではなく、次の世代、その次の世代が暮らす日本のことを個人個人が考えながら日々の生活を営み、友人や同僚や家族と接する事が自然とできるような世の中になれば、太い幹となって自立という概念が根付くのではないかと思います。
その為には、「日本とはどういう国なのか?」「他の国と何が違うのか?」を知る必要があり、「日本にとっての豊かさ・幸せ」を再定義する必要があると考えます。
NO.132011-04-22 02:37:51 ts0822 0
私は右翼的な事が大嫌いですが、
「日本人」がという事から考えることをしないと、
本当の意味で独立にも自尊にもならないんじゃないかと思います。
日本の生活や文化の中に、日本なりの「個人として強くある感覚」というもののヒントなどがあると思います。
それは、欧米的な自主独立とはまた違うものかもしれませんが、当然だと思います。
人の生き方、文化や生活は、本当に些細な所や言葉に出来ない感覚の領域まで、頭で捉えきる事が出来ないほど、有機的に関わり合って成り立っていると思います。
自分たちの体や歴史や風土としっかり結びつくことが出来ない部分的な成長では、本質的な、能動的で有機的な変化が続かない様な気がするのです。
大切なのは、振り返る時の「視点」かもしれない気がします。
今はまだ、お題に対しての返答を全部書ききれませんが、
日本人という事を考える事も重要なんじゃないか、というオブジェクションをしたかったので取り急ぎ書き込みさせて頂きました。
「日本人」がという事から考えることをしないと、
本当の意味で独立にも自尊にもならないんじゃないかと思います。
日本の生活や文化の中に、日本なりの「個人として強くある感覚」というもののヒントなどがあると思います。
それは、欧米的な自主独立とはまた違うものかもしれませんが、当然だと思います。
人の生き方、文化や生活は、本当に些細な所や言葉に出来ない感覚の領域まで、頭で捉えきる事が出来ないほど、有機的に関わり合って成り立っていると思います。
自分たちの体や歴史や風土としっかり結びつくことが出来ない部分的な成長では、本質的な、能動的で有機的な変化が続かない様な気がするのです。
大切なのは、振り返る時の「視点」かもしれない気がします。
今はまだ、お題に対しての返答を全部書ききれませんが、
日本人という事を考える事も重要なんじゃないか、というオブジェクションをしたかったので取り急ぎ書き込みさせて頂きました。
NO.122011-04-21 02:22:58 LAMPRIGERA 0
漠然とした印象ですが、投稿(No.10)を読ませていただいて、アメリカの学校では、なにか、風が吹き抜けていくというか、流動的な雰囲気があるように感じました。空間が閉じていないという印象を受けます。世界に対して開いているといったら言い過ぎかもしれませんが。
それに対して、日本の学校は、僕の感覚では、かなり閉鎖的で、その中にいる当事者としては、それ以外の世界がないかのように錯覚してしまうほどです。
特定の場所が全てであるような感覚を持つことは、自分で考えて思い切った行動をとることを阻んでしまう可能性があると思います。今いる場所で失敗したら後がないように考えてしまい、リスクがとりづらい。国の違いにより、同じ芽でも育ちやすさが違うのかもしれませんね。
次の投稿(No.11)では、より根本的なアメリカと日本の違いについて考えさせらました。
ただ、僕は、本質的には(抽象的ですが、個性のさらに根元では)人間は同じものであると考えています。それで、最後の部分に関しては、アメリカでは表面的な違いを突破して、より深いレベルで共感することが重視されているのに比べ、日本では表面的な違いが違いのまま終わってしまう傾向があるのだと解釈しました。裏を返せば、日本は表面的な均一さが過度に重視される国柄であるのかもしれない。
まだ消化不良なので、この問題に関してはもう少し考えて、できれば後日投稿したいと思います。
ところで、急に「日本人」ということで話をふってしまったために、せっかく書き溜めていた原稿があったのに投稿しづらくなってしまった方がいるかもしれませんね。もう少し煮詰まってから話を出すべきだったかもしれません。その点、少し反省しています。必ずしも「日本人」に触れていなくてもいいと思います。あたらしい投稿は、あたらしい観点から、「日本人」という特殊性を考えさせてくれると思います。それで話をより深めていくことができると思います。
それに対して、日本の学校は、僕の感覚では、かなり閉鎖的で、その中にいる当事者としては、それ以外の世界がないかのように錯覚してしまうほどです。
特定の場所が全てであるような感覚を持つことは、自分で考えて思い切った行動をとることを阻んでしまう可能性があると思います。今いる場所で失敗したら後がないように考えてしまい、リスクがとりづらい。国の違いにより、同じ芽でも育ちやすさが違うのかもしれませんね。
次の投稿(No.11)では、より根本的なアメリカと日本の違いについて考えさせらました。
ただ、僕は、本質的には(抽象的ですが、個性のさらに根元では)人間は同じものであると考えています。それで、最後の部分に関しては、アメリカでは表面的な違いを突破して、より深いレベルで共感することが重視されているのに比べ、日本では表面的な違いが違いのまま終わってしまう傾向があるのだと解釈しました。裏を返せば、日本は表面的な均一さが過度に重視される国柄であるのかもしれない。
まだ消化不良なので、この問題に関してはもう少し考えて、できれば後日投稿したいと思います。
ところで、急に「日本人」ということで話をふってしまったために、せっかく書き溜めていた原稿があったのに投稿しづらくなってしまった方がいるかもしれませんね。もう少し煮詰まってから話を出すべきだったかもしれません。その点、少し反省しています。必ずしも「日本人」に触れていなくてもいいと思います。あたらしい投稿は、あたらしい観点から、「日本人」という特殊性を考えさせてくれると思います。それで話をより深めていくことができると思います。
NO.112011-04-20 23:05:51 orcamie 0
日本人が個人として自立するのに教育が重要といいましたが 実は私は公共の教育に余り期待していません。教育の現場でも専門性が軽視される傾向があるからです。日本の他のシステム、官庁や会社等と同じように 思い切った改革がすぐにできるとは思えないのです。長期的に変革を目指すとしても短期的には、斬新な民間の教育がどんどんできるといいなと思います。
わたしも疑問に思っていたのですが、1の組織と個人のあるべき関係を考える上で、皆さんはその背景にどのくらい日本の外を意識したのでしょうか。
NO.9 LAMPRIGERAさんの <テーマの「日本人」という部分は本質的な要素ではないように思える>とありその点についてですが、私は実はここでは「日本人」というのは本質的要素であると考えています。日本人であるためには日本人としての個人を自立させなければ意味がないと思うのです。それは、もちろん愛国主義的な意味ではありません。
日本の教育というのは、まず、皆が日本人だという前提の元に指導要綱が決められているような気がします。ですから、ブラジルやフィリピン等の児童が増えて学校に来る場合はそのためにいろいろと不便が生じるので、違う指導要綱が必要になります。
でも、アメリカは「みんな違う」が前提です。その違う中から共通を見つけることになるんだと思います。だから英語が話せない児童が学校に来てもすぐ対応できるのです。
続けての投稿ですが、皆さんの意見とても楽しみです。
わたしも疑問に思っていたのですが、1の組織と個人のあるべき関係を考える上で、皆さんはその背景にどのくらい日本の外を意識したのでしょうか。
NO.9 LAMPRIGERAさんの <テーマの「日本人」という部分は本質的な要素ではないように思える>とありその点についてですが、私は実はここでは「日本人」というのは本質的要素であると考えています。日本人であるためには日本人としての個人を自立させなければ意味がないと思うのです。それは、もちろん愛国主義的な意味ではありません。
日本の教育というのは、まず、皆が日本人だという前提の元に指導要綱が決められているような気がします。ですから、ブラジルやフィリピン等の児童が増えて学校に来る場合はそのためにいろいろと不便が生じるので、違う指導要綱が必要になります。
でも、アメリカは「みんな違う」が前提です。その違う中から共通を見つけることになるんだと思います。だから英語が話せない児童が学校に来てもすぐ対応できるのです。
続けての投稿ですが、皆さんの意見とても楽しみです。
NO.102011-04-20 22:44:38 orcamie 0
こんばんは。LAMPRIGERAさんのように、 私も実は投稿した後に同じように感じますが<自分で書いた投稿が1時間以上経過すると直視できなくなってしまう・・・>ここ夜間飛行ではあえてそういう思いを捨てようと思っています。恥ずかしいと思う自分の書いた物を直視しようと。そしてこれも自分を確立することの一つかなと思ってます。
私が過ごしたアメリカの1年はたった一つの高校に1年いただけなので、それがアメリカ全ての高校の教育についてカバーするわけではないと思います。そのことを考慮に入れてください。
その高校は、規模が大きく、同じ敷地内に幼稚園からcollegeまでありました。すべて公立です。
1.高校の授業は日本の単位制に近いシステムで、1年(freshman)から4年(senior)までの標準クラスの他に特別クラスがあり、成績優秀者が学年に関係なくそのクラスに行けました。もちろん飛び級もありです。ですからホームルームクラスは同じでも、履修科目が違います。
2. 必修科目の他は自分の学年で履修可能な科目から選択。私の必修は 『History』『Urban Problem』と『Senior English』でした。歴史はもちろんアメリカの歴史です。後者はアメリカの現代社会の問題を扱った内容でした。正規の学生は必修科目はもっと多かったはずです。
3.授業での日本との違いは、正解よりもそこに辿り着く過程を重要視していたと思います。正解は自分で解答をみるとわかるからだと。
4.同じ敷地内に幼稚園もあるために、教師を目指す高校生がアルバイトで幼稚園や小学校にアシスタントとして働いていました。わたしも友人が働く小学校のクラスに、お手伝いと日本の折り紙を紹介するために何度か足を運びました。
5.授業内容は 日本の高校の授業に近いのは理科かな。教科書はすべて無償で学校の図書館より借りてきます。『English』の教科書は毎月または2ヶ月おき位に先生に言われて違う本を図書館に借りにいきました。クラスが違うと読む本が違うということです。これは他の科目でも、先生によって同じ科目でも教科書が違うかもしれないということです。
6. 一番すごいなと思ったのは、seiniorの家庭科です。大学のゼミのようで、男女ペアで10組まで登録可能で、登録の許可はペアが最初に履修希望理由を書いて申し込み、認められた10組が登録できるクラスでした。ペアになって、婚約から結婚をもぎ体験する授業です。結婚に何が必要かとか、もぎ結婚式もやってました。その中に、料理を含めた家事を実体験して、問題点を話し合いレポートを提出するクラスでした。
6の家庭科のように大変ユニークなクラスがたくさんあったと思います。音楽では、コーラスのクラスの他に、ミュージカルのクラスもありましたから。体育は テニスのクラスに入ったらずーっとテニスです。体育は必修ではなかったので嫌いな生徒は高校で全く体育はしなかったと思います。
7.クラブ活動は 大きな高校のために人気のクラブは選抜があり、選ばれなければ入れません。スポーツが得意な生徒は、2種目以上参加していました。
いずれにせよ、随分前の話なので、鮮明に覚えているのは、穴があったら入りたかったという困った状況で、アメリカの高校が今も同じかどうかはわかりません。ただ、一番先に書いたように、最初の1ヶ月は授業の展開が日本とかなり違うので驚いてばかりでした。
私が過ごしたアメリカの1年はたった一つの高校に1年いただけなので、それがアメリカ全ての高校の教育についてカバーするわけではないと思います。そのことを考慮に入れてください。
その高校は、規模が大きく、同じ敷地内に幼稚園からcollegeまでありました。すべて公立です。
1.高校の授業は日本の単位制に近いシステムで、1年(freshman)から4年(senior)までの標準クラスの他に特別クラスがあり、成績優秀者が学年に関係なくそのクラスに行けました。もちろん飛び級もありです。ですからホームルームクラスは同じでも、履修科目が違います。
2. 必修科目の他は自分の学年で履修可能な科目から選択。私の必修は 『History』『Urban Problem』と『Senior English』でした。歴史はもちろんアメリカの歴史です。後者はアメリカの現代社会の問題を扱った内容でした。正規の学生は必修科目はもっと多かったはずです。
3.授業での日本との違いは、正解よりもそこに辿り着く過程を重要視していたと思います。正解は自分で解答をみるとわかるからだと。
4.同じ敷地内に幼稚園もあるために、教師を目指す高校生がアルバイトで幼稚園や小学校にアシスタントとして働いていました。わたしも友人が働く小学校のクラスに、お手伝いと日本の折り紙を紹介するために何度か足を運びました。
5.授業内容は 日本の高校の授業に近いのは理科かな。教科書はすべて無償で学校の図書館より借りてきます。『English』の教科書は毎月または2ヶ月おき位に先生に言われて違う本を図書館に借りにいきました。クラスが違うと読む本が違うということです。これは他の科目でも、先生によって同じ科目でも教科書が違うかもしれないということです。
6. 一番すごいなと思ったのは、seiniorの家庭科です。大学のゼミのようで、男女ペアで10組まで登録可能で、登録の許可はペアが最初に履修希望理由を書いて申し込み、認められた10組が登録できるクラスでした。ペアになって、婚約から結婚をもぎ体験する授業です。結婚に何が必要かとか、もぎ結婚式もやってました。その中に、料理を含めた家事を実体験して、問題点を話し合いレポートを提出するクラスでした。
6の家庭科のように大変ユニークなクラスがたくさんあったと思います。音楽では、コーラスのクラスの他に、ミュージカルのクラスもありましたから。体育は テニスのクラスに入ったらずーっとテニスです。体育は必修ではなかったので嫌いな生徒は高校で全く体育はしなかったと思います。
7.クラブ活動は 大きな高校のために人気のクラブは選抜があり、選ばれなければ入れません。スポーツが得意な生徒は、2種目以上参加していました。
いずれにせよ、随分前の話なので、鮮明に覚えているのは、穴があったら入りたかったという困った状況で、アメリカの高校が今も同じかどうかはわかりません。ただ、一番先に書いたように、最初の1ヶ月は授業の展開が日本とかなり違うので驚いてばかりでした。
NO.92011-04-20 00:39:24 LAMPRIGERA 0
今週は、出だしからとても盛り上がっていますね。
ところで、僕は、自分の投稿(No.3)で、テーマの「日本人」という部分は本質的な要素ではないように思える、と書きました。日本人という箇所に関して直接論じた投稿はあまりないように思いますが、皆さんはどのように考えているのでしょうか。
orcamieさんの投稿では、日本の教育で求められていることと、アメリカの教育で求められていることの違いが書かれています(No.1、最後のパラグラフ)。僕はアメリカで教育を受けたことがないのでわからないのですが、この差は、程度問題では片付けられないようなレベルの差違かもしれませんね。
アメリカの教育現場では、どのくらい徹底して、個の多様性を受容しているのでしょう?また、多様な価値でも特定のもの(タブー)が排斥されていたり、というようなことはないのでしょうか?タブーを潰して、さらに多様性を拡張していくような仕掛けがあれば完璧ですが、このような仕組みとして機能していそうなものはありますか?
読み返してみて興味をもったので、さらに説明して頂ければうれしいです。
ところで、僕は、自分の投稿(No.3)で、テーマの「日本人」という部分は本質的な要素ではないように思える、と書きました。日本人という箇所に関して直接論じた投稿はあまりないように思いますが、皆さんはどのように考えているのでしょうか。
orcamieさんの投稿では、日本の教育で求められていることと、アメリカの教育で求められていることの違いが書かれています(No.1、最後のパラグラフ)。僕はアメリカで教育を受けたことがないのでわからないのですが、この差は、程度問題では片付けられないようなレベルの差違かもしれませんね。
アメリカの教育現場では、どのくらい徹底して、個の多様性を受容しているのでしょう?また、多様な価値でも特定のもの(タブー)が排斥されていたり、というようなことはないのでしょうか?タブーを潰して、さらに多様性を拡張していくような仕掛けがあれば完璧ですが、このような仕組みとして機能していそうなものはありますか?
読み返してみて興味をもったので、さらに説明して頂ければうれしいです。
NO.82011-04-19 23:41:52 YOtomo 0
第一回からのお話の流れを受けて、私は、「公」と「私」(「個人」)という関係性の中で、『個人として自立するためにはどうすればいいのか?』ということを、考察しようと思います。
ここで考察する「自立」は、『「私」の「公」からの「自立」』を意味するとし、その「自立」について、2つの視点から考察します。一つ目には、「物」という視点、二つ目には「心」(あるいは精神)という視点です。この「物」・「心」両面から見た、「自立」の定義は下記のようになります。
(1)物的な「自立」
「私」は物的な支援を「公」に求めず、物的な支配を「公」から受けないこと。
(2)心的な「自立」
「私」は心的な支援を「公」に求めず、心的な支配を「公」から受けないこと。
(尚、「公」は、例えば、「私」以外の「他者」が属する「組織」としてとらえ、国や企業だけでなく、広義には、親子や家族なども含むことにします。)
まず、(1)についてですが、人知れぬ山奥で、一人で自給自足ができるのであれば、達成することは可能かも知れません。そもそも、そのような状況にあれば、「公私」という観念自体も存在しないでしょう。
しかし、「私」の日々の経済活動を観察すれば分かるように、この人間社会では、「私」は「公」に属して生きざるを得ないのが現実でしょう。役務提供による所得、衣類・食料などの消費財、電力・ガス・水道などのインフラ、などについて、「公」に支援を求めなければ、「私」の生活は成り立ちません。それは同時に、法令遵守などの義務も含めた、「公」の支配(制約)を受けることになります。
確かに、建物や土地などの不動産、預金や商品・有価証券などの動産などを「私」が蓄財する、ということ自体は、物的に「自立」するかのように見えます。しかし、それらは、財産権として、「公」によって保護されております。また、上記のような「公」との関係性が保たれる限りにおいて、「私」が物的に「公」から「自立」したことにはならないでしょう。こうして見ると、人間社会において、物的な「自立」などはありえない、と言っても過言ではないでしょう。
そんな意味で、ここで大切なことは、「私」は物的には完全に「自立」することはできなくても、(2)のような、心的な「自立」を理想とすることはできる、ということだと思います。
例えば、ある研究開発のプロジェクトに際して、「私」が「公」から資金(物的な支援)を提供されることになったとします。そのようなケースでは下記のようなことが想定されます。
・「公」が、資金を提供してくれる(物的に支援してくれる)からといって、「私」は「公」に心的な支援を求めず、心的に支配されることはない。(意識的に人に媚びたり、評価を気にしたり、人格的な批判に屈したり、権力に従属することはない、など)
・あくまでも「私」は「プロジェクトの成功」という目的にコミットメントする。
逆に、もし「私」が「公」の立場にあるのであれば、下記のようなことが想定されます。
・「公」の立場にある「私」(公人)は、資金を提供する(物的に支援する)からといって、提供先の別の「私」(私人)に、心的に支援を求めず、支配することはない。(意識的に接待を求めたり、事務手続きを煩雑にしたり、人格的な批判をしたり、権力をふりかざしたりすることはない、など)
・あくまでも「私」は「プロジェクトの成功」という目的にコミットメントする。
さらに、(2)について、さらに考察を深めます。
「私」という存在は、「私」でない存在が意識・区別されてはじめて、その存在が明確になります。ここでは、「公」という存在が意識されるからこそ、「私」という存在が意識されます。またその逆も然りです。
そのような意識下では、時に『「私」を立てれば「公」は立たず、「公」を立てれば「私」は立たない』、というトレードオフが生じます。
例えば、ある行動(戦時中の殺戮、制裁など)を説明するのに、「私」は、「私」人としてはその行動をするべきではなかったが、「公」人としてそのように行動せざるをえなかった、といった、苦渋の説明がなされることがあります。
このような観点から、(2)の状況は、心的な面(特に意識上)で、「私」が「公」から自立しているとは言えないでしょう。
では、「私」が真に「公」から自立するためにどうすればいいのか、ということを簡単に申し上げます。
<結論>
「公」と「私」という意識的な区別を超え、ただただ「目的」にコミットメントする。
「目的」は、人によって様々でしょうが、たとえどんな出来事に遭遇しようと、その「目的」を貫徹すべく実践できるかどうか、ということが、「私」に問われているのではないかと思います。そういった生き方こそが「私」の「強さ」になるのではないでしょうか。
福沢諭吉先生の説かれたような「独立自尊」を日本人に根付かせるためには、そういった精神こそが大切だと心底共感できる人たちが、さまざまな場で啓蒙していくことが、何より重要だと感じております。
ここで考察する「自立」は、『「私」の「公」からの「自立」』を意味するとし、その「自立」について、2つの視点から考察します。一つ目には、「物」という視点、二つ目には「心」(あるいは精神)という視点です。この「物」・「心」両面から見た、「自立」の定義は下記のようになります。
(1)物的な「自立」
「私」は物的な支援を「公」に求めず、物的な支配を「公」から受けないこと。
(2)心的な「自立」
「私」は心的な支援を「公」に求めず、心的な支配を「公」から受けないこと。
(尚、「公」は、例えば、「私」以外の「他者」が属する「組織」としてとらえ、国や企業だけでなく、広義には、親子や家族なども含むことにします。)
まず、(1)についてですが、人知れぬ山奥で、一人で自給自足ができるのであれば、達成することは可能かも知れません。そもそも、そのような状況にあれば、「公私」という観念自体も存在しないでしょう。
しかし、「私」の日々の経済活動を観察すれば分かるように、この人間社会では、「私」は「公」に属して生きざるを得ないのが現実でしょう。役務提供による所得、衣類・食料などの消費財、電力・ガス・水道などのインフラ、などについて、「公」に支援を求めなければ、「私」の生活は成り立ちません。それは同時に、法令遵守などの義務も含めた、「公」の支配(制約)を受けることになります。
確かに、建物や土地などの不動産、預金や商品・有価証券などの動産などを「私」が蓄財する、ということ自体は、物的に「自立」するかのように見えます。しかし、それらは、財産権として、「公」によって保護されております。また、上記のような「公」との関係性が保たれる限りにおいて、「私」が物的に「公」から「自立」したことにはならないでしょう。こうして見ると、人間社会において、物的な「自立」などはありえない、と言っても過言ではないでしょう。
そんな意味で、ここで大切なことは、「私」は物的には完全に「自立」することはできなくても、(2)のような、心的な「自立」を理想とすることはできる、ということだと思います。
例えば、ある研究開発のプロジェクトに際して、「私」が「公」から資金(物的な支援)を提供されることになったとします。そのようなケースでは下記のようなことが想定されます。
・「公」が、資金を提供してくれる(物的に支援してくれる)からといって、「私」は「公」に心的な支援を求めず、心的に支配されることはない。(意識的に人に媚びたり、評価を気にしたり、人格的な批判に屈したり、権力に従属することはない、など)
・あくまでも「私」は「プロジェクトの成功」という目的にコミットメントする。
逆に、もし「私」が「公」の立場にあるのであれば、下記のようなことが想定されます。
・「公」の立場にある「私」(公人)は、資金を提供する(物的に支援する)からといって、提供先の別の「私」(私人)に、心的に支援を求めず、支配することはない。(意識的に接待を求めたり、事務手続きを煩雑にしたり、人格的な批判をしたり、権力をふりかざしたりすることはない、など)
・あくまでも「私」は「プロジェクトの成功」という目的にコミットメントする。
さらに、(2)について、さらに考察を深めます。
「私」という存在は、「私」でない存在が意識・区別されてはじめて、その存在が明確になります。ここでは、「公」という存在が意識されるからこそ、「私」という存在が意識されます。またその逆も然りです。
そのような意識下では、時に『「私」を立てれば「公」は立たず、「公」を立てれば「私」は立たない』、というトレードオフが生じます。
例えば、ある行動(戦時中の殺戮、制裁など)を説明するのに、「私」は、「私」人としてはその行動をするべきではなかったが、「公」人としてそのように行動せざるをえなかった、といった、苦渋の説明がなされることがあります。
このような観点から、(2)の状況は、心的な面(特に意識上)で、「私」が「公」から自立しているとは言えないでしょう。
では、「私」が真に「公」から自立するためにどうすればいいのか、ということを簡単に申し上げます。
<結論>
「公」と「私」という意識的な区別を超え、ただただ「目的」にコミットメントする。
「目的」は、人によって様々でしょうが、たとえどんな出来事に遭遇しようと、その「目的」を貫徹すべく実践できるかどうか、ということが、「私」に問われているのではないかと思います。そういった生き方こそが「私」の「強さ」になるのではないでしょうか。
福沢諭吉先生の説かれたような「独立自尊」を日本人に根付かせるためには、そういった精神こそが大切だと心底共感できる人たちが、さまざまな場で啓蒙していくことが、何より重要だと感じております。
NO.72011-04-19 20:18:20 aiaoki19780414aloha 0
「日本人が個人として自立するためにはどうすればいいのか」
「個人として強くなるにはどんな方策があるのか」
他の方の意見にもありましたが、私も「教育」が重要だと考えます。家庭教育、学校教育など。自分で考える力。まず疑問を持ち、自分で色々な視点から物事を考えたり、情報を仕入れる力。色々な意見や考え、情報をしっかり観て聴いてまず受け入れたうえで咀嚼(そしゃく)してから取捨選択する力。本を読んだり、経験したりして色々な知識、知恵を吸収することも大切。夢や希望・人生の目的を自分で見いだせるような世界を創ってあげることは教育者の役目だと思う。
議論も必要だと思います。1つの問題からも色々な考えや意見がある。そのことについて議論し他者との関わることによって、色々な人の考え方や意見がわかり、自分自身の考えや意見、人との考え方の違いやがわかり自分自身の視野が広がり、自分の考え方や自分自身のことをよりよく知ることが出来る。そうした他者とのつながりなどから多様性に触れ、創造力・想像力を養う。
ゆとり、あそびも必要だと思う。自分自身の意見・考えがしっかりあるけれど、ちゃんと人の意見や考えも聴くことが出来る素直さ。答えは1つじゃない。そして時代は変わること。諸行無常の世界だと意識していること。常に自分の頭で考える人。好奇心旺盛で知りたいという意欲がある人。社会生活を営む上での常識はあるけれども、常識にとらわれない自由な発想のある人。
まず自分自身を確立する。そして自分と意見の違う人や、他者を認め受け入れることが出来る。違いを認めることが出来る。このような資質や、教育を受けて育った日本人が独立自尊を根付かせることが出来ると考えます。
「個人として強くなるにはどんな方策があるのか」
他の方の意見にもありましたが、私も「教育」が重要だと考えます。家庭教育、学校教育など。自分で考える力。まず疑問を持ち、自分で色々な視点から物事を考えたり、情報を仕入れる力。色々な意見や考え、情報をしっかり観て聴いてまず受け入れたうえで咀嚼(そしゃく)してから取捨選択する力。本を読んだり、経験したりして色々な知識、知恵を吸収することも大切。夢や希望・人生の目的を自分で見いだせるような世界を創ってあげることは教育者の役目だと思う。
議論も必要だと思います。1つの問題からも色々な考えや意見がある。そのことについて議論し他者との関わることによって、色々な人の考え方や意見がわかり、自分自身の考えや意見、人との考え方の違いやがわかり自分自身の視野が広がり、自分の考え方や自分自身のことをよりよく知ることが出来る。そうした他者とのつながりなどから多様性に触れ、創造力・想像力を養う。
ゆとり、あそびも必要だと思う。自分自身の意見・考えがしっかりあるけれど、ちゃんと人の意見や考えも聴くことが出来る素直さ。答えは1つじゃない。そして時代は変わること。諸行無常の世界だと意識していること。常に自分の頭で考える人。好奇心旺盛で知りたいという意欲がある人。社会生活を営む上での常識はあるけれども、常識にとらわれない自由な発想のある人。
まず自分自身を確立する。そして自分と意見の違う人や、他者を認め受け入れることが出来る。違いを認めることが出来る。このような資質や、教育を受けて育った日本人が独立自尊を根付かせることが出来ると考えます。
NO.62011-04-19 19:14:30 sachienne10261111 0
「みんなと同じ」という大衆の中にいる心地よさと決別して、自分の感じることを貫く居心地の悪さと正面から向き合うことから個人の自立はスタートすると思います。そしてそれを続けること。そして、人の感じていることを、自分自身にそうするように認めること。これが自分が個人として自立するための方策。
そして、居心地の悪さを感じながらも、それが正しいと信じているなら、楽しそうに過ごすこと。その楽しそうな様子は、自分の周りにいる人に伝染して(全員というわけにはいかないけれど)1人、2人と、個人として自立している人が、増えていくはず。
そして、日本人の大部分が個人として自立するためには、学校教育がそれを育む場となることがてっとり早いと思いますが、教育を企画する役所が「日本人を個人として自立させたい。」と思っているとは思われない現状では、せめて、教育の地方分権などを進めて、部分から広げていくほうが、現実的なように思います。
そして、居心地の悪さを感じながらも、それが正しいと信じているなら、楽しそうに過ごすこと。その楽しそうな様子は、自分の周りにいる人に伝染して(全員というわけにはいかないけれど)1人、2人と、個人として自立している人が、増えていくはず。
そして、日本人の大部分が個人として自立するためには、学校教育がそれを育む場となることがてっとり早いと思いますが、教育を企画する役所が「日本人を個人として自立させたい。」と思っているとは思われない現状では、せめて、教育の地方分権などを進めて、部分から広げていくほうが、現実的なように思います。
NO.52011-04-19 06:58:32 hideomiso 0
おはようございます
>「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」
この掲示板に集中するこはその一つであると思います。
社会の状況に闇雲に同調することなく、思考を深めることに努め、「樹下の微睡み」の掲示板という「組織」に集う人たちと論を楽しむこと。
本来は社会のいたるところでそういった場があることを望むのですが、無縁社会と揶揄されている現代日本には少ないのではないでしょうか。
場を作っていける個になりたいと思います。
途中ですが時間がなくなったのでまた投稿させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします
>「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」
この掲示板に集中するこはその一つであると思います。
社会の状況に闇雲に同調することなく、思考を深めることに努め、「樹下の微睡み」の掲示板という「組織」に集う人たちと論を楽しむこと。
本来は社会のいたるところでそういった場があることを望むのですが、無縁社会と揶揄されている現代日本には少ないのではないでしょうか。
場を作っていける個になりたいと思います。
途中ですが時間がなくなったのでまた投稿させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします
NO.42011-04-19 02:38:37 LAMPRIGERA 0
出典を確認していて、たくさんヘマをしていることに気付きました。
まず、サン・テグ・ジュペリは切りすぎで、サン・テグジュペリが正解でした。また、「本然の生」というフレーズは原典(『人間の土地』)には確認できず、この本では「本然」ということについて述べていたのですね。僕が表現したかったこととは概ね合致しているように思いますが、大変失礼いたしました。
これからは、ちゃんと書く前に確認するようにします。
それにしても、自分で書いた投稿が1時間以上経過すると直視できなくなってしまうのは僕だけでしょうか。皆さんの投稿は、だいたい複数回、丁寧に読ませて頂いているのですが、自分の投稿がディスプレイに出現するとなぜだか高速スクロールしてしまいます(^^;
まず、サン・テグ・ジュペリは切りすぎで、サン・テグジュペリが正解でした。また、「本然の生」というフレーズは原典(『人間の土地』)には確認できず、この本では「本然」ということについて述べていたのですね。僕が表現したかったこととは概ね合致しているように思いますが、大変失礼いたしました。
これからは、ちゃんと書く前に確認するようにします。
それにしても、自分で書いた投稿が1時間以上経過すると直視できなくなってしまうのは僕だけでしょうか。皆さんの投稿は、だいたい複数回、丁寧に読ませて頂いているのですが、自分の投稿がディスプレイに出現するとなぜだか高速スクロールしてしまいます(^^;
NO.32011-04-19 01:39:49 LAMPRIGERA 0
おっと!結局三番手か(笑)
本題がかなり難解なので、最初に「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」というところから入り、最後に「日本人が個人として自立するためにどうすればいいのか」という問題に戻って考えたいと思います。
----------------------------
まず、重要と思われることは、自分の進むべき方向性をしっかりと把握し、その方向に進んでいる自分の状態の評価も徹底して自分で行うということではないでしょうか。特に、状態の評価という点に関しては、絶対に他者に譲ってはいけないと思います。他者の評価に依存するようになると、いつの間にか方向性までコントロールされているということが多いように思います。
僕は、サン・テグ・ジュペリが著作の中で記述している「本然の生」というものが、人間個人の中に存在すると思います。本然の生は、生まれた時から個人個人の中にあって、それぞれ違った方向性を持って開きつつある。しかし、その方向性は個人個人で異なるから、自分で自分を適切に育てなければ、本然の生はなかなか実現されないのです。
これまでの長いとは言えない経験からも、人が、周りの評価基準に、いつも強い影響を受けてしまうことがわかります。気を付けないとすぐに主流の評価基準を自分のものであるかのように錯覚し、そのベクトルへと自分を無理矢理合わせて、自分をダメにしてしまいます。
自分が他者の評価基準で生きているか、あるいは自分のもので生きているのかは、感覚を研ぎ澄ませれば識別することが可能だと思います。自分の価値観で生きているときには、単一なモチベーションが自分を進ませているけれども、他者の価値観を自分に押しつけている時は、いつも「評価されないのではないか」という恐怖心がモチベーションの背景となっている感覚があります。
自分で自分を評価するやり方は、常に独善的になってしまう危険性があります。独善的・硬直的にならないためには、自分が評価基準と見なしたものをいつでも捨てられる潔さと、常に、評価基準を絶対視しないで仮説として扱う柔軟性が必要だと思います。結局、自分をどの方角に導くか、常に微調整しながら、自分が成長できるように配慮した人が、最終的に強さを獲得するのだと思います。
自分の方向性を柔軟に見極め、他人の評価に依存しないことが個人を強くするのだと思います。
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■日本人が個人として自立するためにどうすればいいのか?
まず、自立を、他者の評価に依存せず、自分を自分で評価できるようになることと捉えたいと思います。そのためには、自分の進むべき方向性を、その時々で敏感に察知し、捉える能力を磨くこと。また、自分が進むべき方向に正しくアプローチしているかどうかを懐疑的に分析できる能力(ロジカルな思考)を磨くことも必要だと思います。
今回のテーマに含まれている「日本人」という部分については、僕は、それほど本質的な要素とは思いませんでした。ただし、地域的に、マジョリティーの評価基準を押しつけがちな文化と、その圧力がある程度緩和されている文化はあるかもしれません。しかし、これは程度問題であって、本質的に抱えている問題は、あまり変わらないと思います。
最後に、どうすれば、日本は自立した個人を生み出せるのかという点です。この点に関しては、orcamieさんと同じ意見です。僕も、教育が最も重要な役割を果たすだろうと思います。幼いときから、個人の特殊性を重視した、柔軟でオーダーメイドの教育があれば、個人の特性が最大限に育てられる可能性が格段に上がるでしょう。生徒自身が「本然の生」とその方向性を捉えられるような手助けをする教育が、なによりも必要です。
理想の組織と同じですが、そのような教育はほとんど存在していません。そこで、まずは自分を自立させることから着手し、同時に新しい教育の在り方を模索し、実験していくことが必要となるでしょう。
本題がかなり難解なので、最初に「個人として強くなるためにはどんな方策があるのか」というところから入り、最後に「日本人が個人として自立するためにどうすればいいのか」という問題に戻って考えたいと思います。
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まず、重要と思われることは、自分の進むべき方向性をしっかりと把握し、その方向に進んでいる自分の状態の評価も徹底して自分で行うということではないでしょうか。特に、状態の評価という点に関しては、絶対に他者に譲ってはいけないと思います。他者の評価に依存するようになると、いつの間にか方向性までコントロールされているということが多いように思います。
僕は、サン・テグ・ジュペリが著作の中で記述している「本然の生」というものが、人間個人の中に存在すると思います。本然の生は、生まれた時から個人個人の中にあって、それぞれ違った方向性を持って開きつつある。しかし、その方向性は個人個人で異なるから、自分で自分を適切に育てなければ、本然の生はなかなか実現されないのです。
これまでの長いとは言えない経験からも、人が、周りの評価基準に、いつも強い影響を受けてしまうことがわかります。気を付けないとすぐに主流の評価基準を自分のものであるかのように錯覚し、そのベクトルへと自分を無理矢理合わせて、自分をダメにしてしまいます。
自分が他者の評価基準で生きているか、あるいは自分のもので生きているのかは、感覚を研ぎ澄ませれば識別することが可能だと思います。自分の価値観で生きているときには、単一なモチベーションが自分を進ませているけれども、他者の価値観を自分に押しつけている時は、いつも「評価されないのではないか」という恐怖心がモチベーションの背景となっている感覚があります。
自分で自分を評価するやり方は、常に独善的になってしまう危険性があります。独善的・硬直的にならないためには、自分が評価基準と見なしたものをいつでも捨てられる潔さと、常に、評価基準を絶対視しないで仮説として扱う柔軟性が必要だと思います。結局、自分をどの方角に導くか、常に微調整しながら、自分が成長できるように配慮した人が、最終的に強さを獲得するのだと思います。
自分の方向性を柔軟に見極め、他人の評価に依存しないことが個人を強くするのだと思います。
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■日本人が個人として自立するためにどうすればいいのか?
まず、自立を、他者の評価に依存せず、自分を自分で評価できるようになることと捉えたいと思います。そのためには、自分の進むべき方向性を、その時々で敏感に察知し、捉える能力を磨くこと。また、自分が進むべき方向に正しくアプローチしているかどうかを懐疑的に分析できる能力(ロジカルな思考)を磨くことも必要だと思います。
今回のテーマに含まれている「日本人」という部分については、僕は、それほど本質的な要素とは思いませんでした。ただし、地域的に、マジョリティーの評価基準を押しつけがちな文化と、その圧力がある程度緩和されている文化はあるかもしれません。しかし、これは程度問題であって、本質的に抱えている問題は、あまり変わらないと思います。
最後に、どうすれば、日本は自立した個人を生み出せるのかという点です。この点に関しては、orcamieさんと同じ意見です。僕も、教育が最も重要な役割を果たすだろうと思います。幼いときから、個人の特殊性を重視した、柔軟でオーダーメイドの教育があれば、個人の特性が最大限に育てられる可能性が格段に上がるでしょう。生徒自身が「本然の生」とその方向性を捉えられるような手助けをする教育が、なによりも必要です。
理想の組織と同じですが、そのような教育はほとんど存在していません。そこで、まずは自分を自立させることから着手し、同時に新しい教育の在り方を模索し、実験していくことが必要となるでしょう。
NO.22011-04-19 00:00:57 ryosuke85 0
日本人が個人として自立するためにどうすればいいか?
私の考えとして、『日本人が個人として自立する為にはどうすればいいか?』は、“格好良さ”つまり、生き様を考えられるようにすることだと思います。
自分自身も自立できるているか不安になるのですが、自立が何を持って自立なのか?というところによるのでしょうか。私自身の中での『自立』とは、“格好良さ”を自分の中で定義付けられるかどうか、だと考えています。
それは容姿や服装など外見でもなく、性格や雰囲気といった内面とも違った、自らの人生における格好良さとでも言いいますか…。
イチローを見てもカッコいいし、中田英寿を見ても格好いい、田中角栄氏もカッコいいし、アムロ・レイだって格好いい。じゃあ、そのかっこよさは何処から来ていて、彼らの何処に惹かれるのか、ということを考えると、『生き様』です。
自らの生き様を決めている人の言葉には、心の奥底にある何かをガリガリと音を立てながら引き出し、尚且つ、我々に対して問題提起をしてくれます。
人の心を突き動かす言葉を持っている人の生き様は、果てしない地平線のようであり、朝焼けの太陽の様でもあります。
日本人一人ひとりが自分の生き様を考え、自分が誰であり、何が出来る、また、何をしたいのか、を明確に話せるようにすることで、日本人の自立に繋がるように考えております。
私の考えとして、『日本人が個人として自立する為にはどうすればいいか?』は、“格好良さ”つまり、生き様を考えられるようにすることだと思います。
自分自身も自立できるているか不安になるのですが、自立が何を持って自立なのか?というところによるのでしょうか。私自身の中での『自立』とは、“格好良さ”を自分の中で定義付けられるかどうか、だと考えています。
それは容姿や服装など外見でもなく、性格や雰囲気といった内面とも違った、自らの人生における格好良さとでも言いいますか…。
イチローを見てもカッコいいし、中田英寿を見ても格好いい、田中角栄氏もカッコいいし、アムロ・レイだって格好いい。じゃあ、そのかっこよさは何処から来ていて、彼らの何処に惹かれるのか、ということを考えると、『生き様』です。
自らの生き様を決めている人の言葉には、心の奥底にある何かをガリガリと音を立てながら引き出し、尚且つ、我々に対して問題提起をしてくれます。
人の心を突き動かす言葉を持っている人の生き様は、果てしない地平線のようであり、朝焼けの太陽の様でもあります。
日本人一人ひとりが自分の生き様を考え、自分が誰であり、何が出来る、また、何をしたいのか、を明確に話せるようにすることで、日本人の自立に繋がるように考えております。
NO.12011-04-18 21:30:09 orcamie 0
勇んで投稿して一番になれるか。そんな大人にとってときめきがある掲示板です。今回のテーマ『日本人が個人として自立するためにどうすればいいか?』
私の考えでは「0を受容すること」です。
20年も前ですが私はアメリカの高校に1年留学しました。
英語の授業で「ブッダの一生」というような本を読んで授業をする
と言われて必死に読んだのですが 私の英語力では1週間後の授業までに全部を読むことはできませんでした。
私は発言することはできないと思い込んでいましたが、
私より上手がいて、1ページも読んでいない生徒が1名。
私の驚いたことに、次週には読んで参加するようにと伝え、
彼に1番に意見を求めました。
彼は 仏教については全く知識がないので、日本人である私は知ってイいるだろうから話を聞きたいと言いました。
その頃仏教に関心のなかった私は頭が真っ白になったことを鮮明に覚えています。
私の知っている仏教は葬式でお寺に行ってお経を聞くだけで、そのお経の意味も知らない。ついでに、お寺に月に一度通う祖母もそのお経の内容については全くわからないのではないかということをいいました。
教会に通う人が多い彼らには牧師の説教の内容が全くわからないことはないので、ある種のセンセーションでした。
日本人が個人として自立するためには、教育が大変重要な役割を占めていると思います。
現在のように小学校から中学まで指導要綱にがんじがらめになっている授業では賢い個人を作るのは難しいでしょう。
指導要綱はあってもいいのですが、必ず日本全国同じように教育しなければならないというような教育は賛成できません。生徒も先生も、いろいろな環境で生活しての個人であるわけですから、基礎学力の点では同じものを目指しても、人が違えば全く違う思考があるような教育であって欲しいと思います。
多様性を受容できる先生が多くなり、集団となった時の子供が様々な意見や考え方が持てると思うのです。日本人は何かを決める時に既に結論ありきの方が多くはないですか。違う意見を持つことを恐れる。色々な意見があり、結論や解答を毎回求めない。「0を受容する」最初から正解を目指さない。人と違う意見を持つことに誇りを持てる。それが「独立自尊」に行くまでにはまだ何かあるような気がしますが、自立へ向かう一つの道ではないかと思います。
私の考えでは「0を受容すること」です。
20年も前ですが私はアメリカの高校に1年留学しました。
英語の授業で「ブッダの一生」というような本を読んで授業をする
と言われて必死に読んだのですが 私の英語力では1週間後の授業までに全部を読むことはできませんでした。
私は発言することはできないと思い込んでいましたが、
私より上手がいて、1ページも読んでいない生徒が1名。
私の驚いたことに、次週には読んで参加するようにと伝え、
彼に1番に意見を求めました。
彼は 仏教については全く知識がないので、日本人である私は知ってイいるだろうから話を聞きたいと言いました。
その頃仏教に関心のなかった私は頭が真っ白になったことを鮮明に覚えています。
私の知っている仏教は葬式でお寺に行ってお経を聞くだけで、そのお経の意味も知らない。ついでに、お寺に月に一度通う祖母もそのお経の内容については全くわからないのではないかということをいいました。
教会に通う人が多い彼らには牧師の説教の内容が全くわからないことはないので、ある種のセンセーションでした。
日本人が個人として自立するためには、教育が大変重要な役割を占めていると思います。
現在のように小学校から中学まで指導要綱にがんじがらめになっている授業では賢い個人を作るのは難しいでしょう。
指導要綱はあってもいいのですが、必ず日本全国同じように教育しなければならないというような教育は賛成できません。生徒も先生も、いろいろな環境で生活しての個人であるわけですから、基礎学力の点では同じものを目指しても、人が違えば全く違う思考があるような教育であって欲しいと思います。
多様性を受容できる先生が多くなり、集団となった時の子供が様々な意見や考え方が持てると思うのです。日本人は何かを決める時に既に結論ありきの方が多くはないですか。違う意見を持つことを恐れる。色々な意見があり、結論や解答を毎回求めない。「0を受容する」最初から正解を目指さない。人と違う意見を持つことに誇りを持てる。それが「独立自尊」に行くまでにはまだ何かあるような気がしますが、自立へ向かう一つの道ではないかと思います。